京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

自己責任論と共感性

1.「優しい」自己責任論

現在の世論の中には、貧困問題や性被害の問題などは個人が解決すべき問題であるから社会全体の問題にするべきではないとするような自己責任論が存在している。

例えば、2000年代においては生活保護受給者に激しいバッシングが寄せられ、税金制度は実質罰金制度であるという論調が盛んであった。貧困を抱える連中は、貧困を避けられたはずなのに何もしなかったのが悪いのであって社会が生活保護などの社会保障を提供するという特別扱いをするべきではないという論理が広がっていた。

そうした論理の前提にあるのは、危険やリスクは事前に予測することが可能なのだから自分で対処すべきものだという考えである。障碍者が生まれながら抱えるハンデキャップも、貧困家庭の環境も、周囲の人間関係も自分で対処可能であるし対処できて当然だとする考えのことである。

例えば、自己責任論を唱える人間は性犯罪に遭った人間には「そんな危ない場所にいたのが悪い」と言うし、貧困に苦しむ人間には「まともな職に就かないのが悪い」と言うだろうし、差別に苦しむ人には「嫌なら出ていけばいい」と言うのである。これらの苦痛は全て避けようと思えば避けられたはずのものなのだから、それを避けようとしなかった時点でどんな被害に遭おうが自業自得だとする考え方が自己責任論なのである。

一般的に、このような自己責任論的なものに対しては、しばしば思いやりの重要性や想像力を働かせることの必要性が説かれることがある。

しかし、共感や思いやりの精神の必要性自体に同意するにしても、それを呼びかけることは果たして効果的なのだろうかという疑念がある。

というのも、こうした呼びかけは自己責任論的な弱者を見捨てるように見える言説が共感性の欠如、想像力の乏しさに原因があると前提しているからである。

ここで問題なのは、自己責任論的な放任主義が共感能力の欠如によるものなのかという点にある。

今までの記事で書いてきた話にも通じる話であるが、自己責任論的な考えはなにも冷淡さに端を発しているわけではない。自己責任論は単なる冷淡さの表れではないのだ。

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

それは単純な現実逃避の手段として、現実を否認する思考様式の延長に存在する。

往々にして、強固な自己責任論者が寄付や募金などのチャリティ精神を発揮したりアピールしたりすることがある。勿論、理由は様々だろう。PR活動の一環だったり、税金対策だったり、利他精神の表れではなく利己的な打算によるものだという意見も頷ける。

だが、問題なのは、普段の強固な自己責任論的な主張と募金や寄付に積極的な姿勢が、取り巻きの人間の目には矛盾として映らないことにある。

例えばあのホリエモンこと堀江貴文は、精力的に募金や寄付をしており、募金や寄付を行った女性タレントが誹謗中傷を浴びていることに対して以下のように擁護をしていたことがある。

 

しかし、一方でホリエモンこと堀江貴文ツイッターで「日本終わっている」と手取り14万の安月給を嘆くツイートに、「お前がおわってんだよ」と辛辣に批判もしている。

 

彼の中で、自己責任論的な考えとチャリティや募金、寄付は矛盾なく同時に存在できる。自己責任論は、それにまとわりつく印象とは裏腹に、思いやり精神、助け合い精神とは関係がないないのではないだろうか。

それどころか、寄付や募金などの精神は自己責任論的な思想と共生的な関係にあるとさえいえるのではないか。

念のために言っておけば、私は寄付や募金活動そのものを否定しようというわけではない。何もせず文句を言うだけの人々に比べれば、寄付や募金は明らかに貢献しうる。また、ある程度の支援が完了しておらず混乱が続く被災地に、受け取り手側の状況も考慮されないまま身勝手に送られる千羽鶴よりは、実利という面では賢明な判断に思える。

あるいは、寄付や募金よりも、実際に被災地などに出向き奉仕することの方が良いのだと断言するつもりもない。何の知識もなくただ野次馬根性と空虚な正義感からそのような行為に及んだとしても、現場からしてみたら迷惑なだけだったということはありえるだろう。そんなことをするくらいなら専門的に何が必要かを判別し、必要な資源を配布できる組織に寄付なり募金なりを行う方が支援という面では理にかなっている。

私が言いたいのは、寄付や募金を支持する精神は自己責任論的な言説と対立しないということである。自己責任論的な姿勢と寄付の精神は時に共犯的に存在しうるということである。ここでは、行為自体が実際に役に立っているかどうか、必要かどうかという点は問題にしない。それらの論点については、前回までの記事ですでに言及している。

 2.寄付の物語

寄付や募金は基本的に、どれだけ多くの人の関心を引くことができたかによって集まる額が左右される。

震災や津波、噴火やハリケーンなどの大規模な災害においては、その映像から受ける衝撃からか多くの募金や寄付が集まる。それは、そうした映像が与える衝撃が、多くの人に被害の状況を想像させるからである。

また、寄付や募金で集まったお金がどのような使われ方をしているのか具体的に想像しにくいものに対しては、寄付や募金の額が減少するということがあるというのはよく言われることである。

寄付をする以上は、誰しもそれが役に立ってほしいと願うのは自然なことだ。そこにあるのは一種の弱者救済のカタルシスなのである。無論、それを否定しようというわけではない。

寄付や募金をする側は、それを受け取る側と対面するわけではないが、それが相手にとって役に立ったという実感を必要とする。

すなわち、そこにはある種の社会貢献物語が必要とされているのである。具体的な誰かではなく、漠然とイメージによって作られた他者の像に対する貢献の物語である。

寄付や募金の活動の活発さや盛り上がりは、人々の想像によって作られた物語がどれだけ多くの魅力を持っているかという点と関わっている。

寄付や募金を行う者はあくまで自分の想像の範囲内でそれがどのような影響をもたらすのかを推測するしかない。直接現地に行くボランティア活動との相違点もそういった点にある。寄付や募金活動は、支援する側が支援される側の人間を想像するしかない。

ここで、災害に対して行われる寄付や募金を例に挙げて考えよう。

寄付や募金の相手は、多様な個人としての表情を奪われ、被災の物語の一登場人物として、つまり「被災者」という概念として現れることになる。

寄付は具体的な他者としての個人の表情をそこに出現させない。あくまで想像の物語上の概念的な「被災者」を想像させるだけに留まる。ここに物語の余白がある。この余白には実に多くの人々の想像が詰め込まれるのである。

寄付をする側は、一般的で普遍的、かつ平均的な「無名の被災者」の物語を想像する。

それは「ある一人の人間が被災した話」ではなく「多くの被災者のうち誰かの物語」なのである。

「無名」であることは、ある特定の属性を持っているということ以外の全てを無意味にする。「無名の被災者」も、無名であるがゆえにただ「被災者」としてのみ意味を持ちうる。無名の犠牲者は、無名であるため犠牲者という属性のみがフォーカスされ語られることになる。無名の犠牲者たちは犠牲者として悼まれながらも「犠牲者である」以外の全ての意味を失うのである。

つまり、そこでは純粋に「被災」の物語が想像されるとともに、「被災」以外の物語が消去されることになる。そのため「被災者」は「被災者」であること以外に意味を与えられない。被災地への寄付において現れる物語は、被災者を個別の具体的他者としてではなく、「被災者」という属性を持った人間の代表として考えるのである。

寄付は徹底して個人的な体験、他者性を消失させ、全ての被災者を等しく「無名の(名もなき)」被災者として扱う(それが寄付や募金の良い面でもある)。そうして固有の物語が消去され一般化されることによって、個々の被災者は「無名の」あるいは「名もなき」被災者となるのだ。「被災者」という属性以外の全てを消去することで、被災者一般の物語を生み出すことが可能になるのである。被災者に共通する普遍的、一般的話をするためには、その主語は「無名の」「名もなき」被災者でなければならない。

同時に、その想像における「一般」「平均」がどのような集合内の「一般」「平均」なのかはナショナルな想像力(=同胞意識)によって定められることになる。

勿論、それは国内被災地への寄付や募金の場合であって、寄付や募金の対象が変われば、その枠組み(どのような集合の中の「一般」「平均」か)も大きく変わることになる。しかし、「無名の(名もなき)国民」であるか「無名の(名もなき)市民」であるのかはここでは問題ではない。寄付的な救済であってもナショナルな哀悼であっても、それがある種の物語に沿って行われる限りでは、それは平均化された「無名の被災者」という物語上の概念に対して行われるのである。そのような名もなき誰かの物語においては固有の体験は消去される。

被災者は被災者であるという属性を持つことで、共感されたり同情されたりする。無名であるからこそ、「被災者」に対しての共感はどこか物語的なものに沿って行われるのである。

寄付や募金は個別の具体的な他者に行われるのではなく、特定の「属性」を持つ平均的人間が想像されることで行われる。その平均的な人物像は、平均であると同時に誰でもないのだ。

簡易性、簡素さこそが寄付のすばらしさであるとともに、寄付という行為では、他者と向き合う機会、実際に恩恵を受ける人間と知り合う機会は省略されている。寄付という行為はそれを行う者の側で完結するように出来ている。

その結果、寄付は目の前に相手を出現させないまま、物語に浸ることのできる手段としても存在しうる。言い換えれば、寄付は、目の前の社会問題に向き合わずに想像の物語の中だけで全てを処理する方法として選ばれうるのである。無論、それ自体がいけないという話ではない。寄付が自己完結的であるという点だけを以て、寄付の正当性が揺らぐことはない。

3.物語とナショナリズム

ここでもう一度、自己責任論の話に戻ろう。

自己責任論見られる思考様式も、基本的に目の前の問題を否認することで、目の前の問題を自分から遠ざけているのだ。それらの思考は、「もしそれが自分だったら」という偶然の恐ろしさを回避する。

同様に、「無名の被災者」の物語も、実際の被災者を遠ざけている。被災者の物語には、物語的な恐ろしさはあるが、「もしそれが自分だったら」という偶然の恐ろしさがない。我々は悲惨な物語に打ち震えると同時に、それが物語上のできごとであることに安心してしまう。

ベネディクト・アンダーソンは『想像の共同体』において、偶然の死を必然の物語として説明するというのがナショナリズムと宗教の共通点であると考えた。そして、その象徴的存在が「無名戦士の墓」であるというのだ。

無名戦士の墓と碑、これほど近代文化としてのナショナリズムを見事に表象するものはない。(中略)人の死に方がふつう偶然に左右されるものとすれば、人がやがて死ぬということは逃れようのない定めである。人間の生はそうした偶然と必然の組み合わせに満ちている。(中略)偶然を宿命に転じること、これがナショナリズムの魔術である。(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

 

確かに、宗教も国家も死という必然に物語を与えることで人々に安心を与えてきた側面がある。そして、無名の物語は物語という必然であるが故に、偶然性に満ちた現実から離れてしまうのだ。

「無名の犠牲者」に対する共感や同情、哀悼は、我々がそれと隔てられている安心感によって成立する。例えば、死んでいった特攻隊員に思いを馳せ涙しながらも、生き残り反戦を訴える元特攻隊員に対しては、まるで自分たちは戦場に行くことはないとばかりに冷笑や罵声を浴びせかけてしまう人々がいる。

そうした物語は人々が生きる現実から遠くにあるために人々にリアリティを感じさせない。誰も自分が犠牲者になるなんて考えていない。心理学的にはこれを、一種の正常性バイアスと説明してもよいかもしれない。

そして、そうした物語がリアリティを失うのは、「無名の犠牲者」が固有名を持ち偶然を生きる我々とは違うと考えられてしまうからである。

具体的な人間が目の前に現れないから、「もしそれが自分だったら」という想像力が働きにくい。「無名の存在」は無名であるがゆえに、属性の代表者として成り立てば誰でもよい(=交換可能かつ代替可能である)が、同時に無名であるがゆえに名を持つ我々とは交換されないのだ。すなわち物語(必然)を生きる「無名の誰か」は、偶然の人生を生きる我々から遠く離されてしまうのである。

その点で、寄付は人助けの手段であると同時に、自分と現実の被災者とを切り離す手段としても機能する。

こう考えると、人気を博すナショナリストが寄付や募金、あるいはチャリティに精を出すのも理解できる。

現代において少なくない人がナショナリズムを魅力的だと捉えるのは、それが人々に「優しい物語」を提供するからである。それは現実に苦しむ他者の姿を我々の目から遠ざける効果を持っている。誰もが「優しいの物語」に魅了されるうちは、現実にどのような問題が起ころうとも気にならない。

ナショナリズムが隆盛する国家において、政権が実際の国民の生活を苦しめながら、それを「国民の為」であると偽ることができるのは、支持者が求める国民の救済が十分に概念的、物語的なものだからである。

現代のナショナリストが求めているのは、アイデンティティの物語における救済であって、実際の現実がどうであるかはあまり関係がない。

例えば、国境の問題、領土問題が少なくない人にとって(実際には行ったことも見たこともないような土地であったとしても)自分たちの生活状況以上に強い関心の対象になるのは、そこに自分のアイデンティティの一部としての領土、自己の輪郭としての国境が想像されているからである。

現代のナショナリストたちがしばしば自分のことを現実主義者であると自認するのは、彼らには、現実はどうにもならないというある種の諦観があるからである。彼らは、現実の問題を自嘲的に諦めながら、せめてもの救いとして物語上の自分の救いを求めざるを得ないのだ。現実の問題解決には、時間も手間もかかるし、多くの困難が伴う。だからこそ、簡略化された物語上での解決の方が心地良いこともあり得る。

結果として、現実を遠ざけ無視した上で、物語的な解決のみ求められることになれば、現在のナショナリストたちの自己責任論的な論調と、寄付や募金を積極的に行う態度は矛盾しない。そのどちらも考えるべき現実問題から我々を遠ざける効果が期待できるからだ。

現代においてナショナリズムの脅威は、弱者を物語上の存在にしてしまうことにあるのではないだろうか。

現実の問題が困難であればあるほど、物語的な救済への希求は生まれやすい。物語的な解決を現実の解決とみなすことで、複雑な現実問題と向き合うことを避ける心理である。

寄付もまた、寄付金による復興支援という物語の終了とともに、それを現実の視野から消滅させる効果を持っているのではないだろうか。東日本大震災が起こった年、一時的に寄付金の額は増大したが、翌年にはもとに戻り、寄付の文化自体が根付いた様子はなかった。我々は「最低限やるべき何か」として寄付を行うことで、それを「もう考えなくてもよいもの」として扱うことが出来てしまうのである。現実逃避的な思考を持つ人々にとって重要なことは、現実の問題を物語上で処理することで、それに処理済みの印を押すことなのだ。

自己責任論者たちは、まるで自分たちは弱者にならないとでも言いたげに、弱者を激しく非難するが、そこにある種の正常性バイアスのようなものが働くためには、そうした問題をリアルに感じないような距離が必要になるのである。

寄付が現実逃避的な欲望によって支えられてしまえば、自己責任論と同じく現実の問題を物語の世界に閉じ込めてしまいかねない。

危険なのは思いやりや共感の欠如ではないのだ。そうした能力がたとえあっても想像力が現実を拒否し、現実逃避的な欲望によってしか機能しなければ意味がないのである。我々は共感と想像力を正しい位置に置く必要があるのだろう。

 

【参考文献と追記】

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)

 

 

(追記2019年11月7日)

映画『ジョーカー』のアーサーに対して共感の声が上がる一方で、自己責任論が叫ばれる世の中に対しての違和感を感じたという記事。フィクション内の「弱者」に対する共感は、そのまま社会的弱者への想像力を育む訳ではない。

www.huffingtonpost.jp