京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

議論における安易な相対化

 

0.議論ゲームという地獄~前回記事参照~

前回までの記事では、ネットの議論は公正な議論というよりも、社会的弱者・マイノリティ側が圧倒的に不利な議論ゲームになってしまう事について説明した。社会的弱者、マイノリティ側で議論を行おうとすると、どのような選択をしても地獄が待ち受けているという構造が存在する。

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

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今回の記事は、圧倒的不利な状況でもなんとか善戦する方法はないか、という疑問からスタートしよう。

前回までの議論ゲームの構造の説明を受けて、いくつか対抗策を思いついた人がいるかもしれない。

たとえば、議論ゲームで質問者側に立てばいいというものだ。前回の記事では、議論ゲームにおける質問者側の優位について説明したが、議論ゲームにおいて質問者側が有利なのであれば、こちら側からわざわざ論を立てる必要はない。

つまり、前回の記事の例で言えば「入学試験の際に女子受験者の得点を一律に減点するのはおかしい」という論を立てるのではなく、「入学試験の際に女子受験者の得点を一律に減点するような事は正しいのだろうか?」と初めから問いを立ててしまう方法がこれだ。

しかし、このような疑問から始まるタイプの議論はそもそも自分が多数派でなければ成立しない。「~は果たして正しいことなのだろうか」という質問が問題提起側から発せられたとしても、その疑問に人々が答える必要を感じるとは限らないからだ。

1.「常識を疑え」という標語の危うさ

これは「常識を疑え」という標語が伝統や因習に縛られた社会システムを更新する上で機能していない理由を考えれば理解できるのではないだろうか。

常識を疑え、という標語は、一見すると社会の因習や習慣を見直す上で重要な言葉に思える。実際その様に機能した時代もあったのだが、一方で、この言葉は常識を疑う側にも投げかけられてしまう言葉でもあった。つまり、「常識を疑え」という標語が、ある程度社会的に認知されるようになると、今度は「常識を疑うという常識を疑え」という標語としても機能し始めてしまうのだ。

例えば「弱者を救済しなければいけないという常識を疑え」「女性が弱者だという常識を疑え」「差別が悪だという常識を疑え」という風にである。

最終的にこの手の「常識を疑え」という標語は、「常識を疑う事も疑え」という標語を引き寄せてしまい、「絶対的正義なんてものはない、全てを疑わないとダメだ」という標語を生み出すに至る。

しかし、「絶対的正義なんてものはない、全てを疑わないとダメだ」という標語は、結局のところ「じゃあ全部ダメなんだから何をどう変えたって仕方ない。全部ダメならわざわざ変える必要ない」というマジョリティにとって最も都合の良い現状維持的な態度を大量に増殖させる。

先程の例で言えば「入学試験の際に女子受験者の得点を一律に減点するような事は正しくないのかもしれないけど、入試試験で点数が男女平等でなければならないという事も正しい事なのか分からないよね」という、何か分かった風な表現が大量に製造される(事実SNSの一部はこの手の表現で溢れていた)。

「全てを疑え」というテーゼが、一つの標語となってしまった時、それは現状維持派にとって都合がよい標語としてしか機能していかなくなる。

大抵の人間は「全てを疑え」と言われても全てを疑う事はしない。多くの場合、自分にとって不都合な常識は疑っても、自分が不便を感じない常識については疑う事はしない。そして、多くの人がそれをやった場合、結局どんなに少数者が困っているとしても、その他大勢にとって特に不都合が発生しないシステムであれば疑われる事のないまま存続する(夫婦別姓についての議論を見れば明らかではないだろうか)。

人の認識は今ある世界のシステム、社会的な構造を疑うように出来ていない。寧ろ、なんとかして現存する社会構造、習慣、システムを合理化しようと躍起になるのが人間という生き物である。

2.無視するという戦術

人間の合理的心理において常識を疑う心理コストは高いため、社会的弱者、ないしマイノリティ側が疑問形で問題提起をする方法はそもそも機能しない。

一方で、問題提起の反対者達は現状のシステムを維持する側であるため、問題提起側の質問を無視すれば問題ない。

たとえ記者会見が開かれずとも誰もそれを問題視しないからだ。そもそも現状への問題提起は、多くの人々にとって、心理コスト面から考えて需要がない。

よって、議論ゲームにおいて問題提起の反対者側は相手を無視するという戦術さえ選択可能なのである。

記者会見的な議論ゲームなどはじめから乗る必要がないのだ。むしろ問題提起側に痛手を負わせる為に、次のように質問をしてみせればいい。

 

”仮に今の状況がおかしいとして、あなたはどうすればいいと思いますか。”

 

この疑問を投げかける事により、立場は逆転する。

現行システムの問題を無視できる人間(現行のシステムにフリーライドしている人間)は、現状の問題点をはっきりと示す必要がない。よって、質問に答えることなく、逆に質問を返すことで相手の主張を引き出すことが可能だ。

ここにも議論ゲームにおける非対称性が存在している。

問題提起側は現状を取り巻く問題点を発見、指摘し、それを改善する為の案の提出を求められてしまうが、現行システムにフリーライドする側はそうではない。

フリーライダー側は、「貴方達の提案には問題がある」と宣言するだけでいい。

現状に対していかなる判断も下す必要がない。

適当に「わかりません」と答えても致命的な敗北にはつながらない。

なぜなら、「わかりません」と答える事は、現状がベストでない可能性を示してはいるが、それがすぐさま現状の変更を余儀なくされる理由にはならないからだ。

つまり、現状維持のフリーライダー側は「わざわざあなたの案に乗る必要はない」と言えばいいのだ。「貴方達以外で誰が困っているのだろうか?」こう質問するだけでいい。フリーライダー側は原因を発見する必要も、分析も対案も必要ない。ただ出された案は多くの人にとってメリットがない事を露見させればいい。現状の社会構造が新たな提案よりも魅力的である事を証明する必要はない。

だが、問題提起側は当然、現状より新規の案が魅力的である証明を求められてしまう。マイノリティがフリーライダー側に頭を下げてプレゼンする場、それが議論ゲームの場である。ここにもまた覆い隠された権力構造が存在している。

たとえ問題提起側が「貴方達以外で誰が困っているの?」と問いを投げる側に立てたとしても、比較的強い権力を持つ側は「貴方達以外のすべての人が困っている」とすぐさま反論をすることが出来るのだから。

 

このように世界の不公平に声を挙げようとするのはある種の不合理的判断が必要になる。勇敢さと言い換えてもいい(合理主義者は笑うだろうが)。問題提起側はこうした合理性とも戦わねばならないのである。

議論ゲームにおいては何から何まで非対称に議論が進む為、議論ゲームで勝利を目的とする事は非常に困難である。しかし、それでも可能性はゼロではない。事実、質問者側の筋が悪ければ、筋の悪い質問にも答える問題提起側の誠実さと説得力が増すのである。世にある様々な議論ゲームの内にも互角以上の議論になる場合というのはある。ひたすらに防戦に徹する中で、自分達の誠実さを訴えるという手法は存在する。だが、この手法にも落とし穴がある事を忘れてはならないだろう。次回の記事では、議論ゲームにおいて善戦できた場合どのような落とし穴が存在するのか見ていきたい。

【次回記事と雑感】

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(↓「常識を疑え」という標語が常識と化したビジネスの世界)