京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

モラハラ夫と「優しい支配」~信頼が消える日~

1.モラルハラスメントモラハラ擁護論

前回の記事では、恋愛関係のトラブルにおいては「同意の有無」「合意形成の過程」より「悪気があったのか」「どのような意図だったのか」という点ばかりに焦点が当てられてしまうことを警戒すべきだと書いた。

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

そしてまさに、そうした思考の誘導によって寧ろ加害者側が同情されてしまう例、被害者側の被害が矮小化されてしまう身近な例としてモラルハラスメントを取り上げたい。

凶悪な事件ではなく、モラルハラスメントという卑近な例を「優しい支配」という観点から問題を見ていく。

そうすることで、モラルハラスメントが「比較的軽微な加害だから」という理由で擁護されてしまうのはなぜかという問題について書くこともできるだろう。

そして、最後には同意のない「優しい支配」の関係に陥らない為に必要な信頼と信頼関係について語ることにしたい。

さて、モラルハラスメントについてであるが、モラルハラスメントとは、モラル(倫理)に反したハラスメント(嫌がらせ)の事である。簡単に言えば大人のいじめである。

例えば、最近だとモラルハラスメントを略してモラハラと呼んだり、モラルハラスメントをしてくる夫をモラ夫と呼称する。モラ夫に関する記事はネットに大量に上がっているので掻い摘んでそれらを載せよう。

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倫理に反した嫌がらせであるなら、一体どのように擁護できるのかと思われるかもしれない。

しかし、そもそも擁護している人間は大抵の場合それがモラハラであると認めていないのである。

つまり、モラハラモラハラ(倫理に反する嫌がらせ)として認められない事がモラハラの基本的な問題である。モラハラの加害者や擁護者は、自分がモラハラを擁護しているとは微塵も思っていない。寧ろそのように扱われることに不服を申し立てる場合がほとんどである。

なぜそのような認知の差が生まれるのか。

モラハラ加害者の言い訳やモラハラ擁護者の論理構造はシンプルだ。それはつまるところ「自分は悪くない」「これがモラハラなんておかしい」という徹底否認の論理である。

例えば、よく見られるモラハラ加害者の言い訳は、自分にはモラハラの意図がなく、寧ろモラハラを訴える側の過敏な被害妄想に過ぎず、加害者扱いされた自分の方が被害を被っているというものだ。単純な開き直りに思えるかもしれないが、加害者はそれなりのストーリーを用意してくるのが通例である。そして、それを聞く第三者は単純な開き直りには気が付けても、それがストーリー仕立てになってしまうと途端に目が曇らせてしまうことがある。

「自分は悪くない。相手の被害妄想である」

この言葉自体は、自分の行為の加害性を問われた時の弁明あるいは戸惑いの表明として受け取れる。それが正当な主張である場面も多くあるだろう。

しかし、加害者側たるモラ夫は、時として単に弁明するだけには留まらない。この弁明の後に付属してくる主張にこそ、モラ夫がモラ夫たるゆえんがある。

モラ夫は「自分は悪くない」という弁明の次に、自分が如何に善意を持って相手に尽くしてきたのかを強調する(そして大体の場合、この「善意」や「献身」の強調の方が、メインな主張となっていく)。それを行うことで、自分の加害行為が正当化されるという思考が彼らにはある。

与えてきた利益を強調して加害行為を正当化するという論理自体は珍しくない。例えば、19世紀の帝国主義時代における植民地支配を正当化する人々がよく使う論理である。イギリスのインドに対する植民地支配を正当化する人々は、インドの鉄道が発達したのはイギリスの支配があったからこそだと主張する。本邦の右翼も例に漏れず第二次大戦の植民地支配を東南アジアを解放する為の支配だったのだという論を主張するわけである。

支配によりどれほどの恩恵がもたらされたかを語ることで「支配は悪いことばかりではない」と支配を正当化するという構図は、そのままモラハラにも当てはまる。

典型的なモラ夫は「自分が如何に尽くしてきたか」「自分が如何に献身的であったか」ということを恩着せがましく、自己憐憫に浸るように語る。そして、それらの言葉によって語られるストーリーはきまって「自分はこれだけ相手に利益を与えたのに裏切られた」「恩を仇で返された」というストーリーに仕立てられるわけである。

こうした「裏切りのストーリー」を語るのがモラ夫の最大の特徴であるのだが、騙される人々はそうした「善意」に対して納得してしまうのだ。

しかしそうした「善意」は虚偽である。

例えば、モラ夫は「自分が如何に善意を持っていたか」、「如何に相手に良くしてやったか」という点を嬉々として強調してみせるが、それは単純に相手を「自分に感謝してくれるモノ」として扱っていたに過ぎないだろう。

自販機に金を入れれば飲み物やら食べ物が買えるが、それと同じでモラ夫は「感謝を買うことの出来る自販機」程度にしか妻を見ていない。だから、「こんなに色々やってあげたのに感謝されなくて心外だ」という言葉は、時に「この自販機は壊れている! お金を入れたのに何も出てこない」というようなヒステリーの言い換えである場合が多いのだ(全てではないが)。

その証拠に、加害者側が被害者の拒絶や怒りや悲しみを目の当たりにした時、よく口にするのは「そんなつもりじゃなかった」という言葉ではないか。これは「傷つけるつもりではなかった」という戸惑いの表明ではない。それは「そんな反応をするなんて」という自分の期待が「裏切られた」ことに対する怒りの表明、あるいは長年愛用していたモノが壊れたかのような哀しみの表明である。

 2.モラハラと「優しさ」

利益の強調により、加害を必要経費であるかのように扱うこと。

モラハラ夫の意識の根底にあるのはこうした「与えてやってる(だから、これくらいで文句を言うな)」という傲慢な意識である。

しかし、大事なことが二つある。

「如何に利益を与えようと、被害を与えていい理由にはならない」ということと「その利益が本当に相手にとっての利益であったのか」という点である。加害者は自らの善意を強調することで、その二つを忘れさせ、自分の加害行為から目を逸らさせようとする。

あからさまなモラ夫は自分の暴言を「必要な躾」「愛の鞭」として表現したりと、とにかく自分の行為を美談として語ることに余念がないが、この程度の下手な誤魔化しなら多くの人はその「優しさ」が虚偽であることに気が付くであろう。

問題なのは、その「優しさ」が虚偽に見えない場合なのである。そもそもそうした虚偽の優しさと愛に満ちた優しさはそこまではっきり区別しうるものなのだろうか。

重要なのはそこだ。

「優しい支配」の「優しさ」と思い遣りによる優しさは、時に交わり、時には混同され、時には取り違えられるものではないのか。

ならば、警戒すべきはあからさまでないモラハラ、グレーなモラハラ、つまり「優しい支配」の「優しさ」の部分によって見えなくなってしまう「同意の不在」の方ではないか。

「優しい支配」は善意の部分が強調される事によって、同意の不在や同意の不足が隠蔽される。

「優しい支配」はその善意の意図が強調される事によって、その支配が同意に基づかないものであることの危険性から目を逸らさせる。同意なき支配性が隠蔽されたまま、それが「優しい関係」「尊重し合う関係」として表されてしまう。それに異を唱えようものなら「こっちは良くしようと思ったのに」「人の気も知らないで」「あなたの為を思っての事なのに」「もう助けてやらない」というような身勝手な言葉が噴出する事態に発展することも多々ある。

「優しい支配」に対して問題意識がない人々は、あくまで自分の善意には問題がなく、それを素直に受け取れない方に問題があるように主張するだろう。

このように無邪気に運営される「優しい支配」による関係は、結局のところ身勝手な親切心を恩着せがましく押し付けておいて、いざ感謝されないとなると逆切れするような関係性にもなりうるのである。

これは、パターナリズムとしてフェミニズムの文脈において批判されてきたことであった。フェミニズムが抗うのは「女性の幸せや苦しみを女性自身ではなく、外部の誰かが規定すること」であり、基本的には外側から押し付けられた善意に対して「ありがた迷惑」「大きなお世話」であると表明する事にその目的がある。

「優しい支配」の問題は間違いなくモラルハラスメントの問題と接続している。モラハラは悪意の表出として存在するのではなく、優しさという種類の支配欲によって、つまり「優しい支配」が悪い形で表出したものとして存在する。

 3.「優しい支配」と「信頼」

モラ夫は、摘発されて表面化した「優しい支配」である。

しかし、問題にならないだけで「優しい支配」的なものは日常に数多く潜んでいるし、誰しも無縁でいられないだろう。

「優しい支配」を望む者(支配する側も支配される側も)はいなくならないだろうし、「優しい支配」的なものはこれからも残り続けるだろう。重要なのは、そうしたことが問題となって表出した時にちゃんと相手と向き合えるかどうかではないだろうか。

ならば、相手と向き合う為には何が必要だろうかということがポイントになってくるはずだ。

それはおそらく信頼関係と呼ばれるものなのではないだろうか。

では信頼とは何か。

「優しい支配」には信頼がない。

もっと言えば、強すぎる結びつきには信頼が必要ない。

信頼関係は強く結びつくことで手に入るものではない。信頼関係は強く結びつこうとすればするほど見えなくなっていくものなのではないだろうか。

確実性が伴う行為には信頼の感覚は発生しない(信頼があったとしても感じ取ることができない)。

何もかもが分かり切った状態、例えば、私たちは自販機でモノを買う際にその都度自販機への信頼を感じるだろうか?

自販機はお金を入れればモノが出てくる。それは当たり前のことである。ATMでお金をおろす時、毎回ATMに対して信頼しようとするだろうか。

おそらくしないし感じない。

それは機械的な動作、分かり切った反応でしかないのだから。

確実性の高い取引、法則に対しては「それが当たり前」なのであって、「信頼」は実感できない(信頼が存在しないということとも違う。信頼が見えなくなるということに近い)。

「優しい支配」にも同じ事が言えないだろうか。

「優しい支配」に代表される強い結びつきは、全てが計画通り、思い通りになるよう調整された関係である。それらの関係は確約された機械的なやり取りに過ぎない(だからすぐさま否定されるべきだということでもないと思うが)。

おそらく信頼はそこにはない。

信頼は常に不確実性を持った取引において実感される。

私たちが確かな根拠もないまま他人の成功を信じる時、何の確証もないまま他人の判断に身を委ねる時、見知った仲でもない誰かの善意を無根拠に信じる時にそれは実感される。

信頼は一種の賭けである。

確実な取引においては、その結果は必然なのであって、敢えてわざわざ信頼する必要がない。信頼などせずとも、結果は同じだからだ。人が何かを信じるのは、その結果が未定かつ何の確実性も持たない時だ。

不確実性があるからこそ人は祈り、信じる。

だから、取引の確実性が高まれば高まるほど、そこにある信頼の実感は薄くなっていかざるを得ない。

「優しい支配」に限らず親密な関係にある人間の間には、相手を「信頼」しているという感覚が発生しにくい。相手を「知っている」からこそ、だいたいの反応は分かるし、だいたいの結果に予測が立つ。結果が見えているのであれば「信頼」の必要は消失していく。同時に信頼は感じ取れなくなっていく。

再び信頼が姿を現すのは、未体験のできごとの発生、ふとした瞬間に隣にいる友人の考えが読めなくなく瞬間だ。結果が見えないことがらに対してのみ人は信頼を必要とする。

相手を知れば知るほど、相手の事が理解できれば理解できるほど、そこにあるはずの信頼は見えなくなっていく。

なら、信頼はどこにあるのか。

信頼は何の確証もないことに賭ける瞬間、あるいは期待が裏切られた後、戸惑いを受け入れそこに向き合う瞬間にしか感じ取る事ができないのではないか。

信頼は何の確証もないまま相手を信じる瞬間に生まれ、確実性が増殖する段階でその姿を消していく。そして相手によって期待が裏切られた時、再度そこに瓦解した姿で立ち現れる。

その戸惑いが受け止められ、新たな関係が構築されたのなら、信頼は再生しまた姿を隠す。その戸惑いにより怒りと拒絶を選ばれたのなら、もはや信頼は過ぎ去った後なのだ。

信頼は、裏切られた時に壊れるのではない。

裏切りが起きた後、関係が再構築されなくなった時に壊れている。信頼は壊れる瞬間すら目撃することができない。信頼が失われたと感じた時には、既に信頼は壊れた後なのだ。

信頼は、期待を裏切られた後、その戸惑いに向き合えるかどうかという点にすべてが懸かっている。信頼は、期待とその裏切りが起こるまで、現れない。

であるなら、信頼関係とは「お互いの何もかもを分かり切った関係」なのではなく、むしろ「期待を裏切られながら、関係性を更新し続ける関係」だと言える。

信頼はシュレティンガーの猫的に、事後的にそこに存在するものとして確認される。

現代では、信頼は透明化され、埋葬されている。例えば心理学や生物学、医学の発達は個々の人間を類型化し、ある程度まで妥当な分析を加えることができる。

妥当性のある人間分類を追求しようとする欲望が蔓延している。そして、これからもどんどん人間のことが「分かる」ようになっていくだろう。その人を科学的に分析する事で、どんな思考をして何が好きでどんな仕事に適性があるのか、もっと言えば生まれた時から今後どのような人生を歩むのかある程度把握できる世界になるかもしれない。

そうなれば、もはや個人は成立しない。

人間は個人として尊重されるのではなく、個体としてただ分析され、分類されるようになるだろう。

私はそうなる可能性を否定しない。

「恋愛工学」が死んだとしても、「恋愛工学的なもの」はけして消えることはないだろう。

例えば、ライフハックなどのジャンルがそれであろう。元メンタリストDaigoなどを見てみるがよい。彼もライフハックの伝道師として、日々論文をつまみ食いした知識を披露しているが、彼のもとに集まる人間は正に「全てを把握したい」「全てを最適化したい」という欲望を持った人々ではないか(しかしそこまでして「最適化」した人生で一体彼らが何を得たいのかは謎のままだが)。

相手を個人としてではなく、類型化可能で分析可能な個体と見做す時、もはや信頼は必要ない。我々はもう少しで信頼のいらない世界に到達しようとしている。

しかし、それは歓待すべきものなのだろうか。

全てが最適化され、全てが予測可能になった世界で、我々は一体どのように生きることができるのだろうか。

相手の考えることを知りたい。なんでも知り尽くしたいという欲望が、心理学の発達や科学の発達によってある程度まで叶えられるようになった現代だからこそ、我々はもう一度信頼の在り方について考えるべきなのではないだろうか。

 

(モラハラエッセイ)

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離婚してもいいですか? 翔子の場合 (コミックエッセイ)

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 (モラルハラスメントに遭遇したら)

「モラル・ハラスメント」のすべて  夫の支配から逃れるための実践ガイド (こころライブラリー)

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(↓モラルハラスメントの心理について)

モラル・ハラスメントの心理構造

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文庫 他人を支配したがる人たち (草思社文庫)

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