京太郎のブログ

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 インターネットは熟議を可能にしたのか?

0.はじめに

今回の記事は、ネットで行われている「議論」の現状に対する違和感を私なりにまとめる事を目的としている。ネットの「議論」のいくつかは、話が噛み合うことのないまま、お互いがそれぞれ勝手に「勝利宣言」をして終了することがままある。

それにもかかわらず、ネットの「議論」は、現実の人間関係から解放された公正な議論であるという意見が散見される(「現実では言いにくいい事もネットなら言える」「現実ではタブーな話題にも、ネットなら切り込める」という意見を見たことはないだろうか)。

私は、この手の意見に賛成できない。

これは勿論外野から見た時の意見で、実際にその「議論」に参加したのなら私も噛み合わない議論を行う羽目になるだろうというのはなんとなく直感できる。では、なぜそのような「議論」が生まれてしまうのか、それが今回の考察のテーマである。次回記事も含め、暫くはあまり希望の持てない論ばかりが続くかもしれないが、最後の方では私なりの展望を提示したいと思っている。

 

1.インターネットでは価値観が同じ人同士が集まりやすい

かつては、ネットのような匿名性と公開性に優れた場所なら現実よりも理想的な状態で議論が可能であるという言説がまことしやかに囁かれていた時代があった。

しかし、現実はそうはなっていない。

実際には、集団極性化(group polarization)が起こってしまうからだ。エコー・チェインバー(echo chamber)やサイバーカスケード(cyber cascade)という言葉で説明される事もある。

人間の集団心理として、多くの人間は自分と異なる価値観の人間ではなく、自分と近しい価値観の人間と繋がりたがる傾向がある。

だから、SNSの登場は、互いに意見の異なる人間を出逢わせるのではなく、同じ意見を持つ者同士の集団の形成を促しただけだった。そして、似たような価値観の人間が集まるグループの中では、反対意見に出会うことが少なくなってしまう。そうしたグループの中で主流派の意見が異口同音に広まる(エコーする)ことによって、個々人の意見までもそれに統一されていくようになるというのが、集団極性化の理論だ。

私もネットにおいてエコー・チェインバーサイバーカスケードと呼ばれるような現象がある事に異論はないが、そうした現象が起こらなければまともな議論が生まれるかと言われればそうではないと思う。

事実、ネットでは、偶発的にではあるが、意見が異なる者同士が論を交わす事がある。しかし、その多くは公正な議論とは呼べないような代物になってしまっている。私にはこちらも十分に大きな問題であるように感じる。公正な議論が行われないだけならまだしも、ネットでの議論がさも理想的で、公正な議論であるかのように扱われてしまう事には懸念がある。

 

2.理想的議論とネットでの「議論」の違い

匿名性と公開性が保たれた議論は、会議室で行う議論より自由で良いものだという言説は、そもそも議論というものがある種の閉鎖性を持つものだという事実を忘れている。

議論はあくまで前提を共有した人間同士が目的をもって行うものであり、前提も目的も共有しない他者との議論を活発化させても議論は無限に後退するだけである。

例えば、「どうすれば犯罪率が減少するか」という議題で議論を進めているところに、「なぜ人を殺してはいけないんですか?」と疑問を投げかける人がいたらどうなるか想像してみてほしい。

「犯罪はいけないこと」という議論の前提と、「そのために今何が出来るか挙げていく」という議論の目的を共有している所に、「そもそも殺人はいけないことなのか?」という前提と目的を無視した疑問を投入されたら議論は一向に進まない。たとえそれに根拠を示したとしても、質問者はその根拠の根拠の説明を求めるかもしれない。それに答えても、今度は根拠の根拠の根拠を問う事ができてしまう。あらゆる論証に反証可能性がある以上、ある論証に対しては理屈上無限に根拠を求める事ができる。しかし、そんなことをやられたらいつまで経っても答えは出ない。

例えば、「人を殺してはいけないのはなぜか」という疑問に対して「人には人権があるから」と返したとしよう。それに対して「なぜ人権を尊重しなければいけないのか」と問われたら「人権は尊重されるべきものだから」というトートロジー(循環論法)で返さねばならなくなる。これでは「人を殺してはいけないのはなぜか」という疑問に「人は殺してはいけないから」と答えるのと同じである。これは、問いには答えられていないだろう。

しかし、そもそも全ての問いに答える必要はない。議論においては、前提と目的を共有していない問いに答える義務はないのだ。悪質な問いに対しては、それに答える以前にその問いに答える事に一体何の意味があるのか考えねばならない。裏を返せば「そもそもなぜ人を殺してはいけないのか」という倫理学の議論においては、先程の問いは共有されるべき前提として存在できる。

論証それ自体が成り立つためには、どこかで根拠の追究を停止する必要がある。つまり、それ以上は論証が必要ない根拠の存在が、議論に参加する者の間で共有される必要がある。よって、議論を深めたい場合は、まず前提を提示し、どのような目的をもって行われるのか、参加者の内で共有されている必要がある。言い換えれば、議論というものはある程度の専門性を持った者同士、あるいはルールを共有した者同士が行うものであるという意味で閉鎖的な性質を持っている。そもそも議論というものは合意の外にいる外野を納得させるものではないのだ。しかし、SNSやネットで行われる「議論」においては、そのような「外野が納得しない議論」は不誠実な議論として扱われてしまう。それは、ネット空間が、公開性ないし透明性の高さ、他者との交流、多様性が無条件に肯定される空間であるからだ。インターネットのように公開性や多様性が重視される領域における議論では、議論が閉鎖的である事は不誠実に見えてしまうのだ(例:Twitterでブロックされて勝ち誇っている人々)。ネット空間という高い公開性を持った空間が、議論空間のような閉鎖的空間を特殊なものとして演出する。事実、アカデミックな議論のいくつかは「特権的」「宗教的」ものとして演出されてしまうのだ(つい最近ネットで流行った「歴史を学者の手から一般人に取り戻す(原文ママ)」とかいう標語を思い出してみるといい)。

結果として、SNS上の議論においては、例に挙げた「人を殺してはいけないのはなぜか」という類の、議論の前提や目的をぶち壊そうとする問いが頻発してしまう。ネットという公開性が議論空間特有の閉鎖性を「不都合な真実の隠蔽」あるいは「批判を受け入れない姿勢」「多様な意見の排除」として演出する。平たく言えば、ネットでは「そもそもなぜ人を殺してはいけないのか」という問いに答えない側に問題があるように見えてしまうのだ。このような前提を共有しない問いに対して答えない事は、すぐさま「独善的な議論」「内輪向けの議論」とレッテルを貼られてしまう要因となってしまう。

 

3.ネットでの「議論」

結果、SNS上の議論は二種類に大別される事になる。一つは、オーソドックスな閉鎖性を持って行われる議論。これは外部から常に「独善的」「内輪向け」と呼ばれるリスクを孕む。もう一つは、ある一つの議論を解体する議論。つまり、前提と目的を共有しない問いを投げ続けて、相手が答えなくなった所で相手の敗北を宣言する議論だ(Togetterの議論などはこれに相当するだろう)。

このような傾向が結果としてどのような構図を生み出すかは想像に難くない。全ての議論は観客に自らの勝利を演出する議論ゲームへと成り下がる。そしてそのような議論ゲームの勝敗に現実の権力関係が反映されるのは言うまでもない。これはなぜか。

それは、全ての議論が解体されるかもしくは「内輪向け」「独善的」のレッテルを貼られるかの二択を迫られる事になるからである。どちらにしても、ネットにおいて行われる問題提起の数々は、議論の解体を避ける為に「内輪向け」ないし「独善的」に成らざるを得ない。

問題提起をする側が社会的な弱者、つまり比較的弱い権力しか持てない者達の側から行われる場合、それは致命的な障害になる。なぜなら、社会問題の解決には多くの市民の協力が必要になるからだ。社会的問題は誰か一人が解決しようして即座に解決できるものではないのだ。社会を構成するのは市民であるから、社会を動かす為には、その構成要素である多くの市民を動かす必要があるというわけだ。しかし、そこで問題提起に対して「内輪向け」「独善的」というレッテル貼りと印象操作が為されたらどうだろうか。「あの人たちは自分達の気持ちのはけ口を探しているだけ、共感が欲しいだけの集団で真面目に議論する気などないのだ」という印象を与えかねない(実際には逆なわけだが)。

では、そのレッテルを避ける為に議論ゲームに参加した場合どうなるだろうか。

 

議論ゲームで行われる「議論」については次回再び言及する事にしよう。

(次回記事↓)

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