京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

恋愛ができない非モテのこじらせはなぜ辛いのか?

0.前置き

※今回は書いていて色々と思うところがあったためです・ます調で書いてます。

1.恋愛ができないことの辛さとは何か。

恋愛についての悩みは古今東西問わずある程度の人に共通する悩みと言えるでしょう。

想いの人と結ばれない悲恋の物語は古典から存在します。

しかし、恋愛ができないことや「非モテ」であることが問題であるように語られるのはある程度時代が進んでからでしょう。

中には恋愛ができないことで人生のほとんどの意味を失っているよう語る人もいるのではないでしょうか。今この文章を読んでいる人の中にも恋愛ができないことに悩んだりする人もいるでしょうし、たとえ自分がそうでなくても身の回りで恋愛ができないことで卑屈になってしまう人を目にする人もいるでしょう。

現在私たちの生きる社会では、自虐めいたものから深刻な悩みまで、恋愛ができないことや「非モテ」であることは自信を失う大きな原因であると当然のように語られています。

もちろん、恋愛ができない以外にも「非モテ」であることの辛さは存在するかと思いますが、今回は恋愛ができないことの辛さに焦点を絞って話を進めたいと思います。

しかし、なぜ恋愛ができないことは辛いこととして語られるのでしょうか。

よく「非モテ」が辛い原因の説明として、「異性にモテなければ一人前ではない」という社会的な規範が同調圧力となって「非モテ」を追い詰めているのだという説があります。

モテない人間、恋愛がまともにできない人間はまともじゃないという周囲の視線があるから「非モテ」は辛いんだ、という説明です。

もちろん、そういう規範意識による辛さもあるとは思いますが、そもそも恋愛ができないことにも辛さの原因はあるように感じます

どういうことかというと、「非モテ」の辛さは恋愛に対する過剰な期待によって引き起こされているものもあるのではないかということです。

実際に、恋愛を「お金で買えない」特別で神秘的なものに見立てようとする人はいます。

今の世の中、広告メディアや様々なコンテンツ含め日常のあらゆるところで、恋愛が「お金で買えない」特別な価値を持っているものであるように喧伝されてしまっているからです。

各種メディアやコンテンツが人々の欲望を作り出すわけですね。

メディアが人々の欲望を作り出す例と言えばクリスマスなんかは分かりやすいですね。

クリスマスは元はといえば宗教イベントなので、本来恋人と過ごすイベントではないはずですが、メディアではクリスマスを恋人と過ごすイベントとして扱いがちですね。

また、クリスマスデートといえばラブコメ作品や恋愛ゲームなどにおいては欠かせないお約束イベントです。

そういう人々が憧れたり欲しがったりようなものを描くのがエンタメコンテンツの仕事であり、だからコスプレだったり聖地巡礼が流行るわけです。でも、最近はそこら辺のことについて意識している人が減っているような感じもしますね。

さて、恋愛の話に戻ると、恋愛はやたらと「お金で買えない」特別な価値があるものとして扱われがちです。そこに、自分の人生に「お金で買えない価値」を与えたいという願望が差し込まれるわけですね。

実際、私たちの身の回りにある恋愛の物語では、お金目当てで恋愛することはいけないことで本当の恋愛関係はお金では買えない関係であると強調されることがよくあります。

また、恋愛ものではよく「他の誰かではなく、その人でないとダメ」というような関係が望ましいかのように描かれます。

つまり、恋愛関係は、財産や地位などではなく、お互いにある固有の価値を認め合う特別強い関係であるという風に描かれることが多いわけです。

恋愛関係が「お金で買えない」ことでその恋愛関係が特別な価値を持っているように描かれるのです。

恋愛ができないことの辛さは、そういう「お金で買えない価値」が手に入らないことによる辛さもあるように見えます。

2.「お金で買えないかけがえのない価値」とは何か。

ではなぜ私たちは「お金で買えない価値」にこだわってしまうのでしょうか。

その前に、そもそも「お金で買えないかけがえのない価値」とは何かについて考えてみましょう。

まずごく単純な事実としてこの世には「お金で買えないもの」「お金で取引されていないもの」があります。

「〇〇はお金で買えない」とはよく言われますが、もっと単純な例で言えばプレゼントがそれに該当するかもしれません。

例えば私たちはプレゼントの代わりに、お金を渡したりはしないでしょう(あるいは渡したとしてもそれをプレゼントとは呼びません)。

プレゼントを選んでその人に渡す行為に意味があると思っているからです。

利益だけを考えるなら、その人が買いたいものを買えるだけのお金を渡すのが何よりその人にとっての利益になる可能性が高いです。

それでも我々がプレゼントや贈り物を贈り合うのは、プレゼントや贈り物を贈る行為そのものにそうした利益以上の意味があると考えられているからでしょう。

現在の生活で私たちはお金と物やサービスなどの商品を交換して生きています。

言い換えれば私たちの生活の基本はお金と商品の等価交換によって成り立っています。無形有形問わず、この世界の大抵のものはお金との交換で移動していくと言っていいでしょう。

しかし、プレゼントのように、私たちは世の中に存在する価値の全てがお金と商品の交換だけで生まれるわけではないことも知っています。

他人からの親切であったり、親愛の情であったり、等価交換以外の形式で何かが誰かから「贈られた」と感じられることがあります。

ここで重要なのは「本当に大切なものはお金では買えない」と多くの人が考えているということです。

少しひねくれた言い方に変えれば、私たちは「お金では買えないもの」をかけがえのない価値のように錯覚したり、そうした大切なものがどこかにあってほしいと願う生き物であると言えるかもしれません。

どうして「お金では買えないもの」に真の価値があると思えてしまうのかと言えば、お金で買える価値=値段の付いている価値は比較されてしまうからでしょう。

同じアクセサリーでも2千円のものと5万円のものでは5万円のものの方が価値があるように感じられますが、5万円のものと300万円のものでは300万円のものの方が価値が高いように感じてしまいますね。

必ずしも値段が質を保証するわけではないですが、値段という数字がついてしまうともうどんなに高い値段がつけられようが、それよりも高い値段のものが現れればその価値は相対的に低く見られてしまいます。

売るために作られたわけではない芸術品の価値さえも「値段はいくらするのか」みたいな話でその価値を語る人はいますよね。

もちろん、分かりやすいからそうしているのでしょうが、値段で価値を測るのが分かりやすいと感じられてしまう例です。

さて、どうせなら価値の高いものを選ぶのが人間です。

価値の低いものはやがて捨てられていきます。また、一旦価値の高いものとして選ばれたとしても、より価値が高いものが現れれば皆そちらに行きます。

スマホや家電なんかは型が古くなると値段が安くなりますし、最新のものは人気で値段も高いですよね。

値段は他のものとの比較で決まるので、値段が付くような価値は変動します。

どんなに高かった品物でも新商品や新モデルが出れば安くなっていきます。

市場での価値は常に相対的なので絶対的な価値をもつことができません。お金で買える価値は不安定で、比較対象が変われば霞んでしまう価値なわけです。

そして私たちは値段がいくらかというような相対的な価値ではなく、他のものと比較できない絶対的な価値にこそ真の価値があると思ってしまいます。

多くの人は自分の人生が値段など付けられない、絶対的な価値あるものだと信じたいことでしょう。

人生の価値が値段で測られること、自分の人生の価値が常に誰かの人生との比較の上で測られることを私たちは恐れます。

もっと言えば、値段で価値を測り比較することに慣れてしまった私たち自身によって、自分の人生と誰かの人生を比較してしまうことが一番恐ろしいのではないでしょうか。それは、自分自身が自分の人生をいらないと感じてしまうこと、あるいは自分の人生に自分がいらないと思えてしまうことへの恐怖です。

少なくない人が、自分自身や自分の人生が必要なくなってしまうことを恐れ、少なくとも自分にとっては価値のあるものだと思いたいはずです。

それは実存の問題であるとともに、必要のないものや価値のないものは捨てるべきという考えが染みついた精神の問題でもあります。

必要のないものは捨てるべきだという話は物品だけに限らないからです。

仕事や勉強においても、効率化という言葉で私たちはいらない作業を極力減らそうとします。

というより、そうやっていらないものを減らして効率化していくことこそ現代の資本主義の精神だとも言えます。

現代は、大量生産大量消費の時代と言われますが、それと同時に大量廃棄の時代でもあります。

いらないもの、価値の低いものは捨てられるべきという精神が時代の根底にあり、私たちは少なからずそれに縛られて生きているわけです。

また、「効率」という言葉が多くの人を虜にするように、私達は無駄を省き必要のないものを捨てる快楽を知ってしまっています。むしろ、その効率化の快楽、いらないものを捨てる快楽を知ることが、社会に適合する上である程度必要なものとすら言えるのではないでしょうか。

直接の関係はありませんが、社会に適合できなくなった人たちが物を捨てられなくなっていくのはある意味で示唆的です。

物を捨てられない人というのは昔からいますが、彼らを見ていると、いらないものが分からなくて捨てられないわけではなく、いらないものが捨てられてしまうことに対する抵抗感があるようにも見えます(もちろん全員というわけではないですが)。

私たちは、価値が低いものは捨てられるのが当然という世界で生きています。私たちは何かをより良くしようとする時に、効率化だったり利益最大化であったり、とにかく無駄で価値のないものを省くためにどうすればいいのかを考えがちです。

そんな状況で、自分自身や自分の人生がいらないと感じながら生きることを矛盾だと感じ、それを抱えて苦しむ人はいるでしょう。

だから、自分の価値について不安に思った人々は自分の人生に何かしらの形で絶対的な価値を与えたがります。

絶対的な価値を与えてしまえばもう「捨てる」ことに怯える必要はないからです。もちろん、自分について不安を感じない人も多くいるでしょうが今回はその話は置いておいて不安に感じる人の話に絞りましょう。

不安に陥った人々は、誰かとの比較されて価値が低いものと見なされたくはない、あるいは自分でそう思いたくはないと考えます。

だから、自分の人生には比較ではない=お金で買えない価値のあるものだと信じたがります。またそう信じさせてくれるものへすがります。

そして、そう信じさせてくれるものの典型の一つとして「恋愛」が存在するわけです。

なぜなら、恋愛関係にはお金では買えない唯一の価値があると信じられているからです。

恋愛ができないことのつらさには、「恋愛ができない=自分の人生に価値がない」と感じられてしまうつらさもあるのではないでしょうか。

3.解決手段としての恋愛

実際、「恋愛」に過剰な期待を抱いてしまうのは無理もないことかもしれません(適度な期待とは何かという話は置いておいて……)。

私たちの身の回りには打算を伴わない愛のすばらしさを説くドラマが溢れ、愛はお金で買うことのできない本当に価値あるものかのように演出されています。

たとえば、物語で恋のライバルが金持ちだったりするのは、恋にはお金で測れない価値があると強調するためでしょう。恋愛の相手がお金持ちの場合は、愛のためならお金なんてどうでもいいという話が必ずと言っていいほど挟まってきたりします。

お金持ちだから愛されるという話にロマンを感じる人は多くないでしょう。

お金では買えない純愛的な恋愛関係だったり、打算などない無償の愛が大切だという物語はやはり人気です。

何でもかんでも比較で価値を付けてしまう世の中で、純愛だけは自分だけの価値を見出せそうな感じがします。

それがもっと進むと、相手から恋愛対象として見られることは、自分が唯一の価値を持っていると認めてもらえることのように感じる人がでてきてもおかしくありません。

つまり、恋愛対象として見られることで自分が誰とも交換できない(=捨てられない)価値を持った人間であるように感じる人がいるんじゃないかという話です。だからこそ、恋愛のストーリーにおいて「君じゃないとダメ」「他の誰かじゃなくあなたがいい」という愛のメッセージの需要があるのだとも言えます。

いわゆる「非モテ」の中には自分が恋愛対象として見られないことを自分の絶望の根源であるかのように語る人間がいますが、おそらくこういうことではないかと私は思っています(まぁ、だからなんだという話ではありますが……)。

そういう意味では、「非モテ」の問題はよく言われるように性欲だけの問題ではないとも言えます(性の体験だけなら風俗などでも買えますが、さっきも言ったように買えるものでは意味がないからです)。

勿論、だからと言って「恋愛」がお金で買えない価値、つまり交換不可能な価値を保証してくれるとは限りません。

突き詰めて考えてしまうと、どんな純愛だろうと限界はあります。

なぜなら、純愛に固執しすぎると「『君じゃないとダメ』『他の誰かじゃなくあなたがいい』と言ってくれる人なら誰でもいい」というような状態になりかねないからです。

すなわち「愛してくれるなら誰でもいい」という状態です。実際こういうことを言ってる「非モテ」な人を私は見たことがあります。もちろんこれは一部であり、こじらせると必ず同じように純愛に固執するようになるわけではないですが。

結果として人間関係が発展し純愛が生まれるのではなく、最初から目的として純愛目当てになってしまうとこうなるわけです。

そして一旦自分がそういう状態になると、そういう人間は決まって相手を疑い始めます。

つまり、「俺(私)じゃなくても、純愛っぽいことができれば誰でも良かったんじゃないか?」という疑念に憑りつかれ始めます(実際にこういうことを言っている「非モテ」を以下略)。

問題の根源は、自己のかけがえのなさの問題がすべてを恋愛によって解決できると思い込まされていることでしょう。

実際は、恋愛はそれほど万能でもなく、これらの問題を解決するための必要条件でもなければ十分条件でもありません。

恋愛をしていても依然としてこれらの問題が解決しない人はいますし、恋愛などしていなくてもこれらが問題にならない人間もいるからです。

4.生きづらさのありか。

今回は恋愛の話でしたが、恋愛だけでなく、家族の物語、友情の物語などでも似たような現象はあると思います。

自分のかけがえのない価値を得るためにかけがえのない家族やかけがえのない友情が必要だと考える人は実際にいます。『ワンピース』みたいに疑似家族的な仲間の絆の話は昔からコンテンツとしてかなり人気で、定期的に流行っては消えてを繰り返してますね。

人によってどの物語にどれだけ説得力を感じるかは差があることでしょう。

私の話で申し訳ないですが、家族や友達関係であまりうまくいってなかった昔の私にとっては家族の物語や友情の物語はうさんくさいものでした。その点恋愛はあまり身近な出来事ではなかったため、ロマンティックな妄想を好きなだけ抱けたというのはありました。

ここで話を戻しますが、重要なのは問題の所在です。

「恋愛も、友情も、家族も、今のコンテンツで描かれているのは嘘っぱちだ。全て幻想にすぎない」と切って捨てることは簡単ですし、この手の話は昔からよくされていました。

しかし、昔から何度もそう言われているにも関わらず現状は変わっていません。

というより、その手の指摘がされるたびにコンテンツ側がそれに適応していっていると言えるでしょう。

たとえば、物語の中で登場人物の誰かに「所詮美しい愛なんて幻想で~」みたいに喋らせたりするのがそれです。

家族の絆の話なら、一応家族の抱える問題のようなものを描いて説得力があるようにしてしまう。

「この作品は単純な綺麗ごとや幻想だけでできてるのではなくちゃんと現実見てますよ」って感じにするわけですね。

そうするとコンテンツを消費する側も乗りやすいわけです。「この手の話が幻想だって言うのは分かってるよ。分かった上で面白いから見てるんだよ」という具合に。

でも、問題は幻想だって分かってるのになんでそれを消費したくなるのかということなわけなんですよね。

そうした幻想の中に真実があるじゃないか、現実の中にもフィクションのような美しい愛があるんじゃないかという期待がなければその物語はそこまで消費されるようにならないでしょう。

「そんなものないって分かってるけど……」と言いつつそれがどこかにあって欲しいと望むというのはよくあることだと思います。

ところで、現実にありそうな問題を描写する際に重要なのは、他の部分は現実味を失くしておくことです。

コンテンツ産業にありがちな傾向として、現実っぽい世界で、現実にいそうな人間たちが、現実にありそうな問題と直面するという話はあんまりウケがよくありません。

「この作品に描かれているのは真実です」という顔をした作品はなんか胡散臭いわけですね。そういうノンフィクションじみたもののリアリティよりも、フィクションの中にあるリアリティの方が真実っぽく見えてしまうんですね。なんでみんな「アニメ名言集」みたいなのが好きなのかという話です。

現実にありそうな問題を描きたいなら、世界観か人物のどちらかを現実離れさせておいて、現実にありそうな問題を描く場面で急に真に迫るように描くという方が、消費者は本物っぽいという印象を受けやすいのでしょう。家族愛がテーマの『CLANNAD』とかはキャラクターがリアリティないですし、全く別ジャンルですが『龍が如く』とかもそうですよね。

さて、そうなると問題の所在は、メディアやコンテンツで生産されている「お金で買えない価値」に纏わる幻想に縋りたくなってしまうような私たちの心理にあるのではないかと思えます。

つまり、私たちの身の回りで「お金で買えない大切なもの」がどんどん居場所を失っているんじゃないかということです。

いわば、現代は「お金で買えないかけがえのない価値」が信頼を失っている時代であり、人々が自分の人生のかけがえのなさの感覚を喪失しやすく、そのためコンテンツの提供する幻想に縋るしかなくなっているとも言えると思います。

そもそも、私たちが生きる資本主義社会は「全てのものは交換できる」という思想が根底に存在します

「お金で買えない価値」もお金で買えるようにしていくのが資本主義の社会だからです。

あらゆるものはサービスを含む商品に転換されていきます。

しかし皮肉にも、私たちが「お金で買えない価値」を切望すればするほど、それがとてつもなく高い商品価値を持っていきます。

今や私たちは「お金で買えない価値」について描かれたエンターテインメントや物語をお金との交換によって手に入れているわけですから。

少なくとも「お金で買えない価値」があると信じさせてくれるものが商品として高い価値を持つ程度に私たちは「お金で買えない価値」を求めています。

それくらい私たちは「お金で買えないものの価値」を切望しながら、同時に実在性を信じられなくなってしまっています。

あらゆるものはどんどんサービスに取って代わられ、大体のものはお金を払えば手に入るものになっていきます。

そうやってお金で手に入るようなものが増えると、「お金で買えないもの」がどこにあるのかどんどん見えなくなっていきます。

身の回りにサービスとしてありふれ過ぎているせいで他人がしてくれたことに特別感が感じられなくなるわけですね。

他人からのプレゼントの値段を知りたくない人もいますよね。

それと同じで「これはだいたい~円くらいだな……」と分かってしまうと途端にそれがつまらないものに感じてしまいませんか。

お金で買えるものが増えると「お金で買えないもの」に求めるハードルはどんどん高くなるわけです。

どんどんハードルが高くなると、身の回りに「お金で買えないもの」はどこにでもあるものではなく神秘的で貴重なもので自分の周りには存在しないような気さえしてきます。

言い換えると、それが現実にあって欲しいと思っていてもいざ目の前に現れるとそれが信用できなくなるというアレです。

人から愛されたいと願っている人が他人からの好意を信じられないなんていうのはよくある話ですね。

先ほどのプレゼントの例で説明しましょう。

先ほどの説明ではプレゼントはそれが贈られることに意味や価値を感じるというような話をしましたが、疑問に思った人もいるのではないかと思います。

同じプレゼントでも無味乾燥で何も感じないようなプレゼントも存在するからです。

極端な例を挙げましょう。

例えばプレゼントをもらっても「この人はこうして恩を売っておいて後で自分に何か要求してくるのではないか」とか「この人は単に礼儀でこうしているだけで、お返しをしないときっと怒るだろう」とかその人の打算的感情が気になってあんまりありがたさを感じないこともあるはずです。

確かに、世の中には打算的な人間はいますし、「人脈」という資源としてしか人を見ていないような人も存在します。というより、どんな人間も少なからず打算的な感情は存在します。

本来多少の打算が混じることはプレゼントの価値にとってそこまで重要な損失ではありません。

しかし、中には世の中の全ての人が打算的な人間に感じてしまって、他人からの善意や気まぐれの親切を上手く信じることができなくなっている人もいます。

つまり、人から受けた恩に対して、常に「何かしらの打算があるはず」と疑わずにはいられないようなパラノイアの世界に囚われてしまうのです。

あって欲しいと思っているのに、目の前のそれが打算でないか病的なまでに気になってしまうということです。

あらゆるものがサービスなどの商品になり交換が効率化されていく現状で、人からの贈与を上手く信じることができない人がいます。そこまででなくとも他人から何かを与えられた際、負い目を抱くより先にまずその人の計算や打算的心情を疑ってしまう人はいると思います。

そうした人々が計算や打算でないかけがえのない人間関係に飢えているのではないでしょうか。

そうした人々は家族、親友、恋人などの関係性が何よりも得難く「お金では買えない」関係性であると強調する物語を好みます。

もちろん、個々人が何が一番「お金で買えない」関係性であると感じるかには個人差があるでしょう。

場合によっては今挙げたどの関係性も「お金で買え」てしまうと感じられる人もいるでしょう。最近ではレンタル彼女・彼氏なんてサービスもありますからデート体験もある程度買えるようになりましたね(その分"真実の愛"みたいなものに対する憧れは増したとも言えますが)。

こう考えると、生きづらさの根源は過剰に徹底された等価交換の形式にあるとも言えます。

お金と商品の等価交換の形式が根底にあるせいで、私たちは交換されるものの価値以外を上手く感じ取ることができなくなっているのではないでしょうか。

さて、具体的な解決策についてなんて到底ブログで扱えるものではありませんので、今回の話は問題の所在を示して終わりとさせてください。

交換の形式についてはまた別の機会で触れることにしましょう。

【関連記事】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

5.今回の内容に関連する参考書籍

 (↑お金で買えるものが増えたことによる弊害を事例付きで紹介してくれるサンデル本。サンデルが嫌いな人も事例集として一度見てみては?)

 (↑巷で話題の本。サンデルと同じく、「お金で買えないもの」=「贈与」の問題について現代社会の問題を指摘する。後半になるにつれ論点が散漫になっているものの、序盤の切り口はわりと刺激的かもしれない。)

電波男

電波男

  • 作者:本田 透
  • 発売日: 2005/03/12
  • メディア: 単行本
 

 (↑言わずと知れた伝説の問題作。純愛にしか救いを見出せなかった末期こじらせオタクの思考は現代の「非モテ」達にどれだけ通ずるものがあるのか)

〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み

〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み

  • 作者:仲正 昌樹
  • 発売日: 2010/03/02
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 (↑なぜ人はリア充固執するのかという話。そこまで本格的な話はしていないため、不満がある人も?)

承認をめぐる病

承認をめぐる病

 

 (なぜ人は承認されたがるのか、その不安について全く違う視点から考えたい人へ。もちろん斎藤氏の精神分析の話に信用が置けるかはまた別の話として)

 (↑ちょっと話はズレますが、メンヘラを語るためには避けて通れないと言う人も)