0.新海誠の描く「風景」
前回までの記事で、新海誠の映画においては「風景」(≒景色)が人と人の心を繋ぐ役割を果たしているということについて確認した(↓前回までの記事)。
(第一回)
tatsumi-kyotaro.hatenablog.com
(第二回)
tatsumi-kyotaro.hatenablog.com
今回の記事では、人と人を繋ぐのが「風景」でなければならない理由について考察していくことにする。その為に、まずは新海誠の描く「風景」について整理しよう。それらは新海誠自身、特別な意味を持たせていると公言しているように、特に美麗に描かれている。
では、なぜ新海誠の描く「風景」は「美しい」のか。
この疑問は、彼の映画を見た多くの人が持つ疑問であるだろう。
さて、新海誠の描く「風景」が美しいのは、筆の入り方とか、色使いや、光の具合といったような絵単体の問題なのだろうか。
繊細な色使い、筆のタッチ、光の表現、確かに新海誠はそれらの面においても美しさの演出に長けていると言える。一方で、どんなに絵が綺麗でも売れないアニメ、映画はいくらでもある。
ここで仮説として持ち上がるのは、新海誠の描く「風景」の「美しさ」は絵単体の美しさの問題ではないというものだ。
新海誠の描く「風景」は単純に「絵」として美しいから「美しい」と思わせるのではなく、それ以外の何かがそう思わせるのではないか。そうでなければあそこまで写実的印象を与えつつ、現実よりも「美しい」と思わせるような映像は生れないのではないか。
1.「風景」を見るという「こと」
新海誠の描く「風景」がなぜ美しいのかについて考える為に、まず「風景」そのものの性質について考察しよう。
「風景描写」は美しい。
しかし、なぜ人は「風景」をこれほどまでに美しいと感じてしまうのだろうか。その場所に憧れがあるからだろうか? その場所に行きたいからだろうか? あるいは単に美しいからなのか?
これらの回答は我々の生活における実感と一致しない。
我々が「風景」を美しいと感じる時、特に憧れを抱いてなくても美しいと感じてしまう事はあるし、「風景」が美しいからといって撮った写真も特に見返すことなくフォルダに仕舞われたままなんてのはザラにあることだろう。
それに、単に美しいものが見たいのなら、レンブラント展や宝石店などに足を運んだ方が手っ取り早い。
ならば、「風景」の美しさとはなんなのだろうか。
これは、山の「風景」が好きな人にとっての登山、海の「風景」が好きな人とっての海水浴、空の「風景」が好きな人にとってのスカイダイビングを考えてみればよい。
山の「風景」が好きな人間が、自分の好きな「風景」に存在した山に登ったとして、その人物はその山の「風景」を間近で見ていると言えるだろうか。
「海の風景」が好きな人が自分の好きな海で泳ぐ時、あるいは、「空の風景」が好きな人がスカイダイビングをする時、それらの人々は「風景」を見ていると言えるだろうか。
それらの人々はそこで「風景」を見る為に何をするだろうか。
おそらく、それらの人々は「遠く」を見る。
たとえ自分が好きだった「風景」の場所(place)に到達したとしても、その人々は足元やその場にあるものをカメラに収めたりはしない。いや、する場合もあるだろうが、その人間は「『風景』を撮っている」とは思っていないはずだ。
更に言えば、かつて「風景」だと思っていた山に登りながら、海に入りながら、空を飛びながら、「遠くにある」別の山、海、空の「風景」を探してそれをカメラに収めるのではないだろうか。
「風景」は常に「遠く」にある。いや、「風景」はむしろ「遠く」になければ成立しない。
当たり前のようであるが、これが「風景」の第一の性質である。
「風景」を成り立たせているのは、見られている対象物の意味や特徴といったものではない。寧ろ、その「風景」を成り立たせているのはその対象物までの「距離」である。
「距離」がなければ「風景」は成立しない。
「風景」は見られているものが遠くにあることによって初めて存在できる。
「風景」を見るということは、自分とその「風景」の間にある「距離」を感じ取ることなのである。
つまり、「風景」は見られている「もの」にその本質があるのではなく、その間にある「距離」を感じる「こと」にその本質が潜んでいるのである。
すなわち、「距離」の感覚なしに「風景」は成立しえない。
2.「風景」の思想性
「風景」は、見る者が感じる「距離」に依存している。
ここにもある一つのロマンティシズムが潜んでいる。つまり、「遠くにあるからこそ」「簡単に手に届かないからこそ」美しいというロマンティシズムである。
「風景」の美しさは客観的美しさではなく、それを見る者のロマンティシズムが引き出されることによって成立するのである。小説や映画において、風景描写が登場人物の心理描写に一役買うのはこのためである。
では、そのような距離感は如何にして発生するのだろうか。
例えば、中世や近世の世界にはこのような距離感のようなものは発生しない。
まず、和歌。日本中世の歌人が遠くの地に思いをはせる時、そこは遠くにある場所ではなく、完全な異界として理解されていた。だからこそ島流しや左遷には残酷な意味が伴っていたのである。そこにあるのは、「距離」というような踏破することのできる隔たりではなく、絶対的な異界が意識されていた。
これは県境や山を越えてしまうと鬼が出るというような民話にも表れている。もっと遡れば『日本書紀』のイザナギが「現世」と「冥界」を行き来する伝説にも見られる意識である。イザナギの逸話が示しているのは、中世以前の世界において「異界」が「現世」と地続きであったということではない。寧ろ、歩いた先がどこに繋がるのか分からないというのが中世以前の世界観なのである。
つまり、今いる「ここ」と向こうに見える「あそこ」が空間的に「異質」である(かもしれない)という意識だ。中世以前は、「ここ」と「あそこ」が同質な空間である保証はどこにもなかった時代なのだ。
それに比べて、近代以降の科学が発展した世界においては、遠さや近さというのはあくまで数値で測ることのできる「距離」の問題でしかない。
グローバリズムが進行した現代においては、遠くの異国の地であろうとも相変わらず物理法則は適用されるし、そこに住んでいるのは同じ人間であるということを我々はよく知っている。どんなに遠く距離を隔ててもそこは異界などではなく同じ世界、いまここにある空間の延長でしかない。
つまり、「距離」が存在するためには、全てが同じ空間で繋がっているという感覚が存在しなければならない。
それは今自分が立っている「ここ」と自分が見ている「あそこ」が繋がっているという感覚でもある。
だから、「風景」を見ること(=「距離」を感じること)は、今立っている場所と、遠くにある場所が同じ空間の延長にあるという感覚の強調でもあるのである。
言い換えれば、距離以外に隔てるものが存在しないということの証明でもある。そして、「距離」を越えて辿り着く方法が存在するということも同時に示唆されているのだ。
新海誠の描く景色(=「風景」)が幻想的なのはこの為である。
「この世の景色とは思えないほど美しい」という感嘆は、それがこの世の景色であると理解しているから発されるのである。「目の前に広がる幻想的な景色が、紛れもなくこの世の景色であることへの驚き」がそこに示されている。
この驚きは、「風景」が幻想的であればあるほど強くなる。だから新海誠の描く「風景」は常に幻想的なのである。
新海誠が「風景」の絵にこだわるのは、「風景」を見るという行為自体が「距離」の強調(=いつかそこに辿り着ける)というロマンティックな感覚の産物であるからだ。
「風景」を見るということが無意識に前提としているのは、「風景」を見る者と「風景」とが「距離」によって隔てられているという感覚だ。
その感覚は言ってしまえば、「距離」以外に隔てるものが存在しないという感覚である。
同様に、「風景」を見る者同士もまた「距離」によって隔てられている。同じ「風景」を見ることが見る者の心同士を接近させるのは、「風景」を見るという行為がその二人が存在する空間の質的な差を消滅させるからである。
つまり、彼の映画は「距離」によって隔てられていることを強調することで、距離以外の障害がなくなったかのように錯覚させているのだ。そのような錯覚が存在するから、「風景」が二人の心を接近させることが自然なものとして受け入れられるのである。
だから彼の映画において人の心と人の心を繋げるのは言葉という「もの」ではなく「風景」を見るという「こと」でなければならないのである。
ロマンティシズムな感覚を持つ登場人物達の心同士を繋げるのは、同じくロマンティシズムの感覚の産物である「風景」こそが相応しいのだ。
3.ピンボケについて
既に「風景」の持つ役割については説明した。ここからは、その補足として、新海誠の映画に現れる特徴的なピンボケについて語ることにしたい。そして、そのピンボケが彼の映画において「風景」と相補的な関係にあるのである。
時々、新海誠の映画の絵はピンボケする。
ピントがずれたカメラで撮影されたようなぼかし、フォーカスの揺れが存在するのである。そして、それらの映像の揺らぎは決まって「風景」が登場する前触れであったりするのだ。
このようなピンボケが一体何を示しているのか。
これは、主人公たちの心理状況を考えると答えが分かる。このフォーカスの揺らぎ、ぼかしの入った絵は主人公たちが不安を抱える場面で多く登場する。
『君の名は。』で言えば、図書館で被災者名簿を見るシーンなどがそれに該当する。被災者名簿で三葉の名前を見つけた瞬間、画面の三葉の名前以外の部分がぼやけるのである。
逆に、こうしたフォーカスのぼかしは、カタワレドキに三葉と出会ったシーンでは全く現れない。そして、二人がお互いの名前を忘れた瞬間からまた現れるようになってくる。つまり、「風景」を見失った主人公が「風景」に辿り着くまでの「不安」を抱えているシーンにおいてこのようなピンボケは現れるのである。
すなわち、このようなピンボケ、フォーカスが合わないような絵は「風景」と対比されているのである。
つまり、これは主人公たちが遠近感を見失っている状態、「距離感」がつかめないでいる状態を表している。
「風景」が成立する為には距離が必要だ。
ならば、「風景」が描かれる為には必然、そこに遠近法がなければならないだろう。
だから、「風景=心の繋がり」と対比される不安の演出は、その遠近法を揺るがすものとして存在しなければならない。
その遠近法の揺らぎこそが、映画内に巧妙に配置されているピンボケの数々なのだ。
こうしたピンボケ、焦点の合わなさが巧妙なのは、これらが遠近感や距離感と言ったものを完全には消し去らない点にある。
ピンボケはただ見えにくくするだけである。そこには、ピントが合う瞬間、全てにはっきりと焦点が合う瞬間への予感と期待が存在する。
寧ろ見えにくく不安定になることで、その不安定さが逆に距離感や遠近感を意識させることになるのである。
これは、前回ミロのヴィーナスについて触れた時に語った不完全性と同じ話だ。
消えかかったもの、不安定で見えにくい方が、それがはっきりと描かれている時よりもより深く印象付けられる。適度に消えかかった線の方がより克明に人の心に刻印されるのである。
このようにして、新海誠は「風景」を描いて距離感を克明に強調してみせるのである。
結果として、このような「ピンボケ、焦点の合わなさ=不安」の場面は、対比される「風景=心の繋がり」を強調する役割を果たしているのだ。
【次回記事と参考文献】
tatsumi-kyotaro.hatenablog.com
(特に参考にしたわけではない文献)
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