京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

シーライオニングとネット論客の詭弁術

1.シーライオニングとは何か?

嫌われる行為の一つとしてシーライオニングというものがよく話題に挙がる。しかしこのシーライオニング、実は単に嫌われるというだけでなく様々な問題を含んでいるのではないだろうか。

今回は、シーライオニングとは何かという話と悪質なシーライオニングが蔓延することの問題点について考えていきたい。

まず、シーライオニング(sealioning)とはウェブ漫画家David Malki !の描いた漫画から派生して生まれた概念である(URL: https://wondermark.com/1k62/ )。

I will have eggs over easy with toast, please.

簡単に言うとシーライオニングとは、上の漫画のアシカ(シーライオン)がやっているようなことである。

漫画の内容としては、左上から

①「他の海の哺乳類はそこまでじゃないんだけど、アシカ(シーライオン)はなんか嫌」と口にしてしまった婦人。

②「たまたま聞こえちゃったんだけど」とやってきたアシカ(シーライオン)

③通りすがりの一般アシカ「ちょっと伺いたいのですが、アシカ(シーライオン)があなたに悪い影響を及ぼした証拠でもあるんですか?」「あなたの意見を根拠付けるものがあるか知りたいんですが?」と次々と質問をかます

④「どっか行って」と婦人。

⑤アシカ、結局家までついてきて「公共の場であんなこと言ってたのに答えられないんですか?」「それとも論理的な議論ができないのですか?」と煽りまくる。

⑥「今、朝食を食べてる」と婦人、「分かりました。では1時間後にまた」とアシカ、結局帰らない。

と、こんな感じである。

確かにこんなことをやられてはこの漫画の世界でアシカが嫌われてしまうのも理解できる。それにしてもこの作者、アシカに何の恨みがあるのだろうか。

まぁ、そんなことはさておき、該当漫画のアシカのような質問の仕方は確かにたちが悪い。

議論で嫌な思いをした人なら分かるかもしれないが、質問文や疑問文と言うのは、単に自分が知りたいことを相手から聞き出すためだけに使われるわけではない。

特に、議論において、相手をやりこめるために簡単には答えることができないと分かった上で質問をするということはよくあることだ。

そのような質問は修辞疑問文と呼ばれている。

例えば、議論において「私がいつそんなことを言いましたか?」という疑問文は、自分の言ったことを忘れてしまったから相手に尋ねようとしているのではないだろう(昨日の飲み会の席での発言を咎められたものの二日酔いで覚えていないとかそういう状況だった場合は話は別だが)。その疑問文の意味することは「私はそんなことは言ってません」ということであり、誤解した相手を責めるものだというのはすぐに分かる。

簡単に言えば議論テクニックとしての修辞疑問文とは、相手に反論するよりも効果的に相手を論駁するために反語的に疑問文の形を取っているもののことだ。

さきほどの漫画においてアシカがやっていたのは、質問に見せかけた修辞疑問文による攻撃である。確かにアシカの意図は分からないので、アシカは本当に相手を攻撃するつもりなどなくただ純粋に好奇心で聞いているという可能性も否定はできない(その場合余計に質が悪いですが)。

だが、作為的であろうとなかろうとアシカの質問は修辞疑問文の攻撃的な機能を持ってしまっている。

確かに議論テクニックとして修辞疑問を使うのはよくあることだろう。それだけでは質が悪いとまでは言えないだろうが、アシカの質問の仕方がいやらしいのは、それぞれ論点の違う質問を繰り返し相手にのみ説明のコストを払わせようとしている点だろう。

シーライオニングという語の定義は使用者によってブレがあり、曖昧なところが多いが、あえてまとめるとすれば、礼儀正しく誠実なふりをしながら、相手に意地の悪い修辞疑問文を繰り返しぶつけて相手を疲弊させるような行いのことと言ってよいだろう。

では、そもそもなぜ議論において修辞疑問文が使用されるのだろうか。

それは、ひとえに修辞疑問文が議論において平叙文よりも効果的な反論方法になりえるからである。

先ほどのアシカで考えよう。

アシカは何も答えられないでいる婦人に対して「論理的な議論ができないんですか?」と問いを投げた。形だけ見れば、これは「はい」か「いいえ」のどちらかの回答を求めるものである。

しかし、この質問は「はい」と「いいえ」のどちらで答えても婦人が追い込まれるようになっている。

婦人が「はい」と答えた場合、婦人は半ば自らの論理的能力の欠如を認める形になる。これは婦人としてはかなり屈辱的である。

逆に「いいえ」と答えた場合、アシカは「では、あなたの意見を根拠付けるものは何ですか?」とすかさず最初の問いを投げかけることだろう。こうなると婦人はこのアシカの質問に答えないでいることが難しくなってしまう。

だから婦人は沈黙を選ぶわけであるが、仮にこれが議論の場であった場合、相手からの質問に対して沈黙を選ぶと、周りからは合理的に反論する能力がないという判断をされる可能性がでてしまう。特に、自ら考えることを放棄し「論破した風」の議論を好む人々にとっては沈黙は馬鹿の証左であると捉えられてしまうことだろう。

このように、問いはそれを作った側が自分に都合よく言葉を選べる点で優れた武器となるのである。

ここでもう一度漫画に戻って考えよう。

アシカの「アシカ(sea lion)があなたに悪い影響を及ぼした証拠でもあるんですか?」という問いは、婦人の意見に根拠があるかないかを聞く形を取っている。

しかし、この問いもよく考えればアシカ側にとってかなり有利に言葉が選ばれているのだ。

アシカは婦人に根拠を問うているが、そもそも婦人が語ったのは何かしら根拠を用意すべき意見なのだろうか?

婦人があの場で語っているのは「アシカ(sea lion)はなんか嫌」という個人的な趣味趣向の話であり、過去アシカが自分に対して被害を与えたとは言っていない(あくまであの場面だけを見れば)。婦人の話が個人の趣味趣向の域を出ない限りは、そこに「根拠」が用意されるべき明確な理由はない。

アシカは婦人の趣味趣向の話を、婦人が根拠を用意すべき意見と読み替え、それを自らの修辞疑問文の中に混ぜることで「答えることのできない問い」を作り、それを婦人に対してぶつけているのだ。

このように、修辞疑問文を投げかけることは時として意地悪な攻撃になりうるのである。このような質問を繰り返して相手を疲弊させては議論が成り立たないだろう。

無論、シーライオニングをしたからと言って即座に倫理的に批判されるべきだというわけでもないのでここに関しては注意しなければならない。シーライオニングを行うことそれ自体は如何なる場合においても正当化できない行為というわけではない。

これは例えばシーライオニングを行う者が社会的マイノリティ、被差別者だった場合を考えれば十分だろう。あの漫画で描かれていたのがアシカではなく黒人だった場合、婦人の発言は単なる個人的趣味趣向の域から逸脱してしまう。

言葉は常にそれが発せられた文脈と共に理解されるからだ。

その場合、シーライオニングは正当化不可能と言い切れないだろう(いや、住居侵入とかはダメだと思いますが)。

無論、シーライオニングの定義に曖昧な箇所があるため、悪質な行為のみをシーライオニングと定義するのであれば私の批判にはあたらないだろうというのは付け加えておきたい。

 

2.ネット論客のシーライオニング

さて、質問の形で問いを投げかけるのは相手を論駁する攻撃手段としても有効であるというのは先ほど説明した通りである。

気に入らない相手をやり込めるために答えにくい問いを投げかけて黙らせるということは日常でもままあることだろう。それに、議論テクニックとしての修辞疑問は実際便利である。

問題はたちの悪いシーライオニング(=質問攻撃)が議論の場で多用されるようになると「論破した風」の議論空間が醸成されるようになることだ。

以前の記事ではネットにありがちな相手をやりこめることを目的とした議論を便宜的に「議論ゲーム」とに呼ぶことにしたが、こうした「議論ゲーム」が問題なのは、議論の前提と目的が共有されていないからである(↓以前の記事)。

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

 つまり、ネットの議論では問いを投げる質問者側が自由に論点を設定することが正当であると見做されてしまうのである。問題はそれである。

例えば「社会のこういう箇所に差別があるのではないか」という問題提起なら「そもそも差別とは何か」と問いを立てる事が正当な行いに見えてしまうのだ。確かにそれは重要な問いだが、論点としてはズレてしまうだろう。

本来議論はその都度優先すべき論点に沿って行われるのが望ましい。議論する上での最低限の前提が共有できていない場合など、別の論点の方を優先すべき場合などを除けば、「そもそも差別とは何か」という質問は論点をズラすものでしかない。

仮に、問題提起側がその質問に答えたとしても「では、差別はなぜいけないのか」とまた質問者側に論点を設定しなおされては議論が無限に後退する。これでは一向に議論が進まない。

しかも、これに答えないで無視していると彼らは「一般人からの質問に答えられない不誠実な議論をしている」とか「納得しない人を置き去りにして自分達だけが納得できる議論をしている」といった印象論を展開して攻撃するという手段を取ることができる。相手が自分を無視したまま議論を続ければ印象論で攻撃するのだ。

質問者側は次々と質問を投げ掛けるだけで議論の進行を妨げる事ができるし、無視されたら無視されたで印象操作するような議論を始めるのである。

そして、この構図の最も非対称な点は、質問者側が何のリスクも負わない事である。

たとえ問いに答えられたとしても質問者側の説得力が落ちるわけではない。

そもそも質問者側は意見を言っていない。ただ質問をしただけである。

だから、相手をやりこめるだけなら直接反対意見を言うのでなく、「素朴な疑問」を口にするフリをして相手が答えられなくなるまで質問を繰り返せばいいのだ。相手がそれに怒れば「感情的」というレッテルを貼ればいい、最悪質問全てに答えられても自分にとってマイナスはない。それはあくまで当事者が答えるべき答えただけということにされてしまうのだ。

「議論ゲーム」では質問者側に立てば、自分が一方的に問う側に立ちながら、自分の意見を言わない事によって優位を保てる。これに対して「じゃあ解決の為のあなたの意見を聞かせてください」と聞き返すのも無駄なことだろう。「私は素人なのでわかりません。あなたたちが当事者なのですから解決策はあなたたちが提示してください」と言われるのがオチである。つまり、「情けない専門家(あるいは当事者)が、自分達では答えが出せないから素人に対して意見を求めた」という構図にされてしまうのだ。

通常、議論に参加している以上、問う側は同時に問われる可能性に晒される。「ではあなたの意見はどういうものか」と。意見が出せないのであれば議論の場にいる意味などないのだからこの切り返しは当然である。

しかし、ネットの議論はそこらへんがよくも悪くも「平等」である(いい意味でも悪い意味でも)。

ネットでは、自分なりの解釈や意見を用意していない人間の質問も「平等」に取り扱われてしまう。

ネットにおいては議論の参加者全員で一つの結論を出すという合意が存在することは稀なのだ。だから、質問者が何の意見も持たず質問してこようが、議論が停滞しようが、痛手を被るのは真面目に問題を解決しようとした側の人間だけというわけだ。

これが特にネットの議論で悪質なシーライオニングが有効な理由である(無論、現実の議論ではシーライオニングは存在しないと言いたいわけではない)。

たとえるなら「議論ゲーム」は時間制限のない記者会見のようなものだ。「議論ゲーム」においてはシーライオニングないし問いを投げかけることはある種の戦術性を帯びるわけである(ところで、有名なネット論客である青識亜論などは質問を投げかけることを議論の軸としているらしい)。

 

3.悪質なシーライオニングの問題点。

悪質なシーライオニングは単にリスクが少ないだけではない。

ここで、東京医科大が入学試験の際に女子受験者の得点を一律に減点し、女子の合格者数を抑えていた問題を取り上げよう。

この問題について、ネットでは幾度となく「議論ゲーム」じみたことが行われていたが「そもそも女性差別とはなにか」という疑問が投げかけられることも少なくなかったというのは想像に難くない話だ。

この手の質問を投げられると問題提起者たちは「女性差別の定義」についてまず語らなければならなくなる。仮にこの質問に答えなければ「自分達の前提を疑う事の出来ない愚か者たちの議論」というレッテルを貼られてしまう可能性があるからだ。

無論「女性差別とは何か」という論点は重要だろうが、それは本来別の議論のはずだ。だが、このような議論の棲み分けこそ「あいつらは大衆に定義を説明しないまま議論をしている」という批判を生み出してしまう

そして、たとえこれに答えたとしても、「では女性差別はどこが問題なのだろうか」という新たな問いを後出しされて延々と議論が錯綜する羽目になるというわけだ。それどころか、シーライオニングにより無限に広がった論点は新たな質問者を呼び寄せてしまうことにもなる。この問題でいうと、例えば以下のような人たちが出てくる。

①「女子受験者の得点を一律に減点することは女性差別だとは思わない」という人

②「女性差別とは何かについて異論がある」という人

③「女性差別は問題ではない」という人

などなど、三つに収まるわけがないのだが、ともあれ論点が無限に増えれば、その複数の論点に対してそれぞれに異論がある複数の人間から集まってくる。

そしてその度に、問題提起側は複数の人間から質問(の形をした攻撃)を受ける羽目になる。どこか一つでも、誰か一人でも答え損ねるとそこが集中砲火を食らって炎上するという顛末になる。

質問することが問題なのではない、質問をしてくる人々が「これは問題じゃない」と言うためだけに、自ら主張することなく質問を繰り返していたのが問題なのだ。

つまり、個々の質問行為自体に悪質性があるというより、個々の質問が議論の論点を錯綜させて議論全体が無茶苦茶にされるという構図に悪質性がある。

この構図はマイノリティの議論において顕著になる。

悪質なシーライオニングが蔓延するとマイノリティ側や社会的弱者が攻撃を受けやすくなるのだ。

シーライオニングが有効なのは、それをされた側が質問に答えなければならないような状況においてのみである。

さきほど悪質なシーライオニングの質問に答えないでいると、内輪向きで独善的な議論をしているという印象操作をされる可能性があると書いたが、そういう印象操作によって一番被害を受けるのは、広く世の中の人に訴えかける必要のある人間あるいは社会の変革を求める人間である。

これは簡単で、マイノリティ側が変革を求める場合はマジョリティ側に対して話を聞いてもらう必要があるのに対して、マジョリティ側はそうではないからだ。

例えば、一部の妄信的な人間を囲ってサロンで小金儲けをすることが目的の人間には何も痛手ではない(むしろ時間も手間もかけず勝手に名前が広まるなら、彼らは喜んで炎上するだろう)。

それに対して、現状は潜在的な賛同者が少なく、これから連帯を求めて社会に訴えかける必要のある人間にとって内輪向きで独善的な議論をしているという印象論が喧伝されることはかなり痛手になりうる。なぜなら彼らにとって必要なのは少数の顧客と賛同者ではなく、その問題を知らなかった人に興味と関心を持ってもらうことだからだ。

印象論がどれだけ有害になりうるかについては、人間が知ったかぶりや先入観で人を悪く言いたがる生き物であることを考えれば済むだろう。

知ったかぶりのにわか知識で何かを批判したがる人間は誰しも一度は目にしたことがあると思うし、きっと誰しも一度は知ったかぶりのにわか知識で何かを適当に批判した経験があることだろう(他人がやっているのは見たことがあるが自分はやったことがないという人はいるだろう。多分、その人は自分について知ったかぶりをしているのだと思う)。

真面目な話に戻ろう。

悪質なシーライオニング的質問に答えなかった場合の「ペナルティ」が比較的大きいのは理解者の少ない状態でこれから社会を変える必要のある人間、連帯が必要な人間である。つまり多くの場合において悪質なシーライオニングが蔓延することは、社会的弱者やマイノリティ側で議論する人間にとって害が大きいのである。

一方、現状を変化させる必要のない者達は現状のシステムを維持すればいいだけなので質問を無視して印象論をぶつけられようが大して被害はない。というより、少数派が印象論で攻撃ばかりしていたら得られる賛同も得られなくなってしまうだろう。

このように悪質なシーライオニングが蔓延することで一番得をするのは現状肯定派であり、問題否認派であり、かつ数が多い方である。

悪質なシーライオニングが当たり前になった空間では、問題提起側は本来の議論などできるはずもなく、無限に呼び寄せられた反対者達から次々とバラバラの論点の質問を繰り返し受けて言説自体が委縮していくというのは想像に難くない。

議論の前提を無視してみせる明らかに挑発的な修辞疑問文も「素朴な疑問」として通用するようになってしまうと、知的誠実さを装いながら問題提起側を攻撃するのは容易になるだろう。

もし相手が怒りでもすれば儲けものである。「あの人たちの議論は感情的だ」という印象を与えて説得力を失墜させることも可能だろう(ところで、某ネット論客は、しばしば相手に挑発的な修辞疑問文を投げつけ怒らせることで相手の滑稽さを強調するそうである)。

「議論ゲーム」で悪質なシーライオニングが度々行われるようになると、質問者側が自由に論点を設定することに誰も疑問を抱かなくなるだろう。これは、次から次へと論点をずらし続けることで無限に質問を繰り返せることを意味する。

この時、議論は「素人目線の」「素朴な」疑問に答え続けさせる記者会見じみた様相を呈する。

この記者会見のような状況では、問題提起が相対化され訴求力を失っていく。

悪質なシーライオニングが多用されることは、疑問が持ち込まれることで論点が明らかになるというよりはむしろ議論によって得られるものの価値を毀損してしまいかねない。

ここで再度注意したいが、質問を繰り返すこと自体が悪いわけではないということだ。重要なのは、その場において何が重要な論点なのかを互いが共有しているかどうかだ。より重要な論点が見失われているというのであれば、その論点に差し戻す必要はあるだろう。

自分の意見も言わず、次々と質問をして新たな論点にずらしていき、議論の重要な論点は何かを見失わせることを誠実な議論に見せることが悪質なのだ。

日々ネット上で行われる「議論」は見かけ上は誠実に見えるかもしれない。しかし、彼らがなぜ「議論」をしたがるのか、我々はもう少し敏感になるべきなのではないだろうか。

3.1 追記

※アシカのセリフに関して訳が違うのではないかという話があるようですが、発話者の言い方によって意味に幅は出るものの"I could do without sealion"に「アシカを排除するべき」「アイカは絶滅してほしい」までの強い意味はでないかと思います(念のため在米経験のある友人何人かにも確認はしました)。意訳をしたつもりでしたが「アシカいらんくない?」「私は別にアシカいらん」の方が正確であるというのはそうかもしれません。ともあれ婦人も結構ひどいことを言いますよね(笑)。この場合、質の悪い絡み方をしたアシカに目が行くかそもそも絡まれるようなことを言った婦人に目が行くか、あるいは全く別の点に気が付くのかは漫画の解釈、読み手によって分かれるところでしょう。

※わざわざ書く必要もないと思って書かなかったのですが、この手の概念は他の概念(藁人形論法とか)と同様にレッテル貼りとして機能してしまいがちです。しかもシーライオニングの定義も未だ使用者によってブレがある状態ですから実際に使うと「お前のしてることはシーライオニングだ」「違う、真っ当な質問だ」と水掛け論になってしまうと思います。それはそれで不毛な議論になってしまうのでお互いそれには気を付けて、論点をはっきりさせて議論しましょう

※個別具体的の議論においてテクニックとして修辞疑問を使うのが悪いと言いたいわけではないのですが、読解力のない人には分からなかったようです。むしろ修辞疑問を使うことで論点がはっきりする、より効果的反論になるという場合は多くあると思います。あくまで無限に論点がズレていく議論が正しいかのような風潮は望ましくないんじゃないかという話です。

 4.【関連記事&参考文献】

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議論学への招待―建設的なコミュニケーションのために

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