京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

差別と区別の違い~「差別ではなく区別」は本当か~

0.差別はいけないことである。

多くの人がこの世界から差別が無くなっていくことはよいことだと言うだろう。現代では人種差別、女性差別障碍者差別に至るまで、様々な差別が批判されている。

しかし、差別とは何か、なぜ差別はいけないのかについてはあまり深く考えず批判している人もいるように思える。

この記事では、差別は区別とどう違うのかについて整理することを目的としたい。

 

たとえば、次のような意見を口にする者もよく見かけるがこれら全てにどう答えられるだろうか。

 

・大学入試が知能差別じゃないように、合理的な理由と基準があれば差別じゃないなら、「女性は出産による離職や休職が多い」というデータを元に企業が女性を採用しないのも女性差別ではない。

・人種や生まれなど、努力でどうにもできない部分を基準に区別するのが差別なら、女子大に男性が入学できないのは男性差別だ。

・人種や性別などの特定の属性を持った人たちへの偏見に基づいた制度が差別的なら、17歳以下の人間に選挙権を与えないのは17歳以下の人間を一括りにして未熟と考える偏見に基づいているから差別的だ。

 

何が差別で、何がいけないのか誰も説明してくれない状態で「お前のやってることは差別だ」とだけ言われても、「なぜそれがいけないことなのかも説明されないまま批判された」という不満だけを募らせる者もいるかもしれない。

もちろん、アンチ反差別、反・反差別への共感や同意したいわけではない。その多くはただ単に現状の差別や権力構造を無視して現状肯定をしたいという欲望に基づいているものだろう。それに、深く差別について理解していなければ差別批判は無効だという話でもない。

だが、なんとなくで差別を批判していったら、差別という大きな社会問題を誰も理解できず、誰も取り合わなくなってしまうかもしれない。

差別はいけないと何となく共有されている時代だからこそ、批判されるべき差別とは何か、それはどのようにいけないのか、どのように解消されるべきものなのかについて一度は考えなければならないのではないだろうか。

もちろん、私がこれから提示するのは一つの考えであるので、異論や反論などは当然あってしかるべきだが、その異論や反論もまた「差別とは何か」、「差別はなぜいけないのか(あるいはなぜ許容されるべきなのか)」、どのように解決するべきものなのかを示す必要があるだろう。同時に、それらはこれまでの差別の歴史を説明できるものであることが望まれる(もちろん、相手をやり込めた気になることだけが批判をする重要なモチベーションになっている人にとってはそうではないだろうが)。

1.区別か差別か

さて、まず問題になるのはそもそも批判されるべき差別とは何かということである。歴史上批判されてきた、また批判されるべき差別とは一体どのようなことを指しているのだろうか。

まず広義の意味における「差別」(=それだけでは批判されるべきとは言えない区別)は単純に、ある人を別の人とは違う仕方で扱うこと、扱いに差をつけることであると言えるだろう。

とはいえ、差を設けて人を取り扱うことはそれだけで問題になるわけではない。

広義の「差別」(=悪質ではない区別)のように、差を作り出して人を扱うということは社会にありふれている。例えば、入学試験においてはテストの点数によって人の学習する機会に差を生み出している。また公衆トイレは人の身体的な特徴を元に使用者に制限を設けている。自動車免許の取得においては、年齢によって免許取得を制限している。このように、ある基準に基づいて人の扱いに差をつけること自体は区別として扱われ問題とならない。

ある基準によって差を生み出し、人の扱いを変化させる区別の中でも特定のものが差別と呼ばれている。

では、どのように差をつけて扱うことが差別と呼ばれているものなのだろうか。

ここからは、差別の悪質さを考える上で何が根拠となるのかについて考えていくことにしたい。そこで、よく挙がる論を取り上げよう。

1.1実害がなければ差別ではなく区別か?

一つ目はただ人の扱いに差を設けるのではなく、それによって実体的な被害や損害が生じることが差別の不当さや悪質さを定義しているというものだ。

だが、実体的な被害や損害が差別を定義する上で必要条件となりうるだろうか。差別に必ずしも実体的な損害が伴うとは限らないかもしれない。

例えば、アパルトヘイトにおいて白人と黒人で座れるバスの席が違ったこと、白人席と黒人席が分けられていたことについて考えてみたい。

実体的損害の有無を差別の悪質さの本質であるとするなら、バス内で白人と黒人の席が分けられていたことの悪質さは、座る席が制限されるという不自由さに還元されると考えることができる。

しかし、アパルトヘイトの悪質さはそうした不自由さにあるのだろうか。

座る席が制限されるという不自由さという点のみに悪質さがあるのならなぜアパルトヘイトは黒人差別だったのだろうか。

バスの席の制限を受けるのは黒人だけでなく白人も同様である。

アパルトヘイトにおいて、その中でもバスの席が区分けされていたことを取り上げれば、黒人と白人は「平等に」不自由を被っていた。

この実体的な被害の大きさ、小ささを以てアパルトヘイトにおけるバスの席の制限が悪質な差別でないと言えるだろうか。

ここで視点を変えて、実体的な損害があったとしても、それが差別と言えない場合について考えてみよう。

例えば入学試験はどうだろうか。

入学試験で試験に落ちてしまった人間はその学校で学習する機会を奪われている。入学試験は、その人間がたまたまその日に取った点数を元にその人間の学習する機会を決定している。もちろん、このような事実を取り上げて「知能差別」だと主張する人間はいる(いや、本当にいる)のであるが、多くの人にとって試験結果によって学習機会が決定されることは差別として扱われていない。

ある基準によって人を区別し、実体的な損害を生み出しているだけでは差別として扱われない(これに対して、差別は合理的でないが、試験で人の扱いに差をつけることは合理的であると言う反論はあるかもしれないがそれについては後述する)。

もう一つ、こうした実体的な損害によって差別を定義する際の問題がある。実体的な損害によって差別の悪質さを定義する人の中には、それを上回る利益さえ提示できればその差別は悪質さをいくらか減ずることができると考える人間がいることだ。

例えば、帝国時代のイギリスがインドの鉄道を整備した事実を以て、当時のイギリス人によるインド人差別の問題はそこまで悪質でないという言説がそれである。

実体的な被害から差別の悪質さを語ろうとするやり方は、数的に可視化された実体的な被害しか語ることができない。このやり方はあまりに非実体的な損害を軽視しすぎている。そこまでして軽視する合理的な理由はない。

経済学者のロバート・フランクが地位財と非地位財を比較し、非地位財の重要性を説いているように、人の幸福の構成要素は実体的な損益によってのみ構成されるわけではないのだ。

差別が悪質であるのは、それが多くの人にとって何かを侵害しているからであるが、それは必ずしも数的に定量化することのできる実体的損害であるというわけではないのである。では、実体的な損害によって差別の悪質さを測れないとしたら、差別の悪質さは何によって定義されるべきだろうか。

1.2.合理的なら差別ではなく区別か?

次に考えられる定義の仕方は、不当な扱いの方ではなく、差をつける理由に問題があるというものだ。

例えば、入学試験や自動車免許にはちゃんとした目的が存在しており、その目的によって差が生み出されているのであれば、その差別は肯定できるというものである。

この定義によれば、合理的な目的と理由があれば差別は悪質ではないということになる。

だが本当にそうだろうか。

例えば、会社が利益を上げようと考えることは合理的であり、それ自体は当然のことながら直接的には差別の問題とならない。また、会社が利益を上げるために優秀な人間を雇うのも同様である。そして、優秀な人間を選定する際、その人間が本当に利益を上げるかどうかは未来でも見えていない限り判別不能である。よって、会社は統計やデータに基づいて、予測を立てた上で将来有益となりうる可能性のある人間を選ぶ。もちろん時間は限られているため、代理指標を元に期待値を計算する必要がある。これら一連の作業は、それだけでは差別とは言えない合理的な目的と理由によって行われている

ではその際、男性よりも女性の方が離職や休職のリスクがあるからという理由によって、女性よりも男性を積極的に雇った場合はどうだろうか

勿論社会状況によってその差がどの程度のものであるかは分かれるところであるが、この場合は、その基準がある程度有効であったとしよう。

多くの企業がそれを採用し、社会全体として女性の社会進出が進んでいない状態に陥ったとしたら、これらは全く合理的な目的と理由によって利益を追求した結果であるから差別の問題ではないと言えるだろうか。無論、差別の問題ではないという人間はいるだろう(いや、本当にいる)。しかし、これまでの歴史を踏まえるなら、およそこれらの事象は差別として認定され語られてきたのである。

つい最近も、医科大学の入学試験において、女性受験者の点数だけを下げていたことが発覚したが、これを「差別ではない」と擁護した者たちが主張したのは、大学は医療の世界における女性の「貢献度」を考慮すべき基準として採用しただけであり、差別的な意図はないということだった。

試験はその人物の能力を正確に測るためのものであり、受験者がだれであろうと平等であるべきであり、性別によって差を設けるべきではないと反論することはできるかもしれない。だが、このような批判は試験の目的がより医療に貢献すべき人材を輩出するというものであった場合には反論として機能しないかもしれない。

このように、何を合理的理由と見なすかは恣意的である

不合理な理由による選別とは、その選別のあるべき基準に対して、その基準からかけ離れた理由で選別することである。しかし、そのあるべき基準がどのようなものであるのかは可変である。

もう一つ問題がある。それは一般的に不合理的な理由と基準により人を扱う場合は全て差別と言えるのだろうかということだ。

例えば、雇用の場面において、企業の雇い主が就職希望者のうち、自分と同じ大学出身者を優先的に採用することはどうだろうか。あるいは同郷の人間を積極的に採用すること、同じ趣味の人間を採用すること、自分の好みの見た目をした人間を採用すること、これらは職務遂行する能力とは関係のない部分を選定基準としている。

これらは、雇用という場面において考えられる合理的な基準とは別の基準によって人を選定しているが、批判されるべき悪質な差別として俎上に挙がることは少ない。

勿論、このような選定基準が不合理なものかどうかは、雇用において重要な目的がどのようなものであると考えるかによって変わってくる。例えば、雇用主が職場の雰囲気や一体感が重要であると考える場合に、職場に集まる人間をただ優秀なだけでなく同じような特徴を持った人間にしたいと思っている場合、ある属性によって選定することは十分に「合理的」である。

あるいは同じ属性を持っている人間に対してたまたま親近感を抱きやすかったために生まれた偏りだった場合はどうだろうか。それはいかなる場合も差別の問題であると言い切れるだろうか。就職採用の場面において、偏見による親近感で人の扱いを変えることは、合理的理由に割り振ることも不合理な理由に割り振ることもできるだろう。

だが、これが仮に人種による親近感であればどうだろうか。こうなってくると今まで歴史的に扱われてきた差別の問題にかなり近づいてくる。おそらくそのような事態が発覚したのなら、人種差別の問題として議論の俎上にあがることだろう。

仮に、不合理な理由が差別の基準であるとするなら、この場合の属性による親近感の発生という理由も不合理な理由に割り振られるのだろうが、属性による親近感の発生が不合理な理由であるからと言って、必ず差別的であると言えるかと言われるとかなり怪しいところがある。

確かに、歴史上における差別は、現代から見れば多くのことが不合理であるかのように見える。けれども、それらが当時の社会において不合理なものとして考えられていたとは限らない。当時は十分合理的だと信じられてきたものが現代においては不合理と判断されるかもしれない。 我々が合理的であると考えているものも、世の中のテクノロジーの発展によってやがて非合理として扱われる日がくるかもしれない。そういう意味でも、合理的な理由が存在することは差別が肯定されうる理由にはならない。

そもそもそうした判別方法には、不合理な理由と合理的な理由の判別を可能であるという前提がある。だが、合理な理由であれば差別でないという基準は、あるべき選定基準があらかじめ差別的な視点によって構成されていた際には機能しないのである。

デボラ・ヘルマンは『差別はいつ悪質になるのか』の中で、次のように結論を導いている。

(前略)(人種、性別、年齢、障害などの)特定の特徴に基づいて人々の間に区別を付けることは合理的な場合もあるが、しかし、そのような差異化は――アメリカ合衆国やそれ以外の国差別禁止法に反映されているように――合理的であっても悪質な場合がある(後略)

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)

 

こうなってくると、差別は結局のところその意図の問題だという人も出てくるだろう。どんなに合理的な理由で取り繕っていても、真の意図が差別的なものであればそれは差別だという主張だ。

とはいえ、行為者の真の意図を探り当てることは実際には不可能である。この場合、意図を批判するという立場に立つ多くの人が実際に行っているのは、その行為がどのように知覚され解釈されるかを判断することである。つまり、純粋にその行為者が何を意図したかではなく、何を意図したと解釈されるかという点が問題になっているのだ。

そのように外からの解釈というのが問題となるのであれば、最終的に差別の悪質さを定義する上で重要なのは行為者の真の意図ではなく、その差別がどのように悪質であると解釈できるかである。

差別の悪質さを意図の問題に還元する作業は、批判されるべき差別について考える上ではあまり本質的ではない。差別の意図の問題は確かに倫理の問題ではあるが、差別の悪質さとはまた別の話となってしまうのである。実際、「小樽温泉入浴拒否問題」では、温泉宿に差別の意図があったかどうかと関係なく差別だったという判決が下されている。

それに、意図を差別の問題として捉えてしまうと、無意識に働く認知バイアスによる差別を批判できない。悪気はなくとも、既存の構造、当たり前として受け入れられる差別は存在するというのは周知の事実である。差別的意図があろうがなかろうが批判されるべき差別の悪質さを減ずることはないだろう。

ここで一度整理しよう。

ある行為が差別であるかどうか考える上では、実体的被害も、悪意の有無も、それが合理的であるかどうかも関係がない。

たとえ実体的被害がなく、悪意もなく、合理的な理由によって行われていたとしても差別は差別である。差別の議論においては、これらの点が無視されがちである。

実際「これは差別ではなく区別だ」という議論はよく見られる。

しかし、少なくとも「合理的だから」「悪意がないから」「実体的被害がないから」という理由では「これは差別ではなく区別だ」とは言えないというのがひとまずの結論である。

2.偏見によって特定のカテゴリを語ること

さて、今まで見てきたのは、区別された人々の間にどのように差を生み出しているのか、どのように差をつけて扱っているのかという側面からの考察だった。

次のアプローチは、偏見によって差別の悪質さを定義するというものだ。

どのように差を付けるのかという問題ではなく、区別を付ける際に使用するカテゴリへの偏見に悪質さが潜んでいるという見方である。

つまり、区別に基づき差を作り出すことに差別の悪質さがあるのではなく、どのようなカテゴリに基づいて区別するのか、区別をする際に使用するカテゴリが正しいのか否かに差別の悪質さが関係しているというものだ。

このような考えによれば、悪質な差別は、差を作り出す際にそこに偏見が紛れ込むから批判されるべきだということになる。

 例えば、「韓国人はみな犯罪者予備軍だ」というヘイトスピーチは、犯罪者予備軍とそうでない人を区別する際に、「韓国人」というカテゴリを参照している。

しかしこれは偏見によって韓国人をひとまとめにして、負の価値判断を行っている。例外の存在がいくらでも考えられるのにも関わらず、偏見から全ての韓国人に対してマイナスのレッテルを貼っているのである。

これに対して、よく見られる反論は「全ての韓国人が悪い人というわけではない」「いい韓国人もいる」という偏見に対する反論だ。この反論はこの手のヘイトスピーチが、主語である「韓国人」と述語である「犯罪者予備軍」が一致しないこと、そこに偏見が紛れ込んでいることを批判しているのである。

確かに、主語の「韓国人」というカテゴリに対して、犯罪者予備軍という述語は対応が不十分である。よって、これらヘイトスピーチ等の悪質な差別が批判されるべきなのは、そこに偏見が存在すること、主語に使われるカテゴリが述語に対して正確に対応していないという点であるという主張はよく見られる。

 事実、差別を偏見の延長として捉えようとする理解の方法は広く共有されているように思える。

しかし、これらの差別の定義は本当に妥当なものなのだろうか。次回はその部分について言及したい。

【次回記事】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

3.【参考図書】

 ↓差別の中でも何が悪質な差別と言えるのかについての文献。この記事も基本的にこの文献を参考にしている。

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)

 

ヘイトスピーチ表現の自由について考えたい人向け

ヘイト・スピーチという危害

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 ↓地位財と非地位財という区別は果たしてどこまで有効か。気になる方は。

幸せとお金の経済学

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