京太郎のブログ

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ネット論客論法解説~記者会見化するネットの議論~

 1.あらゆる議論を相対化させる戦術としての質問

前回の記事では、ネット上でまともな議論を行っても周りからは「一般人からの共感を得られない議論」「内輪向けで独善的議論」として扱われてしまう現象について説明した。

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

それを避ける為には、公正な議論とは呼べないような議論ゲームをしなければならない。前回、議論ゲームにおいては、議論は無限に後退すると書いた。今回は、より詳細に、もし議論ゲームに参加すればどうなるのかについて説明を加えたい。

まず、前回のおさらいとして、議論ゲームにおいては、議論の前提と目的は共有されない。これは、議論において問いを設定する質問者側のみが自由に論点を設定する事ができる状況を生み出してしまう。

例えば「どうすれば差別はなくなるのか」というテーマなら「そもそも差別とは何か」と問いを立てる事ができるだろう。もし、問題提起側がそれに答えたとしても「では、差別はなぜいけないのか」と質問を変更されてしまい、一向に議論が進まない。しかも、これに答えないことは一般人からの質問に答えられない不誠実な議論をしているという印象を与えられてしまう。結論から言えば、質問者側は次々と質問を投げ掛けることで議論の進行を妨げる事ができるのだ。

そして、この構図の最も非対称な点は、質問者側が何のリスクも負わない事である。たとえ問いに答えられたとしても質問者側の説得力が落ちるわけではない。そもそも質問者側は意見を言っていない。ただ質問をしただけである。だから、問題提起に反対する者は、直接反対意見を言うのでなく、素朴な質問者のフリをして相手が答えられなくなるまで質問を繰り返すのだ。相手が怒れば「感情的」というレッテルを貼ればいい、最悪質問全てに答えられても自分にとってマイナスはない。質問者側に立てば、自分が一方的に問う側に立ちながら、自分の意見を言わない事によって優位を保てる。これに対して「じゃあ解決の為のあなたの意見を聞かせてください」と言っても無駄である。「私は素人なのでわかりません。あなたたちの専門分野なのですから解決策はあなたたちが提示してください」と言われるのがオチである。つまり、「情けない専門家(あるいは当事者)が、自分達では答えが出せないから素人に対して意見を求めた」という構図に演出されてしまう。

通常、議論に参加しているなら、出される意見に専門家も素人も関係ない。議論に参加している以上、問う側は同時に問われる可能性に晒される。「ではあなたの意見はどういうものか」と。反対することが出来ても、意見が出せないのであれば、その場にいる意味がないだろう。しかし、議論ゲームにおいては事情が違う。議論ゲームは参加者全員で一つの結論を出すという場でもない。だから、質問者が何の意見も持たず質問してこようが、議論が停滞しようが、痛手を被るのは真面目に問題を解決しようとした側の人間だけである。

質問者側に論点を後出しで設定する権限があり、回答者側にはそれがないというのは実に非対称な議論である。しかし、議論ゲームにおいてはそれが非対称な議論として理解されない。それは説明が出来ない側の敗北として演出されてしまうのだ。この時点で、議論ゲームは時間制限のない記者会見でしかない。議論ゲームにおいて、質問することはある種の戦術性を帯びるに至る。

2.質問戦術は少数対多数の構図を生み出す。

更に、この質問戦術にはネットの公開性を利用した副次的効果が期待できる。

ここで、東京医科大が入学試験の際に女子受験者の得点を一律に減点し、女子の合格者数を抑えていた問題を取り上げよう。この問題について、ネットではさまざまな議論ゲームが行われていたが「そもそも女性差別とはなにか」という疑問が投げかけられる事は少なくなかった。議論ゲームではこの手の疑問の正当性が認められる事により、問題提起側は「女性差別の定義」についてまず語らなければならなくなる。この質問に答えなければ「自分達の前提を疑う事の出来ない愚か者たちの議論」というレッテルを貼られてしまう可能性があるからだ。それを語る事が必要ないと言いたいのではない。だがそれは本来別の議論であるはずだ。しかし、このような議論の棲み分けこそ「あいつらは大衆に定義を説明しないまま議論をしている」という批判を生み出してしまう。そして、たとえこれに答えたとしても、「では女性差別はどこが問題なのだろうか」という新たな問いを後出しされては意味がない。それどころか、これらの質問により無限に広がった論点は新たな質問者を呼び寄せてしまう。この問題でいうと、例えば以下のような人たちが出てくる。

①「女子受験者の得点を一律に減点することは女性差別だとは思わない」という人

②「女性差別とは何かについて異論がある」という人

③「女性差別は問題ではない」という人

上に挙げた例だけではない。論点が無限に増えれば、その複数の論点に対してそれぞれに異論がある複数の人間から集まってくる。それによって、問題提起側は複数の人間から質問(という名の攻撃)を受ける羽目になる。この時点で、問題提起側は本来の議論の筋から逸れて、無限に呼び寄せられた反対者達と戦わなければならない。質問者はバラバラの論点の質問を繰り返す事により、問題提起側の敵を増やす戦術を取る事ができる。

問題提起側は、最初の質問者だけでなく、論点が複数化した事で寄って来た複数の質問者を相手どらなければならなくなる。つまり、問題提起側の反対者は、前提を共有しない「素人目線の」複数の論点を提示して見せる事で、議論を問題提起側VS複数の質問者という形で停滞させることが可能になる。

このような構図が存在する議論ゲームにおいて、質問者側は「相手の説明に納得しない事」「無限に問いを重ねる事」が武器となる。議論の前提を無視してみせる挑発的な疑問を「素朴な疑問」と形容しながら質問を続ける事で、自分たちの知的誠実さを装いながら問題提起側の怒りを誘発する事ができれば、「あの人たちの議論は感情的だ」という印象を与えて説得力を失墜させることも可能なのである。相手が自分を無視したまま議論を続ければ「納得しない人を置き去りにして自分達だけが納得できる議論をしている」という印象を流布する事ができる。自分がやる必要すらない。無限に膨れ上がった論点に引き寄せられた人の内誰かがそれに成功すればいいのだ。

 この構図が問題なのは、単純に質問者が増える事にあるのではない。ある一つの社会構造を問題視したために集まっただけの人々が、まるで一つの集団かのように扱われ、集団内の論理的一貫性を求められてしまうのだ。ある社会構造を問題視して集まってきた人々は、当然、他の論点においても意見を共有しているわけではない。だから、様々な論点が出てくれば、当然異なる意見も出てくるのだ。しかし、そうなれば、「お前たちは矛盾する事を言っている」という批判を引き出してしまいかねない。また、問題提起側の人間内部での差異が明らかになる事で連帯そのものが疎外されてしまう可能性まで出てくるのである。

3.議論ゲームにおける戦術は弱者が使用できない。

議論ゲームでは、質問者側は自由に論点を設定できる。これは、次から次へと論点をずらし続ける事で無限に質問を繰り返す事が出来る事を意味する。議論を「素人目線の」「素朴な」疑問に答え続けさせる記者会見へと変貌させること。そしてそのような記者会見において、出てくる論証が不十分で全ての人が納得できる代物ではないと演出すること、納得できない人間の存在を可視化すること。それによって問題提起側の説得力を相対化する事ができれば、問題提起は説得力を失う。これが質問者側の取り得る戦術として可能なのだ。それも、相対的に弱い権力しか持てない者=社会的弱者は利用できず、相対的に強い権力の側に立てる者=相対的強者が一方的に使用することのできる戦術としてである。

まず、弱者側にとって、社会問題解決の為の議論が停滞する事はプラスには働かないが、相対的強者側は社会問題を問題として解決させないことが目的なので、議論が停滞しようが関係がない。次に、論点が複数化する事であるが、これも潜在的な敵が多い弱者側の方が不利だと言える。問題提起側が質問の解答に対して割けるリソースが少なくなるからである。

また、社会的弱者にとっては、問題解決の為の議論を進める上で連帯が阻害される事はマイナスの影響の方が大きいが、相対的強者側はそうではない。

そして、連帯したとしても社会的弱者の場合はある一つの問題提起から出発する為に、論理的一貫性を求められてしまうが、相対的強者側は匿名の質問者として現れるのでそうは見做されない。このように、議論ゲームにおける戦術要素は現実の権力関係をそのまま反映するものとなっている。

 

さて、これまでで議論ゲームのパワーバランスについて考察してきた。大抵の議論ゲームは参加する事自体が無意味なのであるが、どうしても巻き込まれてしまう場合というのはある。明らかに不利な条件で戦わなければならない議論ゲームで勝利を目指すのは、それ自体が罠であるとさえ感じる。しかし、不利な状態でゲームに勝利する事が出来るのであれば、それはそれで価値があることだ。だが本当にそんな事が可能なのか、次回は、それについて考察を進めることにする。

 

【次回記事とその他】

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議論学への招待―建設的なコミュニケーションのために

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