0.弱者男性論とあてがえ論
この記事では弱者男性論の主張の背景について考えることを目的とする。
弱者男性論の主張を簡単にまとめると「男性の中にも弱者がおり、彼らは収入、容姿や学歴という“スペック”という面で弱者であり、ケアされるべきだ」というもので、弱者男性論を支持する層の中には所謂「女性をあてがえ論」と呼ばれる主張をする者もいる。
「女性をあてがえ論」は、“スペック”という面で劣っている弱者男性は恋愛でパートナーを得ることが難しいため、女性がそうした弱者男性を恋愛対象にするように制度設計をしようという主張だ。また、制度設計には言及しないまでも、強者女性は弱者男性を積極的にケアすべきだという意見も見られる。
このように、主張自体は比較的分かりやすいものの、その論理にはいくつも不可解な点がある。また、弱者男性論と「女性をあてがえ論」を別物と捉える向きもあり、その方向から別の解釈もありえるが、今回は二つを接続した主張として捉え背景部分でどのように接続しているのかについても考えていきたい。
1.弱者男性論の要素
まず弱者男性論を構成する要素を一つずつ検討することで、弱者男性論が訴えていることが何なのかを整理していこう。
その① 男性の収入
弱者男性論において、弱者男性の収入の少なさが俎上に上がることがある。
もし弱者男性論で問題にしたいものが男性の貧困なのだとしたら、既存の貧困問題のフレームワークを論点にするべきだろう。
特定の男性が貧困問題において救済されない位置にいると言いたいのであれば、貧困問題のフレームワークそのものを問う形で議論がなされるべきで、女性に対して男性への態度を改めるよう求める議論になどなるわけがない。
それでも弱者男性論で男性の収入が俎上に上がることがあるのには理由があるはずだ。そう考えるなら、貧困の問題として取り上げる以外の目的があるということになる。
つまり、弱者男性論は収入そのものを問題視しているのではなく、男性の収入という観点から何か別のことを語ろうとしているのだ。
その② 社会に蔓延した価値観の批判?
弱者男性論は、恋人がいない人や未婚の人間を劣った存在のように扱う人間がいることを訴えることもある。
確かにそういう人間は存在するかもしれない。そんな人間には恋人がいないことや未婚であることはその人が劣った存在であることを証明しないと言ってやるべきだろう。
仮に恋人がいない人や未婚の人に何らかの能力の欠如の傾向があるとしても、人間何らかの能力において優劣があるのは当たり前なので、能力がそのまま人の優劣になるわけではない。また、人格的傾向があると言いたいのだとしても、そもそもこれだけ未婚率が増えていてDVや虐待なども問題視されているのだから、そのような区分けは無意味だろうと思う。
しかし現在の弱者男性論を見ていると、そういう浅はかな人間観が社会に蔓していることを批判しているのか怪しくなってくる。
社会に蔓延した価値観を批判しているというより、弱者男性を恋愛対象や結婚相手に選ばない女性の価値観を攻撃しているように見えるからだ。
また、社会の価値観に対する挑戦だとすれば、未婚女性や恋人のいない女性もこれだけいる中で、なぜ恋愛による弱者男性の救済を訴えるのかという点が分からない。
冷静に考えて欲しいのだが、仮にも社会の価値観を変革したいのであれば、自分を優れた人間だと証明するためにモテようとしたり、自分を恋愛対象に選んでくれない女性を攻撃したりしている場合ではない。
しかし、弱者男性論を主張する男性がしばしば「女性から相手にされなくて自分は劣った人間だと感じる」「非モテである自分みたいな人間は劣等種だと感じる」などと、批判すべきはずの価値観を自ら取り込んで劣等感を吐露する光景は珍しくない。そして彼らはその劣等感を女性からの承認を得ることで癒そうとしている。
問題は何が彼らをそうさせるのかである。
③男性の孤独、男性はケアされていない?
また、弱者男性論は孤独を問題だと主張することもある。孤独はもはや社会問題であり、男性は孤独になりやすいのだと言うわけだ。
では、なぜ恋愛や結婚を救済策としたがるのだろうか。
友人を増やせるようにすること、ご近所付き合いを深められる機会を増やしたり、薄弱化したコミュニティの繋がりの強化などではダメなのだろうか?
仮に男性の孤独は社会によってケアされにくいという話であったとしても、そこから直接「だから女性が男性をケアするべき」という結論にはならないはずだ。なぜ男性同士ではケアできないという謎の前提があるのかが問題だ。
ここから考えられるのは弱者男性論が求める孤独のケアが、ある特殊な文脈における孤独のケアである可能性だ。
このように、弱者男性論の「男性の中にも弱者がおり、彼らは収入、容姿や学歴という“スペック”という面で弱者である」という主張は既存の社会問題のフレームを当てはめて解釈することは恐らくできない。
ではどのようなフレームで見れば弱者男性論を解釈することができるだろうか。
2.現代はどういう時代か?
弱者男性論のフレームを理解するためには、現代がどういう時代か? そして現代における恋愛とは何かについて考えた方がいい。
また、彼らは恋愛による弱者男性の救済を訴えながら、恋愛の市場化と高スぺック男性を恋愛対象に選ぶ女性を批判している。
収入格差、劣等感、孤独、それらは現代社会において市場原理の全面化がしたことで生まれたものだ。
ここでいう市場原理とは簡単に言ってしまえば等価交換の原理だ。
すなわち、あるゆる物の価値を質ではなく量的な指標で測る原理だ。たとえば一般的な市場においては、あらゆるものは価格という統一された指標で価値の大きさが決められている。
何を「価値がある」と感じるかは人それぞれだと言いたがる人はいるが、これはそういう個々人にとっての「価値」の話ではなく、一般的に使われる価値という言葉が指し示しているものだ。
たとえば特殊な価値観を持った人がいて、10億の宝石より道端の石に「価値」を感じていたとしても、常識があれば10億以上の値で石を人に売ろうとはしないはずだ。仮に常識がなく10億以上の値で石を販売しだしたとしても恐らく誰も買わないだろう。そういう時、我々はその石には10億の価値はないと見做すだろうという話だ。
こう説明すると、ものにお金が支払われていることとものの価値は関係ない、そのような価値など虚構にすぎないと言う人がいるかもしれない。
しかし、レストランで出てきた料理に価格ほどの「価値」を感じなかったからといって代金を払わないわけにはいかないし、逆にニ〇リの商品に「お値段以上」の「価値」を感じたとしても、その商品の価格以上のお金を払うことはできないのだ。基本的には他の購入者と同じ金額を払えば同じ商品を期待できる状況にある。
私たちが等価交換をしているというのはそういう意味だ。
個々人の視点においてそれが「等価」であるという意味ではない。
(個々人の感じる「価値」はその人の気分や状況変化で容易に消失したり現れたりする、それゆえに私たちは結局やらないゲームを買って後悔し、他人が頼んだデザートを見て自分も頼めばよかったと思うのだ)
また、これは価値と交換の因果関係の話でもない。
つまり、等価関係があるから交換が起こるのではなく、交換が起こった結果そこに価値の等価関係が現れるという話だ。同じ商品に対してみんなが同じお金を払うことでその商品の価値と金額と等値される。同じ金額を払うことで誰でも同じように商品を手に入れていることができる。そうした営みが繰り返され安定して見えるためにそこに等価の関係性が現れる。
こうして価値は、お金が支払われる形で表現され、数値として比較することのできるものと理解されるようになる。
同時に、現代は人間的な魅力や個性など人格的なものに対してもお金が支払われる時代だ。
タレント業は言わずもがな、雑談配信やゲーム実況などの配信活動、人間の生活の風景にさえお金が飛び交うようになっている。
そして人格的価値も数値化と比較が可能であるという感覚が生み出されることで、互いを比較し合い他人より自分は価値が劣っているという劣等感を持つ人間が増えていく。
また、インターネットは簡単に互いを比較し合うことが可能なツールを提供し、再生回数やフォロワー数など互いに比較可能な数値は、単なる数値ではなく収入にも結びつくようになってきている。
結果、現代は自分の諸々の人間的価値が数値化され、それが他者と比較可能な形で可視化されているような感覚が常に付きまとう時代になっている。
人々は自分で自分の広告を打つようにSNSを利用したり、自己承認欲求なるキーワードがもはや日常で使う言葉になったことはある種象徴的と言える。
ここまでが弱者男性論が生まれる現代の土壌の概観だ。
(※ここで私が価値と言っているのは一般的な意味の価値で、マルクスが言うところの価値とは重なりつつも少しズレます。)
3. 弱者男性の弱者とは何か?
市場が全面化した現代において人々は自己の人間的価値に対する不安をいかに癒しながら生きるかというゲームを生きなければならない。
しかしそこには当然脱落者がいる。
弱者男性論の弱者とはこの脱落者のことではないかというのが私の解釈だ。
弱者男性論の「弱者」とは、市場の中で誰かと比較されることで劣等感を持ってしまった人間、あるいは市場競争の「敗者」と読み替える方が適切なように思える。
これが既存の社会福祉の問題とフレームを異にするのは、人間的価値の証明の不在によって生まれる不安の問題だからだ。収入が問題の一部に含まれがちなのは、あくまで収入によって比較が行われているからだ。
また、これは人々の価値観や社会的風潮の問題ではない。よって、男性の性役割から男性が解放されれば解決という単純な話ではない。
なぜなら、一人一人の意識の在り方ではなく、様々なものが交換可能になり日々何かを比較しながら何かを選択しているという社会の形態そのものに起因する不安症だからだ。
自己の人間的価値に対する不安に吞み込まれた人間は、もはや「現代社会では測れない価値が自分にはある」という幻想に縋らざるを得ない。そして、そうした幻想を維持できる場所、すなわち市場化されていない場所を死守しようとする。
すなわち彼ら脱落者が求めるのは、他の誰かと比較されない、利益や見返りを求められない関係の場であり、かけがえのない存在としてありのままの自分を受け入れてくれる関係の場である。
間違っても年収や学歴、見た目等で比較し合うマッチングアプリのような場所ではない。また、付き合うことで得られる利益や見返りを期待して打算的感情で人と関係する場所でもない。
そして、市場原理の働かない関係としてロマンティシズムに満ちた恋愛関係や婚姻関係というものが候補に現れてくるのだ。
ここで友情や家族、コミュニティの関係ではなくなぜ恋愛や婚姻関係なのかという疑問が出て来るかもしれないが、それにはいくつか要因があるだろう。
まず考えられるのは、恋愛や婚姻関係が旧来そういう反市場的物語を纏いがちだということだ。
映画や漫画、アニメなど日頃触れる様々なコンテンツにおいて未だに恋愛や婚姻関係というものは、反市場的な要素を纏って美化される傾向にある。恋愛をテーマにした作品ではお金や打算的な感情は「真実の愛」と対比的に描かれる。お金や打算と言ったものは「真実の愛」とは認められない。打算的感情で近づいた後にそれではダメだと知って「真実の愛」に目覚めるか、あるいは打算的感情でパートナーを選んだ人間の滅びが描かれるかというパターンが取られている。
次に考えられるのは、恋愛や婚姻関係と比べると友情や家族、コミュニティの関係というものは身近だからということだ。
これは単純な話で、身近でよく目にするものであればその分幻想を維持するのが難しいということだ。
三つ目は、恋愛関係には一般的に身体的な交渉が含まれるからというのもあるだろう。「身体を許す」という表現に見られるように、身体的な交渉は単なるコミュニケーションとしてだけでなく「許される」体験として考えられている。そこには自分を「受け入れてくれる」体験が幻視されているのだ。
他にもあるだろうが、このように恋愛や婚姻関係が理想化されやすい要因は存在する。
さて、こんな風に整理してみると「現実を考えろ、恋愛や結婚はそんな理想で満ちたものではない」と呆れた声が聞こえてきそうだが、彼らに現実を突き付けるだけでは解決しない。なぜなら、理想に縋る人間の問題は現実を見る認知能力の低さだけにあるのではなく、それ以外に方法がない(と彼らが考えてしまう)ことにもあるからだ。
確かに、実際の人間関係は完全な打算というわけでもなければ、完全に見返りや利益を求めない関係というわけでもない。
信頼関係が、こいつはこうするに違いないという計算と何の確証もない賭けの間に成り立つのと同じだ。家族関係であっても、友人関係であっても、恋愛関係であっても同じことだ。
だが、理想に縋るより他に方法がないと思い込んでいる人間にいくら現実を説いたところですぐさま解決というわけにはいかないのだ(もちろん思考のフレームを与えるという点では重要だが)。
以上が、私の弱者男性論解釈の概観となる。
こう考えることで、なぜ自分は弱者ではないという男性も弱者男性と同調したがるのかも理解できる。市場化が全面化した社会における自己の価値への不安は弱者強者関係なく襲ってくるものだからだ。今は脱落していない者も、いつ自分が脱落するか分からないという感覚を薄っすらと抱えている。
彼らが恋愛したければ努力をしろという言説を忌み嫌うのも、努力した結果自分が恋愛対象として選ばれたとしてもそれは能力の比較の結果選ばれたことになってしまうからだ。
努力はしたくないし、比較もされたくないが、市場原理そのものは(自分たちもその上に安住しているため)否定できない、その結果生まれてくるのが、「女性は男性に高望みしている」「女性は上昇婚ばかりしている」という批判なのだ。
また、弱者男性論を論じる諸氏がやたらと「暴力的な男がモテる」という話や恋愛工学を語りたがるのも、市場化した自由恋愛に対する当てつけと見ることができる。
「暴力的な男がモテる」という話も恋愛工学も、自由恋愛市場をナンセンスなものとして提示しそこから女性を撤退させるための脅し文句のようなものなのだ。
4.根本的な解決について
私が今回指摘したような自己に対する不安がある程度まで共有されているのだとすれば、それは市場原理の全面化、すなわち資本主義の作用を止めないことにはどうにもならないように思う。資本主義はあらゆるものを交換可能にしていく作用そのものだからだ。
まぁこんなことを言うと、「過激思想」などとすぐに訳の分からないレッテルが貼られてしまうのが今日の状況である。それほどまでに、現代日本において資本主義は透明で絶対的な地位を占めてしまっている。
政治的無関心や「ノンポリ」を名乗るような政治アレルギーな人さえ、資本主義だけは受け入れている。資本主義はもはや「主義」や主張という形では理解されてない。
たとえば人々は共産主義社会は共産主義者が作ると考えているのに、資本主義国家に住まう自分たちのことは「資本主義者」とは考えていない。
もはや資本主義を批判をする人間は「過激思想」の「頭のおかしい」奴らと決め付けており(まぁ実際いるのであるが)、唯一許されているのは資本主義への「提案」であるからだ。働き方改革やらワークライフバランスやらSDGsもそうした「穏健な」「提案」の一環だろう(それらは病気を治さずに痛み止めだけを大量服用するような処置に思える)。
実際、「過激」で「ラディカル」であれば正しいということはないように、「穏健」で「中庸」であれば正しいということもありえない。
少なくとも、資本主義がどういうものかを分析したという点で(賛否は置いておくにして)マルクスはもう少し読まれても良いように思えるが、残念なことに今日の日本でマルクスの主張は、私有財産を国が取り上げて再分配しろという主張だと誤解されてしまっている。
閑話休題、資本主義への批判が困難である(と彼らが勝手に感じている)ために弱者男性論の行きつく先はどれもナンセンスなものにならざるを得ない。
彼らが抱えるのは誰かと比較されることの痛みだからだ。
つまりは、自分はこれからも他者同士を比較するが、自分は誰かと比較されたくないというのが彼らの目指すところであり、市場は否定しないのに市場原理が自分に適用されることは避けたいというどしようもないものだからだ。
彼らが何を目指すのか理解できないという人がいるが、そもそも彼らが目指すものそれ自体が混乱し錯綜した思考の上に置かれているのだ。
ではこれからどうすればいいのかということについてだが、(共産主義者になれとは言わないが)資本主義を再度分析する必要があるのではないだろうか。
最終的にどのような主義主張を支持するかは別として、弱者男性について考えるためには、資本主義を現在の透明な絶対者の地位から降ろし分析する必要があるように思う。
【参考文献】
↓マルクスに対する良くある誤解を避けながら、資本主義を分析するなら多少難しいがこの本はお勧め。
↓21世紀の市場化した恋愛を批判的視点から分析する一冊、「上昇婚」「男性に対する女性の高望み」なる概念がいかに無意味が分かる。
↓オタクからの市場化した恋愛への批判と現実の恋愛への決別宣言。全くおすすめではない。
5.余談
今回の私が説明した弱者男性論はあくまで解釈の一つだというのは付言しておかなければならない(まぁ、威勢のいいことだけが取り柄の馬鹿は何を言っても食って掛かってくるのだが)。
私は別の解釈がありえないという話はしていないし、また全ての弱者男性論者がこうだとも言わない。あくまで傾向としてこのような傾向があるという話をしている。
とはいえ、男性は特権的地位にいるという説に反論するために弱者男性論が出てきたという意見には賛同できないということは言っておかねばならないだろう。
もし弱者男性論の本質が男性の中にも弱者がいるということを言いたいだけなのであればこれほど下らないことはないからだ。
そうした言説は、格差を作り出す構造そのものを問題にしないために全くズレた反論だ。
たとえば、格差社会や貧困問題で「貧しくても幸福な人生を歩んでいる人もいるし、裕福でも自殺するくらい悩む人がいる」という指摘をしたり、外国人差別問題に対して「外国人でも高い地位にいる人はいるし、日本人でも低い地位の人がいる」という指摘をしたりすることがまともな反論だと思う人間がいたなら呆れるより他ないだろう。
ある属性を持った人間が、例外なく全て強者でなければ属性の強者性が否定されるのなら、全ての格差は個人の責任であり、偶然であり、この社会にある全ての格差は否定されることになるだろう。
社会構造の影響から逃れた(もしくは乗り越えた)存在は挙げようと思えばいくらでも挙げられるだろうが、たとえ一つでも例外があれば、そこに格差は存在しないと言いきれてしまうのは浅はかだ。
また、現実には様々な要因が重なり合っているし、どんな人間も人種や性別、年齢や職業など複数の属性を持っている。
個別具体の事例における弱者と弱者の力関係は、複数の要因が影響し合った結果として存在するが、それは比較的強者の属性と比較的弱者の属性が存在しないことを意味しない。
社会構造を無視した物言いをしたがる人間が好む言葉は決まっている。
「人よって違う」「十把一絡げに語るのは良くない」という思考停止的な、何も分析的でない全てを個人の自己責任に落とし込む言葉だ。
逆に、「この集団にはこういう傾向がある」とか「この文化にはこういう影響力がある」という言葉をムキになって批判したがる。
もちろん精度の問題は存在するが、社会分析においてカテゴライズを避けることはできないし、意味のあるカテゴライズには常に例外が付きまとう。
彼らはそういう当たり前のことが分かっていないし、そもそも社会構造や大きな枠組みについて考える能力がない。
「構造なんて目に見えないものを持ち出したら、いくらでもなんととでも都合よく言えてしまう」なんてことを言いたがる人もいるが、これは学問を知らない人間の発想だ。
社会に対する洞察を含むあらゆる学問では研究者が各々好きな妄想を勝手に持ち出しているとでも思っているのだろうか?
こんなことを言う人間は、なぜ学問において先行研究や学問的伝統が重視されているのかを理解していないし、なぜ現代の社会学が「社会学は学問ではない」と言われるまで批判に晒されているのかも理解してない。
(まぁそんなことを言いたがる人間は大抵ネット上の議論というものを盲信しているので「いくらでもなんととでも言えてしまう」と思うのかもしれないが。)
また、私はなにも自己責任論者だけを批判しているのではない。
社会構造やそれ以上に根本的な問題にフォーカスせず、個人の主観レベルに落とし込まないと何も言えないリベラル系の論者にも同様の批判ができる。
リベラル系メディアがやりがちな、社会的な構造ではなく個人の「生き辛さ」や「嫌な体験」などにフォーカスし感情移入させることで注目を集めようとする言説形態がそれだ。
そんなことをしているから保守側にも感傷的な体験を持ち出されて(私達こそ真の弱者だと言われて)弱者概念を簒奪されるハメになるのだ。
こうした「生き辛さ」に焦点が当たるのは、根本問題から目を逸らして、「共感」しただけで満足するような人間が量産されているからだ。
「共感」の声を上げるのは良いとして、「共感」することで自分は善良な人間なのだと安心したいだけの人間が如何に多いかということを考えなければならない。
補足1)弱者男性論の中には「女はその性的価値(穴モテ)で利益を得ているのだから、それを男に分配しろ」という意味不明な議論も見られるが、まず性的価値とそれによって得られているとするものを具体的に指摘するべきだろう。それができもしないのに分配もクソもない。同時にそれを分配するとはどういうことで、どうしてそれが分配になるのかも説明する必要があるはずだ。誰もやらないが。
補足2)こういった弱者性の問題を同情を得られるか否かという軸で理解しようという人間がいるが、本当に馬鹿なんだろうと呆れるほかない。この手の人間は全ての社会問題をアイデンティティの問題で捉えようとする。