京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

科学で証明できないこと~科学哲学入門~

はじめに

科学に対するよくある勘違いは、科学は事実やデータといった科学的根拠に基づき何が正しいかを証明する学問だというものだ。

実際、「お前の意見は事実やデータがない間違った意見だ」という批判や「お前の言っていることは科学的に証明されていない仮説に過ぎない」という批判はよく見られる。

このような批判の根本には科学的根拠がある=科学的に証明されているという誤解が存在する。

今回は科学と事実(あるいはデータ)の関係について整理しながら、科学に関する一般的誤解について書いていく。

1.事実やデータによって科学理論は証明できるか?

科学に対する一般的な誤解はおよそ次のように要約することができる。

「科学は緻密な観察に基づいて、確実な事実から正しい理論を導き出す」

この科学観の一つ目の問題点は論理的な問題だ。

例えば、金属の熱膨張について次のような主張がされたとしよう。

【法則】

全ての金属は熱を加えると膨張する。

【事実による証明】

金属Aは熱を加えると膨張する。

金属Bは熱を加えると膨張する。

金属Cは熱を加えると膨張する。

金属Dは……(以降、様々な金属で試す)

金属Ωは熱を加えると膨張する。

【結論】

⇒よってこの法則は正しい。

 

確かに金属が熱膨張するというのは科学的には概ね正しい。

しかし、この証明は論理的には正しいと言えない。

事実によって法則を証明しようとする時、未来まで含む全ての事実を観測することができない。

100億回それが観測されたからと言って、100億1回目には法則を否定する結果が得られるかもしれない。

科学は一部の事実から全てに当てはまる法則を立てるしかない。

しかし、実際には有限回しか確認していないのだから、未来永劫無限回繰り返しても正しいとは言えないのだ。

よって、検証される法則が永遠普遍で絶対に正しい法則であるかどうかは論理的に証明できない。

科学的に正しいことと論理的に正しいこととは違う。

また、科学的正しさは数学的な正しさとも違うと言える。

1000兆回の事実の観測によってある法則が検証された時、数学的にその法則が正しいと言える確率は1000兆回を無限で割った確率になる。観測された回数が1000兆回であるのに対して、法則は無限回適用可能なものでなければならないからだ。

そうなると、ある法則が正しい確率は1000兆÷∞なので0と等しくなってしまう。しかしこれはナンセンスなジョークのようなものだろう(洗練されたベイズ主義的な考えにまで発展させるのであれば別だが)。

ちなみに、念のため金属膨張に関して補足するとインバー合金はほとんど熱膨張しない。

2.そもそも科学にとって事実とは何か?

問題点の二つ目はそもそも科学的事実とは何か? という点にある。

「理論は誤るかもしれない。しかし、事実は確実だ」

そう考える人がいるかもしれないが、それも誤りだ。

第一に、事実がどのように認識されるかは背景理論によって大きく変わってしまうからだ。

例えば、ある地域の生態系について研究する時、何も知らない素人より熟練の生態学者の方がはるかに多くの「事実」について記述する能力があることは疑う余地もない。生態学者は生態についてのより詳細な概念図式、すなわち「理論」に基づいた知識を持っているからである。

知識がない者は、そもそも自分が何を観測しているのか正確に把握することができない。また、何が観測すべき「事実」なのかすら理解できない。

理論と事実の関係について野家啓一は次のように説明する。

一枚の顕微鏡写真のなかに染色体を見いだし、霧箱写真から素粒子の種類を同定することは高度な理論的作業であり、生物学や物理学の理論を知らない素人にできることではない。観察とは単なる「感覚与件」の受容にとどまるものではなく、理論的文脈の中で「事実」を構成する作業なのである。

(『パラダイムとは何か』野家啓一 P150)

科学的事実というものは理論によって「事実」として構成されたものだ。

現在では「事実」として認識されるものでも、当時の理論からしてみれば「予言」としか思われていなかったものもある。

イギリスの物理学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルが、かの有名なマクスウェル方程式と共に電磁波の存在を示唆した時、電磁波は当時の理論から考えて「事実」ではなく大胆な「予言」でしかなかった。しかし、彼の理論が認められた現在においては電磁波は「予言」ではなく「事実」となっている。

また、「事実」だと思われていたものが新たな理論の登場により「事実」でなくなってしまうことも起こりうる。

マクスウェルの理論の話の続きをしよう。

マクスウェルは、電磁波の存在を「予言」したものの、マイケル・ファラデーの考えを継承し、電気と磁気の状態を偏在するエーテルの力学的状態であると解釈していた。その結果、当時の科学者たちは電磁波の発見を、エーテルの存在が「事実」である確証だと解釈することができた。しかし、その二十年後、アインシュタイン特殊相対性理論の登場により、エーテルはもはや「事実」として扱われなくなる。

(このマクスウェルの話については、『改訂新版 科学論の展開』のP117とP52にも書いてある)。

科学の歴史の話ではピンと来ない人がいるかもしれないので、理論が科学的事実を構成するもう一つの例としてシャルルの法則を挙げよう。

シャルルの法則は、一定圧力下における一定量の気体の体積は絶対温度に比例するというものだ。

ただし、この法則は理想気体(実在しない想像上の気体)に対して成り立つ法則で、現実でこれを確かめようとしても実在気体では不一致が生じる。

この不一致は「誤差」として無視される。

科学においては現実にはない理論上のものを基準に、理論と一致しない事実を「誤差」として無視することはおかしなことではない。

言い換えれば科学では、理論によって「認められた事実」もあれば、理論によって「無視される事実」もあるということだ。

これは、社会科学の領域においても同じだ。

統計データから読まれる「事実」というものは、どのような社会理論によって解釈するかで変わってくる。

何が「事実」と認識されるのかについては、その時代の(誤っているかもしれない)理論が深く影響する。そして理論が更新されるものである以上、それによって「事実」も更新されていく。

第二の問題として、認識される「事実」は理論だけではなく観測する際の条件にも依存するということもある。

ドイツの物理学者ハインリヒ・ヘルツは、一連の実験で陰極線が荷電粒子の放射であった場合に予想されていた偏向をしなかったことから、陰極線は荷電粒子の放射ではなく波動であると結論付けた。

しかし後にヘルツの結論は誤りであり、彼の実験は不十分であったとみなされている。ヘルツが結論を誤ってしまったのは、ガラス管が完全には真空になっていなかったことに起因する。

この誤りについて、ヘルツの落ち度ではないことをチャルマーズは次のように説明する。

ヘルツの実験状況に関する理解と当時利用可能であった知識によれば、彼の装置の気圧は十分に低く、装置は適切に配置されていたと信じるだけの十分な理由があった。ただ、その後の理論的・技術的進歩を踏まえることで、彼の実験が不完全だとみなされるようになったのである。ここから得る教訓は、将来の進歩によって現代におけるどの実験結果が不完全とみなされるかなど誰にもわからない、ということである。

(『改訂新版 科学論の展開』A.F.チャルマーズ P48)

精度の低い実験では、誤った「事実」が認識されてしまう。

それを避けるためには「より好ましい」環境と条件で観測する必要があるが、ここに問題がある。

観測結果を狂わせるような様々な要因や作用が理論から予測不能なものである場合、私たちは「より好ましい条件」を知ることはできないのだ。

何が「より好ましい条件」かは理論から想定されたものでしかない。

もちろん、何がどうでもいい条件かも理論から想定されたものでしかない。

ある実験の再現可能性を確認するためには同じ条件で観測する必要があると言われるが、厳密に同じ条件でなくともよい。

1999年12月31日11時59分に行われた実験を本当の意味で再現するならタイムマシンが必要になるがそんな必要はない。実験器具も製造番号まで同じもの揃える必要はないし、実験室のデザインや観測する人間の性格や服装も同じ条件にする必要はない。

これらの条件を揃える必要がないのは、これらの条件が重要だと示す理論がないからだ。

しかし、私たちの信じる理論が間違っている可能性も排除できない。

事実、ヘルツが誤った結論に至ったのは当時の理論による予測が誤っていたからだった。

私たちは広大な宇宙の力場の条件まで同一にすることなどできないが、それが重要な条件でないと言えるのはなぜかについて完全な形で論証することはできない。

ここまで考えると、観測によって得られる科学的「事実」であっても、理論が不完全である以上修正されうるものであると言える。

科学の進歩によって事実だと思われていたことが「見せかけの事実」となり、「新たな事実」が発見されてきた歴史を考えても、確実に正しい「事実」があるとは言えない。

さて、ここまでの科学と事実の関係について整理したい。

まず、確実な事実やデータがあっても理論が完全に正しいとは証明できない。

n回観測された現象も、n+1回目には違う結果がでるかもしれない。

第二に、何が「事実」かは理論によって解釈される。理論によって「誤差」として無視される事実も存在する。ある意味で理論は「事実」を都合よく取捨選択できる。

最後に、「事実」は「より好ましい条件」の元で観測される必要があるが、「より好ましい条件」が理論から予想される以上、理論と同様に「事実」も可謬である。

以上により、根拠として多くの「事実」やデータを挙げたとしても、理論が間違っている可能性は排除できない。

カール・ポパーが『確定性の世界』の中で「特定の理論が絶対に正しいことを証明する方法論は存在しない」と述べている通り、科学的証明という言葉はナンセンスでしかない

3.事実・データと検証の関係

事実と科学に関することでもう一つ確認しておく必要があるのは、事実を指摘しても仮説の過ちが認められるとは限らないということだ。

動かない事実を突きつけることで必ず理論の根本的な見直しがされるという考えは誤っている。

いわゆるデュエムクワインテーゼである。

これが一体どういうことかについて、ラカトシュはある物語を提示する。

この物語は、惑星の軌道のズレに関する空想上の物語である。アインシュタイン以前の時代の物理学者を考えることにする。そのような物理学者が、ニュートン力学万有引力の法則、およびある受容されている初期条件を使って、新しく発見された小さな惑星Pの軌道を計算した。このとき、計算された軌道から惑星がズレていたとしよう。このズレはニュートンの理論からは起こり得ないものであり、そのズレが正しければニュートンの理論は反駁されることになる、というように物理学者は考えるであろうか。いや違うであろう。物理学者は、まだ知られていない惑星Yが存在していて惑星Pの軌道が計算値からズレたのだ、とまず最初に考えるであろう。物理学者は、この仮定された惑星の質量や軌道などを計算し、観測者にこの仮説をテストするように求める。(中略)しかし実際にはそうではなかったとしよう。では物理学者はニュートン理論や新しい未知の惑星という考えを捨てるであろうか。いや違う。次に物理学者は宇宙塵の雲によって惑星が見えなくなっていると考えるであろう。(中略)しかしながら宇宙塵の雲もまた発見されなかったとしよう。では物理学者は、未知の新惑星とそれを隠している宇宙塵の雲という考えとともに、ニュートン理論を廃棄するであろうか。いや違う。次に物理学者は宇宙塵の雲の近くの領域に人工衛星の機器を狂わす磁場があると考える。新しい人工衛星が打ち上げられる。もし磁場が発見されれば、ニュートンの理論はすばらしい成功を納めることになる。しかしそうはならなかったとしよう。このことはニュートンの理論の反証と見なされるであろうか。いやそうではない。また何らかの独創的な補助仮説が提案され……。

(『批判と知識の成長』P144-P145)

この例が示すのは、理論の支持者が理論を固持したいと考えるなら、反証が出てきたとしても補助仮説を訂正することで、どんな反証であっても否認することができてしまうということだ。

勿論、補助仮説という概念は科学において特異な概念ではない。

特に、心理学などにおいては仮説の検証実験で結果が得られなかった時には補助仮説が間違っていないかについて考えるのが通例である。

こうした「後付けの変更」について伊勢田氏は次のように語る。

後付けのつじつまあわせは科学でも日常的に行われている手続きである。たとえば、暗黙の補助仮説である「実験者は誠実かつ有能である」とか「実験装置が上手く機能している」とかいうのは、実験が予期した通りの結果にならなかったときに真っ先に疑われるだろう。

(『疑似科学と科学の哲学』伊勢田 哲治 P54)

つまり、理論による予測とは違う結果が出ても、実験手順や実験装置の不備として片づけられてしまうことが多々あるということだ。そうでなければ学生が実験を行う教室では日夜膨大な数の反証が生まれてしまうことになる。

学生の行った実験で理論と違う結果が出ようとも、担当教員が「実験者は誠実かつ有能である」という補助仮説の方を疑うだろうことは容易に想像できる。

科学においては理論と反する事実があっても、理論が撤回されるとは限らないのだ。

また、社会科学の分野となると問題はさらに厄介になる。

なぜなら、現実社会では様々な要因が複雑に作用しあっているからだ。

同じ歴史は二度繰り返すことはできない以上、様々な要因による作用は常に変化する。

社会実験をしようにも、結果を左右する他の要因を排除することができない。そのため、実験結果は常にバイアスのかかったものとならざるをえない(以下参考)。

幸か不幸か、我々は事実やデータによって理論が誤っていることは証明できない。

もちろん、事実やデータによる反証があるからといって理論を撤回しなければならないわけでもない。

先ほども見た通り、科学的「事実」も訂正されうるものだからだ。

科学の営みは、反証が存在しても理論を固持することを否定しない。

反証主義を唱えたカール・ポパーでさえ、たとえ反証があったとしても科学者が自身の独断で理論に固執することを許容している。

私は何らかの独断主義の必要性をつねに強調してきた。すなわち、独断的な科学者は果たすべき重要な役割をもっている。あまりにも安易に批判主義的になると、理論の本当の力がどこにあるのかを見つけ出すことは絶対にないであろう。

(『通常科学とその危険』カール・ポパー 訳は『批判と知識の成長』を参照)

科学理論は、事実やデータではなく、(しばしば根拠を欠いた)新たな仮説の登場によって転換してきた。

現行の仮説を否定できるのは、代替となる新たな仮説だけだからだ。

科学の領域は、仮説を検証し仮説同士を比較検討する場であり、科学は新たな仮説の登場によって進化していく。

科学理論の正しさを完全に証明することが不可能である以上、私たちは仮説だらけの世界を生きていると言っていい。

4.「それってあなたの感想ですよね」「なんかそういうデータあるんですか?」

私たちの社会には、「お前の言っていることは科学的に証明されていない仮説に過ぎない」とか「事実やデータがない間違った意見だ」と言った批判が溢れているが、この手の批判はあまり良くないということが分かるのではないだろうか。

かの有名な「それってあなたの感想ですよね」「なんかそういうデータあるんですか?」というミームも、この手の批判の類型だ。

社会について何かしらの見方を提示した際に、それが証明されていない仮説に過ぎないと声高に指摘する批判も散見される。

しかし、見てきたように科学の世界であっても永遠に正しいと言える真理は提示されず、比較的現在まで有力とされる説のみが存在する。

社会科学も同様に、確実に証明された理論というものは存在しない。今現在正しいとされる理論さえ一種の仮説に過ぎない。

今現在正しいとされる理論が将来には否定される可能性を、科学は決して否定できない。

また、しばしばその時代の「事実」と相反する新たな仮説の登場によって科学は更新されてきた。

新たな仮説が登場して初めて、既存の仮説が検証される。

そして、新たな仮説の登場に応じて当たり前と思われていた「事実」が訂正され「新たな事実」が発見されていく。

時には「事実」やデータに反した仮説の登場は重要になるし、科学はそれを否定しない。

仮に民主主義の議論の一部が科学的検証を必要とするものであったとしても、そこは仮説と仮説を戦わせる場のはずだ。

事実やデータがないことも、科学的に証明されていない仮説であることも、どちらも問題だと言い切れない。それは今まで見てきた通り、以下の理由からだ。

・証明されていない仮説だからといって間違っているとは限らない。

・そもそも科学的証明など存在しえない。

・データや事実があっても理論の正誤は判定できない。

データや事実それ自体が重要なことは認めるにしても、何らかの主張が説得的であるための十分条件でも必要条件でもない。

このデータ重視社会においては、「データが無くても正しいかもしれないこと」「データがあっても間違っているかもしれないこと」が忘れ去られている。

データや事実がないから非科学的になるわけでも、非論理的になるわけでもない。

データや事実に基づいた反証があることが、必ずしもその理論にとって欠点であるとは限らない。

もちろん、事実など幻想に過ぎず、存在しないという主張ではない。事実など存在しないという仮説は極限まで押し進めれば、水槽の中の脳仮説と変わらないだろう。

そういうことが言いたいのではなく、事実が事実として認識されるそのプロセスには、理論であったり観測条件であったりという認知機構の問題が密接に関わってくるということだ。

「事実」という言葉には、事実そのものと事実を認識するプロセス、事実について記述し表現する形式の全てが含意されている。

事実自体は構築されるものでなくとも、事実の解釈とその記述である科学的事実は構築されうる。

もし「事実」という言葉で表そうとしているものが、唯一正しい現実解釈であったり、唯一正しい現実の記述・表現の仕方という意味なら、そんな「事実」は科学の領域においてさえ存在しないだろう。

科学は事実について探求する数多ある学問の内の一つだ。

よって、科学は唯一正しい現実解釈としての事実も、唯一正しい現実の記述・表現としての事実も示しはしない。

科学は民主主義において証明された正しさを提供するものでもなければ、万能の基準でもない。

5.本当の問題と科学的正しさについて

本当の問題は、何が科学なのかが曖昧なまま「科学的」という言葉が使われたり「非科学的」という批判が力を持ってしまうことだ。

勿論、一人一人の認識を正していなければならないという話がしたいわけではない。そんなことをしても「科学」の代わりに別の言葉が使われるようになるだけだろう。

立てるべき問いは、「科学」という概念に人が求めているものは何かということ、そして何故それを求めてしまうのかということだ。これに関しては次回以降触れていきたい。

また、科学を相対主義的に表現してしまうのは、エセ科学疑似科学を擁護することに繋がるのではないかという批判もありえるだろう。先に言っておくと、エセ科学疑似科学を擁護しようというわけではない。科学的正しさとは何かについても次回以降触れていきたい。

【次回記事】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

【参考文献】

(↓カール・ポパーはもちろん、カルナップからファイヤアーベント、ベイズ主義から実験主義にわたるまで、科学とは何かについての今までの議論を俯瞰できるような概説書となっている。概観を把握したいのなら一番おすすめ)

(↓科学とは何かについて、疑似科学との区別の難しさという点から書いてあるが、それぞれの章の結論はかなり曖昧。科学と疑似科学の区別も最終的には程度の問題に着地させている)

(↓クーンを「科学殺人事件」の容疑者に見立て、それを弁護するというよく分からないノリで書かれているものの、相対主義者と批判されるクーンの科学観を擁護する形で書かれている)

(↓メディアの偏向を批判するという筆者の態度自体にも偏向が見られるものの、社会科学の入門としては分かりやすい)