京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

恋愛工学は科学的な宗教か、宗教的な科学か

 

0.「科学的」とは何か

近代以降、科学によって多くのことが証明されてきた。

科学によって説明が可能になったものは数多くある。生活に役立つ多くの技術も科学の進歩があってこそである。

そうした現実と歴史を前に、人びとはことあるごとに科学の進歩や成果を歓迎し、「科学的根拠のないもの」「科学的でないもの」には厳しい態度で接するようになった。それと同時並行する形で「科学は使える」「科学は実践的だ」という謳い文句と「文系廃止論」とが叫ばれるようになった。

しかし、こうした「使える科学」と「使えない文系学問」の対比は何かを見失っていないだろうか。「科学は使える」と言いながら「科学」を信奉する態度は本当に科学的態度と言えるのだろうか。今回の記事ではこうした疑問を下地に、恋愛工学を次なる角度から検証することにしたい。

1.恋愛工学概要

さて、前回までの記事で、サイードの「オリエンタリズム」に見られる「知識=支配」の構図が恋愛工学においても顕著に見られることについて書いてきた。

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com


この記事で説明を加えるのは、「恋愛工学に騙されるな」という批判についてである。

まず、恋愛工学の「セックストリガー仮説」は「認知的不協和理論」で説明できてしまうのだが、恋愛工学では石器時代からの進化の過程と結びつけて説明されているというのは以前説明した通りである(参照: https://pert-liberte.com/what-is-renaikougaku/)。

しかし記事でも書かれている通り、「石器時代ではセックスをした相手を好きになった方が生き残りやすかった」という主張はなんとなく科学的に見えても、論証されたわけでもなければ再現可能性があるわけでもない。その他にも恋愛工学では「石器時代の男女の脳の差」を根拠に「理論」と称された様々な仮説が披露されている。

しかし、現段階では男女の脳の違いは極めて限定的でほとんど差がないということが判明しているため、やはりこれも科学的根拠とは言い難い。

だが、ここで注目したいのは恋愛工学の主な理論が「原始からの」とか石器時代の」とかいう接頭辞付きで説明されていることだ。

「原始」石器時代を持ち出されてはイマイチ真偽の判定のしようがない。

恋愛工学は、これらの言葉をつけて説明することで、自らの理論が検証されることを巧妙に回避しようとしていたのである。

こうして、恋愛工学は自らの仮説を「でも、もしかしたら本当にそうかもしれない」と思わせることで、まるで確立された理論であるかのように見せていたのである。

しかし、問題なのはそんな似非科学にも騙される人がいるという点にある

ここで、騙された人は藁をもすがる思いだったのだろうとか、騙される人は馬鹿だったのだと納得するのは簡単だ。だが本当にそうだろうか。

似非科学に騙されてしまう人は特殊な人たちで、普通の人はそんなものには騙されないのだろうか。

寧ろ、科学的な根拠を求める人ほど似非科学に騙されてしまうのではないか

私にはそんな疑念がある。

2.Google検索される「科学」

こう考えてみよう。

人が科学に求めるイメージ、人が科学的根拠を求める動機はなんだろうか。

まず、科学分野の研究職でない人間が科学について触れようとする時は、どんな時か考えてみよう。

それは、例えばスマートフォンやパソコンなどで科学について書いてある記事を見る時ではないだろうか。

「科学」はGoogleで検索される。

では、人が科学を検索する時とはどんな時だろうか。

例えば普段自分がなんとなく思っていること、行っている事に科学的根拠があるかどうか確かめる時がそうなのではないか(私は普段飲むコーヒーが健康に良かったら嬉しいと考えて「コーヒー 健康 科学」などと検索したことがある)。

そして、そんな時は決まって「やっぱり自分は間違っていなかった」と安心しようとはしていないだろうか。

もしそこで自分が信じている理論を否定する記事に出会ったら、不安になってどこかに反論してくれる記事を探してしまってはいないだろうか。

逆に、自分が信じたくない理論について科学的根拠の存在を検索する時、どこかにその理論を否定してくれるものはないかと探してはしまわないだろうか。

そこで科学的根拠が示めされてしまえば、やっぱり不安になってその根拠に対して反論している記事を探してしまわないだろうか。

一般の人間が科学に求めるものは、「確実さ」「明快さ」「正確さ」である。

そしてそれ以上に重要なのは、それらが普段信じているものを肯定してくれることである。

人は、自分の信じている事には「正確さ」と「確実さ」があると証明したいから「科学」を検索する。

では、自分が信じていたことに全く科学的根拠がないと知ったらどうだろう。

知らなかった。と真摯に諦めきれる人間は少ない。

大抵の場合、多少科学的根拠が薄かろうが、反対の説の記事を探し求め読み込もうとするだろう。

この点において、検索される「科学」は科学である必要がない。

人が科学に求めるのはあくまで自分が普段信じていることの根拠に「利用できる」という点なのだ。

人が科学に求めるのは「科学的であること」ではなく、それが如何に自分の主張を裏付けてくれるかである。

なぜなら、今まで「科学」というジャンルは常に「有用であること」「使えること」「役に立つこと」を利点とし、文系学問に対して優位性があると宣伝されてきたからである。

新聞、ネット、テレビ、あらゆるメディアを通して伝えられる「科学における新たな発見」のインタビューには、必ずと言っていいほど、その「発見」がどのような価値をもたらすのか、その「発見」によりどのような事が可能になるのかという「期待」が語られているではないか。科学者の「この発見により~ができるようになるでしょう」「この発見は~の発展に貢献するものと信じています」というお決まりのコメントによってインタビューは締めくくられるではないか。

“科学は利用価値がある。科学は役に立つ学問である。科学は使える学問である。文系学問とは違って――”

科学は常にそのような広告を背負わされてきた。

そして、散々そのように喧伝されてきた結果として、一般の科学に対する認知はズレていってしまう。

3.科学と「科学」

科学には利用価値があると聞いた時、すぐさま次のような問いが浮かぶはずだ。

“では、役に立たない学問は科学ではないのか。”

“役に立つ学問であれば科学なのか。”

科学には常に反証可能性が付き纏い、その「正しさ」についても「いまのところは」という留保が付く形で語られる。

今まで正しいとされていた理論も、明日には新説によって覆るかもしれない。そのような世界こそが科学の世界であり、また、既存の「正しさ」について、常にそれを検証し、疑いを持つ姿勢こそが科学的態度であるはずだ。

ならば、科学とは使えないものを使えるようにする試みであるのと同時に、今まで使えていたものを使えなくさせる試みでもあるはずだ。

科学の結果として何かが使えるようになることはあっても、何かを使えるようにする為に科学があるわけではない。

だが、散々「役に立つこと」「使えること」を謳われてきた科学に対する一般の認識は違う。

皮肉なことに、ここに来て科学はその主従関係を逆転されてしまった。

“役に立つから「科学」なのである。よって、役に立てばそれは「科学」である”

少なからぬ人は科学に対して、このようなイメージを持ってしまっている。

それが科学である事の判断は、それが役に立つかどうか、実践的かどうかのみにおいて行われる。

その意味において、実践的でない人文科学は「科学」ではない。

恋愛工学は「役に立つ学問」だったため「科学」だったのである。少なくともそれを求める者にとっては。

ここで、次のような反論をする人がいるかもしれない。

”でも、恋愛工学の方法に科学的根拠がないなら失敗する人が増えて結局人が離れてしまうのではないか?”

しかし、恋愛工学の存続にフォロワーの成功は必要条件ではないかもしれない。

3.恋愛工学という宗教

まず、恋愛工学では恋愛は試行回数が必要であることが説かれている。恋愛工学は試行回数を増やして成功体験を作ることで次の良い循環を作り出すことに目的がある。

つまり、ある程度の失敗は前提とされているため、多少の失敗では信者の目は覚めない。

また、わざわざ自分の失敗体験を報告する者など稀なため、目につく報告のほとんどは成功体験によって占められてしまう。

しかし、問題はそこではない。

疑問には思わないだろうか?

そもそも、なぜ恋愛工学徒は恋愛工学を布教しようとするのか。そんなに有用な理論なら自分だけが得をするように秘匿しておけばいいのだ。自分がより多くの利益を獲得したいのなら、無用な競争相手を増やすべきではない。成功により「満たされた」のなら、他人に自らの成功を喧伝する必要もない。また、成功したのならナンパを続ける必要もない。にも関わらず、恋愛工学徒はしきりに恋愛工学の効用を吹聴し、脱落することなくナンパやセックスを続けていたではないか。まるでそれ自体が目的であるかのように。

上記のような点を指摘した記事もある。(参照URL: http://blog.skky.jp/entry/2015/08/07/181457)

しかし、この奇妙な点から恋愛工学ビジネスモデルが推察される。

ある記事の考察がそれを示唆している。(参照URL: http://ta-nishi.hatenablog.com/entry/2017/02/03/164734)

恋愛工学は成功の為のメソッドを提供しているのではないとしたらどうだろう。

恋愛工学は、成功の為のメソッドを提供したのではなく、成功体験を報告し合い、共通の話題で盛り上がる事のできる場を提供したのではないか。

そして、その場を支配している共通の話題の根底にあるものとは、「女なんて大した事ない」「女なんてチョロいもんだ」「恋愛なんて結局ゲームと同じなのだ」といった陰湿な陰口だったのではないだろうか。

恋愛工学の主な客層は、女性経験の乏しいいわば非モテの男たちである。そんな男性達は女性に対して恨みを持つ者も少なくない。この恨みについてはインセルについて考えれば理解できる。

そこで、恋愛工学が与えてくれる「馬鹿でチョロい女性像」は、「女は男を見る目がない」「女は醜い」という考えを肯定し補強する。恋愛工学は、女性を見下す者達、女性に恨みを持つ者達にとっては自分の価値観を肯定してくれるとても魅力的な居場所だった可能性もあり得るのだ。

そう考えると、恋愛工学徒が自らのコミュニティを大きくしようと布教を行ったというのも頷ける。他人の成功体験は自分達を惨めな気分にさせるものなのではなく、寧ろ安心させるためのものとして作用していたのだとしたら……。

推論を続けよう。

心の奥底で見下している女性との性交渉に成功する度に、あるいはそうした成功体験を見る度に、彼らは自分達の真意を見通すことのできない「女性」の馬鹿さ加減を再確認する。そして心の底でこう叫ぶのだ。「馬鹿で憐れな女どもめ。やはりお前たちは男を見る目がない。せいぜい偽りの幸せを過ごすがいい」と。

なるほど、確かにこのような推論は、恋愛工学の宗教性とも符合する。

ここにはニーチェが指摘したようなルサンチマンの構造が指摘できる。

キリスト教において貧しきもの(弱者)こそが聖者(勝者)であるとされたように。

恋愛工学では、非モテ(弱者)こそが真実を知る者(勝者)となるのである。

宗教は弱者を強者に作り替える価値観を提示する。

宗教は、勝ち負けの基準そのものを逆転させて、「弱者であることこそ真の勝利である」といった逆立ちした価値観を作り上げる。

そして信徒は『負けるが勝ち』という倒錯的なルールを心の底から信じることで弱者を勝者へ、強者を敗者へ作り変える。

ニーチェはこれを逆立ちした価値観と呼び、そのような逆立ちした価値観の中で勝利を収める事をルサンチマンと呼んだのである。

恋愛工学の宗教性は、「弱者(非モテ)こそ真実を知っている真の勝者である」「強者(女性)こそが愚かな負け犬なのだ」という逆転した価値を提供することによるものだったのではないだろうか。

少なくとも恋愛工学徒のいくらか(勿論すべての人ではない)は、特に、「成功」を収めたにも関わらずそのコミュニティに留まり続け、次々に相手を「攻略」していった彼らは、女性と恋愛をしようとしたわけではないだろう。

現実において強者に勝てない弱者は、自らの心の中に存在する仮想のルールの中でのみ強者に勝利しうる。弱者は想像上で強者に対して復讐するしかない。

そして、恋愛工学という宗教が提供したのは、非モテによる想像上の復讐を許す場だったのではないか。彼等の中には、女性の愚かさを露悪的に暴き、想像上での復讐を行う為に恋愛工学を行っていた者もいたのではないか。

4.「科学」の宗教性、宗教の「科学」性

どうあれ、特定の価値観を共有できる場が閉鎖的な場であることは言うまでもない。そして、宗教じみた閉鎖性があったからこそ、恋愛工学は反論を受ける事なく科学として存在できたのだ。

宗教も、科学も「役に立つかどうか」という点に注目されている限りは、相反しない。

宗教を冷笑する自称科学主義者たちの態度こそ宗教的なのだ。

彼らは宗教の代わりに「科学」を「使えるもの」として信じているに過ぎない。

自分たちの信じている「科学」の方が、利用価値が高いと考えているだけなら、それは単に「自分達の神様の方が偉い」という態度の変奏でしかない。

この点において、「科学」とは戒律の必要ない宗教でしかない。

「使える学問」として信奉される科学は、使い捨ての神様なのだ。少なくともそれが「使えるもの」として喧伝され、数学や歴史学、人文科学と対比されてしまう内は……。

さて、これまで恋愛工学に対する批判を検討してきたが、最後の批判は「モテ」に対して「愛」という概念を対置的に持ち出すタイプの批判であった。

しかし、一見して妥当に見えるこの反論にこそ慎重になるべきなのではないかと思わざるを得ない。

それらは、恋愛工学が提唱するゲーム的な恋愛を支配的な「ダメな恋愛」として批判し、これに対してお互いを尊重し合う「良い恋愛」を持ち出す批判である。しかし、この「良い恋愛」というものこそ慎重に取り扱わねばならないのではないか。

そもそも「ダメな恋愛」「良い恋愛」の境界はそこまではっきりとしたものなのか。

次回の記事ではそのような疑問から始めることにしたい(次回↓)。

【次回記事とニーチェ

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(最近増えてきた適当ニーチェ本、特に悪名高き超訳シリーズ……)

(入門書の後でいいので本編も……)

 (科学哲学とは何か↓)

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