京太郎のブログ

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被害者叩き、弱者叩きをする人々~公正世界仮説と自己責任論~

 

1.公正な世界を求める人ほど弱者や被害者を責める

弱者や被害者は救済されるべきかという問いを立てるなら、善意を持った多くの人がそうあるのが望ましいと答えるだろう。

議論となるのは、それがどのような方法によってなされるべきか、どのような人間が弱者・被害者と言えるのかという部分だろう。

しかし、現代社会では何かの事件の被害者を責める被害者叩きや社会的弱者を責める弱者叩きが後を絶たない。

被害者叩きや弱者叩きに対して「思いやりがない」とか「冷酷だ」という批判がされる事がある。

しかしそれは果たして有効な批判なのだろうか。私は疑問を感じる。

現代における被害者・弱者救済についての議論は、単純な悪意と善意の対立構図ではないのではないか。

被害者や弱者に対する風当たりを強めているものは、悪意を持って他者を貶める人ではない。寧ろ、被害者を危機的立場に追いやっているのはある種の善意的な人間ではないのだろうか。

被害者や弱者を救おうとする善意に対して、悪意ではない何かがそれを邪魔しているとすれば、弱者叩きに対して思い遣りや気遣いといった言葉で対抗することはおよそ不可能なのではないか。

被害者叩き、弱者叩きは、公正な世界を望まない者によって生まれるのではなく、公正な世界を望む者達の手によって起こっているように思える。

 2.被害者叩き、弱者叩きの典型

被害者叩き、弱者叩きを行う者の典型的思考にはいくつか類型がある。

その根本には共通して弱者や被害者にも非があった、という考えが敷かれている。

つまり、目の前の弱者は世の理不尽によってその地位に追いやられたのではなく、本人の過失によってそのような被害を受けたのだという考えが根底にある。

弱者や被害者が責められてしまうというのは、この世界が公正かつ公平な世界であって欲しいと望む者にとっては好ましくないことのように思える。しかし、この世界が公正かつ公平な世界であって欲しいという願いこそ、弱者を責めるような思考を生み出しているのではないか。

まず、人が公正な世界を望む理由について考えたい。

さしあたり次の問いから始めよう。

”あなたは公平な世界と不公平な世界のどちらに住みたいだろうか。”

何が公平なのかという点は意見が割れる事になるだろうが、おそらく多くの人が公平な世界に住みたいと答えるだろう。

では、それは単に自分が得をしたいからであろうか。公平な世界なら自分が得を出来るからだろうか。

勿論、そういった人もいるだろう。例えばそのような人々は「公平な世界なら自分は評価されるはずだ」と思っているのかもしれない。公平な競争なら自分は勝てると思えるから公正な世界を望むという思考はあり得る。

しかし一方で、公平な世界に住みたいと願うのは、自分が得る報酬や、人が受け取れる報酬に納得できるようになるからだと答える人もいるだろう。そういう人々は次のように答えるかもしれない。

”自分の評価や他人の評価が妥当じゃないと嫌だ。私が公平な世界を望むのは、公平な判断に基づいて評価されたいからだ。例えば、自分が頑張っても報われなかったり、人がズルい手段で評価を受けるのは納得がいかない。”

多くの人が公正公平な世界を望むのは、公正な判断がされている世界では少なくとも自分の処遇については納得がいくと考えるからではないだろうか。

不公平な世界では、いつ理不尽な評価が下されるか分からない。

努力ではどうしようもないリスクと隣り合わせに生きなければならない。公平な世界に生きる事は、理不尽で納得のいかない結果が現れないというだけで安心の材料になる。なぜなら、公平な世界では理不尽は少なく、大抵の事態は皆が納得できるものであると想定されるからである。

3.本当に人は公正な世界を望むのか?

では、問いを変えよう。

“あなたは、自分が住んでいる世界が公正公平だと思いたいか、それとも不公平で理不尽な世界だと思いたいか、どちらだろう。”

この質問に対して、多くの人は逡巡するのではないか。

あるいは、このような質問をする人間に対して直感的に嫌悪感を抱くかもしれない。

だが質問に敢えて答えるとすれば、多くの人は自分が住んでいる世界を公平な世界だと思いたいのでないだろうか。

なぜか。

それは、多くの人にとって重要なのは、自分の評価や他人の評価に納得がいくかどうかという点だからだ。

多くの人が世界に公正である事を求めるのは自分が納得したいからである。

逆に言えば、納得さえ出来れば、実際に世界が公正であるか不公正かはあまり問題にならない。

あくまでその人にとって公正に見えるかどうかが問題なのだ。この世界が公正な世界と信じられるかどうかが問題なのだ。

公正公平な世界では、正しい事をする人間はその努力の分だけ報われて、悪いことをする人にはそれ相応の悪い事が起こるという予測が成り立つ。

多くの人が欲しがっているのは、この予測が常に成り立つという安心感である。

この予測が成り立つうちは、この世界は公正であると信じられる。多くの人が何かを問題視するのは、「善い行いには報酬が、悪い行いには報いがもたらされる」という自業自得、因果応報な世界観が揺るがされるからである。そのような予測が成り立たない世界では納得する事も安心することもできない。

だから、公正公平な世界を求める人に、実際に世界が公正であるかを検証する動機が生まれるとは限らない。

人びとが求めるのは、あくまで正当な報酬がもたらされるという予測が成り立つ安心感、因果応報な世界がもたらす納得感だからだ。

寧ろ、問題解決よりも簡単に安心が買える方法があるのならそちらを選ぶだろう。

世界に不公平があるなら、それが時間を掛けて解決されていくよりも、短時間で見えなくなってくれた方が良い場合だってある。

多くの人は見えてしまった不公平について怒ることは出来ても、見えない不公平に対しては鈍感でいられる。

見える範囲に不公平が存在しないのなら、誰もこの世界が公正かどうかなんて考えないのではないか。

世界が公正だと思える人、世界を公正だと信じたい人にとっては、世界の不公正が発見される事よりも世界の不公正が覆い隠される方が望ましい。

これは単純な心理コスト、心理的負担の問題である。

目の前の問題を解決すべき問題として取り組むことは心理的にも物理的にも大きな負担が発生する。多くの人はそうした面倒さから、社会問題の解決にそこまで熱心にはなれない。

その一方で、安心感を得る方法は他にもある。

それは例えば、「被害者にも非があった」「弱者になるような奴は何か人間として欠点があるのだ」という思考を受け入れる事だ。

安心を揺るがすのは、目の前で起きている事が理不尽だと思えるからだ。理不尽は公正な世界にあってはならない。逆に言えば、目の前で起きている事を理不尽だと思わなければ、公正な世界にとっての問題ではなくなるだろう。

“何の落ち度もない人に悪い事が起こるはずがない。ひどい目に遭う人々はどこかで間違いを犯したのだ”

このように考えることで目の前の問題が公正な結果として受け入れられるのであれば心理的な不安は発生しない。つまり、目の前の被害者や弱者を自業自得の結果、因果応報の産物として認識することができれば心理的な不安は生じない。

自分が住んでいる世界を公正な世界だと認識して安心したいという心理は、世界で起こる全てを妥当な結末として受け入れようとする心理に繋がる。

ネックになるのはそうした認識をすることへの心理的な抵抗感だけである。

結局のところ、目の前の被害者や弱者を無視することの心理的な抵抗感と、この世界は公正ではなく居心地の悪い世界であることを認める事の心理的な負担のどちらが選ばれるかというだけの話になる。

後者の心理的な負担は中々に大きい。

4.公正世界仮説、公正世界信念のやっかいさ

誰も自分が今住んでいる世界を悪い世界だとは認識したくない。

例えば、いじめやレイプ事件において被害者側にも問題があったとする言説はそのような心理が働いた結果だろう。いじめやレイプ事件においては、そのような事件に遭遇した被害者側にも落ち度があり、責任があるのではないかという意見は今でも見受けられる。例えば、以下のようなものだ。

”いじめに遭う奴はそもそもいじめられるくらい性格が変な奴が多い。”

”レイプされる人は露出度が高く、生意気な恰好をしていたのが悪い。”

”危険な夜道に一人で歩くのは警戒心が足りないし、レイプされる側にも責任はある。”

しかし性格が変だろうが、生意気だと思われるような恰好をしてようが、警戒心に欠けていようが、それらは加害者の加害行為の悪質さを減ずる理由にはならない。

無論、既に事件に遭った被害者を責める必要もどこにもない。

その点において、このような論法は虚偽である。

にもかかわらず、この手の論に説得されてしまう人間が存在するのは、多くの人間が自分の住んでいる世界を公正だと思う心理傾向を備えているからである。その結果、世界で起こる理不尽の全てを妥当な結果として受け入れようとする心理が発生する。

そのような心理は、幸せな人間は良い人間であり、不幸な事が起きた人間は悪い人間であるという予測を成り立たせてしまう。すなわち、不幸に遭った人間を不幸に遭うべき悪人として認識する傾向を生み出すである。

”あいつは悪い人間だからあんな目に遭うんだよ。ざまぁみろ。”

思わずそう言いたくなる心理的傾向を人は備えているのである。

そうした心理的な現象は、公正世界仮説、公正世界信念、あるいは公正世界誤謬と呼ばれている。

デイヴィッド・マクレイニーは、公正世界仮説を以下のように分析する。

公正世界仮説は、自分は大丈夫という偽りの安心感を与える誤謬である。自分のカではどうすることもできないという無力感を避けるために、まちがったことをせずにいればひどい目にあうことはないと思い込むのだ。住む家をなくしたり、望まない妊娠をしたり、薬物依存症になったり、レイプされたりするのは、まちがったことをしたせいだ。そう信じれば安心できる。

(『思考のトラップ』デイヴィッド・マクレイニー二見書房)

思考のトラップ 脳があなたをダマす48のやり方

思考のトラップ 脳があなたをダマす48のやり方

 

また、この現象は心理学の世界では広く認知されている現象である(以下参考URL↓)

psychmuseum.jp

見過ごされがちだが、こうした心理的傾向はなにも被害者になったことのない人間だけが持つのではない。社会の理不尽や不公平な仕打ちを受けてきたはずの人々も、いや寧ろそのような人々のほどこのような認識を持ってしまうのだ。

世界が公正だと思えない不安感は、次にいつ自分がまた理不尽な目に遭うか分からないという不安感を生み出す。つまり、何の落ち度もないはずなのに被害者になったとなれば、もう明日から安心して過ごす事もできないだろう。

それよりは自分に何か落ち度があったと思える方が幾分か救いはある。自分に落ち度があるのであれば、それを改善することでもう同じ目には遭わないという安心を手に入れる事ができる。

“私にダメな部分があるからこんなにひどい目に遭うに違いない”

親からの虐待を受けた子供達がセルフネグレクトや自己嫌悪感情に囚われてしまうのは、このような認識が働いているからである。自分ただ一人を嫌悪することと、世界そのものを安心出来ない場所として認定することのどちらが心理の負担が大きいかという話である。

もし世界そのものを安心できない場所として認定するのであれば、また自分が同じ目に遭うかもしれないという不安に囚われることになる。未来永劫この不安からは逃れられないかもしれない。それよりはただ自分一人に落ち度を発見しようとするほうが希望は持てる。もしそうした自分の落ち度を発見できれば、不安から解放される可能性があるからだ。

このように、公正世界仮説は、傍観者にとっても被害者にとっても強力な心理効果として存在する。そして、このような世界に公正さを求める心理こそが被害者叩き、弱者叩きを引き起こしている原因でもあるだろう。

次回以降は、実際に弱者の存在を否定するような言説にはどのようなものがあるのか、具体例を挙げながら説明していくことにしたい。

 【次回記事と参考文献】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

思考のトラップ 脳があなたをダマす48のやり方

思考のトラップ 脳があなたをダマす48のやり方