京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

「真の弱者」はどこにいるのか~「キモくて金のないオッサン(KKO)」論の誤謬~

 0.前回までのあらすじ

前回の記事で、人間には弱者や被害者の存在を否認することでこの世界を正常だと思い込もうとしてしまう心理的傾向があることを確認した。被害者や弱者にも責任があると思えば、この世界は変なことをしない限り酷い目に遭わないと錯覚できる。被害者や弱者の自己責任にしてしまえば、自分は何も考えなくても済むというわけである。そのような心理傾向は公正世界仮説と呼ばれる心理的誤謬であり、これが弱者叩き、被害者叩きの原因となることを前回の記事で解説した。

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

1.「真の弱者」論

今回はいくつかある典型例として、「真の弱者」論を取り上げたい。具体的には次のような主張がそれだ。

”弱者は救われなければならないが、お前たちは真の弱者ではない。お前たちのせいで真の弱者は隅に追いやられている”

これは権利の主張を行う弱者に対して発せられる主張である。

「お前たちは真の弱者ではない」という主張の裏には、「真の弱者」はもっと深刻で弱者問題としてすら表面化しないような存在であるという前提がある。

このような主張は、一見この世界の理不尽と向き合い弱者の存在を認めているように思える。

弱者の存在を認めた上で、他に救われるべき弱者がいるという言説であると読むのであれば、公正世界仮説とは関係のない主張のように捉える人がいるかもしれない。

しかし、本当にそうだろうか。

これを仮に「AよりもBという問題が優先されるべきである」という主張であると捉えるなら、それが正当な判断かどうかを置いておけば、それを主張すること自体は殊更非難されるべきものではないだろう。同じリソースを割くのであれば、より効率性を重視してBの方にリソースを回すべきであるというものであるなら、それ自体は検討されるべき主張としての正当性を持つかもしれない。

だが、これを主張する人間がBを解決すべきだという主張に重きを置いているのではなく、ただAの解決を主張する者達を黙らせる為にこのような主張を行っている場合はどうだろう。

「真の弱者は、抑圧され、差別され、まともに生きることさえ困難な人々である。お前たちのように、被害を訴え権利を主張するような暇などない。よって、お前たちのような余力のある存在は真の意味では弱者ではない」というようなことを言う人間はいる。

しかし、権利を主張するような余力があるのだから権利を主張すべきではないという言説は妥当ではない。

こんな言説がまかり通るなら、弱者や被害者は永遠に声を上げる事が出来ない。そして誰にも気が付かれなければその問題は闇に葬られるだけである。その人間が不利な立場にいるのかそうでないのか、という議論にその当事者の余力は関係がない。

そんな時は、試しに次のような質問をすると良いかもしれない。

「お前は、Bの問題を優先するというが、Bという問題を解決すべく普段何をしているのか」

「Bの問題を優先的に解決するとして、Aの問題にはどのようにリソースを割くのが適当か」

もしこの二つの疑問に対して答えを用意していないだけならまだしも、考えるそぶりさえ見せないのであれば、それはただ単に「Aが救われるのは納得がいかない」という感情に基づいているのではないか。

物言わぬ弱者のために一体何ができるのか、どのように問題解決のリソースを割くのか、という点が提示されないまま、ただ目の前にいる権利主張者に罵声を浴びせるというのであればそれは不当な言説であろう(そもそも物言わぬ弱者を発見する術を彼らが獲得しているのかという点から既に問題であるが)。

そして、そうした不当な言説の一つとして弱者利権仮説とでもいうべきものが存在する。

たとえば、下記のような主張だ。

”「弱者」は守ってもらったり色々な補助を受けられるし、その弱者性で「強者」を批判したり出来る。その点、「強者」は誰からも支援されることはないどころか、「弱者支援」の為に費用を負担する羽目になっている。”

具体例を挙げるなら、アメリカの黒人や女性に対するアファーマティブアクションに対する主張がこれにあたる。勿論、アファーマティブアクションには様々な問題点が存在するが、それが弱者特権であるという形容は適切ではないように思える。

本邦でも、生活保護受給者に対して、生活保護受給者は何もしていないのにタダで金を貰える特権を持っているのだというような議論が見られた。

こうした言説は再分配を罰金と捉え、弱者への配慮を特権待遇と読み替えている。そもそも存在する弱者と強者の間にある権力関係を無視したまま、それを補うための政策の不公平感のみに焦点を当てているのである。

しかし、こうした議論により彼らは何を言おうとしていたのだろうか。

2.「キモくて金のないオッサン(KKO)」論

弱者には特権があると主張するような弱者利権仮説はいたるところで散見されるものの、それがどのような動機によって行われているのかについてはあまり言及されていないように思える。

それを分かりやすく理解する為にここで実例を取り上げたい。ネットで一時期取り沙汰された「キモくて金のないオッサン」論である(KKO、「キモカネ」とも略される為、以下「キモくて金のないオッサン」=KKOキモカネとして扱う)。

キモくて金のないオッサン」論は、「キモくて金のないオッサン」が弱者であるにも関わらず誰からも同情してもらえないことを問題にした議論である。つまり、「本来弱者として扱われるべき存在が弱者として扱われていない不公平」を取り扱あったものである。

これを読んでいる人の中には下らないネットの与太話をいちいち取り上げるなんて野暮なことだと思われる方もいるかもしれない。無論、そこまで丹念に検証する必要もないだろうが、こうした論調が一定の説得力がある言説として受け入れられ盛り上がりを見せたこと自体はもう少し注視すべきだろう。というのも、「キモくて金のないオッサン(KKO)」論は別に「キモくて金のないオッサン(KKO)」を救済せよという議論ではなかったからだ。

具体的な救済策とは比較的無縁だった「キモくて金のないオッサン」論がもてはやされたのには理由があるし、その理由の考慮から問題解決の為の視野を得られるのではないかと思う。

ここで重要なのは「キモくて金のないオッサン(KKO)」は単一の要素で成り立っていないということだ。

「金のない」ことが問題ならそれは単に貧困問題である。しかし「キモくて金のないオッサン(KKO)」論を展開する人々はそこに問題の本質があるのではないと言う。

これは一体どういうことだろうか。あらゆる貧困問題では「キモいオッサン」は除外されて弾かれてしまうという主張なのだろうか。おそらくそうではない。

では、「キモくて金のないオッサン(KKO)」にはお金の問題が関係ないということだろうか。しかし、それなら「金のない」という論点を一つ追加して複雑にするよりも、単に「キモいオッサン」の問題として語った方が適切だろう。

そもそも「キモくて金のないオッサン」の問題を解決する為の議論をするのであれば、その構成要素一つ一つについて個別に議論で行うべきである。つまり、「容姿」「お金」「年齢」それぞれについて解決策を考えるべきであって、それをむやみに複合させて議論を複雑化させるべきではない。

「生き辛さの要素は複合されることによって辛さを増すのだ」という主張だとしても同様である。それならむしろ、「キモくて金のないオッサン」が「キモくて金のないオバサン」でなかったのはなぜかという点を疑問視すべきだろう。彼らは「キモくて金のないオッサン」は「キモくて金のないオバサン」よりも悲惨であると言いたかったのかと言われればおそらくそれも違うだろう。

キモくて金のないオッサン」論の主眼は、「男性」というひとくくりに強者あつかいされてしまう属性の中に同情されるべき「弱者」がいると主張することにあるのである。

しかし、ここで注意しなければならない。

「男性」という属性を持った人々の中にも強弱の関係があり、相対的な弱者がいるという事実は、ある属性同士の力関係において「強者」「弱者」という構図が存在しないことを意味しない。

それは単純に「強者」「弱者」という構造は常に文脈依存的かつ属性が複合的に影響し合った結果として存在することを示している。

キモくて金のないオッサン」という概念が示唆しているのは「キモくて」「金のない」、「壮年」という属性が「男性」という属性と組み合わさっても総合的には弱者の位置を占めてしまうこともあるということである。

ここから導き出せる結論は、弱者性や強者性は常に変動的かつ複合的に組み合わさるということであって、特定のレイヤーにおける「強者」「弱者」という構図が存在しないことを意味しない。

キモくて金のないオッサン」の存在は、それ単体では男性と女性の間にある格差構造の否定にはならない。

弱者利権、弱者特権を指摘するような議論では、しばしば既存の弱者が強者であるような空間を指摘してみせたり、既存の強者が弱者になってしまうような空間を持ち出して議論をしようとする。たとえば、一時期スーパーのカートが女性の身長に合わせて作られていることを指摘して女性の特権であると強弁するような議論があった。

しかし、結局のところそのような空間が生まれてしまった理由や背景を考えなければ問題の根本の解決にはならないだろう。

結局、「キモくて金のないオッサン」論も、全体としては具体的な解決方法の模索という方向には繋がらなかった(勿論、具体的な解決策を模索する方向でそれを取り上げる人も少なからずいた)。そのため、この論は「真の弱者」論的な、弱者利権、弱者特権を指摘するだけの相対化ゲームに悪用されてしまったのだ。

ではなぜ「キモくて金のないオッサン」があそこまで語られることになったのか。

具体的な解決は全て各々のレイヤーで行われるべきものであって、複合的に語ったところでまるで意味はない。それでも尚、この問題が複合的なものとして語られたのは、男性(強者)と一括りにされてしまう人の中にも弱者がいるという事実自体が、それを語る者にとって意味を持っていたからである。

しかし、「弱者なのに弱者に見られないということが問題である」というのは一体どのような意識によって発生しているのであろうか。

そこで出てくるのが、如何に同情されるべきかという論点である。

3.弱者性のブランド化、同情の再分配

キモくて金のないオッサン」を代表とする弱者利権仮説、「真の弱者」論は、今まで弱者と見做されていたものが実は強者なのであり、強者と見做されていたものが弱者であることを指摘して見せることが目的であった。

しかし、その行為が問題解決以外でどのような意味があるのだろうか。なぜそこまで弱者性に固執するのか。

それは、具体的なリソースの再分配の話ではなく同情(承認)の問題である。

実際のリソース配分など誰も問題にはしていないのである。

単純な再分配論よりも、同情(承認)の方が重要な要件と見做されてしまうのだ。

それは、弱者に同情が集まることが一種の利権、特権と解釈されていることに関係している。

 「真の弱者」論の根底にあるのは、弱者に同情が集まることへの怒りである。つまり、弱者が救済対象として選定されるその過程に彼らは反発しているのである。弱者に視線が集まる過程そのものへの嫌悪がここに現れている。

キモくて金のないオッサン」論のような弱者利権仮説はそれを指摘して見せることで、同情の視線が弱者に集まっている事態に対して何かを語ろうとする動きであるのだ。

キモくて金のないオッサン」論が支持されたのは、同情(承認)されない存在としての「キモくて金のないオッサン」に意義があったからではないか。そう考えれば、「キモさ」が「貧困」と結びつけられてしまう不可解さにも納得がいく。

彼らが語っていたのは、実際の救済策の問題ではなく、同情の再分配の問題である。

この点を考えると、キモくて金のないオッサン論は対立煽りでしかないというのは、一見もっともであるがナンセンスな批判である。なぜなら、それを主張する者にとっては、対立を煽りこそが必要条件であるからだ。

人間の感情が平等に分配できない以上、平等に全ての弱者に同情を与えるということは不可能だ。人間は、特定の者、ある限られた範囲の者にしか同情することができない。

だから「如何に同情(承認)されるべきか」という問題にする場合、そのリソースは限られてしまう。よって、少ないリソースの奪い合いという形で論が展開されるのはある意味で必然だ。

同情(承認)を獲得するにはどうすればいいか。それは他者が得ている同情(承認)の割合を減らし、別の人に割り当てること、つまり同情の再分配を行うしかない。

両方同時に解決することが可能だという主張が真っ先に退けられてしまうのはそのためである。両方どちらかなんて不可能だと議論の前から結論付けているのは、同情(承認)のリソースが限られているからである。この議論は、「弱者性」が同情(承認)を勝ち取るためのブランドのようなものであるという認知を前提としている。

社会保障はどうあるべきか、問題解決は如何に行われるべきかという議論を、同情という私的な感情を軸に進めるべきではない(勿論、モチベーションとしての同情それ自体は否定しない)。これについてはポール・ブルームの『反共感論』が主な論点をまとめている。目新しさこそないものの、論点整理の為には有用なのでこの記事では触れないが、別途触れる機会があるだろう。

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

 

4.同情(承認)争奪戦としての弱者論争

結局KKO論は、既存の社会運動では救えない弱者がいるということを得意げに指摘してみせるだけのゲーム的な論争へ利用されるだけの言説になり果てた。

よって、一見それらの議論が弱者について語っているようでも、その本質は冷笑主義である。具体的な解決策の提言になっていない以上、それは既存の弱者の存在を否認する効果しか発揮しないのである。言い換えれば、同情ゲーム化したKKO論は既存の弱者と社会運動を相対化して無効化する為に「キモくて金のないオッサン(KKO)」こそ「真の弱者」であると設定しているに過ぎない。

これらは「真の弱者が救われるべき」という点に重きが置かれているのではなく、「いちいち同情を求めるな、黙っていろ」という部分にこそ主眼がある。それは権利主張あるいは被害の告発を同情や共感性の問題にすり替えてしまっているのだ。

今までスポットライトが当たらなかった弱者として「キモくて金のないオッサン(KKO)」を取り上げたとしきりに吹聴する者もいるが、そうであるなら、尚のこと「キモくて金のないオッサン」が「キモくて金のないオバサン」ではなかったことの方が問題なのだ。

彼等の議論はスポットライトによって照らされる場所をずらしたに過ぎない。スポットライト(同情)が特定の方向にしか向けない以上、それは弱者性の取り合いでしかない。キモくて金のないオッサン」論も結局「キモくて金のないオバサン」の存在を覆い隠してしまっているのである。

このような同情(承認)論へのすり替えが公正世界仮説的な認知によるものであることは言うまでもない。このような弱者利権仮説的な問題意識の根底にあるのは、同情されるべきでない人間が不当に同情(承認)を集めているというような不公平感である。そのような不公平感は、弱者は不当に同情(承認)を得ているという認知に基づいている。そして、このような認知は具体的な不平等やリソース不足を認めない傾向にある。だから「真の弱者」論に見られる弱者利権仮説的な考えは、弱者の存在を認めているようで認めていないのである。

具体的な分配論ではなく、同情(承認)の問題として捉えてしまうというのは、まさに公正世界仮説的な認知が関わっているのだ。

そして、付言するなら我々が取り組むべきは同情されるべきは誰かというようなスポットライトの奪い合いではない。スポットライトが当たらない人々も平等に扱われるような社会制度の構築である。

また、ルサンチマンによって歪んだ議論でなければ、人々の承認欲求についてはもっと話し合われてもよいのではないかと思う。リベラリズム的文脈においては、承認欲求や人生の価値についてのプライベートな問題は、所詮各自が解決すべき話でしかないと言われるかもしれない。リベラリズムは個人の価値観の問題に踏み込まないと同時に、各人が抱える生き辛さの問題にも介入しない。しかし、私は人生をより豊かにするためにはどうすればよいのか、共同で模索するような空間、生き辛さを語り合うようなコミュニティは必要なのではないかとも思うのだ(↓以下、そのような模索を実践しているコミュニティの紹介。随時追加)。

うちゅうリブ

 

 【次回記事と参考文献】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

反共感論―社会はいかに判断を誤るか

反共感論―社会はいかに判断を誤るか