京太郎のブログ 社会問題についてと作品評論を書いてます。 2023-11-28T01:48:40+09:00 tatsumi_kyotaro Hatena::Blog hatenablog://blog/10257846132613483365 noteも始めました hatenablog://entry/6801883189062256430 2023-11-28T01:48:40+09:00 2023-11-28T01:48:40+09:00 書けないことへの漠然とした恐怖 全くブログが更新できておらず申し訳なさを感じている。 いや、誰に対して? という話であるが。 なんだかんだ最近、読書と書く時間がなかなか取れない。仕事やプライベートが忙しいせいもあるし、小説を書いているからというのもあるが、まとまった文章を書く気力のようなものが削がれているような気もする。そしてそれが一番怖いことだ。何故怖いのか、何を恐れているのか、それはある程度書いたことのある人にしか分からないかもしれないが、ともあれ文章を書く気力の低下に反比例して漠然と書きたいこと自体は増えていく。 積読ならぬ積ブログ状態である。 そんなわけで、ある程度まとまった内容は今後… <h3 id="書けないことへの漠然とした恐怖">書けないことへの漠然とした恐怖</h3> <p> </p> <p>全くブログが更新できておらず申し訳なさを感じている。</p> <p>いや、誰に対して? という話であるが。</p> <p>なんだかんだ最近、読書と書く時間がなかなか取れない。仕事やプライベートが忙しいせいもあるし、小説を書いているからというのもあるが、まとまった文章を書く気力のようなものが削がれているような気もする。そしてそれが一番怖いことだ。何故怖いのか、何を恐れているのか、それはある程度書いたことのある人にしか分からないかもしれないが、ともあれ文章を書く気力の低下に反比例して漠然と書きたいこと自体は増えていく。</p> <p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%D1%C6%C9">積読</a>ならぬ積ブログ状態である。</p> <p> </p> <p>そんなわけで、ある程度まとまった内容は今後もブログに書いていきたいのだが、リハビリもかねてまとまっていない漠然とした内容をnoteに書くいて整理していくことにした。以下がそのURLとなる。</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fkyotaro_shiganai%2Fn%2Fn3488719d0f96%3Fsub_rt%3Dshare_pb" title="身の丈に合った親切論|しがない京太郎" class="embed-card embed-webcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://note.com/kyotaro_shiganai/n/n3488719d0f96?sub_rt=share_pb">note.com</a></cite></p> <p> </p> <p>書き方はブログとは変えているので違和感がある方もいるとは思うが、noteはnote、ブログはブログのスタイルでやらせてもらおうと思うので何卒よろしくお願いしたい。できれば両方応援して頂けると大変嬉しい。</p> tatsumi_kyotaro データリテラシーの意義とその限界 hatenablog://entry/4207112889896729397 2023-03-13T18:15:48+09:00 2023-03-22T12:02:12+09:00 はじめに 2.データリテラシーの重要性 3.データリテラシーの限界 4.問題はデータリテラシーではない 5.私たちにとってデータや統計とは何か? 6.データや統計を正しく扱うために 【参考】 はじめに 統計はありのままの現実を映し出していて、人間の主観や恣意性を排除した客観的証拠であるというのは間違いだ。 リテラシーを学ぶ意義というのは、そういったことを理解することにある。 統計やデータというものは以下の性質をもっている。 ・統計やデータは、誰かの主観的な仮説をもとに作られている。 ・統計やデータは、現実の一部を恣意的に切り取って編集した表現物である。 ・統計やデータは、一部の現実にしか言及で… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#はじめに">はじめに</a></li> <li><a href="#2データリテラシーの重要性">2.データリテラシーの重要性</a></li> <li><a href="#3データリテラシーの限界">3.データリテラシーの限界</a></li> <li><a href="#4問題はデータリテラシーではない">4.問題はデータリテラシーではない</a></li> <li><a href="#5私たちにとってデータや統計とは何か">5.私たちにとってデータや統計とは何か?</a></li> <li><a href="#6データや統計を正しく扱うために">6.データや統計を正しく扱うために</a></li> <li><a href="#参考">【参考】</a></li> </ul> <h4 id="はじめに">はじめに</h4> <p>統計はありのままの現実を映し出していて、人間の主観や恣意性を排除した客観的証拠であるというのは間違いだ。</p> <p><strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>を学ぶ意義というのは、そういったことを理解することにある。</strong></p> <p>統計やデータというものは以下の性質をもっている。</p> <p>・統計やデータは、誰かの主観的な仮説をもとに作られている。</p> <p>・統計やデータは、現実の一部を恣意的に切り取って編集した表現物である。</p> <p>・統計やデータは、一部の現実にしか言及できないため、多くの事実を無視して作られている。</p> <p>つまり、統計やデータというのは良いものであれば議論の材料の一つにはなるが、悪いものなら主観と偏見から悪意ある編集をする偏向メディアになりうる。</p> <p>だから、統計やデータには良いものも悪いものもあるというのは当然のことで、一人の証言が真実かどうか吟味されうるように、統計データも吟味されるものではなければならない。<span style="color: #1464b3;">データや統計は一般的に思われているほど強固な根拠になりえない。データは客観的で嘘をつかないというのは単なる誤解だ。</span></p> <p>(<span style="font-size: 80%;">分からない人がいれば、初回の記事『</span><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/07/16/205536">データは客観的事実ではない</a>』<span style="font-size: 80%;">を読んで欲しい。</span>)</p> <p>データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>を学べば、少なくとも統計データも良いものと悪いものがあると分かっているため、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%D2%A4%ED%A4%E6%A4%AD">ひろゆき</a>やDaiGoに影響を受けた人達のように「主観に満ちた感想と客観的なデータ」という二項対立を提示するという恥ずかしいことはしなくなる。</p> <p><strong>もちろん、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>を学ぶことは万能ではない。</strong></p> <p>データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>さえあれば誰でも正しい事実に辿り着くことができるというのは誤りであるというのが今回の記事の内容だ。</p> <h4 id="2データリテラシーの重要性">2.データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>の重要性</h4> <p>データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>は言うほど万能ではないということを説明する前に、それでもデータ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>は重要であるというところから説明しなければならない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">まず、データを含め様々な情報はあればあるほど良いというわけではない。</span></p> <p>これは第一に、データや情報というものには信用できないものが含まれるからだ。</p> <p>私たちは<strong>「フェイクを指摘する情報がフェイクである可能性」すら考慮に入れながら情報を見なければならないような情報が錯綜した社会</strong>を生きている。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%A4%A5%AF%A5%CB%A5%E5%A1%BC%A5%B9">フェイクニュース</a>を批判する人間が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%A4%A5%AF%A5%CB%A5%E5%A1%BC%A5%B9">フェイクニュース</a>を拡散するなんてことは良くある光景だ。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA">アメリ</a>カのリベラルはトランプ陣営の情報を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%A4%A5%AF%A5%CB%A5%E5%A1%BC%A5%B9">フェイクニュース</a>だと批判するが、トランプ陣営もリベラル系メディアの情報こそフェイクだと反論する。対立した者同士でお互いの情報をフェイク扱いして攻撃し合う光景はもはや日常と言っていい。</p> <p><span style="color: #1464b3;">データも同様に、あればあるほど良いという訳では必ずしもなく、多量のデータがあればそれを正しく比較参照する高度な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>が要求される。</span>事実、昨今の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B7%B7%BF%A5%B3%A5%ED%A5%CA%A5%A6%A5%A4%A5%EB%A5%B9">新型コロナウイルス</a>のリスクやコロナワクチンのリスクに関しては様々な情報が飛び交い何が正しい情報なのかの判断に困った人も多いだろう。</p> <p><span style="color: #1464b3;">そして、データや情報が逆に混乱を生み出すのはチェリー<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A5%C3%A5%AD%A5%F3%A5%B0">ピッキング</a>の問題も同様である</span><span style="color: #1464b3;">。</span></p> <p>チェリー<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A5%C3%A5%AD%A5%F3%A5%B0">ピッキング</a>とは、多くのデータの中から自分の主張に都合の良いもの(敵にとって都合の悪いもの)だけを選び、それを有力な根拠として提示する手法のことだが、多種多様なデータがあることで人々はチェリー<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A5%C3%A5%AD%A5%F3%A5%B0">ピッキング</a>をしやすくなる。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%CB%C5%CF%C0">陰謀論</a>がここまで膨れ上がるのも、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%CB%C5%CF%C0">陰謀論</a>にとって都合の良いデータだけでも莫大な量があるために、人々が信じやすくなったというのも一因としてあるだろう。</p> <p><strong><span style="color: #1464b3;">チェリー<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A5%C3%A5%AD%A5%F3%A5%B0">ピッキング</a>が横行する社会では、豊富なデータは対立する陣営それぞれ</span><span style="color: #1464b3;">に「データがあるから自分は正しい」という確信を与えるだけということになりかねない</span></strong><span style="color: #1464b3;">(<span style="font-size: 80%;">実際そうだと私は思う</span>)</span><strong><span style="color: #1464b3;">。</span></strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">そして自分が絶対に正しいと確信を持った人間同士の議論は収拾がつかないのはご存じの通りだ。</span></p> <p>そこで重要になってくると言われているのがデータ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>というわけだ。</p> <p>データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>とは何かについては様々な意見があるだろうが、ひとまず日々の暮らしで出会うような統計を批判的に解釈する基本技能であるとしておこう。</p> <p>データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>があれば、少なくとも人々は「データがあれば正しい」という馬鹿な思い込みはしなくなる。つまり、データという権威に騙されることは少なくなるだろう。それがデータ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>が重要な理由だ。</p> <h4 id="3データリテラシーの限界">3.データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>の限界</h4> <p>しかし、データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>は万能ではない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>は正しくデータを懐疑するための武器だが、データが間違っていると証明できるものではないし、正しいと証明できるものでもない。</span><strong>あくまで様々な可能性を考慮した上で推論を組み立てるための武器の一つでしかない。</strong></p> <p>だからこそ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>が高くなればなるほど、一見正しく見える解釈であろうとそれが正しいとは断言できなくなってくるし、どんなに疑わしいデータであろうとそれが正しい可能性も考慮に入れなければいけなくなる。</p> <p>実を言えば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%CB%C5%CF%C0">陰謀論</a>者も権威的データであろうと疑ってかかるという点においてだけは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>を発揮していると言える。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%CB%C5%CF%C0">陰謀論</a>者は権威的なデータに対してそれを否定するデータを持ち出すが、権威的なデータであっても鵜呑みにせずに権威が間違っている可能性を別のデータと共に示唆するというのは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>の高い行為だ。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>とは疑い検証する能力のことだからだ。</p> <p>彼らが問題なのは、その<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>を決して自説の検証には発揮しないことである。</p> <p><strong>つまり、問題なのは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>能力ではなくその姿勢にある。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;"><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%CB%C5%CF%C0">陰謀論</a>に染まる人間は「信じたい情報しか信じない」と揶揄されるが、そんな人間はたとえ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7">リテラシ</a>―を持ったところで「疑いたいことしか疑わない」だろう。</span></p> <p>もちろんこれは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%CB%C5%CF%C0">陰謀論</a>者だけに限った話ではない。</p> <p>私たちの社会では統計やデータが過度に有力な証拠として扱われているからこそ、相手の主張を否定するために相手のデータを疑わしいものにしておきたいという思惑が働きやすい。</p> <p>そして、どんなデータだろうと疑わしい箇所のいくつかはあるので「疑惑」を投げかけること自体は誰でも簡単にできる。多くの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%CB%C5%CF%C0">陰謀論</a>を見ていれば分かる通りだ。</p> <p>人が疑いたいことしか疑わないのは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>の重要性を訴えるジョエルベストも指摘していることだ。</p> <blockquote> <p>統計についていろいろな人に語ると、人々が普通、疑わしい統計を喜んで批判する――その数字を述べている人たちと意見が異なるかぎりそうする――ことに気づく。政治的保守派は、リベラル派が提示する統計には深刻な欠陥があると信じており、リベラル派は保守派の述べる怪しい数字を糾弾するのに熱心だ。</p> <p>人々は敵の述べるひどい統計の例は好きだが、自分の述べる数字を批判されるのは好まない。人々が誤解するかもしれないと心配するからだ。自分の統計が批判されれば、自分の主張を疑問視するかもしれないから、向こうの誤りに焦点を合わせ、自分の誤りは軽く扱おうといういうわけだ。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51v5zpEbphL._SL500_.jpg" border="0" alt="統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ" title="統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A5%A8%A5%EB%20%A5%D9%A5%B9%A5%C8">ジョエル ベスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>(『統計という名のウソ』ジョエル・ベスト P12)</p> </blockquote> <p>データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>という武器のすばらしさを説いたところで結局その武器を使うのは人間である。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>があれば騙される人は少なくなるかもしれないが、信じたいことしか信じない人、疑いたいことしか疑わない人は相変わらずいなくなることはないだろうし、重大な問題を引き起こしがちなのはそちらの方だ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">仮にデータ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>の重要性が認められたところで、議論が「お互い適切にデータを参照しよう」という態度になるよりも先に「敵の方がデータ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>が低い」というレッテルの貼り合いにシフトすることは目に見えている。</span></p> <p>データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>の重要性を説く人は、データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>があることとそれを行使することの間には大きな隔たりがあるということを簡単に無視してしまう。</p> <p>人間の性質は、データあろうがなかろうが、データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>があろがなかろうが変わらない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">データ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>は、大量のデータが錯綜する混乱状態を解決する万能の手段にはなりえない。</span></p> <h4 id="4問題はデータリテラシーではない">4.問題はデータ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>ではない</h4> <p>データや統計が溢れる社会でより良い議論をするためにはデータ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>だけでは不足だ。そこには別の問題もある。</p> <p>例えば、お互いにデータ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>があってもどちらが正しいのか判別できない場合というのは存在する。</p> <p>例えば、以下の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%F3%A5%C0%A1%BC">ジェンダー</a>ギャップ指数を見た時に「高水準の教育を受けているのに、政治参画も経済参画も<strong>できていない</strong>日本女性の現状」と解釈するのか、それとも「高水準の教育を受けているのに、政治参画も経済参画も<strong>しない</strong>日本人女性の現状」と解釈するかは解釈者の思想次第である。</p> <p>(個人的には後者の解釈は無理があると思う。参考:『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B083TPL2LR?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">女性のいない民主主義 </a>』)</p> <figure class="figure-image figure-image-fotolife mceNonEditable" title="『ジェンダーギャップ指数(2022) - 内閣府男女共同参画局』 より引用"> <p><img class="hatena-fotolife" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/tatsumi_kyotaro/20230109/20230109160422.png" border="0" title="" width="600" height="446" loading="lazy" /></p> <figcaption class="mceEditable">『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%F3%A5%C0%A1%BC">ジェンダー</a>ギャップ指数(2022) - <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%E2%B3%D5%C9%DC">内閣府</a><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CB%BD%F7%B6%A6%C6%B1%BB%B2%B2%E8%B6%C9">男女共同参画局</a>』(<a href="https://www.gender.go.jp/public/kyodosankaku/2022/202208/202208_07.html">https://www.gender.go.jp/public/kyodosankaku/2022/202208/202208_07.html</a>)<br />より引用</figcaption> </figure> <p>同じように、一つのデータから異なる解釈をする例をジョエル・ベストも挙げている。</p> <blockquote> <p>二〇〇〇年の米国の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%F1%C0%AA%C4%B4%BA%BA">国勢調査</a>で、一人世帯の占める割合が増えている――およそ4分の1である――ことが明らかになったと当局者が発表したときに提示された対立する解釈を考えればいい。家族の価値を重んじる保守派のアドボケートにとっては、この統計は、伝統的な米国の家族が崩壊している、そして、家族を強化する社会政策が必要だということのさらなる証拠だった。しかし、リベラルな評論家は、一人世帯が増えていることの意味をもっと楽観的に解釈した。豊かさが増し、健康状態が向上したため、若い人々は独立して暮らす余裕をもてるようになり、個人は満足できない結婚を終わらせることができ、年配の人たちは一人で世帯を維持できるようになったというのだ。つまり、一人世帯が増えていることを証明する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%F1%C0%AA%C4%B4%BA%BA">国勢調査</a>統計を社会の衰退と生活事情の改善のどちらの表れとも読むことができるのである。</p> <p>(『統計という名のウソ』ジョエル・ベスト P217)</p> </blockquote> <p><strong>このように、統計やデータはそれ単体よりもむしろどう解釈されるかの方が重要になってくることも多い。</strong>データの正しさを認めたとしても、今度は解釈を巡って議論が起こるわけである。</p> <p>というより、現代ではデータ解釈の方が議論の争点になることが多い。</p> <p>どんなデータも複数の解釈が可能であり、人間が解釈する以上絶対に正しい解釈はなく、どんな解釈も必ず疑うべき余地がある。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>とは疑う力であり、妥当性の低い解釈を退けることはできるかもしれない。<strong><span style="color: #1464b3;">しかし、それでも唯一正しい解釈を決定できるようになるわけではない。</span></strong></p> <p>また、統計の世界で大いに話題になったP値ハッキングの問題もデータ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>では解決できない問題だ。</p> <p>一般的に、P値が0.05を下回れば<span style="color: #1464b3;">統計的に有意</span>であると言われるが、P値ハッキングとはこのP値を操作して統計的有意を作り出すことだ。</p> <p>(参考:<a href="https://note.com/yuichiro_5884/n/n9fefe8caf74f">【Data analytics】p値とどう付き合っていくべきか(part1)|Yuro|note</a>)</p> <p>P値が0.05を下回るように試行錯誤して統計を取り直すというのもP値ハッキングに当たるし、結果だけを見ても私たちはそれがP値ハッキングされたものかどうかは分からない。だからこそ研究者にも倫理が問われるわけだ。</p> <p>データには常に仮説の証明という目的があり、データを取る人間の思惑がある。何日もの時間と研究費用もかけて行ってデータを収集したのなら当然、当初の仮説を支持する結果を得たいと考えるのは普通の心理だ。</p> <p>P値ハッキングはその統計が支持する仮説を正しく見せるために行われるので、私たちは何かしらの主張が伴った統計というものを常に注意を払って見なければならない。</p> <p>ジョエルベストはデータへの正しい向き合い方を提示する。</p> <blockquote> <p>問うべきことは、「本当か」という問いではない。むしろ、何より重要な問いは、「どのようにつくりだされたのか」だ。(『統計という名のウソ』ジョエル・ベスト P217)</p> </blockquote> <p>情報には「どのような視点から」「どのような目的で」収集され編集されたのかという点が常に付きまとう。<span style="color: #1464b3;">中立なデータなどありえないと言っていい。この点で、素人が作ったデータを持ち出して自分は中立で客観的に主張していると豪語する人間は信用に値しない。</span></p> <p><strong>結局のところ、データ自体が決定的な証拠なのではなく、決定的証拠だということにしたい人間がいるだけなのだ。</strong></p> <h4 id="5私たちにとってデータや統計とは何か"><strong>5.</strong>私たちにとってデータや統計とは何か?</h4> <p>統計やデータを使ったところで、それを解釈する上で主観が混じり込むのだから、主観を排除した客観的な正しい意見を言えるようになるわけではない。</p> <p>悲しいことにデータを事実そのものだと勘違いしている人は、統計やデータを根拠にして議論しろとよく言うが、統計やデータを根拠にするという言葉に既に詐術的レトリックが含まれている。</p> <p>ある仮説を基に現実を断片的に切り取り編集していて、無数の解釈が可能な「データ」という呼ばれるものが他の根拠に比べてより客観的であるとどうして言えるのだろうか?</p> <p>それこそ無根拠だ。</p> <p>ジョエルベストはこのことを要約して次のように述べる。</p> <blockquote> <p>私たちは統計を、私たちがつくりだす数字としてではなく私たちが発見する事実として考える。</p> <p> しかし、もちろん、統計はひとりでに生まれるわけではない。人々が創造しなければならいのだ。現実は込み入っており、統計はどれも、誰かがおこなった要約、複雑な現実を単<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%E3%B2%BD">純化</a>したものである。(中略)統計をつくりだす人々は定義を選ばなければならない。何を数えたいのかを定義しなければならない。そして、数える方法を選ばなければならない。こうした選択が、あらゆるまともな統計、そしてあらゆるおかしい統計を形づくっている。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901119?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51MXNQX585L._SL500_.jpg" border="0" alt="統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門" title="統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901119?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A5%A8%A5%EB%20%A5%D9%A5%B9%A5%C8">ジョエル ベスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901119?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>『統計はこうして嘘をつく』(ジョエル・ベスト P204)</p> </blockquote> <p>無論、私は良い統計と悪い統計の区別があることを否定しない。</p> <p>しかし、それが「どれだけ」良い証拠となりうるのかについての客観的証拠を出すことは不可能だろう。</p> <p>なるべくバイアスを取り払い、なるべく「良い統計」を作ろうと努力を重ねたとしても、それがどれだけ現実を現したものかをどのように判定するのだろうか?</p> <p>仮に誰かが判定基準を作ったとして、その判定基準が正しい根拠はどこにあるのか。そんなものは出せるはずがない。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%FD%B7%D7%B3%D8">統計学</a>の進歩はめざましいし、事実様々な方法を確立された。しかし、それでも数ある方法の中から選択するのは人間であり、その人間が適切でない選択をする可能性は排除できない。今認知されているバイアスは全てではなく、まだ発見されていないバイアスが存在するかもしれない。</p> <p>究極のところ、データよりも誰かの直感や実感といったものの方が実情に沿っている可能性すら否定できない。</p> <p><strong>それがどれだけ実情を示したものであったかは結果論でしか分からない。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">データや統計がない議論より、データや統計がある議論の方がいいというのはただの信念でしかない。</span></p> <p><strong>データや統計があることで議論は円滑になるかもしれないし、逆に数字に惑わされて混乱するかもしれない。ただしデータや統計があった場合に混乱しないために、私たちにはデータ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>が必要だ。</strong>それだけの単純な話である。</p> <h4 id="6データや統計を正しく扱うために">6.データや統計を正しく扱うために</h4> <p>データは常に後付けの説明しかできない。</p> <p><strong>それは事態が起こってしまった後に事後的に集められ解釈されるものでしかない。</strong></p> <p><strong>統計やデータも主観的な根拠であるし、必ず他の根拠より強い根拠であるというわけではない。</strong></p> <p>現代ではデータや統計は根拠として特権的な地位にいるが、それは端的に間違っている。</p> <p><strong>客観的に議論をするために数字を出せ、とはよく言われるが、数字を出すこととその議論を客観的に行うことは根本的に別の話だ。</strong>データや統計はそれ自体主観によって作成されたものであり、さらに私たちは私たちの主観でそれらを解釈しなければならない。そういう意味でデータを伴った主張というものは程度の差はあっても常に主観的である。</p> <p>データや統計は説得の為に必須の水準ではなくあくまで一要素でしかない。<span style="color: #1464b3;">データが無ければ議論にならないなどと言ってる人間は始めから議論する気などないのだ。</span></p> <p>何のためにデータや統計が必要になるといえば、事実をよりよく把握し共有するためであって主張の正しさに保証を与える為ではない。</p> <p>データや統計は説得のための材料の一つであるというだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。議論を良くするための必要条件でもなければ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">十分条件</a>でもないし、ましてや正しさを証明するものでもない。</p> <p>それでもデータはそれを扱う人間がしっかりしていれば有用でありうる、というのが当面の状況なのだ。</p> <h4 id="参考">【参考】</h4> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901119?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51MXNQX585L._SL500_.jpg" border="0" alt="統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門" title="統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901119?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A5%A8%A5%EB%20%A5%D9%A5%B9%A5%C8">ジョエル ベスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901119?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p> </p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51v5zpEbphL._SL500_.jpg" border="0" alt="統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ" title="統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A5%A8%A5%EB%20%A5%D9%A5%B9%A5%C8">ジョエル ベスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p> </p> tatsumi_kyotaro 「なんかそういうデータあるんですか?」「それってあなたの感想ですよね」という詭弁的ミーム hatenablog://entry/4207112889902474065 2022-12-04T19:35:15+09:00 2023-03-13T18:28:52+09:00 1.はじめに ベネッセホールディングスが集計した小学生の流行語の一位に、ひろゆき氏の「それってあなたの感想ですよね」がランクインしたというニュースがあった。 現在、「データを伴わない意見はただの感想でしかない」というアホみたいな風潮があり、データ化できるものとできないものがあるというごく当たり前のことが無視されていると感じる人は少なくないのではないだろうか。 社会の全てがデータ化されているかのように言う人までいる状況でそう感じるのはおかしなことではない。 統計やデータを議論の補強材料にするならまだしも、「データや統計なしに議論をするべきではない」といった主張はナンセンスだ。 この記事ではそうし… <h4 id="1はじめに">1.はじめに</h4> <p><span style="color: #333333; font-family: Meiryo, メイリオ, Helvetica, ArialMT, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Osaka, Verdana, 'MS Pゴシック'; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: start; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;"><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D9%A5%CD%A5%C3%A5%BB%A5%DB%A1%BC%A5%EB%A5%C7%A5%A3%A5%F3%A5%B0%A5%B9">ベネッセホールディングス</a>が集計した小学生の流行語の一位に、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%D2%A4%ED%A4%E6%A4%AD">ひろゆき</a>氏の</span>「それってあなたの感想ですよね」がランクインしたというニュースがあった。</p> <p>現在、「データを伴わない意見はただの感想でしかない」というアホみたいな風潮があり、データ化できるものとできないものがあるというごく当たり前のことが無視されていると感じる人は少なくないのではないだろうか。</p> <p>社会の全てがデータ化されているかのように言う人までいる状況でそう感じるのはおかしなことではない。</p> <p>統計やデータを議論の補強材料にするならまだしも、「データや統計なしに議論をするべきではない」といった主張はナンセンスだ。</p> <p>この記事ではそうした社会的風潮について述べるものとしたい(補足も読まずにコメントをする連中がいるので念のため)。</p> <p>現在の社会問題を議論する上で十分な量のデータがあると感じている人がいるかもしれないが、それらは「なんとなくデータっぽい」推定値であることが少なくない。</p> <p>世の中に溢れるデータの群はまさに玉石混淆で、信用できないデータや全くのデタラメが大量に存在する。</p> <p>今後はより正確なデータの収集が進むかもしれないが、私達が生きている現代はまだまだ「データ化社会」には遠く、「データ思考」などと宣う人間もデータ的に聞こえることを言ってるだけということが少なくない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">データに基づいていない意見を批判して「データを出せ」などと言う人もいるが、彼らはデータとはそもそも何なのかをまるで理解していない。</span></p> <p>彼らが理解していないことを簡単にまとめるとおよそ次の三つになる。</p> <p>・現実にはデータ化できるものとできないものがある。</p> <p>・データは、特定の目的に従って収集されたものであって偏っている。</p> <p>・データを取るのには時間的、金銭的コストがかかる。</p> <p>これら三つのことを全く理解しないまま、データがないことと主張に根拠がないことを混同して語る人間は多い。</p> <p>データは切り取られた現実の一部でしかないし、<strong>データは証拠の一種ではあっても正しさの証明そのものではない、ということをデータ主義者たちは理解していない。</strong></p> <p>データ化作業には常に限界がある。今回はそのデータ化の限界について、ジョエル・ベストの文献を参照しながら考えたい。</p> <h4 id="2計測が困難なもの">2.計測が困難なもの</h4> <p>「データを出せ」「データがないなら議論はできない」と安易に言えてしまう人たちは、私たちの集められる情報には限界がありコスト面の制約もあるということを無視している。</p> <p>情報を集めるには時間もコストもかかるし、その上情報収集には様々な困難が付きまとうというのは当たり前の事実だ。</p> <p><strong>まず一つ挙げられるのは数えようとするものを定義することがそもそも困難である場合だ。</strong></p> <p>例えば、「防げたはずの医療ミスで死んだ患者」というものはかなり定義が難しい。</p> <p>冷静に考えてみて欲しいのだが、「防げたはずの医療ミスで死んだ患者」をどのように定義できるだろうか?</p> <p>まさかと思うが、医療従事者は全員ミスの隠蔽を一切行わない聖人君子で、なおかつ全員同じようにミスについて判断するように思考が統一された人間の集まりであるから、自己申告されたものだけを計上すればいいとは言わないだろう。</p> <p>ちゃんと数えるなら、まず何がミスで何がミスでないのかを判別できなければならない。その上、本当に患者がそのミスが原因で死んだのかそれとも別に原因があるのかを特定できる必要まである。</p> <p>このことについてジョエル・ベストは次のように説明する。</p> <blockquote> <p>防げる<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%E5%CE%C5%B2%E1%B8%ED">医療過誤</a>によって米国の病院で死ぬ患者は年に4万4000人から9万8000人に上るというものがある。これは際立って恐ろしい数字だ。(中略)しかし、命を奪う<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%E5%CE%C5%B2%E1%B8%ED">医療過誤</a>とは一体何なのか――そして、どうやってそれを特定し、数えるのか。(中略)この例は、一見はっきりした現象のように思われるかもしれないもの――<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%E5%CE%C5%B2%E1%B8%ED">医療過誤</a>で死ぬ患者――を計測するのが、ときにどれほど厄介であるかを示している。どの人の死が医療ミスの結果であるかを特定できると(楽観的に)考えても、死につながる誤りを一つ残らず数えるべきだろうか。もちろん、一人一人の患者の死を数えるべきだと考える人もいるかもしれない。しかし、昏睡状態の末期患者の人生を一日短くする誤りと、比較的健康な若者から何十年もの人生を奪う誤りとの間に違いを見る人もいるかもしれない。(『統計という名のウソ』P99-102)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51v5zpEbphL._SL500_.jpg" border="0" alt="統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ" title="統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A5%A8%A5%EB%20%A5%D9%A5%B9%A5%C8">ジョエル ベスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> </blockquote> <p>ジョエル・ベストが説明するように、<span style="color: #1464b3;">病院での死者の内一体何割が医療ミスによって死んだと言えるのかを定義すること自体難しいのだ。</span></p> <p><span style="color: #1464b3;">さらに言えば、昏睡状態の末期患者の人生を一日短くする誤りと、比較的健康な若者から何十年もの人生を奪う誤りを一緒にすべきなのかも意見が分かれることだろう。</span></p> <p>では、防げたはずの医療ミスで死んだ米国の患者が4万4000人から9万8000人というのはどこから来た数字かと疑問に思われるかもしれないが、実はこれは根拠不十分な論文を元にした推定値なのだ。(『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">統計という名のウソ</a>』P100)</p> <p><strong>このように、社会の実態を調査すると言った時に、そもそも調査対象の母集団をどう定義すべきか?という根本問題が存在することは多い。</strong></p> <p>自殺者の自殺理由もそれだ。どのような人がどのような自殺で自殺するのかについて一体どのように正確に計測すればいいというのだろうか。</p> <p>これも多くの場合、推測から求められる推定値が公的統計データになる。そもそも自殺かどうか分からないような不審死だって多くあるのにもかかわらず、だ。</p> <p>遺書があれば正確にカウントできるというわけでもなく、自殺するような状況に追い込まれたために、思い込みによる歪んだ自己認識である可能性もある。また自殺理由が複数ある場合や、間接的な原因はどうカウントするのかという問題も残る。</p> <p><strong>もちろん、他にも問題はある。</strong></p> <h5 id="21一つの数値にできないもの">2.1.一つの数値にできないもの</h5> <p>データ化できない現実の二つ目の例として、数値化するものの定義自体が難しい場合というのがある。</p> <p>例えば、「優れた教師」というものを数値で示すのは難しい。</p> <p>教師の優秀さや教え方には質的な違いがあるため、その質の違いを無視して数値という一元的な基準に還元するのは端的に間違っているとジョエル・ベストは主張する(『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">統計という名のウソ</a>』P50)。</p> <p><strong>「優秀さ」と言われるものは、複数の要素が組み合わさって評価されるもので、一つの数字に翻訳することなどできない。優れた教師を評価しようとしても、一体どういう教師が優れた教師なのかについてまず議論が必要だ。</strong></p> <p>間違っていけないのが、これは優秀な教師とダメな教師の区別などできないという話ではない。ただ、「優秀さ」は主観的で総合的な評価の産物でありし、「どのような環境で」「誰にとって」のものなのかという他の要素を無視しては語れないということだ。<span style="color: #1464b3;">ある生徒にとっては自分をグイグイ引っ張ってくれるような厳しい教師がそうかもしれないし、ある生徒にとっては自分のペースに合わせて丁寧に教えてくれる教師がそうかもしれない。</span></p> <p><strong>つまり、各々の主観による教師への感想が寄り集まる中で一般的な「優秀な教師」が分かるのであって、「優秀な教師」というものは個人の感想を排除して<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%EA%CE%CC">定量</a>化できるものではない。</strong></p> <p>「優秀さ」という、一見単純な指標でさえ多くの場合一つの数値に還元できない。</p> <p>数値化を必要とする概念が複数の要素の複合物なら、それぞれの要素に分けて計測すればいいという意見もあるかもしれない。</p> <p>しかしそうなると、「優秀さ」を考える上でどの要素がどれだけ重要なのかを決める必要が生まれ、議論はかえって複雑化する。</p> <p>この手の安易な反論をする人間は、データ化そのものを目的化しているので、そもそもデータは複雑な議論を単<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%E3%B2%BD">純化</a>するために必要とされているということを理解していない。</p> <h5 id="22どこまで範囲に含めればいいのか">2.2.どこまで範囲に含めればいいのか?</h5> <p>データを取る時は母集団の範囲も問題になる。</p> <p>これについてジョエル・ベストは、ホームレスの数の計測を例に挙げて説明している(『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901119?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門</a>』P63)。</p> <p>私なりに整理すると、およそ次のような問題だ。</p> <p>・一晩だけ路上生活してもホームレスになるのか? 一晩ではホームレスにならないのなら何日路上生活していればホームレスなのか?</p> <p>・路上生活ではなく他人の家に住むなどしていても、定住する家を持たない人間ならホームレスとカウントすべきではないか?</p> <p>・災害等により家が破壊され緊急避難所に住まなければならない人はホームレスか? 緊急避難所にいる人の中にはその後新たに定住場所で生活を再開する人もいれば路上生活を続ける人もいる。</p> <p>こうして考えてみれば、ホームレスという定義の範囲の問題に突き当たることになる。</p> <p>どこまでをホームレスに含めるのかを決めてからでないとホームレスの数を数えることは不可能だ。</p> <p>データ主義者たちは、集計範囲について解釈の余地がないレベルで定義を緻密化すればいいと主張するかもしれないが、ではその定義は妥当なのかという新たな問題が発生する。</p> <p>当たり前だが、ホームレスの数を調査するのはそこに調査の目的があるからであり、定義の適用範囲はある程度柔軟に解釈できないと調査目的を達成できない。</p> <p>事実、ホームレスについての行政調査では、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CD%A5%C3%A5%C8%A5%AB%A5%D5%A5%A7%C6%F1%CC%B1">ネットカフェ難民</a>も広義のホームレスに含めて調査するようになった。</p> <p>調査母集団の定義の範囲は、調査目的を達成するために時代と社会の変化に応じて柔軟に解釈する必要があるものなのだ。</p> <p>言い換えれば、調査対象となる母集団の定義範囲については主観的判断と異論が差し挟まる余地があるということだ。</p> <p>ただ単に定義を緻密化すればいいと考えしまうのは、データを取ること自体を目的化している証拠である。</p> <p>広すぎる定義を使用してデータを集めれば「正への誤分類」が起きて数字が誇張され現実が覆い隠されるが、狭すぎる定義を使用してデータを集めても「負への誤分類」が起こりデータは一部の現実しか反映しないことになる。</p> <p>こういう意味でも、私たちは現実をそのまま数値化できるわけではないのだ。</p> <h4 id="3統計の暗数の問題">3.統計の暗数の問題</h4> <p><strong>仮に客観的な母集団の定義をもとにした統計があった</strong><strong>としても、その統計が客観的事実であるとは限らない。</strong></p> <p>例えば、最も単純な例として犯罪件数の問題が挙げられる。</p> <p>「バレなきゃ犯罪じゃない」という言葉の通り、隠蔽される犯罪もあれば、何らかの理由で記録から消去されたり、被害者が泣き寝入りして件数として数えられない犯罪もある。つまり、公的機関の記録する犯罪は氷山の一角で、記録に残っていない犯罪も多くあるかもしれないということだ。</p> <p>実際、この国では公文書さえ偽造されている上、それを擁護する人間が大勢いる。「バレなきゃ犯罪じゃない」どころか、「バレたところで記録がなければ犯罪じゃない」というわけだ。</p> <p>また、被害者側から見ても裁判沙汰や警察沙汰にするのには経済と心理の両方の面でコストが要求される。裁判で訴えるには時間もお金もかかるし、被害者に対して「被害に遭ってどんな気持ちだった?」と面白半分でからかう人間も多数いる。被害者は同情だけでなく好奇の視線にも晒される。</p> <p>被害体験が当人にとって耐え難いほど<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>苦痛を伴う体験だった場合、自分が被害者であるという事実そのものを忘れてしまいたいという心理が働くのは至極当然だ。そんな人にとっては思い出したくないことについてわざわざ同情もされたくないだろう。</p> <p>余程程愚かな人間でない限り、何らかの理由で調査で記録されない事実がある可能性は想定できる。</p> <p>このように記録されない数を統計の世界では暗数と呼ぶが、このような暗数の問題は犯罪統計だけの問題ではない。</p> <p><strong>数多くの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%FD%B7%D7%B3%D8">統計学</a>者が口をそろえて言うように、どんな統計であっても暗数をゼロにすることなど不可能だ。</strong>まずもって暗数がないという証拠を出しようがない。</p> <p>だから、同じ統計を前にしても統計に含まれていない暗数がどの程度あるかは常に議論になる。</p> <p>問題はその暗数があるかないかではなく、それが統計結果にとって誤差の範囲内なのか、それとも重大なものかということだ。</p> <p>データを収集した人間は当然のことながら、暗数が誤差の範囲内に留まるように統計を作ろうとする。しかし、それも統計を作る人間の主観的な判断に過ぎず、実際に暗数がどの程度あるかは分からない。</p> <p>私たちができるのは、可能な限り暗数がある可能性を考え、可能な限りそれをデータに反映できるようにすることだけだ。ゼロにはできない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">暗数という視点から考えても統計は現実の一部の反映でしかないのだ。</span></p> <h4 id="4データを出せという批判が詭弁になる時">4.「データを出せ」という批判が詭弁になる時</h4> <p>個々の統計データは、ある程度調査者の主観によって偏向してしまうというのは<a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/07/16/205536">初回記事</a>と<a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/07/31/155350">前回記事</a>に書いた通りだが、<span style="color: #1464b3;">個々のデータが偏っていても参照するデータを増せば客観性を担保できるとかそういう問題ではないというのが今回の内容だ。</span></p> <p>見てきた通り、数値化できる現実の範囲には制限があり、集計されない事実がある以上、<strong>そもそもデータ化できる範囲自体が偏っている</strong>からだ。</p> <p>結果、私たちが日頃参照するデータ群は恣意的な推定値を含むものが多く存在する。</p> <p>これを理解せずに何に対しても「データを出せ」と叫ぶのはただの詭弁としか言いようがない。こうした陥穽を無視してデータが必須だと主張するのはカルト宗教の信仰と変わらないだろう。</p> <p>データがある場面でデータを無視していれば批判されるのは当然だろうが、十分なデータや統計がない場面でデータを出せというのは機序を理解していないただの詭弁だ。</p> <p>データや統計というものは無目的に収集されない。必ずそのデータを取る人間の仮説の証明という目的があり、人員、時間、予算も必要な場合がある。P値ハッキングの問題も考えれば、素人が思いつきで集めたデータを使って議論などすべきではない。そんなことも分からずに、素人相手に向かって「とにかくデータを集めればいい」などと宣うのは論外という他ない。</p> <p>こうした論法は実際公害問題で加害者側が使った論法に近い。</p> <p>公害問題も、汚染物質がどのように被害者の体内に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%AE%C6%FE">流入</a>し、どの程度<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%F2%B9%AF%C8%EF%B3%B2">健康被害</a>を及ぼしたのかという因果関係の証明は、その機序が複雑だったため、当時の法的因果関係論の基準では因果関係が認められていなかった。</p> <p>被害者たちが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%F2%B9%AF%C8%EF%B3%B2">健康被害</a>を訴えても、企業と企業が雇った科学者たちは一貫して因果関係を証明できないと否定した。実際、汚染物質がどのような経路で被害者の体内に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%AE%C6%FE">流入</a>したのか、被害の全てが汚染物質が原因といえるのかを証明するデータが存在しなかったからだ。</p> <p>まず、汚染物質の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%AE%C6%FE">流入</a>経路に関しては複数の経路を経ている可能性があり、特定が困難だった。加えて、被害の全てが汚染物質が原因だとは限らず、他の要因が原因となっている可能性もありえた。他の要因に対して汚染物質の健康への影響がどれだけあるのかを証明することも困難だった。</p> <p>これは到底素人に集められる範疇ではない。</p> <p>まさに企業側は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%F2%B9%AF%C8%EF%B3%B2">健康被害</a>に苦しみ続ける被害者に対して「私たちに原因があるというデータを出してみろ」と嘲笑ったようなものだった。データを取ること、統計を取ることのコストの問題を全て被害者に押し付けたのだ。</p> <p>だから公害による被害は、それまで前例のなかった疫学的因果関係を事実的因果関係の立証で認めた上で何年も経たなければ認められることがなかった。その間、多くの被害者は被害認定されることすらなく死んでいき、生き残った人も<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%F2%B9%AF%C8%EF%B3%B2">健康被害</a>に苦しむ生活をしなければならなかった。</p> <p>公害の例は、データや統計が十分に集まっていない場面でも議論が必要なことも多くあることを私たちに教えてくれる。データが無い場合は人々は推測から主張を組み立てるしかないし、どの程度のデータがあればいいのかも決定できるわけではない。</p> <p>そして何より重要なことは、データがないからといってはその推測が間違っているとは限らないということだ。データがないのはデータはないというだけの話だ。<strong>「肯定する証拠がないから間違っている」というのは端的な誤りだろう。</strong></p> <p>データが無いからといって推測による議論を退けていい理由にはならないのだ。</p> <p><strong>そもそも私たちは事実関係が曖昧な事柄についても日常的に議論している。</strong></p> <p>例えば、防犯カメラの映像などの記録に残らない場所で行われた犯行で参照できる情報が限られていたとしても裁判は行われる。人間の記憶に基づく証言という非常に曖昧なものを頼りにするしかなくとも判決は下される。</p> <p>私たちは社会起こっている全ての出来事の情報を得ることなんてできないし、情報を得るためにはコストや時間をかけなければならない。また、得られた情報を正しく評価できるわけでもない。</p> <p><span style="color: #1464b3;"><strong>それでも、私たちは様々な議論において限られた情報から事実を類推し、それをもとに主張を組み立てるしかない。</strong></span></p> <p>反対に、大量のデータがあってもそれを解釈する理論が不十分なために議論が推測の域を出ないものもあり、例えば経済の問題はそれに近い。</p> <p>経済問題では、過去の莫大なデータを元に政策が決定されるが、過去のデータ解釈には様々な解釈の仕方があるゆえに常に失敗の可能性がつきまとうし、未来が過去のデータ通りにいくとは限らない。経済の領域においては、データとそれを解釈する理論が不十分だからと言えるだろう。そのようにデータを解釈する理論が不十分な状態でも人びとは経済政策について議論し、対立する相手を批判し、政治的な決定を下す。</p> <p>経済の議論の例は、データがあるからと言ってそれがどの程度議論の妥当性を高めるのかは分からないという例だ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">想定外の事態まで含めた未来のデータは誰も持っていないが、それでも私たちは何が起こるか分からない未来のために政治をするし議論もするのだ。</span></p> <h4 id="5まとめ">5.まとめ</h4> <p>第<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%B0%BC%D4">三者</a>を納得させるために主張には根拠が必要だ。しかし、データや統計はその根拠の候補の一つになりうるというだけだ。データがなくても根拠があればいい。データのない類推的な意見に対しては、どの部分が妥当ではない可能性があるのかをまず指摘して、それでなお意見が対立した場合にそれを決着させるためにデータを求めるというのが正しい順序だ。様々な事例や個人的訴えが集まり仮説が立てられて初めてデータを取ろうという人間が出て来るわけで、個々の訴えに対してデータがないと指摘するのは<strong>何も言えていないに等しい。</strong></p> <p><strong>現在に至るまでの社会にまつわるデータの蓄積がどこまで信用して良いものなのか根本的には分からないし、客観的に示しようがないのだ。</strong></p> <p>つまり、蓄積されたデータがどんな事実を反映していてどんな事実を無視しているのかは私たちが主観的に判断を下さなければならない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">蓄積されたデータだけがあってもそこから自動的に疑いようのない社会的事実が見えてくるわけではない。</span></p> <p>ゆえに、<strong>データは常に人間によって疑われ、検証され、新たな仮説を出すためのたたき台でなければならないし、それ以上のものではありえない。</strong></p> <p>私たちは<strong>生活実感や経験、個人的体験</strong>を参照しながらデータを<strong>主観的に解釈して</strong>議論するわけで、議論の中でデータの解釈が蓄積することでしか社会は見えてこないだろう。</p> <p><span style="color: #1464b3;">データの蓄積は、社会問題について議論する時の必要最低限の条件ではないし<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">十分条件</a>でもない。ただ単に一つの判断材料である。</span></p> <p>さて、統計データが事実そのものではないということに関しては、多少なりとも頭の働く穏健なデータ主義者達なら認めるところだろう。彼らは、データというものが作成者の主観によって偏ることも、大抵の情報収集ではバイアスの影響を排除しきれないことも、現実の全てをデータ化できるわけではないことも理解している。</p> <p>しかし、そうした穏健なデータ主義者達も、各々が思い込みで好き勝手に事実を捏造するような事態よりはデータある方が望ましいと言うだろう。</p> <p><strong>偏向したり歪んでいる可能性がある統計やデータを使って議論が混乱するケースと、統計やデータを全く使わず議論が混乱するケースを比較した時に、後者の混乱の方がより重大で避けるべきだという反論である。</strong></p> <p>彼らからすれば、デー<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BF%A5%BB%A5%C3%A5%C8">タセット</a>の偏向やバイアスによるデータの歪みは統計<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>やデータ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>の問題に帰着する。みんなが偏向やバイアスを見抜くだけの十分な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>を備えれば、統計データを吟味して「正しい現実理解」に辿り着くことができるというわけだ。</p> <p>私はこれに対して、むしろデータや統計こそが議論の混乱を生み出す場合があることを示して反論したい。</p> <p>具体的な反論については次回の記事で書くことにする。</p> <h4 id="補足">(補足)</h4> <p><span style="font-size: 80%;">※コンテクストが読めない人間から<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%D2%A4%ED%A4%E6%A4%AD">ひろゆき</a>発言のコンテクストを読めとのコメントを頂いておりますが、言及したいのは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>元となった<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%D2%A4%ED%A4%E6%A4%AD">ひろゆき</a>の発言についてではなく、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>とその受容のされ方についてです。タイトルだけ読んで中身を読んでないのかもしれませんが、メインはあくまで統計データの扱われ方と社会的風潮です(コンテクストを読めば分かる話ですが</span><span style="font-size: 80%;">)。まぁそもそも、元ネタ動画のコンテクストの解釈も「感想」でしかないわけですが。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;">※文脈どころか補足すら読めない人がいるのでタイトルに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>と追記。</span></p> <p> </p> <p>【次回記事】</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2023%2F03%2F13%2F181548" title="データリテラシーの意義とその限界 - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2023/03/13/181548">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <h4 id="参考文献">【参考文献】</h4> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901119?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51MXNQX585L._SL500_.jpg" border="0" alt="統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門" title="統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901119?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A5%A8%A5%EB%20%A5%D9%A5%B9%A5%C8">ジョエル ベスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901119?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51v5zpEbphL._SL500_.jpg" border="0" alt="統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ" title="統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A5%A8%A5%EB%20%A5%D9%A5%B9%A5%C8">ジョエル ベスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51rhe9847DS._SL500_.jpg" border="0" alt="デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)" title="デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A3%D4%A1%A6%A5%D0%A1%BC%A5%B0%A5%B9%A5%C8%A5%ED%A1%BC%A5%E0">カール・T・バーグストローム</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%F4%A5%A3%A5%F3%A1%A6%A3%C4%A1%A6%A5%A6%A5%A8%A5%B9%A5%C8">ジェヴィン・D・ウエスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FC%B7%D0BP">日経BP</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p> </p> tatsumi_kyotaro 統計のバイアス~データの信頼性、ファクトチェック~ hatenablog://entry/13574176438102100471 2022-07-31T15:53:50+09:00 2023-01-09T17:59:25+09:00 1.はじめに 1.信頼性のないデータとバイアス 2.社会調査方法によるバイアス 2.1.アンケート形式 2.2.電話調査 2.3.インタビュー形式 3.質問内容によるバイアス 3.1.回答者の状態によって発生するバイアス 3.2.調査アンケートの表現によるバイアス 4.時代によるバイアス 5.信頼性の高い統計データとは何か? 【参考文献】 1.はじめに 今の社会では、統計やデータが集まれば正しい結論が導けると漠然と考えている人は多いのではないだろうか。 しかしそれは幻想だ。 信頼性のないデータが集まっても信頼性のない結論になるという当たり前のリスクが軽視されている。 データには何らかのバイアス… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#1はじめに">1.はじめに</a></li> <li><a href="#1信頼性のないデータとバイアス">1.信頼性のないデータとバイアス</a></li> <li><a href="#2社会調査方法によるバイアス">2.社会調査方法によるバイアス</a><ul> <li><a href="#21アンケート形式">2.1.アンケート形式</a></li> <li><a href="#22電話調査">2.2.電話調査</a></li> <li><a href="#23インタビュー形式">2.3.インタビュー形式</a></li> </ul> </li> <li><a href="#3質問内容によるバイアス">3.質問内容によるバイアス</a><ul> <li><a href="#31回答者の状態によって発生するバイアス">3.1.回答者の状態によって発生するバイアス</a></li> <li><a href="#32調査アンケートの表現によるバイアス">3.2.調査アンケートの表現によるバイアス</a></li> </ul> </li> <li><a href="#4時代によるバイアス">4.時代によるバイアス</a></li> <li><a href="#5信頼性の高い統計データとは何か">5.信頼性の高い統計データとは何か?</a></li> <li><a href="#参考文献">【参考文献】</a></li> </ul> <h4 id="1はじめに">1.はじめに</h4> <p>今の社会では、統計やデータが集まれば正しい結論が導けると漠然と考えている人は多いのではないだろうか。</p> <p>しかしそれは幻想だ。</p> <p>信頼性のないデータが集まっても信頼性のない結論になるという当たり前のリスクが軽視されている。</p> <p>データには何らかのバイアスがかかっていることが多く、バイアスの影響が強いと思われるデータは信頼性がない。</p> <p>そこで、今回はバイアスとは何かを説明し、信頼性の高いデータとは何かについて考えることとしたい。</p> <h4 id="1信頼性のないデータとバイアス">1.信頼性のないデータとバイアス</h4> <p>信頼性のないデータは計測ミスのみから生まれるわけではない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">原則として統計のデータというものは、測ろうとしたものと実際に測ったものが違ってはいけない。</span></p> <p><strong>何を当たり前なことを言っているんだと思うかもしれないが、これは結構厄介な問題だ。</strong></p> <p>なぜなら、様々なバイアスが<strong>データを偏らせる</strong>からだ。</p> <p>一つ例を挙げよう。</p> <p>グーグルは選りすぐりの人材を採用するために、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%A1%B3%A3%B3%D8%BD%AC">機械学習</a>技術を取り入れて社員の職務遂行能力のデータを取ったところ、恐ろしいデータがあることが判明した。</p> <p><strong>それは、プログラミング・コンテストで優秀な成績だった人ほど職務遂行能力が低いというデータだった。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">少し考えてみてほしい。これはどのような意味を持つデータなのか。</span></p> <p><strong>このデータは、プログラミング・コンテストの成績が悪い人間を採用した方が高い職務遂行能力が期待できるという結論を導けるだろうか?</strong></p> <p>そうではない。</p> <p>カール・T・バーグスト<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%ED%A1%BC%A5%E0">ローム</a>はこのデータを次のように説明する。</p> <blockquote> <p>グーグルのエンジニアならばプログラミングはできて当たり前だ。グーグルに採用されたということは、大勢の候補者から選ばれた人材だ。選抜にプログラミングのスキルが重視されたに違いない。プログラミング・コンテストのような課題で評価が付けられたのかもしれない。採用のプロセスではプログラミング・コンテストで活躍できる能力が重視され、職務遂行能力は多少軽視された、と言い換えることもできる。</p> <p>(『デタラメ データ社会の嘘を見抜く』カール・T・バーグスト<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%ED%A1%BC%A5%E0">ローム</a> P175)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51rhe9847DS._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)" title="デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A3%D4%A1%A6%A5%D0%A1%BC%A5%B0%A5%B9%A5%C8%A5%ED%A1%BC%A5%E0" class="keyword">カール・T・バーグストローム</a>,<a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%F4%A5%A3%A5%F3%A1%A6%A3%C4%A1%A6%A5%A6%A5%A8%A5%B9%A5%C8" class="keyword">ジェヴィン・D・ウエスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FC%B7%D0BP">日経BP</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> </blockquote> <p>グーグルの社員である時点で、データの中にはプログラミング能力も職務遂行能力も両方ない人間はいないというのがポイントだ。</p> <p>グーグル社員である時点で、みんな一定以上のプログラミング能力と職務遂行能力を持っていると見るべきだろう。</p> <p>ある人は高いプログラミング能力と一定以上の職務遂行能力を期待されて雇用され、ある人は一定以上のプログラミング能力と高い職務遂行能力を期待されて雇用されたかもしれない。そう考えると、プログラミング・コンテストの成績と職務遂行能力の関係は負の相関を示してもなんら不思議ではない。</p> <p><strong>データのサンプルにされた人たちは、ランダムな集団から選ばれたのではなく、既にグーグル社員という一定の特徴を持った集団から選ばれてしまっていたのだ。</strong></p> <p><strong>結果、データも偏ったのだ。</strong></p> <p>データを集める際、データのサンプルとなる人々がある共通した特徴を持っていると集まるデータも偏ってしまう。その場合、サンプリングして集めたデータが調査しようとした現実と乖離してしまう。</p> <p><span style="color: #1464b3;">このようにサンプリングされるデータに影響を与え結果を偏らせる要因をバイアスと言い、偏ったデータのことをバイアスのかかったデータと言う。</span></p> <p><strong>簡単に言えば、バイアスのかかったデータは信頼性のないデータである。</strong></p> <h4 id="2社会調査方法によるバイアス">2.社会調査方法によるバイアス</h4> <p>しかし、実際問題としてバイアスを取り除く作業は一筋縄ではいかない。</p> <p>例えば、社会の実情を統計で調べる際の手法をいくつか考えてみよう。</p> <h5 id="21アンケート形式"><strong>2.1.アンケート形式</strong></h5> <p>まず、アンケートは任意のためそのアンケートの内容に関心がある人間しか回答しない傾向がある。</p> <p><span style="color: #1464b3;">アンケートに答えてくれる人はランダムで無作為な人ではなく、既にその話題に一定の興味を持っている人だ。</span>その時点でバイアスがかかってしまう。</p> <p>政治に関するアンケートなら、政治に関心のない人は協力率が低くなりやすい傾向がある。</p> <p><span style="color: #333333; font-family: 'Noto Sans JP', 'ヒラギノ角ゴシック Pro', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', メイリオ, Meiryo, Osaka, 'MS Pゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: start; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">アンケート調査の中でも代表的になってきているネットリサーチは特に問題含みだ</span>。</p> <p>ネットの声というものは偏っているからだ(参考 : <a href="https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58264?imp=0">大規模調査でわかった、ネットに「極論」ばかり出回る本当の理由(山口 真一) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)</a>)。</p> <h5 id="22電話調査">2.2.電話調査</h5> <p><strong>電話調査は回収率の低さが問題だ。</strong></p> <p>電話調査は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%A4%CF%C0%C4%B4%BA%BA">世論調査</a>などでも使われている手法だが、内容にもよるが半分程度しか回答してくれる人がいない。<span style="color: #1464b3;">いきなり掛かってきた電話調査に対してちゃんと答えてくれる人はそう多くないのだ。</span></p> <p>そのため、電話調査でもバイアスは発生する。</p> <h5 id="23インタビュー形式">2.3.インタビュー形式</h5> <p>電話調査と違って、街頭インタビューであれば話題に興味を持っていない人も引き留めて回答してもらうことができるし、顔を合わせている分ちゃんと答えてくれる人が増えることが期待できる(それでも答えてくれない人は多くいるだろうが、前の二つに比べれば多少マシだろう)。</p> <p>しかし、インタビュー形式になると今度はインタビュアー効果(interviewer effect)を考える必要が出てくる。</p> <p>インタビュアー効果(interviewer effect)とは、インタビュアーがどんな人物なのかによって回答者の心理に与える影響のことである。</p> <p>インタビュアー効果はインタビュアーが回答者の心理に影響を与えるワンウェイ効果と、インタビュアーと回答者が相互に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>な影響を及ぼし合う相互効果に分類され、その二つにもさらに細かい分類が存在する。</p> <p>インタビュアー効果の最も有名な例については<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%B0%EC%CF%BA">谷岡一郎</a>の『「社会調査」のウソ』から引用しよう。</p> <blockquote> <p>インタビューアー効果については、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA">アメリ</a>カでの実験例がある。黒人、白人それぞれ十名ほどの男性に、同じ程度にまで面接ができるよう訓練を施した上で、様々なターゲットに対して次のような質問をぶつけてみたのである。「あなたは、それにふさわしいと思われる力量があれば、黒人が大統領に選ば絵れることに賛成しますか、しませんか」</p> <p> 結果は、黒人のインタビュアーが白人のターゲットにこの質問をした時の方が、白人のインタビュアーが白人に同じ質問をしたときに比べ、はるかに肯定的な回答が多かった。</p> <p> 差別的意識を持っているかどうかは別にして、白人が黒人のインタビュアーに対し「賛成しません」と答えるのには、多少の勇気を要するだろう。この「黒人」と「白人」を「女性」と「男性」に置き換え、同じようなインタビューを試みた例もあるが、黒人と白人のケースほどではないにせよ、同じような結果が出ている。</p> <p>(『リサーチ・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>のすすめ「社会調査」のウソ』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%B0%EC%CF%BA">谷岡一郎</a> P158, 159)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4166601105?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/41T6G657JGL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ (文春新書)" title="リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ (文春新書)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4166601105?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ (文春新書)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%20%B0%EC%CF%BA" class="keyword">谷岡 一郎</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%B8%E9%BA%BD%D5%BD%A9">文藝春秋</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4166601105?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p><span style="font-size: 80%;">念のため論文も紹介しておく⇒(<a href="https://academic.oup.com/poq/article-abstract/52/1/53/1878619?redirectedFrom=fulltext&amp;login=false">https://academic.oup.com/poq/article-abstract/52/1/53/1878619?redirectedFrom=fulltext&amp;login=false</a>)</span></p> </blockquote> <p>インタビュアーの性別や人種だけでなく、表情や仕草、声や態度などから受ける人柄の印象によっても、回答者が抱く感情は変化するだろう。</p> <p>回答者の感情が変われば回答にも影響が出るのは想像に難くない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">極端な話、回答者は怪しい(と感じた)人物からの質問に対しては身構えて嘘を言ったり、素直に答えないかもしれない。逆にインタビュアーに良い印象を持ったとしても、今度は自分を良く見せようと見栄を張ったり本音を隠したりするかもしれない。</span></p> <p>このように、主要な調査手法のどれもそれぞれにバイアスがある。</p> <p>調査形式にまつわるバイアスの話はここまでにして、次は質問内容によるバイアスの話をしよう。</p> <h4 id="3質問内容によるバイアス">3.質問内容によるバイアス</h4> <p>質問の内容でもバイアスはかかってしまう。</p> <p>例えば、「○○大学の研究によると~ですが」などと<strong>権威による見解</strong>が事前に示されると、それらの意見を賛同する選択肢が選ばれやすくなるという<strong>ハロー効果</strong>は有名だ。ここではハロー効果のような比較的簡単に避けられるものは解説せず、避けるのが難しいものを紹介したい。</p> <p>アンケートのバイアスには大きく分けて二種類ある。回答者の状態によって発生するバイアスと質問の表現によるバイアスだ。一つ一つ見ていこう。</p> <h5 id="31回答者の状態によって発生するバイアス">3.1.回答者の状態によって発生するバイアス</h5> <p>設問が多かったり同じような質問が続いたりすることで、<strong>回答者が飽きたり疲れたりして適当に回答する</strong>といった<strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%E8%CF%AB">疲労</a>効果(fatigue effect)</strong>がある。<span style="color: #1464b3;">アンケートは回答者のやる気を考慮すると簡単でかつ短いものにした方がいいが、そうなるとどうしても表面的な回答ばかり集まるため複雑で深い実態調査にならない。</span></p> <p>また、<span style="color: #1464b3;">質問をシンプルにしすぎると今度は黙認バイアス(Acquiescence bias)が強く働くことになるという問題もある</span><strong>。黙認バイアスとは、質問調査において回答者が内容に関わらず肯定的回答をする傾向があること</strong>で、同意バイアス(agreement bias)とも呼ばれる。これを避けるためには被験者の安易な賛成または反対を避けるよう、自由回答形式にしたりして被験者がちゃんとじっくり考えて回答できるよう導く必要があるが、<span style="color: #1464b3;">そうすると回答者が疲れたり面倒くさがったりしてかえって<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%E8%CF%AB">疲労</a>効果(fatigue effect)が強くなるということもありえる。</span></p> <p>さらに、人は無意識に見栄を張ったり自分の意見を取り繕って本音とは違うことを書くことがある。これを<strong>社会的望ましさバイアス(social desirability bias)</strong>と呼ぶが、これは<span style="color: #1464b3;">匿名アンケートにすることである程度避けることが可能だ。</span>しかし、匿名アンケートにすると今度は責任感のない適当な回答が増えるというバイアスがかかる。</p> <p>また、自分で自分のことをどう思いたいか、つまり自分で自分を騙す心理も人間にはあり、<strong>自分がどう見られたいか、自分をどんな人間だと思い込みたいかという心理によるバイアスは回避が難しい。</strong></p> <p>質問内容が過去の体験や経験についての質問の場合、人の記憶の曖昧さが問題になることがある。<a href="https://www.jumonji-u.ac.jp/sscs/ikeda/cognitive_bias/cate_m/m_01.html">虚記憶(false memory)</a>や<a href="https://www.jumonji-u.ac.jp/sscs/ikeda/cognitive_bias/cate_m/m_03.html">事後情報効果(post-event information effect)</a>、<a href="https://www.jumonji-u.ac.jp/sscs/ikeda/cognitive_bias/cate_m/m_07.html">後知恵バイアス(hindsight bias)</a>などが有名だが、<strong>人間の脳</strong><strong>は虚偽の記憶を作り出す</strong>。<span style="color: #1464b3;">つまり、本人は嘘を言ってるつもりがなくても実際は嘘ということはよくあることなのだ。</span></p> <p><span style="color: #1464b3;">このように、質問の回答者側には常に何らかの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>効果が発生しておりそれがバイアスになる。</span></p> <h5 id="32調査アンケートの表現によるバイアス">3.2.調査アンケートの表現によるバイアス</h5> <p>例えば、「あなたはA社が環境問題へ取り組んでいることを知っていましたか?」という質問の後に、「A社に対してどのような印象を持っていますか?」と聞けば、好意的な回答が増えるといったような現象が起こる。このように質問の順番や流れによって回答が誘導されてしまうことを文脈効果(キャリーオーバー効果)と呼ぶ。</p> <p>通常、文脈効果(キャリーオーバー効果)を避けるために、質問の順番を逆にしたり関係のない質問を間に入れたりするという対策が取られることが多い。</p> <p><strong>しかし、</strong><span style="color: #1464b3;">調査は目的に沿って行われているものであるから、質問も全体的に一つのテーマで統一されて適度な誘導がある方が自然であり、関係のない質問を途中で入れるとかえって回答者から適切な回答を引き出せなくなるリスクがあるというジレンマがある。</span></p> <p>(参考論文:<a href="https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SO/0041/SO00410L049.pdf">https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SO/0041/SO00410L049.pdf</a>)</p> <p>また、言葉の表現やニュアンスが持つ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%C6%A5%EC%A5%AA%A5%BF%A5%A4%A5%D7">ステレオタイプ</a>が回答を誘導することもある。例えば「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A1%BC%A5%C8">ニート</a>の就職支援にもっと税金が使われるべきだと思いますか」と聞くと「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A1%BC%A5%C8">ニート</a>」という言葉が持つ否定的なニュアンスによって否定的な回答を誘発しやすい。</p> <p>こうした<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%C6%A5%EC%A5%AA%A5%BF%A5%A4%A5%D7">ステレオタイプ</a>による誘導を避けるためには、なるべく否定的印象も肯定的印象もない言葉を選ぶ必要がある。<span style="color: #1464b3;">しかし、言葉というものは通常何かしらのニュアンスを伴うものであり、否定的でも肯定的でもないニュアンスの言葉を選ぼうとすると、回答者が見慣れない言葉遣いの長文になりちゃんと読まれない</span>というジレンマがある。</p> <p>「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A1%BC%A5%C8">ニート</a>の就職支援にもっと税金が使われるべきだと思いますか」という質問を「就学及び就労をしておらず、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%A6%B6%C8%B7%B1%CE%FD">職業訓練</a>も受けていない状態にある人の就職支援にもっと税金が使われるべきだと思いますか」という質問に変えると、今度は黙認バイアスや<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%E8%CF%AB">疲労</a>効果が働いて質問内容を理解しないまま答える人も出てくる可能性がある。</p> <p><strong><span style="color: #1464b3;">もっと根本的問題として、言葉に対する印象やイメージは時代や地域によっても変遷するというのがある。</span></strong></p> <p>例えば、日本では「非常に満足」「まぁ満足」「どちらでもない」「やや不満」「満足していない」の5つ選択肢から選ばせると、<strong>日本では「まぁ満足」に選択が集中しやすい</strong>ことが分かっている(参考:『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4166601105?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ </a>』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%B0%EC%CF%BA">谷岡一郎</a> P169)。</p> <p>同じ日本でも関東と関西では言葉の使い方が違うし、同じ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%D4%C6%BB">都道</a>府県内でも細かな言葉遣いの違いがある。例えば、京都の「京ことば」などは遠回しに婉曲な表現があることで有名だ(<span style="font-size: 80%;">誇張されて伝わっている部分があるとはいえ</span>)。</p> <p>地域だけでなく、時代によっても言葉の使われ方は変遷してきた。</p> <p>例えば、「オタク」に対するイメージ調査をしようとしても「オタク」という言葉の持つニュアンスや<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%C6%A5%EC%A5%AA%A5%BF%A5%A4%A5%D7">ステレオタイプ</a>は日々変化しており、世代によってもだいぶ異なる。</p> <p>「軽率に」という言葉は誤用が多くなり、「手軽に」「気軽に」という意味で使われるようになった。</p> <p><strong>同じ個人でも歳をとって言葉に対する感受性が変わることがあるだろう。</strong></p> <p>言葉を使って調査をする以上、<strong>言葉の受け取られ方が変われば、調査結果への影響が変化するが、それを正確に計測することはできない。</strong></p> <p><strong>そもそも、人々の考えは複雑で選択肢の中にないということもしばしばある。選択肢から選ばなければならないという制約が、事実を歪めることだってあるのだ。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">このように、言葉によるバイアスを取り除くことは不可能であり、質問調査が言葉を使って行われる以上、バイアスを完全に無くすことは難しい。</span></p> <h4 id="4時代によるバイアス">4.時代によるバイアス</h4> <p><span style="color: #1464b3;">社会の実態調査はそれをいつ行ったかによってもバイアスがかかる。</span></p> <p>例えば、夏は未成年の非行が多いことで有名だ。未成年の非行について夏にデータを取るのと冬に取るのでは結果が異なる。このように、統計データを取った季節によって発生する季節性バイアスをシーズナルバイアスと呼ぶ(参考:『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4166601105?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ </a>』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%B0%EC%CF%BA">谷岡一郎</a> p142)。</p> <p>もっと細かく見れば、月ごとにもイベントはあるし、売れるもの、流通するものは異なる。</p> <p>社会を騒がせる事件は季節を選ばず起こっているし、それらの<strong>環境や時事的状況変化が回答に影響しないとは限らない。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">例えば、政治家が不祥事を起こして炎上した直後としばらく経った後では政治家が行った政策の評価も違ってくるかもしれない。</span></p> <p>こうしたバイアスを避けるために、一回きりの調査ではなく長期的かつ継続的な調査が必要な場合がある。</p> <p>しかし、<span style="color: #1464b3;">時代が変われば常識も生活スタイルも文化も変わるので、長期的調査結果には時代や世代によるバイアスが影響を与え始める。</span></p> <p>このようなバイアスは例えば特定の政策の効果を測る時のノイズになる。<strong>ある時代や世代に対しては効果のあった政策でも、別の時代や世代では効果がないかもしれないのだ。</strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%B0%EC%CF%BA">谷岡一郎</a>は次のように説明する。</p> <blockquote> <p>同じ歴史は二度と繰り返せません。同じように見えても外部条件が少し異なるだけで、その影響は結果に多大な差をもたらすことがあるからです。(中略)「別の要素」が、測定の邪魔をするのです。この邪魔者を「ノイズ」と呼びますが、そのノイズはいくつもあり、結果に影響を与えつづけます。従って、社会科学における理論の検証には、外部ノイズによる理論値からの「ずれ」が必ず起こると考えるべきです。</p> <p>(『データはウソをつく』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%B0%EC%CF%BA">谷岡一郎</a> P34, P35)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4480687599?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/61GZ53Y7UTL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)" title="データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4480687599?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%20%B0%EC%CF%BA" class="keyword">谷岡 一郎</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%DE%CB%E0%BD%F1%CB%BC">筑摩書房</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4480687599?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> </blockquote> <p>そのような時代や世代によるバイアスの大きさを測ろうとしても、まずどういった指標がその時代の特徴が何なのかが分からない。実質収入、生活スタイル、職種や働き方、社会インフラ、文化、医療、人々の興味関心の移り変わりなど要素を挙げればきりがない上それらは相互に影響し合っていて、それぞれが時代の影響を受けているだろう。</p> <p><strong><span style="color: #1464b3;">このように、データを取る上では何がどのデータの数値にどれだけ影響を及ぼしているのか分からない。</span></strong></p> <p>見てきた通り、調査方法、回答者の心理、言葉による無意識の誘導、時代や世代など、さまざまな箇所でバイアスは発生しており、その全てを取り除くことは不可能だ。私たちが発見していないだけで、まだまだバイアスはあるかもしれない。<strong>全てのバイアスの影響を把握できない以上、取り除くことも不可能だ。</strong>もちろん、誠実な人間はバイアスを可能な限り想定しその影響を減らす努力をするわけだが、どの程度までバイアスを低減できているのかを証明する手段もない。</p> <p>サンプリングによって作られたデータはどんなものでも少なからずバイアスがかかっており、信頼できない要素が潜んでいる。</p> <h4 id="5信頼性の高い統計データとは何か">5.信頼性の高い統計データとは何か?</h4> <p><strong>どんなデータであろうとサンプリングによって集められたものはバイアスがかかっている。</strong></p> <p><strong>データは事実そのものではないし、信頼できない要素がある。</strong></p> <p>もちろん、これは信頼できるデータが存在しないということではない。</p> <p><span style="color: #1464b3;"><strong>社会にまつわるデータに関しては、信頼できるデータと信頼性のないデータを完全に区別できるわけではない</strong></span>ということだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;"><strong>信頼できるデータとは</strong>、何の偏りもないありのままの現実を示したものではなく、偏りが問題のない範囲で収まっていると<strong>人間が主観的に判断したもの</strong>のことだ。</span></p> <p><strong>だから同じデータや統計を見ても、それが事実かどうかについて当然意見の食い違いが起こるのだ。</strong></p> <p>ある人がこれは信頼性の高いデータだと言っても異論を唱える人間はいるかもしれない。</p> <p>信頼できるデータとは、<strong>個々人が主観的に意見を述べ</strong>議論される中で<strong>長い時間をかけて信頼されていったデータ</strong>だ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">データが人々の議論の正しさを決めるのではない。その逆で人々の議論がどんなデータが正しいのかを浮かび上がらせていくのだ。</span></p> <p>データに関する解釈とそれについての議論が蓄積していかなければデータの蓄積など全くの無意味と言っていい。</p> <p>さて、今回の話のまとめはここまでにしておこう。</p> <p>次回の記事は、データと社会について考える上で重要なデータ化の限界について整理しておこう。</p> <p>現在、データ化できるものとできないものがあるというごく当たり前のことが無視されている。あたかも社会の全てがデータ化されているかのように言う人もいる。</p> <p>しかしそれは幻想だ。</p> <p>一見データがありそうに思えてもよくよく考えてみればどうやってデータを取ればいいのか分からないものもあるし、実際データのように見えて全く適当な推定値でしかない場合もある。<span style="color: #1464b3;">例えば、自殺者の動機及び自殺の要因については、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%D9%BB%A1%C4%A3">警察庁</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%FC%C0%B8%CF%AB%C6%AF%BE%CA">厚生労働省</a>が作成したデータがあるが、推定値となっている</span><span style="font-size: 80%;">(死体を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A5%A4%A5%B3%A5%E1%A5%C8%A5%EA%A1%BC">サイコメトリー</a>にかけたり幽霊にインタビューをしているわけではない)</span>。</p> <p>多くのことが測定されていて数値化されているように感じているかもしれないが、よくよく見てみるとそれらは「データっぽい」推定値であることが少なくない。</p> <p>次回はそうした「データっぽい」ものであふれた社会について見ていくことにする。</p> <p>【次回記事】</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2022%2F12%2F04%2F193515" title="「なんかそういうデータあるんですか?」「それってあなたの感想ですよね」という詭弁 - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/12/04/193515">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <h4 id="参考文献">【参考文献】</h4> <p>↓データ社会への警鐘。ベストセラーになった『ファクトフルネス』よりもデータに焦点を合わせている。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51rhe9847DS._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)" title="デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A3%D4%A1%A6%A5%D0%A1%BC%A5%B0%A5%B9%A5%C8%A5%ED%A1%BC%A5%E0" class="keyword">カール・T・バーグストローム</a>,<a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%F4%A5%A3%A5%F3%A1%A6%A3%C4%A1%A6%A5%A6%A5%A8%A5%B9%A5%C8" class="keyword">ジェヴィン・D・ウエスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FC%B7%D0BP">日経BP</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>↓同じくデータ社会への警鐘を鳴らす内容だが、時々筆者のオリジナル用語なのではないか思われる単語も存在する。メ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%EA%A1%BC">モリー</a>・イフェクト、ドラマタイジング・エフェクトなる語は引用元が分からない。メ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E2%A5%EA%A1%BC">モリー</a>・イフェクトに至ってはバッテリーを放電しきらない状態での再充電を繰り返した場合に、放電中一時的に電圧が低下する現象である<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%E2%A5%EA%B8%FA%B2%CC">メモリ効果</a>(memory effect)が出てきてしまう。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4166601105?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/41T6G657JGL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ (文春新書)" title="リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ (文春新書)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4166601105?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ (文春新書)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%20%B0%EC%CF%BA" class="keyword">谷岡 一郎</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%B8%E9%BA%BD%D5%BD%A9">文藝春秋</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4166601105?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>↓簡単で分かりやすい解説をするちくまプリマーから出た<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%B0%EC%CF%BA">谷岡一郎</a>の本、悪い内容ではないが恐らく筆者は簡略化された説明をすることと簡単に説明をすることの違いを分かっていない。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4480687599?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/61GZ53Y7UTL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)" title="データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4480687599?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%20%B0%EC%CF%BA" class="keyword">谷岡 一郎</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%DE%CB%E0%BD%F1%CB%BC">筑摩書房</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4480687599?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>↓私たちの心理には自分で自分を騙す<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%B8%CA%B5%BD%E2%D6">自己欺瞞</a>の機能が備わっているという話をわざわざ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%CA%B2%BD%BF%B4%CD%FD%B3%D8">進化心理学</a>の枠組みで解説している。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B086SLTKP7?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/417ph8T3WyL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="人が自分をだます理由" title="人が自分をだます理由" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B086SLTKP7?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">人が自分をだます理由</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B1%A5%F4%A5%A3%A5%F3%A1%A6%A5%B7%A5%E0%A5%E9%A1%BC" class="keyword">ケヴィン・シムラー</a>,<a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%ED%A5%D3%A5%F3%A1%A6%A5%CF%A5%F3%A5%BD%A5%F3" class="keyword">ロビン・ハンソン</a>,<a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%E7%C4%D0%C6%D8%BB%D2" class="keyword">大槻敦子</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%B6%BD%F1%CB%BC">原書房</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B086SLTKP7?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p> </p> tatsumi_kyotaro データは客観的事実ではない~文系のための社会統計学入門~ hatenablog://entry/13574176438093822520 2022-07-16T20:55:36+09:00 2023-01-09T18:02:25+09:00 1.はじめに 2.統計は仮説から生まれる 3.統計は表現物である 4.データはメディアであり表現である 【今回の参考文献】 1.はじめに 統計学やデータサイエンスが持て囃されるようになって久しい。 しかし、社会問題に関する議論で統計やデータを重視する立場の人々の間では、データや統計に対するある誤解が流布しているように思う。 その誤解とは主に以下のようなものだ。 ・統計やデータは客観的な事実であり、個人の主観的な意見よりも信頼できる。 ・統計やデータを根拠にした主張は、そうでない主張より正しい(確率が高い)。 ・統計やデータを使えば、個人的な体験を根拠にした感情論や主観的な感想を述べるだけの議論… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#1はじめに">1.はじめに</a></li> <li><a href="#2統計は仮説から生まれる">2.統計は仮説から生まれる</a></li> <li><a href="#3統計は表現物である">3.統計は表現物である</a></li> <li><a href="#4データはメディアであり表現である">4.データはメディアであり表現である</a></li> <li><a href="#今回の参考文献">【今回の参考文献】</a></li> </ul> <h4 id="1はじめに">1.はじめに</h4> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%FD%B7%D7%B3%D8">統計学</a>やデータサイエンスが持て囃されるようになって久しい。</p> <p>しかし、社会問題に関する議論で統計やデータを重視する立場の人々の間では、データや統計に対するある誤解が流布しているように思う。</p> <p>その誤解とは主に以下のようなものだ。</p> <p><strong>・統計やデータは客観的な事実であり、個人の主観的な意見よりも信頼できる。</strong></p> <p><strong>・統計やデータを根拠にした主張は、そうでない主張より正しい(確率が高い)。</strong></p> <p><strong>・統計やデータを使えば、個人的な体験を根拠にした感情論や主観的な感想を述べるだけの議論を避けることができ、有意義な議論をすることができる。</strong></p> <p>おそらく、多少なりともデータ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>がある人であれば上に挙げた三つの思い込みは間違いだというのが分かるだろう。もしくは、条件付きであれば正しいが現実で条件を満たすことは難しいと言うかもしれない。</p> <p>しかし、これらが正しいと思っている人はけして少なくない。</p> <p>特に、統計やデータを使って個人的体験を根拠にして、主観的な感想や感情を意見として述べる人を批判する人はかなりこの傾向が強い。</p> <p>統計やデータに対して人々がどのような勘違いをしているか、カール・T・バーグスト<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%ED%A1%BC%A5%E0">ローム</a>は適切に述べている。</p> <blockquote> <p>言葉は頭の中で組み立てられたもの。数字はどうだろう。自然界からそのまま取り出したような印象だ。言葉は主観的で、いくらでも真実をねじ曲げたりぼやかしたりできる。直感と感情が盛り込まれ、表現力が駆使される。数字は違う。精度が高く、科学的アプローチに結びついているはずだ。誰が報告しても変わりないはず、だから信用できそうだ。</p> <p> 数字のほうが信頼できるという理由で、疑り深い人々は「とにかくデータだけを見たい」、「生データを見せろ」「測定値がすべてをあらわしている」と口にする。「データは嘘をつかない」という言い回しもよく聞く。ただ、ここにも落とし穴がある。(『デタラメ~データ社会の嘘を見抜く~』p114)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51rhe9847DS._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)" title="デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A3%D4%A1%A6%A5%D0%A1%BC%A5%B0%A5%B9%A5%C8%A5%ED%A1%BC%A5%E0" class="keyword">カール・T・バーグストローム</a>,<a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%F4%A5%A3%A5%F3%A1%A6%A3%C4%A1%A6%A5%A6%A5%A8%A5%B9%A5%C8" class="keyword">ジェヴィン・D・ウエスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FC%B7%D0BP">日経BP</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> </blockquote> <p><strong>今回の記事では、まず統計やデータは優れて客観的な事実であるというのは思い込みに過ぎないことを説明示していきたい。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">結論から先に述べよう。</span></p> <p><strong>統計やデータは事実そのものではない。</strong></p> <p><strong>統計やデータは人間によって作られるものだ。</strong><span style="color: #1464b3;">人間が解釈した現実を数字によって表現したものが統計やデータなのだ。</span></p> <p>これは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%FD%B7%D7%B3%D8">統計学</a>やデータサイエンスの入門書ではあまり触れられていないことだ。統計やデータとはそもそも何であるかについて、統計教育で軽視される傾向にあることはジョエル・ベストも次のように認めている。</p> <blockquote> <p>統計はすべての社会行為の産物、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%D2%B2%F1%B3%D8">社会学</a>者が社会的構成と呼ぶ作用の産物だ。この点はあまりにも明白なように思えるかもしれないが、統計について考えるとき――とくに教えるとき――に忘れたり無視したりしがちだ。(中略)その結果、統計教育は、現実の統計がどのように生まれるかについての考察を軽く扱いがちだ。だが、統計はすべての人々の選択と妥協の産物であり、そうしたことによって形作られ、制約され、ゆがめられるのだ。(『統計という名のウソ』P14)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51v5zpEbphL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ" title="統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A5%A8%A5%EB%20%A5%D9%A5%B9%A5%C8" class="keyword">ジョエル ベスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> </blockquote> <p>さて、統計やデータは人間によって作られるものであると説明するために、まず統計がどのように作られるのかについて触れていこう。</p> <h4 id="2統計は仮説から生まれる">2.統計は仮説から生まれる</h4> <p>統計を取る際は仮説を立てて因果モデルを形成する。</p> <p>仮説を立ててそれを証明する目的で情報収集を行うのだ。仮説や目的なく、いきなりアンケートや調査をするわけではない。</p> <p>「アンケート調査でもやって実態を調べてみてから議論しよう」といった程度で集められたデータでは結局何が言いたいのか分からないものになる。</p> <p>何の仮説を立てないでいきなり情報収集をすればどうなるかについては、良い例がある。</p> <p>以下は、Vigen, T. のウェブサイト(<a href="http://tylervigen.com/spurious-correlations">http://tylervigen.com/spurious-correlations</a>)で載せている有名な無意味な統計を中室牧子氏が和訳したものだ。<img src="https://dol.ismcdn.jp/mwimgs/8/e/1080m/img_8e30b97b2184ba9eac6eae11c87f03d0497334.jpg" border="0" loading="lazy" /></p> <p>(<span style="font-size: 80%;">上の図は</span><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B06X6GJYWF?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">「原因と結果」の経済学―データから真実を見抜く思考法</a><span style="font-size: 80%;">にも載っている</span>)</p> <p>図にある統計のどれもが馬鹿らしいものであることは一目瞭然だ。</p> <p>まず、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%B3%A5%E9%A5%B9%A1%A6%A5%B1%A5%A4%A5%B8">ニコラス・ケイジ</a>の年間映画出演がプールでの溺死に影響を及ぼすはずがない(逆もありえない)。</p> <p>商店街における総収入が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA">アメリ</a>カでのコンピューターサイエンス博士号取得に何か影響を及ぼすだろうか? ミス・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA">アメリ</a>カの年齢が下がると暖房器具による死者も減るのだろうか? どちらもありそうもない。</p> <p>多くの人が察しているようにこれはただの偶然だ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">このように、統計上は有意なデータを示していてもただの偶然の一致だということがある。</span></p> <p>しっかりと仮説を立てそれを検証するという意図がなければ、上の図のように何の訳にも立たない無意味な相関関係ばかりが発見されることとなるだろう。</p> <p>だから、社会科学の分野では因果関係を推測して仮説を組み立て仮説からの演繹という形で統計が集められる。</p> <p><span style="color: #1464b3;">つまり統計を取る人間は、仮説の段階で収集すべき情報を選別する必要があるということだ。</span></p> <p><strong><span style="color: #1464b3;">言い換えれば、統計を取る人間は自分の仮説に基づいて現実を切り取っているということだ。</span></strong></p> <p>仮説の段階で、切り取られる現実の画角が決まる。</p> <p>統計を取る人間は、仮説を立てた段階で仮説にとって無意味だと思える情報を排除する。つまり、<span style="color: #1464b3;">統計の情報は、それを作った人間によってフィルタリングされた情報だ</span><span style="color: #1464b3;">。</span></p> <p>しかし、そうしたフィルタリングが常に正しいとは言い切れない。統計を立てた人間が勝手に意味があると思った情報であって、客観的には意味がない情報の可能性は捨てきれない。</p> <p>仮説では因果関係として想定していたものが実際はただの相関関係だったという場合は少なくない。その場合、統計は嘘の事実を示すことになる。</p> <p><span style="color: #1464b3;">例えば、昔はコーヒーが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%B6%DA%B9%BC%BA%C9">心筋梗塞</a>を引き起こすと考えられていたことについて考えてみよう。</span></p> <p><span style="color: #1464b3;">コーヒーに含まれるカフェインによる興奮作用や睡眠への影響が心臓に悪影響を与えるのではという仮説の基</span><span style="color: #1464b3;">データが収集され、結果としてコーヒーを</span><span style="color: #1464b3;">よく飲んでいた集団が、あまり飲まない集団よりも<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%B6%DA%B9%BC%BA%C9">心筋梗塞</a>の発生が多くみられたデータが出たのだ。</span></p> <p>そのデータだけ見れば、コーヒーが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%B6%DA%B9%BC%BA%C9">心筋梗塞</a>を引き起こすという仮説を支持しているように思える。</p> <p><strong>だが、</strong>その後の研究でコーヒーをよく飲む人には喫煙している人が多くいたことが分かり、喫煙が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%B6%DA%B9%BC%BA%C9">心筋梗塞</a>の真の原因であることが分かった。それどころか、喫煙の影響を除外した研究ではコーヒーを飲んでいる人のほうが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%B6%DA%B9%BC%BA%C9">心筋梗塞</a>になりにくいという結果が得られた。</p> <p><strong>つまり、コーヒーの飲用と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%B6%DA%B9%BC%BA%C9">心筋梗塞</a>には正の相関関係があったが、それは因果関係ではなく疑似相関(見かけの相関)で、事実は全くの逆だったのだ。</strong></p> <p>しかし、当初はコーヒーをよく飲むことが喫煙をすることと関係があるとは推測されていなかった。そのため、喫煙が交絡因子(コーヒーの飲用と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%B6%DA%B9%BC%BA%C9">心筋梗塞</a>の両方に関係している因子)となっているという考えに至らなかった。</p> <p><strong>喫煙が真の原因であるという可能性は、仮説の段階で排除されてしまっていたのだ。</strong></p> <p>私たちは人間であり神様ではない。</p> <p><strong>すべての交絡因子を考えついて、その影響をすべて除外して統計を取るなんてことは実質不可能だ。</strong><span style="color: #1464b3;">もしかしたら、まだ誰も発見していない交絡因子が存在する可能性は常に残る。</span></p> <p>また、未測定の交絡因子が複数あり、それらが複雑に絡み合いながら影響を及ぼし合っている可能性だってありえる。世の中には一つの要素が原因となって一方的に影響を与えような関係だけではなく、要素同士が互いに影響を与えて悪循環を起こしたり好循環を起こしたりすることもあるからだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">だから人間の考える因果モデルは、複雑な現実社会を人間の想像の範囲内に収まる形で簡略化したものにならざるを得ない。</span></p> <p>統計の仮説はその簡略化された図式の中で立てられているのだ。</p> <p><strong><span style="color: #1464b3;">統計は、それを取る者の主観的な現実理解から作られた仮説を基に情報を収集したものだ。</span></strong></p> <p><span style="color: #1464b3;"><strong>言い換えれば、統計はそれを作った人間の</strong><strong>主観を少なからず反映してしまう。</strong></span></p> <p>統計から人間の主観的な判断を取り除いて、完全に客観的な事実にすることは不可能だ。</p> <h4 id="3統計は表現物である">3.統計は表現物である</h4> <p>言葉を使った社会論評は言葉巧みにレトリックを駆使して印象を操作し、それを読む人間を騙しているが、データや統計は数字なのでそのような印象操作が行われることはないと主張する人はいるかもしれない。</p> <p>しかしそれは間違いだ。</p> <p><strong>統計やデータも人間によって表現されているものだということを多くの人が忘れている。</strong></p> <p>表現というものは、言葉によって明言された内容のことだと多くの人が考えているが、そうではない。</p> <p>日常のコミュニケーションにおいて、ボディランゲージや視線、場合によっては沈黙などが意志の表現になるように、形式上は言葉にしていなくても人は何かを伝えることがある。</p> <p>例えば、ある人物について次のように説明する人がいたとしよう。</p> <p>「少なくとも彼は仕事をしている時はいい人だよ。まぁでも、私の知り合い中で一番性格がいい人とは言い難いし、私は個人的には深く付き合いたいと思わないな」</p> <p>あなたはここからどんな人物像を想像するだろうか?</p> <p><strong>形式上の内容だけを考えれば、</strong>この人物が仕事以外でどんな人なのかは直接明示されていない。この人物の性格は悪いとは言っていない。ただ、1番ではないと言っているだけだ。また、深く付き合いたいと思わない理由も述べていないので、深く付き合いたくない原因が彼にあるとも言っていない。<strong>形式上は。</strong></p> <p>しかし表現には常に言外の意味が付きまとう。</p> <p><span style="color: #1464b3;">多くの人は、明示されていない部分についてもある程度推察して、それを受け取ってしまうだろう。</span></p> <p>「仕事をしている時は良い人」ということは、仕事をしている時以外は良い人じゃないのか? とか、「一番性格がいい人とは言い難い」とわざわざ言っているということはどちらかと言えば性格が悪いということを婉曲に表現しているからか? とか、個人的に深く付きたくないくらい性格が悪いのだろうか? とか疑ってしまうはずだ。</p> <p><strong>表現は置かれた状況や文脈によって解釈されるからだ。</strong></p> <p>私たちは、ストレートな表現を使わず、仄めかしたり匂わせたりする表現を知っている。<span style="color: #1464b3;">私たちは表現の仕方を変えることで、内容では直接嘘をつかずとも、受け手を誤解させたり騙すことは可能だ。</span></p> <p>データが間違っていないならデータは嘘をつかない、というのは<strong>データも表現されるものである</strong>ということを完全に無視している。</p> <p><strong>直接の嘘をつかなくても、受け手側を誤解させ騙すという意味での実質的な嘘なら統計やデータでも可能である。</strong></p> <p>そうでなければ「誤解を与える統計グラフ」「詐欺グラフ」(Misleading graph)なんて概念は存在しない。印象操作と呼ばれるようなデータの見せ方は存在するのだ。</p> <p>一つ『<a href="https://note.com/kenxxxken/n/nce7762dcec30">あなたの知らない「詐欺グラフ」の世界(随時更新中)|けんけん|note</a>』から例を紹介しよう。</p> <blockquote> <p>よく分かっていない人も多いですが、棒グラフはその面積で強い印象を与えるため、縦軸の一番下はゼロ。<strong>絶対にゼロ起点にしないといけません。</strong>(中略)</p> <p><img src="https://assets.st-note.com/production/uploads/images/10034254/picture_pc_3c1ec4ada991793072947aa7a1b1bf9d.jpg" border="0" alt="画像12" loading="lazy" /></p> <p>ゼロ起点のグラフでないとまさに上記のような表現もアリになってしまうわけです。「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/MRJ">MRJ</a>スゲエ!! 燃費が数分の一!」って、あれ…?</p> <p>これ、別に嘘じゃないからいいんじゃないの?と思われる人も多いかもしれませんが、では逆にこのグラフで何を言いたいというのでしょうか。20%の減少を、見た目に「20%感」が全くない(むしろ誤解させる)表現にする意味はどこにもありません。</p> </blockquote> <p>このように全く同じデータでも見せ方は選ぶことが出来る。</p> <p><span style="color: #1464b3;">統計やデータはその表現の形態によって全く異なる印象を人に与えてしまう。</span></p> <p>統計グラフにはデザインがあり、表現としての性質を持っている。だから、統計の数字の配置やグラフのデザインも、<strong>人間が適切なものを選ぶ必要がある</strong>。</p> <p>しかし、統計のデザインには決まったルールがあり、言葉の表現と違って正しい表現方法が決まっていると主張する人はいるかもしれない。例えばライファクター(lie factor=嘘の要素)のような指標で正しさは数値化されていて、ライファクターが1に近い(=嘘の要素が少ない)ものを作るのが正しいので、人間がデザインを決めるということが間違いだと言う人はいるかもしれない。</p> <p>では、ここでライファクターが1(=正常)となるような、それでいて間違った印象を与えてしまうグラフを例に挙げよう。</p> <p>それは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CF%B5%E5%B2%B9%C3%C8%B2%BD">地球温暖化</a>に関するグラフだ。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CF%B5%E5%B2%B9%C3%C8%B2%BD">地球温暖化</a>問題については多くの科学者が地球は温暖化していることを認めている。もちろん<a href="https://news.yahoo.co.jp/byline/emoriseita/20200324-00169384">懐疑論は少なからずある</a>が、地球が温暖化していることそのものを否定する論はごく稀だ。</p> <p>さて、そうした前提を踏まえて次のグラフを見てもらいたい。</p> <figure class="figure-image figure-image-fotolife mceNonEditable" title="1880nen "> <p><img class="hatena-fotolife" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/tatsumi_kyotaro/20220620/20220620012131.png" border="0" title="" width="722" height="406" loading="lazy" /></p> <figcaption class="mceEditable"><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/1880%C7%AF">1880年</a>~2015年の地球の平均気温(華氏)</figcaption> </figure> <p><strong>このグラフを見ると地球は温暖化などしていないように見える。</strong></p> <p>事実、このグラフは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CF%B5%E5%B2%B9%C3%C8%B2%BD">地球温暖化</a>について見極めることなど不可能だという主張の根拠として使われたのだ。</p> <p>このグラフは、ス<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%A3%A1%BC">ティー</a>ヴン・ヘイワードがパワーラインというブログのためにつくり、2015年後半にナショナル・レビューが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Twitter">Twitter</a>に投稿して広くシェアされた地球の平均気温に関するグラフだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">このグラフに使われる数字とデータ自体は何も間違ってはいない。</span></p> <p><span style="color: #1464b3;">データインク比も正常であるし、ベースラインが0から始まっているためライファクター(lie factor)も1(正常)となる。ライファクター(lie factor)という指数でみれば完全に正確なグラフと判定される</span><span style="color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: start; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">ものだ(参考:</span><a href="https://nightingaledvs.com/the-lie-factor-and-the-baseline-paradox/">The Lie Factor and the Baseline Paradox | Nightingale</a><span style="color: #202122; font-family: sans-serif; font-size: 15.104px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: start; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">)。</span></p> <p><strong>しかし、このグラフは明らかにス<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%A3%A1%BC">ティー</a>ヴン・ヘイワードの主観的な意図を反映している。</strong></p> <p><strong>実際に多くの科学者が認める通り地球は温暖化しており、このグラフのライファクター(lie factor)が1の正確なグラフと判定がされようが、明らかに受け手を誤解させ騙すものになっている。</strong></p> <p>同じデータを使ったとしても、恐らく次のような表現の方が地球の温度変化を示す上で適切だ。</p> <figure class="figure-image figure-image-fotolife mceNonEditable" title="年ごとの地球の平均気温"> <p><img class="hatena-fotolife" src="https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/t/tatsumi_kyotaro/20220711/20220711195335.png" border="0" title="" width="723" height="379" loading="lazy" /></p> <figcaption class="mceEditable"><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/1880%C7%AF">1880年</a>~2015年の地球の平均気温(華氏)</figcaption> </figure> <p>このように、そもそもデータを示す際の適切で正しい表現とは何かということについて、<strong>最終的にそれを検討して判断するのは人間</strong>である。</p> <p>最初に引用した<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/MRJ">MRJ</a>の例では、図の棒グラフの表現は「20%感」が全くない(むしろ誤解させる)表現とされていたが、燃費における「20%感」とはなんなのかを客観的に示すことはできない。むしろ、図の棒グラフの表現の方が「20%感」があると感じる人はいるかもしれない。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CF%B5%E5%B2%B9%C3%C8%B2%BD">地球温暖化</a>に関するグラフも、ライファクター(lie factor)が1なのだからス<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%A3%A1%BC">ティー</a>ヴン・ヘイワードのグラフの方が正しいと主張する人もきっといるだろう。</p> <p>あるいは、ライファクター(lie factor)とは別の指標を持ち出す人もいるだろうし、それに反対する人もいるだろう。数字さえ間違っていないのなら間違った表現方法など存在しないという主張もあるかもしれない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">データというものには、どのようにデザインしてそれを見せるかという表現形態の次元が付きまとっているのだ。</span></p> <h4 id="4データはメディアであり表現である">4.データはメディアであり表現である</h4> <p>統計やデータというものは、人の主観に依らない客観的事実を示していると言う人がいる。</p> <p><strong><span style="color: #1464b3;">しかし、何を以て統計は主観的ではないと言えるのだろうか?</span></strong></p> <p>統計もメディアと同じように、人間が情報収集の範囲を定め、なおかつその見せ方(デザイン)を選び編集したものである。</p> <p>統計やデータは事実そのものではなく、<strong>仮説を立てた人間の現実理解の枠組みを数字で表現したもの</strong>である。</p> <p><span style="color: #1464b3;">言い換えれば、ある事実に対する一つの解釈を数値化して表現したものだ。</span></p> <p>数値化されているから現実のありのままを示している、なんてことはない。</p> <p><strong>数字に変換している時点で現実の意味の一部は失われている。数字によって見えてくる現実とは、数字によって意味が単<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%E3%B2%BD">純化</a>された現実であり、ある意味で歪められた現実である。</strong></p> <p>私たちはメディアに対する姿勢と同じ姿勢で統計に臨む必要がある。</p> <p>メディアの情報は正しいかもしれないし、偏向しているかもしれない。それと同じように、統計も正しいかもしれないし、偏向しているかもしれない。</p> <p>統計データを含め、私たちの周りに偏向していない情報などない。情報収集のリソースには限界があり、常に情報の取捨選択が起こっている。必要な情報ではないと判断された情報が真実かもしれないし、見落とされてしまっている真実もあるかもしれない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">私たちは統計は編集されたものであることを認識して、見せかけの事実である可能性を考慮してそれが事実かどうかを判断しなければならない。</span></p> <p>議論で統計やデータを盲目に信じる人は、メディアの情報に踊らされる人間と大差ない。</p> <p><strong>それでも、統計やデータがないよりはマシだと言う人はいるだろう。</strong></p> <p>統計やデータを基に仮説を立てる場合、少なくともデータと全く矛盾するような自分勝手な妄想を述べることはできないし、データの見せ方を編集して変えたとしてもそれは検証可能なので、その作為を見破られるだろうという反論が想定される。</p> <p><span style="color: #1464b3;">つまり、どのみち主観を完全に取り去ることは不可能だが、統計やデータに基づいた議論では一定の慎重さとコストが要求されるため、少なくとも互いに好き勝手な妄想を語ることはできないし互いの主張を検証可能だ、と彼らは言いたいわけだ。</span></p> <p><strong>しかしこの手主張は、そもそも社会についての議論をする場合に、統計やデータというものがどこまで信頼し頼ることのできるものなのだろうかという根本の視点が抜けてしまっているのだ。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">第一に、社会問題の議論でデータを集計することそのものの難しさを理解していない。</span>その他科学の領域と違い、社会的な事実を確認するためのデータ集めは一筋縄ではいかない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">第二に、人間がどのようにデータを理解し利用しているのかという手つきをまるで見ていない。</span>データを出して議論をすれば、おそらく互いに好き勝手な妄想を語ることはできないだろうという安易で楽観的な予測は、人間社会に対する単純な誤解に満ちている。</p> <p>そこで次回は、社会についての統計やデータを扱うことの難しさについて説明することにしたい。</p> <p>【次回記事】</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2022%2F07%2F31%2F155350" title="統計とバイアスのまとめ~データの信頼性、ファクトチェック~ - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/07/31/155350">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <h4 id="今回の参考文献">【今回の参考文献】</h4> <p>↓第9章の「科学のもろさ」では、懐疑的な態度を徹底しているはずの科学という領域でさえもデタラメが絶えないということを様々な事例とともに紹介している。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51rhe9847DS._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)" title="デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">デタラメ データ社会の嘘を見抜く (日本経済新聞出版)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A3%D4%A1%A6%A5%D0%A1%BC%A5%B0%A5%B9%A5%C8%A5%ED%A1%BC%A5%E0" class="keyword">カール・T・バーグストローム</a>,<a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%F4%A5%A3%A5%F3%A1%A6%A3%C4%A1%A6%A5%A6%A5%A8%A5%B9%A5%C8" class="keyword">ジェヴィン・D・ウエスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FC%B7%D0BP">日経BP</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B099N551CN?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> <div> </div> <div> </div> <div> </div> <div> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div> <p>↓前回の『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901119?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">統計はこうしてウソをつく―だまされないための統計学入門</a>』から、さらに踏み込んで、統計というもの自体が不可避的にウソの要素を含んでしまうということを示唆する内容となっている。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51v5zpEbphL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ" title="統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">統計という名のウソ―数字の正体、データのたくらみ</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%E7%A5%A8%A5%EB%20%A5%D9%A5%B9%A5%C8" class="keyword">ジョエル ベスト</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4826901399?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>↓いわゆるデータ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C6%A5%E9%A5%B7%A1%BC">リテラシー</a>本。</p> </div> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B06X6GJYWF?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51UQLeefS-L._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法" title="「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B06X6GJYWF?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">「原因と結果」の経済学―――データから真実を見抜く思考法</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E6%BC%BC%20%CB%D2%BB%D2" class="keyword">中室 牧子</a>,<a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C5%C0%EE%20%CD%A7%B2%F0" class="keyword">津川 友介</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A5%A4%A5%E4%A5%E2%A5%F3%A5%C9%BC%D2">ダイヤモンド社</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B06X6GJYWF?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <div class="freezed"> </div> <p> </p> tatsumi_kyotaro 弱者男性論とは何か? ~あてがえ論との関係~ hatenablog://entry/13574176438076461259 2022-04-18T00:44:04+09:00 2022-08-16T10:46:45+09:00 0.弱者男性論とあてがえ論 1.弱者男性論の要素 その① 男性の収入 その② 社会に蔓延した価値観の批判? ③男性の孤独、男性はケアされていない? 2.現代はどういう時代か? 3. 弱者男性の弱者とは何か? 4.根本的な解決について 【参考文献】 5.余談 0.弱者男性論とあてがえ論 この記事では弱者男性論の主張の背景について考えることを目的とする。 弱者男性論の主張を簡単にまとめると「男性の中にも弱者がおり、彼らは収入、容姿や学歴という“スペック”という面で弱者であり、ケアされるべきだ」というもので、弱者男性論を支持する層の中には所謂「女性をあてがえ論」と呼ばれる主張をする者もいる。 「女性… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#0弱者男性論とあてがえ論"> 0.弱者男性論とあてがえ論</a></li> <li><a href="#1弱者男性論の要素">1.弱者男性論の要素</a><ul> <li><a href="#その男性の収入">その① 男性の収入</a></li> <li><a href="#その社会に蔓延した価値観の批判">その② 社会に蔓延した価値観の批判?</a></li> <li><a href="#男性の孤独男性はケアされていない">③男性の孤独、男性はケアされていない?</a></li> </ul> </li> <li><a href="#2現代はどういう時代か">2.現代はどういう時代か?</a></li> <li><a href="#3-弱者男性の弱者とは何か">3. 弱者男性の弱者とは何か?</a></li> <li><a href="#4根本的な解決について">4.根本的な解決について</a></li> <li><a href="#参考文献">【参考文献】</a></li> <li><a href="#5余談">5.余談</a></li> </ul> <h4 id="0弱者男性論とあてがえ論"> 0.弱者男性論とあてがえ論</h4> <p>この記事では弱者男性論の主張の背景について考えることを目的とする。</p> <p>弱者男性論の主張を簡単にまとめると「男性の中にも弱者がおり、彼らは収入、容姿や学歴という“スペック”という面で弱者であり、ケアされるべきだ」というもので、弱者男性論を支持する層の中には所謂「女性をあてがえ論」と呼ばれる主張をする者もいる。</p> <p>「女性をあてがえ論」は、“スペック”という面で劣っている弱者男性は恋愛でパートナーを得ることが難しいため、女性がそうした弱者男性を恋愛対象にするように制度設計をしようという主張だ。また、制度設計には言及しないまでも、強者女性は弱者男性を積極的にケアすべきだという意見も見られる。</p> <p>このように、主張自体は比較的分かりやすいものの、その論理にはいくつも不可解な点がある。また、弱者男性論と「女性をあてがえ論」を別物と捉える向きもあり、その方向から別の解釈もありえるが、今回は二つを接続した主張として捉え背景部分でどのように接続しているのかについても考えていきたい。</p> <h4 id="1弱者男性論の要素">1.弱者男性論の要素</h4> <p>まず弱者男性論を構成する要素を一つずつ検討することで、弱者男性論が訴えていることが何なのかを整理していこう。</p> <h5 id="その男性の収入">その① 男性の収入</h5> <p>弱者男性論において、弱者男性の収入の少なさが俎上に上がることがある。</p> <p>もし弱者男性論で問題にしたいものが男性の貧困なのだとしたら、既存の貧困問題の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%EC%A1%BC%A5%E0%A5%EF%A1%BC%A5%AF">フレームワーク</a>を論点にするべきだろう。</p> <p><span style="color: #1464b3;">特定の男性が貧困問題において救済されない位置にいると言いたいのであれば、貧困問題の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%EC%A1%BC%A5%E0%A5%EF%A1%BC%A5%AF">フレームワーク</a>そのものを問う形で議論がなされるべきで、女性に対して男性への態度を改めるよう求める議論になどなるわけがない。</span></p> <p>それでも弱者男性論で男性の収入が俎上に上がることがあるのには理由があるはずだ。そう考えるなら、貧困の問題として取り上げる以外の目的があるということになる。</p> <p>つまり、弱者男性論は収入そのものを問題視しているのではなく、男性の収入という観点から何か別のことを語ろうとしているのだ。</p> <h5 id="その社会に蔓延した価値観の批判">その② 社会に蔓延した価値観の批判?</h5> <p>弱者男性論は、恋人がいない人や未婚の人間を劣った存在のように扱う人間がいることを訴えることもある。</p> <p>確かにそういう人間は存在するかもしれない。そんな人間には恋人がいないことや未婚であることはその人が劣った存在であることを証明しないと言ってやるべきだろう。</p> <p>仮に恋人がいない人や未婚の人に何らかの能力の欠如の傾向があるとしても、人間何らかの能力において優劣があるのは当たり前なので、能力がそのまま人の優劣になるわけではない。また、人格的傾向があると言いたいのだとしても、そもそもこれだけ未婚率が増えていてDVや虐待なども問題視されているのだから、そのような区分けは無意味だろうと思う。</p> <p>しかし現在の弱者男性論を見ていると、そういう浅はかな人間観が社会に蔓していることを批判しているのか怪しくなってくる。</p> <p>社会に蔓延した価値観を批判しているというより、弱者男性を恋愛対象や結婚相手に選ばない女性の価値観を攻撃しているように見えるからだ。</p> <p>また、社会の価値観に対する挑戦だとすれば、<span style="color: #1464b3;">未婚女性や恋人のいない女性もこれだけいる中で、なぜ恋愛による弱者男性の救済を訴えるのか</span>という点が分からない。</p> <p>冷静に考えて欲しいのだが、仮にも社会の価値観を変革したいのであれば、自分を優れた人間だと証明するためにモテようとしたり、自分を恋愛対象に選んでくれない女性を攻撃したりしている場合ではない。</p> <p>しかし、弱者男性論を主張する男性がしばしば「女性から相手にされなくて自分は劣った人間だと感じる」「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6">非モテ</a>である自分みたいな人間は劣等種だと感じる」などと、批判すべきはずの価値観を自ら取り込んで劣等感を吐露する光景は珍しくない。そして彼らはその劣等感を女性からの承認を得ることで癒そうとしている。</p> <p>問題は何が彼らをそうさせるのかである。</p> <p> </p> <h5 id="男性の孤独男性はケアされていない">③男性の孤独、男性はケアされていない?</h5> <p>また、弱者男性論は孤独を問題だと主張することもある。孤独はもはや社会問題であり、男性は孤独になりやすいのだと言うわけだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">では、なぜ恋愛や結婚を救済策としたがるのだろうか。</span></p> <p>友人を増やせるようにすること、ご近所付き合いを深められる機会を増やしたり、薄弱化したコミュニティの繋がりの強化などではダメなのだろうか?</p> <p>仮に男性の孤独は社会によってケアされにくいという話であったとしても、そこから直接「だから女性が男性をケアするべき」という結論にはならないはずだ。なぜ男性同士ではケアできないという謎の前提があるのかが問題だ。</p> <p>ここから考えられるのは弱者男性論が求める孤独のケアが、ある特殊な文脈における孤独のケアである可能性だ。</p> <p> </p> <p>このように、弱者男性論の「男性の中にも弱者がおり、彼らは収入、容姿や学歴という“スペック”という面で弱者である」という主張は既存の社会問題のフレームを当てはめて解釈することは恐らくできない。</p> <p>ではどのようなフレームで見れば弱者男性論を解釈することができるだろうか。</p> <h4 id="2現代はどういう時代か">2.現代はどういう時代か?</h4> <p>弱者男性論のフレームを理解するためには、現代がどういう時代か? そして現代における恋愛とは何かについて考えた方がいい。</p> <p>また、彼らは恋愛による弱者男性の救済を訴えながら、恋愛の市場化と高スぺック男性を恋愛対象に選ぶ女性を批判している。</p> <p>収入格差、劣等感、孤独、それらは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%C2%E5%BC%D2">現代社</a>会において市場原理の全面化がしたことで生まれたものだ。</p> <p>ここでいう市場原理とは簡単に言ってしまえば等価交換の原理だ。</p> <p>すなわち、あるゆる物の価値を質ではなく量的な指標で測る原理だ。たとえば一般的な市場においては、あらゆるものは価格という統一された指標で価値の大きさが決められている。</p> <p>何を「価値がある」と感じるかは人それぞれだと言いたがる人はいるが、これはそういう個々人にとっての「価値」の話ではなく、一般的に使われる価値という言葉が指し示しているものだ。</p> <p>たとえば特殊な価値観を持った人がいて、10億の宝石より道端の石に「価値」を感じていたとしても、常識があれば10億以上の値で石を人に売ろうとはしないはずだ。仮に常識がなく10億以上の値で石を販売しだしたとしても恐らく誰も買わないだろう。そういう時、我々はその石には10億の価値はないと見做すだろうという話だ。</p> <p>こう説明すると、ものにお金が支払われていることとものの価値は関係ない、そのような価値など虚構にすぎないと言う人がいるかもしれない。</p> <p>しかし、レストランで出てきた料理に価格ほどの「価値」を感じなかったからといって代金を払わないわけにはいかないし、逆にニ〇リの商品に「お値段以上」の「価値」を感じたとしても、その商品の価格以上のお金を払うことはできないのだ。基本的には<strong>他の購入者と同じ金額を払えば同じ商品を期待できる状況にある。</strong></p> <p>私たちが等価交換をしているというのはそういう意味だ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">個々人の視点においてそれが「等価」であるという意味ではない。</span></p> <p>(<span style="font-size: 80%;">個々人の感じる「価値」はその人の気分や状況変化で容易に消失したり現れたりする、それゆえに私たちは結局やらないゲームを買って後悔し、他人が頼んだデザートを見て自分も頼めばよかったと思うのだ</span>)</p> <p>また、これは価値と交換の因果関係の話でもない。</p> <p>つまり、等価関係があるから交換が起こるのではなく、交換が起こった結果そこに価値の等価関係が現れるという話だ。同じ商品に対してみんなが同じお金を払うことでその商品の価値と金額と等値される。同じ金額を払うことで誰でも同じように商品を手に入れていることができる。そうした営みが繰り返され安定して見えるためにそこに等価の関係性が現れる。</p> <p><span style="color: #1464b3;">こうして価値は、お金が支払われる形で表現され、数値として比較することのできるものと理解されるようになる。</span></p> <p>同時に、現代は人間的な魅力や個性など人格的なものに対してもお金が支払われる時代だ。</p> <p>タレント業は言わずもがな、雑談配信やゲーム実況などの配信活動、人間の生活の風景にさえお金が飛び交うようになっている。</p> <p><span style="color: #1464b3;">そして人格的価値も数値化と比較が可能であるという感覚が生み出されることで</span>、<span style="color: #1464b3;">互いを比較し合い他人より自分は価値が劣っているという劣等感を持つ人間が増えていく。</span></p> <p>また、インターネットは簡単に互いを比較し合うことが可能なツールを提供し、再生回数やフォロワー数など互いに比較可能な数値は、単なる数値ではなく収入にも結びつくようになってきている。</p> <p><span style="color: #1464b3;">結果、現代は自分の諸々の人間的価値が数値化され、それが他者と比較可能な形で可視化されているような感覚が常に付きまとう時代になっている。</span></p> <p>人々は自分で自分の広告を打つように<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/SNS">SNS</a>を利用したり、自己承認欲求なるキーワードがもはや日常で使う言葉になったことはある種象徴的と言える。</p> <p>ここまでが弱者男性論が生まれる現代の土壌の概観だ。</p> <p><span style="font-size: 80%;">(※ここで私が価値と言っているのは一般的な意味の価値で、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%EB%A5%AF%A5%B9">マルクス</a>が言うところの価値とは重なりつつも少しズレます。)</span></p> <h4 id="3-弱者男性の弱者とは何か">3. 弱者男性の弱者とは何か?</h4> <p>市場が全面化した現代において人々は自己の人間的価値に対する不安をいかに癒しながら生きるかというゲームを生きなければならない。</p> <p>しかしそこには当然脱落者がいる。</p> <p><span style="color: #1464b3;">弱者男性論の弱者とはこの脱落者のことではないかというのが私の解釈だ。</span></p> <p>弱者男性論の「弱者」とは、市場の中で誰かと比較されることで劣等感を持ってしまった人間、あるいは市場競争の「敗者」と読み替える方が適切なように思える。</p> <p>これが既存の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%D2%B2%F1%CA%A1%BB%E3">社会福祉</a>の問題とフレームを異にするのは、人間的価値の証明の不在によって生まれる不安の問題だからだ。収入が問題の一部に含まれがちなのは、あくまで収入によって比較が行われているからだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">また、これは人々の価値観や社会的風潮の問題ではない。</span><span style="color: #1464b3;">よって、男性の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%AD%CC%F2%B3%E4">性役割</a>から男性が解放されれば解決という単純な話ではない。</span></p> <p>なぜなら、一人一人の意識の在り方ではなく、様々なものが交換可能になり日々何かを比較しながら何かを選択しているという社会の形態そのものに起因する不安症だからだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">自己の人間的価値に対する不安に吞み込まれた人間は、もはや「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%C2%E5%BC%D2">現代社</a>会では測れない価値が自分にはある」という幻想に縋らざるを得ない。</span>そして、そうした幻想を維持できる場所、すなわち市場化されていない場所を死守しようとする。</p> <p><span style="color: #1464b3;">すなわち彼ら脱落者が求めるのは、<strong>他の誰かと比較されない</strong>、<strong>利益や見返りを求められない関係</strong>の場であり、<strong>かけがえのない存在</strong>として<strong>ありのままの自分</strong>を受け入れてくれる関係の場である。</span></p> <p>間違っても年収や学歴、見た目等で比較し合う<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%C3%A5%C1%A5%F3%A5%B0%A5%A2%A5%D7%A5%EA">マッチングアプリ</a>のような場所ではない。また、付き合うことで得られる利益や見返りを期待して打算的感情で人と関係する場所でもない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">そして、市場原理の働かない関係としてロマンティシズムに満ちた恋愛関係や婚姻関係というものが候補に現れてくるのだ。</span></p> <p>ここで友情や家族、コミュニティの関係ではなくなぜ恋愛や婚姻関係なのかという疑問が出て来るかもしれないが、それにはいくつか要因があるだろう。</p> <p><span style="color: #1464b3;">まず考えられるのは、恋愛や婚姻関係が旧来そういう反市場的物語を纏いがちだということだ。</span></p> <p>映画や漫画、アニメなど日頃触れる様々なコンテンツにおいて未だに恋愛や婚姻関係というものは、反市場的な要素を纏って美化される傾向にある。恋愛をテーマにした作品ではお金や打算的な感情は「真実の愛」と対比的に描かれる。お金や打算と言ったものは「真実の愛」とは認められない。打算的感情で近づいた後にそれではダメだと知って「真実の愛」に目覚めるか、あるいは打算的感情でパートナーを選んだ人間の滅びが描かれるかというパターンが取られている。</p> <p>次に考えられるのは、恋愛や婚姻関係と比べると友情や家族、コミュニティの関係というものは身近だからということだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">これは単純な話で、身近でよく目にするものであればその分幻想を維持するのが難しいということだ。</span></p> <p>三つ目は、恋愛関係には一般的に身体的な交渉が含まれるからというのもあるだろう。<span style="color: #1464b3;">「身体を許す」という表現に見られるように、身体的な交渉は単なるコミュニケーションとしてだけでなく「許される」体験として考えられている。</span>そこには自分を「受け入れてくれる」体験が幻視されているのだ。</p> <p>他にもあるだろうが、このように恋愛や婚姻関係が理想化されやすい要因は存在する。</p> <p>さて、こんな風に整理してみると「現実を考えろ、恋愛や結婚はそんな理想で満ちたものではない」と呆れた声が聞こえてきそうだが、彼らに現実を突き付けるだけでは解決しない。なぜなら、理想に縋る人間の問題は現実を見る認知能力の低さだけにあるのではなく、それ以外に方法がない(と彼らが考えてしまう)ことにもあるからだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;"><strong>確かに、実際の人間関係は完全な打算というわけでもなければ、完全に見返りや利益を求めない関係というわけでもない。</strong></span></p> <p>信頼関係が、こいつはこうするに違いないという計算と何の確証もない賭けの間に成り立つのと同じだ。家族関係であっても、友人関係であっても、恋愛関係であっても同じことだ。</p> <p><strong>だが、理想に縋るより他に方法がないと思い込んでいる人間にいくら現実を説いたところですぐさま解決というわけにはいかないのだ</strong><strong>(もちろん思考のフレームを与えるという点では重要だが)。</strong></p> <p>以上が、私の弱者男性論解釈の概観となる。</p> <p>こう考えることで、なぜ自分は弱者ではないという男性も弱者男性と同調したがるのかも理解できる。市場化が全面化した社会における自己の価値への不安は弱者強者関係なく襲ってくるものだからだ。今は脱落していない者も、いつ自分が脱落するか分からないという感覚を薄っすらと抱えている。</p> <p>彼らが恋愛したければ努力をしろという言説を忌み嫌うのも、努力した結果自分が恋愛対象として選ばれたとしてもそれは<strong>能力の比較の結果</strong>選ばれたことになってしまうからだ。</p> <p>努力はしたくないし、比較もされたくないが、市場原理そのものは(自分たちもその上に安住しているため)否定できない、その結果生まれてくるのが、「女性は男性に高望みしている」「女性は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%E5%BE%BA%BA%A7">上昇婚</a>ばかりしている」という批判なのだ。</p> <p>また、弱者男性論を論じる諸氏がやたらと「暴力的な男がモテる」という話や恋愛工学を語りたがるのも、市場化した自由恋愛に対する当てつけと見ることができる。</p> <p>「暴力的な男がモテる」という話も恋愛工学も、自由恋愛市場をナンセンスなものとして提示しそこから女性を撤退させるための脅し文句のようなものなのだ。</p> <h4 id="4根本的な解決について">4.根本的な解決について</h4> <p>私が今回指摘したような自己に対する不安がある程度まで共有されているのだとすれば、それは市場原理の全面化、すなわち資本主義の作用を止めないことにはどうにもならないように思う。資本主義はあらゆるものを交換可能にしていく作用そのものだからだ。</p> <p>まぁこんなことを言うと、「過激思想」などとすぐに訳の分からないレッテルが貼られてしまうのが今日の状況である。それほどまでに、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%C2%E5%C6%FC%CB%DC">現代日本</a>において資本主義は透明で絶対的な地位を占めてしまっている。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%AF%BC%A3%C5%AA%CC%B5%B4%D8%BF%B4">政治的無関心</a>や「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%F3%A5%DD%A5%EA">ノンポリ</a>」を名乗るような政治アレルギーな人さえ、資本主義だけは受け入れている。資本主義はもはや「主義」や主張という形では理解されてない。</p> <p>たとえば人々は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%A6%BB%BA%BC%E7%B5%C1">共産主義</a>社会は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%A6%BB%BA%BC%E7%B5%C1%BC%D4">共産主義者</a>が作ると考えているのに、資本主義国家に住まう自分たちのことは「資本主義者」とは考えていない。</p> <p>もはや資本主義を批判をする人間は「過激思想」の「頭のおかしい」奴らと決め付けており(まぁ実際いるのであるが)、唯一許されているのは資本主義への「提案」であるからだ。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%AF%A4%AD%CA%FD%B2%FE%B3%D7">働き方改革</a>やら<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EF%A1%BC%A5%AF%A5%E9%A5%A4%A5%D5%A5%D0%A5%E9%A5%F3%A5%B9">ワークライフバランス</a>やら<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/SDGs">SDGs</a>もそうした「穏健な」「提案」の一環だろう(<span style="font-size: 80%;">それらは</span><span style="font-size: 80%;">病気を治さずに痛み止めだけを大量服用するような処置に思える</span>)。</p> <p>実際、「過激」で「ラディカル」であれば正しいということはないように、「穏健」で「中庸」であれば正しいということもありえない。</p> <p>少なくとも、資本主義がどういうものかを分析したという点で(賛否は置いておくにして)<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%EB%A5%AF%A5%B9">マルクス</a>はもう少し読まれても良いように思えるが、残念なことに今日の日本で<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%EB%A5%AF%A5%B9">マルクス</a>の主張は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%E4%CD%AD%BA%E2%BB%BA">私有財産</a>を国が取り上げて再分配しろという主張だと誤解されてしまっている。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B4%D7%CF%C3%B5%D9%C2%EA">閑話休題</a>、資本主義への批判が困難である(と彼らが勝手に感じている)ために弱者男性論の行きつく先はどれもナンセンスなものにならざるを得ない。</p> <p>彼らが抱えるのは<strong>誰かと比較されることの痛み</strong>だからだ。</p> <p>つまりは、自分はこれからも他者同士を比較するが、自分は誰かと比較されたくないというのが彼らの目指すところであり、市場は否定しないのに市場原理が自分に適用されることは避けたいというどしようもないものだからだ。</p> <p>彼らが何を目指すのか理解できないという人がいるが、そもそも彼らが目指すものそれ自体が混乱し錯綜した思考の上に置かれているのだ。</p> <p>ではこれからどうすればいいのかということについてだが、(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%A6%BB%BA%BC%E7%B5%C1%BC%D4">共産主義者</a>になれとは言わないが)資本主義を再度分析する必要があるのではないだろうか。</p> <p>最終的にどのような主義主張を支持するかは別として、弱者男性について考えるためには、資本主義を現在の透明な絶対者の地位から降ろし分析する必要があるように思う。</p> <p> </p> <h4 id="参考文献">【参考文献】</h4> <p>↓<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%EB%A5%AF%A5%B9">マルクス</a>に対する良くある誤解を避けながら、資本主義を分析するなら多少難しいがこの本はお勧め。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4909237623?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/4106qLZ1HUS._SL500_.jpg" border="0" alt="マルクスの物象化論[新版] (シリーズ「危機の時代と思想」)" title="マルクスの物象化論[新版] (シリーズ「危機の時代と思想」)" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4909237623?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">マルクスの物象化論[新版] (シリーズ「危機の時代と思想」)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%B4%A1%B9%CC%DA%20%CE%B4%BC%A3">佐々木 隆治</a></li> <li>堀之内出版</li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4909237623?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>↓21世紀の市場化した恋愛を批判的視点から分析する一冊、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%E5%BE%BA%BA%A7">上昇婚</a>」「男性に対する女性の高望み」なる概念がいかに無意味が分かる。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4763409549?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51uiLOUjJIL._SL500_.jpg" border="0" alt="21世紀の恋愛:いちばん赤い薔薇が咲く" title="21世紀の恋愛:いちばん赤い薔薇が咲く" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4763409549?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">21世紀の恋愛:いちばん赤い薔薇が咲く</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A1%BC%A5%F4%A1%A6%A5%B9%A5%C8%A5%ED%A1%BC%A5%E0%A5%AF%A5%F4%A5%A3%A5%B9%A5%C8%28Liv%20Stromquist%29">リーヴ・ストロームクヴィスト(Liv Stromquist)</a></li> <li>花伝社</li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4763409549?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>↓オタクからの市場化した恋愛への批判と現実の恋愛への決別宣言。全くおすすめではない。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4861990025?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51G7CM0F9XL._SL500_.jpg" border="0" alt="電波男" title="電波男" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4861990025?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">電波男</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%C5%C4%20%C6%A9">本田 透</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%B0%BA%CD%A5%D6%A5%C3%A5%AF%A5%B9">三才ブックス</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4861990025?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p> </p> <h4 id="5余談">5.余談</h4> <p>今回の私が説明した弱者男性論はあくまで解釈の一つだというのは付言しておかなければならない(<span style="font-size: 80%;">まぁ、威勢のいいことだけが取り柄の馬鹿は何を言っても食って掛かってくるのだが</span>)。</p> <p>私は別の解釈がありえないという話はしていないし、また全ての弱者男性論者がこうだとも言わない。あくまで傾向としてこのような傾向があるという話をしている。</p> <p>とはいえ、男性は特権的地位にいるという説に反論するために弱者男性論が出てきたという意見には賛同できないということは言っておかねばならないだろう。</p> <p>もし弱者男性論の本質が男性の中にも弱者がいるということを言いたいだけなのであればこれほど下らないことはないからだ。</p> <p>そうした言説は、格差を作り出す構造そのものを問題にしないために全くズレた反論だ。</p> <p>たとえば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B3%CA%BA%B9%BC%D2%B2%F1">格差社会</a>や貧困問題で「貧しくても幸福な人生を歩んでいる人もいるし、裕福でも自殺するくらい悩む人がいる」という指摘をしたり、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B3%B0%B9%F1%BF%CD%BA%B9%CA%CC">外国人差別</a>問題に対して「外国人でも高い地位にいる人はいるし、日本人でも低い地位の人がいる」という指摘をしたりすることがまともな反論だと思う人間がいたなら呆れるより他ないだろう。</p> <p>ある属性を持った人間が、例外なく全て強者でなければ属性の強者性が否定されるのなら、全ての格差は個人の責任であり、偶然であり、この社会にある全ての格差は否定されることになるだろう。</p> <p>社会構造の影響から逃れた(もしくは乗り越えた)存在は挙げようと思えばいくらでも挙げられるだろうが、たとえ一つでも例外があれば、そこに格差は存在しないと言いきれてしまうのは浅はかだ。</p> <p>また、現実には様々な要因が重なり合っているし、どんな人間も人種や性別、年齢や職業など複数の属性を持っている。</p> <p>個別具体の事例における弱者と弱者の力関係は、複数の要因が影響し合った結果として存在するが、それは比較的強者の属性と比較的弱者の属性が存在しないことを意味しない。</p> <p>社会構造を無視した物言いをしたがる人間が好む言葉は決まっている。</p> <p>「人よって違う」「十把一絡げに語るのは良くない」という思考停止的な、何も分析的でない全てを個人の自己責任に落とし込む言葉だ。</p> <p>逆に、「この集団にはこういう傾向がある」とか「この文化にはこういう影響力がある」という言葉をムキになって批判したがる。</p> <p>もちろん精度の問題は存在するが、社会分析においてカテゴライズを避けることはできないし、意味のあるカテゴライズには常に例外が付きまとう。</p> <p>彼らはそういう当たり前のことが分かっていないし、そもそも社会構造や大きな枠組みについて考える能力がない。</p> <p>「構造なんて目に見えないものを持ち出したら、いくらでもなんととでも都合よく言えてしまう」なんてことを言いたがる人もいるが、これは学問を知らない人間の発想だ。</p> <p>社会に対する洞察を含むあらゆる学問では研究者が各々好きな妄想を勝手に持ち出しているとでも思っているのだろうか?</p> <p>こんなことを言う人間は、なぜ学問において先行研究や学問的伝統が重視されているのかを理解していないし、なぜ現代の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%D2%B2%F1%B3%D8">社会学</a>が「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%D2%B2%F1%B3%D8">社会学</a>は学問ではない」と言われるまで批判に晒されているのかも理解してない。</p> <p><span style="font-size: 80%;">(まぁそんなことを言いたがる人間は大抵ネット上の議論というものを盲信しているので「いくらでもなんととでも言えてしまう」と思うのかもしれないが。)</span></p> <p>また、私はなにも自己責任論者だけを批判しているのではない。</p> <p>社会構造やそれ以上に根本的な問題にフォーカスせず、個人の主観レベルに落とし込まないと何も言えないリベラル系の論者にも同様の批判ができる。</p> <p>リベラル系メディアがやりがちな、社会的な構造ではなく個人の「生き辛さ」や「嫌な体験」などにフォーカスし感情移入させることで注目を集めようとする言説形態がそれだ。</p> <p>そんなことをしているから保守側にも感傷的な体験を持ち出されて(私達こそ真の弱者だと言われて)弱者概念を簒奪されるハメになるのだ。</p> <p>こうした「生き辛さ」に焦点が当たるのは、根本問題から目を逸らして、「共感」しただけで満足するような人間が量産されているからだ。</p> <p>「共感」の声を上げるのは良いとして、「共感」することで自分は善良な人間なのだと安心したいだけの人間が如何に多いかということを考えなければならない。</p> <p> </p> <p><span style="font-size: 80%;">補足1)弱者男性論の中には「女はその性的価値(穴モテ)で利益を得ているのだから、それを男に分配しろ」という意味不明な議論も見られるが、まず性的価値とそれによって得られているとするものを具体的に指摘するべきだろう。それができもしないのに分配もクソもない。同時にそれを分配するとはどういうことで、どうしてそれが分配になるのかも説明する必要があるはずだ。誰もやらないが。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;">補足2)こういった弱者性の問題を同情を得られるか否かという軸で理解しようという人間がいるが、本当に馬鹿なんだろうと呆れるほかない。この手の人間は全ての社会問題を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の問題で捉えようとする。</span></p> <p> </p> tatsumi_kyotaro 科学主義と科学信仰の現代 hatenablog://entry/13574176438064724716 2022-03-06T00:16:04+09:00 2022-08-16T10:45:05+09:00 1.「科学」の幻想 2.「科学」は面倒な議論を単純化できる。 3.自分を合理的な人間だと思いたい人達 4.「配慮」と「共感」の現代 4.崩壊する民主主義 【参考文献】 1.「科学」の幻想 「科学」という言葉は、かなり安易に使われている。 「科学的」であるということはそれだけで偉いことのように言われ、「科学的ではない」という言葉はかなり批判的に使われている。(「文学」や「哲学」ではこうはいかない。「文学的」「哲学的」という言葉は「しゃれてる」「なんか小難しい」くらいの意味で使われがちだ) 問題は「科学」を正しさを証明してくれるものとして盲信する態度が人々の内にあることだ。 実際、「科学」が何なの… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#1科学の幻想">1.「科学」の幻想</a></li> <li><a href="#2科学は面倒な議論を単純化できる">2.「科学」は面倒な議論を単純化できる。</a></li> <li><a href="#3自分を合理的な人間だと思いたい人達">3.自分を合理的な人間だと思いたい人達</a></li> <li><a href="#4配慮と共感の現代">4.「配慮」と「共感」の現代</a></li> <li><a href="#4崩壊する民主主義">4.崩壊する民主主義</a></li> <li><a href="#参考文献">【参考文献】</a></li> </ul> <h4 id="1科学の幻想">1.「科学」の幻想</h4> <p>「科学」という言葉は、かなり安易に使われている。</p> <p>「科学的」であるということはそれだけで偉いことのように言われ、「科学的ではない」という言葉はかなり批判的に使われている。(<span style="font-size: 80%;">「文学」や「哲学」ではこうはいかない。「文学的」「哲学的」という言葉は「しゃれてる」「なんか小難しい」くらいの意味で使われがちだ)</span></p> <p>問題は「科学」を正しさを証明してくれるものとして盲信する態度が人々の内にあることだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">実際、「科学」が何なのかを説明できずとも、とにかく「科学的」であることは重要であるということを言う人も多い。<strong>しかしそれは詭弁ではないか</strong>という話を<a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/02/22/235335">前回記事</a>では説明した。</span></p> <p><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/01/26/225520">「科学」とは何かについては過去説明した</a>通りだが、やはり人々は「科学」というものにある種の幻想を抱いているように思える。</p> <p>では、なぜそのような「科学」に対する幻想が共有されているのか。人々が「科学」という概念に何を期待しているのか。</p> <p>人々が「科学」を重要視するのには理由があるはずだ。</p> <p>今回は「科学」という言葉の使われ方と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%C2%E5%BC%D2">現代社</a>会の関係について私なりの考えをまとめた。もちろん、一個人の意見なのでそういう社会の見方もあるくらいに読んでもらえれば幸いだ。</p> <p>では早速、「科学」という概念がどのように利用され、なぜそのように利用されているのかについて考えていこう。</p> <p> </p> <h4 id="2科学は面倒な議論を単純化できる"><strong>2.「科学」は面倒な議論を単<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%E3%B2%BD">純化</a>できる。</strong></h4> <p>まず「科学」という言葉は、面倒な議論を単<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%E3%B2%BD">純化</a>する上で便利だ。</p> <p>漠然と「科学=正しい基準」と思われている状況では、決着のつかない議論でもとりあえず「科学的」なことを言った方が勝ちになる。</p> <p>もちろん、科学的正しさはそのようなものではないというのは依然説明した通りだが、「科学=正しい基準」というレトリックは、議論において便利なのだ。</p> <p>面倒な議論、決着の付かない議論が避けられる傾向にあるというのは明らかだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">決着のつかない議論をするのが苦手でなんらかの形で決着を付けたがる人は多い。</span></p> <p>特に、思考停止しているくせに何か言った気になりたい人間が、議論の終盤に「まぁ、みんな人それぞれ考えがあるよね」なんて無意味な決着を付けたがる光景は割とよく見られるのではないだろうか。そんなところに着地させるなら最初から議論なんてする意味はないと思うが、こういう人間は自分の意見が尊重されるという状態を確認したいだけなので誰も否定できないような当たり前のことをわざわざ言いたがるのだろう。</p> <p>もちろん、みんな人それぞれ考えがあるという部分を否定したいのではない。そんなことは議論の前提部分の当たり前のことであって着地点ではないという話だ(<span style="font-size: 80%; color: #1464b3;">まぁ、険悪な雰囲気を収めるためという場合もあるので一概には言えないが……</span>)</p> <p>例えば他にも、「論破」なんて言葉を使って議論にやたらと勝ち負けを決めたがる阿呆には心当たりがある人が多いのではないだろうか。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%D2%A4%ED%A4%E6%A4%AD">ひろゆき</a>やDaiGoの健在ぶりを考えてみて欲しい(<span style="font-size: 80%;">こういうことを言うと、あれはネタとしてみんな消費しているだけであって真面目に受け取っていないと言い出す馬鹿が出て来そうだが</span>)。</p> <p>さて、このように議論になんらかの決着を付けたがるのは何故かというと、決着の付いた議論についてはもう何も考えなくて良いからだろう。</p> <p>簡単に言えばみんな思考停止していたいのだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">終わらない、決着の付かない議論では、自分の考えが正しいのかどうかが常に問われ続ける。それに耐えられないのだ。</span></p> <p>このような傾向とパラレルな現象として依存症ビジネスを挙げよう。</p> <p>依存症ビジネスという言葉が叫ばれて久しいが、現代人の少なくない人々は依存症ビジネスの虜だ。おそらくみんなが思っているよりも多くの人間がその傾向を示している。かく言う私もその一人だろう。</p> <p>そういう依存症ビジネスに浸かった人々は、中毒者のように常に快楽回路と接続され続けないと不快を強く感じるようになってしまっている。</p> <p><strong>だから、快楽を途切れさせるものを排除したがる。労働や家事はもちろん、抽象的思考や他者からの批判、当然決着の付かない議論のストレスにも耐えられない。</strong></p> <p>コミュニケーションも不快なものを避け、自分が楽しいコミュニケーションだけを取り入れようとする。そこに異質な他者との交信は存在しない。</p> <p>読書もそうだ。読むことそれ自体に快楽を感じる人間は別として、読書という行為に少なくない人は「これって面白い?」「これを読むとどうなるの?」とすぐに手に入るメリットばかりを気にし出す。</p> <p><strong>彼らが聞きたがっているのは、手近にある快楽を得る時間を手放してまで得られるものがあるのかどうかということなのだ。</strong></p> <p><strong>また、彼らは自分たちが快楽を享受している状態を批判されると物凄い勢いで反発する。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;"><strong>彼らが唯一気にしているのは、「何の後ろめたさも持たずに快楽と接続し続けること」であるからだ。</strong></span></p> <p><strong><span style="color: #1464b3;">「何も余計なことを考えずに快楽を得たい」というのが彼らの本心であり、たとえば自分が楽しんでいるようなコンテンツが批判されたりすると彼らはそれを排除したがる。</span></strong></p> <p><strong>コンテンツ自体に問題があるかもしれないという指摘さえ彼らは受け入れることができない。そのような思考が差し挟まること自体がノイズだからだ。一瞬でも快楽回路との接続を断ち切る思考のノイズはあってはならないのだ。</strong></p> <p><strong>自分の好きな配信者や動画が批判されるとブチギレる信者の心理、コンテンツ無罪論、エンタメ無罪論はここから来るわけである</strong><strong>。</strong></p> <p>だから、依存症ビジネスなんて言葉が出たり『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B08M3LS6QX?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">スマホ脳</a>』が如何に科学的データを持ち出して現代の依存症に警鐘を鳴らそうが、彼らはそれを無視し続けるだろう。</p> <p><strong>彼らが欲しているのは「何も考えずに快楽に溺れて良い」というメッセージであるからだ。</strong></p> <p>『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B08M3LS6QX?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">スマホ脳</a>』や『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B091Q2MR1G?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">インターネットポルノ中毒</a>』に対しても「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%DE%A5%DB">スマホ</a>やインターネットは悪くない」とか「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A1%BC%A5%E0%C7%BE">ゲーム脳</a>の時と同じで無視して良い」という論にばかり賛同が集まるのはこのためだ。補足しておくと、筆者らもテク<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%ED">ノロ</a><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>が悪いなんて単純なことを言っているのではなく、人間が自ら作り出した技術に対して人間の脳は適応できていないという至極当たり前の話をしている。</p> <p>このように依存症ビジネスが蔓延した状況で、依存症的消費行動を取る現代人にとって自分の考えを常に問わねばならない決着の付かない議論は忌避される傾向にある。</p> <p>みんなが楽しく趣味だけを語れるコミュニティを求めたがる風潮が政治に対する無関心と同時に現れたのも無関係ではない。</p> <p>政治の問題についても、結局自分が何をすれば良いのかについて悩み続けること自体の重さに耐えられないし、すぐに「じゃあ私達はどうすればいいのか」なんてことを言い出す。</p> <p>歴史問題に対して「もう終わったもの」として扱う人間が如何に多いかを考えて欲しい。</p> <p><span style="color: #1464b3;">彼らが持て囃す<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%F3%A5%D5%A5%EB%A5%A8%A5%F3%A5%B5%A1%BC">インフルエンサー</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%D2%A4%ED%A4%E6%A4%AD">ひろゆき</a>等)が提供しているのは思考ではなく、考えたフリの仕方や賢そうに見せるための作法である。</span></p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%F3%A5%D5%A5%EB%A5%A8%A5%F3%A5%B5%A1%BC">インフルエンサー</a>が何かを断言する度に、彼らは「自分の中でそれ以上考えなくても良いもの」の範囲を拡大しているのだ。</p> <p>また、そこまで馬鹿な人でなくとも、人間が何か考えなくてもやがて科学テク<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%ED">ノロ</a><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>の発展が人々の生活を良くするだろうという「科学」依存な態度が見られたりする。</p> <p> </p> <h4 id="3自分を合理的な人間だと思いたい人達"><strong>3.自分を合理的な人間だと思いたい人達</strong></h4> <p>また、「科学」という言葉は自分のことを合理的で冷静な人間だと思いたがる人間が使いたがる傾向がある。</p> <p>「科学」という言葉には合理的で理性的という印象が付きまとっているからだ。</p> <p>残念なことに、時々「科学的に説明してくれれば自分は納得できる」と宣う底の抜けた馬鹿がいるが、そういう奴は自分が納得できる説明だけを「科学的」と言っているだけで、自分が納得できない時は相手の説明が科学的でないことにしているのだ。</p> <p>この手の阿呆は、そもそも自分を合理的で知的な人間だと信じて疑わない。</p> <p>だから、<span style="color: #202124; font-family: arial, sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: left; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;"><span style="color: #202124; font-family: arial, sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: left; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">合理的で知的な自分が納得できたものだけが</span>「科学」で、</span><span style="color: #202124; font-family: arial, sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: left; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">「科学」に納得できているから自分は合理的で<span style="color: #202124; font-family: arial, sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: left; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;"><span style="color: #202124; font-family: arial, sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: left; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">知的な</span></span>人間だという循環論法を繰り返す。</span></p> <p><span style="color: #202124; font-family: arial, sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: left; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">そうしてますます自分こそが科学を知っているとい<span style="color: #202124; font-family: arial, sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: left; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;"><span style="color: #202124; font-family: arial, sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: left; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">う</span></span>確信を深めるのだ。</span></p> <p><strong>こういう思い上がった人間は、他人には平気で</strong><strong>「科学的な説明に納得しない人間は合理的ではないから話が通じない」と</strong><strong>言ったりするのでタチが悪い。</strong></p> <p>加えて、彼らはあまり自分から何かを語りたがらない。</p> <p>自分が語るのではなく、まず相手の言説や価値観をジャッジする側に回ろうとする。</p> <p>そうやって自分からは「科学とは何か?」を説明せずに、「科学」の定義を曖昧にしたまま相手を「科学的でない」と攻撃するのだ。</p> <p>そういうことをやる輩は、同時に自分を中立の立場に見せようとする。「科学」は価値中立だから「科学」の側に立つ自分は、主観に依らない客観的な意見を言える冷静な知性だと主張するわけだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">だが価値中立なものを使って何かを批判する行為自体は中立な行為になりようがない。</span>全ての人を平等に批判などできるわけがないのだから、批判の矛先は必然偏るし、誰だって批判する相手を選んで批判しているからだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">「私は中立であるように努めている」と言うことはできても、「私は中立である」とは言えないだろう。</span></p> <p>こういう極端な例でなくとも、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%C2%E5%BC%D2">現代社</a>会に生きる人はあまりにも素朴に、誰もが納得す完璧な説明を求めすぎている。</p> <p><span style="color: #1464b3;">「本当に頭のいい人とは、難しいことを易しく説明できる人だ」という勉強したくないがための言い訳のような<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AF%A5%EA%A5%B7%A5%A7">クリシェ</a>も「科学」信仰の風潮と結託している</span>(<span style="font-size: 80%;">確かに難しいことを易しく説明できることは重要だが、それは頭の良さの指標の一部でしかないだろう……</span>)。</p> <p>難しいことを易しく説明できる人は尊敬できるという話なら是非とも同意したいところだが、この手のことを言いたがる人間は単に自分が勉強した方がいいかもしれないという発想がないだけなのだ。</p> <p>つまり、相手に説明の負担を負わせることばかりして、自分が理解できなくても「相手の説明が悪かった」と片づけてしまえる人間なのだ。</p> <p>どんなに分かりやすく説明したところで納得しない人はいるし、納得できない人間がいるからと言って主張が間違っているとは限らない。</p> <p>理解しにくいものを拒む傾向が強まれば、簡単には共有できない個人的感覚などは民主主義の議論から排除されていくだろう。</p> <p>民主主義なのだから、なかなか理解を得られない意見でも言うことができたり、納得できないことに納得できないと言えるのもの重要なのではないかと思うのだが、現状そういうことを言うと不当に「科学」を持ち出す輩にそんなのは理性的な議論ではない感情論に過ぎないと片づけられてしまうだろう。</p> <p>これは合理的で理性的な「科学」と、「科学」が分からない感情的な馬鹿という図式で何か言いたがる人間が如何に多いかを考えれば分かる話だ。</p> <p>事態がそこまで単純ではないというのは、科学者同士も理論や事実に対する解釈の違いで対立したり議論をするというごく単純な事実を考えれば分かる話だが、彼らは科学者同士の議論はいつの時代も冷静なものだとでも思っているのだろう。</p> <p>このように、「科学」という概念は自分のことを合理的で理性的な人間だと思い込みたい人間の間で共有され、彼らが理解できないものを冷笑するために利用されれている。</p> <p> </p> <h4 id="4配慮と共感の現代"><strong>4.「配慮」と「共感」の現代</strong></h4> <p>なぜ「科学」という言葉を人々がこれほどまで安易に使いたがるようになったのかについて、私なりの所見をまとめると以下の二点になる。</p> <p>・何の後ろめたさも持たずに快楽を得たい。</p> <p>・自分を合理的かつ冷静で知的な人間だと思っていたい。</p> <p>これら二つを合わせ一言で言うなら現代人の心象は「何も考えずに楽しく過ごしていたいが馬鹿に思われるのは嫌だ」というところに集約されるのではないだろうか。</p> <p>そう考えると、近頃頻繁に話題に上がる「配慮」と「共感」の問題と連続する問題として考えることができる。</p> <p>近頃、「配慮」が足りないことで様々なものが炎上するようになったが、この他者への「配慮」は必ずしも異質な他者への理解を必要としない。</p> <p>たとえ、思考停止している人間でも「配慮」の論理とは共存できる。なぜなら、「配慮」は異質な他者へ接近する契機を含まないからだ。</p> <p>つまり「配慮」とは遠ざけながら摩擦を回避するための方法であり、異質な他者と向き合うことなく遠ざけておくための処世術のようなものだ。</p> <p>処世術としての「配慮」は、他者を傷つけないでいると同時に自分が傷つかないために必要なものだ。</p> <p>現代人は、多様な人々の間にある摩擦と不協和を受け入れることなく、「配慮」という形で摩擦それ自体を避けようとする。</p> <p>そうした「配慮」をする人達の中に、一定数見られるのは「誰も傷つけない自分でありたい」という強迫観念だ。</p> <p>この強迫観念は「自分も傷つけられたくない」という感情の裏返しとも言えるもので、それは必ずしも他者への接近を必要としない。<span style="font-size: 80%;">(自分のことを優しい人間だと言いたがり、それを他人から否定されると逆ギレする人間もこの手の強迫観念に絡め捕られている)</span></p> <p>だから最終的に「配慮」の論理は、「私もみんなの心の傷に配慮するから、その代わりあなたも私の心の傷に配慮してください」という心の傷を互いに配慮し合う契約のようなものでしかなくなる。</p> <p>つまり、現代における「配慮」は多様性への思考ではなく、単に「自分が傷つかないでいるための」思考停止的な作法に過ぎない。</p> <p>そして、「配慮」の概念と相補的に存在するのが「共感」の論理だ。</p> <p>どちらも現代的な思考停止が生み出すものであるが、「配慮」が異質な他者と向き合うことなく遠ざけることとすれば、「共感」は異質であるはずの他者を自分と同質なものと考えることだ。</p> <p>厄介なのは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/SNS">SNS</a>で問題提起が起こる際に「共感」がベースで拡散が行われることだ。</p> <p>ある問題提起に対する「共感」は、自分が想起した体験を語るという形で行われる。</p> <p>「共感」ベースになっているせいで、あらゆる社会問題は「具体的な被害と当事者の心の傷」が示されなければ理解されず、そういう構図によって被害者側も「共感」集めに終始せざるを得ない。</p> <p>この時、当事者側はあまり「怒り」を見せず「悲しみ」を主に訴えなければならない。</p> <p>怒りは他者との摩擦と不協和という忌避すべきものを生むからだ。</p> <p>当事者が怒りの感情に訴え過ぎると「怒りでは何も解決できない」という一見穏当そうに見える意見で退けられるのはこのためだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">当事者の語りにリアリティを感じさせるために必要な最低限の「怒り」と、「共感」を呼ぶための「悲しみ」というのが丁度いい塩梅なのだ。</span></p> <p>取り乱したような怒りの感情に対して、大衆は「共感」よりも一歩引いた冷静さを見せる。それは知的な思考からくる冷静さではなく、単に「静かに悲しみを語る当事者」以外を当事者として見られないことに起因する。</p> <p>結果、悲しみと傷つきの物語には寄り添いながら、強すぎる怒りの感情は冷笑するというお馴染みの構図が生まれることになる。</p> <p>また「共感」ベースになった社会問題をめぐる対立は、<strong>「私(達)が如何にして傷ついているか」</strong>という当事者の語りと<strong>「お前たちは真の当事者なのか?」「お前たちの傷は本物か?」</strong>という批判の<strong>根本的に無意味な対立</strong>となる<strong>。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">つまり、<strong>「本当の当事者の心の傷はどのようなものか?」</strong>というところだけが問題になっていき悪しき当事者主義ないし当事者</span><span style="color: #1464b3;">の心の傷至上主義の様相を呈していく。</span></p> <p>結果として共感を集められる心の傷の語りがテンプレの如く増殖し、普段は感情論を批判している馬鹿も自分のこととなるとテンプレに従って語りたがるわけだ。</p> <p>逆にテンプレの語りから外れた語りは無視される。</p> <p>また、その語りを聞く側もテンプレに従って「共感」さえしていれば良く、問題の解決に関わる必要に迫られるわけではない。なぜなら、「共感」が「心の傷への共感」である限り重要なのはその傷に寄り添っていることを表明できるかどうかだからだ。</p> <p>こうして日々<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/SNS">SNS</a>で大量に見られる「自己の似たような経験を語り共感は示すものの何もしない人たち」と「共感を示す人を優しい人と評価するけど何もしない人たち」が生まれるのである。まったく「いい人」だらけの世の中になったものである。</p> <p>「配慮」の論理も「共感」の論理も「社会を変えよう」という論理ではない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">それらは、あくまで誰からも傷つけられない場所で身内を増やしていくために必要なことでしかない。</span></p> <p>「誰も傷つけていないのだから、誰からも批判される筋合いはない」という理屈と「当事者の悲しみに寄り添うべきだ」という理屈をみんなが持っている。</p> <p>こうして当事者の心の傷至上主義になっていくと、「悲しむ当事者」と「それに共感する人々」というスタンダードが生まれこのスタンダードから外れたものは無視され封殺される。</p> <p><span style="color: #1464b3;">こうして「配慮」と「共感」だらけになった世の中では、「配慮」によって異質な他者を遠ざけるプロセスと「共感」によって異質な他者を同化するプロセスが繰り返される。</span></p> <p><strong>結果、人々が「自分と同質な身内の人間以外にはコミュ障」という状況になる。</strong></p> <p>……というと少し滑稽に聞こえるかもしれないが、事態は深刻だ。</p> <p>なぜなら、異質な他者への接近という契機がない以上、異質な他者を考慮せざるを得ない民主主義的な議論も疎遠なものとなるからだ。</p> <p>そして異質な他者と接近する契機を与えられないまま、「何も考えずに楽しく過ごしていたいが馬鹿に思われるのは嫌だ」という心象だけを保持したまま、傷つくことを避けるようになっていく。</p> <p>結果、「科学」とか「法」などの、議論を単<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%E3%B2%BD">純化</a>しながらも頭が良さそうに聞こえる言葉だけが乱用されていく。つまり、実際は思考停止しているのに自分は思考していると思い込む上で便利な言葉だけが使われていく。</p> <p>これが「科学」依存が生まれる大まかな構図であると私は考える。</p> <p>「科学」への信仰をする者たちが、理性による議論を訴え感情論を批判するように見えて非常にナイーヴな心象を抱えているという捻じれも、この構図を考えれば説明がつく。</p> <h4 id="4崩壊する民主主義">4.崩壊する民主主義</h4> <p>こうして「科学」という言葉の使われ方について考えてみたが、もちろん別の見方をすることはできるだろうし、データがあるわけでもない。</p> <p>否定しようと思えば否定するのは簡単だろう。</p> <p>ただ一つ言うのであれば、<span style="color: #111111; font-family: 'Open Sans', 'Helvetica Neue', Helvetica, Arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: start; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">データや事実がないから非科学的になるわけでも、非論理的になるわけでもない。データや事実それ自体が重要だとしても、データや事実は主張の説得力にとって<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">十分条件</a>でも必要条件でもない。</span></p> <p>科学的データがないことを理由に相手の論理を認めず、科学的データに基づいているから自分は正しいと主張するのは端的に間違っている。</p> <p>何かを批判をされた時に、「私は科学的に間違ったことを言っていない」と開き直る人間もいるが、<strong>科学は正しさを保証するためのものではない。</strong></p> <p>全てに科学的基準を参照することはできないし、科学的に間違っていないなんてことも言いきれない。</p> <p>何ら証明されていないことを信じることは時に必要であるし、それを人は信念と呼んだりする。</p> <p>科学の領域であっても何らかの信念から新たな発見が生まれることはあるし、科学の領域以外では私たちは自らの信念について語ってよい。</p> <p>もし、信念と科学に優劣を付けようとするならそれ自体一つの信念に過ぎないだろう。</p> <p>しかし、彼らは自分たちもある種不合理な信念で動いていることを否認する。</p> <p>信念という言葉は大げさで暑苦しい響きを持つようになった。もはや、民主主義において誰も自分の信念を語りたがらない。</p> <p>自分の意思を社会に反映させようという時も、各々の信念を語るのではなく、「科学」という形で語ろうとする。</p> <p>誰も自分の信念を語らない科学依存症な態度の蔓延は、端的にこの社会の構成員が民主主義に耐えられなくなっていることを示しているのかもしれない。</p> <p>民主主義では対立の末に一定の合意が為されても、それは暫定的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%B2%A5%E2%A5%CB%A1%BC">ヘゲモニー</a>の一時的な帰結、つまり対立的合意でしかない。</p> <p>しかし、そうした不安定な状況は絶え間ないストレスを産む。</p> <p>だから理性的に合意する議論を理想化する人たちが出てくるのだ。<strong>彼らは合意それ自体を目的化し、合意という目的の邪魔になる意見を排除しようとする。</strong></p> <p>現代の「配慮」と「共感」の論理は、絶えず新しい対立の可能性を孕んだ不安定な合意しかできない民主主義と対極にある。</p> <p>また、私自身まぎれもない現代人の内の一人であり、自分は違うと言いたいわけでもないことは付言しておく(もちろん違うかもしれないが)。私がどうであるかはこの際どうでも良いことだ。</p> <p>私たちは安易に「科学」という言葉を使いたがる現代人の傾向について考えなければならないだろうし、科学主義者達の振りまく「科学」という幻想に気を付けなければならないだろう。</p> <p>もちろんそれでは単なる科学主義への警鐘に留まってしまう。</p> <p>本当に考えなければならないのは、民主主義の機能不全をどうするかである。</p> <p> </p> <p> </p> <h4 id="参考文献">【参考文献】</h4> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B08M3LS6QX?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51Ue+pr2r7L._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="スマホ脳(新潮新書)" title="スマホ脳(新潮新書)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B08M3LS6QX?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">スマホ脳(新潮新書)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%F3%A5%C7%A5%B7%A5%E5%A1%A6%A5%CF%A5%F3%A5%BB%A5%F3" class="keyword">アンデシュ・ハンセン</a></li> <li>新潮社</li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B08M3LS6QX?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B091Q2MR1G?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/411uSuSKvUL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="インターネットポルノ中毒 やめられない脳と中毒の科学" title="インターネットポルノ中毒 やめられない脳と中毒の科学" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B091Q2MR1G?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">インターネットポルノ中毒 やめられない脳と中毒の科学</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A1%BC%A5%EA%A1%BC%A1%A6%A5%A6%A5%A3%A5%EB%A5%BD%A5%F3" class="keyword">ゲーリー・ウィルソン</a></li> <li>DU BOOKS</li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B091Q2MR1G?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p> </p> tatsumi_kyotaro 科学的思考とは何か?~「科学的議論」という詭弁~ hatenablog://entry/13574176438041671895 2022-02-22T23:53:35+09:00 2022-12-17T12:16:19+09:00 1.「科学的思考」の時代 2.「科学的に説明しろ」「科学的な根拠を出せ」という批判 ①科学的に説明するとはどういうことか? ②科学的に説明できるとする根拠は何か? ③なぜ「科学的」である必要があるのか? 「科学」に対する幻想その①「科学の世界では何が正しいのかについて証明する方法が確立されている」 「科学」に対する幻想その②「主観を排した科学的思考法というものが明確に確立されている」 2.科学的説明をしなくても人は説得される 3.「科学」という言葉を使いたがる馬鹿 4.まとめ 【参考文献】 1.「科学的思考」の時代 私たちが日頃耳にする「科学」という言葉はもはや学問の一分野という意味を超えて、… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#1科学的思考の時代">1.「科学的思考」の時代</a></li> <li><a href="#2科学的に説明しろ科学的な根拠を出せという批判">2.「科学的に説明しろ」「科学的な根拠を出せ」という批判</a><ul> <li><a href="#科学的に説明するとはどういうことか">①科学的に説明するとはどういうことか?</a></li> <li><a href="#科学的に説明できるとする根拠は何か">②科学的に説明できるとする根拠は何か?</a></li> <li><a href="#なぜ科学的である必要があるのか">③なぜ「科学的」である必要があるのか?</a></li> <li><a href="#科学に対する幻想その科学の世界では何が正しいのかについて証明する方法が確立されている">「科学」に対する幻想その①「科学の世界では何が正しいのかについて証明する方法が確立されている」</a></li> <li><a href="#科学に対する幻想その主観を排した科学的思考法というものが明確に確立されている">「科学」に対する幻想その②「主観を排した科学的思考法というものが明確に確立されている」</a></li> </ul> </li> <li><a href="#2科学的説明をしなくても人は説得される">2.科学的説明をしなくても人は説得される</a></li> <li><a href="#3科学という言葉を使いたがる馬鹿">3.「科学」という言葉を使いたがる馬鹿</a></li> <li><a href="#4まとめ">4.まとめ</a></li> <li><a href="#参考文献">【参考文献】</a></li> </ul> <h4 id="1科学的思考の時代">1.「科学的思考」の時代</h4> <p>私たちが日頃耳にする「科学」という言葉はもはや学問の一分野という意味を超えて、一般的な形容詞として使われている。</p> <p>宣伝広告では取りあえず「科学的」と言っておけば馬鹿な一般人は釣られるだろうくらいの勢いで「科学的」という言葉が使われている(<span style="font-size: 80%;">最近は「科学的人事」「科学的経営」という言葉まで聞く)</span>。</p> <p>そこまで馬鹿な人間でなくとも、自分が興味のある分野で「~について科学的に分かってきてこと」と書かれていたらとりあえず見てみる人は少なくないのではないだろうか。</p> <p>「科学的思考」と言っておけば賢そうに聞こえたり、「科学」という言葉を聞くだけで「なんとなく信用できそうだ」という印象を抱く人も少なくないのだろう。実際、科学っぽい言葉で効果を謳ったインチキ商品に騙される人間はいるのだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">しかし、そうした「科学」に対する漠然とした信頼感がある一方で、「科学とは何か」について考えたことのある人間がどれだけいるだろうか。</span></p> <p><strong>ひょっとすると私たちは、「科学とは何か」について考えたことがないのに「科学的思考」なるものを称揚する「科学信仰」の状態にあるのではないだろうか?</strong></p> <p>最近では社会問題について議論する時でさえも、議論は科学的であるべきだなんてことを言う人もいる。</p> <p><strong>事実、「科学的に説明しろ」とか「科学的な根拠を出せ」という批判はよく見かけるだろう。</strong></p> <p>しかしこの手の「科学的思考」をしたがる人たちはそもそも「科学」についてまともに考えたことがあるのだろうか?</p> <p>今回は、「科学的に説明しろ」とか「科学的な根拠を出せ」というような「科学」という言葉を用いた批判に対しての疑問と反論を述べたい。</p> <h4 id="2科学的に説明しろ科学的な根拠を出せという批判">2.「科学的に説明しろ」「科学的な根拠を出せ」という批判</h4> <h5 id="科学的に説明するとはどういうことか"><strong>①科学的に説明するとはどういうことか?</strong></h5> <p><strong>第一に重要な点だが、科学的な説明をすべきというなら、何をどう説明すれば科学的に説明したことになるのかを提示するべきだろう。</strong></p> <p>それをしないまま、科学的説明を求めるのは卑怯でしかない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">実際「科学」という言葉はただの装飾で、単に「説明が足りない」と言いたいだけという場合も少なくないだろう。</span></p> <p>この「説明が足りない」というタイプの批判は、往々にして誠実さに欠けている。</p> <p>どの程度の説明を求めるべきものなのかについて何も提示せずに批判しているからだ。</p> <p><strong>つまり、「何を」「どのように」「どの程度」説明すれば、その批判に応答したことになるのかを示さずに、ただ「科学的に説明しろ」とか「科学的な根拠を出せ」と言ってている場合がそれだ。</strong></p> <p>科学は永遠普遍の絶対的正しさを提示することはできない。</p> <p>どんなに正しいと思われていることも今後修正される可能性を持っている。</p> <p>科学の正しさが「現在どの程度の妥当性があるか?」という程度の問題である以上、どこまで説明すれば妥当かを示す必要がある。</p> <p><strong>どの程度の正しさが必要とされていて、またどうしてそれが妥当なラインと言えるのかを提示せずに「科学的に説明しろ」と言うのは卑劣な批判の仕方だ。</strong></p> <p>なぜなら、何をどう説明すれば科学的に十分なのかというラインを提示していないから、後出しでいくらでも相手の言うことを否定できるからだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">説明が足りないという批判をするなら、何を説明すれば十分なのかを示す必要があるし、どうしてそれを説明すれば足りることになるのかも説明する必要がある。</span></p> <p>そうでなければ、この手の「(科学的)説明が足りない」という批判は、ただ単に納得できないという言葉を言い換えたに過ぎない(<span style="font-size: 80%;">もちろんそういう場合が多いが……)</span>。</p> <h5 id="科学的に説明できるとする根拠は何か">②科学的に説明できるとする根拠は何か?</h5> <p><strong>第二に、科学的に説明しろという批判が妥当なのは、その主張が科学的に説明可能である場合のみだ。</strong></p> <p>科学はこの世界の仕組みをよりよい仕方で説明しており、全ての主張は科学的根拠を求めることができるというのはただの「科学信仰」でしかない。</p> <p>人権や抑圧、幸福や苦痛という概念については私たちは直接観察することも実験することも出来ない。</p> <p>そういう物質的実体を伴わない概念(幸福、生きづらさ、抑圧、差別、格差)について科学的に示そうとすれば、それがどのような変数として現れるのかについて補助仮説を立てる必要がある。</p> <p><span style="color: #1464b3;">だが、その補助仮説が正しいことを証明する術はない。</span></p> <p>地球幸福度指数(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/HPI">HPI</a>)が実態に沿わないと批判されているのを考えれば分かる話だ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">たとえ幸福や抑圧というものを指数として表せたとしても、どの指数がどの程度重い意味を持つのかについては結局個人の主観的判断に委ねるしかない。</span></p> <p>また、ある人々の主張の基礎となる概念が科学的に調査可能でない可能性もある。もし全てが科学的に調査可能な変数として現れると主張したいのなら、その主張が正しいという科学的根拠を示すべきだろう。</p> <p>主張が基にする事実の真偽を測る上、何を調査すればその事実が示されるのか分からないことは多く存在する。</p> <p>だが、人権や民主主義、幸福や苦痛のような科学的に十分に検証出来ない概念であっても、私たちは語ることが出来るし語って良い。もちろん人権や民主主義という概念を私たちは論理の根拠にすることができる。</p> <p>「科学的に説明すべきだ」という批判はよく見られるようになったが、まず本当にその言説はどの程度科学的説明が可能な話なのかを考えるべきだ。</p> <h5 id="なぜ科学的である必要があるのか">③なぜ「科学的」である必要があるのか?</h5> <p>最後に指摘したいのは、この手の批判が科学的である必要性を示していないことだ。</p> <p><strong>科学的に説明しろというのなら、なぜその議論において主張が科学的であることが望ましいのかについて説明すべきだ。</strong></p> <p>仮に事実やデータに基づいて意見するべきだという意味で「科学的に説明しろ」と言っていたとしよう。</p> <p><strong>しかし、事実やデータに基づいた議論をすべきだという話だとしても、この世の全てがデータ化されているわけでも全ての事実が調査されているわけでもない。</strong></p> <p><strong>この手のデータの不足を批判する人間は、社会調査はコストが掛かるというごく当たり前のことを理解していない。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">仮に調査をしなければ民主主義の議論に参加するべきではないという主張なのだとしたら、まずその主張を支えるデータを出すべきだろう。</span></p> <p>また科学的事実というものが理論によって解釈され叙述されたものである以上、データや事実は無目的には収集されない。</p> <p>事実の集積から理論が導かれているのではなく、理論があってはじめてその検証のために事実やデータが集積されている。</p> <p>過去に提唱されたことのある理論にしか事実やデータがないのは当たり前のことだ。</p> <p><strong>私たちの議論は、全て過去に提唱されたことのある社会理論に沿わなければならないとする理由もないだろう。</strong></p> <p>データは後で集めてもいいだろうし、政治的な主張にはデータが無ければならないという科学的根拠こそない。</p> <p>事実やデータがない状態では政治的議論に参加するべきではないというのは、その人の勝手な信念であって科学とは関係がない。</p> <p>仮に民主主義における全ての議論がデータに基づくべきと主張したいのなら、その主張の根拠となるデータをまず出すべきだ。また、全ての議論ではなく特定の一部の議論ではそうすべきだというならどのような議論の場合データに基づくべきで、なぜそれら特定の議論のみなのかをデータに基づいて説明すべきだろう。</p> <p> </p> <p><strong>以上三つの点から「科学的説明をしろ」と言うだけの批判はかなり欺瞞に満ちていると言っていい。</strong></p> <p>私たちは、そもそも科学的に説明可能なことなのか、なぜ「科学的」である必要があるのか、科学的に説明するとはどういうことかについて当然問うことができる。</p> <p><span style="color: #1464b3;">そうでなければ、こちらはどう説明すべきかについての判断を下すさえことができないし、仮に説明を試みたとしても、</span><span style="color: #1464b3;">相手は後出しで「科学」の定義を持ち出して「お前の言っていることは科学的ではない」と攻撃することができてしまう。</span></p> <p>それでも「科学的説明とは何か? なんてを質問するのは科学について何も知らないからだ」と批判になってない反論をしてくる人はいるだろう(<span style="font-size: 80%;">そういう奴に限って「科学」とは何かについて説明できないのだが</span>)。</p> <p>しかし、そういう批判はそもそも「科学」に対する誤ったイメージを基にしている。</p> <p>「科学」に対する誤ったイメージとはおよそ次の二つだ。</p> <h5 id="科学に対する幻想その科学の世界では何が正しいのかについて証明する方法が確立されている">「科学」に対する幻想その①「科学の世界では何が正しいのかについて証明する方法が確立されている」</h5> <p><span style="color: #1464b3;"><strong>一つ目の誤解は、他の学問と違って科学には「何が正しいのかを証明する方法」が存在するというものだ。</strong></span></p> <p><strong>しかし科学的に正しいというのは、単に現在までは否定されていないというだけだ。</strong></p> <p>かつて正しいとされていた<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%E5%A1%BC%A5%C8%A5%F3%CE%CF%B3%D8">ニュートン力学</a>が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">アインシュタイン</a>力学に否定されたように、現在の科学が否定されないとは限らない。</p> <p><strong>今の科学が絶対に正しいという科学的証明することは不可能だ。</strong></p> <p><strong>いくら事実やデータを集めたとしても、今後否定的なデータが出てくる可能性はゼロにはならず常に残り続ける。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">今日まで正しいとされてきたことが明日はそうではないかもしれない。</span></p> <p>それが科学の世界だ。</p> <p>だから、科学の世界においても「<strong>何が正しいのかを証明する方法</strong>」は存在しない(これについては過去記事参照:『<a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2021/12/31/201336">科学的正しさとは何か?データや事実だけでは科学的に証明できない~</a>』)。</p> <h5 id="科学に対する幻想その主観を排した科学的思考法というものが明確に確立されている">「科学」に対する幻想その②「主観を排した科学的思考法というものが明確に確立されている」</h5> <p><strong>もう一つは、科学的思考なるものが明確に確立されているという誤解だ。</strong></p> <p>科学者でも理論や事実の解釈など考え方の違いで対立や議論をするわけで、唯一正しい思考法のようなものがあると期待するのは間違いだ。</p> <p>もちろん、科学者個人個人が科学的思考方法について個人的見解や信条を持っているということは否定しない。実際、科学者も哲学者も素人も「科学的思考」について持論を述べるのはよく見られることだ。</p> <p><span style="font-size: 80%;">(ちなみに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Amazon">Amazon</a>で「科学的思考」と検索すると、割と上の方に研究不正を疑われた早野氏の『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B08WC4JFKT?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">「科学的」は武器になる―世界を生き抜くための思考法―</a>』という本が出てくる。内容はというと何故かキャリア論じみた内容らしいが……)。</span></p> <p>この場合の「科学的思考」というのはどちらかと言えば信念に近い。</p> <p>科学の全体像自体が科学の営みの中で変化していくのだから、科学の思考法も不変の定義があるわけではない。</p> <p>つまり、科学の世界では何が正しいのかを証明する方法も、常に正解を導く科学的思考法も確立されているわけではないのだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">だから「科学的に説明するとはどういうことで、なぜ科学的に説明しなければならないのか?」ということについて疑問を持つことは当然のことのはずだ。</span></p> <p><strong>「科学的」とは何かについて疑問を持つことは、科学に対する無知ではない。</strong></p> <h4 id="2科学的説明をしなくても人は説得される">2.科学的説明をしなくても人は説得される</h4> <p><strong>考えてもみて欲しいが、そもそも「科学的」とは思えないような説明でも人は説得される。</strong></p> <p>科学的説明でないと人は説得できないわけでもないし、説得していけないわけでもない。</p> <p><strong>もっと言えば、科学の世界でも新しい考えに納得するというプロセスは「科学的」なものとは限らない。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">有名な話だが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%DA%A5%EB%A5%CB%A5%AF%A5%B9">コペルニクス</a>が提唱し<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%EA%A5%EC%A5%AA">ガリレオ</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B1%A5%D7%A5%E9%A1%BC">ケプラー</a>が支持した<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%C0%CD%DB%C3%E6%BF%B4%C0%E2">太陽中心説</a>(地動説)は「科学的」な根拠があって広まったとは言いがたい。</span></p> <p>中山茂の『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>と科学革命の歴史』から引用しよう。</p> <blockquote> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%DA%A5%EB%A5%CB%A5%AF%A5%B9">コペルニクス</a>の場合も、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%C0%CD%DB%C3%E6%BF%B4%C0%E2">太陽中心説</a>を物理的に証明するものが彼にはなかった。しかし<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%EA%A5%EC%A5%AA">ガリレオ</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B1%A5%D7%A5%E9%A1%BC">ケプラー</a>は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%DA%A5%EB%A5%CB%A5%AF%A5%B9">コペルニクス</a>説の魅力とりつかれて、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%C0%CD%DB%C3%E6%BF%B4%C0%E2">太陽中心説</a>に賭けた。それは決して"客観的根拠"に拠ったものではない。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%DA%A5%EB%A5%CB%A5%AF%A5%B9">コペルニクス</a>説を支持するためには、恒星の年周視差が見出されねばならないことは、当時の学者ならだれでも知っていた。(中略)それが見出されないので、ティコ・ブラーエのような一流の観測者も<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%DA%A5%EB%A5%CB%A5%AF%A5%B9">コペルニクス</a>説をとらなかったし、また視差が見つかるまでは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%DA%A5%EB%A5%CB%A5%AF%A5%B9">コペルニクス</a>説を採用することはおあずけのはずであった。</p> <p>(『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>と科学革命の歴史』中山茂 P64-65)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4062921758?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/61gKPGSaCiL._SL500_.jpg" border="0" alt="パラダイムと科学革命の歴史 (講談社学術文庫)" title="パラダイムと科学革命の歴史 (講談社学術文庫)" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4062921758?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">パラダイムと科学革命の歴史 (講談社学術文庫)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E6%BB%B3%20%CC%D0">中山 茂</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4062921758?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> </blockquote> <p><strong><span style="color: #1464b3;"><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%DA%A5%EB%A5%CB%A5%AF%A5%B9">コペルニクス</a>説の根拠となるような</span></strong><strong><span style="color: #1464b3;">恒星の年周視差が実際に発見されたのは19世紀になってからである。</span></strong></p> <p><strong><span style="color: #1464b3;">つまり200年以上根拠がない状態でも、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%DA%A5%EB%A5%CB%A5%AF%A5%B9">コペルニクス</a>の説は徐々に支持を広げていったのだ。</span></strong></p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%EA%A5%EC%A5%AA">ガリレオ</a>が望遠鏡を使った観察によって客観的根拠を得ていたと勘違いしている人がいるかもしれないが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%EA%A5%EC%A5%AA">ガリレオ</a>が発見したのは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%DA%C0%B1">木星</a>の衛星や金星の満ち欠けであってそれは決定的な証拠というわけではなかった。</p> <p>また、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%EA%A5%EC%A5%AA">ガリレオ</a>の時代の望遠鏡の精度を考えても当時の科学者たちが望遠鏡の観測結果に疑問を持つのは当然のことであった。この点についてチャルマーズは次のように解説する。</p> <blockquote> <p>この点に関して、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%EA%A5%EC%A5%AA">ガリレオ</a>が望遠鏡を通して描いた月の表面のスケッチの中には、実際には存在しない架空の「クレーター」が描かれている、ということを指摘しておくことが有意義である。存在しない架空の「クレーター」が描かれているのは、完全とは言い難い<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%EA%A5%EC%A5%AA">ガリレオ</a>の望遠鏡の収差のためであろう。(中略)望遠鏡による発見に疑問を投げかけた<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%EA%A5%EC%A5%AA">ガリレオ</a>の敵対者は、決して愚かで頑固な反動思想家だったのではない。</p> <p>(『改訂新版 科学論の展開』A.F.チャルマーズ P142)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4769913001?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41UJvvbRlZL._SL500_.jpg" border="0" alt="改訂新版 科学論の展開" title="改訂新版 科学論の展開" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4769913001?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">改訂新版 科学論の展開</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/A.F.%A5%C1%A5%E3%A5%EB%A5%DE%A1%BC%A5%BA">A.F.チャルマーズ</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%B1%C0%B1%BC%D2%B8%FC%C0%B8%B3%D5">恒星社厚生閣</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4769913001?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> </blockquote> <p>科学の世界ですら、人が説得されるのは必ずしも「科学的」な根拠があるからというわけではない。まして、科学以外の世界ではもってのほかだ。</p> <p>例えば政治の世界を考えよう。</p> <p>科学的あるいは統計的に効果が検証されていない政策であろうと実行されてきたし、それに納得していた人はいたのだ。</p> <p>はるか過去より、今まで前例のない問題に遭遇する度に人類は実行したことのない政策について議論し誰かを納得させようとしてきた(<span style="font-size: 80%;">コロナ禍の現在、わざわざ言うまでもないことだとは思うが……</span>)。</p> <p>さらに言えば、今まで実行してきた政策が有効であっても時代が変わり条件が変わることで有効性を担保できない可能性もある。</p> <p><span style="color: #1464b3;">なぜなら時代も人の生活も常に変化しているからだ。</span></p> <p>過去の政策で得られたデータが未来でも有効とは限らない。</p> <p>究極、未来のことなんて誰も何も分からないのだ。</p> <p><strong>たとえ何のデータがなくとも私たちは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%AF%BC%A3%C5%AA%BC%E7%C4%A5">政治的主張</a>をして良いはずだし、何の確証がなくてもそれに納得する人がいてもいい。</strong></p> <p>それが民主主義というものだろう。</p> <p>誰かが勝手に言っている「科学」に必ずしも納得する必要はないし、誰かが「科学的根拠がない」と批判したことであっても納得したって良い。</p> <p><span style="color: #1464b3;">それは「非科学的」なわけでも「不合理」なわけでも、ましてや馬鹿なわけでもない。</span></p> <p>私たちは必ず「科学」に納得するべきだという考え方こそ科学的根拠などない。</p> <p>単に説得力がないと思えば「説得力がない」「納得できない」と言えばいいのであってわざわざ賢しらに「科学」など持ち出さずとも良いはずだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">もちろん、全くデータのない(個人の独断とも言える)主張に対しては慎重にならなければならないが、データがないからと検討もせずに退けてしまってはそれこそ科学に反していると私は思う。</span></p> <h4 id="3科学という言葉を使いたがる馬鹿">3.「科学」という言葉を使いたがる馬鹿</h4> <p><strong>「科学的に説明しろ」という批判の一部は、曖昧な言葉で議論を煙に巻く詭弁でしかない。</strong></p> <p>しかし、この手の詭弁を使ってしまう人は単に「科学」に無知なだけではない。彼らが他人を批判する時にわざわざ「科学」という言葉を使いたがるのはなぜなのかを考えれば分かる。</p> <p><span style="color: #1464b3;">彼らのような人間は「科学」については無知でも、「科学」という言葉が持つ権威と力は良く知っているから「科学」を語るのだ。</span></p> <p>だから、「科学」という言葉を使って詭弁を弄する人間は、無知なのではなく端的に悪質なのだ。</p> <p><strong>本当に悪質な人間というのは単に暴言を吐いたり周りに迷惑を掛けたりする嫌われ者ではなく、穏やかで丁寧な口調で人と対話しているように見えながら誰かを追い詰めていくような人間のことだ。</strong></p> <p>「科学」という言葉を使っておけば、冷静で客観的に物事を見られる人間のように見える(<span style="font-size: 80%;">少なくとも馬鹿には</span>)ということを彼らは知っていて、周りの連中もそんな彼らを「冷静な議論のできる良い人」と持ち上げる……だけならまだいいのだが、困ったことに彼らは「科学的」ではない「感情的」で「非論理的」な人間を冷笑したり攻撃したりするのだ。</p> <p>こんなことを言うと、「確かに科学という言葉で詭弁を弄する人はいるかもしれませんが、特別大きな問題だと思えません。それにそれは科学の問題なのでしょうか?」という質問が(<span style="font-size: 80%;">もしかしたら悪質な</span><span style="font-size: 80%;">科学主義者から</span>)発せられるかもしれない。</p> <p>まず、科学の問題かどうかについてだが、科学に纏わる問題ではあるだろう。</p> <p>これについては取りあえずサンドラ・ハーディングの『<a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4762826782?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1">科学と社会的不平等</a>』を挙げておこう。<strong><span style="color: #1464b3;">この本では、差別や格差などの社会的不平等を肯定する者たちが如何に科学を利用してきたかについて解説されている。</span></strong></p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4762826782?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/510W22fm35L._SL500_.jpg" border="0" alt="科学と社会的不平等: フェミニズム,ポストコロニアリズムからの科学批判" title="科学と社会的不平等: フェミニズム,ポストコロニアリズムからの科学批判" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4762826782?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">科学と社会的不平等: フェミニズム,ポストコロニアリズムからの科学批判</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A5%F3%A5%C9%A5%E9%20%A5%CF%A1%BC%A5%C7%A5%A3%A5%F3%A5%B0">サンドラ ハーディング</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%CC%C2%E7%CF%A9%BD%F1%CB%BC">北大路書房</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4762826782?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p><span style="color: #1464b3;">科学の問題かどうかと言われれば微妙で、この手の詭弁を弄する人は自分を優位に見せるためなら何でも使うので、たまたま議論で使いやすいから「科学」という言葉を使いたがるというのはあるだろう。</span></p> <p>もちろん、科学者が悪質な科学主義者ということもあるだろうからそういう点では科学全体の問題とも言えるかもしれない。</p> <h4 id="4まとめ">4.まとめ</h4> <p>さて、ここまでの話をまとめよう。</p> <p>個々人の意識レベルの話をするなら、私たちは「科学」という言葉を使いたがる悪質な科学主義者に気を付けなければならないということが言えるだろう。</p> <p>穏やかで、感情による議論を避け、公正な基準に拠ろうとする「いい人」<strong>に見える</strong>人物が、悪質な科学主義者であることは少なくない。</p> <p>そういう人間は「科学」こそ感情抜きで議論するための公正な基準だと言いかねない。</p> <p>しかし、そうして持ち出された「科学」という言葉を使った議論は、気を付けなければ欺瞞に満ちたものになるというのは見てきた通りだ。</p> <p>問題はもう少し広い範囲の話だ。</p> <p><strong>そもそも「科学」が誤ったイメージで語られるのはなぜかという話だ。</strong></p> <p>人が「科学」に幻想を抱くのには理由がある。</p> <p>幻想は人々に幻想として求められて初めて成り立つ。</p> <p>次回記事はそのことについて触れていきたい。</p> <p>【次回記事】</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2022%2F03%2F06%2F001604" title="科学主義と科学信仰の現代 - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/03/06/001604">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p>【前回記事】</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2022%2F01%2F26%2F225520" title="科学とは何か?~エセ科学、疑似科学との違い~ - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/01/26/225520">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2021%2F12%2F31%2F201336" title="データや事実があっても科学的に証明できない~科学的根拠とは何か?~ - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2021/12/31/201336">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p> </p> <h4 id="参考文献">【参考文献】</h4> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4062921758?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/61gKPGSaCiL._SL500_.jpg" border="0" alt="パラダイムと科学革命の歴史 (講談社学術文庫)" title="パラダイムと科学革命の歴史 (講談社学術文庫)" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4062921758?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">パラダイムと科学革命の歴史 (講談社学術文庫)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E6%BB%B3%20%CC%D0">中山 茂</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4062921758?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4769913001?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41UJvvbRlZL._SL500_.jpg" border="0" alt="改訂新版 科学論の展開" title="改訂新版 科学論の展開" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4769913001?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">改訂新版 科学論の展開</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/A.F.%A5%C1%A5%E3%A5%EB%A5%DE%A1%BC%A5%BA">A.F.チャルマーズ</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%B1%C0%B1%BC%D2%B8%FC%C0%B8%B3%D5">恒星社厚生閣</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4769913001?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4762826782?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/510W22fm35L._SL500_.jpg" border="0" alt="科学と社会的不平等: フェミニズム,ポストコロニアリズムからの科学批判" title="科学と社会的不平等: フェミニズム,ポストコロニアリズムからの科学批判" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4762826782?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">科学と社会的不平等: フェミニズム,ポストコロニアリズムからの科学批判</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A5%F3%A5%C9%A5%E9%20%A5%CF%A1%BC%A5%C7%A5%A3%A5%F3%A5%B0">サンドラ ハーディング</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%CC%C2%E7%CF%A9%BD%F1%CB%BC">北大路書房</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/dp/4762826782?tag=kyotaro442304-22&amp;linkCode=osi&amp;th=1&amp;psc=1" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p> </p> <p> </p> tatsumi_kyotaro 科学とは何か?~エセ科学、疑似科学との違い~ hatenablog://entry/13574176438046957363 2022-01-26T22:55:20+09:00 2022-08-16T10:45:30+09:00 0.そもそも「科学」とは何か? 1.科学の特徴について 説その1:科学は確実な事実について記述する。 説その2:科学には反証可能性がある。 説その3:実験ができないなら科学じゃない 説その4: 再現性があるのが科学 2.科学の水準は変化する 3.「科学」は生き物 4.結論 【参考文献】 0.そもそも「科学」とは何か? 科学を尊重すると言いながらオカルトやエセ科学(疑似科学)を批判する人が多い。 しかし、エセ科学(疑似科学)やオカルトを「科学的ではない」と批判する人たちは、そもそも「科学的」とはどういうことかについてちゃんと説明できるのだろうか。 何かを「科学的ではない」と批判するのであれば、少… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#0そもそも科学とは何か">0.そもそも「科学」とは何か?</a></li> <li><a href="#1科学の特徴について">1.科学の特徴について</a><ul> <li><a href="#説その1科学は確実な事実について記述する">説その1:科学は確実な事実について記述する。</a></li> <li><a href="#説その2科学には反証可能性がある">説その2:科学には反証可能性がある。</a></li> <li><a href="#説その3実験ができないなら科学じゃない">説その3:実験ができないなら科学じゃない</a></li> <li><a href="#説その4-再現性があるのが科学">説その4: 再現性があるのが科学</a></li> </ul> </li> <li><a href="#2科学の水準は変化する">2.科学の水準は変化する</a></li> <li><a href="#3科学は生き物">3.「科学」は生き物</a></li> <li><a href="#4結論">4.結論</a></li> <li><a href="#参考文献">【参考文献】</a></li> </ul> <h4 id="0そもそも科学とは何か">0.そもそも「科学」とは何か?</h4> <p>科学を尊重すると言いながらオカルトや<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>)を批判する人が多い。</p> <p><strong>しかし、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>)やオカルトを「科学的ではない」と批判する人たちは、そもそも「科学的」とはどういうことかについてちゃんと説明できるのだろうか。</strong></p> <p>何かを「科学的ではない」と批判するのであれば、少なくとも「科学的」とはどういうことかについて理解している必要があるのではないだろうか。</p> <p>そこで今回は「科学的」とはどういうことかについて、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>)やオカルトとの違いを考えつつ整理していきたい。</p> <h4 id="1科学の特徴について">1.科学の特徴について</h4> <p><strong>「科学とは何なのか?」について考えるためには、どんな特徴があれば科学と言えるのかについて考える必要がある。</strong></p> <p>科学の特徴というものがあるなら、それを持っているものが科学で持っていないものが非科学ということになる。</p> <p>しかし、一般に思われているほど科学の特徴ははっきりとしておらず、上手く非科学との差を強調できないのではないだろうか。</p> <p>一般的に科学の特徴と思われているものを一つずつ検討していこう。</p> <h5 id="説その1科学は確実な事実について記述する"><strong>説その1:科学は確実な事実について記述する。</strong></h5> <p>一つ目は、科学は事実をより正確に記述する学問であるという論だ。</p> <p>しかし、これが正しくないのは<a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2021/12/31/201336">前回の記事</a>でも見た通りだ。</p> <p>科学による事実の解釈も時代と共に変遷してきた。</p> <p>科学による事実の記述は誤る可能性もあるし、科学は唯一正しい事実の記述というわけではない。</p> <p>一つの事実に対しても様々な角度からのアプローチ、複数の解釈や記述がありえる。</p> <p>社会問題についても、心理学的視点や社会科学的視点からだけでなく、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%AF%BC%A3%B3%D8">政治学</a>的視点、哲学的視点、法学的視点、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%F2%BB%CB%B3%D8">歴史学</a>的視点など様々な視点からのアプローチ方法がある。</p> <p><strong>科学も事実にアプローチする方法の内の一つでしかない。</strong></p> <p>ある特定の側面から事実を記述するというのはあらゆる学問の特徴であり、科学の特徴とは言えなそうだ。</p> <h5 id="説その2科学には反証可能性がある"><strong>説その2:科学には<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%BF%BE%DA%B2%C4%C7%BD%C0%AD">反証可能性</a>がある。</strong></h5> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A5%DD%A5%D1%A1%BC">カール・ポパー</a>は<strong>科学には<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%BF%BE%DA%B2%C4%C7%BD%C0%AD">反証可能性</a>がある</strong>と主張し、<strong>反証が不可能なものは非科学</strong>だとした。</p> <p><span style="color: #00796b;"><span style="color: #1464b3;"><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%BF%BE%DA%B2%C4%C7%BD%C0%AD">反証可能性</a>とは、実験や観察によってある理論が否定される可能性のことだ</span>。</span></p> <p>検証可能性と言った方が理解はしやすいかもしれない。</p> <p>科学的に正しい理論とは、今までの検証では否定されずに残っている理論のことである。どんなに正しいと思われている理論も、今後の検証によっては否定される可能性を持っている。</p> <p><strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%D1%A1%BC">ポパー</a>は、全ての科学理論は検証の結果否定される可能性を持っている一方で、非科学的主張は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%BF%BE%DA%B2%C4%C7%BD%C0%AD">反証可能性</a>を持っていないと主張する。</strong></p> <p>例えば「神は乗り越えられる試練しか与えない」という主張は反証不可能だ。</p> <p>試練を乗り越えられなかったケースを反証として持ち出しても、「たまたま失敗しただけで、神様は本当は乗り越えられる試練を与えていた」と言うことが出来る。</p> <p>「世界はある秘密結社に支配されている。私たちが目にする情報は何者かによって改竄され操作されたものだ」というような<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%CB%C5%CF%C0">陰謀論</a>も反証不可能だ。</p> <p>反証を出そうとしても、反証に使われたデータが改竄されていると言われてしまうだろう。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%D1%A1%BC">ポパー</a>は、上の例のように<strong>後出しでいくらでも言い訳できる主張は、どんな検証結果を突き付けても言い逃れすることができるために反証が不可能=非科学的</strong>と結論付けた。</p> <p>確かに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%D1%A1%BC">ポパー</a>の言うように、オカルト的な主張はあらゆる検証を無意味化にするように理論が組み立てられてるように見える。</p> <p>占いなんかも、誰にでも当てはまるような曖昧なことを言って必ず当たるようにしている(詳しくは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A1%BC%A5%CA%A5%E0%B8%FA%B2%CC">バーナム効果</a>を検索)。</p> <p><strong>しかし、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%BF%BE%DA%B2%C4%C7%BD%C0%AD">反証可能性</a>で科学とオカルトを分けようとするといくつも不都合が生じる。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">一つ目は、科学も現段階で検証不可能な理論を立てることがあるということだ。</span></p> <p><strong>科学は宇宙の起源についてビッグバン理論を立てたり、物質の基本的構成について超紐理論(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%B6%B8%B9%CD%FD%CF%C0">超弦理論</a>)を立てたりするが、これらは検証不可能だからオカルトなのだろうか?</strong></p> <p>おそらくそうは言えないはずだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">二つ目は、どんなオカルトも<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%BF%BE%DA%B2%C4%C7%BD%C0%AD">反証可能性</a>さえあれば科学と言えてしまう点だ。</span></p> <p>例えばここに、複雑で緻密に練られたSFの設定みたいなスピリチュアル理論で、天気予報よりも精度の高い予言をしている占い師がいたとしよう。</p> <p>この占いが十分具体的な内容の予言で、予言内容が外れることで反証される可能性があるとしたら、この占い師は科学者ということになるのだろうか?</p> <p>反証可能な形で理論を立てていれば魔術だろうが予言だろうが科学的と言うのはおかしな話だ。</p> <p><strong>最後の問題点は、科学の世界でも検証結果を反証として認めない場合が少なくないということだ。</strong></p> <p>科学も検証の結果出てきた反証に対して、理論ではなく補助仮説が間違っていると後から主張されることはよくある。</p> <p>補助仮説とは仮説の検証に必要な条件に関する仮説のことで、例えば「実験者は誠実に正確に実験を行っている」というのは暗黙の補助仮説として常に存在する。</p> <p>補助仮説の修正とは、言ってしまえば検証に必要な条件が足りない可能性を考えたり、単純に検証方法が間違っている可能性を疑うことで、これは間違ったことではない。</p> <p>心理学でも実験が失敗した際にもまず補助仮説が間違っている可能性を疑う。</p> <p>他にも、出てきた反証を誤差や外れ値、例外として無視したりすることもある(これについても<a href="https://www.nature.com/articles/533452a">前回記事参照</a>)。</p> <p>これらの点から、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%BF%BE%DA%B2%C4%C7%BD%C0%AD">反証可能性</a>というのは科学と非科学を分類する上で適切ではないと言われている。</p> <h5 id="説その3実験ができないなら科学じゃない"><strong>説その3:実験ができないなら科学じゃない</strong></h5> <p>実験で検証するというのは科学であることの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">十分条件</a>ではないが必要条件であると言う人はいるかもしれない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">つまり、実験ができない分野は科学ではないという主張だ。</span></p> <p>しかし、厳密でない粗雑な実験なら<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>)もよく行っている。</p> <p>よって、科学に求められる実験は厳密かつ十分なものでなければならない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">そうなると、厳密な実験が難しい分野についてどう考えるのかという問題が出てくる。</span></p> <p>もし、十分に厳密な実験を行えることが科学の条件であるなら、いつくかの分野は科学から除外しなければならなくなる。</p> <p>まず、科学には現在の技術力では十分な実験ができない理論だ。</p> <p>先ほど挙げた超紐理論(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%B6%B8%B9%CD%FD%CF%C0">超弦理論</a>)などがそうだ。物理学の一部は科学から除外しなければならなくなるだろう。</p> <p>また、宇宙の始まりや古代生物の絶滅に関する理論など、過去の出来事に関しても十分な実験をすることができない。こうなると<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%B7%CA%B8%B3%D8">天文学</a>の一部と地質学も科学から除外することになる。</p> <p>厳密に実験条件を整えることが出来ない問題は他にもある。</p> <p>環境科学も、地球のような惑星だけでなく太陽や月も用意しなければ厳密な実験ができない。</p> <p>社会科学も、複雑な社会状況や歴史的事件を再現した上で実験する必要があるがそんな実験は不可能だろう。</p> <p>つまり、厳密で正確な実験を行うことを科学の条件としてしまうと、観察科学や理論科学が重視される分野、環境科学や社会科学などの不十分な実験しか行うことができない分野を科学から除外しなければならなくなる。</p> <p>それでは科学の範囲はかなり限定されてしまう。</p> <p>分野毎に実験に求められる厳密性や重要性は違うと反論する人がいるかもしれない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">しかし分野毎の差異を強調するなら、その差異を無視して「科学」という言葉で一括りにまとめて良いのかがかなり怪しくなってくる。</span></p> <p>また、どのような実験が行われていれば科学と認められるのかについても統一的見解を出せない。</p> <p>それでも実験こそが科学の特徴だと言うなら、分野によって科学の定義が異なることを認めることになるが、分野毎に科学の定義が異なることを認めると、新しい分野を名乗って「この分野ではこれが科学だ」と言えば<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>だろうがオカルトだろうが科学になってしまうことになる。</p> <p>やはり、実験という要素を科学全体の共通の特徴とするのは無理があるように思える。</p> <h5 id="説その4-再現性があるのが科学"><strong>説その4: 再現性があるのが科学</strong></h5> <p>科学には再現性が無ければならないと主張する人はよくいる。</p> <p>しかし、再現可能性という点から科学を定義しようとすると、実験で科学を定義するより科学の範囲を狭めることになる。</p> <p><span style="color: #1464b3;">まず科学技術研究の最先端は科学ではないことになる。</span></p> <p>技術研究の最先端で行われているのは、<strong>今までできなかったことを可能にするための研究、すなわち「再現性がない現象の再現性を高める研究」</strong>だからだ。</p> <p>研究が進んではじめて再現性が確保されることになるが、再現性が確保されるまでその研究は科学ではないということになるわけがないだろう。</p> <p>また、一時注目された「再現性の危機」の問題もある。</p> <p><strong>「再現性の危機」とは、過去の科学実験で得られたはずの結果が、後続の調査(実験者本人による追加調査も含む)では再現できないという問題だ。</strong></p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%CA%B3%D8%BB%EF">科学誌</a>『Nature』で<a href="https://www.nature.com/articles/533452a">2016年に公開された調査</a>によると、研究者の70%以上がほかの研究者の実験を再現しようと試みて失敗し、半数以上が自分自身の実験を再現することに失敗しているという結果が出てきた。</p> <p>もちろん分野によって再現性の度合いは異なるが、<span style="color: #1464b3;">特に心理学(40%)やがん生物学(10%)が当時注目されていた</span>(<span style="font-size: 80%;">一応心理学側からの反論とそれに対する再反論などもあったようだが</span>)<span style="color: #1464b3;">。</span></p> <p>なぜ「再現性の危機」が起こるのかについては諸説あるが、ファイルドロワー効果(先行研究を支持するデータを集めようとして思うようなデータが得られなかった際に、研究者は自分が失敗したと思いそのデータを公開しない)などが有名だろう。詳しくは<a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07TTFWWRJ/kyotaro442304-22/">『生命科学クライシス』(著:リチャード・ハリス)</a>を参照して欲しい(主に生物学の再現性の危機について解説している)。</p> <p>また、「再現性の危機」以前に、ビッグバンや恐竜の絶滅などの一回きりのものについての研究や、地質学なども再現性とは縁遠い。</p> <p>社会科学に至っては、常に細かく変化し続ける社会状況が再現性の確保を難しくしてしまう(<span style="font-size: 80%;">そもそも社会科学は科学ではないと言う人もいるかもしれないが……</span>)。</p> <p><strong>再現性は技術化されるための条件であって、科学の条件ではない。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">再現性が科学の重要な特徴だという考えは、科学技術と科学研究を混同している。</span></p> <p>ここまで整理すると、科学とは何なのかという問題はそう簡単に答えが出せない問題だということがよく分かる。</p> <h4 id="2科学の水準は変化する">2.科学の水準は変化する</h4> <p>ここまで見てきた通り何が科学と言えるのかについての明確な基準を設けるのはかなり難しい。</p> <p>また、現在科学と呼ばれているものは「絶対に正しい」と証明できない<span style="font-size: 80%;">(もし現在の理論が絶対に正しいことを証明しようとすれば、その証明が絶対に正しいことを証明する必要がある。そしてその証明が正しいかの証明も必要になって……以下無限に続く)</span>。</p> <p><span style="color: #1464b3;">かつての科学理論が現代では否定されているように、今正しいと信じられていても未来では覆るかもしれない。</span></p> <p>科学の正しさは更新されていくというのは当たり前の話で、今後も更新があるかもしれない。</p> <p>よって、「絶対に正しい」と言える科学はない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">そう考えると、科学と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>)の差は「どの程度正しいか」という程度問題にあるのだろうか?</span></p> <p><strong>だが、どの程度正しければ科学と言えるかの基準値は決められない。</strong></p> <p>時代によって、科学の発展の水準は大きく変化するからだ。</p> <p>天気予報を例に挙げよう。</p> <p>天気予報の精度も50年前と比べれば格段に精度が向上した。</p> <p>2022年現在では降水の有無(<span style="color: #333333; font-family: verdana, メイリオ, sans-serif; font-size: 15px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: left; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">翌日雨が降るかどうか)</span>の的中率は90%に近づいてきている。</p> <p>しかし、1950年当時の天気予報の降水の有無(<span style="color: #333333; font-family: verdana, メイリオ, sans-serif; font-size: 15px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: left; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">翌日雨が降るかどうか)</span>の的中率は約72%だった。</p> <p>72%と言うとそこそこ当たっていそうな印象を受けるかもしれないが、翌日雨が降るかどうかの二択を当てる確率なのでお世辞にもそこまで高いとは言えない。</p> <p>精度という点では科学と言うより占いに近かったかもしれない。</p> <p>もし精度の高さで科学かどうかが決定するなら、1950年までは天気予報はオカルトだったのだろうか?</p> <p>おそらくそれはない。</p> <p>たとえ今と比べて精度が低く占いと大して変わらないものだったとしても、当時の天気予報もまぎれもなく科学だったはずだ。<span style="font-size: 80%;">(もっと予測が難しいものとして<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CF%BF%CC">地震</a>を挙げることもできる)</span></p> <p><strong>どの程度正しければ科学と言えるのかについては、時代によって異なると考えた方がいいのではないだろうか。</strong></p> <p><strong>もちろん、科学は分野毎にそれぞれの発展をしているのだから分野によっても違うだろう。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">何を科学と呼んでいいのかについて明確な規則やルールはない。</span></p> <p>では、一体「科学」とは何なのだろうか?</p> <h4 id="3科学は生き物"><strong>3.「科学」は生き物</strong></h4> <p>ここまで科学と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>)の違いは案外曖昧だということについて確認してきた。</p> <p>とはいえ、科学と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>)違いはないという主張も極端だろう。</p> <p>様々な捉え方があるにせよ、ここで一つの考え方を紹介したい。</p> <p>それは、科学者達の間で科学と見なされれば科学で、科学者達の間で科学ではないと見做されれば<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>)というものだ。</p> <p>科学かどうかなんて科学者の価値観次第だという話ではない<span style="font-size: 80%;">。</span></p> <p>科学という概念は、科学者が共同で研究をしていく中で漠然と共有されていくものだという話だ。</p> <p>少なくとも現代の科学者はたった一人で研究するわけではない。</p> <p>そこには研究という共同作業があり、学会という発表の場がある。</p> <p>そこにある空気、共有されている緩やかな「価値」や「規範」が科学という概念を形作る。特定の力を持った人間の独断や偏見が科学の定義を決定できるわけではない。</p> <p>数多くの科学者が、研究という共同作業をする上で共有される一定の規範(空気)や価値観のようなものが、科学とは何かについてその都度捉え直されていく。</p> <p>だから、研究の営み方や、共同体の構造や空気が変われば「科学」の像も変わっていくというのは理にかなっている。</p> <p>私たちが理解すもる必要があるのは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>と呼ばれるものも、もしかしたら10年後には正しいと言われるかしれないし、逆に今まで科学的と呼ばれていたものが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>と言われるようになるかもしれないということだ。</p> <p>かつて正しいとされていた<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%E5%A1%BC%A5%C8%A5%F3%CE%CF%B3%D8">ニュートン力学</a>も、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">アインシュタイン</a>の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%C0%AD%CD%FD%CF%C0">相対性理論</a>にその座を明け渡した。</p> <p>科学の歴史において、新しく提唱された理論というものはそれまでの科学の理論の立場からは誤ったものとして反発を受けてきた。だが、「今まで正しいとされていたから正しい」とか「新しいから間違っている」ということはありえない。</p> <p>科学哲学者トーマス・クーンは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%CA%B3%D8%BB%CB">科学史</a>上の大きな理論転換を科学革命と名付けた。</p> <p>さらにクーンは、理論同士の対立は論理的かつはっきり優劣が決められるものではなく、意見の異なる科学者たち間で共有された価値観や規範という緩やかな基準で曖昧に優劣が決まると主張した。</p> <blockquote> <p>クーンはそこで、科学革命における理論選択がまったくの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%B5%C0%AF%C9%DC%BE%F5%C2%D6">無政府状態</a>で行われるものではなく、そこには競合する科学理論のなかからよりよい理論を選択する適切な理由が存在することを述べている(中略)クーンの見解は、従来の科学哲学の伝統的見解とほとんど変わるところはない。しかし、彼はこれらの基準を、違背を許さない論理的<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%EB%A5%B4%A5%EA%A5%BA%A5%E0">アルゴリズム</a>のような「規則」であるとは考えない。科学研究の現場でそれらの基準が果たす役割は「値値」ないしは「規範」という、より緩やかな形で捉えられるべきなのである。(『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>とは何か』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%EE%B2%C8%B7%BC%B0%EC">野家啓一</a> P232、P233)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061598791/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41cRu2j1meL._SL500_.jpg" border="0" alt="パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫)" title="パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫)" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061598791/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%EE%B2%C8%20%B7%BC%B0%EC">野家 啓一</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061598791/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> </blockquote> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%EE%B2%C8%B7%BC%B0%EC">野家啓一</a>の言うように、トーマス・クーンは「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>」という概念を使って、研究という共同の営みの中で共有されていくものがあることを説明しようとした。</p> <p>「科学」の像も、研究という科学者達の共同の営み中で決定される。</p> <p><strong>そういう意味では「科学」は生きている。</strong></p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%D1%A1%BC">ポパー</a>が、科学は究極の真理に向かって前進していると主張したのに対し、クーンは科学の発展を進歩ではなく進化という言葉で表現しようとした。</p> <p><span style="color: #1464b3;"><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C0%A1%BC%A5%A6%A5%A3%A5%F3">ダーウィン</a>が生物の進化に目的がないことを発見したように、クーンは真理という究極の目的に向かう科学という像に疑問を投げかけた。</span></p> <p>科学の研究の中には、純粋な好奇心から行われた研究や、何の役立つのか分からないような研究、全く無意味に終わった研究も数多く存在した。</p> <p>実際、科学が本当に真理に近づいているのかは究極のところ分からないとしか言いようがないし、証拠を出すこともできない。</p> <p>一方で、私たちが長い歴史を生きる中で科学技術を発展させてきたのは事実だ。</p> <p>そこでクーンは、科学の進歩を真理という究極目標への進歩ではなく、ある地点からの進化という図式で理解しようとした。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%D1%A1%BC">ポパー</a>とクーンの科学論には明らかな意識の差がある。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%D1%A1%BC">ポパー</a>は、科学のあるべき姿と科学者個人個人が守るべき倫理について語り、クーンは、実際の科学の営みと一つの研究に集まる科学者達の共同的活動について語った。</p> <p>私個人としては、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%D1%A1%BC">ポパー</a>の科学観よりはクーンの科学観に一票投じたい。</p> <h4 id="4結論">4.結論</h4> <p><strong>科学と非科学の違いについて、誰もが判別可能になるような基準はない。</strong></p> <p>(<span style="font-size: 80%;">例えば、予測精度が~%以上なら科学でそれより低ければ非科学だという基準など</span>)</p> <p>科学という言葉が持つ意味は、時代によっても、分野によっても異なるだろう。言わずもがな科学者個人個人によっても。</p> <p>それでも、その時代の科学界全体に共有されている規範や価値を基準として、何が科学で何が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>かはその都度決定されうる。</p> <p>科学が科学の営みと共にその姿を変遷させてきたのなら、科学と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>)との境界も絶対的ではなく時代とともに変化していくものなのだろう。</p> <p> </p> <p>さて、ここまで見てきたところで、普段使われる「科学」という言葉の受容のされ方に疑問を持ってくれる人がいれば幸いだ。</p> <p>最近始まった話ではないが、「科学」という言葉があまりに無批判に使われ過ぎていないだろうか。</p> <p>やたらと「科学的には~」と言いたがる人たちは科学とは何かについて考えたことはあるのだろうか。</p> <p>科学者ではない素人でも「科学的でない」と言う言葉で相手を批判している。</p> <p>科学的態度とデータ主義を混同したり、どこまでが科学の領域か、科学と非科学の境界がどこにあるのかを深く考えないまま「科学」という言葉を使っているくらいには行き過ぎた科学主義が蔓延している。</p> <p>科学とは何かについて考えたこともないのに科学という言葉を使いたがるのは科学的態度なのだろうか?</p> <p>社会には様々な問題が存在するが、それら全てに「科学的説明」を求めすぎているのではないだろうか。</p> <p>次回の記事は、様々な議論で使われる「科学」という言葉について考えていこうと思う。</p> <p>【次回記事】</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="「科学的思考」の罠~科学主義と科学信仰の現代~ - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2022%2F02%2F22%2F235335" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/02/22/235335">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p>【前回記事】</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2021%2F12%2F31%2F201336" title="データや事実があっても科学的に証明できない~科学的根拠とは何か?~ - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2021/12/31/201336">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <h4 id="参考文献">【参考文献】</h4> <p>(↓科学哲学の<span style="color: #111111; font-family: 'Open Sans', 'Helvetica Neue', Helvetica, Arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: start; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">概観を把握したいのならおすすめ)</span></p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4769913001/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41UJvvbRlZL._SL500_.jpg" border="0" alt="改訂新版 科学論の展開" title="改訂新版 科学論の展開" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4769913001/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">改訂新版 科学論の展開</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/A.F.%A5%C1%A5%E3%A5%EB%A5%DE%A1%BC%A5%BA">A.F.チャルマーズ</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%B1%C0%B1%BC%D2%B8%FC%C0%B8%B3%D5">恒星社厚生閣</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4769913001/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>(↓<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A5%DD%A5%D1%A1%BC">カール・ポパー</a>の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%BF%BE%DA%B2%C4%C7%BD%C0%AD">反証可能性</a>という概念は「科学」についての概念ではなく、「科学者のあるべき姿」についての概念であるということがよく分かる。彼にとって、「科学者」とは<strong>自分が間違っている可能性を認める者、間違いから学ぶ者</strong>のことである。)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588099175/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/417asoiVLeL._SL500_.jpg" border="0" alt="推測と反駁-科学的知識の発展-〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)" title="推測と反駁-科学的知識の発展-〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588099175/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">推測と反駁-科学的知識の発展-〈新装版〉 (叢書・ウニベルシタス)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6R.%A5%DD%A5%D1%A1%BC">カール・R.ポパー</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%A1%C0%AF%C2%E7%B3%D8%BD%D0%C8%C7%B6%C9">法政大学出版局</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4588099175/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>(↓多くの反響と批判を呼んだトーマス・クーンの「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>」論。マイケルポランニーの<a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480088164/kyotaro442304-22/">『暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)』</a>を念頭に入れると、クーンの言いたいことが分かるかも)</p> <div class="freezed"> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622016672/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41R84CNDH2L._SL500_.jpg" border="0" alt="科学革命の構造" title="科学革命の構造" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622016672/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">科学革命の構造</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A1%BC%A5%DE%A5%B9%A1%A6%A5%AF%A1%BC%A5%F3">トーマス・クーン</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%DF%A4%B9%A4%BA%BD%F1%CB%BC">みすず書房</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622016672/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p><span style="color: #111111; font-family: 'Open Sans', 'Helvetica Neue', Helvetica, Arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: start; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">(↓よく誤解される<span style="color: #111111; font-family: 'Open Sans', 'Helvetica Neue', Helvetica, Arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: start; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">クーンの「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>」概念について書かれている。変な</span>ノリに目を瞑れば分かりやすい</span><span style="color: #111111; font-family: 'Open Sans', 'Helvetica Neue', Helvetica, Arial, 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Meiryo, 'MS PGothic', sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: start; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">)</span></p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061598791/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41cRu2j1meL._SL500_.jpg" border="0" alt="パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫)" title="パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫)" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061598791/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%EE%B2%C8%20%B7%BC%B0%EC">野家 啓一</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061598791/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>(↓生物医学研究の再現性の乏しさが原因で新薬開発のコストばかりが増えていく現状を説明した一冊)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07TTFWWRJ/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41ZEX0Pjs-L._SL500_.jpg" border="0" alt="生命科学クライシス" title="生命科学クライシス" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07TTFWWRJ/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">生命科学クライシス</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%C1%A5%E3%A1%BC%A5%C9%A1%A6%A5%CF%A5%EA%A5%B9">リチャード・ハリス</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%FB%C4%AE%CA%FE%BB%D2">寺町朋子</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07TTFWWRJ/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p> </p> <p> </p> tatsumi_kyotaro 科学で証明できないこと~科学哲学入門~ hatenablog://entry/13574176438029407397 2021-12-31T20:13:36+09:00 2022-08-16T10:46:03+09:00 はじめに 1.事実やデータによって科学理論は証明できるか? 2.そもそも科学にとって事実とは何か? 3.事実・データと検証の関係 4.「それってあなたの感想ですよね」「なんかそういうデータあるんですか?」 5.本当の問題と科学的正しさについて 【参考文献】 はじめに 科学に対するよくある勘違いは、科学は事実やデータといった科学的根拠に基づき何が正しいかを証明する学問だというものだ。 実際、「お前の意見は事実やデータがない間違った意見だ」という批判や「お前の言っていることは科学的に証明されていない仮説に過ぎない」という批判はよく見られる。 このような批判の根本には科学的根拠がある=科学的に証明さ… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#はじめに">はじめに</a></li> <li><a href="#1事実やデータによって科学理論は証明できるか">1.事実やデータによって科学理論は証明できるか?</a></li> <li><a href="#2そもそも科学にとって事実とは何か">2.そもそも科学にとって事実とは何か?</a></li> <li><a href="#3事実データと検証の関係">3.事実・データと検証の関係</a></li> <li><a href="#4それってあなたの感想ですよねなんかそういうデータあるんですか">4.「それってあなたの感想ですよね」「なんかそういうデータあるんですか?」</a></li> <li><a href="#5本当の問題と科学的正しさについて">5.本当の問題と科学的正しさについて</a></li> <li><a href="#参考文献">【参考文献】</a></li> </ul> <h4 id="はじめに">はじめに</h4> <p>科学に対するよくある勘違いは、科学は事実やデータといった科学的根拠に基づき何が正しいかを証明する学問だというものだ。</p> <p>実際、「お前の意見は事実やデータがない間違った意見だ」という批判や「お前の言っていることは科学的に証明されていない仮説に過ぎない」という批判はよく見られる。</p> <p>このような批判の根本には<strong>科学的根拠がある=科学的に証明されているという誤解</strong>が存在する。</p> <p>今回は科学と事実(あるいはデータ)の関係について整理しながら、科学に関する一般的誤解について書いていく。</p> <h4 id="1事実やデータによって科学理論は証明できるか">1.事実やデータによって科学理論は証明できるか?</h4> <p>科学に対する一般的な誤解はおよそ次のように要約することができる。</p> <p><strong>「科学は緻密な観察に基づいて、確実な事実から正しい理論を導き出す」</strong></p> <p>この科学観の一つ目の問題点は論理的な問題だ。</p> <p>例えば、金属の熱膨張について次のような主張がされたとしよう。</p> <p>【法則】</p> <p>全ての金属は熱を加えると膨張する。</p> <p>【事実による証明】</p> <p>金属Aは熱を加えると膨張する。</p> <p>金属Bは熱を加えると膨張する。</p> <p>金属Cは熱を加えると膨張する。</p> <p>金属Dは……(以降、様々な金属で試す)</p> <p>・</p> <p>・</p> <p>・</p> <p>金属Ωは熱を加えると膨張する。</p> <p>【結論】</p> <p>⇒よってこの法則は正しい。</p> <p> </p> <p>確かに金属が熱膨張するというのは科学的には概ね正しい。</p> <p><span style="color: #1464b3;">しかし、この証明は論理的には正しいと言えない。</span></p> <p>事実によって法則を証明しようとする時、未来まで含む全ての事実を観測することができない。</p> <p>100億回それが観測されたからと言って、100億1回目には法則を否定する結果が得られるかもしれない。</p> <p><strong>科学は一部の事実から全てに当てはまる法則を立てるしかない。</strong></p> <p>しかし、実際には有限回しか確認していないのだから、未来永劫無限回繰り返しても正しいとは言えないのだ。</p> <p>よって、検証される法則が永遠普遍で絶対に正しい法則であるかどうかは論理的に証明できない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">科学的に正しいことと論理的に正しいこととは違う。</span></p> <p>また、科学的正しさは数学的な正しさとも違うと言える。</p> <p>1000兆回の事実の観測によってある法則が検証された時、数学的にその法則が正しいと言える確率は1000兆回を無限で割った確率になる。観測された回数が1000兆回であるのに対して、法則は無限回適用可能なものでなければならないからだ。</p> <p>そうなると、ある法則が正しい確率は1000兆÷∞なので0と等しくなってしまう。しかしこれはナンセンスなジョークのようなものだろう(<span style="font-size: 80%;">洗練された<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D9%A5%A4%A5%BA">ベイズ</a>主義的な考えにまで発展させるのであれば別だが</span>)。</p> <p>ちなみに、念のため金属膨張に関して補足するとインバー合金はほとんど熱膨張しない。</p> <h4 id="2そもそも科学にとって事実とは何か">2.そもそも科学にとって事実とは何か?</h4> <p>問題点の二つ目はそもそも科学的事実とは何か? という点にある。</p> <p>「理論は誤るかもしれない。しかし、事実は確実だ」</p> <p>そう考える人がいるかもしれないが、それも誤りだ。</p> <p><strong>第一に、事実がどのように認識されるかは背景理論によって大きく変わってしまうからだ。</strong></p> <p>例えば、ある地域の生態系について研究する時、何も知らない素人より熟練の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%B8%C2%D6%B3%D8">生態学</a>者の方がはるかに多くの「事実」について記述する能力があることは疑う余地もない。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%B8%C2%D6%B3%D8">生態学</a>者は生態についてのより詳細な概念図式、すなわち「理論」に基づいた知識を持っているからである。</p> <p><strong>知識がない者は、そもそも自分が何を観測しているのか正確に把握することができない。また、何が観測すべき「事実」なのかすら理解できない。</strong></p> <p>理論と事実の関係について<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%EE%B2%C8%B7%BC%B0%EC">野家啓一</a>は次のように説明する。</p> <blockquote> <p>一枚の顕微鏡写真のなかに染色体を見いだし、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%B8%C8%A2">霧箱</a>写真から<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%C7%CE%B3%BB%D2">素粒子</a>の種類を同定することは高度な理論的作業であり、生物学や物理学の理論を知らない素人にできることではない。観察とは単なる「感覚与件」の受容にとどまるものではなく、理論的文脈の中で「事実」を構成する作業なのである。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061598791/kyotaro442304-22/" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/41cRu2j1meL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫)" title="パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061598791/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%EE%B2%C8%20%B7%BC%B0%EC" class="keyword">野家 啓一</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061598791/kyotaro442304-22/" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>(『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%C0%A5%A4%A5%E0">パラダイム</a>とは何か』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%EE%B2%C8%B7%BC%B0%EC">野家啓一</a> P150)</p> </blockquote> <p>科学的事実というものは理論によって「事実」として構成されたものだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">現在では「事実」として認識されるものでも、当時の理論<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%E9%A4%B7">からし</a>てみれば「予言」としか思われていなかったものもある。</span></p> <p>イギリスの物理学者<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A1%BC%A5%E0%A5%BA%A1%A6%A5%AF%A5%E9%A1%BC%A5%AF">ジェームズ・クラーク</a>・マクスウェルが、かの有名な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%AF%A5%B9%A5%A6%A5%A7%A5%EB%CA%FD%C4%F8%BC%B0">マクスウェル方程式</a>と共に電磁波の存在を示唆した時、電磁波は当時の理論から考えて「事実」ではなく大胆な「予言」でしかなかった。しかし、彼の理論が認められた現在においては電磁波は「予言」ではなく「事実」となっている。</p> <p><span style="color: #1464b3;">また、「事実」だと思われていたものが新たな理論の登場により「事実」でなくなってしまうことも起こりうる。</span></p> <p>マクスウェルの理論の話の続きをしよう。</p> <p>マクスウェルは、電磁波の存在を「予言」したものの、マイケル・ファラデーの考えを継承し、電気と磁気の状態を偏在する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A1%BC%A5%C6%A5%EB">エーテル</a>の力学的状態であると解釈していた。その結果、当時の科学者たちは電磁波の発見を、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A1%BC%A5%C6%A5%EB">エーテル</a>の存在が「事実」である確証だと解釈することができた。しかし、その二十年後、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">アインシュタイン</a>の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%C3%BC%EC%C1%EA%C2%D0%C0%AD%CD%FD%CF%C0">特殊相対性理論</a>の登場により、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A1%BC%A5%C6%A5%EB">エーテル</a>はもはや「事実」として扱われなくなる。</p> <p>(このマクスウェルの話については、『<a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4769913001/kyotaro442304-22/">改訂新版 科学論の展開</a>』のP117とP52にも書いてある)。</p> <p>科学の歴史の話ではピンと来ない人がいるかもしれないので、理論が科学的事実を構成するもう一つの例としてシャルルの法則を挙げよう。</p> <p>シャルルの法則は、一定圧力下における一<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%EA%CE%CC">定量</a>の気体の体積は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%E4%C2%D0%B2%B9%C5%D9">絶対温度</a>に比例するというものだ。</p> <p><strong>ただし、この法則は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%FD%C1%DB%B5%A4%C2%CE">理想気体</a>(実在しない想像上の気体)に対して成り立つ法則で、現実でこれを確かめようとしても実在気体では不一致が生じる。</strong></p> <p>この不一致は「誤差」として無視される。</p> <p>科学においては現実にはない理論上のものを基準に、理論と一致しない事実を「誤差」として無視することはおかしなことではない。</p> <p><strong>言い換えれば科学では、理論によって「認められた事実」もあれば、理論によって「無視される事実」もあるということだ。</strong></p> <p>これは、社会科学の領域においても同じだ。</p> <p>統計データから読まれる「事実」というものは、どのような社会理論によって解釈するかで変わってくる。</p> <p>何が「事実」と認識されるのかについては、その時代の(誤っているかもしれない)理論が深く影響する。そして理論が更新されるものである以上、それによって「事実」も更新されていく。</p> <p><strong>第二の問題として、認識される「事実」は理論だけではなく観測する際の条件にも依存するということもある。</strong></p> <p>ドイツの物理学者ハインリヒ・ヘルツは、一連の実験で<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%B6%CB%C0%FE">陰極線</a>が荷電粒子の放射であった場合に予想されていた偏向をしなかったことから、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%B6%CB%C0%FE">陰極線</a>は荷電粒子の放射ではなく波動であると結論付けた。</p> <p>しかし後にヘルツの結論は誤りであり、彼の実験は不十分であったとみなされている。ヘルツが結論を誤ってしまったのは、ガラス管が完全には真空になっていなかったことに起因する。</p> <p>この誤りについて、ヘルツの落ち度ではないことをチャルマーズは次のように説明する。</p> <blockquote> <p>ヘルツの実験状況に関する理解と当時利用可能であった知識によれば、彼の装置の気圧は十分に低く、装置は適切に配置されていたと信じるだけの十分な理由があった。ただ、その後の理論的・技術的進歩を踏まえることで、彼の実験が不完全だとみなされるようになったのである。ここから得る教訓は、将来の進歩によって現代におけるどの実験結果が不完全とみなされるかなど誰にもわからない、ということである。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4769913001/kyotaro442304-22/" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/41UJvvbRlZL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="改訂新版 科学論の展開" title="改訂新版 科学論の展開" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4769913001/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">改訂新版 科学論の展開</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/A.F.%A5%C1%A5%E3%A5%EB%A5%DE%A1%BC%A5%BA" class="keyword">A.F.チャルマーズ</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%B1%C0%B1%BC%D2%B8%FC%C0%B8%B3%D5">恒星社厚生閣</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4769913001/kyotaro442304-22/" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>(『改訂新版 科学論の展開』A.F.チャルマーズ P48)</p> </blockquote> <p>精度の低い実験では、誤った「事実」が認識されてしまう。</p> <p>それを避けるためには「より好ましい」環境と条件で観測する必要があるが、ここに問題がある。</p> <p>観測結果を狂わせるような様々な要因や作用が理論から予測<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%D4%C7%BD">不能</a>なものである場合、私たちは「より好ましい条件」を知ることはできないのだ。</p> <p><strong>何が「より好ましい条件」かは理論から想定されたものでしかない。</strong></p> <p><strong>もちろん、何がどうでもいい条件かも理論から想定されたものでしかない。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">ある実験の再現可能性を確認するためには同じ条件で観測する必要があると言われるが、厳密に同じ条件でなくともよい。</span></p> <p>1999年12月31日11時59分に行われた実験を本当の意味で再現するならタイムマシンが必要になるがそんな必要はない。実験器具も製造番号まで同じもの揃える必要はないし、実験室のデザインや観測する人間の性格や服装も同じ条件にする必要はない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">これらの条件を揃える必要がないのは、これらの条件が重要だと示す理論がないからだ。</span></p> <p>しかし、私たちの信じる理論が間違っている可能性も排除できない。</p> <p>事実、ヘルツが誤った結論に至ったのは当時の理論による予測が誤っていたからだった。</p> <p>私たちは広大な宇宙の力場の条件まで同一にすることなどできないが、それが重要な条件でないと言えるのはなぜかについて完全な形で論証することはできない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">ここまで考えると、観測によって得られる科学的「事実」であっても、理論が不完全である以上修正されうるものであると言える。</span></p> <p>科学の進歩によって事実だと思われていたことが「見せかけの事実」となり、「新たな事実」が発見されてきた歴史を考えても、確実に正しい「事実」があるとは言えない。</p> <p>さて、ここまでの科学と事実の関係について整理したい。</p> <p>まず、確実な事実やデータがあっても理論が完全に正しいとは証明できない。</p> <p>n回観測された現象も、n+1回目には違う結果がでるかもしれない。</p> <p>第二に、何が「事実」かは理論によって解釈される。理論によって「誤差」として無視される事実も存在する。ある意味で理論は「事実」を都合よく取捨選択できる。</p> <p>最後に、「事実」は「より好ましい条件」の元で観測される必要があるが、「より好ましい条件」が理論から予想される以上、理論と同様に「事実」も可謬である。</p> <p><strong>以上により、<span style="color: #1464b3;">根拠として多くの「事実」やデータを挙げたとしても、理論が間違っている可能性は排除できない。</span></strong></p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A5%DD%A5%D1%A1%BC">カール・ポパー</a>が『<a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4882619105/kyotaro442304-22/">確定性の世界</a>』の中で「特定の理論が絶対に正しいことを証明する方法論は存在しない」と述べている通り、<strong>科学的証明という言葉はナンセンスでしかない</strong>。</p> <h4 id="3事実データと検証の関係">3.事実・データと検証の関係</h4> <p><strong>事実と科学に関することでもう一つ確認しておく必要があるのは、事実を指摘しても仮説の過ちが認められるとは限らないということだ。</strong></p> <p>動かない事実を突きつけることで必ず理論の根本的な見直しがされるという考えは誤っている。</p> <p>いわゆる<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%E5%A5%A8%A5%E0">デュエム</a>=<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AF%A5%EF%A5%A4%A5%F3">クワイン</a>テーゼである。</p> <p>これが一体どういうことかについて、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%AB%A5%C8%A5%B7%A5%E5">ラカトシュ</a>はある物語を提示する。</p> <blockquote> <p>この物語は、惑星の軌道のズレに関する空想上の物語である。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%F3%A5%B7%A5%E5%A5%BF%A5%A4%A5%F3">アインシュタイン</a>以前の時代の物理学者を考えることにする。そのような物理学者が、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%E5%A1%BC%A5%C8%A5%F3%CE%CF%B3%D8">ニュートン力学</a>と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%FC%CD%AD%B0%FA%CE%CF">万有引力</a>の法則、およびある受容されている初期条件を使って、新しく発見された小さな惑星Pの軌道を計算した。このとき、計算された軌道から惑星がズレていたとしよう。このズレは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%E5%A1%BC%A5%C8%A5%F3">ニュートン</a>の理論からは起こり得ないものであり、そのズレが正しければ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%E5%A1%BC%A5%C8%A5%F3">ニュートン</a>の理論は反駁されることになる、というように物理学者は考えるであろうか。いや違うであろう。物理学者は、まだ知られていない惑星Yが存在していて惑星Pの軌道が計算値からズレたのだ、とまず最初に考えるであろう。物理学者は、この仮定された惑星の質量や軌道などを計算し、観測者にこの仮説をテストするように求める。(中略)しかし実際にはそうではなかったとしよう。では物理学者は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%E5%A1%BC%A5%C8%A5%F3">ニュートン</a>理論や新しい未知の惑星という考えを捨てるであろうか。いや違う。次に物理学者は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A7%C3%E8%BF%D0">宇宙塵</a>の雲によって惑星が見えなくなっていると考えるであろう。(中略)しかしながら<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A7%C3%E8%BF%D0">宇宙塵</a>の雲もまた発見されなかったとしよう。では物理学者は、未知の新惑星とそれを隠している<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A7%C3%E8%BF%D0">宇宙塵</a>の雲という考えとともに、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%E5%A1%BC%A5%C8%A5%F3">ニュートン</a>理論を廃棄するであろうか。いや違う。次に物理学者は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A7%C3%E8%BF%D0">宇宙塵</a>の雲の近くの領域に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%CD%B9%A9%B1%D2%C0%B1">人工衛星</a>の機器を狂わす磁場があると考える。新しい<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%CD%B9%A9%B1%D2%C0%B1">人工衛星</a>が打ち上げられる。もし磁場が発見されれば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%E5%A1%BC%A5%C8%A5%F3">ニュートン</a>の理論はすばらしい成功を納めることになる。しかしそうはならなかったとしよう。このことは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CB%A5%E5%A1%BC%A5%C8%A5%F3">ニュートン</a>の理論の反証と見なされるであろうか。いやそうではない。また何らかの独創的な補助仮説が提案され……。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4833290022/kyotaro442304-22/" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/41bjbYw8+ML._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="批判と知識の成長" title="批判と知識の成長" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4833290022/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">批判と知識の成長</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%DA%C2%F8%BC%D2">木鐸社</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4833290022/kyotaro442304-22/" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>(『批判と知識の成長』P144-P145)</p> </blockquote> <p>この例が示すのは、理論の支持者が理論を固持したいと考えるなら、反証が出てきたとしても補助仮説を訂正することで、どんな反証であっても否認することができてしまうということだ。</p> <p>勿論、補助仮説という概念は科学において特異な概念ではない。</p> <p>特に、心理学などにおいては仮説の検証実験で結果が得られなかった時には補助仮説が間違っていないかについて考えるのが通例である。</p> <p>こうした「後付けの変更」について伊勢田氏は次のように語る。</p> <blockquote> <p>後付けのつじつまあわせは科学でも日常的に行われている手続きである。たとえば、暗黙の補助仮説である「実験者は誠実かつ有能である」とか「実験装置が上手く機能している」とかいうのは、実験が予期した通りの結果にならなかったときに真っ先に疑われるだろう。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4815804532/kyotaro442304-22/" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/411KF3QGDWL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="疑似科学と科学の哲学" title="疑似科学と科学の哲学" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4815804532/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">疑似科学と科学の哲学</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%CB%C0%AA%C5%C4%20%C5%AF%BC%A3" class="keyword">伊勢田 哲治</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%BE%B8%C5%B2%B0%C2%E7%B3%D8">名古屋大学</a>出版会</li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4815804532/kyotaro442304-22/" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>(『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>と科学の哲学』伊勢田 哲治 P54)</p> </blockquote> <p>つまり、理論による予測とは違う結果が出ても、実験手順や実験装置の不備として片づけられてしまうことが多々あるということだ。そうでなければ学生が実験を行う教室では日夜膨大な数の反証が生まれてしまうことになる。</p> <p>学生の行った実験で理論と違う結果が出ようとも、担当教員が「実験者は誠実かつ有能である」という補助仮説の方を疑うだろうことは容易に想像できる。</p> <p><span style="color: #1464b3;"><strong>科学においては理論と反する事実があっても、理論が撤回されるとは限らないのだ。</strong></span></p> <p><strong>また、社会科学の分野となると問題はさらに厄介になる。</strong></p> <p>なぜなら、現実社会では様々な要因が複雑に作用しあっているからだ。</p> <p>同じ歴史は二度繰り返すことはできない以上、様々な要因による作用は常に変化する。</p> <p><span style="color: #1464b3;">社会実験をしようにも、結果を左右する他の要因を排除することができない。そのため、実験結果は常にバイアスのかかったものとならざるをえない(</span>以下参考)。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480687599/kyotaro442304-22/" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/61GZ53Y7UTL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)" title="データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480687599/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%20%B0%EC%CF%BA" class="keyword">谷岡 一郎</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%DE%CB%E0%BD%F1%CB%BC">筑摩書房</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480687599/kyotaro442304-22/" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>幸か不幸か、<span style="color: #1464b3;"><strong>我々は事実やデータによって理論が誤っていることは証明できない。</strong></span></p> <p><strong><span style="color: #1464b3;">もちろん、事実やデータによる反証があるからといって理論を撤回しなければならないわけでもない。</span></strong></p> <p>先ほども見た通り、科学的「事実」も訂正されうるものだからだ。</p> <p>科学の営みは、反証が存在しても理論を固持することを否定しない。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%BF%BE%DA%BC%E7%B5%C1">反証主義</a>を唱えた<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A5%DD%A5%D1%A1%BC">カール・ポパー</a>でさえ、たとえ反証があったとしても科学者が自身の独断で理論に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C7%BC%B9">固執</a>することを許容している。</p> <blockquote> <p>私は何らかの独断主義の必要性をつねに強調してきた。すなわち、独断的な科学者は果たすべき重要な役割をもっている。あまりにも安易に批判主義的になると、理論の本当の力がどこにあるのかを見つけ出すことは絶対にないであろう。</p> <p>(『通常科学とその危険』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A5%DD%A5%D1%A1%BC">カール・ポパー</a> 訳は『<a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4833290022/kyotaro442304-22/">批判と知識の成長</a>』を参照)</p> </blockquote> <p>科学理論は、事実やデータではなく、(しばしば根拠を欠いた)新たな仮説の登場によって転換してきた。</p> <p><span style="color: #1464b3;">現行の仮説を否定できるのは、代替となる新たな仮説だけだからだ。</span></p> <p>科学の領域は、仮説を検証し仮説同士を比較検討する場であり、科学は新たな仮説の登場によって進化していく。</p> <p><strong>科学理論の正しさを完全に証明することが不可能である以上、私たちは仮説だらけの世界を生きていると言っていい。</strong></p> <h4 id="4それってあなたの感想ですよねなんかそういうデータあるんですか">4.「それってあなたの感想ですよね」「なんかそういうデータあるんですか?」</h4> <p>私たちの社会には、「お前の言っていることは科学的に証明されていない仮説に過ぎない」とか「事実やデータがない間違った意見だ」と言った批判が溢れているが、この手の批判はあまり良くないということが分かるのではないだろうか。</p> <p>かの有名な「それってあなたの感想ですよね」「なんかそういうデータあるんですか?」という<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>も、この手の批判の類型だ。</p> <p>社会について何かしらの見方を提示した際に、それが証明されていない仮説に過ぎないと声高に指摘する批判も散見される。</p> <p><strong>しかし、見てきたように科学の世界であっても永遠に正しいと言える真理は提示されず、比較的現在まで有力とされる説のみが存在する。</strong></p> <p>社会科学も同様に、確実に証明された理論というものは存在しない。今現在正しいとされる理論さえ一種の仮説に過ぎない。</p> <p>今現在正しいとされる理論が将来には否定される可能性を、科学は決して否定できない。</p> <p><strong>また、しばしばその時代の「事実」と相反する新たな仮説の登場によって科学は更新されてきた。</strong></p> <p>新たな仮説が登場して初めて、既存の仮説が検証される。</p> <p>そして、新たな仮説の登場に応じて当たり前と思われていた「事実」が訂正され「新たな事実」が発見されていく。</p> <p>時には「事実」やデータに反した仮説の登場は重要になるし、科学はそれを否定しない。</p> <p>仮に民主主義の議論の一部が科学的検証を必要とするものであったとしても、そこは仮説と仮説を戦わせる場のはずだ。</p> <p><strong>事実やデータがないことも、科学的に証明されていない仮説であることも、どちらも問題だと言い切れない。</strong>それは今まで見てきた通り、以下の理由からだ。</p> <p>・証明されていない仮説だからといって間違っているとは限らない。</p> <p>・そもそも科学的証明など存在しえない。</p> <p>・データや事実があっても理論の正誤は判定できない。</p> <p>データや事実それ自体が重要なことは認めるにしても、何らかの主張が説得的であるための<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">十分条件</a>でも必要条件でもない。</p> <p>このデータ重視社会においては、「データが無くても正しいかもしれないこと」「データがあっても間違っているかもしれないこと」が忘れ去られている。</p> <p>データや事実がないから非科学的になるわけでも、非論理的になるわけでもない。</p> <p><strong>データや事実に基づいた反証があることが、必ずしもその理論にとって欠点であるとは限らない。</strong></p> <p>もちろん、事実など幻想に過ぎず、存在しないという主張ではない。事実など存在しないという仮説は極限まで押し進めれば、水槽の中の脳仮説と変わらないだろう。</p> <p>そういうことが言いたいのではなく、事実が事実として認識されるそのプロセスには、理論であったり観測条件であったりという認知機構の問題が密接に関わってくるということだ。</p> <p>「事実」という言葉には、事実そのものと事実を認識するプロセス、事実について記述し表現する形式の全てが含意されている。</p> <p>事実自体は構築されるものでなくとも、事実の解釈とその記述である科学的事実は構築されうる。</p> <p>もし「事実」という言葉で表そうとしているものが、唯一正しい現実解釈であったり、唯一正しい現実の記述・表現の仕方という意味なら、そんな「事実」は科学の領域においてさえ存在しないだろう。</p> <p>科学は事実について探求する数多ある学問の内の一つだ。</p> <p>よって、科学は唯一正しい現実解釈としての事実も、唯一正しい現実の記述・表現としての事実も示しはしない。</p> <p><strong>科学は民主主義において証明された正しさを提供するものでもなければ、万能の基準でもない。</strong></p> <h4 id="5本当の問題と科学的正しさについて">5.本当の問題と科学的正しさについて</h4> <p>本当の問題は、何が科学なのかが曖昧なまま「科学的」という言葉が使われたり「非科学的」という批判が力を持ってしまうことだ。</p> <p>勿論、一人一人の認識を正していなければならないという話がしたいわけではない。そんなことをしても「科学」の代わりに別の言葉が使われるようになるだけだろう。</p> <p>立てるべき問いは、「科学」という概念に人が求めているものは何かということ、そして何故それを求めてしまうのかということだ。これに関しては次回以降触れていきたい。</p> <p>また、科学を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>的に表現してしまうのは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>を擁護することに繋がるのではないかという批判もありえるだろう。先に言っておくと、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%BB%B2%CA%B3%D8">エセ科学</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>を擁護しようというわけではない。科学的正しさとは何かについても次回以降触れていきたい。</p> <p>【次回記事】</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2022%2F01%2F26%2F225520" title="科学とは何か?~エセ科学、疑似科学との違い~ - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/01/26/225520">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <h4 id="参考文献">【参考文献】</h4> <p>(↓<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A1%BC%A5%EB%A1%A6%A5%DD%A5%D1%A1%BC">カール・ポパー</a>はもちろん、カルナップからファイヤアーベント、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D9%A5%A4%A5%BA">ベイズ</a>主義から実験主義にわたるまで、科学とは何かについての今までの議論を俯瞰できるような概説書となっている。概観を把握したいのなら一番おすすめ)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4769913001/kyotaro442304-22/" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/41UJvvbRlZL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="改訂新版 科学論の展開" title="改訂新版 科学論の展開" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4769913001/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">改訂新版 科学論の展開</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/A.F.%A5%C1%A5%E3%A5%EB%A5%DE%A1%BC%A5%BA" class="keyword">A.F.チャルマーズ</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%B1%C0%B1%BC%D2%B8%FC%C0%B8%B3%D5">恒星社厚生閣</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4769913001/kyotaro442304-22/" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>(↓科学とは何かについて、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>との区別の難しさという点から書いてあるが、それぞれの章の結論はかなり曖昧。科学と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%BF%BB%F7%B2%CA%B3%D8">疑似科学</a>の区別も最終的には程度の問題に着地させている)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4815804532/kyotaro442304-22/" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/411KF3QGDWL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="疑似科学と科学の哲学" title="疑似科学と科学の哲学" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4815804532/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">疑似科学と科学の哲学</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%CB%C0%AA%C5%C4%20%C5%AF%BC%A3" class="keyword">伊勢田 哲治</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%BE%B8%C5%B2%B0%C2%E7%B3%D8">名古屋大学</a>出版会</li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4815804532/kyotaro442304-22/" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>(↓クーンを「科学殺人事件」の容疑者に見立て、それを弁護するというよく分からないノリで書かれているものの、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>者と批判されるクーンの科学観を擁護する形で書かれている)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061598791/kyotaro442304-22/" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/41cRu2j1meL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫)" title="パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061598791/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (講談社学術文庫)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%EE%B2%C8%20%B7%BC%B0%EC" class="keyword">野家 啓一</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061598791/kyotaro442304-22/" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>(↓メディアの偏向を批判するという筆者の態度自体にも偏向が見られるものの、社会科学の入門としては分かりやすい)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480687599/kyotaro442304-22/" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/61GZ53Y7UTL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)" title="データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480687599/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">データはウソをつく―科学的な社会調査の方法 (ちくまプリマー新書)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%20%B0%EC%CF%BA" class="keyword">谷岡 一郎</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%DE%CB%E0%BD%F1%CB%BC">筑摩書房</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480687599/kyotaro442304-22/" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166601105/kyotaro442304-22/" class="hatena-asin-detail-image-link" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/41T6G657JGL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ (文春新書)" title="リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ (文春新書)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166601105/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">リサーチ・リテラシーのすすめ 「社会調査」のウソ (文春新書)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%B2%AC%20%B0%EC%CF%BA" class="keyword">谷岡 一郎</a></li> <li><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%B8%E9%BA%BD%D5%BD%A9">文藝春秋</a></li> </ul> <a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166601105/kyotaro442304-22/" class="asin-detail-buy" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p> </p> tatsumi_kyotaro 性的消費、性的まなざしとは何か? hatenablog://entry/26006613788247354 2021-09-20T19:44:45+09:00 2023-09-24T16:33:53+09:00 0.はじめに 1.表現することそのものへの批判 2.表現物の背景にある文化への批判 3.性的な描写の背景にはどのような文化が存在するか。 4.その表現がどこでどのように利用されているか(広報と空間の問題) 5.結論 0.はじめに 表現とその表現への批判にまつわる問題は様々な論点が含まれていて複雑だ。 最近では「性的消費」「性的まなざし」という概念の意味と有用性を巡って様々な議論が行われている。 しかし現実に行われている議論では、論点の複雑さやその論点の背景にあるものが考慮されていない。 特に、フェミニズムが絡んだ議論はかなりになる印象がある。 『碧志摩メグ』、『のうりん!』と美濃加茂市コラボポ… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#0はじめに">0.はじめに</a></li> <li><a href="#1表現することそのものへの批判">1.表現することそのものへの批判</a></li> <li><a href="#2表現物の背景にある文化への批判">2.表現物の背景にある文化への批判</a></li> <li><a href="#3性的な描写の背景にはどのような文化が存在するか">3.性的な描写の背景にはどのような文化が存在するか。</a></li> <li><a href="#4その表現がどこでどのように利用されているか広報と空間の問題">4.その表現がどこでどのように利用されているか(広報と空間の問題)</a></li> <li><a href="#5結論">5.結論</a></li> </ul> <h4 id="0はじめに">0.はじめに</h4> <p>表現とその表現への批判にまつわる問題は様々な論点が含まれていて複雑だ。</p> <p>最近では「性的消費」「性的まなざし」という概念の意味と有用性を巡って様々な議論が行われている。</p> <p>しかし現実に行われている議論では、論点の複雑さやその論点の背景にあるものが考慮されていない。</p> <p>特に、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%DF%A5%CB%A5%BA%A5%E0">フェミニズム</a>が絡んだ議論はかなりになる印象がある。</p> <p>『碧志摩メグ』、『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%CE%A4%A6%A4%EA%A4%F3">のうりん</a>!』と<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%C7%BB%B2%C3%CC%D0%BB%D4">美濃加茂市</a>コラボポスター、宇崎ちゃん<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%A5%B7%EC">献血</a>ポスターなどの議論はかなり乱雑であった。</p> <p>そこで今回は、表象・表現物への批判の論点を大きく三つに分類して整理していくことで、「性的消費」「性的まなざし」という概念による批判はどう理解することができるのかを考えたい(<span style="font-size: 80%;">あくまで表現物への批判の分類であり、必ずしも<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%DF%A5%CB%A5%BA%A5%E0">フェミニズム</a>的な分析に依拠しない</span>)。</p> <p>どういう意見を持つのであれ、論点が混乱したまま議論(のようなもの)だけが増えても仕方がないという点はどの立場であれある程度同意できるだろう。</p> <p>この記事で挙げる論点が全てだとまで言うつもりはないが、論点整理の一助になれば幸いである。</p> <p>それでは早速、表現が批判される際の論点をおおまかに見ていこう。</p> <h4 id="1表現することそのものへの批判">1.表現することそのものへの批判</h4> <p>一つ目は、表現することそのものが批判される場合だ。</p> <p>例えば、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%B9%A5%E9%A5%E0">イスラム</a>世界においては、地域によっては<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E0%A5%CF%A5%F3%A5%DE%A5%C9">ムハンマド</a>の顔を描くことはタブーとされることがある。時には、タブーな表現をした人々に対し過度な攻撃が加えられ事件になることがある。</p> <p>事件の例としては、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E0%A5%CF%A5%F3%A5%DE%A5%C9">ムハンマド</a>風刺漫画掲載問題や<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%E3%A5%EB%A5%EA%A1%BC%A1%A6%A5%A8%A5%D6%A5%C9">シャルリー・エブド</a>襲撃事件などがあるだろう。</p> <p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E0%A5%CF%A5%F3%A5%DE%A5%C9">ムハンマド</a>風刺漫画掲載問題は、2005年に<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%F3%A5%DE%A1%BC%A5%AF">デンマーク</a>の日刊紙に<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E0%A5%CF%A5%F3%A5%DE%A5%C9">ムハンマド</a>の風刺漫画が載せられ国際問題までに発展した事件だ。</p> <p>また、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%E3%A5%EB%A5%EA%A1%BC%A1%A6%A5%A8%A5%D6%A5%C9">シャルリー・エブド</a>襲撃事件も、フランスの風刺新聞『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%E3%A5%EB%A5%EA%A1%BC%A1%A6%A5%A8%A5%D6%A5%C9">シャルリー・エブド</a>』が<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E0%A5%CF%A5%F3%A5%DE%A5%C9">ムハンマド</a>の風刺画を載せたことで、覆面をした複数の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%F0%C1%F5">武装</a>した犯人によって襲撃され十数名の死者を出した。</p> <p>また<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%E3%A5%EB%A5%EA%A1%BC%A1%A6%A5%A8%A5%D6%A5%C9">シャルリー・エブド</a>襲撃事件の後は、「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>」を掲げ「私はシャルリー」という標語と共に<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%E3%A5%EB%A5%EA%A1%BC%A1%A6%A5%A8%A5%D6%A5%C9">シャルリー・エブド</a>襲撃に抗議するデモが行われた。</p> <p>(勿論、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%E3%A5%EB%A5%EA%A1%BC%A1%A6%A5%A8%A5%D6%A5%C9">シャルリー・エブド</a>襲撃事件は単なる「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>」とタブーの問題ではなかったというのは、様々な知識人が指摘していることではある。以下、参考まで)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166610546/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/31N8yUpJZTL._SL500_.jpg" border="0" alt="シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 <a href="#f-f4d8985b" name="fn-f4d8985b" title="文春新書">*1</a>" title="シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 <a href="#f-07acd8f7" name="fn-07acd8f7" title="文春新書">*2</a>" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166610546/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 <a href="#f-9fcf471f" name="fn-9fcf471f" title="文春新書">*3</a></a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%DE%A5%CB%A5%E5%A5%A8%A5%EB%20%A5%C8%A5%C3%A5%C9">エマニュエル トッド</a></li> <li><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%B8%E9%BA%BD%D5%BD%A9">文藝春秋</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166610546/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00TU3CPZ6/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51zm0GDt3zL._SL500_.jpg" border="0" alt="現代思想 2015年3月臨時増刊号 総特集◎シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃" title="現代思想 2015年3月臨時増刊号 総特集◎シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00TU3CPZ6/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">現代思想 2015年3月臨時増刊号 総特集◎シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%F3%A5%C8%A5%CB%A5%AA%20%A5%CD%A5%B0%A5%EA">アントニオ ネグリ</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%C6%A5%A3%A5%A8%A5%F3%A5%CC%20%A5%D0%A5%EA%A5%D0%A1%BC%A5%EB">エティエンヌ バリバール</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%E9%A5%F4%A5%A9%A5%A4%20%A5%B8%A5%B8%A5%A7%A5%AF">スラヴォイ ジジェク</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E9%A5%F3%20%A5%D0%A5%C7%A5%A3%A5%A6">アラン バディウ</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A1%BC%A5%E0%20%A5%C1%A5%E7%A5%E0%A5%B9%A5%AD%A1%BC">ノーム チョムスキー</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%C4%B3%C0%20%CD%BA%BB%B0">板垣 雄三</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%F2%B0%E6%20%B7%BC%BB%D2">酒井 啓子</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%AA%C5%C4%20%C4%F7%BB%D2">栗田 禎子</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%BE%C3%AB%20%BD%A4">西谷 修</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%AD%BB%F4%20%C5%AF">鵜飼 哲</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E6%C5%C4%20%B9%CD">中田 考</a></li> <li><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%C4%C5%DA%BC%D2">青土社</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00TU3CPZ6/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>タブーの問題は遠い国の話ではない。</p> <p>日本においても「菊タブー」「皇室タブー」の問題が挙げられる。</p> <p>最近若干薄らいできたのかもしれないが、長い間日本においては皇室についての表現はタブー視されてきた。最近でも、「あいち<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%EA%A5%A8%A5%F3%A5%CA%A1%BC%A5%EC">トリエンナーレ</a>」の展示が中止に追い込まれたという事件もあった。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/490479558X/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51PaPEmTLiL._SL500_.jpg" border="0" alt="皇室タブー" title="皇室タブー" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/490479558X/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">皇室タブー</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%C4%C5%C4%C7%EE%C7%B7">篠田博之</a></li> <li><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%CF%BD%D0%C8%C7">創出版</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/490479558X/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000613782/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51skbBQNfwL._SL500_.jpg" border="0" alt="あいちトリエンナーレ「展示中止」事件: 表現の不自由と日本" title="あいちトリエンナーレ「展示中止」事件: 表現の不自由と日本" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000613782/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">あいちトリエンナーレ「展示中止」事件: 表現の不自由と日本</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B4%E4%C7%C8%BD%F1%C5%B9">岩波書店</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000613782/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>さて、「性的消費批判は、性的な表現に対する批判はエロをタブー視していることによるものだ」という言説があるが、果たして正しいだろうか。</p> <p>少なくとも、性的表現そのものをタブーとして問題にするというのが「性的消費」批判ではないように思える。</p> <p><span style="font-size: 80%;">(それだけが論点だと考えている人はしばしば「胸の大きな女性が描かれた絵に対する批判は、現実に胸の大きい女性を差別している」という何も考えていないに等しい批判をしたがる)。</span></p> <p>どのみち、「エロいから」という理由のみで批判するというのは馬鹿げた話に違いないが、それが「性的消費」批判の主な論点だとは言い難い。</p> <h4 id="2表現物の背景にある文化への批判"><strong>2.表現物の背景にある文化への批判</strong></h4> <p>次に考えられる批判の論点は、「その表現が背景としている文化や文脈がどのようなものか」だ。</p> <p>表現には「どのように理解されるか」「どのように受け取られるか」という解釈の次元が付きまとう。</p> <p>私たちは表現をそのままの姿で受け取ることなんてできはしない。小説には読解の問題がつきものであるし、漫画や映像作品においても解釈論争が付きまとう。</p> <p>そしてその解釈の際に、我々は自分たちが知っている文脈(文化コード)で表象を解釈する。</p> <p>例えば、エロ表現について言うなら、対象がどのように描かれているのか<strong>だけ</strong>がエロさを決定するわけではない(もちろんどのように描かれるかは重要としても)。</p> <p>単純な露出がエロさを決定するわけではないというのは今更説明するまでもないことだろう。</p> <p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%AF%BF%E5">スク水</a>、ブルマ、ニーソなど、それらは単に身に着けるものという意味だけではなくセクシュアルな意味を持つものとしてコード化している。だからこそ、Pixivなどの絵の投稿サイトでジャンルやカテゴリでタグ付けがされているのだ。</p> <p>つまり、何がセクシュアルな意味を持つのかは文脈(文化コード)によって決定される。</p> <p><strong>大きく言えば、どのような文脈で読まれるかによって表現はその現れ方を変化させる。</strong></p> <p>以前、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%AC">セガ</a>の取締役<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%BE%B1%DB%CC%AD%CD%CE">名越稔洋</a>氏がパーソナリティを務める<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/YouTube">YouTube</a>チャンネルでの発言が問題になったことがあった。</p> <p>自社のゲームの大会の決<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%A1%C0%EF">勝戦</a>である選手に対する印象の話になった時に、名越氏が「チーズ牛丼食ってそうな感じ」と表現したのである。</p> <p>「チーズ牛丼食ってそう」という発言は選手の容姿を揶揄したということで炎上に至った。</p> <p>では、なぜ「チーズ牛丼食ってそう」という発言が選手の容姿を揶揄したことになるのだろうか?</p> <p><iframe class="embed-card embed-webcard" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="セガ取締役「チーズ牛丼食ってそう」発言に見る、ゲーム業界に根強く残る「自虐性」(赤木 智弘) @gendai_biz" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fgendai.ismedia.jp%2Farticles%2F-%2F75001" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75001">gendai.ismedia.jp</a></cite></p> <p><strong>「チーズ牛丼食ってそう」という言葉それ自体には「容姿の揶揄」の意味はない。</strong></p> <p>どんな容姿の人間であっても、三色チーズ牛丼を頼むことはあるだろうし、チー牛を食べる人間に特定の容姿の傾向があるなんて統計があるわけでもない。</p> <p>では、なぜ「チーズ牛丼食ってそう」が「容姿の揶揄」になるかというと、ネット<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>を意識した発言と受け取られたからだ。</p> <p>「<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%B9%A4%AD%B2%C8">すき家</a>でいかにも三色チーズ牛丼を頼んでいそうな人の顔」略して「チー牛」が、少し気持ち悪いオタク、存在感のない<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%A5%AD%A5%E3">陰キャ</a>のテンプレートとして扱われてきた背景があったのだ。</p> <p><a href="https://wikiwiki.jp/livejupiter/%E4%B8%89%E8%89%B2%E3%83%81%E3%83%BC%E3%82%BA%E7%89%9B%E4%B8%BC%E9%A1%94">三色チーズ牛丼顔 - 新・なんJ用語集 Wiki*</a></p> <p> </p> <p>もし、「チー牛」が少し気持ち悪いオタク、存在感のない<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%A5%AD%A5%E3">陰キャ</a>を揶揄するネット<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A1%BC%A5%E0">ミーム</a>として流通したという背景がなければ「チーズ牛丼食ってそう」という発言はここまで炎上しなかっただろう。</p> <p><strong>表現はそれがどのような意味で使われ、受け取られてきたかという背景によってあらわれ方が変化する。</strong></p> <p>つまり、表現の問題には、その表現がどのように解釈され受け取られるのか、という文脈(文化コード)の問題が存在する。</p> <p><span style="color: #1464b3;">見た目が同じに見える表現でも、文化圏が違えば異なった意味を持ってしまう。</span></p> <p>ガッツポーズは日本では喜びの表現だが、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%AD%A5%B9%A5%BF%A5%F3">パキスタン</a>では侮辱の表現だというのは有名な話だ。</p> <p><span style="font-size: 80%;">(まぁ違う文化圏の人間にも「お前が勝手にそう解釈してるだけ」「どこが侮辱なのか説明しろ」とか言う人はいるかもしれないが)</span></p> <p>表現はそれ単体で何かに影響したり、機能したりしない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">「チー牛」という言葉は</span></p> <p><strong>チーズ牛丼顔=<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%A5%AD%A5%E3">陰キャ</a>・ネクラ・オタク気質</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">という文化コード(お約束・おきまり)が成立しているから、容姿の揶揄として理解される。</span></p> <p>そして、文化コードというのは文化の構成要素の一つだ(<span style="font-size: 80%;">ここで言う文化は、社会の風潮や雰囲気という意味に近い。<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AA%A5%BF%A5%AF%CA%B8%B2%BD">オタク文化</a>や業界文化などの文化に近い</span>)。</p> <p>「チーズ牛丼顔=<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%A2%A5%AD%A5%E3">陰キャ</a>・ネクラ・オタク気質」というコードが成立した背景には、「自分の容姿を自虐する文化」「他人の容姿を揶揄する文化」があると見られる。</p> <p>私たちはある特定の文化と、その文化で生まれたコード(きまり)に従って表象を捉えるのだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">すなわち、表現の現れ方は文化(コード)に依存している。</span></p> <p><strong>表現への批判には、それが利用しているコードとその背景にある文化への批判も含まれる。</strong></p> <p><strong>表現の供給と消費という視点から言い換えれば、「その表現がどのような需要によって成り立っているのか」という需要への批判だ。</strong></p> <p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%AC">セガ</a>の取締役である<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%BE%B1%DB%CC%AD%CD%CE">名越稔洋</a>氏の「チーズ牛丼食ってそう」発言が批判されたのは、その表現が「他人の容姿を揶揄する文化」に加担しているという捉え方をされたからだ。</p> <p>個々の表現物(表象)は、ある文化や歴史が表出したものとして批判されうる。</p> <p><strong>勿論、そこには「その表現物からその文化や歴史を読み込むのは妥当か」「読み込まれた文化や歴史が本当に批判されるべきものかどうか」という論点も含まれてくる。</strong></p> <p>恐らく、批判する必要があるのは、人々を抑圧するような強い影響力を持った文化や歴史だ。</p> <p>文化は数多の表現物や人々の交流によって形作られ、またそうした文化の中で表現が生まれ生活が営まれる。その連鎖、反復が文化の歴史を作っていく。</p> <p>ある文化は根強く続き、ある文化は廃れていく。</p> <p>そうして根強く繰り返され引き継がれた文化の中には、私たちの無意識に根付き価値観に影響を及ぼすことで誰かを抑圧するものが存在する。</p> <p>私達が文化から影響を受ける例を挙げよう。</p> <p>しばしば私たちは自己の理想と現実の自分のギャップに悩んだりする。</p> <p>その際、何が理想像となるかについてはその文化圏で共有される価値観から大きく影響を受けるだろう。</p> <p>それが苦しみを生み出すだけの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%AC%C8%CF%B0%D5%BC%B1">規範意識</a>、つまり「自分はこうでなければならない」という強迫観念に繋がる場合さえある。</p> <p><span style="color: #1464b3;">例えば「容姿に価値を置く文化」と「痩せていることが美しいとされる文化」が度を越えて強くなれば、「自分は痩せなければならない」という強迫観念や拒食症を引き起こすことがある。</span></p> <p>フランスでは、拒食症などの<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DD%BF%A9%BE%E3%B3%B2">摂食障害</a>は15~24歳の年齢層において、交通事故に続いて2番目に多い死因であるとされ問題視されたことで、やせ過ぎたモデルを規制する法が施行されるに至った。</p> <p>勿論これは、容姿に価値を置くことや痩せていることが美しいと言うことが悪いとかそういう話ではない。単に、それが文化(風潮、雰囲気)として強いと「痩せなければならない」という<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%AC%C8%CF%B0%D5%BC%B1">規範意識</a>を病的なレベルで人に植え付けてしてしまうという話だ。</p> <p><iframe class="embed-card embed-webcard" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="痩せ過ぎモデルを規制する法施行 フランス" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.afpbb.com%2Farticles%2F-%2F3127415" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://www.afpbb.com/articles/-/3127415">www.afpbb.com</a></cite></p> <p>言うまでもなく、これは全ての<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%AC%C8%CF%B0%D5%BC%B1">規範意識</a>は悪だという単純な話ではない。</p> <p>だが、時にそうした私たちの無意識に根付いた文化、内面化された価値観を批判し検討することは必要だろう。そしてそれが「当たり前を疑う」ということであり、芸術の異化作用が重要視される所以だ。</p> <p><strong>そういう意味で、個々の表現物がそれがどのような文化を背景に持っているのか、どのような文化を再生産してしまっているかという観点で批判はされうる。</strong></p> <p>勿論、その表現がどんな文化と結託しているかについては明確で誰もが同じように確かめることのできる基準などない。<span style="color: #1464b3;">というより、明確な基準がないからこそ、議論が必要かつ重要になるのだ。</span></p> <p>表現物とそれが関連している文化への批判は、主観と主観の交錯する場の、その間主観的な問題だからだ。</p> <p>文化(風潮や空気)について、私たちは様々な傍証や証言を元に仮説的に話すことになるが、それでも、文化を客観的に観測可能な物質として提示することはできない。勿論、議論の際に根拠を提示することは重要であるし、解釈の精度は高めなければならないがそれでも全ての人が了解可能なものとして提示するのは困難な作業になるだろう。</p> <p>ここまでの話をまとめよう。</p> <p>表現物への批判には、その表現を成り立たせている文化への批判も含まれている。</p> <p>恐らく「性的消費」「性的まなざし」批判には、性的な表現を成り立たせている文化への批判という側面も含まれているのではないだろうか。</p> <p>勿論そうであれば、批判するにせよ擁護するにせよ個々の表象の在り方を論点にするのはいささか問題含みに思える。</p> <p><span style="color: #1464b3;">例えば描かれた人物に主体性が感じられるかどうかという論点は疑似的な問題でしかない。</span></p> <p>では批判されてきた性的表現にはどのような背景文化が読み込まれ、批判されていると言えるだろうか。</p> <h4 id="3性的な描写の背景にはどのような文化が存在するか">3.性的な描写の背景にはどのような文化が存在するか。</h4> <p>性的な描写の背景にどのような文化が読まれ批判されているかというと、恐らくは女性が性的な魅力を持っていることを殊更に強く期待する文化ではないだろうか。</p> <p>言い換えれば、女性に対して価値判断をする際に、性的な魅力という価値基準を優先し、それ以外の価値基準を相対的に軽視する文化である。</p> <p>勿論、どんな人間であっても他人に対しては特定の役割をこなすことを期待することはあるだろう。</p> <p>問題になるのはさっきも言った通り、それが文化として強い影響を持つ時だ。</p> <p>これは女性に対して性的魅力を期待するのをやめろという単純な話では勿論ない。</p> <p>ただ、女性という属性への期待が、一定の方向(性的魅力への期待)にのみ集中した時、それは現実の人間への抑圧として働くことがあるということだ。</p> <p>多くの人間が意識的にしろ無意識的にしろ期待を持ち、それがある程度強い文化になっている状況では、期待に対して「それをやるのが自然」とか「やるのが普通」という圧力が発生する。</p> <p>そして、その期待に応えようとしない女性は批判されるようになったりもする。</p> <p>例えば、恋愛しようとしない女性、恋愛に積極的でない女性に対して「高望み」をしていると批判が投げかけられることもある。「高望み」をしている女性に対しては、手近な男性と恋愛をするよう教育が必要だという論調さえあるようだ。</p> <p>また、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%C3%A5%AF%A5%B9%A5%EC%A5%B9">セックスレス</a>夫婦が話題に挙がった時も、セックスをしてもらえない男性へかなりの同情の声が上がった。</p> <p>更に言えば、たとえ誰かが批判したり口にしたりしなくても、圧力というものは発生する。</p> <p><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%B1%C4%B4%B0%B5%CE%CF">同調圧力</a>という分かりやすい次元までいかずとも、「なんとなくそうなった方がいい」という雰囲気があれば、人の意思決定はその雰囲気に影響を受けるだろう。</p> <p>周りからの期待を無意識のうちに感じ取り、そうしたものを<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%AC%C8%CF%B0%D5%BC%B1">規範意識</a>として内面化してしまうのが社会に生きる人間だからだ。</p> <p>こうした局面においては、女性の主体性の議論もレトリカルなものにしかならない(<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DD%BF%A9%BE%E3%B3%B2">摂食障害</a>や依存症がたとえ自由選択の結果だとしても問題とされるように)。</p> <p>ここで一つ注意しておきたいのは、どんな文化であれ、それが支配的になれば誰かへの抑圧に働く可能性はあるということだ。</p> <p>ここでは、女性への期待が一方的でかつその方向性が限定されていることが問題となる。</p> <p>よって、一方的でかつその方向性が限定されていることが問題ならば、その方向性を多様化すればいいというムーヴメントが現れてくるのも理解できる(有効かどうかは置いておいて)。</p> <p>最近では、多様な女性像を提供するような作品を称揚する動きもある。</p> <p>たとえば、恋愛以外で女性が重要な役割を持ったり、いわゆる従来の「女性的な魅力」でない魅力を持った女性を描く作品などがそれだ。</p> <p> </p> <p>例)『Horizon』シリーズ、『Apex Legends』『ラストオブアス2』 『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EF%A5%F3%A5%C0%A1%BC%A5%A6%A1%BC%A5%DE%A5%F3">ワンダーウーマン</a>』『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%A4%A5%B9">トイス</a>トーリー4』等</p> <p> </p> <p><strong>しかしこうした作品は「ポリコレは作品をつまらなくしている」という激しい批判に晒されている……</strong></p> <p>また、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%E7%BA%E5%C9%DC">大阪府</a>の表現<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%A4%A5%C9%A5%E9%A5%A4%A5%F3">ガイドライン</a>で女性キャラを描く際に「<span style="color: #1464b3;">人格を持った多様な姿で描くように</span>」と書かれていたことに対して、著名な<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%B5%AC%C0%A9">表現規制</a>反対派で漫画家の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%D6%BE%BE%B7%F2">赤松健</a>氏は<a href="https://twitter.com/KenAkamatsu/status/1442848717707661325">事実上の「萌えキャラNG宣言」である</a>として反発をしたのも有名だ。</p> <p>やはり、多少の改善されてきているとはいえ、依然として女性に課される<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%AD%CC%F2%B3%E4">性役割</a>は依然として強力だと言えるのではないだろうか。その結果として、例えば聖母的な女性像であったり、少女的な(明るく優しい)女性像であったり、脱人間的な女性への幻想が生まれる面もあるように思われる。</p> <p>ここまでの話をまとめよう。</p> <p>性的な魅力を強調している表現はその背景に、女性の価値は主に性的魅力の提供であるとする文化が読まれた場合に批判されることがある。</p> <p>女性の価値は主に性的魅力の提供であるとする文化というのは、現実の女性に対しての圧力(抑圧)を生み出す。</p> <p>そしてそれは、男性からとは限らないし、女性から女性へ課される期待もある。</p> <p>そうした支配的文化に属している表現については、例えば俗情と結託していると批判されうるかもしれない。無論、そうした批判がいつも正しいとは言わないし、批判に妥当性があるかどうかは問われる必要がある。</p> <p>それでも、その際論点にすべきは、あくまでその表現が背景としている文化や文脈がどのようなもので、どの程度抑圧的かではないだろうか。</p> <h4 id="4その表現がどこでどのように利用されているか広報と空間の問題">4.その表現がどこでどのように利用されているか(広報と空間の問題)</h4> <p>最後に考えたい批判の論点は、広報と空間の問題だ。</p> <p>つまり、「その表現がどこに存在していて、どのような目的で利用されているのか」という表現利用と空間の問題だ。</p> <p>広告や<span style="color: #202124; font-family: arial, sans-serif; font-size: 16px; font-style: normal; font-variant-ligatures: normal; font-variant-caps: normal; font-weight: 400; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: left; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px; -webkit-text-stroke-width: 0px; background-color: #ffffff; text-decoration-thickness: initial; text-decoration-style: initial; text-decoration-color: initial; display: inline !important; float: none;">キャンペーン、</span>プロモーションなどの目的である作品が利用されている場合、その表現がなぜ広告として機能しているのかが問題になりうる。</p> <p>以下の事例は、この次元で議論がなされていたように思う。</p> <p>・『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%CE%A4%A6%A4%EA%A4%F3">のうりん</a>!』と<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%C7%BB%B2%C3%CC%D0%BB%D4">美濃加茂市</a>コラボポスター</p> <p>・宇崎ちゃん<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%A5%B7%EC">献血</a>ポスター</p> <p>・『月曜のたわわ』ポスター(新入社員の疲れを癒すというキャッチコピー)</p> <p>表現物の内容それ自体を問題視しなくても批判する人はいるのだ。</p> <p>その時問題になるのは、「なぜそれが広告として採用されたのか」という点である。</p> <p>「なぜそれが広告として採用されたのか」という部分にさきほど言及した文化の問題が関わってくる。</p> <p>つまり、「広告として性的魅力が強調された女性が使われる文化」が問題である。</p> <p>「広告として性的魅力が強調された女性が使われる文化」の例としては、例えば<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A1%BC%A5%B9%A5%AF%A5%A4%A1%BC%A5%F3">レースクイーン</a>(<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B0%A5%EA%A5%C3%A5%C9%A5%AC%A1%BC%A5%EB">グリッドガール</a>)問題などが挙げられるだろう(正確には<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B0%A5%EA%A5%C3%A5%C9%A5%AC%A1%BC%A5%EB">グリッドガール</a>と<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A1%BC%A5%B9%A5%AF%A5%A4%A1%BC%A5%F3">レースクイーン</a>は別物だが)。</p> <p>海外では、<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A1%BC%A5%B9%A5%AF%A5%A4%A1%BC%A5%F3">レースクイーン</a>(Promotional model)は現代の社会にそぐわないとして廃止される動きがある。</p> <p><a href="https://diamond.jp/articles/-/158555">F1でレースクイーン廃止、企業は「若くてセクシーな女性」とどう向き合うべきか | 社会貢献でメシを食う。NEXT 竹井善昭 | ダイヤモンド・オンライン</a></p> <p>なぜ「広告として性的魅力が強調された女性が使われる文化」が問題かと言えば、先ほどと同様に、長い間「女性の価値の第一義は性的魅力である」という価値観が女性を抑圧してきたためだ。</p> <p>ネットで日々行われる議論を見ていると、表現とそれに対する批判という論点で議論している人が多いように思えるが、それは適切ではないのではないだろうか。</p> <p>広報の問題は、表現への批判と考えるよりも、表現がどのような場所でどのように利用されているかという問題と考えた方が良いのではないだろうか。</p> <p>既にある表現物の広告利用を巡る問題であるから、その広告利用を批判することは表現物そのものへの攻撃とは性質が異なってくる。どちらかといえば、公共空間の在り方を巡る議論の枠組みで捉えるべきではないだろうか。</p> <h4 id="5結論">5.結論</h4> <p>「性的消費」「性的まなざし」批判には、作品の受け取られ方を決定する文化(コード)の問題が絡んでくるのではないだろうか。</p> <p>個々の事例に触れるつもりはないが(事例が無限にあるので)、私個人の立場はいつも批判側、いつも擁護側なんてことはない。しかしそれでも、何が問題にされているのか、何を問題にしたいのかその論点をはっきり上で議論をすべきではないかとは思う。</p> <p>勿論、表現そのものが直接的に差別的なメッセージを含んでいないのであれば、表現そのものを批判し取り下げさせることは避けるべきだろう。それでも表現は背景にある文化の表出でもあるのだから、背景文化への分析と批判はもう少し議論が活発になっても良いように思う(<span style="font-size: 80%;">「背景文化」など想像の産物でしかないと抜かす馬鹿はよくいるが、想像と現実を単純な対立物だと見做している時点で論外だろう</span>)。</p> <p>また、果たして文化への批判はどの程度有効なのか、文化よりさらに根本の社会構造を問題にすべきではないかという話はまた別の機会に譲ろうと思う。</p> <p> </p> <p>【補足】</p> <p><span style="font-size: 80%;">※この手の話をすると、よく「解釈なんて個人の自由だ」なんてことを言いたがる人がいるが、そういう話ではない。そんなことを言ってしまえるなら侮辱や差別を含むあらゆる表現の意味だって「受け手が勝手にそう解釈しただけ」と言えてしまえるわけで、ある程度共有された解釈の形態があるから日常のコミュニケーションも成立する。妥当な解釈など幻想であるなどと言って何が言いたいのか私には分からないが、なるほどそういう人はたとえ他人からネットで<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>を知ったバカだと思われても所詮は他人の勝手な解釈だと思えるのかもしれない。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;">※男性向けエロ漫画を女性が描いていることを指摘して反論した気になっている人間がいるので言うと、例えば<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D6%A5%E9%A5%C3%A5%AF%B4%EB%B6%C8">ブラック企業</a>に勤めることを自己決定している人間を例に挙げたからといって<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D6%A5%E9%A5%C3%A5%AF%B4%EB%B6%C8">ブラック企業</a>労働が問題ないわけではないように、自由意志と社会構造は関係がない。また、表現は作者が何を意図したかではなくどう解釈されるかが問題なのだ。まぁ言っても分からないだろうが。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;">※広告が問題になった場合に、「広告として問題だ」という批判が理解できず表現物への攻撃と理解する人が一定数いるらしい。</span></p> <p>※結局広告の文脈も問題である。</p> <p><a href="https://twitter.com/njrecalls/status/1511484530150227972?s=21&amp;t=7muHjebhLgR5__3_pub-eA">https://twitter.com/njrecalls/status/1511484530150227972?s=21&amp;t=7muHjebhLgR5__3_pub-eA</a></p> <p> </p> <p> </p> <p>※宇崎ちゃんポスターは漫画3巻の絵が使われていた。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07THRLQXY/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51gdCZYMzWL._SL500_.jpg" border="0" alt="宇崎ちゃんは遊びたい! 3 (ドラゴンコミックスエイジ)" title="宇崎ちゃんは遊びたい! 3 (ドラゴンコミックスエイジ)" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07THRLQXY/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">宇崎ちゃんは遊びたい! 3 (ドラゴンコミックスエイジ)</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%E6">丈</a></li> <li><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/KADOKAWA">KADOKAWA</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07THRLQXY/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p>『<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%CE%A4%A6%A4%EA%A4%F3">のうりん</a>!』の<a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%FE%C7%BB%B2%C3%CC%D0%BB%D4">美濃加茂市</a>コラボポスターは最終的にブルーレイの絵になった。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a class="hatena-asin-detail-image-link" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07Z92RR7F/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener"><img class="hatena-asin-detail-image" src="https://m.media-amazon.com/images/I/61FElhPGZjL._SL500_.jpg" border="0" alt="「 のうりん 」全話いっき見ブルーレイ [Blu-ray]" title="「 のうりん 」全話いっき見ブルーレイ [Blu-ray]" loading="lazy" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07Z92RR7F/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">「 のうりん 」全話いっき見ブルーレイ [Blu-ray]</a></p> <ul class="hatena-asin-detail-meta"> <li><a class="keyword" href="https://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%F5%BE%C2%BF%B8%C2%C0%CF%BA">浅沼晋太郎</a></li> </ul> <a class="asin-detail-buy" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07Z92RR7F/kyotaro442304-22/" target="_blank" rel="noopener">Amazon</a></div> </div> </div> <p> </p> <p> </p><div class="footnote"> <p class="footnote"><a href="#fn-f4d8985b" name="f-f4d8985b" class="footnote-number">*1</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">文春新書</span></p> <p class="footnote"><a href="#fn-07acd8f7" name="f-07acd8f7" class="footnote-number">*2</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">文春新書</span></p> <p class="footnote"><a href="#fn-9fcf471f" name="f-9fcf471f" class="footnote-number">*3</a><span class="footnote-delimiter">:</span><span class="footnote-text">文春新書</span></p> </div> tatsumi_kyotaro 暴力の記憶を語ることの難しさ~『君は永遠にそいつらより若い』~ hatenablog://entry/26006613659956244 2021-05-30T13:33:37+09:00 2021-05-30T13:33:37+09:00 はじめに 1.「当事者」として語ることの困難 2.ホリガイ(堀貝)と対比的な二人の人物 2.1ホリガイとカバキ(河北) 2.2ホリガイ(堀貝)とイノギ(猪乃木) 3.「君は永遠にそいつらより若い」 3.1【補足】 4.【関連図書】 はじめに 今回は、どうしようもないコミュニケーションの困難について書かれているある小説について紹介したい。 今回紹介したいのは芥川賞作家津村記久子の『君は永遠にそいつらより若い』である。最近読んだ本の中でかなり印象に残った本で、映画化もするようなのでこの記事を書くに至った(映画版とは解釈が異なると思うが.......)。 君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫) … <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#はじめに">はじめに</a></li> <li><a href="#1当事者として語ることの困難">1.「当事者」として語ることの困難</a></li> <li><a href="#2ホリガイ堀貝と対比的な二人の人物">2.ホリガイ(堀貝)と対比的な二人の人物</a><ul> <li><a href="#21ホリガイとカバキ河北">2.1ホリガイとカバキ(河北)</a></li> <li><a href="#22ホリガイ堀貝とイノギ猪乃木">2.2ホリガイ(堀貝)とイノギ(猪乃木)</a></li> </ul> </li> <li><a href="#3君は永遠にそいつらより若い">3.「君は永遠にそいつらより若い」</a><ul> <li><a href="#31補足">3.1【補足】</a></li> </ul> </li> <li><a href="#4関連図書">4.【関連図書】</a></li> </ul> <h4 id="はじめに">はじめに</h4> <p>今回は、どうしようもないコミュニケーションの困難について書かれているある小説について紹介したい。</p> <p>今回紹介したいのは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B3%A9%C0%EE%BE%DE">芥川賞</a>作家<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C5%C2%BC%B5%AD%B5%D7%BB%D2">津村記久子</a>の『君は永遠にそいつらより若い』である。最近読んだ本の中でかなり印象に残った本で、映画化もするようなのでこの記事を書くに至った(<span style="font-size: 80%;">映画版とは解釈が異なると思うが.......</span>)。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480426124/kyotaro442304-22/"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/511hljdM4RL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)" title="君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480426124/kyotaro442304-22/">君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C5%C2%BC%20%B5%AD%B5%D7%BB%D2" class="keyword">津村 記久子</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2009/05/11</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <h4 id="1当事者として語ることの困難">1.「当事者」として語ることの困難</h4> <p>『君は永遠にそいつらより若い』は、自分が受けた暴力の体験を語ることの難しさや苦悩と、その傷と共に生きることについて書かれた小説である。</p> <p>私たちが自分の体験や経験を人に語る時、ある困難が付きまとう。</p> <p>記憶を呼び戻し、順序だてて一つの物語のようにして語ったとしても、たとえ当事者による語りであってもそれは体験の記憶そのものではなく、ましてや体験そのものでもないということだ。</p> <p>それがどんなに詳細な説明であっても、それを聞く側はその日の体験をそのまま体験できるわけではないのだ。</p> <p>だから私たちは時として、当時の状況を都合よく脚色したり誇張したりして話したりする。</p> <p>そして、そうしたコミュニケーションの限界が生々しい現実として現れるのは、暴力を受けた体験について誰かが話すその瞬間である。</p> <p>たとえ暴力を受けた被害者の語りであってもそれは体験の痕跡であって、体験そのものではない。</p> <p>その時その場にいる「当事者」は語ることができない。語ることができるのは、その時その場にいたであろう「経験者」だ。</p> <p>「当事者」と「経験者」の間には時間の隔たりによって生まれた差異(あるいは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%B9%B1%E4">差延</a>)が存在する。体験を語ることは、実際の事実に対してつねにすでに遅れてやってくる。</p> <p>そしてその遅れ、差異(あるいは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%B9%B1%E4">差延</a>)が、時として決定的に重要な何かを失わせてしまうのだ。</p> <h4 id="2ホリガイ堀貝と対比的な二人の人物">2.ホリガイ(堀貝)と対比的な二人の人物</h4> <h5 id="21ホリガイとカバキ河北">2.1ホリガイとカバキ(河北)</h5> <p>この小説には二人の人物がそれぞれ主人公のホリガイ(堀貝)と対比されながら描かれている。</p> <p>カバキ(河北)とイノギ(猪乃木)だ。</p> <p>まずはカバキ(河北)から見ていこう。</p> <p>ホリガイ(堀貝)とカバキ(河北)は、暴力被害の体験の語り方という点において対称的に描かれる。</p> <p>主人公のホリガイは小学生の時、同級生の男子二人から暴力を振るわれた経験を持っている。</p> <p>ホリガイは自分の被暴力体験について語る時、自分の「体験談」が事実そのものではないということ、たとえ写実的であっても事実の痕跡に過ぎないことを理解している。</p> <p>だからホリガイは自らの被暴力体験を<span style="color: #1464b3;">「</span><em>すでに自分の中で笑い話になっているのか、もしくは未だ痛む生傷なのか、そのきわにある体験</em><span style="color: #1464b3;">」</span>として語る。</p> <p>また、語りながらも「<em>そいつらの顔をはっきり思い出すことはできるのだけど、名前は片方しか思い出せない。それもぼんやりとしか</em>」と言って自分の記憶をどこか他人事のように語るのだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">語り手は通常、自分の語りが自分の体験の記憶そのものだと錯覚しがちだ。</span>しかし、たとえどんなに流暢な語り口であろうと、自分の記憶そのものを相手に伝達することはできない。</p> <p>語られる体験談は記憶でしかない上、聞き手は言葉から実際に何が起きたかを想像するしかない。実際に起こった出来事をそのまま聞き手の脳裏に再現することなどできはしない。それに、たとえそんな技術が生まれたとしても、それを伝達された人間は出来事に対して別の解釈をするかもしれない。</p> <p><strong>もっと根本的な問題を言えば、どんなに豊かな想像力をもってその「体験談」に登場する「当事者」を理解しようとしても、それは今目の前にいる語り手(元「当事者」)に寄り添うことにはならない。</strong></p> <p>目の前の語り手はすでにつねに元「当事者」であり、またその体験談を聞いた聞き手もその体験談から当時の様子を想像することしかできない。</p> <p>体験を聞く側は究極的には当時の「当事者」に対して何の助力もすることはできない。</p> <p>できることはただ今目の前でそれを語る語り手に寄り添うとすることのみである。</p> <p>語り手がどんなに詳細に語り、それに対して聴き手が豊かな思考力でその痛みを想像したとしても、それは今目の前にいる語り手に寄り添うこととはズレてしまう。</p> <p>つまり、ホリガイは「語り手≠当事者」だと考えているのだ。</p> <p>こういうホリガイと対照的なのがカバキだ。</p> <p>カバキ(河北)は、交際相手であるアスミの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%B9%A5%C8%A5%AB%A5%C3%A5%C8">リストカット</a>の傷から「離れられ」ないと自身を語る。</p> <p>カバキにとって、アスミが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%B9%A5%C8%A5%AB%A5%C3%A5%C8">リストカット</a>の傷をもっていることには特別な意味がある。</p> <p>彼は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%B9%A5%C8%A5%AB%A5%C3%A5%C8">リストカット</a>という傷の痕跡を持っていることは、現在リアルに心の傷を持っていることと同義であると考えている。</p> <p>また、アスミが心の傷はアスミという人間固有の価値を保証するもの、ひいてはそんな彼女の傷について語るカバキ自身の固有の価値を保証するものとも考えている。</p> <p>なぜそんな考え方をするかと言えば、カバキにとって「傷について語ること=その傷の当事者であること」だからだ。</p> <p>つまり彼にとっては、「語り手=当事者」なのである。</p> <p>カバキはアスミという他人の傷、その傷について語ることで自分がその傷の当事者であるかのように振舞う。</p> <p>ごく単純に言えば、他人の傷を語る自分に酔っているのだ。それはある特別な傷について語る自分への憐憫と陶酔である。</p> <p>カバキは自分ではなくアスミの傷を語ることで、その傷に憑依し、「当事者性」という特権を手に入れようとする。</p> <p>ここでは、他人の傷を語ろうとすることが問題なのではない。他者の傷に過剰に憑依してしまうことで無自覚に語る自分を特権化してしまうことが問題なのだ。</p> <p>他人の不幸の体験を語る時にまるで自分自身が可哀そうな存在であるかのように語る人間を見たことはないだろうか?</p> <p>カバキはそれに近い。</p> <p>誰かがある傷の体験について語る時、そこには語る人間の欲望が紛れ込んでしまうことがある。それは他人でなく、当の本人であってもだ。なぜなら、語ることができる時点で、その人はまさにその体験の最中にいた「当事者」とはどこかでズレてしまうからだ。過去の自分さえ今の自分と全く同じ存在というわけにはいかない。</p> <p>誰かの傷についてを語る時、語る人間は事実をそのまま伝える透明な存在にはなれない。私たちは当事者の傷そのものではなく「傷痕」とそこから読み取ったことしか語ることができないのだ。</p> <p>だが、カバキはそうは考えていない。</p> <p>カバキがアスミの手首の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%B9%A5%C8%A5%AB%A5%C3%A5%C8">リストカット</a>の傷跡(痕跡)を「分かち合う」ために、傷跡(痕跡)の上からさらに深く手首を切ったと報告するシーンは象徴的だ。</p> <p>カバキは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%B9%A5%C8%A5%AB%A5%C3%A5%C8">リストカット</a>の傷にしても、その「体験談」にしても、それらの痕跡といまここにある傷の結びつきをこそ信じている。その信仰があるからこそ、カバキは傷の痕跡そのものを当事者の傷そのものであると錯覚できる。言い換えれば、カバキは「痕跡」でしかない<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%B9%A5%C8%A5%AB%A5%C3%A5%C8">リストカット</a>の傷跡にアスミの今ある心の傷そのものを幻視してしまっているのだ。</p> <p>傷の「痕跡」ひいては傷を語ることは、カバキにとって真実そのものだ。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%B9%A5%C8%A5%AB%A5%C3%A5%C8">リストカット</a>の傷はかつての傷の「痕跡」ではなく、いまここにあるアスミの傷でなければならない。だからカバキは自分の語るアスミの話も彼女の傷痕もただの「痕跡」と認めることができないでいる。カバキにとって傷跡(痕跡)の上から切りつけることは、アスミの今ある心の傷に自分が入り込むことと同一であると感じられてしまうのだ。</p> <p>カバキが語ることにこだわるのはこのためだ。</p> <p>カバキはホリガイを「何の問題もない人間」であると言いながら自分のことをまるで語るべき傷を持った人間かのように語る。むしろ、傷を語ることこそが「当事者」であることの資格であるとさえ考えているようにも見える。それは彼の「自分になにも問題がないからって、語れる奴を嫉むな」 というセリフにも表れている。カバキは「語れる=語るべきものを持っている」、「語れない=何も問題がない」という図式で人を理解する。だからカバキにはうまく傷を語れないホリガイが「何の問題もない人間」のようにみえてしまう。</p> <p>カバキがホリガイに聞き手であることを望むのは、それが彼を真の「当事者」に仕立てるための語りに必要だからだ。語るためにはそれを聴く「ギャラリー」が必要だ。それも、自分を「当事者」たらしめる完璧な語りの完璧な聞き手が。</p> <p>だからホリガイの「あんたらは、どんな形だろうと助け合って生きてて、それでいいじゃないか。なんでギャラリーがいる?」という問いかけにカバキは答えられない。</p> <p>この時点のカバキにとって「助け合って生きてて、それでいい」ということはありえない。</p> <p>なぜなら、カバキがアスミと「助け合って」「生きることも死ぬことも近くに感じられている」という実感を得るには、アスミだけでなく自身も傷の「当事者」である必要があると考えているからだ。</p> <p>カバキがアスミの手首を切った後、なぜホリガイにそれを語り実際に見に来いと言ったのか、その理由はここにある。カバキは、自分が語ることは今現在進行形で起きていることであり、「当事者」が語る真実でなければならないと考えているのだ。</p> <p>カバキはアスミの傷の物語を語ることで自分を真らしく、「当事者」たらしめようとする。つまり、「当事者」として物語ることを成功させようとする。だから彼は誰よりも流暢に、まるで「詩を吟ずるよう」に語ろうとするのだ。</p> <p>しかし、ホリガイはそんなカバキの話をまじめに聞こうとはしない。それはホリガイが傷の物語を語るカバキを「当事者」としてみなさないからだ。それはホリガイが傷の物語を上手く語ろうとする態度の内には「ナイーブな内面」はけして見えてこないと感じ取っているからだ。しかし、語り手=「当事者」であると考えるカバキにとっては、ホリガイの態度は単に「当事者」である自分の否定としてしか映らない。だからカバキはホリガイに怒りを露わにする。それは「お前はあの時、俺を贋物だと思っただろう」「俺たちは本物なんだ」というセリフを吐き捨てるシーンへと繋がっていく。</p> <h5 id="22ホリガイ堀貝とイノギ猪乃木">2.2ホリガイ(堀貝)とイノギ(猪乃木)</h5> <p>ここで話をもう一人の人物に移そう。</p> <p>もう一人はホリガイの親友イノギ(猪乃木)だ。</p> <p>彼女は、語りを聴くという点において主人公のホリガイと対照的だ。</p> <p>「当事者」として体験を語ることも、「当事者」の話を聴くことも根本的な困難を避けられない。そこには成功は存在しない。ならば、せめて巧く失敗するしかない。</p> <p>いかに成功するかではなく、どのように失敗するかあるいはさせるかが重要なのだ。</p> <p>この点にホリガイとイノギとの差がある。</p> <p>イノギさんは、「語り手≠当事者」であると理解はした上で、語りの聴き手としてその語りを巧く逸らしてしまうのだ。</p> <p>ホリガイが小学生の時に同級生男子からの受けた暴力の話をするシーンを引用しよう。</p> <blockquote> <p>イノギさんは、じっとわたしの眼を見ていた。息が詰まるのを感じた。人というより、絵の中の人物が生きていて、それに凝視されているような、不思議な不安感にさいなまれるのを感じた。遠くから見たときのイノギさんの鷹揚な佇まいは、どこか幽霊のようでもあったけれど、今まさに間近にいてもそのように見えると私は思った。</p> <p>「<em>そのガキは今どこにおるんかな</em>」イノギさんは気だるげに口を開きうつむいた。</p> <p>「<em><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E6%A5%CB%A5%BB%A5%D5">ユニセフ</a>に怒られてもいいから、どうにかできんもんかな。原付で軽く轢くとか</em>」「<em>もうおとなになってるやろから原付ではやっつけられんかも</em>」</p> <p>「<em>ガキをガキのままやりたいな</em>」イノギさんはゆっくりと顔をあげて、わたしの背<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E6%B1%DB">中越</a>しのなにかをぼんやりと眺めた。わたしを見ているようで見ていないような眼差しと言えた。</p> <p> 「そこにおれんかったことが、悔しいわ」</p> <p>(『君は永遠にそいつらより若い』p118)</p> </blockquote> <p> <span style="color: #1464b3;">ここで重要なのは、イノギが「<em>原付で軽く轢</em>」こうとしているのは当時の男子児童であるということだ。</span></p> <p>だから、「<em>そのガキ今どこにおるんかな</em>」というセリフは大人になった本人のことではなく、その日その場所にいた「ガキ」の所在についての質問なのだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">もちろん、それは根本的に意味のない問いだ。</span></p> <p>その日その場所にいた「ガキ」はもうどこにもいない。</p> <p>それを分かっているからイノギは「<em>そこにおれんかったことが、悔しいわ</em>」と口にするのである。</p> <p>ホリガイが「なぜだかイノギさんにきいてほしい」と思うほどにイノギに少なからぬ信頼を寄せるのは、イノギはその日の「当事者」として語ることも、その日の「当事者」に寄り添うことも究極にはできないと理解しながら、なお目の前の語り手であるホリガイに寄り添おうとしているからではないだろうか。それはカバキのように安易に「当事者」の傷を所有しようとするのではなく、今目の前にいる暴力の経験者が未だ抱える傷痕に寄り添おうとする姿勢を持った人間への信頼だ。</p> <p>もちろんそれは、安易に「当事者」と目の前の語り手とを切り離すことではない。語り手すら見失っている「当事者」との関係を適切な位置へと導くことだ。いうなればそれは「わたしを見ているようで見ていないような眼差し」に貫かれることだ。</p> <p>対してホリガイは「当事者」への接近不可能性を理解しながらも、今目の前にいる語り手に巧く寄り添うこともできない。それが、ホリガイがカバキを怒らせてしまう理由であり、ホリガイがイノギと疎遠になってしまった理由だ。</p> <p>イノギさんが過去に受けた暴力の体験を聞いてホリガイは何も言うことが出来ない。</p> <blockquote> <p>わたしは、かける言葉を見つけることができず、そもそも言葉をかけることが正しい態度なのか黙りこくっているほうがいいのかもわからず、そして結局何も言わず、ひたすらまばたきをしていた。ごめん、と言うイノギさんの声がきこえた。わたしは全力で首を振り、自分でもなんで首を振っているのか分からなくなるぐらい振った後に、もういいよ、という曖昧なひとことだけが口をついた。そしてすぐにそんな自分を恥じた。より正確に言うと、自分を恥じることに逃げ込んだ。</p> <p>(『君は永遠にそいつらより若い』p209)</p> </blockquote> <p>ホリガイは良くも悪くも人の語りに巧く向き合うことができないでいた。</p> <p>それはホリガイ自身この作品の中で悩み、葛藤し続けたことである。</p> <p>ホリガイが冒頭の場面で「<em>わたしが仮にどれだけ正確にその場に立つことができたとしても、その場に流れた時間を遡ることはできない</em>」と語るように、時間が巻き戻らない以上「当事者」を正確に理解することは難しい。そして、語り手が「当事者」として「体験談」を語ることも、聞き手が「当事者」を理解することもすでにつねに失敗する。</p> <p>だが、それは今目の前にある他者に向き合うことの不可能性ではない。</p> <p>ホリガイはあの日、イノギさんが無くした自転車の鍵を探すことを決意するのだ。</p> <p>ただ時の流れに怒りを感じて無力感に浸ることはせず、「<em>そこにいられなかったからこそ、わたしは今ここで這い回って地面を掘り返しているのだ</em>」と決意し、イノギの自転車の鍵を探しあてるのだ。</p> <h4 id="3君は永遠にそいつらより若い">3.「君は永遠にそいつらより若い」</h4> <p>その日の「当事者」を救うこともその日の「当事者」の語りを聞くことも出来ない。</p> <p>時は戻らないからだ。</p> <p>そして、この時の不可逆性こそがこの作品の根底に横たわっている最も根源的な暴力の正体だ。</p> <p>ホリガイが冒頭で「<em>決して巻き戻すことのできないときの流れのすげなさへの怒り</em>」を語るのはそのためだ。</p> <p>時はけして巻き戻ったりしない。それは何より残酷な事実だ。</p> <p>しかし、それは同時に勇気を持って今を生きることの可能性でもあるのではないだろうか。</p> <p>大人からの暴力の経験を語る人が目の前にいた際、もしその人がその言葉を必要とするなら、私たちが自信をもって言えることが一つだけある。</p> <p>それは「君は永遠にそいつらより若い」ということだ。</p> <h5 id="31補足">3.1【補足】</h5> <p><span style="font-size: 80%;">※小説の紹介となるとそれらしくまとめなくてはならないという意識もあり物語の解釈に関しては断定口調で書いたのであるが、もちろんのことは私がここで書いた解釈はあくまで一つの解釈であることはここに付言しておきたい(ので、みんな買って読むといいと思います)。</span></p> <h4 id="4関連図書">4.【関連図書】</h4> <div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480426124/kyotaro442304-22/"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/511hljdM4RL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)" title="君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480426124/kyotaro442304-22/">君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C5%C2%BC%20%B5%AD%B5%D7%BB%D2" class="keyword">津村 記久子</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2009/05/11</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> (↑映画版にはカバキ(河北)が出てこないそうなので、ここでの紹介とかなり違った作品になるのではないだろうか。)</p> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622050315/kyotaro442304-22/"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/41732TR1Z2L._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)" title="サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622050315/kyotaro442304-22/">サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/G.C.%20%A5%B9%A5%D4%A5%F4%A5%A1%A5%AF" class="keyword">G.C. スピヴァク</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 1998/12/11</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本(ソフトカバー)</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> (↑言われている通り、かなり訳が悪い。早く新しい訳が出ることを期待したい)</p> tatsumi_kyotaro 論点のすり替えに騙されない論点整理の方法 hatenablog://entry/26006613704432120 2021-03-17T19:20:09+09:00 2022-05-07T10:18:57+09:00 0.はじめに 1.論点のすり替えとは何か 2.言葉を都合よく言い換える。 3.言葉を対比させて論理をすり替える。 4.論理のすり替えが許される時 5.【参考文献】 0.はじめに この記事では、議論で相手に巧(うま)く言い返せず悔しい思いをしたことのある人向けに、巧(うま)く言い返す技術について説明したい。 議論で相手に騙されているような気がしても巧(うま)く言い返せずモヤモヤとした気持ちを抱えてしまうことは誰しも一度くらいあるのではないか。 そういう場合は、論点がすり替わっていることが少なくない。 逆に言えば、論点のすり替えにさえ注意すれば巧(うま)く言い返せなくて悔しい思いをすることも少なく… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#0はじめに">0.はじめに</a></li> <li><a href="#1論点のすり替えとは何か"> 1.論点のすり替えとは何か</a></li> <li><a href="#2言葉を都合よく言い換える">2.言葉を都合よく言い換える。</a></li> <li><a href="#3言葉を対比させて論理をすり替える">3.言葉を対比させて論理をすり替える。</a></li> <li><a href="#4論理のすり替えが許される時">4.論理のすり替えが許される時</a></li> <li><a href="#5参考文献">5.【参考文献】</a></li> </ul> <h4 id="0はじめに">0.はじめに</h4> <p>この記事では、議論で相手に<ruby><rb>巧</rb><rp>(</rp><rt>うま</rt><rp>)</rp></ruby>く言い返せず悔しい思いをしたことのある人向けに、<ruby><rb>巧</rb><rp>(</rp><rt>うま</rt><rp>)</rp></ruby>く言い返す技術について説明したい。</p> <p>議論で相手に騙されているような気がしても<ruby><rb>巧</rb><rp>(</rp><rt>うま</rt><rp>)</rp></ruby>く言い返せずモヤモヤとした気持ちを抱えてしまうことは誰しも一度くらいあるのではないか。</p> <p>そういう場合は、論点がすり替わっていることが少なくない。</p> <p><strong>逆に言えば</strong>、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>にさえ注意すれば<ruby><rb>巧</rb><rp>(</rp><rt>うま</rt><rp>)</rp></ruby>く言い返せなくて悔しい思いをすることも少なくなると言える。</p> <p>また、よくある勘違いだが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>が必ずしも悪とは言えないことについてももちろん説明していくつもりだ。</p> <h4 id="1論点のすり替えとは何か"> 1.<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>とは何か</h4> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>とは、例えば次のようなものだ。</p> <p> </p> <p>・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>が見つかった学生の「自分はたまたま見つかっただけで他にもやってる人がいる。世の中は不公平だ」という反論</p> <p>・セクハラの告発に対して「そうやって性欲に厳しいから<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%AF%BB%D2%B2%BD">少子化</a>になるんだ」という反論</p> <p>・日本にある差別に抗議する人に対して「日本が嫌なら出ていけばいい」という反論</p> <p> </p> <p>論点がすり替えの何が問題かと言うと、議論が本来の方向からズレていき自分が言うべきでないことを言ってしまったり、相手に反論できなくなってしまったりということが起こることだ。</p> <p>実際に論点をすり替えるとはどういうことか、というのを簡単に例を見ていきながら考えたい。</p> <p>例えば、国民の生活負担が問題になり政府が10万円の給付金を国民に支給することを決定した時、次のような議論が起こった<span style="font-size: 80%;">(実際とは少し違うがほとんど同じ内容の議論)</span>。</p> <p> </p> <p>【意見1】「生活負担を考えたら10万円の給付金では根本的な解決にならない。こんなものは国民の不満を抑え込むためのものでしかない。政府を批判することは国民の権利なのだからみんなもっと声を上げるべきだ」</p> <p>【反論1】「中身のない批判なら小学生でも言える。どうせ文句を言いながら給付金の10万円はしっかり受け取るんだろう。お前は文句を言うだけだ。本当に抗議がしたいなら給付金10万円ももらわず叩き返くらいしろ」</p> <p> </p> <p>【反論1】が論点をすり替えているというのは比較的簡単に分かるだろう。</p> <p>しかしここで反論された側が「政府に文句を言いながら10万円もらって何が悪い」と言い出すとまんまと相手の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>に乗っかってしまうことになる。</p> <p>どこが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>か確認しよう。</p> <p>【意見1】の論点は「国民の生活負担を考えた時、10万円の給付金が根本的な解決に繋がるかどうか?」という点にある。</p> <p>それに対して【 反論1】の持ち出している論点は「何もせず文句を言いながらお金を受け取るのは変ではないか?」という点だ。</p> <p>「国民の生活負担を考えた時、10万円の給付金が根本的な解決に繋がるかどうか?」という論点と「何もせず文句を言いながらお金を受け取るのは変ではないか?」という論点では議論がまるで違う。</p> <p>【意見1】は、生活負担を考えた時に10万円の給付金では解決にならないと批判しているのであって、10万円を受け取ることに理由もなく文句を言っているわけではない。</p> <p>もっと細かく見ていくと、【反論1】はかなり恣意的な「言い換え」をして論点を逸らしていることが分かる。</p> <p>まず生活負担を軽減するという目的で支給される給付金を、まるでありがたく受け取るべきお金のように言い換えている。</p> <p>その次に、もっと根本的な解決策を考えるべきという政府への批判しているのを、何もしていない人が何も悪くない人に対して文句を言っていると言い変えている。</p> <p>最後に、【意見1】の主張の目的を、政策をもっと充実したものにするためというところから、政府自体への抗議が目的であるかのように言い換えている。</p> <p>このように言い換えることで、【意見1】の主張が何も悪くない人たちに対する何もしない人間の文句であるかのように書いているのだ。 </p> <p>以上の点を踏まえると、実際にどういう反論がありえるかというと例えば次のように再反論することができるだろう。</p> <p> </p> <p>「私は10万円の給付金が根本的な解決に繋がらないと思うから批判をしてるのであって、ただ文句を言いたいから理由なく政府に文句を言っているわけではない。</p> <p>給付金の配布が根本的な解決に繋がるのであれば私はこんなことを言わないだろうし、仮に給付金10万円を返してもっと充実した政策が取られるのならその方が良いと思う。</p> <p>ただ、もしこのまま給付金が支給されることになったなら、それでは十分ではないと思うけど、ないよりははるかにマシなのだから私は受け取るだろう。それの一体何が問題なのか?」</p> <p> </p> <p>議論に使われる言葉を上手く言い換えることで論点をすり替える(変形させる)のはよくあることだ。もちろん、故意ではなく単に取り違えてしまうこともあるだろう。</p> <p>一応の注意点として、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>と言えるかどうかは、その二つの問題が同じ一つの問題として語れるかどうかによって変わる。</p> <p>そのため、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>と言えるかどうかに絶対的な基準があるわけではない。</p> <p>それはその場で話し合っている当人たちの認識に拠ってくる。</p> <p>だから見方によっては、先ほどの例でも論点がすり替わっていると感じない人もいるだろうし、私はあくまで論点がすり替えられている可能性を示唆したに過ぎない。</p> <p>もちろん、言葉の受け取り方と解釈が人それぞれだからといって<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>は存在しないことにはならないのでそれは念頭に置くべきだ。</p> <p> </p> <h4 id="2言葉を都合よく言い換える">2.言葉を都合よく言い換える。</h4> <p>「ものは言いよう」というのは古くからある言葉だが、表現の仕方、言葉の選び方で論点をすり替えられることがある。特に、相手に問いを投げる反論方法と組み合わせられるとかなり厄介だ。</p> <p>ある男女夫婦の家庭で、男性はプラモデルやフィギュア集めが趣味で、それまでにかなりの額を費やしていて、置く場所も自室では足りないため物置部屋一つを置き場所として使っていたとしよう。</p> <p>そしてある日、次のような場面になる。</p> <p> </p> <p>女性「費やす費用と場所をもう少し考えて欲しい。お金も場所もタダじゃないんだから」</p> <p>男性「君は私の趣味を受け入れてはくれないのかい? 受け入れられないというのなら仕方がないが……」</p> <p> </p> <p>ここで少し考える必要があるのは「受け入れる」という言葉についてだ。</p> <p>受け入れるという表現だと、受け入れるのが普通のことで、受け入れない側に問題があるような印象になる。</p> <p>相手の趣味を受け入れないというと、相手の趣味の拒絶であるかのようなニュアンスになるからだ。</p> <p>しかし、「受け入れる」と表現されているものの実態は、少なくない金額のお金と、部屋一つを使って同居人に負担を与えてしまっていることだ。女性側はあくまでその負担があることを理解し考えて欲しいと言っているだけなので、趣味を受け入れるかどうかと聞くのは話の範囲と規模を広げすぎている。</p> <p>負担があることを考慮して自制して欲しいという話であって、趣味そのものが受け入れらないという話をしているわけではない。</p> <p>こうやって、相手に問いかけて反論する方法は、相手に問いかける言葉を好きに選ぶことができるために、論点をずらせてしまうのだ。これに関しては<a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2021/02/07/185832">前回の記事</a>でも触れた通りだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">この例では「負担を我慢することが妥当かどうか」という論点が「趣味を受け入れるか否か」という論点にすり替えられている。</span></p> <p>相手の問いに使われている言葉のチョイスにも注意を払い、相手がなぜその言葉を選んだのか、本当にその言葉で表現するのが妥当かを確認することが大切だ。</p> <p> </p> <h4 id="3言葉を対比させて論理をすり替える">3.言葉を対比させて論理をすり替える。</h4> <p>さて、都合よく言葉を言い換えることで論点をすり替えるパターンをもう少し見ていこう。</p> <p> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%BD%A8%BF%AE">香西秀信</a>の『レトリックと詭弁』から、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>の現場を発見して問い詰める教師と開き直る生徒が議論する場面を例として挙げよう。この例自体は池井望と西川富雄共著の『<a href="https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN13096948">大学よどこへいく</a>』からの抜粋である。</p> <blockquote> <p>もっとも、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>を押さえられながら、</p> <p>「他にもやっている人がある。要領よくやっているのが得をして、たまたま見つかったものが損をするのですか」。</p> <p> と開きなおってくるような学生もある。こういう学生に接するときほど不愉快なことはない。</p> <p>「他にやっているというが、見たことがあるかね。噂しているほど、実際はやっていないと思う。かりに、監督の眼をのがれてうまくやった者があるからといって、君自身の責任がまぬがれるわけではない」。</p> <p>「世間でも、結局、要領のよいのが得をしているのではありませんか」。</p> <p>「たしかにそんなこともあろう。選挙違反にしても、贈<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%FD%CF%C5">収賄</a><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B1%F8%BF%A6">汚職</a>にしても、なんだか、たまたまあがったものが運が悪いんだ、といったように世間では受け取られがちである。(中略)しかし、そういう者は結局は、社会や、大きくいえば歴史の裁きを受けて、敗北していくではないか。(中略)大部分が真面目に勉強して、自分の力に応じて受験しているのに、一、二の者がズルく立ち廻るようなことは許されない」。</p> <p> といった工合で、器用に法の網をくぐっていくものの多い大人の社会の悪習に眼を付ける学生には、こちらの反論もまことに苦しくなる。エライ人がうまく要領を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%DE%A4%B7">かまし</a>、下っ端が不器用にあげらえていくという世間の実情があるからである。</p> </blockquote> <p>さて、よく見ると学生側が明らかに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>を行っているのが分かる。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>行為が見つかった生徒側は、他にもやっている人がいるのに自分だけが責められていることを問題にして、<strong>結局は大学も世間と同じで要領よくやっている人間が得をして、たまたま見つかったものが損をするのか</strong>と教師側に問いつめている。<a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2021/02/07/185832">前回</a>見た通り、質問の形にすることで有効に反論するという技術を学生側は使っているわけだ。</p> <p>教師側は最悪なことに「たしかにそんなこともあろう」と学生の言い分を一部認めてしまっているが、この場合どのように反論すべきだったのだろうか。</p> <p>まず、生徒側の反論のどこが巧妙だったのかについて香西氏の解説から見ていこう。</p> <blockquote> <p>彼は、「他にもやっている人がある。要領よくやっているのが得をして、たまたま見つかったものが損をするのですか」と問いかけてきました。が、これに対して、われわれは、「はい」とも「いいえ」とも答えることができません。もし「はい」と答えたら、同じ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>という行為をしていながら、たまたま発見した者だけを罰することを不公平だと認めたことになる。逆に、「いいえ」と答えたら、そのような不公平を避けるため、たまたま発見した者だけを罰することはできないということになる。</p> <p> つまり、どちらで答えても、そのまま相手の術中に陥る道筋があらかじめひかれているのです。</p> <p>『レトリックと詭弁』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%BD%A8%BF%AE">香西秀信</a>(p32)</p> </blockquote> <p>「他にもやっている人がある。要領よくやっているのが得をして、たまたま見つかったものが損をするのですか」という問いは、「はい」と答えたら大学も結局は世間と同じで要領が良くてズルい人間が得をする場所だと認めることになる。</p> <p>これは教師としては認めづらいことだ。</p> <p>かといって「いいえ」と答えれば、教師側がこの学生を罰することに正当性がなくなってしまう。</p> <p>では、どうすればいいかというと、<span style="color: #1464b3;">やはりこの学生の質問自体が答えるに値する正当な問いではないことを暴くしかない</span>。</p> <p>学生側の問いが巧妙なのは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>方にある。</p> <p>彼は、語句をうまく対比させることで論点をすり替えている。</p> <p>学生側の論理では「要領よくやっている者」と「たまたま見つかった者」が反対の存在として対比されているが、<strong>そもそもこの対比は正しい対比だろうか</strong>。</p> <p><span style="color: #1464b3;">「要領よくやっている者」と「たまたま見つかった者」が対比されるなら、「たまたま見つかった者」は要領がよくないことになるが、「たまたま見つかった者」は本当に要領よくやっていないのだろうか?</span></p> <blockquote> <p> こうしてみると、学生の問いの詐術があらわになります。</p> <p>「要領よくやっている者」と「たまたま見つかった者」が対比されているため、「たまたま見つかった者」は要領がよくないように錯覚されますが、もちろん実際はそうではありません。試験勉強をせずに、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>で好成績を得ようとする者はそもそも「要領よくやっている者」なのです。「要領よく」やろうとして、この場合は失敗しただけのことです。この学生は、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>をして見つからなかった者」を「要領よくやっている者」と表現することで、自分を「要領よくやっている者」の類から外し、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>という行為に伴う「狡さ」のイメージを、少なくとも自分についてだけは消し去ろうとしているのです。</p> <p>さらに、「得をする」「損をする」という対比もおかしい。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>をして見つからず、労せずして好成績を得ることを「得をする」と表現するのは可能かもしれませんが、「損をする」の場合はそうはいきません。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>を発見された者が、学則に従って処罰されるのは当然の報いであって、別に「損をする」わけではないからです。罪を犯して刑罰を受けるのを「損をする」と表現するでしょうか。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480427082/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51T7l8MkY6L.jpg" alt="レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480427082/kyotaro442304-22/">レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%20%BD%A8%BF%AE">香西 秀信</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2010/05/10</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>『レトリックと詭弁』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%BD%A8%BF%AE">香西秀信</a>(p33)</p> </blockquote> <p> </p> <p>学生側は「要領よくやっている者」と「たまたま見つかった者」を対比することで、「たまたま見つかった」自分をまるで要領がよくない人間のように見せかけているが、<span style="color: #1464b3;">そもそも<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>をしようとしている時点で、彼も「要領よくやっている者」なのだ。</span></p> <p>香西が言う通り、この場合彼は「要領よく」やろうとして、たまたまそれが露呈したに過ぎない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">さらに言えば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>が見つかった人間は「損をする」のではなく、正当な処罰を受けているだけなので、学生側の問いかけは二重で誤りだと言わざるを得ない。</span></p> <p>学生側は「他にもやっている人間がいるのに、たまたま<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>が見つかった者だけが処罰されるのか?」という答えるに値しない、いちゃもんのような論点を「大学でも、要領よくやっているのが得をして、要領がよくない人間が損をするのか?」という(この教師にとっては)挑発的な論点に偽装してすり替えているというわけだ。</p> <p>教師側がこの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>に引っ掛かり、妙に言い訳じみた大学擁護をしてしまったのは、学生の問いに含まれた大学への挑発、つまり「結局大学も世間一般と同じで正当な評価がされる場所ではない」というメッセージに思い当たるフシがあったからだと思われる。</p> <p>この例のように、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>をやって見つからなかった方<strong>だけ</strong>を「要領よくやっている者」と表現したり、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>が「たまたま見つかった」ことを「損をする」と表現したりすることのおかしさに気が付けないと論点をすり替えられてしまう(この例では本来論点にすらならないような愚問を別の論点にすり替えている)。</p> <p>ある行為や出来事に対して、<span style="color: #1464b3;">どのような言葉が選ばれ、どのように表現されているのか</span>に注意しなければ、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>をみすみす見逃すことになるのだ。</p> <p> </p> <h4 id="4論理のすり替えが許される時">4.論理のすり替えが許される時</h4> <p>いろいろと見てきたが、<span style="color: #1464b3;">結局のところ論理のすり替えがダメなのは今話すべきことじゃないことへ話の本筋を変えてしまうからだ</span>。</p> <p>この記事で挙げた例はいずれも、本筋から議論を逸らすことで相手の反論を封じるという手法としての<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>だった。</p> <p>こういう<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>に引っ掛からないためには、以下三つを注意すればいい。</p> <p> </p> <p>・今自分は何を論点にしているのか?(給付金の例)</p> <p>・相手が選んだ言葉は論点に対して正しい表現なのか?(男女夫婦の例)</p> <p>・相手の言葉の対比関係は正しいのか?(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%F3%A5%CB%A5%F3%A5%B0">カンニング</a>学生の例)</p> <p> </p> <p>ここまでが今回のまとめだ。</p> <p><strong>付け加えておきたいのは、論理のすり替えであっても一概にダメと言えないものが存在することだ。</strong></p> <p>それは、<span style="color: #1464b3;">すり替えられた先の論点の方が重要で、優先的に話し合うべきものだった場合</span>だ。</p> <p>たとえば遅刻常習犯で遅刻しても謝りもしないAさんが、Bさんがたまたま遅刻したことについて責めているとしよう。</p> <p> </p> <div>A「10分も人を待たせて悪いと思わないのか?」</div> <div>B「お前だってよく遅刻する癖にこういう時ばっかり他人のこと責めるなよ」</div> <div>A「それは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>だ。俺がよく遅刻をしているからと言って、お前の遅刻が悪くないことにはならない。俺が遅刻することとお前が遅刻が責められるべきかは関係がない」</div> <div> </div> <div><strong><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C5%C0%A4%CE%A4%B9%A4%EA%C2%D8%A4%A8">論点のすり替え</a>という観点からいくと、正しいのはAだ。</strong></div> <div>Aの言う通り、Bの言ってることは「お前だって論法(Tu quoque)」と呼ばれるもので、古い論理学では詭弁とされるものだ。</div> <div>だが、これには納得がいかない人も多いだろう。</div> <div><span style="color: #1464b3;">事実、Bが言いたいのは「お前に言われたくない」ということであり、自分の遅刻は謝りもしないのに他人の遅刻となるとネチネチと責めるAの不公平な態度を問題にするものだからだ。</span></div> <div>つまり、Bの発言はAの言ってること(発話内容)を問題視しているのではなく、遅刻常習犯のAが人の遅刻をとやかく言うこと(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%AF%CF%C3%B9%D4%B0%D9">発話行為</a>)を問題視してる。</div> <div>重要なのは、「Bの遅刻は責められるべきか?」ということと「自分のことを棚に上げて他人を責めて良いのか?」ということのどちらが優先されるべきかだ。ちなみに私だったら後者と言いたい。</div> <div> </div> <div>注意点をさらったところで、今回はここまでにしたい。次回は相手を説得する方法について触れていきたい。</div> <div> </div> <div>【前回記事】</div> <div> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F12%2F31%2F234424" title="議論が苦手な人のための議論の方法 - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/12/31/234424">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> </div> <div>【次回記事】</div> <div>やる気次第</div> <div> </div> <h4 id="5参考文献">5.【参考文献】</h4> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480427082/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51T7l8MkY6L.jpg" alt="レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480427082/kyotaro442304-22/">レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%20%BD%A8%BF%AE">香西 秀信</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2010/05/10</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>(前回に引き続き、捻くれた著者の一面が見える文章をあとがきより抜粋)</p> <blockquote> <p> この世の、全ての手品の種明かしをしたら、何人も手品など使えなくなる。少なくとも、誰もその手品を不思議とも思わず、関心もしない。同様に、この世のありとあらゆる説得的言論を解剖し、それが論法、議論術として機能する秘密を暴いてみせたら、誰もが議論をするにはなはだ難儀するようになります。どんな手を用いても、相手にはすでにすでにその手の内が知られているのですから。こうして、ついに誰も議論などできない世の中になったら、どんなに清々することでしょう。</p> </blockquote> tatsumi_kyotaro 詭弁で論破されない方法 hatenablog://entry/26006613664591309 2021-02-07T18:58:32+09:00 2022-12-17T12:20:17+09:00 0.はじめに 1.身を守るための議論力 2.問いは議論を制す~レトリックと詭弁その1~ 3. 問いは議論を制す~レトリックと詭弁その2~ 4.【引用文献と重要な余談】 0.はじめに この記事は、議論でやたらと論破しようとしてくる相手に困った経験がある人向けに、そういう人に論破されないための技術を説明するものだ。 また、私が提案したいのは相手を論破し議論に勝つ方法論ではなく、議論に負けない方法論だ。 本当にそんなものが必要なのかと思う人も、この記事を読めばどうして議論力が必要なのか理解できるかもしれない。 1.身を守るための議論力 端的に言って、有意義な議論に必要なのは論破力などではない。 特に… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#0はじめに">0.はじめに</a></li> <li><a href="#1身を守るための議論力">1.身を守るための議論力</a></li> <li><a href="#2問いは議論を制すレトリックと詭弁その1">2.問いは議論を制す~レトリックと詭弁その1~</a></li> <li><a href="#3-問いは議論を制すレトリックと詭弁その2">3. 問いは議論を制す~レトリックと詭弁その2~</a></li> <li><a href="#4引用文献と重要な余談"> 4.【引用文献と重要な余談】</a></li> </ul> <h4 id="0はじめに">0.はじめに</h4> <p>この記事は、議論でやたらと論破しようとしてくる相手に困った経験がある人向けに、そういう人に論破されないための技術を説明するものだ。</p> <p>また、私が提案したいのは相手を論破し議論に勝つ方法論ではなく、議論に負けない方法論だ。</p> <p>本当にそんなものが必要なのかと思う人も、この記事を読めばどうして議論力が必要なのか理解できるかもしれない。</p> <h4 id="1身を守るための議論力">1.身を守るための議論力</h4> <p>端的に言って、有意義な議論に必要なのは論破力などではない。</p> <p>特に、気に入らない相手に言い負かされて悔しい経験があると、つい相手を黙らせたくて論破力を身に着けようとしてしまう人が出てくるがそれでは意味がない。</p> <p>それでは気に入らない相手を論破して黙らせる快感に囚われる人間を無駄に増やすだけだからだ。詳しくは前々回で書いている通りだ。</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="論破バカな人々~不毛で無意味な議論を避けるために~ - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F12%2F27%2F122601" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/12/27/122601">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p> </p> <p>言い負かされて悔しい経験は誰でもあるだろうが、そこで必要なのはやり返すための論破力ではなく、論破してくる相手から身を守る術である。</p> <p>そこで今回は、論破したがりな人がいた時に最低限意識すべきことについてまとめたい。</p> <p>さて、護身で一番重要なのは、相手の攻撃パターンを知っておくことだ。攻撃パターンが分からなければ適切な自衛をすることも出来ないからだ。</p> <p>では、議論で相手を打ち負かそうとする人間はどういう手口を使うだろうか。</p> <p>早速整理していこう。</p> <p>単純に考えて、論破に拘る人間の目的は議論の勝利だ。</p> <p>どちらが勝利したかは議論を見ている第<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%B0%BC%D4">三者</a>が決めてしまう。</p> <p>勿論、人によってどちらが勝ったかは意見が分かれるかもしれないが、だいたいは負け惜しみを言ってるか何も言えず反論できない側が負けとされる。</p> <p>この時、悲しいことに個々の主張の論理的な整合性はみんなそこまで見ていない。単純に、相手の意見に反論できなかったと思われたら負けなのだ(無論それが望ましいかどうかはまた別の問題)。</p> <p>負けたと見做された方も、その場では思いつかなかったが後になってよく考えれば反論できるようなことだったというのがほとんどだと思うが、どのような回答をするのが望ましいのか瞬時に判断できない状況というものは存在する。</p> <p>逆に言えば、そうした答えに詰まる状況に相手を追い込むことが出来れば、相手の敗北の確率を高めることができる。同時に、それは自分が常に容易に反論できるような状況、つまり自分が負けにくい状況でもある。</p> <p>自分が簡単に反論できて、尚且つ相手が答えに窮するような状況を作るには、相手に言いたいことを上手く言わせないようにすればいい。</p> <p><strong>もっと簡単に言ってしまうと、相手を罠に嵌めて簡単に反論できるような間違った主張をさせればいい。</strong></p> <p>では、どのようにすればそんなことが可能になるのだろうか。</p> <h4 id="2問いは議論を制すレトリックと詭弁その1">2.問いは議論を制す~レトリックと詭弁その1~</h4> <p>相手を誘導して罠に嵌める上で一番簡単でメジャーな方法は相手が答えに困るであろう問いを投げかけることである。</p> <p>議論においては、問題の要点を明らかにするためではなく、相手を黙らせ、相手の信用を失墜させるための問いというものが存在する。</p> <p><span style="color: #1464b3;">相手が上手く答えることができないと予測したうえで問いを投げかけることで、相手の議論が貧弱であることを露呈させる問いだ。</span></p> <p>「問いは議論を制す」と言う人もいるほど相手が答えに困るであろう問いを投げることはよくある戦術なのだ。</p> <p>具体的な例を見ていこう。</p> <p>まずは、比較的見破りやすい(罠にかかりにくい)簡単な例を香西の本から引用したい。</p> <blockquote> <p>例えば、次の問いを見てみましょう。</p> <p>「君は、Kの、あのくだらない議論術の本を読んだのかい?」</p> <p> この問いは、「はい」か「いいえ」のどちらかで答えることを要求します。そして、答える側は「はい」と答えても「いいえ」と答えても、Kの本が下らないことを認めたことにされてしまうのです。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480427082/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51T7l8MkY6L.jpg" alt="レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480427082/kyotaro442304-22/">レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%20%BD%A8%BF%AE">香西 秀信</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2010/05/10</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>『レトリックと詭弁』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%BD%A8%BF%AE">香西秀信</a>(P94)</p> </blockquote> <p>「君は、Kの、あのくだらない議論術の本を読んだのかい?」という質問は、形式上はKの本を読んだか読んでいないかどちらかを聞いている。</p> <p>言い換えると、直接の論点は「Kのあのくだらない本を読んだのかどうか」というところにある。</p> <p>しかしこれを素直に答えてはイ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%B9">エス</a>でもノーでも、前提としてKの本がくだらないことを認めてしまうことになる。そこまでは分かりやすいだろう。</p> <p><strong>問題は、どう応答するのかにある。</strong></p> <p>仮に、Kの本が下らなくないと思った場合、あなたならどう反論するだろうか。</p> <p>もしここで、「Kの本はくだらなくない」と言い返してしまうと相手の罠にまんまと嵌まることになる。</p> <p>相手は即座に「じゃあKの本がどうして下らなくないのか説明してみろ」とこちらを問い詰めるだろうからだ。</p> <blockquote> <p>もし彼が、「私はKの本が下らないとは思いません」などと答えたら、彼にとっては最悪の結果となります。そう答えることによって、彼には、Kの本が下らなくない理由を説明する責任が生じてしまうからです。相手は、その説明に対し、いろいろとけちをつけ、揚げ足を取ってくるでしょう。議論においては、攻めるより守る方がはるかに難しい。</p> <p>『レトリックと詭弁』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%BD%A8%BF%AE">香西秀信</a>(P94, 95)</p> </blockquote> <p>Kの本が下らなくない理由を説明している間、相手は説明が少しでも甘ければ容赦なく攻撃できる。一方で相手は説明を聞く側なのだから攻撃を受けることはない。</p> <p>議論において何かを説明することは、相手が攻撃できる隙をみすみす作ってしまうことでもある。香西が「議論においては、攻めるより守る方がはるかに難しい」と言うのはそのためだ。</p> <p>無論、だからといって必要な説明をしないでいい理由にはならない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">あくまで自分がわざわざ説明しなくていいことを説明する必要はない</span>ということだ。</p> <p>この場合は、こちらがKの本が下らなくない理由を説明するべきなのではなく、相手がKの本が下らない理由を説明すべきだろう。</p> <p><span style="color: #1464b3;">「君は、Kの、あのくだらない議論術の本を読んだのかい?」という質問は「そもそもKの本はくだらないのか?」という論点について説明をせず、「Kの本はくだらない」ことを前提としてしまっている。</span></p> <p><strong>すなわち、相手は「Kの本はそもそも下らないのか?」という論点を飛ばして「君は、Kの、あの下らない議論術の本を読んだのかい?」と質問をしているのだ。</strong></p> <p>言い換えれば、質問をすることで本来確認すべき論点を自分が提示した論点の前提に隠してしまっている。</p> <p>勿論、「君はKの本を下らないと思っているようだが、まずどこが下らないのか君なりに説明すべきだろう」と言い返すとすると、質問には答えてはいないわけだが、議論の場であれば引っかけのような質問に馬鹿正直に答えるわけにはいかない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">この場合は質問に答えていないというより、本来議論すべき論点に戻しているだけなのだ。</span></p> <p>この例は簡単なので引っ掛かる人は少ないだろうが、相手に問いを投げかけることで論点を操作するというのは基本的にこういうことだと思ってもらえればいい。</p> <p>このように、問いの中には無防備に何も考えず答えてしまうと、その問いで前提となっていることを無批判に認めることになるので答える上で注意が必要だ。</p> <p><strong>先ほどの例は、問いの前提にすでに結論が紛れ込んでいてその結論が論証不足な場合と言えるだろう。</strong></p> <p>上の例はあまりに簡単なので引っ掛かる人は少ないと思うが、こうやって問いの形で主張することで論点を限定して相手を誘導することもできる。</p> <p>そもそも論点とは、議論の中心となる問題点のことだ。</p> <p>議論で求められる結論とはごく単純に言って問題点に対する回答である以上、問題点は回答を求めるための問いの形式でもある。</p> <p>単純な事実として論点は疑問文の形式で表現可能なものである。</p> <p>たとえば環境問題についての議論であれば、「環境問題の為に我々が何ができるのか?」という問いは議論の論点になりうるだろう。</p> <p>だからこそ、議論の中で問いを投げかけることは議論に新たな論点を出現させることにもなるのだ。</p> <p>議論を進めていく中で今まで話し合っていた問題点とは別の新たな問題点(問い)が出てきて、論点がそこに移っていくことは珍しくない。</p> <p>問題はそれが議論が深められた結果なのか、ただ誰かが議論を混乱させた結果なのかということだ。</p> <p>優先して議論すべき論点へと移ったのか、それとも誰かが論点をすり替え(あるいは取り違え)たのかというのはある程度区別されなければならない。</p> <p>そして、今回取り上げている議論術としての問いは後者の方だ。</p> <p>問いによる議論の論点の誘導に惑わされないためには、自分が今どのような論点で議論しているのか常に把握しておく必要がある。</p> <p>論点が分からなくなった時は、相手が何を問題にしていて、自分が何を問題にしているのかを問いの形式、つまり疑問文に変換して考えてもよいかもしれない。</p> <p> </p> <h4 id="3-問いは議論を制すレトリックと詭弁その2">3. 問いは議論を制す~レトリックと詭弁その2~</h4> <p>さて、練習ついでに例をもう一つ上げたい。</p> <p>たとえば、差別発言などの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>について、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>を擁護する側から次のような主張があったとしよう。</p> <p>この場合、どこに罠があるだろうか。</p> <p> </p> <p><em>”<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>がどんなに悪いものだとしても、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>を排除せず<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>として尊重すべきだ。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>を守るなら、どんな言論や表現も排除せず寛容に受け入れ、あらゆる表現を認めなければならない。たとえそれが有害な表現であってもだ。そうでないと、理由さえあれば言論を弾圧して排除していいことになる。そうなれば国家がそれらしい理由を口実にして表現を規制することも批判できなくなっていき、やがて私たちはすべての<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>を奪われることになるだろう。国家による検閲や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%B5%AC%C0%A9">表現規制</a>を肯定すべきと考える人はいるだろうか? ”</em></p> <p> </p> <p>まず先に言うと、国家による検閲や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%B5%AC%C0%A9">表現規制</a>を肯定して<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>が奪われてよいと考える人はそうそういないだろう。</p> <p>しかしそれをそのまま答えてしまうと、相手の持ち出した「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>を排除せず<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>として尊重すべき」という主張をそのまま肯定することになる。</p> <p><strong>この質問文は片方に選びにくい選択肢(「検閲や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%B5%AC%C0%A9">表現規制</a>を肯定して</strong><strong>すべての<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>を奪われる」)を置いて、もう片方(「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>を排除せず<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>として尊重する」)を選ばせるよう誘導している。</strong></p> <p>このように問いの中に二つ以上の選択肢があり、特定の選択に誘導するようなものに対しては二つの対処法がある。</p> <p>まず一つ目は、その選択肢を選んだら必ず相手が言うような結果とは限らないのではないかという点を指摘することだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">すなわち論理の飛躍の指摘することだ。</span></p> <p>勿論これも自分から「なぜそうなるとは限らないと言えるか」について説明するのではなく、相手の説明を聞く方が先となる。</p> <p>この主張は「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>を排除せず<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>として尊重しなければ国家による検閲や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%B5%AC%C0%A9">表現規制</a>を許し<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>を守らないことになるのか?」という論点に対して十分な説明をしていない。</p> <p><strong>つまり、問いの中の論理に飛躍が隠れているのだ。</strong></p> <p>この質問では、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>にも寛容でなければ国家による検閲や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%B5%AC%C0%A9">表現規制</a>を許すことになることが前提とされているが果たしてそれは正しいのかというのは吟味が必要ではないだろうか。</p> <p>国家による検閲や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%B5%AC%C0%A9">表現規制</a>を許すべきではないという論理と、だから<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>も排除せず<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>として尊重すべきだという論理の間に飛躍があると考える人はいるだろう。</p> <p><span style="color: #1464b3;">例えば、</span><span style="color: #1464b3;"><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>を含む有害な言説の自由に一定の制限を設けたとしても、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>そのものを否定したことにはならないし、</span><span style="color: #1464b3;">国家による検閲や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%B5%AC%C0%A9">表現規制</a>を肯定することにはならない</span>という方向での反論もあり得るのではないだろうか</p> <p>(<span style="font-size: 80%;"> 例:『<a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622078732/kyotaro442304-22/">ヘイト・スピーチという危害</a>』ジェ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EC%A5%DF%A1%BC">レミー</a>・ウォルドロン</span>)。</p> <p>現に、侮辱罪や名誉棄損など表現行為に対する一定の制限は既に存在している。</p> <p>二つ目の対処法は選択肢が二つだけでいないことを提示することだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">質問文では、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>を野放しにするか国家による規制かの二択しかない。</span></p> <p>しかし、国家による規制という形でなくとも、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>を撤退させる選択肢は他に存在する。</p> <p>市民団体を作って対抗したり、差別に対する抗議活動や社会運動を展開しやすい環境を作ったり、学校教育で差別について学ばせるようにするなどして<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>に対する厳しい姿勢をもっと徹底すべきだという方向の主張がそうだろう。</p> <p>また、制度による規制と一口にいっても様々な種類や方法の規制がある。</p> <p>そこには当然程度の問題もあるはずだ。</p> <p>その規制の方法や程度によっては<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>とバランスを取った形での規制もあり得るかもしれない</p> <p><span style="font-size: 80%;">(例:『<a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4750339504/kyotaro442304-22/">ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか</a>』エリック・ブライシュ)</span>。</p> <p>二つ以上の選択肢から何かを選ばせようとする誘導に対しては、「それぞれの選択肢の論理に飛躍がないかどうか」と「他に選択肢はないのか、そこに程度の問題は存在しないのか」という点に注意すれば少なくとも無防備にひっかかることはないだろう。</p> <p>さて、ここまでの例ではそこまでひっかかる人はいないと思うが、議論において問いがなぜ強力な武器になりえるかについてはなんとなく説明できたのではないかと思う。</p> <p>問いが強力な戦術になりうるのは、問いを作る者が問い(論点)を構成する言葉を自由に選べるからだ。</p> <blockquote> <p>「問いを自分でつくることができる」とは、問いを構成する言葉を自分で選ぶことができるということです。答える側は、こうして選ばれた言葉に合わせて、その問いに答えなくてはなりません。この事情が、議論の中で、問う側を格段に有利にしてしまうのです。</p> <p>『レトリックと詭弁』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%BD%A8%BF%AE">香西秀信</a>(P20)</p> </blockquote> <p>相手の問いに無防備に答えてしまうと、相手の問い(論点)の妥当性を認めたということになってしまう。</p> <p><span style="color: #1464b3;">相手の問いが不当な問いなのであれば、問いに答える(answer)のではなく、言い返す(retort)ことで相手の問いの妥当性あるいは、その問いを投げる行為自体を問題にしなければならない。</span></p> <p>勿論、何が論理の飛躍だと感じるのかと同様に、何が優先されるべき論点だと考えるかは個々人の主観に依存するためそこでまた議論が起こることもあり得る。</p> <p>論点がズレていくのが議論というものであるし、ズレていく中でより重要な論点が現れることもある。</p> <p>とは言え、有意義に進める上ではやはりある程度は論点を合わせる必要があるし、何を論点とすべきかで混乱が起きたとしても、自分が今何について議論しているのか分からなければ不毛な争いだけが残ることになるだろう。</p> <p>どのみち互いにどのような論点で話しているのか常に注意は必要だし、議論を混乱させるような論点を設置する問いには気を付けなければならないということだ。</p> <p>というわけで、今回は簡単な例を挙げるだけとなってしまったがここまでとさせていただきたい(次回以降はもう少し複雑な例を挙げられればいいと思う)。</p> <p>今回見てきたのは、検証すべき論点を飛ばして別の論点に誘導することで相手の回答を操作しようとするものだ。</p> <p>次回はよりはっきりと論点をすり替える、あるいは取り違えてしまう例を中心に見ていきたい。</p> <p>【次回記事&関連記事】</p> <p><strong>↓次回記事</strong></p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="論点のすり替えに騙されない論点整理の方法 - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2021%2F03%2F17%2F192009" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2021/03/17/192009">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p><strong>↓関連記事(2つ)</strong></p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2022%2F12%2F04%2F193515" title="「なんかそういうデータあるんですか?」「それってあなたの感想ですよね」という詭弁 - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/12/04/193515">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2022%2F02%2F22%2F235335" title="科学的思考とは何か?~「科学的議論」という詭弁~ - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/02/22/235335">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <h4 id="4引用文献と重要な余談"> 4.【引用文献と重要な余談】</h4> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480427082/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51T7l8MkY6L.jpg" alt="レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480427082/kyotaro442304-22/">レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%20%BD%A8%BF%AE">香西 秀信</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2010/05/10</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>(↑前記事で書いたように、この著者、かなりの曲者である。議論で有効なレトリックの解説本であるが、時々でてくる著者の主張部分にもレトリックが使われているため素直に読むと著者の誘導に引っ掛かるようになっている。)</p> <p>ここからは余談だが、著者の(笑える?)曲者感が伺える例を挙げたい。</p> <blockquote> <p>さて、私の家内はピアノを習っています。練習熱心なのはいいのですが、何しろ住居が狭いので、しょっちゅうピアノを弾かれると、読書も執筆も何もできなくなる。ついでに言うと、私の大学の研究室でも、近くに音楽科の院生控室があり、そこでも時々ピアノを弾く学生がいます。そういうときは、私は嫌がらせで、窓を開けて大音量でグレン・グルードのCDをかけることにしています。そうすると、自らの拙い演奏を恥じるのでしょう、すぐに弾くのを止めるのはさすがです。</p> <p> が、私の家内は、横でグルードを鳴らされようが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%B8%BB%D2%A1%A6%A5%D8%A5%DF%A5%F3%A5%B0">フジ子・ヘミング</a>が聞こえてこようが、それをあざ笑うかのようにいっこうにピアノの練習をやめようとしない。最近では、夫婦間で、それこそ一触即発の険悪な雰囲気になってきました。さすがにピアノの先生もそれを察したのでしょう。あるとき、家内にこう尋ねました。</p> <p> </p> <p>a「ご主人は理解してくれますか?」</p> <p> </p> <p>これを次の問いと較べてみましょう</p> <p> </p> <p>b「ご主人は我慢して(辛抱して、耐えて)くれますか?」</p> <p> </p> <p> どちらの問いも、形式上、「はい」か「いいえ」で答えることを要求します。しかしaの問いでは、それに「はい」と答えても「いいえ」と答えても、ピアノを弾く側に有利になります。これは問いの中に「理解する」という言葉が使われているからです。これでは、まるでピアノを練習することに正当性があるかのような感じになってしまう。</p> <p> もしこれに「はい」と答えたら、私は、「相手の事情、気持ちを思いやる」いいご主人ということになりますが、何しろピアノを弾くことに正当性があるのですから、当然のことをしているまでといった具合で、私の株はさほど上がりません。逆に、「いいえ」と答えてしまったら、私は「相手の事情、気持ちを思いやる」ことのできない、わがまま、偏屈なご主人ということになってしまいます。</p> <p> これに対してbの問いではどうでしょうか。ここでは「理解する」の代わりに「我慢する、辛抱する、耐える」という言葉が使われています。この場合はaと反対で、ピアノを弾くことが、明らかに他人に対する迷惑だという判断が前提とされています。したがって、これに「はい」と答えても「いいえ」と答えても、「ご主人」の側にはさほど不利にはならないのです。</p> <p>(中略)ところで、念のために書き添えておきますと、私は「我慢強いご主人」なのであって、「理解のあるご主人」では決してありません。</p> </blockquote> <p>読んで分かる通り、なるほど、確かに「理解のあるご主人」ではなさそうである。ついでに言うと、ピアノの練習をする音楽科の院生や妻への嫌がらせ目的でグルードや<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%B8%BB%D2%A1%A6%A5%D8%A5%DF%A5%F3%A5%B0">フジ子・ヘミング</a>鳴らし、挙句それを(笑い話にしているとは言え)自著に書いてしまう人間の我慢強さとやらがどれほどのものかは気になるところだ。</p> <p> </p> <p> </p> <p> </p> tatsumi_kyotaro 議論が苦手な人のための議論の方法 hatenablog://entry/26006613668398804 2020-12-31T23:44:24+09:00 2022-12-24T12:42:39+09:00 0.はじめに 1.議論ができない人、議論が苦手な人へ 2.なぜ議論が苦手になってしまうのか。 3.不毛な議論にしないための議論の方法 4.参考文献 0.はじめに この記事は、議論が苦手だと感じる人に向けて、ちゃんとした議論をするための初歩的な注意事項をまとめたものだ。 実際、世の中には議論とすら呼べないような醜い言い争いや、誹謗中傷合戦が多い。 そうした不毛な争いを避けてちゃんとした議論をしたい時に必要なのは、難しい技術ではなく初歩的なことだということをここでは説明したい。 1.議論ができない人、議論が苦手な人へ さて、前回の記事ではなぜ議論が不毛なものになってしまうのかについて軽くまとめた。… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#0はじめに">0.はじめに</a></li> <li><a href="#1議論ができない人議論が苦手な人へ">1.議論ができない人、議論が苦手な人へ</a></li> <li><a href="#2なぜ議論が苦手になってしまうのか">2.なぜ議論が苦手になってしまうのか。</a></li> <li><a href="#3不毛な議論にしないための議論の方法">3.不毛な議論にしないための議論の方法</a></li> <li><a href="#4参考文献">4.参考文献</a></li> </ul> <h4 id="0はじめに">0.はじめに</h4> <p>この記事は、議論が苦手だと感じる人に向けて、ちゃんとした議論をするための初歩的な注意事項をまとめたものだ。</p> <p>実際、世の中には議論とすら呼べないような醜い言い争いや、誹謗中傷合戦が多い。</p> <p>そうした不毛な争いを避けてちゃんとした議論をしたい時に必要なのは、難しい技術ではなく初歩的なことだということをここでは説明したい。</p> <h4 id="1議論ができない人議論が苦手な人へ">1.議論ができない人、議論が苦手な人へ</h4> <p>さて、前回の記事ではなぜ議論が不毛なものになってしまうのかについて軽くまとめた。</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="なぜ議論は無意味で不毛になるのか~ただの論破は意味がない~ - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F12%2F27%2F122601" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/12/27/122601">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p>だが、どんなに不毛な議論が多くて議論が苦手になってしまったとしても、ある程度他人との議論が必要な場合というのはある。</p> <p>避けられない議論なら少なくともその議論を不毛なものにはしたくないと多くの人は思うだろう。</p> <p>そこで必要なのが不毛な議論をしないための議論術なのだ。</p> <p>議論術というといかにも議論好きな人々が相手を論破して言い負かすための技術のように聞こえるが、不毛な議論を回避する技術も立派な議論術である。</p> <h4 id="2なぜ議論が苦手になってしまうのか">2.なぜ議論が苦手になってしまうのか。</h4> <p>まず、議論が不毛になってしまうパターンとして主に以下の三つが挙げられるだろう。</p> <p> </p> <p>・<strong>当初は有益な議論をしようとしたが話が嚙み合わずケンカになる。</strong></p> <p>・有益な議論をすることよりひたすら相手を論破することに拘る人がいる。</p> <p>・そもそも最初から成立するはずのない議論をしようとしている。</p> <p> </p> <p>この記事では主に一つ目について扱っていきたい。残り二つについては次回以降触れていくことにする。</p> <p>さて一つ目の項目についてであるが、これも議論が苦手になる原因としてよくある話なのではないだろうか。</p> <p>議論する人間同士がお互い仲が良ければ理解するまで話し合うこともできるだろうが、そうでない場合は問題だろう。</p> <p>議論をしてると、相手の主張に強い反発を覚えたものの、自分でも何に反論したいのかよく分からないまま勢いだけで反論してしまって次第にケンカに発展することはよくあることだ(私もよくやってしまう)。</p> <p><strong>つまり、反論の仕方が分からず、怒りだけをぶつけるようなものになってしまうというのがよくある失敗のパターンではないだろうか。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">よって、議論が苦手な人に必要なのはなによりも正確に反論する能力なのだ。</span></p> <p>「自己主張する方が大事だ」という意見もあるかもしれないが、正確に反論する能力を身につけるということは、「どのような反論があり得るのか」という視点から自分の意見を自分自身で吟味する能力が養われるということだ。</p> <p>つまり、反論の能力を身につけると容易に反論されるような迂闊な意見を言わないよう注意できる。相手より先に自分で自分の意見の欠点に気が付けるからだ。</p> <p><strong>さて、</strong>反論をするために重要なのは、相手がどのような主張をしているのか正確に理解することだ。相手の主張を理解せずに正しく反論することなんてできないはしない。</p> <p>そこで相手の主張を分析する上で基本的なことをまとめたい。</p> <p>相手の主張を整理をする際には主に以下の二つに注意をすることが重要だ。</p> <p> </p> <p><span style="color: #1464b3;">①相手の使っている言葉にあいまいさや具体性に欠けるところはないか。</span></p> <p><span style="color: #1464b3;">②相手の判断に根拠がなく独断的な部分、あるいは論理的飛躍はないか。</span></p> <p> </p> <p>上の二つは初歩的かつよく言われることなので、今更だと感じる人もいるかもしれないが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/SNS">SNS</a>での議論(<span style="font-size: 80%;">というより言い争い?</span>)を見ていると結構問題になっていることが多いと思える。</p> <p> </p> <p>例えば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>について議論している時に、次のような主張をしている人がいるとしよう。</p> <p> </p> <p><em><strong>【例文1】</strong>:「ある作品の表現を性差別的だと批判する人は、自分の感情を優先しすぎていて合理的でない。特に、集団でクレームを入れたりすることは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>に反している。彼らは文化の素晴らしさとそれを作り出す人間の苦労を理解し、凄惨な表現弾圧の歴史を知るべきではないか」</em></p> <p> </p> <p>同じような意見の人でも、流石に上記のような主張は議論をする上ではよくないと感じる人も多いのではないだろうか。</p> <p>しかしこれだけで即座に議論が不毛になるわけではない。一方が挑発的なことを言ってももう一方が取り合わなければ争いは起きない。</p> <p>だが、挑発されたら頭にきてやり返してしまうのが人間だ。</p> <p>ここでたとえば反論しようとした人が、次のような反論をしてしまうと一気に議論は不毛になる。</p> <p> </p> <p><em><strong>【例文2】</strong>:「これは個人の感情の問題などではなく、人権の問題だ。このような主張は人権の問題を感情の問題に矮小化している。こういう意見を言い出す人間の方こそ自分たちが楽しんでいるコンテンツを批判されたくないというだけの感情で意見を言ってるのではないか。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%B5%AC%C0%A9">表現規制</a>の歴史を知るべきというが、こういう意見の人こそ今まで</em><em>どれだけ多くの人が性差別的な表現によって抑圧されてきたかという差別の歴史を知るべきではないか」</em></p> <p> </p> <p>この際どちらが正しいかは置いておくにしても、こうやってお互いに「お前は○○を知らない」とマウントを取り合っていく光景は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/SNS">SNS</a>での議論(と呼べるかすら怪しいケンカ)でよく見られる。</p> <p>相手の文章から攻撃性だったり挑発的態度を感じてそれに応戦してしまうわけである。</p> <p>それに相手が反応してしまうと最悪で、そうなるとお互いマウントのネタが尽きるまでやめない。</p> <p>しまいには「彼らは高圧的で、上から目線で、攻撃的にものを言うから周りから賛同が得られないのだ」なんて言ったりして<strong>相手がいかに攻撃的かつ惨めな存在か</strong>について身内と話し始めるなんてことになる。</p> <p>無論、ケンカが目的なのであれば好きにやればいいと思うし、私もケンカすることはあるのでケンカくらい別にいいだろとは思う(<span style="font-size: 80%;">どうせケンカなら自分が嫌いな方が負けて欲しいとも思う</span>)。</p> <p>しかしそうは言っても、多くの場合ケンカ(<span style="font-size: 80%;">それもネットの口喧嘩</span>)をしても得られるものなんてないし空しいだけだろう。あってもせいぜい身内や同じ相手を嫌う人間から賞賛されたり同情されたりとかである(<span style="font-size: 80%;">だから承認欲求でケンカする人間がいるんだろうとも思うが……</span>)。</p> <p>もし安易な煽り合いに発展させたくないのなら、相手の主張に対して一つ一つ冷静に吟味することが重要だ。</p> <p>慎重に吟味するには、「多分こういうことが言いたいのだろう」と推測しなければいけない部分を必要以上に多くしないことだ。つまり、ちょっと不親切に相手の文章を読むことである。そこで出てくるのがさっきのチェックリストだ。</p> <p> </p> <p><span style="color: #1464b3;">①相手の使っている言葉にあいまいさや具体性に欠けるところはないか。</span></p> <p><span style="color: #1464b3;">②相手の判断に根拠がなく独断的な部分、あるいは論理的飛躍はないか。</span></p> <p> </p> <p>さて、まず①について【例文1】の「<span style="color: #1464b3;">あいまいさや具体性に欠ける部分」</span>について見ていこう。</p> <p>最初に目に付くのは「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>に反している」という部分だ。</p> <p>少し議論慣れしている人なら、ここを勝手に解釈して反論を初めてしまうと不毛な議論になりそうだというのは分かるのではないだろうか。</p> <p>そもそも「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>に反している」とはどのような事態を指しているのだろうか。</p> <p>この部分を読んだだけでは、批判とクレームは同じなのか、批判は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>に含まれないのか、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>に反さない批判があるとすればどういうものなのか、などについて判断できない。</p> <p>次に目に留まるのは「彼らは文化の素晴らしさとそれを作り出す人間の苦労を理解し」という部分だ。</p> <p>まず、文化の素晴らしさを理解するとは具体的にどういうことを言うのだろうか。</p> <p>作品を批判的に取り上げること、批判的な意見を取り入れて作品を書くことは文化の素晴らしさを理解することにはならないのだろうか。</p> <p>そもそも文化という大きな言葉で一括りにする時点でだいぶ話が大きい。</p> <p>文化とはこの場合何を指すのだろうか。生活文化一般なのか、表現作品なのか、市場の商品取引のことなのか、それともそれ以外なのか示されていない。</p> <p>文化を作り出す人間の苦労を理解するという表現もよく考えると曖昧だ。</p> <p>一体何をすれば文化を作り出すことになるのだろうか。そして何をすればその苦労を理解したことになるのだろうか。たとえばグッズを買ったり作品に好意的なレビューを書くことは作り手の苦労を理解することなのだろうか。逆に批判することはものを作る人の苦労を理解してないと見なされるのだろうか。</p> <p>こうした曖昧な部分について勝手に「多分こういう意味だろう」想像して反論してしまうと議論がかみ合わなくなることが多くなる。</p> <p>不毛な議論を避けお互いに嫌な気持ちにならずに済むように、多少意地悪でも相手の主張を吟味することは重要なのだ。</p> <p>次に②の「<span style="color: #1464b3;">根拠がなく独断的な部分、あるいは論理的飛躍</span>」について考えていこう。</p> <p>まず「ある作品の表現を性差別的だと批判する人は、自分の感情を優先しすぎていて合理的でない」という部分だが、「ある作品の表現を性差別的だと批判する人」がなぜ「自分の感情を優先しすぎていて合理的でない」と言えるのかについて根拠の説明部分が抜けている。</p> <p>勿論、独断的で論理が飛躍しているからすぐさま間違いだという話ではない。</p> <p>飛躍しているなら、飛躍している部分を埋めるような説明を相手に求めればいい(それで納得できるかはまた別)。</p> <p>次に気になるのは「集団でクレームを入れたりすることは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>に反している」という部分だ。</p> <p>クレームを入れると「<strong>何が/どのように/どうなって</strong>」「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>に反する」ことになるのかがこの文章を読んだだけではイマイチ分からない。</p> <p>また、「彼らは文化の素晴らしさとそれを作り出す人間の苦労を理解し、凄惨な表現弾圧の歴史を知るべき」という部分についても、ある表現作品について批判をすることと、文化の素晴らしさや表現弾圧の歴史を知ることにどのような関係があるのか分からない。仮に関連を認めたとしても、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>に反するという話から表現弾圧まで話を広げるのもかなり飛躍があると言えるだろう。</p> <p>ここもおそらく説明を求める必要がある部分だ。</p> <p>勿論、説明を聞くためになんでもかんでも質問すればいいという話ではない。</p> <p>あくまで、正確に議論の論点を把握し、それに応答するために必要最低限なことを説明させるべく質問するのである。</p> <p>巷の議論では、なんでもかんでも質問して論点を逸らしていく戦法が使われたりすることがあるが、それについては次回以降あらためて触れていく。</p> <p>さて、例文を使って説明した通り、議論においては反論する前にまず相手の主張と議論の論点を正確に把握することが重要だ。</p> <p>そのためには「あいまいな部分、具体性に欠ける部分」と「独断的な部分、論理の飛躍している部分」をチェックして相手に確認する必要があるだろう。</p> <p>説明は省いたが、【例文2】の反論側の意見も「あいまいな部分、具体性に欠ける部分」と「独断的な部分、論理が飛躍している部分」がかなりあるので練習として見直してみるのも良いかもしれない(<span style="font-size: 80%;">ある程度正解のようなものが用意されている練習問題のようなものが解きたい人は、この記事終わりの参考文献欄に練習できるような本を載せておくので気が向いたら参照して欲しい)</span>。</p> <p>あるいは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/SNS">SNS</a>で行われる短文のやり取りなんかは相手によく確認もせずに脊椎反射で反論する人が多いのでそちらを見て反面教師にしてもいいかもしれない(文字数制限があったり、短文でやり取りする文化だからそういうのが起こりやすいというのはあるので、仕方ないとは言える)。</p> <p><strong><span style="color: #1464b3;">自分がどのように主張すればいいのかについては相手の主張にしたのと同じように自分の主張を冷静に見直せばいいのである。</span></strong></p> <p>つまり、自分の主張に対してさっきの二つのチェックリストを適用すればいい。</p> <p><span style="color: #1464b3;">①言葉にあいまいさや具体性に欠けるところはないか。</span></p> <p><span style="color: #1464b3;">②根拠がなく独断的な部分、あるいは論理的飛躍はないか。</span></p> <p>この二点を相手に指摘される前に自分自身でチェックするのが肝要だ。</p> <p>一般的には主張をする時は結論だけでなく、その結論に至った理由と根拠を提示することが重要と言われるが、ここで言っていることは基本的にそれと同じことである。</p> <p>さて、相手の主張を吟味する方法(≒自分の意見の吟味する方法)を見たところで、次は実際にどう反論すればいいかについて見ていく。</p> <p>もちろん、正確に反論をするためには相手からの反論を吟味する方法を身に着ける必要がある。</p> <h4 id="3不毛な議論にしないための議論の方法">3.不毛な議論にしないための議論の方法</h4> <p>議論が苦手な人がやりがちなもう一つのミスとして、相手から反論された時に、間違った反論をしてしまうことが挙げられる。</p> <p>これも基本的に相手の意見を正確に理解できないことで発生する。</p> <p>相手から反論に再反論する際に注意すべきなのは、反論には大きく分けて二種類あるということだ。</p> <p> </p> <p>例えば高校の校則を増やすべきか減らすべきか議論があり、次のような意見とそれに対する二つの反論があったとしよう。</p> <p> </p> <p>≪意見1≫「<em>高校の校則を減らして高校生を自由放任にすることは、教育の放棄ではないのか。高校では勉強だけでなく生活態度に関しても、校則という形で教えるべきことを教えなければならないのではないか」</em></p> <p>≪反論1≫「<em>自主性を育てることも重要な教育のはずだ。むやみに校則を設けることは何も考えずただルールに従う人間を作るだけで、自分で考えて行動するという自主性を損なう可能性がある。</em>」</p> <p>≪反論2≫「<em>校則に従わせることで生徒の生活態度を教育する効果が期待できるかという点に関しては疑問が残る。それに生活態度に関する指導は教師の役割でもあるはずだ。</em>」</p> <p> </p> <p>まず≪意見1≫の主張は「高校は校則という形で生活態度を教育すべきか?」という論点に基づいてなされている。</p> <p>これに対して≪反論1≫では、明確に校則を減らす方がよいと反論しているものの、「高校は校則という形で生活態度を教育すべきか否か」という論点については触れていない。</p> <p>≪反論1≫の主張は「自主性を育てるという観点で考えてむやみに校則を作るべきか?」という論点に基づいたものになっていて、≪意見1≫とは別の論点が出てきていることが分かる。</p> <p><strong>別の論点を基に主張している点で、≪反論1≫は≪意見1≫の批判とはなっておらず、異論を唱える形での反論となっている。</strong></p> <p>一方、≪反論2≫は、校則を設けるかどうかの是非については書かれていないが、「高校は校則という形で生活態度を教育すべきか?」という論点に答える形の主張となっている。</p> <p>もちろん、校則を減らすべきだという結論である可能性はあるが、≪意見1≫とは異なる理由で校則を減らすべきではないと考えている可能性もある。</p> <p>そして、生活態度の指導に関しても校則の効果を疑問視しているものの必要性は認めているわけである。</p> <p>つまり、≪反論2≫は≪意見1≫の結論を否定しているというより「生活態度も教えるべき→校則で教えるべきだ」という論理の繋がりを批判しているのである。</p> <p><span style="color: #1464b3;">このように、大きく分けると反論には二つある。</span></p> <p>一つは、そもそも論点が異なる異論、もう一つは論点を共有した上で論理的繋がりの部分を批判する反論だ。</p> <p><strong>異論は論点がズレているため、主張に対する根本的な批判にはなっておらず、論を対置させるだけのものになっているため議論が平行線になりやすい。</strong></p> <p><strong>批判は主張の論理的繋がりを再検討するものであり、場合によっては意見が対立していない場合もある。</strong></p> <p>この二つを混同して区別を付けないでいると、相手は論理的繋がりの部分についての批判をしただけで結論自体には反対ではなかったのに、自分と真逆の意見の持ち主だと勝手に決めつけて反論してしまうということが発生したりする。</p> <p>そうなると自分の意見を勝手に決めつけられた側もいい気はしないだろうし、反発を覚えその後の議論がギクシャクしたりなんてことも起こる。</p> <p>相手の反論が結論部分で自分の意見と対立しているのかそうでないのかはちゃんと考えて応答する必要はあるだろう。</p> <p>さて、反論には大きく分けて二つあるという話をしたが、ここにもう一つ反論になっていない反論というものもある。</p> <p>先ほどの校則の議論の例でいうなら、次のような意見がそれだ。</p> <p> </p> <p><em>≪意見2≫「</em>高校の校則には理不尽なものが多い。髪が肩にかかってはいけないとか、ソックスは折ってはいけないという校則があったりする。いったい、そんな校則のどこが教育的であるというのだろうか<em>」</em></p> <p> </p> <p>わざわざ言うことでもないと思うが、理不尽な校則が多く存在しそれらの校則が教育的でないことを認めたとしても、「校則を減らすべきか否か」「どのような校則が必要なのか」という議論の論点には直接の関係がない。</p> <p>冷静な人からは「それはそうだけど、だから何?」と思われてしまうものである。</p> <p>だが、議論がヒートアップしていたりするとつい「そんなことない!」と勢いで言い返してしまう人も少なくない。</p> <p>このような反論になってない反論については、自分でも言わないように気を付けるべきものだが、言われた時もムキになって言い返さずに冷静に「その話は今の話とは関係のない話ではないか」と返すのが賢明だろう。</p> <p>さて、今回は噛み合わない議論を避けるための方法について簡単に見てきたが、私的には恐らく次回以降の内容が割と本番である。</p> <p>というのも、ネットの議論が盛り上がる時というのはは大抵</p> <p> </p> <p>・有益な議論をすることよりひたすら相手を論破することに拘る人がいる。</p> <p>・そもそも最初から成立するはずのない議論をしようとしている。</p> <p> </p> <p>のどちらかのパターンになることが多いからだ。</p> <p>次回は特に二つ目のケース、論破したがりな人間を相手にした場合の護身術的なものについては基礎的なことをまとめるだけでも案外役に立つのではないかと思う。</p> <p>【次回記事】</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2021%2F02%2F07%2F185832" title="議論で負けたくない時に意識すべきこと - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2021/02/07/185832">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p>【具体的な実践例】</p> <p>議論でよく使われるが曖昧で混乱しか生まない言葉を実際に指摘した記事。</p> <p>①「科学」</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2022%2F02%2F22%2F235335" title="科学的思考とは何か? - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/02/22/235335">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p>②「データ」</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2022%2F12%2F04%2F193515" title="「なんかそういうデータあるんですか?」「それってあなたの感想ですよね」という詭弁 - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" loading="lazy"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/12/04/193515">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p> </p> <h4 id="4参考文献">4.参考文献</h4> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4782802110/kyotaro442304-22/"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/41UJxuq-WKL.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)" title="新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4782802110/kyotaro442304-22/">新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%EE%CC%F0%20%CC%D0%BC%F9" class="keyword">野矢 茂樹</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2006/11/01</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p><span style="font-size: 16px;"> (簡単な練習問題と解説付きなので、問題集的なものが欲しい人は買って損はないはず)</span></p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01M5KKP9K/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="議論入門 ──負けないための5つの技術 (ちくま学芸文庫)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41InyVZGSVL.jpg" alt="議論入門 ──負けないための5つの技術 (ちくま学芸文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01M5KKP9K/kyotaro442304-22/">議論入門 ──負けないための5つの技術 (ちくま学芸文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%BD%A8%BF%AE">香西秀信</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2016/11/11</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>(こちらも初心者向きかつかなり実践的。著者の口の悪さが出ている箇所が少ない分読みやすい。著者の口の悪さについては前回記事参照)</p> tatsumi_kyotaro なぜ論破する方法やコツを学ぶことは無意味なのか?~議論に強くなりたいなら~ hatenablog://entry/26006613660211298 2020-12-27T12:26:01+09:00 2021-03-20T10:43:38+09:00 0.論破する方法やコツを知りたがる人達 1.議論好きが議論をダメにする。 2.勝ち負けにこだわるようになるとどうなるか。 3.ただの論破は意味がない 4.議論は勝ち負けじゃない? 5.極端な議論嫌いも問題だ 6.参考文献 0.論破する方法やコツを知りたがる人達 この記事では、相手を論破することにこだわっても意味がない理由について解説したい。 そもそも、論破する方法やコツを学んでも議論に強くなるわけではない。 そのほとんどが小手先の技術でまともな議論では通用しないからだ。議論の技術的な話については今後の記事で解説していく。 また、一部の「議論好き」な人がいかに議論をダメにしてしまうかについても触… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#0論破する方法やコツを知りたがる人達">0.論破する方法やコツを知りたがる人達</a></li> <li><a href="#1議論好きが議論をダメにする">1.議論好きが議論をダメにする。</a></li> <li><a href="#2勝ち負けにこだわるようになるとどうなるか">2.勝ち負けにこだわるようになるとどうなるか。</a></li> <li><a href="#3ただの論破は意味がない">3.ただの論破は意味がない</a></li> <li><a href="#4議論は勝ち負けじゃない">4.議論は勝ち負けじゃない?</a></li> <li><a href="#5極端な議論嫌いも問題だ">5.極端な議論嫌いも問題だ</a></li> <li><a href="#6参考文献">6.参考文献</a></li> </ul> <h4 id="0論破する方法やコツを知りたがる人達">0.論破する方法やコツを知りたがる人達</h4> <p>この記事では、相手を論破することにこだわっても意味がない理由について解説したい。</p> <p>そもそも、論破する方法やコツを学んでも議論に強くなるわけではない。</p> <p>そのほとんどが小手先の技術でまともな議論では通用しないからだ。議論の技術的な話については<a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2021/02/07/185832">今後の記事</a>で解説していく。</p> <p>また、一部の「議論好き」な人がいかに議論をダメにしてしまうかについても触れていく。</p> <p>勿論、相手を論破することはいけないことだとまでは言わないが、基本的に論破したところであまり意味がないというのはある程度理解しておくべきように思う。</p> <p>では、早速本題に入ろう。</p> <h4 id="1議論好きが議論をダメにする">1.議論好きが議論をダメにする。</h4> <p>当たり前のこととして、議論は相手を言い負かすためではなく、何が妥当なのかについてお互い話し合い理解を深めることが重要だ。</p> <p>しかし、現実には気に食わない相手を論破し相手を黙らせたいという目的で議論する人も少なくない。</p> <p>そういう議論ばかりが溢れているから、議論する時のあのギスギスした緊張感だったり、そもそも議論好きな人間が嫌いだったりという理由で議論が苦手な人は少なくない。</p> <p>そうなると、結果としてまともな議論が少なくなり、相手を論破することが目的の議論だけが残っていくのだ。</p> <p>そうなると今度は厄介な「議論好き」な人間が湧いてくるようになる。</p> <p>ここで言う「議論好き」とはとにかく議論をするのは良いことで、どんどん議論をするべきだと言ってくるような人間たちだ。</p> <p>そういう人達の何がまずいかと言うと、みんなが意見を出し合って議論すれば間違った意見は批判されてなくなっていき、自動的に正しい意見だけが残っていくと信じていることだ。</p> <p>つまり、どんなめちゃくちゃな議論でも数をこなせば自動的に素晴らしい結論に辿り着くということが彼らの前提にあるのだ。</p> <p>そして自分はというと、やたらと議論に勝敗を付けたがって誰が勝ったかに拘ったりする。</p> <p>時には、ただ気に食わない相手を言い負かそうとしているだけのことを議論だと言い張ったりするから厄介だ。</p> <p>そういうタイプの「議論好き」は、表向きは不毛な争いなどやめて話し合うことが重要だと言いたがるが、自分の議論が不毛かどうか疑うことはしない。彼らは「議論好き」であるが故に、自分たちは常に議論に真摯に向き合っていると思い込んでしまうのだ。</p> <p>不毛な議論だと思っていないのか、あるいは不毛だと気が付いてもやめられないのか分からないが、対立が深まるだけの議論でも進んで行おうとする「議論好き」な人間がいるのは実際困った問題だ。</p> <p>そういう「議論好き」が不毛な議論を生み出す悪循環のようなものを作っているのではないだろうか。</p> <p>不毛な議論を生み出す悪循環は以下のようなループでできている。</p> <p> </p> <p>①無意味で不毛な議論をする</p> <p>↓</p> <p>②普通の人が「議論は不毛で面倒くさそうだ」という印象を持って議論したがらなくなる</p> <p>↓</p> <p>③そういう人は議論の仕方が分からないくていざ議論をすると喧嘩になる。</p> <p> </p> <p>④議論がどんどん攻撃的になっていく。</p> <p>↓</p> <p>⑤無意味な議論に耐え、喧嘩できる人だけが残る。</p> <p>↓</p> <p>⑥不毛な議論が発生しやすくなる。</p> <p> </p> <p>このような悪循環の中で、議論に参加した人たちの攻撃性が増していくのは問題だ。</p> <p>もっとまずいのは、みんなが「私達は議論や論争を通して真実に近づいているし、議論に積極的な人間の意見の方が議論をしない人間の意見より真実に近い」と信じ込み始めることだ。</p> <p>すなわち議論で色んな人と対立していくうちに段々と「議論好き」になっていってしまうことである。</p> <p>一旦そういう空気になると、人は議論の参加者の誰かが真実を語っていて、議論の勝敗によってそれが分かるという思考に囚われるようになってしまう。</p> <p>だから、議論に「勝った(ように見える)」人間の言うことは正しいと考えるし、自分の考えが真実であって欲しいから議論の勝者になりたがるのだ。</p> <p><span style="color: #1464b3;">そういう人間は次第に自分の思想なんてどうでも良くなって、ひたすら議論に勝つことだけに執着し始める</span>。そして、議論に勝つためなら簡単に自分の思想を捨ててしまえるし、単に鞍替えしただけなのにさも議論によって自分の意見が変わっていったかのように言うのである。</p> <p>ではなぜ議論する人間が議論の「勝ち負け」に執着し始めるかというと、それはその議論に参加した人間が「どちらが正しいか」を「勝ち負け」で判断しようとするからだ。</p> <p>安易に議論が乱造されると、すぐに「○○VS○○」のような二項対立で解釈されるようになる。</p> <p>そうやって二つの陣営の対立として見る方が頭を使わずに済むからだ。</p> <p>お互いに何を言っているのか理解して自分の頭でそれらの意見を吟味し検討するよりも、議論の表層だけ見て「相手の意見に言い返せずに黙ってる方が負け」「怒ってムキになってる方が負け」という風に判断する方が楽なのだ。</p> <p>もちろん、便宜的にある対立軸で解釈した方が議論をよりよく理解できる場合もあるが、厄介なのは必要以上にそうした対立を意識してしまうことだ。単純な対立として理解するから、議論が「勝ち負け」に見えてしまうし、「勝った方が正しい」と思ってしまう。</p> <p>そうやってみんなが「勝ち負け」で見るから普段好戦的でない人も「勝ち負け」にこだわるようになるという悪循環が発生する。</p> <h4 id="2勝ち負けにこだわるようになるとどうなるか">2.勝ち負けにこだわるようになるとどうなるか。</h4> <p>議論を勝者と敗者に分ける思考をしてしまうと、議論を対立した二つの陣営の争いのようにみてしまう。</p> <p>そして、そういう二項対立的思考に囚われたまま議論することになる。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E7%C0%B5%BE%BB%BC%F9">仲正昌樹</a>は、安易な二項対立的思考に陥ると、何か論争を見る度に「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%A8%A4%CE%C5%A8%A4%CF%CC%A3%CA%FD">敵の敵は味方</a>」「味方の敵は自分にとっても敵」「敵の言ってることはいつも間違っていて、味方が言ってることは常に正しい」と安易に決めてしまうようになると言う。</p> <blockquote> <p>二項対立的に考える人は、<strong>「相手</strong>(=敵)<strong>が言うことは嘘である」と最初から決めつけている</strong>せいで、相手が何か言うと、自分の頭の中でその真偽をよくたしかめもしないで、それをすぐに否定し、その「正反対」を自分(たち)の"意見"にしてしまう傾向があります。(中略)マイナス掛けるマイナスがプラスであるように、<strong>嘘つきである”敵”の意見の正反対が、味方にとっての”正しい意見”になってしまう</strong>のです。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4479391703/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="知識だけあるバカになるな!" src="https://m.media-amazon.com/images/I/417VbgiaA9L._SL500_.jpg" alt="知識だけあるバカになるな!" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4479391703/kyotaro442304-22/">知識だけあるバカになるな!</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E7%C0%B5%20%BE%BB%BC%F9">仲正 昌樹</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2008/02/09</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本(ソフトカバー)</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>(『知識だけあるバカになるな!』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E7%C0%B5%BE%BB%BC%F9">仲正昌樹</a>p123)</p> </blockquote> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E7%C0%B5%BE%BB%BC%F9">仲正昌樹</a>などは、「相手(敵)が○○と言っているから自分はその反対の立場に立とう」という考えの人間が多いと言っている。</p> <p>冷静に考えれば、どこかの論点で対立したからと言って別の論点でも対立するとは限らないし、自分が嫌いな人間がいつも間違ったことを言うとも限らない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">逆に、ある論点では同じ意見だった人間も別の論点では自分とは違う意見を持っているかもしれない。</span></p> <p>だが、「敵/味方」思考になってしまうと、ある場面で敵だった人間の言うことはいつも間違っていて、ある場面で味方だった人間の言うことはいつも正しいと考えてしまう。</p> <p>そういう人に限って<strong>単に敵だと思った人間と反対のことを言ってるだけ</strong>なのに、自分はちゃんと意見のある人間だと錯覚したりするので厄介だ。</p> <p>そういう厄介な人が増えると、すべての意見を二つの陣営どちら寄りの意見かだけで解釈しようとして「お前はこういうことを言ってるから○○の味方で、○○はこういうことを言ってるからお前はダメだ」と勝手に敵か味方に分類し始める。</p> <p>そして、お互いそれをやるからやめられなくなってしまう(<span style="font-size: 80%;">そしてお互いに「向こうが先にやり始めた」と言い出すからそれも終わらない</span>)。</p> <p>勿論こういうことが起きるのはある程度仕方ないことだ。</p> <p>誰かが勝手に設定した対立に巻き込まれることもあるだろう。議論は少なからず周りの状況に呼応して対立として解釈されるものだ。</p> <p>そして、だからこそ「議論によって間違った意見は消えてより正しい意見が残っていき、やがて真実への到達できる」と安易に考えてはいけないのだ。</p> <h4 id="3ただの論破は意味がない">3.ただの論破は意味がない</h4> <p>そもそも、議論によって間違った意見が退けられて、より正しい意見が残っていくとどうして言い切れるのだろうか。また、議論をしたところで自分や相手の意見が変わることが一体どれだけあるのだろうか。</p> <p>議論をしても意見が変えるどころ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%DE%A4%B9">かます</a>ますお互い自分の意見に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C7%BC%B9">固執</a>するかもしれない。</p> <p>お互い「自分は正しくて相手は間違っている」という考えを強めるだけかもしれないではないか。</p> <p>「議論に勝っても人の生き方は変えられぬ」という言葉は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%E4%CB%DC%CE%B6%C7%CF">坂本龍馬</a>のものであると言われているが、この言葉について<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%CA%C7%CF%CE%CB%C2%C0%CF%BA">司馬遼太郎</a>は『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%B5%C7%CF%A4%AC%A4%E6%A4%AF">竜馬がゆく</a>』で次のように書いている(<span style="font-size: 80%;">彼の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%E4%CB%DC%CE%B6%C7%CF">坂本龍馬</a>観が正しいかどうかは別の話として……</span>)。</p> <blockquote> <p>議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬといいきかせている。もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである( <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%CA%C7%CF%CE%CB%C2%C0%CF%BA">司馬遼太郎</a>『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%B5%C7%CF%A4%AC%A4%E6%A4%AF">竜馬がゆく</a>』 より)</p> </blockquote> <p>これついては<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%A1%C5%C4%B9%B1%C2%B8">福田恒存</a>も似たようなことを言っている。</p> <p>福田は、論争ではどちらが正しいか決着をつけることが前提になるため、両者の思想の対立箇所しか見えず、決着に拘わるあまり議論が両者の思想の内容からどんどん離れたところに進んでしまうと言う。</p> <p>また、論争に敗北した人間は相手に何も言えなくなりながらも内心では自分の正しさに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C7%BC%B9">固執</a>するようになるとも言っている。</p> <p>次の引用がその箇所だ(<span style="font-size: 80%;">ところで最近は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%F2%BB%CB%C5%AA%B2%BE%CC%BE%B8%AF">歴史的仮名遣</a>いで書かれた文章が嫌いとかではなくマジで読めない人が増えていると聞くので福田恒存を引用するときに少し心配になる</span>)。</p> <blockquote> <p>ところが論争はつねに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%A4%A4%C5%A4%EC">いづれ</a>かの側に聖邪、適不適の判定を予想するものである。はじめから決著を度外視して論争はなりたたぬ。ひとびとは論争において二つの思想の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DC%BF%A8">接触</a>面しかみることができない。論争するものもこの共通の場においてしかものをいへぬ。この<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DC%BF%A8">接触</a>面において出あつた二つの思想は、論争が深いりすればするほど、おのれの思想たる性格を脱落してゆく。かれらは自分がどこからやつてきたかその発生の地盤を忘れてしまふのである。しかも論争にやぶれたものは相手の論理の正しさに手も足も出なくなりながら、なほ心のどこかでおのれの正常を主張するものを感じてゐる。</p> <p>『保守とは何か』福田恒存 p11</p> </blockquote> <p>こうして改めて考えてみると、「有意義な議論だった」と言いたがるのは大抵「自分たちが勝った」と思っている側だけなんじゃないかという疑念も湧いてくる。</p> <p>実際、Togetterなどでまとめられているような「議論」は、勝敗が分かりやすいように議論の流れが編集されていて、コメント欄にも素晴らしい議論だったという評価とともに敵の敗北を喜ぶようなコメントが並んでいる。</p> <h4 id="4議論は勝ち負けじゃない">4.議論は勝ち負けじゃない?</h4> <p>さて、こんなことを言っていると「そもそも議論を勝ち負けで考えること自体が間違っている。議論は勝ち負けでなく、互いの意見理解を深め自分の意見を批判的に検討し対話する為に行うのだ」という意見も出てくるだろう。</p> <p>勿論、<strong>それはそうなのだが、それを言う人間の内一体どれだけの人間がそういう姿勢で議論できているのかは疑問ではある。</strong></p> <p>こういうことは簡単に「私は出来ている」と言えないものではないだろうか。</p> <p>さも自分はそれができている人間であるかのように語る人間でもそれができているかはかなり怪しい(<span style="font-size: 80%;">恥ずかしい話、私は出来ていないのでムカつく相手は黙らせたくなってしまう方だ</span>)。</p> <p>実際、「真理のため」とか「お互いに納得するため」とか「対話のため」と言いながら、いかに自分が相手をやりこめるかしか考えていないような人達も少なくない。</p> <p>特に、ネットなどの公開された場での議論を好む人間はそうだ。</p> <p>ネットの時代になって、ネットでは忖度のなく人の意見が言えるからネットの議論がもっと盛んになればいいと安直に考える人が増えたように感じる。</p> <p>安易に議論をもてはやすような考えに対して例えば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%BD%A8%BF%AE">香西秀信</a>は次のように述べている。</p> <blockquote> <p>相手に打ち勝つために議論するのではなく、真理を追究するために議論するーーこんな歯の浮くようなセリフを軽々しく口にする偽善者が、どれだけ議論に伴う快感の虜になっていることでしょう。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480427082/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51T7l8MkY6L.jpg" alt="レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480427082/kyotaro442304-22/">レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%20%BD%A8%BF%AE">香西 秀信</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2010/05/10</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> 『レトリックと詭弁-禁断の議論術講座』<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%BD%A8%BF%AE">香西秀信</a>(p129)</p> </blockquote> <p>香西の口の悪さはどうかと思う人もいると思うが、「議論は勝ち負けじゃなく真理の探究の為」なんてことをなんの疑いもなく言える人間は確かに胡散臭い。</p> <p><strong>そういうことを言う人間に限って自分の間違いは認めないものだ。</strong></p> <p>そんな人たちが「自分には対話の姿勢があったが相手にはそれがなかった」と言って議論が思い通りに進まないのを相手のせいにするというのはよく見られる光景なので香西の言いたいことも分からなくはない読者も多いだろう。</p> <p>特に、公開討論などの方が公開性があって望ましい議論の形式であると無批判に考えるような輩については、香西の批判はこれ以上ないほど当てはまっていることだろう。</p> <p>香西に言わせれば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D7%A5%E9%A5%C8%A5%F3">プラトン</a>は弁論術を教える危険をよく知っていて「<span style="color: #1464b3;">討論の結果たまたま考えが深まるというならともかく、考えを深めるために討論するということがどのくらい惑わしに満ちたものということがよく見えていた</span>」のだという。</p> <h4 id="5極端な議論嫌いも問題だ">5.極端な議論嫌いも問題だ</h4> <p><strong>もちろん</strong>、私が言いたいのは議論を避ける人達の方が良い人だという単純な話でもない。</p> <p>議論が苦手だと言う人の中には、議論や他人の意見に関心を持たず自分の考え方や生き方に無批判に生きている人間もいるからだ。</p> <p>無批判に生きるというのは、独りよがりな考えで行動して誰かを傷つけたりしても、それを反省することないということだ。</p> <p>そういう人は、そもそも議論はすべて不毛だと決めつけて他人の意見に耳を貸さないから自分が独りよがりだとすら気付けない。</p> <p>こういう人たちが議論を嫌う理由は簡単で、単に自分の考えが批判されたくないからというだけなのだ。</p> <p>だから、そういう人たちは議論になっても自分の意見に否定的なことを言われたりすると「価値観は人それぞれなんだから批判するな」などと言いがちだ。</p> <p>つまり、普段何も考えず専門的知識もなく他人の主張も大して理解していないのに、自分の意見はオリジナルで特別なものだと思っているわけである。</p> <p>彼らは、「自分はそのことについてよく知らないし、ひょっとしたらどこかの誰かも同じようなことを言っているかもしれない」とは考えないのだろう。</p> <p>もちろん、完全なオリジナルでなければ自分の意見を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C0%A4%C3%A4%C6%A4%CF%A4%A4%A4%B1%A4%CA%A4%A4">言ってはいけない</a>なんて話でもない<span style="font-size: 80%;">(そもそも完全にオリジナルなものなんて存在しない)</span>。</p> <p>「価値観は人それぞれ」というのはその通りではあるが、それを言い訳にして思考停止しまうと、人の意見を参照して自分の意見を批判的に検討しようなどという考えなど出てくるはずもない。</p> <p>「価値観は人それぞれ」という言葉を言い訳に使っていると、自分の意見を正しいと信じて疑わずに人にそれを押し付けるくせに、いざ自分が攻撃されると「価値観は人それぞれなんだから批判するな」と怒る、という状況に陥りやすくなる(<span style="font-size: 80%;">勿論、どんな人間でもそういう荒んだ状態になることはある</span>)。</p> <p>結局のところ、多くの人間は「自分の意見や価値観は批判されたくないが、気に食わない人間の意見は否定したい」という感情と無縁でいられない。</p> <p>議論をする上ではお互いそうならないよう気を付けようというのがひとまずの結論だろう。</p> <p>つまり、議論をある程度有意義にしたいのなら、安易な議論好きの偽善者でもなければ思考停止で議論嫌いなナルシストでもない、必要に応じて議論する姿勢を意識する必要がある。</p> <p>勿論、無駄な対立を生み出すだけに見える議論も不毛ではなくちゃんと意義あるのだという意見もあるだろう。あるいは、議論を有意義か無意味かという道具的価値で測ろうとすること自体が間違いだという意見もあるだろうが、話が逸れるのでここではその話はせず、別の機会に譲りたい。</p> <p>さて、優等生じみていてつまらないと思われてそうな結論に至ったところで今回はここまでとしたい。</p> <p>次回は、より実践的に、無意味な議論を回避するための議論力について話をしていきたい。</p> <p>議論力というと何かと、相手にいかに反論し打ち負かすかということが語られがちだが、そういう攻めの議論力ではなく、不毛で無駄な議論を避けるための議論力が必要なのではないだろうか。すなわち、相手を打ち負かそうとする人間に対する護身術的議論術である。</p> <p>【次回記事】</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="苦手を克服するための議論入門~議論嫌いでも議論に強くなる方法~ - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F12%2F31%2F234424" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/12/31/234424">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <h4 id="6参考文献">6.参考文献</h4> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4479391703/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="知識だけあるバカになるな!" src="https://m.media-amazon.com/images/I/417VbgiaA9L._SL500_.jpg" alt="知識だけあるバカになるな!" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4479391703/kyotaro442304-22/">知識だけあるバカになるな!</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E7%C0%B5%20%BE%BB%BC%F9">仲正 昌樹</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2008/02/09</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本(ソフトカバー)</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>↑ 学問の基礎としての「教養」とは何か。冷笑的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%FB%B5%BF%BC%E7%B5%C1">懐疑主義</a>、コピペ的な批判、党派性に囚われた議論から離れて「教養」について考えたい人へ。</p> <p>”「教養」の本質とは何かを一言で言うとすれば、「知的な討論をするための基礎的なな能力」ということになるでしょう。” (本書より)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480427082/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51T7l8MkY6L.jpg" alt="レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480427082/kyotaro442304-22/">レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%20%BD%A8%BF%AE">香西 秀信</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2010/05/10</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>↑ 随所に著者の嫌味でちょっと笑える文言が並ぶ実践的議論術本。</p> <p>ここで一つ、嫌味で思わず笑えてしまうような著者が本書のまえがきを紹介します。</p> <p><em>"第一に、「ビジネスマンのための」と書きましたが、これは実業家や会社員向けの、という意味ではありません。そもそも、会社員に使用が限られた議論術などあろうはずがない。(中略)つまり仕事に忙しく、議論の技術、論理的思考力などの訓練をする時間もエネルギーも、そして失礼ながら根気もない人たちのための、ということです。"</em></p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4168130029/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="保守とは何か (文春学藝ライブラリー)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41aRMPJLdmL.jpg" alt="保守とは何か (文春学藝ライブラリー)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4168130029/kyotaro442304-22/">保守とは何か (文春学藝ライブラリー)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%A1%C5%C4%20%D7%F1%C2%B8">福田 恆存</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2013/10/18</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>↑ 福田恒存が考える保守的視点からの資本主義批判、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C4%BF%CD%BC%E7%B5%C1">個人主義</a>批判は読み直してみてもいいかもしれない。リベラルな資本主義批判視点を捉えなおすという意味でも。</p> tatsumi_kyotaro 痴漢大国と言われるこの国でなぜ痴漢冤罪ばかり取り上げられるのか~ジェンダーやフェミニズムだけの問題ではない。 hatenablog://entry/26006613659259792 2020-12-01T23:25:21+09:00 2022-08-16T10:47:11+09:00 1.なぜ痴漢冤罪ばかり問題視されるのか 2.痴漢は依存症的行為である 3.人として尊重されないという不安 4.パーソナルスペースを侵害される不快感 5.痴漢問題はジェンダーやフェミニズムだけの問題ではない 6.【参考文献】 1.なぜ痴漢冤罪ばかり問題視されるのか 今回は、痴漢被害を「ただ触られただけ」と軽視できない理由について書いていく。 というもの、人々の間で痴漢犯罪の悪質さについてあまり認識が共有されていないように思えるからだ。 例えば、「痴漢なんて触られただけなのに大げさだ」「痴漢くらいいいじゃないか減るものじゃあるまいし」という言説が定期的に現れる。 その上、他の犯罪でも同様の冤罪被害… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#1なぜ痴漢冤罪ばかり問題視されるのか">1.なぜ痴漢冤罪ばかり問題視されるのか</a></li> <li><a href="#2痴漢は依存症的行為である">2.痴漢は依存症的行為である</a></li> <li><a href="#3人として尊重されないという不安">3.人として尊重されないという不安</a></li> <li><a href="#4パーソナルスペースを侵害される不快感">4.パーソナルスペースを侵害される不快感</a></li> <li><a href="#5痴漢問題はジェンダーやフェミニズムだけの問題ではない">5.痴漢問題はジェンダーやフェミニズムだけの問題ではない</a></li> <li><a href="#6参考文献">6.【参考文献】</a></li> </ul> <h4 id="1なぜ痴漢冤罪ばかり問題視されるのか">1.なぜ痴漢冤罪ばかり問題視されるのか</h4> <p>今回は、痴漢被害を「ただ触られただけ」と軽視できない理由について書いていく。</p> <p>というもの、人々の間で痴漢犯罪の悪質さについてあまり認識が共有されていないように思えるからだ。</p> <p>例えば、「痴漢なんて触られただけなのに大げさだ」「痴漢くらいいいじゃないか減るものじゃあるまいし」という言説が定期的に現れる。</p> <p>その上、他の犯罪でも同様の冤罪被害があるにもかかわらず、痴漢冤罪だけはやたらと騒がれることが多い。他の犯罪に比べて痴漢だけが冤罪被害が多いという統計もあるわけではないのに、である。</p> <p>非難の矛先も、冤罪を作った警察ではなくなぜか痴漢被害を訴えた女性に向く。</p> <p>また、「冤罪を生み出している悪意ある女性が多い」と根拠なく断定をする人間も一定数存在している。</p> <p>これらのことを踏まえると、一部では痴漢被害が軽視されているのではないかと考えられる。</p> <p>そこでこの記事では「ただ触られただけ」とは言えない、痴漢の悪質さについて整理することを目的とする。</p> <p>もちろん、痴漢被害と一口に言っても被害者の受け取り方にはかなり違いがあるように思える。</p> <p>嫌悪感の体験として捉える人間もいれば、恐怖の体験として捉える人もいる。中には痴漢被害に遭い過ぎてなんとも思わなくなっている人もいる。</p> <p>そのせいか「人から触られた時の感じ方なんて人それぞれなんだから議論するだけ無駄」というような何か考えた風の何も考えていない意見も多くみられるのが現状である。</p> <p>そんなことを言い出してはあらゆる犯罪が「被害の感じ方なんて人それぞれ」と言えてしまうが、それは被害を軽視していい理由にもならなければその行為の悪質さを考えなくてよい理由にもならない。</p> <p>無論、ここで書く内容が痴漢の悪質さの全てだというつもりもない。</p> <p>同じ当事者の間でも、痴漢行為の悪質さに対する認識が千差万別であり、今回その全てに触れるつもりはない。</p> <p>それでも、この記事を読んで痴漢という行為がそもそもどういう行為なのかについて改めて考えるきっかけになれば幸いであると思う。</p> <p> </p> <h4 id="2痴漢は依存症的行為である">2.痴漢は依存症的行為である</h4> <p>まず単純に考えて痴漢被害が「ただ触られただけ」なら、痴漢は「ただスキンシップの激しい人」ということになるが本当にそう思えるだろうか。</p> <p>少し考えれてみて欲しい、痴漢をする人間というのは言い換えれば「電車内で見ず知らずの人の身体をその人の意思を無視して弄ろうとする人」である。</p> <p>普通に考えてみて欲しいのだが「見ず知らずの人の身体をその人の意思を無視して弄ろうとする」ことを「ただ触っただけ」とは言わないだろう。</p> <p>無断で見知らぬ人のクレジットカードやお金を使っておいて「ただ借りただけ」と言えないのと同じだ。結果どんな損失が生まれるのかに関係なくその人の意思を無視してはいけない場面というものはあるだろう。</p> <p>その上、「見ず知らずの人の身体をその人の意思を無視して弄ろうとする人」に遭遇したら実際何をされるのか分からない。</p> <p>つまり、痴漢被害には「何をされるか分からない」という不安と恐怖を与えられたことも含まれている。</p> <p>以上のことから、痴漢は「何考えてるのか分からない人間に身体を好き勝手に触られること」であって「ただ触られただけ」ではないと言える。</p> <p>実際、痴漢は何を考えてるか分からないし何をしでかすか分からないという事例として御堂筋事件が挙げられる。</p> <p>御堂筋事件は夜の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%E7%BA%E5%BB%D4%B1%C4%C3%CF%B2%BC%C5%B4">大阪市営地下鉄</a>御堂筋<wbr />線の電車内で、二人組の痴漢を注意した女性が逆恨みで暴行と脅しの末強姦被害に遭ったという事件である。</p> <p>仮に己の欲望を満たす為に動いていると仮定としても彼らの行動はおよそ合理的理解の範疇にあるとは言い難い。</p> <p>痴漢行為をする人間が他人からも理解できるような合理的な思考で動いているとは限らないのだ。</p> <p>よって痴漢行為を行う人間の思考なんてどう転ぶか分からないというのが現実的な判断だろう。</p> <p>そもそも痴漢を擁護する人間には、「性欲は本能だから仕方ない」と言う人もいるがそれは少しズレている。</p> <p>それは痴漢行為が通常の人間の基本的欲求によって引き起こされるものであることを前提としてしまっている。</p> <p>痴漢は依存症でありそれもある程度治療可能なことが分かっているのだ。</p> <p><iframe class="embed-card embed-webcard" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="10年間で500人を治療してわかった「痴漢」を取り巻く問題(原田 隆之) @gendai_biz" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fgendai.ismedia.jp%2Farticles%2F-%2F56693%3Fimp%3D0" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56693?imp=0">gendai.ismedia.jp</a></cite></p> <p> (↓上記事の筆者が書いた痴漢の犯罪心理についての本)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/448007256X/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="痴漢外来 (ちくま新書)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41MsWViozbL._SL160_.jpg" alt="痴漢外来 (ちくま新書)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/448007256X/kyotaro442304-22/">痴漢外来 (ちくま新書)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%B4%C7%B7%2C%20%B8%B6%C5%C4">隆之, 原田</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2019/10/08</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 新書</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>上記のように、痴漢は依存的な行為であり、依存的行為を通常の人間の欲求に基づいた行為と同一視して語ることはできない。</p> <p>これは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%E1%BF%A9%BE%C9">過食症</a>の人間はお腹が空いているから食べているわけではないということと同じだ。</p> <p>ここまでの話をまとめれば、痴漢が話が通じる人間であるとは限らないし、通常我々が考えるような欲求で動いているとは限らない。</p> <p>何より痴漢は通り魔的犯行だ。</p> <p>当然、被害者側<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%E9%A4%B7">からし</a>たらいきなり遭遇した相手に対して「抵抗したらどうなるか分からない」という恐怖を感じることはあるだろう。</p> <p>少なくとも「痴漢の目的なんて分かりきってるのだから恐怖を感じることなんてない」とは断言できない。</p> <p>それに、もし仮に痴漢の行動原理が余すことなく解明されたとしても、痴漢被害は依然として恐怖になり得る。</p> <p>例えば目の前に強盗がいたとして、強盗の目的がお金であり、彼らは痕跡が残るようなことはしたがらないと分かっていたとしても私たちは目の前の強盗に「何をされるか分からない」という恐怖を感じるだろう。基本的にはそれと同じである。</p> <p>そもそもよく言われているように、痴漢は自分より力も弱そうな相手を狙って行われている。</p> <p>それも考慮すれば「何考えているのか分からない自分よりも力の強い人間に体を好き勝手いじられる」ケースも多くあるだろう。</p> <p>被害者<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%E9%A4%B7">からし</a>てみれば気味悪いというのは言うまでもないし、人によっては恐怖体験であるというのは余程想像力に欠けた人間でない限りは分かる話だ(無論、世の中には「余程」な人間が数多くいる)。</p> <h4 id="3人として尊重されないという不安">3.人として尊重されないという不安</h4> <p>次に痴漢行為がもたらしうる精神的な被害について考えたい。</p> <p>痴漢行為は相手の同意なしに相手の身体を快楽を得るための道具として使用する行為である。</p> <p>つまりそれは他人の身体を自分の思いのままに支配しようとする行為でもある。むしろ痴漢行為では相手の身体を自分の所有物のように扱うこと自体が欲望されているとも言えるが、それはここではひとまず置いておこう。</p> <p>精神的被害の話に戻せば、痴漢被害は相手に自分の身体の所有を侵害された体験である。</p> <p>さらに、「抵抗したら何をされるか分からない」という恐怖からその支配を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%D4%CB%DC%B0%D5">不本意</a>ながら受け入れてしまうことになれば、そういう体験が自分自身への信頼を失わせることにもなり得る。</p> <p>分かりにくければブラック労働がなぜ問題になったかを考えると良いかもしれない。</p> <p>例えば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D6%A5%E9%A5%C3%A5%AF%B4%EB%B6%C8">ブラック企業</a>に勤めて報酬無しで強制的に働かせられても、自分は圧力や脅しに屈して抵抗できないでいる状況が続けば、自分に対して「なんて情けないんだ」とか「なんて自分はダメな人間なんだ」と自尊心が傷つく人間はいるのではないだろうか。</p> <p>なんら合理的理由もなく他人に従うしかないとなれば、その状況はかなり屈辱的だ。</p> <p>まして相手が職場の上司でもないにもかかわらず自分が抵抗できないでいるとすれば、自分に対する信頼さえ喪失しかねない。</p> <p>このように人を道具としてしか見なさないという意味では痴漢被害には強制労働に近い悪質さがあるのではないだろうか。</p> <p>性産業をみれば分かる通り、相手の性的な欲望を満足させることは十分労働として見做せるものであり、その点痴漢行為は何の報酬もなく、何の同意もなしに相手に無償で強制労働させる行為とも表現できる(もちろんイコールでは無いし、そのような視点から見ればという話でしかないが)。</p> <p>その点で痴漢をされて喜んでいる人もいるというのはなんら反論になっていない。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%B5%BD%FE%CF%AB%C6%AF">無償労働</a>だろうが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A1%BC%A5%D3%A5%B9%BB%C4%B6%C8">サービス残業</a>だろうが仕事が好きで喜んでやる人間はいるし、無理やり参加させられたボランティアで人とのつながりができて楽しい思いをする人間はいる。</p> <p>だからと言って<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CC%B5%BD%FE%CF%AB%C6%AF">無償労働</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A1%BC%A5%D3%A5%B9%BB%C4%B6%C8">サービス残業</a>をやらせていいというわけでもなければ、その人の意思を無視してボランティアに強制的に参加させていいわけでもない。</p> <p>痴漢被害が蔓延する社会で痴漢被害を軽視することは、人々に自分は「人として尊重されていないのではないか」という不安を植え付けかねない。</p> <h4 id="4パーソナルスペースを侵害される不快感">4.パーソナルスペースを侵害される不快感</h4> <p>痴漢の精神的な被害について考える時、パーソナルスペースの侵害という面からも考えることができる。</p> <p>パーソナルスペースの侵害というと大した問題ではないような印象を受けるかもしれないが、空間の問題というのは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%B8%B2%BD%BF%CD%CE%E0%B3%D8">文化人類学</a>においても扱われるほどに社会と文化にとって重要な問題である。</p> <p> また、現代においても私たちは空間の所有意識や縄張り意識というものから解放されたとは言えない。</p> <p>たとえば、以下のような行為に嫌悪感を感じる人は少なくないだろう。</p> <p> </p> <p>・部屋に勝手に侵入される+ものを片づけられる。</p> <p>・後ろから肩を組まれる。</p> <p>・作業中のパソコンをのぞき込まれる。</p> <p>・勝手に他人にバッグの中身を漁られる。</p> <p> </p> <p>他にもいろいろあるだろうが、本来自分だけが好き勝手できる場所が人によって占有されることの不快感、縄張りを荒らされたという感覚は、たとえ実害がなかったはとしてもその人の精神に深い影響を与えることがある。「いいじゃないか減るもんじゃあるまいし」と気軽に言う人もいるだろうが、おそらくそういう問題ではないはずだ。</p> <p>例えば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%D5%A1%BC%A1%A6%A5%C8%A5%A5%A5%A2%A5%F3">イーフー・トゥアン</a>は空間の広がりは人に自由の感覚を与えるものであると定義している。</p> <blockquote> <p>広がりは、自由であるという感覚と密接に結びついている。自由には、空間という含意がある。自由とは、行動する力と、行動するための十分な空間的余地をもっているということを意味してるのである。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480081038/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="空間の経験―身体から都市へ (ちくま学芸文庫)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/61yGsxpjtOL._SL160_.jpg" alt="空間の経験―身体から都市へ (ちくま学芸文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480081038/kyotaro442304-22/">空間の経験―身体から都市へ (ちくま学芸文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%D5%A1%BC%20%A5%C8%A5%A5%A5%A2%A5%F3">イーフー トゥアン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 1993/11/01</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> </blockquote> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%D5%A1%BC%A1%A6%A5%C8%A5%A5%A5%A2%A5%F3">イーフー・トゥアン</a>によれば空間の広がりに自由を感じることは人間が世界を見る時の一つの尺度である。</p> <p>また、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%D5%A1%BC%A1%A6%A5%C8%A5%A5%A5%A2%A5%F3">イーフー・トゥアン</a>によれば空間の広がりは、物理的な空間の制限によってだけでなく、他者の視線によっても制限されると言っている。</p> <blockquote> <p>われわれの世界の尺度に対して他者がどのように影響を与えうるかについては、その極端な例として次のような情景を思い浮かべてみよう。恥ずかしがり屋の人が大きな部屋の隅でピアノの練習をしていると、誰かが入ってきて、練習の様子をじっと見つめる。すると、ピアノを練習している人はただちに空間の緊張を感じとり、部屋に人が入ってくるたびにそれを邪魔に感じるようになる。練習している人は、他者の眼差しのもとで、空間を支配する唯一の主体から部屋のなかの一つの対象に変化するのであり、その結果、自分だけの視点によって空間のなかの事物に秩序をあたえる力を失ってしまったことを五感で感じとるのである。</p> <p>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%D5%A1%BC%A1%A6%A5%C8%A5%A5%A5%A2%A5%F3">イーフー・トゥアン</a>『空間の経験-身体から都市へ』)</p> </blockquote> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%D5%A1%BC%A1%A6%A5%C8%A5%A5%A5%A2%A5%F3">イーフー・トゥアン</a>は一人でピアノの練習をする時と誰かに見られながら練習する時を比較して、誰かの視線がある時には人は空間の広がりを感じることができないと言う。もちろんそれは、単なる人数の問題ではない。</p> <p>たとえ多くの人に囲まれても、それらの視線を無視できる状況は存在する。</p> <p>たとえば都会などの人口密集地帯においては、みんなの視線が一か所に集まることなく分散しているためある程度まで他人の視線が気にならなかったりする。</p> <p>また、他人に視線を向けてジロジロ見たりすることは良くないことだという暗黙の了解によって互いに無関心であるかのようにふるまっている。</p> <p>もちろん、視線を向ける主体があったとしても視線を向けられた人間が視線を感じない場合もある。現代では理解しにくいかもしれないが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%D5%A1%BC%A1%A6%A5%C8%A5%A5%A5%A2%A5%F3">イーフー・トゥアン</a>は召使いとその主人を例に挙げている。</p> <blockquote> <p>ときとして人間は物のように取り扱われ、その結果、本箱と同じような存在になってしまう。裕福な人は、召使いに取り囲まれて生活していても、召使いの密集のなかに巻き込まれていない。召使いは身分が低いので、眼に見えない存在、つまり部屋や家具の木彫と同じ存在になっているからである。</p> <p>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%D5%A1%BC%A1%A6%A5%C8%A5%A5%A5%A2%A5%F3">イーフー・トゥアン</a>『空間の経験-身体から都市へ』)</p> </blockquote> <p>このようにたとえ人がたくさんいたとしても、そこまで視線を浴びていないか、もしくは視線が向けられていても「他人から見られている」という意識が発生しなければ、その人にとってその空間は依然自由に感じられるのである。</p> <p>このことから<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%D5%A1%BC%A1%A6%A5%C8%A5%A5%A5%A2%A5%F3">イーフー・トゥアン</a>は「密集とは、見られているという意識である」と説明する。</p> <p>視線を向けられることも、その人の自由の感覚の侵害になりうるのだ。</p> <p>公共スペースにおけるパーソナルスペースの侵害は、二重の意味で人の自由の感覚を侵害している。</p> <p> </p> <p>一つは、身体への接近によって生じる物理的な空間の制限によるものである。</p> <p>もう一つは、「見られているという意識」を喚起することによる自由の感覚の侵害である。</p> <p> </p> <p>痴漢被害に出会うことは、自分は見られているかもしれないという意識=自分は自由でないかもしれないという不安を呼び起こす。</p> <p>もちろん、それはその人の空間の感覚とその被害がどれだけ日常的なものかによって左右される。</p> <p>しかし、その人にとって被害がある程度日常的の一部として認識される状況においては、痴漢被害はその人間に公共スペースでの恒常的緊張を強いる。</p> <p>すなわち、痴漢の問題はそれが意識されることによって公共スペースが安心して過ごせる場所かどうかと関連すると言える。</p> <p>痴漢被害が身近なものとして存在すれば、いつ何時見知らぬ他人から自分のパーソナルスペースが侵害されるか分からないという不安感と緊張感を人々に強いることになる。</p> <p>そして人々が安心感を持って外出することができるかどうかというのは、我々の社会と公共空間への信頼の問題でもあるのだ。</p> <h4 id="5痴漢問題はジェンダーやフェミニズムだけの問題ではない">5.痴漢問題は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%F3%A5%C0%A1%BC">ジェンダー</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%DF%A5%CB%A5%BA%A5%E0">フェミニズム</a>だけの問題ではない</h4> <p>まとめよう。</p> <p>いままで見てきた通り、痴漢被害は下記の点から軽視できない。</p> <p> </p> <p>・ごく身近な日常でいきなり何をされるか分からない状況に直面するリスクと隣り合わせで生活しなければならない。</p> <p>・自分が人として尊重されていない事態に直面させられる。</p> <p>・社会空間において自由の感覚を奪われる。</p> <p> </p> <p>何より重要なのは、少し考えれば軽視できないと理解できるはずのことが軽視され「ただ触られただけで大げさだ」と言われるような社会環境に被害者が身を置かざるを得ない点だ。</p> <p>普通に生活しているだけでも身に危険を感じ、自分が人として尊重されない事態に直面し、社会空間における自由の感覚を奪われても、周囲からは「そんなことで」と片づけられてしまうことはその人が社会を信頼できるかどうかに関わる重要な問題だろう。</p> <p>無論、私がここで挙げたような問題点に関して「そんなことは問題にならない」と言う人はいるだろうし、あるいは「問題の本質はそこではない」と言う人もいるだろう。</p> <p>ただ、ここで指摘しておかねばならないのは「痴漢なんて触られただけ」と簡単に片づけてしまえる人間が結構な数いることである。 </p> <p>なぜ痴漢になると人は少し考えることすらせずに、「ただ触られただけ」と言えてしまうかということはもう少し考えられてもいいのではないだろうか。</p> <p>この国には依然として、男性にとって魅力的かどうかという基準のみで女性を語る場面に出会うことがある。</p> <p>だから痴漢についても痴漢行為を誘惑するような恰好をしている方が悪いなどという倒錯した論理がまかり通ってしまう。</p> <p>痴漢の問題を男性と女性の対立点かのように語る人間は未だにいるが、痴漢問題は男女関わらず我々の社会と公共空間への信頼の問題なのである。</p> <p> </p> <h4 id="6参考文献">6.【参考文献】</h4> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/448007256X/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="痴漢外来 (ちくま新書)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41MsWViozbL._SL160_.jpg" alt="痴漢外来 (ちくま新書)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/448007256X/kyotaro442304-22/">痴漢外来 (ちくま新書)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%B4%C7%B7%2C%20%B8%B6%C5%C4">隆之, 原田</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2019/10/08</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 新書</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480081038/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="空間の経験―身体から都市へ (ちくま学芸文庫)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/61yGsxpjtOL._SL160_.jpg" alt="空間の経験―身体から都市へ (ちくま学芸文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480081038/kyotaro442304-22/">空間の経験―身体から都市へ (ちくま学芸文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%D5%A1%BC%20%A5%C8%A5%A5%A5%A2%A5%F3">イーフー トゥアン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 1993/11/01</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>(↑ネット時代において、私たちが「空間」と「場所」の中に生きるということを再認識させてくれる本。昔は身分の低い人が最上階に住んでいた等、文化研究本としても面白い)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622004631/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="かくれた次元" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41NclEaW9IL._SL160_.jpg" alt="かくれた次元" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622004631/kyotaro442304-22/">かくれた次元</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%C9%A5%EF%A1%BC%A5%C9%A1%A6T%A1%A6%A5%DB%A1%BC%A5%EB">エドワード・T・ホール</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 1970/10/31</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>  (↑パーソナルスペースという概念の生みの親、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%C9">エド</a>ワード・T・ホールの『かくれた次元』。プロク<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%DF">セミ</a>ックスという言葉なら聞いたことがあるかもしれないが、コロナ時代の今こそ再読するべきという人もいる。)</p> tatsumi_kyotaro 恋愛ができない非モテのこじらせはなぜ辛いのか? hatenablog://entry/26006613640918054 2020-11-29T17:57:34+09:00 2022-08-16T10:47:30+09:00 0.前置き 1.恋愛ができないことの辛さとは何か。 2.「お金で買えないかけがえのない価値」とは何か。 3.解決手段としての恋愛 4.生きづらさのありか。 5.今回の内容に関連する参考書籍 0.前置き ※今回は書いていて色々と思うところがあったためです・ます調で書いてます。 1.恋愛ができないことの辛さとは何か。 恋愛についての悩みは古今東西問わずある程度の人に共通する悩みと言えるでしょう。 想いの人と結ばれない悲恋の物語は古典から存在します。 しかし、恋愛ができないことや「非モテ」であることが問題であるように語られるのはある程度時代が進んでからでしょう。 中には恋愛ができないことで人生のほと… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#0前置き">0.前置き</a></li> <li><a href="#1恋愛ができないことの辛さとは何か">1.恋愛ができないことの辛さとは何か。</a></li> <li><a href="#2お金で買えないかけがえのない価値とは何か">2.「お金で買えないかけがえのない価値」とは何か。</a></li> <li><a href="#3解決手段としての恋愛">3.解決手段としての恋愛</a></li> <li><a href="#4生きづらさのありか">4.生きづらさのありか。</a></li> <li><a href="#5今回の内容に関連する参考書籍">5.今回の内容に関連する参考書籍</a></li> </ul> <h5 id="0前置き">0.前置き</h5> <p><span style="font-size: 80%;">※今回は書いていて色々と思うところがあったためです・ます調で書いてます。</span></p> <h4 id="1恋愛ができないことの辛さとは何か">1.恋愛ができないことの辛さとは何か。</h4> <p>恋愛についての悩みは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C5%BA%A3%C5%EC%C0%BE">古今東西</a>問わずある程度の人に共通する悩みと言えるでしょう。</p> <p>想いの人と結ばれない悲恋の物語は古典から存在します。</p> <p>しかし、恋愛ができないことや「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6">非モテ</a>」であることが問題であるように語られるのはある程度時代が進んでからでしょう。</p> <p>中には恋愛ができないことで人生のほとんどの意味を失っているよう語る人もいるのではないでしょうか。今この文章を読んでいる人の中にも恋愛ができないことに悩んだりする人もいるでしょうし、たとえ自分がそうでなくても身の回りで恋愛ができないことで卑屈になってしまう人を目にする人もいるでしょう。</p> <p>現在私たちの生きる社会では、自虐めいたものから深刻な悩みまで、恋愛ができないことや「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6">非モテ</a>」であることは自信を失う大きな原因であると当然のように語られています。</p> <p>もちろん、恋愛ができない以外にも「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6">非モテ</a>」であることの辛さは存在するかと思いますが、今回は恋愛ができないことの辛さに焦点を絞って話を進めたいと思います。</p> <p>しかし、なぜ恋愛ができないことは辛いこととして語られるのでしょうか。</p> <p>よく「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6">非モテ</a>」が辛い原因の説明として、「異性にモテなければ一人前ではない」という社会的な規範が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%B1%C4%B4%B0%B5%CE%CF">同調圧力</a>となって「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6">非モテ</a>」を追い詰めているのだという説があります。</p> <p>モテない人間、恋愛がまともにできない人間はまともじゃないという周囲の視線があるから「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6">非モテ</a>」は辛いんだ、という説明です。</p> <p><span style="color: #1464b3;">もちろん、そういう<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%AC%C8%CF%B0%D5%BC%B1">規範意識</a>による辛さもあるとは思いますが、そもそも恋愛ができないことにも辛さの原因はあるように感じます</span>。</p> <p>どういうことかというと、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6">非モテ</a>」の辛さは恋愛に対する過剰な期待によって引き起こされているものもあるのではないかということです。</p> <p>実際に、恋愛を「お金で買えない」特別で神秘的なものに見立てようとする人はいます。</p> <p>今の世の中、広告メディアや様々なコンテンツ含め日常のあらゆるところで、恋愛が「お金で買えない」特別な価値を持っているものであるように喧伝されてしまっているからです。</p> <p>各種メディアやコンテンツが人々の欲望を作り出すわけですね。</p> <p>メディアが人々の欲望を作り出す例と言えばクリスマスなんかは分かりやすいですね。</p> <p>クリスマスは元はといえば宗教イベントなので、本来恋人と過ごすイベントではないはずですが、メディアではクリスマスを恋人と過ごすイベントとして扱いがちですね。</p> <p>また、クリスマスデートといえばラ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D6%A5%B3%A5%E1">ブコメ</a>作品や恋愛ゲームなどにおいては欠かせないお約束イベントです。</p> <p>そういう人々が憧れたり欲しがったりようなものを描くのがエンタ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E1%A5%B3%A5%F3">メコン</a>テンツの仕事であり、だからコスプレだったり<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%BB%C3%CF%BD%E4%CE%E9">聖地巡礼</a>が流行るわけです。でも、最近はそこら辺のことについて意識している人が減っているような感じもしますね。</p> <p>さて、恋愛の話に戻ると、恋愛はやたらと「お金で買えない」特別な価値があるものとして扱われがちです。そこに、自分の人生に「お金で買えない価値」を与えたいという願望が差し込まれるわけですね。</p> <p>実際、私たちの身の回りにある恋愛の物語では、お金目当てで恋愛することはいけないことで本当の恋愛関係はお金では買えない関係であると強調されることがよくあります。</p> <p>また、恋愛ものではよく「他の誰かではなく、その人でないとダメ」というような関係が望ましいかのように描かれます。</p> <p>つまり、恋愛関係は、財産や地位などではなく、お互いにある固有の価値を認め合う特別強い関係であるという風に描かれることが多いわけです。</p> <p>恋愛関係が「お金で買えない」ことでその恋愛関係が特別な価値を持っているように描かれるのです。</p> <p>恋愛ができないことの辛さは、そういう「お金で買えない価値」が手に入らないことによる辛さもあるように見えます。</p> <h4 id="2お金で買えないかけがえのない価値とは何か">2.「お金で買えないかけがえのない価値」とは何か。</h4> <p>ではなぜ私たちは「お金で買えない価値」にこだわってしまうのでしょうか。</p> <p>その前に、そもそも「お金で買えないかけがえのない価値」とは何かについて考えてみましょう。</p> <p>まずごく単純な事実としてこの世には「お金で買えないもの」「お金で取引されていないもの」があります。</p> <p>「〇〇はお金で買えない」とはよく言われますが、もっと単純な例で言えばプレゼントがそれに該当するかもしれません。</p> <p>例えば私たちはプレゼントの代わりに、お金を渡したりはしないでしょう(あるいは渡したとしてもそれをプレゼントとは呼びません)。</p> <p>プレゼントを選んでその人に渡す行為に意味があると思っているからです。</p> <p>利益だけを考えるなら、その人が買いたいものを買えるだけのお金を渡すのが何よりその人にとっての利益になる可能性が高いです。</p> <p><strong>それでも</strong>我々がプレゼントや贈り物を贈り合うのは、プレゼントや贈り物を贈る行為そのものにそうした利益以上の意味があると考えられているからでしょう。</p> <p>現在の生活で私たちはお金と物やサービスなどの商品を交換して生きています。</p> <p><span style="color: #1464b3;">言い換えれば</span>私たちの生活の基本はお金と商品の等価交換によって成り立っています。無形有形問わず、この世界の大抵のものはお金との交換で移動していくと言っていいでしょう。</p> <p><strong>しかし、</strong>プレゼントのように、私たちは世の中に存在する価値の全てがお金と商品の交換だけで生まれるわけではないことも知っています。</p> <p>他人からの親切であったり、親愛の情であったり、等価交換以外の形式で何かが誰かから「贈られた」と感じられることがあります。</p> <p>ここで重要なのは「本当に大切なものはお金では買えない」と多くの人が考えているということです。</p> <p>少しひねくれた言い方に変えれば、私たちは「お金では買えないもの」をかけがえのない価値のように錯覚したり、そうした大切なものがどこかにあってほしいと願う生き物であると言えるかもしれません。</p> <p>どうして「お金では買えないもの」に真の価値があると思えてしまうのかと言えば、お金で買える価値=値段の付いている価値は比較されてしまうからでしょう。</p> <p>同じアクセサリーでも2千円のものと5万円のものでは5万円のものの方が価値があるように感じられますが、5万円のものと300万円のものでは300万円のものの方が価値が高いように感じてしまいますね。</p> <p>必ずしも値段が質を保証するわけではないですが、値段という数字がついてしまうともうどんなに高い値段がつけられようが、それよりも高い値段のものが現れればその価値は相対的に低く見られてしまいます。</p> <p>売るために作られたわけではない芸術品の価値さえも「値段はいくらするのか」みたいな話でその価値を語る人はいますよね。</p> <p>もちろん、分かりやすいからそうしているのでしょうが、値段で価値を測るのが分かりやすいと感じられてしまう例です。</p> <p>さて、どうせなら価値の高いものを選ぶのが人間です。</p> <p>価値の低いものはやがて捨てられていきます。また、一旦価値の高いものとして選ばれたとしても、より価値が高いものが現れれば皆そちらに行きます。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%DE%A5%DB">スマホ</a>や家電なんかは型が古くなると値段が安くなりますし、最新のものは人気で値段も高いですよね。</p> <p>値段は他のものとの比較で決まるので、値段が付くような価値は変動します。</p> <p>どんなに高かった品物でも新商品や新モデルが出れば安くなっていきます。</p> <p>市場での価値は常に相対的なので絶対的な価値をもつことができません。お金で買える価値は不安定で、比較対象が変われば霞んでしまう価値なわけです。</p> <p>そして私たちは値段がいくらかというような相対的な価値ではなく、他のものと比較できない絶対的な価値にこそ真の価値があると思ってしまいます。</p> <p>多くの人は自分の人生が値段など付けられない、絶対的な価値あるものだと信じたいことでしょう。</p> <p>人生の価値が値段で測られること、自分の人生の価値が常に誰かの人生との比較の上で測られることを私たちは恐れます。</p> <p><strong>もっと言えば、</strong>値段で価値を測り比較することに慣れてしまった私たち自身によって、自分の人生と誰かの人生を比較してしまうことが一番恐ろしいのではないでしょうか。それは、<span style="color: #1464b3;">自分自身が自分の人生をいらないと感じてしまうこと、あるいは自分の人生に自分がいらないと思えてしまうことへの恐怖</span>です。</p> <p>少なくない人が、自分自身や自分の人生が必要なくなってしまうことを恐れ、少なくとも自分にとっては価値のあるものだと思いたいはずです。</p> <p>それは実存の問題であるとともに、必要のないものや価値のないものは捨てるべきという考えが染みついた精神の問題でもあります。</p> <p>必要のないものは捨てるべきだという話は物品だけに限らないからです。</p> <p>仕事や勉強においても、効率化という言葉で私たちはいらない作業を極力減らそうとします。</p> <p>というより、そうやっていらないものを減らして効率化していくことこそ現代の資本主義の精神だとも言えます。</p> <p>現代は、大量生産大量消費の時代と言われますが、それと同時に大量廃棄の時代でもあります。</p> <p>いらないもの、価値の低いものは捨てられるべきという精神が時代の根底にあり、私たちは少なからずそれに縛られて生きているわけです。</p> <p>また、「効率」という言葉が多くの人を虜にするように、私達は無駄を省き必要のないものを捨てる快楽を知ってしまっています。むしろ、その効率化の快楽、いらないものを捨てる快楽を知ることが、社会に適合する上である程度必要なものとすら言えるのではないでしょうか。</p> <p>直接の関係はありませんが、社会に適合できなくなった人たちが物を捨てられなくなっていくのはある意味で示唆的です。</p> <p>物を捨てられない人というのは昔からいますが、彼らを見ていると、いらないものが分からなくて捨てられないわけではなく、いらないものが捨てられてしまうことに対する抵抗感があるようにも見えます(もちろん全員というわけではないですが)。</p> <p>私たちは、価値が低いものは捨てられるのが当然という世界で生きています。私たちは何かをより良くしようとする時に、効率化だったり利益最大化であったり、とにかく無駄で価値のないものを省くためにどうすればいいのかを考えがちです。</p> <p>そんな状況で、自分自身や自分の人生がいらないと感じながら生きることを矛盾だと感じ、それを抱えて苦しむ人はいるでしょう。</p> <p>だから、自分の価値について不安に思った人々は自分の人生に何かしらの形で絶対的な価値を与えたがります。</p> <p>絶対的な価値を与えてしまえばもう「捨てる」ことに怯える必要はないからです。もちろん、自分について不安を感じない人も多くいるでしょうが今回はその話は置いておいて不安に感じる人の話に絞りましょう。</p> <p>不安に陥った人々は、誰かとの比較されて価値が低いものと見なされたくはない、あるいは自分でそう思いたくはないと考えます。</p> <p>だから、自分の人生には比較ではない=お金で買えない価値のあるものだと信じたがります。またそう信じさせてくれるものへすがります。</p> <p>そして、そう信じさせてくれるものの典型の一つとして「恋愛」が存在するわけです。</p> <p><span style="color: #1464b3;">なぜなら、恋愛関係にはお金では買えない唯一の価値があると信じられているからです。</span></p> <p>恋愛ができないことのつらさには、「恋愛ができない=自分の人生に価値がない」と感じられてしまうつらさもあるのではないでしょうか。</p> <h4 id="3解決手段としての恋愛">3.解決手段としての恋愛</h4> <p>実際、「恋愛」に過剰な期待を抱いてしまうのは無理もないことかもしれません(適度な期待とは何かという話は置いておいて……)。</p> <p>私たちの身の回りには打算を伴わない愛のすばらしさを説くドラマが溢れ、愛はお金で買うことのできない本当に価値あるものかのように演出されています。</p> <p>たとえば、物語で恋のライバルが金持ちだったりするのは、恋にはお金で測れない価値があると強調するためでしょう。恋愛の相手がお金持ちの場合は、愛のためならお金なんてどうでもいいという話が必ずと言っていいほど挟まってきたりします。</p> <p>お金持ちだから愛されるという話にロマンを感じる人は多くないでしょう。</p> <p>お金では買えない純愛的な恋愛関係だったり、打算などない無償の愛が大切だという物語はやはり人気です。</p> <p>何でもかんでも比較で価値を付けてしまう世の中で、純愛だけは自分だけの価値を見出せそうな感じがします。</p> <p>それがもっと進むと、相手から恋愛対象として見られることは、自分が唯一の価値を持っていると認めてもらえることのように感じる人がでてきてもおかしくありません。</p> <p>つまり、恋愛対象として見られることで自分が誰とも交換できない(=捨てられない)価値を持った人間であるように感じる人がいるんじゃないかという話です。だからこそ、恋愛のストーリーにおいて「君じゃないとダメ」「他の誰かじゃなくあなたがいい」という愛のメッセージの需要があるのだとも言えます。</p> <p>いわゆる「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6">非モテ</a>」の中には自分が恋愛対象として見られないことを自分の絶望の根源であるかのように語る人間がいますが、おそらくこういうことではないかと私は思っています(まぁ、だからなんだという話ではありますが……)。</p> <p>そういう意味では、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6">非モテ</a>」の問題はよく言われるように性欲だけの問題ではないとも言えます(性の体験だけなら風俗などでも買えますが、さっきも言ったように買えるものでは意味がないからです)。</p> <p>勿論、だからと言って「恋愛」がお金で買えない価値、つまり交換不可能な価値を保証してくれるとは限りません。</p> <p>突き詰めて考えてしまうと、どんな純愛だろうと限界はあります。</p> <p>なぜなら、<span style="color: #1464b3;">純愛に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C7%BC%B9">固執</a>しすぎると「『君じゃないとダメ』『他の誰かじゃなくあなたがいい』と言ってくれる人なら誰でもいい」というような状態になりかねない</span>からです。</p> <p>すなわち「愛してくれるなら誰でもいい」という状態です。実際こういうことを言ってる「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6">非モテ</a>」な人を私は見たことがあります。もちろんこれは一部であり、こじらせると必ず同じように純愛に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C7%BC%B9">固執</a>するようになるわけではないですが。</p> <p>結果として人間関係が発展し純愛が生まれるのではなく、最初から目的として純愛目当てになってしまうとこうなるわけです。</p> <p>そして一旦自分がそういう状態になると、そういう人間は決まって相手を疑い始めます。</p> <p>つまり、「俺(私)じゃなくても、純愛っぽいことができれば誰でも良かったんじゃないか?」という疑念に憑りつかれ始めます(<span style="font-size: 80%;">実際にこういうことを言っている「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6">非モテ</a>」を以下略</span>)。</p> <p>問題の根源は、自己のかけがえのなさの問題がすべてを恋愛によって解決できると思い込まされていることでしょう。</p> <p>実際は、恋愛はそれほど万能でもなく、これらの問題を解決するための必要条件でもなければ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%CA%AC%BE%F2%B7%EF">十分条件</a>でもありません。</p> <p>恋愛をしていても依然としてこれらの問題が解決しない人はいますし、恋愛などしていなくてもこれらが問題にならない人間もいるからです。</p> <h4 id="4生きづらさのありか">4.生きづらさのありか。</h4> <p>今回は恋愛の話でしたが、恋愛だけでなく、家族の物語、友情の物語などでも似たような現象はあると思います。</p> <p>自分のかけがえのない価値を得るためにかけがえのない家族やかけがえのない友情が必要だと考える人は実際にいます。『ワンピース』みたいに疑似家族的な仲間の絆の話は昔からコンテンツとしてかなり人気で、定期的に流行っては消えてを繰り返してますね。</p> <p>人によってどの物語にどれだけ説得力を感じるかは差があることでしょう。</p> <p>私の話で申し訳ないですが、家族や友達関係であまりうまくいってなかった昔の私にとっては家族の物語や友情の物語はうさんくさいものでした。その点恋愛はあまり身近な出来事ではなかったため、ロマンティックな妄想を好きなだけ抱けたというのはありました。</p> <p>ここで話を戻しますが、重要なのは問題の所在です。</p> <p>「恋愛も、友情も、家族も、今のコンテンツで描かれているのは嘘っぱちだ。全て幻想にすぎない」と切って捨てることは簡単ですし、この手の話は昔からよくされていました。</p> <p>しかし、昔から何度もそう言われているにも関わらず現状は変わっていません。</p> <p>というより、その手の指摘がされるたびにコンテンツ側がそれに適応していっていると言えるでしょう。</p> <p>たとえば、物語の中で登場人物の誰かに「所詮美しい愛なんて幻想で~」みたいに喋らせたりするのがそれです。</p> <p>家族の絆の話なら、一応家族の抱える問題のようなものを描いて説得力があるようにしてしまう。</p> <p>「この作品は単純な綺麗ごとや幻想だけでできてるのではなくちゃんと現実見てますよ」って感じにするわけですね。</p> <p>そうするとコンテンツを消費する側も乗りやすいわけです。「この手の話が幻想だって言うのは分かってるよ。分かった上で面白いから見てるんだよ」という具合に。</p> <p>でも、問題は幻想だって分かってるのになんでそれを消費したくなるのかということなわけなんですよね。</p> <p>そうした幻想の中に真実があるじゃないか、現実の中にもフィクションのような美しい愛があるんじゃないかという期待がなければその物語はそこまで消費されるようにならないでしょう。</p> <p>「そんなものないって分かってるけど……」と言いつつそれがどこかにあって欲しいと望むというのはよくあることだと思います。</p> <p>ところで、現実にありそうな問題を描写する際に重要なのは、他の部分は現実味を失くしておくことです。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%F3%A5%C6%A5%F3%A5%C4%BB%BA%B6%C8">コンテンツ産業</a>にありがちな傾向として、現実っぽい世界で、現実にいそうな人間たちが、現実にありそうな問題と直面するという話はあんまりウケがよくありません。</p> <p>「この作品に描かれているのは真実です」という顔をした作品はなんか胡散臭いわけですね。そういうノンフィクションじみたもののリアリティよりも、フィクションの中にあるリアリティの方が真実っぽく見えてしまうんですね。なんでみんな「アニメ名言集」みたいなのが好きなのかという話です。</p> <p>現実にありそうな問題を描きたいなら、世界観か人物のどちらかを現実離れさせておいて、現実にありそうな問題を描く場面で急に真に迫るように描くという方が、消費者は本物っぽいという印象を受けやすいのでしょう。家族愛がテーマの『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/CLANNAD">CLANNAD</a>』とかはキャ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%E9%A5%AF">ラク</a>ターがリアリティないですし、全く別ジャンルですが『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%B6%A4%AC%C7%A1%A4%AF">龍が如く</a>』とかもそうですよね。</p> <p>さて、そうなると問題の所在は、メディアやコンテンツで生産されている「お金で買えない価値」に纏わる幻想に縋りたくなってしまうような私たちの心理にあるのではないかと思えます。</p> <p>つまり、<span style="color: #1464b3;">私たちの身の回りで「お金で買えない大切なもの」がどんどん居場所を失っているんじゃないか</span>ということです。</p> <p>いわば、現代は「お金で買えないかけがえのない価値」が信頼を失っている時代であり、人々が自分の人生のかけがえのなさの感覚を喪失しやすく、そのためコンテンツの提供する幻想に縋るしかなくなっているとも言えると思います。</p> <p>そもそも、<strong>私たちが生きる資本主義社会は「全てのものは交換できる」という思想が根底に存在します</strong>。</p> <p>「お金で買えない価値」もお金で買えるようにしていくのが資本主義の社会だからです。</p> <p>あらゆるものはサービスを含む商品に転換されていきます。</p> <p>しかし皮肉にも、私たちが「お金で買えない価値」を切望すればするほど、それがとてつもなく高い商品価値を持っていきます。</p> <p>今や私たちは「お金で買えない価値」について描かれたエンターテインメントや物語をお金との交換によって手に入れているわけですから。</p> <p>少なくとも「お金で買えない価値」があると信じさせてくれるものが商品として高い価値を持つ程度に私たちは「お金で買えない価値」を求めています。</p> <p>それくらい私たちは「お金で買えないものの価値」を切望しながら、同時に実在性を信じられなくなってしまっています。</p> <p>あらゆるものはどんどんサービスに取って代わられ、大体のものはお金を払えば手に入るものになっていきます。</p> <p>そうやってお金で手に入るようなものが増えると、「お金で買えないもの」がどこにあるのかどんどん見えなくなっていきます。</p> <p>身の回りにサービスとしてありふれ過ぎているせいで他人がしてくれたことに特別感が感じられなくなるわけですね。</p> <p>他人からのプレゼントの値段を知りたくない人もいますよね。</p> <p>それと同じで「これはだいたい~円くらいだな……」と分かってしまうと途端にそれがつまらないものに感じてしまいませんか。</p> <p>お金で買えるものが増えると「お金で買えないもの」に求めるハードルはどんどん高くなるわけです。</p> <p>どんどんハードルが高くなると、身の回りに「お金で買えないもの」はどこにでもあるものではなく神秘的で貴重なもので自分の周りには存在しないような気さえしてきます。</p> <p>言い換えると、それが現実にあって欲しいと思っていてもいざ目の前に現れるとそれが信用できなくなるというアレです。</p> <p>人から愛されたいと願っている人が他人からの好意を信じられないなんていうのはよくある話ですね。</p> <p>先ほどのプレゼントの例で説明しましょう。</p> <p>先ほどの説明ではプレゼントはそれが贈られることに意味や価値を感じるというような話をしましたが、疑問に思った人もいるのではないかと思います。</p> <p><span style="color: #1464b3;">同じプレゼントでも無味乾燥で何も感じないようなプレゼントも存在するから</span>です。</p> <p>極端な例を挙げましょう。</p> <p>例えばプレゼントをもらっても「この人はこうして恩を売っておいて後で自分に何か要求してくるのではないか」とか「この人は単に礼儀でこうしているだけで、お返しをしないときっと怒るだろう」とかその人の打算的感情が気になってあんまりありがたさを感じないこともあるはずです。</p> <p>確かに、世の中には打算的な人間はいますし、「人脈」という資源としてしか人を見ていないような人も存在します。というより、どんな人間も少なからず打算的な感情は存在します。</p> <p>本来多少の打算が混じることはプレゼントの価値にとってそこまで重要な損失ではありません。</p> <p><strong>しかし、</strong>中には世の中の全ての人が打算的な人間に感じてしまって、他人からの善意や気まぐれの親切を上手く信じることができなくなっている人もいます。</p> <p>つまり、人から受けた恩に対して、常に「何かしらの打算があるはず」と疑わずにはいられないような<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%E9%A5%CE%A5%A4%A5%A2">パラノイア</a>の世界に囚われてしまうのです。</p> <p>あって欲しいと思っているのに、目の前のそれが打算でないか病的なまでに気になってしまうということです。</p> <p>あらゆるものがサービスなどの商品になり交換が効率化されていく現状で、人からの贈与を上手く信じることができない人がいます。そこまででなくとも他人から何かを与えられた際、負い目を抱くより先にまずその人の計算や打算的心情を疑ってしまう人はいると思います。</p> <p>そうした人々が計算や打算でないかけがえのない人間関係に飢えているのではないでしょうか。</p> <p>そうした人々は家族、親友、恋人などの関係性が何よりも得難く「お金では買えない」関係性であると強調する物語を好みます。</p> <p>もちろん、個々人が何が一番「お金で買えない」関係性であると感じるかには個人差があるでしょう。</p> <p>場合によっては今挙げたどの関係性も「お金で買え」てしまうと感じられる人もいるでしょう。最近ではレンタル彼女・彼氏なんてサービスもありますからデート体験もある程度買えるようになりましたね(その分"真実の愛"みたいなものに対する憧れは増したとも言えますが)。</p> <p>こう考えると、生きづらさの根源は<span style="color: #1464b3;">過剰に徹底された等価交換の形式</span>にあるとも言えます。</p> <p>お金と商品の等価交換の形式が根底にあるせいで、私たちは交換されるものの価値以外を上手く感じ取ることができなくなっているのではないでしょうか。</p> <p>さて、具体的な解決策についてなんて到底ブログで扱えるものではありませんので、今回の話は問題の所在を示して終わりとさせてください。</p> <p>交換の形式についてはまた別の機会で触れることにしましょう。</p> <p>【関連記事】</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2022%2F04%2F18%2F004404" title="弱者男性論とは何か? ~あてがえ論との関係~ - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/04/18/004404">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <h4 id="5今回の内容に関連する参考書籍">5.今回の内容に関連する参考書籍</h4> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/415209284X/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="それをお金で買いますか――市場主義の限界" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51eoTTmT8+L.jpg" alt="それをお金で買いますか――市場主義の限界" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/415209284X/kyotaro442304-22/">それをお金で買いますか――市場主義の限界</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%A4%A5%B1%A5%EB%A1%A6%A5%B5%A5%F3%A5%C7%A5%EB">マイケル・サンデル</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Michael%20J.%20Sandel">Michael J. Sandel</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2012/05/16</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> ハードカバー</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> (↑お金で買えるものが増えたことによる弊害を事例付きで紹介してくれるサンデル本。サンデルが嫌いな人も事例集として一度見てみては?)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B085NJC1HD/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51DvEkIoSDL.jpg" alt="世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B085NJC1HD/kyotaro442304-22/">世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%E1%C6%E2%CD%AA%C2%C0">近内悠太</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2020/03/11</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> (↑巷で話題の本。サンデルと同じく、「お金で買えないもの」=「贈与」の問題について<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%BD%C2%E5%BC%D2">現代社</a>会の問題を指摘する。後半になるにつれ論点が散漫になっているものの、序盤の切り口はわりと刺激的かもしれない。)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4861990025/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="電波男" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51G7CM0F9XL.jpg" alt="電波男" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4861990025/kyotaro442304-22/">電波男</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%C5%C4%20%C6%A9">本田 透</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2005/03/12</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> (↑言わずと知れた伝説の問題作。純愛にしか救いを見出せなかった末期こじらせオタクの思考は現代の「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%F3%A5%E2%A5%C6">非モテ</a>」達にどれだけ通ずるものがあるのか)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4903145298/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51owHYugnQL.jpg" alt="〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4903145298/kyotaro442304-22/">〈リア充〉幻想―真実があるということの思い込み</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E7%C0%B5%20%BE%BB%BC%F9">仲正 昌樹</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2010/03/02</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本(ソフトカバー)</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> (↑なぜ人は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%A2%BD%BC">リア充</a>に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C7%BC%B9">固執</a>するのかという話。そこまで本格的な話はしていないため、不満がある人も?)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00S7A03K2/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="承認をめぐる病" src="https://m.media-amazon.com/images/I/515imcZ-quL.jpg" alt="承認をめぐる病" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00S7A03K2/kyotaro442304-22/">承認をめぐる病</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%D8%C6%A3%20%B4%C4">斎藤 環</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2015/01/20</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> (なぜ人は承認されたがるのか、その不安について全く違う視点から考えたい人へ。もちろん斎藤氏の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%BA%BF%C0%CA%AC%C0%CF">精神分析</a>の話に信用が置けるかはまた別の話として)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062193167/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント" src="https://m.media-amazon.com/images/I/315hVgN9R-L.jpg" alt="自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062193167/kyotaro442304-22/">自分を傷つけずにはいられない 自傷から回復するためのヒント</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%BE%CB%DC%20%BD%D3%C9%A7">松本 俊彦</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2015/02/18</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> (↑ちょっと話はズレますが、メンヘラを語るためには避けて通れないと言う人も)</p> tatsumi_kyotaro シーライオニングとネット論客の詭弁術 hatenablog://entry/26006613598070287 2020-07-18T23:10:36+09:00 2022-08-20T13:38:58+09:00 1.シーライオニングとは何か? 2.ネット論客のシーライオニング 3.悪質なシーライオニングの問題点。 3.1 追記 4.【関連記事&参考文献】 1.シーライオニングとは何か? 嫌われる行為の一つとしてシーライオニングというものがよく話題に挙がる。しかしこのシーライオニング、実は単に嫌われるというだけでなく様々な問題を含んでいるのではないだろうか。 今回は、シーライオニングとは何かという話と悪質なシーライオニングが蔓延することの問題点について考えていきたい。 まず、シーライオニング(sealioning)とはウェブ漫画家David Malki !の描いた漫画から派生して生まれた概念である(UR… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#1シーライオニングとは何か">1.シーライオニングとは何か?</a></li> <li><a href="#2ネット論客のシーライオニング">2.ネット論客のシーライオニング</a></li> <li><a href="#3悪質なシーライオニングの問題点">3.悪質なシーライオニングの問題点。</a><ul> <li><a href="#31-追記">3.1 追記</a></li> </ul> </li> <li><a href="#4関連記事参考文献"> 4.【関連記事&参考文献】</a></li> </ul> <h4 id="1シーライオニングとは何か">1.シーライオニングとは何か?</h4> <p>嫌われる行為の一つとしてシーライオニングというものがよく話題に挙がる。しかしこのシーライオニング、実は単に嫌われるというだけでなく様々な問題を含んでいるのではないだろうか。</p> <p>今回は、シーライオニングとは何かという話と悪質なシーライオニングが蔓延することの問題点について考えていきたい。</p> <p>まず、シーライオニング(sealioning)とはウェブ漫画家David Malki !の描いた漫画から派生して生まれた概念である(URL: <a href="https://wondermark.com/1k62/">https://wondermark.com/1k62/</a> )。</p> <p><img src="http://wondermark.com/c/2014-09-19-1062sea.png" alt="I will have eggs over easy with toast, please." /></p> <p>簡単に言うとシーライオニングとは、上の漫画のアシカ(シーライオン)がやっているようなことである。</p> <p>漫画の内容としては、左上から</p> <p>①「他の海の哺乳類はそこまでじゃないんだけど、アシカ(シーライオン)はなんか嫌」と口にしてしまった婦人。</p> <p>②「たまたま聞こえちゃったんだけど」とやってきたアシカ(シーライオン)</p> <p>③通りすがりの一般アシカ「ちょっと伺いたいのですが、アシカ(シーライオン)があなたに悪い影響を及ぼした証拠でもあるんですか?」「あなたの意見を根拠付けるものがあるか知りたいんですが?」と次々と質問を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%DE%A4%B9">かます</a>。</p> <p>④「どっか行って」と婦人。</p> <p>⑤アシカ、結局家までついてきて「公共の場であんなこと言ってたのに答えられないんですか?」「それとも論理的な議論ができないのですか?」と煽りまくる。</p> <p>⑥「今、朝食を食べてる」と婦人、「分かりました。では1時間後にまた」とアシカ、結局帰らない。</p> <p>と、こんな感じである。</p> <p>確かにこんなことをやられてはこの漫画の世界でアシカが嫌われてしまうのも理解できる。それにしてもこの作者、アシカに何の恨みがあるのだろうか。</p> <p>まぁ、そんなことはさておき、該当漫画のアシカのような質問の仕方は確かに<ruby><rb>質</rb><rp>(</rp><rt>たち</rt><rp>)</rp></ruby>が悪い。</p> <p>議論で嫌な思いをした人なら分かるかもしれないが、<span style="color: #d32f2f;">質問文や疑問文と言うのは、単に自分が知りたいことを相手から聞き出すためだけに使われるわけではない。</span></p> <p>特に、議論において、相手をやりこめるために簡単には答えることができないと分かった上で質問をするということはよくあることだ。</p> <p>そのような質問は修辞疑問文と呼ばれている。</p> <p>例えば、議論において「私がいつそんなことを言いましたか?」という疑問文は、自分の言ったことを忘れてしまったから相手に尋ねようとしているのではないだろう(<span style="font-size: 80%;">昨日の飲み会の席での発言を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%D2%EB%A4%E1">咎め</a>られたものの二日酔いで覚えていないとかそういう状況だった場合は話は別だが</span>)。その疑問文の意味することは「私はそんなことは言ってません」ということであり、誤解した相手を責めるものだというのはすぐに分かる。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">簡単に言えば議論テクニックとしての修辞疑問文とは、相手に反論するよりも効果的に相手を論駁するために反語的に疑問文の形を取っているもののことだ。</span></p> <p>さきほどの漫画においてアシカがやっていたのは、質問に見せかけた修辞疑問文による攻撃である。確かにアシカの意図は分からないので、アシカは本当に相手を攻撃するつもりなどなくただ純粋に好奇心で聞いているという可能性も否定はできない(<span style="font-size: 80%;">その場合余計に質が悪いですが</span>)。</p> <p>だが、作為的であろうとなかろうとアシカの質問は修辞疑問文の攻撃的な機能を持ってしまっている。</p> <p>確かに議論テクニックとして修辞疑問を使うのはよくあることだろう。それだけでは質が悪いとまでは言えないだろうが、アシカの質問の仕方がいやらしいのは、それぞれ論点の違う質問を繰り返し相手にのみ説明のコストを払わせようとしている点だろう。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">シーライオニングという語の定義は使用者によってブレがあり、曖昧なところが多いが、<strong>あえてまとめるとすれば</strong>、礼儀正しく誠実なふりをしながら、相手に意地の悪い修辞疑問文を繰り返しぶつけて相手を疲弊させるような行い</span>のことと言ってよいだろう。</p> <p>では、そもそもなぜ議論において修辞疑問文が使用されるのだろうか。</p> <p>それは、ひとえに修辞疑問文が議論において平叙文よりも効果的な反論方法になりえるからである。</p> <p>先ほどのアシカで考えよう。</p> <p>アシカは何も答えられないでいる婦人に対して「論理的な議論ができないんですか?」と問いを投げた。形だけ見れば、これは「はい」か「いいえ」のどちらかの回答を求めるものである。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">しかし、この質問は「はい」と「いいえ」のどちらで答えても婦人が追い込まれるようになっている。</span></p> <p>婦人が「はい」と答えた場合、婦人は半ば自らの論理的能力の欠如を認める形になる。これは婦人としてはかなり屈辱的である。</p> <p>逆に「いいえ」と答えた場合、アシカは「では、あなたの意見を根拠付けるものは何ですか?」とすかさず最初の問いを投げかけることだろう。こうなると婦人はこのアシカの質問に答えないでいることが難しくなってしまう。</p> <p>だから婦人は沈黙を選ぶわけであるが、仮にこれが議論の場であった場合、相手からの質問に対して沈黙を選ぶと、周りからは合理的に反論する能力がないという判断をされる可能性がでてしまう。特に、自ら考えることを放棄し「論破した風」の議論を好む人々にとっては沈黙は馬鹿の証左であると捉えられてしまうことだろう。</p> <p>このように、問いはそれを作った側が自分に都合よく言葉を選べる点で優れた武器となるのである。</p> <p>ここでもう一度漫画に戻って考えよう。</p> <p>アシカの「アシカ(sea lion)があなたに悪い影響を及ぼした証拠でもあるんですか?」という問いは、婦人の意見に根拠があるかないかを聞く形を取っている。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">しかし、この問いもよく考えればアシカ側にとってかなり有利に言葉が選ばれているのだ。</span></p> <p>アシカは婦人に根拠を問うているが、そもそも婦人が語ったのは何かしら根拠を用意すべき意見なのだろうか?</p> <p>婦人があの場で語っているのは「アシカ(sea lion)はなんか嫌」という個人的な趣味趣向の話であり、過去アシカが自分に対して被害を与えたとは言っていない(あくまであの場面だけを見れば)。婦人の話が個人の趣味趣向の域を出ない限りは、そこに「根拠」が用意されるべき明確な理由はない。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">アシカは婦人の趣味趣向の話を、婦人が根拠を用意すべき意見と読み替え、それを自らの修辞疑問文の中に混ぜることで「答えることのできない問い」を作り、それを婦人に対してぶつけているのだ。</span></p> <p>このように、修辞疑問文を投げかけることは時として意地悪な攻撃になりうるのである。このような質問を繰り返して相手を疲弊させては議論が成り立たないだろう。</p> <p>無論、<span style="color: #d32f2f;">シーライオニングをしたからと言って即座に倫理的に批判されるべきだというわけでもないのでここに関しては注意しなければならない。</span>シーライオニングを行うことそれ自体は如何なる場合においても正当化できない行為というわけではない。</p> <p>これは例えばシーライオニングを行う者が社会的マイノリティ、被差別者だった場合を考えれば十分だろう。あの漫画で描かれていたのがアシカではなく黒人だった場合、婦人の発言は単なる個人的趣味趣向の域から逸脱してしまう。</p> <p>言葉は常にそれが発せられた文脈と共に理解されるからだ。</p> <p>その場合、シーライオニングは正当化不可能と言い切れないだろう(いや、住居侵入とかはダメだと思いますが)。</p> <p>無論、シーライオニングの定義に曖昧な箇所があるため、悪質な行為のみをシーライオニングと定義するのであれば私の批判にはあたらないだろうというのは付け加えておきたい。</p> <p> </p> <h4 id="2ネット論客のシーライオニング">2.ネット論客のシーライオニング</h4> <p>さて、質問の形で問いを投げかけるのは相手を論駁する攻撃手段としても有効であるというのは先ほど説明した通りである。</p> <p>気に入らない相手をやり込めるために答えにくい問いを投げかけて黙らせるということは日常でもままあることだろう。それに、議論テクニックとしての修辞疑問は実際便利である。</p> <p>問題は<ruby><rb>質</rb><rp>(</rp><rt>たち</rt><rp>)</rp></ruby>の悪いシーライオニング(=質問攻撃)が議論の場で多用されるようになると「論破した風」の議論空間が醸成されるようになることだ。</p> <p>以前の記事ではネットにありがちな相手をやりこめることを目的とした議論を便宜的に「議論ゲーム」とに呼ぶことにしたが、こうした「議論ゲーム」が問題なのは、議論の前提と目的が共有されていないからである(↓以前の記事)。</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="ネットの議論が不毛な理由 - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2019%2F01%2F01%2F234249" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2019/01/01/234249">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p><span style="color: #d32f2f;"> つまり、ネットの議論では問いを投げる質問者側が自由に論点を設定することが正当であると見做されてしまうのである。問題はそれである。</span></p> <p>例えば「社会のこういう箇所に差別があるのではないか」という問題提起なら「そもそも差別とは何か」と問いを立てる事が正当な行いに見えてしまうのだ。確かにそれは重要な問いだが、論点としてはズレてしまうだろう。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">本来議論はその都度優先すべき論点に沿って行われるのが望ましい。</span><strong>議論する上での最低限の前提が共有できていない場合</strong>など、<strong>別の論点の方を優先すべき場合</strong>などを除けば、「そもそも差別とは何か」という質問は論点をズラすものでしかない。</p> <p>仮に、問題提起側がその質問に答えたとしても「では、差別はなぜいけないのか」とまた質問者側に論点を設定しなおされては議論が無限に後退する。これでは一向に議論が進まない。</p> <p>しかも、これに答えないで無視していると彼らは「一般人からの質問に答えられない不誠実な議論をしている」とか「納得しない人を置き去りにして自分達だけが納得できる議論をしている」といった印象論を展開して攻撃するという手段を取ることができる。相手が自分を無視したまま議論を続ければ印象論で攻撃するのだ。</p> <p>質問者側は次々と質問を投げ掛けるだけで議論の進行を妨げる事ができるし、無視されたら無視されたで印象操作するような議論を始めるのである。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">そして、この構図の最も非対称な点は、質問者側が何のリスクも負わない事である。</span></p> <p>たとえ問いに答えられたとしても質問者側の説得力が落ちるわけではない。</p> <p>そもそも質問者側は意見を言っていない。ただ質問をしただけである。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">だから、相手をやりこめるだけなら直接反対意見を言うのでなく、「素朴な疑問」を口にするフリをして相手が答えられなくなるまで質問を繰り返せばいいのだ。</span>相手がそれに怒れば「感情的」というレッテルを貼ればいい、最悪質問全てに答えられても自分にとってマイナスはない。それはあくまで当事者が答えるべき答えただけということにされてしまうのだ。</p> <p>「議論ゲーム」では質問者側に立てば、自分が一方的に問う側に立ちながら、自分の意見を言わない事によって優位を保てる。これに対して「じゃあ解決の為のあなたの意見を聞かせてください」と聞き返すのも無駄なことだろう。「私は素人なのでわかりません。あなたたちが当事者なのですから解決策はあなたたちが提示してください」と言われるのがオチである。つまり、「情けない専門家(あるいは当事者)が、自分達では答えが出せないから素人に対して意見を求めた」という構図にされてしまうのだ。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">通常、議論に参加している以上、問う側は同時に問われる可能性に晒される。「ではあなたの意見はどういうものか」と。</span>意見が出せないのであれば議論の場にいる意味などないのだからこの切り返しは当然である。</p> <p>しかし、ネットの議論はそこらへんがよくも悪くも「平等」である(いい意味でも悪い意味でも)。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">ネットでは、自分なりの解釈や意見を用意していない人間の質問も「平等」に取り扱われてしまう。</span></p> <p>ネットにおいては議論の参加者全員で一つの結論を出すという合意が存在することは稀なのだ。だから、質問者が何の意見も持たず質問してこようが、議論が停滞しようが、痛手を被るのは真面目に問題を解決しようとした側の人間だけというわけだ。</p> <p>これが特にネットの議論で悪質なシーライオニングが有効な理由である(無論、現実の議論ではシーライオニングは存在しないと言いたいわけではない)。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">たとえるなら「議論ゲーム」は時間制限のない記者会見のようなものだ。「議論ゲーム」においてはシーライオニングないし問いを投げかけることはある種の戦術性を帯びるわけである</span>(ところで、有名なネット論客である青識亜論などは質問を投げかけることを議論の軸としているらしい)。</p> <p> </p> <h4 id="3悪質なシーライオニングの問題点">3.悪質なシーライオニングの問題点。</h4> <p>悪質なシーライオニングは単にリスクが少ないだけではない。</p> <p>ここで、東京医科大が入学試験の際に女子受験者の得点を一律に減点し、女子の合格者数を抑えていた問題を取り上げよう。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">この問題について、ネットでは幾度となく「議論ゲーム」じみたことが行われていたが「そもそも<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%BA%B9%CA%CC">女性差別</a>とはなにか」という疑問が投げかけられることも少なくなかったというのは想像に難くない話だ。</span></p> <p>この手の質問を投げられると問題提起者たちは「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%BA%B9%CA%CC">女性差別</a>の定義」についてまず語らなければならなくなる。<span style="color: #000000;">仮にこの質問に答えなければ「自分達の前提を疑う事の出来ない愚か者たちの議論」というレッテルを貼られてしまう可能性があるからだ。</span></p> <p><span style="color: #d32f2f;">無論「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%BA%B9%CA%CC">女性差別</a>とは何か」という論点は重要だろうが、それは本来別の議論のはずだ。</span>だが、このような議論の棲み分けこそ「あいつらは大衆に定義を説明しないまま議論をしている」という批判を生み出してしまう<span style="color: #d32f2f;">。</span></p> <p><span style="color: #d32f2f;">そして、たとえこれに答えたとしても、「では<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%BA%B9%CA%CC">女性差別</a>はどこが問題なのだろうか」という新たな問いを後出しされて延々と議論が錯綜する羽目になるというわけだ。</span>それどころか、シーライオニングにより無限に広がった論点は新たな質問者を呼び寄せてしまうことにもなる。この問題でいうと、例えば以下のような人たちが出てくる。</p> <p>①「女子受験者の得点を一律に減点することは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%BA%B9%CA%CC">女性差別</a>だとは思わない」という人</p> <p>②「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%BA%B9%CA%CC">女性差別</a>とは何かについて異論がある」という人</p> <p>③「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%BA%B9%CA%CC">女性差別</a>は問題ではない」という人</p> <p>などなど、三つに収まるわけがないのだが、ともあれ論点が無限に増えれば、その複数の論点に対してそれぞれに異論がある複数の人間から集まってくる。</p> <p>そしてその度に、問題提起側は複数の人間から質問(の形をした攻撃)を受ける羽目になる。どこか一つでも、誰か一人でも答え損ねるとそこが集中砲火を食らって炎上するという顛末になる。</p> <p>質問することが問題なのではない、質問をしてくる人々が「これは問題じゃない」と言うためだけに、自ら主張することなく質問を繰り返していたのが問題なのだ。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">つまり、個々の質問行為自体に悪質性があるというより、個々の質問が議論の論点を錯綜させて議論全体が無茶苦茶にされるという構図に悪質性がある。</span></p> <p>この構図はマイノリティの議論において顕著になる。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">悪質なシーライオニングが蔓延するとマイノリティ側や社会的弱者が攻撃を受けやすくなるのだ。</span></p> <p>シーライオニングが有効なのは、それをされた側が質問に答えなければならないような状況においてのみである。</p> <p>さきほど悪質なシーライオニングの質問に答えないでいると、内輪向きで独善的な議論をしているという印象操作をされる可能性があると書いたが、そういう印象操作によって一番被害を受けるのは、広く世の中の人に訴えかける必要のある人間あるいは社会の変革を求める人間である。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">これは簡単で、マイノリティ側が変革を求める場合はマジョリティ側に対して話を聞いてもらう必要があるのに対して、マジョリティ側はそうではないからだ。</span></p> <p>例えば、一部の妄信的な人間を囲ってサロンで小金儲けをすることが目的の人間には何も痛手ではない(むしろ時間も手間もかけず勝手に名前が広まるなら、彼らは喜んで炎上するだろう)。</p> <p>それに対して、現状は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%F8%BA%DF%C5%AA">潜在的</a>な賛同者が少なく、これから連帯を求めて社会に訴えかける必要のある人間にとって内輪向きで独善的な議論をしているという印象論が喧伝されることはかなり痛手になりうる。なぜなら彼らにとって必要なのは少数の顧客と賛同者ではなく、その問題を知らなかった人に興味と関心を持ってもらうことだからだ。</p> <p>印象論がどれだけ有害になりうるかについては、人間が知ったかぶりや先入観で人を悪く言いたがる生き物であることを考えれば済むだろう。</p> <p>知ったかぶりのにわか知識で何かを批判したがる人間は誰しも一度は目にしたことがあると思うし、きっと誰しも一度は知ったかぶりのにわか知識で何かを適当に批判した経験があることだろう(<span style="font-size: 80%;">他人がやっているのは見たことがあるが自分はやったことがないという人はいるだろう。多分、その人は自分について知ったかぶりをしているのだと思う</span>)。</p> <p>真面目な話に戻ろう。</p> <p>悪質なシーライオニング的質問に答えなかった場合の「ペナルティ」が比較的大きいのは理解者の少ない状態でこれから社会を変える必要のある人間、連帯が必要な人間である。つまり多くの場合において悪質なシーライオニングが蔓延することは、社会的弱者やマイノリティ側で議論する人間にとって害が大きいのである。</p> <p>一方、現状を変化させる必要のない者達は現状のシステムを維持すればいいだけなので質問を無視して印象論をぶつけられようが大して被害はない。というより、少数派が印象論で攻撃ばかりしていたら得られる賛同も得られなくなってしまうだろう。</p> <p>このように悪質なシーライオニングが蔓延することで一番得をするのは現状肯定派であり、問題否認派であり、かつ数が多い方である。</p> <p>悪質なシーライオニングが当たり前になった空間では、問題提起側は本来の議論などできるはずもなく、無限に呼び寄せられた反対者達から次々とバラバラの論点の質問を繰り返し受けて言説自体が委縮していくというのは想像に難くない。</p> <p>議論の前提を無視してみせる明らかに挑発的な修辞疑問文も「素朴な疑問」として通用するようになってしまうと、知的誠実さを装いながら問題提起側を攻撃するのは容易になるだろう。</p> <p>もし相手が怒りでもすれば儲けものである。「あの人たちの議論は感情的だ」という印象を与えて説得力を失墜させることも可能だろう(ところで、某ネット論客は、しばしば相手に挑発的な修辞疑問文を投げつけ怒らせることで相手の滑稽さを強調するそうである)。</p> <p><span style="color: #d32f2f;">「議論ゲーム」で悪質なシーライオニングが度々行われるようになると、質問者側が自由に論点を設定することに誰も疑問を抱かなくなるだろう。これは、次から次へと論点をずらし続けることで無限に質問を繰り返せることを意味する。</span></p> <p>この時、議論は「素人目線の」「素朴な」疑問に答え続けさせる記者会見じみた様相を呈する。</p> <p>この記者会見のような状況では、問題提起が相対化され訴求力を失っていく。</p> <p>悪質なシーライオニングが多用されることは、疑問が持ち込まれることで論点が明らかになるというよりはむしろ議論によって得られるものの価値を毀損してしまいかねない。</p> <p>ここで再度注意したいが、質問を繰り返すこと自体が悪いわけではないということだ。重要なのは、その場において何が重要な論点なのかを互いが共有しているかどうかだ。より重要な論点が見失われているというのであれば、その論点に差し戻す必要はあるだろう。</p> <p><strong>自分の意見も言わず、次々と質問をして新たな論点にずらしていき、議論の重要な論点は何かを見失わせることを誠実な議論に見せることが悪質なのだ。</strong></p> <p>日々ネット上で行われる「議論」は見かけ上は誠実に見えるかもしれない。しかし、彼らがなぜ「議論」をしたがるのか、我々はもう少し敏感になるべきなのではないだろうか。</p> <h5 id="31-追記"><span style="font-size: 80%;">3.1 追記</span></h5> <p><span style="font-size: 80%;">※アシカのセリフに関して訳が違うのではないかという話があるようですが、発話者の言い方によって意味に幅は出るものの"I could do without sealion"に「アシカを排除するべき」「ア<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%AB">イカ</a>は絶滅してほしい」までの強い意味はでないかと思います(念のため在米経験のある友人何人かにも確認はしました)。意訳をしたつもりでしたが「アシカいらんくない?」「私は別にアシカいらん」の方が正確であるというのはそうかもしれません。ともあれ婦人も結構ひどいことを言いますよね(笑)。この場合、質の悪い絡み方をしたアシカに目が行くかそもそも絡まれるようなことを言った婦人に目が行くか、あるいは全く別の点に気が付くのかは漫画の解釈、読み手によって分かれるところでしょう。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;">※わざわざ書く必要もないと思って書かなかったのですが、この手の概念は他の概念(藁人形論法とか)と同様にレッテル貼りとして機能してしまいがちです。しかもシーライオニングの定義も未だ使用者によってブレがある状態ですから実際に使うと「お前のしてることはシーライオニングだ」「違う、真っ当な質問だ」と水掛け論になってしまうと思います。それはそれで不毛な議論になってしまうのでお互いそれには気を付けて、論点をはっきりさせて議論しましょう</span><span style="font-size: 80%;">。</span></p> <p><span style="font-size: 80%;">※個別具体的の議論においてテクニックとして修辞疑問を使うのが悪いと言いたいわけではないのですが、読解力のない人には分からなかったようです。むしろ修辞疑問を使うことで論点がはっきりする、より効果的反論になるという場合は多くあると思います。あくまで無限に論点がズレていく議論が正しいかのような風潮は望ましくないんじゃないかという話です。</span></p> <h4 id="4関連記事参考文献"> 4.【関連記事&参考文献】</h4> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F12%2F27%2F122601" title="なぜ論破する方法やコツを学ぶことは無意味なのか?~議論に強くなりたいなら~ - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/12/27/122601">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F12%2F31%2F234424" title="議論が苦手な人のための議論の方法 - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/12/31/234424">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <div class="hatena-asin-detail"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4766410858/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="大学で学ぶ議論の技法" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51Y4Q2DVPJL._SL160_.jpg" alt="大学で学ぶ議論の技法" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4766410858/kyotaro442304-22/">大学で学ぶ議論の技法</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span> ティモシー・W.クルーシアス,キャロリン・E.チャンネル,Timothy W. Crusius,Carolyn E. Channell,杉野俊子,中西千春,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%CF%CC%EE%C5%AF%CC%E9">河野哲也</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C4%D8%E6%B5%C1%BD%CE%C2%E7%B3%D8">慶應義塾大学</a>出版会</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2004/09/01</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">購入</span>: 2人 <span class="hatena-asin-detail-label">クリック</span>: 30回</li> <li><a href="http://d.hatena.ne.jp/asin/4766410858/kyotaro442304-22" target="_blank" rel="noopener">この商品を含むブログ (10件) を見る</a></li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4469213721/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="議論学への招待―建設的なコミュニケーションのために" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41I5gidADKL._SL160_.jpg" alt="議論学への招待―建設的なコミュニケーションのために" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4469213721/kyotaro442304-22/">議論学への招待―建設的なコミュニケーションのために</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span> フランス・H・ファン・エイムレン,A・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%E9%A5%F3%A5%B7%A5%B9%A5%AB">フランシスカ</a>・スヌック・ヘンケマンス,松坂ヒロシ,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%EB%CC%DA%B7%F2">鈴木健</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> 大修館書店</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/08/28</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> <li><a href="http://d.hatena.ne.jp/asin/4469213721/kyotaro442304-22" target="_blank" rel="noopener">この商品を含むブログを見る</a></li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480097422/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="議論入門: 負けないための5つの技術 (ちくま学芸文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41Rn5z8XxyL._SL160_.jpg" alt="議論入門: 負けないための5つの技術 (ちくま学芸文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480097422/kyotaro442304-22/">議論入門: 負けないための5つの技術 (ちくま学芸文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E1%C0%BE%BD%A8%BF%AE">香西秀信</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%DE%CB%E0%BD%F1%CB%BC">筑摩書房</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2016/08/08</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> <li><a href="http://d.hatena.ne.jp/asin/4480097422/kyotaro442304-22" target="_blank" rel="noopener">この商品を含むブログを見る</a></li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p><a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4480097600/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4480097600&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=a9aa0961ac6df6c6b61fb723a6f9a4cd" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=4480097600&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL250_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=4480097600" alt="" width="1" height="1" border="0" /></p> <p> </p> tatsumi_kyotaro 女性専用車両やレディースデイは男性差別か? hatenablog://entry/26006613551668158 2020-06-07T22:41:45+09:00 2022-08-16T10:48:44+09:00 0.はじめに この記事では、男性差別のような逆差別と呼ばれるものについて考え検討する。 前回までの記事で差別はなぜ悪質かについて見てきたが、今回男性差別のような逆差別について考えるのは、「逆差別を無視している」というよくある批判に答えるためだ。 そしてそのためにはそもそも逆差別とは何かについて検討が必要なのだ。 逆差別の問題として頻繁に取り扱われるのは女性差別に対する男性差別だろう。 男性差別と言われるような事例としてはよく以下の二つが挙げられる。 ・女性専用車両 ・レディースデイ この記事では議論の訴状に挙がることの多い男性差別を例に逆差別について考えていきたい。 1.男性専用車両がないのは… <h4 id="0はじめに">0.はじめに</h4> <p>この記事では、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CB%C0%AD%BA%B9%CA%CC">男性差別</a>のような逆差別と呼ばれるものについて考え検討する。</p> <p><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/04/19/120235">前回までの記事</a>で差別はなぜ悪質かについて見てきたが、今回<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CB%C0%AD%BA%B9%CA%CC">男性差別</a>のような逆差別について考えるのは、「逆差別を無視している」というよくある批判に答えるためだ。</p> <p>そしてそのためにはそもそも逆差別とは何かについて検討が必要なのだ。</p> <p>逆差別の問題として頻繁に取り扱われるのは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%BA%B9%CA%CC">女性差別</a>に対する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CB%C0%AD%BA%B9%CA%CC">男性差別</a>だろう。</p> <div> </div> <div><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CB%C0%AD%BA%B9%CA%CC">男性差別</a>と言われるような事例としてはよく以下の二つが挙げられる。</div> <p>・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%C0%EC%CD%D1%BC%D6%CE%BE">女性専用車両</a></p> <p>・レディースデイ</p> <p>この記事では議論の訴状に挙がることの多い<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CB%C0%AD%BA%B9%CA%CC">男性差別</a>を例に逆差別について考えていきたい。</p> <h4 id="1男性専用車両がないのは差別か">1.<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CB%C0%AD%C0%EC%CD%D1%BC%D6%CE%BE">男性専用車両</a>がないのは差別か?</h4> <p>差別は基本的にはマイノリティや相対的な弱者の立場にいる人間に対して起こるものと考えられる。</p> <p>差別の議論においては「誰が」「どのような立場にいる人間に対して行うのか」という二点が重要になってくる。行為そのものが問題になるわけではないのだ。</p> <p>これは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%EF%A5%CF%A5%E9">パワハラ</a>の問題を考えると分かりやすいだろう。</p> <div><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%EF%A5%CF%A5%E9">パワハラ</a>も差別と同様に比較的に強い立場にいる人間が弱い立場にいる人間に行うから問題になるのだ。社員が社長に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%EF%A5%CF%A5%E9">パワハラ</a>というのはまず聞かない。</div> <div>行為者や発言者によって発言の意味合いが変わるというのは言葉の当たり前の機能である。</div> <div>例として挙げるなら、恐喝や脅しもそれが実行できる力を持っている者が行うから恐喝や脅しとして機能するのだ。</div> <div>行為者とその相手の関係性に関係なく行為の悪質さが決定するわけではない。</div> <div>差別も同様に立場の強い人間が立場の弱い人間に行っていることが問題になるのである。</div> <div><span style="color: #1464b3;">差別の悪質さはどんな立場の人間がどんな立場の人間に対してそれを行ったのかによって決定する。</span></div> <div>また、その人がどのような立場の人間なのかについては、その人の性別や人種などの属性が持つ社会的な背景や歴史が関連してくる。</div> <div>よって性差別の悪質さは、男性という属性を持つ集団と女性という属性を持つ集団の社会的な力関係や関係性の歴史によって決まると言える。</div> <div>なぜそう言えるのかについては今までの記事で見てきた(余談だが、URLを貼り付けても読まずに文句を言ってくる人間というのは一定数いる)。</div> <div> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="差別と区別の違い~「差別ではなく区別」は本当か~ - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F03%2F01%2F200417" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/03/01/200417">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="偏見で語ることと差別の違い - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F03%2F28%2F230457" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/03/28/230457">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="差別はなぜいけないのか - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F04%2F19%2F120235" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/04/19/120235">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> </div> <div>逆差別と呼ばれるものが比較的弱者から比較的強者へ行われるものであれば、基本的にそれは差別とは性質を異にするものだ。</div> <p>ただ、逆差別と呼ばれるものの中に差別があるかもしれないことは否定しない。それについては後述したい。</p> <p>さて、逆差別と呼ばれるものを「立場の逆転した差別」だと言う人の多くは、反転可能性テストを誤って使っている場合が多い。</p> <p>反転可能性テストは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%E6%BE%E5%C3%A3%C9%D7">井上達夫</a>が提唱した言説の妥当性を測る方法論である。</p> <p>自分と相手を入れ替えて考えた時に、自分が受け入れられないと感じるのならその行動や要求は正義ではないというのである。</p> <p>例えば、自分が「専門家でもないバカは黙ってろ」と言われることが受け入れらないと感じるのであれば、それを他人に言うのは妥当ではないと推測されるわけだ。</p> <p>反転可能性テストは自分が相手に対して何か主張する場合、自分と相手の位置を反転したとしても受け入れられるかどうかを考えることで、その要求が正義であるかどうかを測るのが反転可能性テストの意味である。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4006003587/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="自由の秩序――リベラリズムの法哲学講義 (岩波現代文庫)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41YQMOI-wLL._SL160_.jpg" alt="自由の秩序――リベラリズムの法哲学講義 (岩波現代文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4006003587/kyotaro442304-22/">自由の秩序――リベラリズムの法哲学講義 (岩波現代文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%E6%BE%E5%20%C3%A3%C9%D7">井上 達夫</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2017/03/17</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> </div> </div> <p><span style="color: #1464b3;">簡単に言ってしまうと「相手の側に立って考えよう」というものだが、これを差別問題で使う場合には注意しなければならない。</span></p> <p>差別の議論では、被差別者側からの要求はこの反転可能性テストをクリアしていないという批判のされ方をしている(この世には反転可能性テストを自分の論には適用せずに相手に要求する人が多く存在する)。</p> <p>例えば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%C0%EC%CD%D1%BC%D6%CE%BE">女性専用車両</a>が問題視される時、それが「女性」専用車両ではなく「男性」専用だった場合を考えようというのはよく言われることである。もしこの世に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CB%C0%AD%C0%EC%CD%D1%BC%D6%CE%BE">男性専用車両</a>だけが存在しているのであれば問題であるので当然<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%C0%EC%CD%D1%BC%D6%CE%BE">女性専用車両</a>だけが存在するのも問題であるというわけである。</p> <p>しかしこれらの批判は次の三つの点を考慮していない。</p> <p>一つ目は相手の視点も反転させなければいけないという点。</p> <p>例えば、自分が殴られてもいいと考えているからといって、相手を殴っていいとはならないだろう。</p> <p><strong>相手の視点では目の前の人間に殴られたくないと考えているかもしれない。</strong>その場合、反転可能性テストは「殴られたくないと考えている相手の視点」も反転しなければならない。反転可能性テストでは相手の視点も考慮しなければならないのだ。</p> <p>二つ目は「立場」を反転させる必要がある点だ。</p> <p>「普通の人間にとって大勢の人から批判されることは苦痛である。よって、同じ人間である政治家に対して大勢で批判することはいけない」という反転可能性テストは正しいのだろうか。</p> <p>まず、政治家は実際に多くの人の生活を左右する権力を持っており、その仕事によって多くの人が不幸にも幸福にもなりうる。当然、政策の失敗によって影響を受ける人の数も多い。政治家は権力を持つと同時に重大な責任を負う地位にいる。そしてその責任を追及する為に批判することは正当な権利である。</p> <p>人々の生活を左右する権力者の「立場」にいる人間を批判することと、そうでない他の人を批判することの間には大きな差がある。</p> <p>「立場」が違う以上、その「立場」も反転する要素に入れなければならない。自分が責任を負う立場にいた場合も、批判が苦痛だからという理由で批判をさせないことは正しいことではないだろう。</p> <p>三つ目は完全な反転可能性は存在しないことを理解することだ。</p> <p>相手の視点を考えたとしてもそれは自分の想像でしかない。どんなに想像力を尽くしたとしても真に相手視点に立てるわけではない。</p> <p>同様に「立場」もそれがどの程度相手と自分で非対称なのかは数値化することはできない。またその人の「立場」というのは組織内での地位や役職だけではなく、その人の持つ性別や人種などの属性が社会においてどのように扱われてきたかという歴史とも関連する。</p> <p>その「立場」を考慮する時に、その人の持つ属性集団の歴史的な背景や社会的地位まで計算に入れなければならないとなるとさらに事態は複雑になるだろう。</p> <p>無論、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%E6%BE%E5%C3%A3%C9%D7">井上達夫</a>がこれらの点を考慮した上で反転可能性テストの重要性を訴えているのは言うまでもない。</p> <p>まとめると、現在巷でよく言われるような「反転可能性テスト」は、人々の間に多くの非対称性が存在する社会では相手をやり込める為のものにしかならない。</p> <p>反転させるもの同士に対称性がなく非対称であれば純粋な反転などできない。反転可能性テストはそのことを考慮した上で行う必要がある。</p> <p>そして「男性」と「女性」にも非対称性は存在する。</p> <p>一般的に女性より男性の方が力が強く、歴史的に見ても「女性」という属性を持った人々は様々な抑圧を受けてきた。加えて、過去の性被害の事例では女性が殺害ケースもある。それを考慮に入れれば痴漢は単に同意なく相手に触れる行為というだけでなく、「立場」も力も強い人間からの一方的暴力であると理解できる。</p> <p>差別において、歴史的文脈を無視して単純な反転可能性テストをしようとする話の類はほとんどまやかしだと言ってよい。歴史において、全ての人が平等に扱われているわけではない。歴史的文脈を踏まえない単純な「反転可能性」などどこにもないのだ。</p> <h4 id="2差別コストという考え方">2.差別コストという考え方</h4> <p>逆差別が差別でないとしたら逆差別と呼ばれるものは一体どう表現するのが適切だろうか。</p> <p>もう一度整理して考えよう。</p> <p>例えば<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%C0%EC%CD%D1%BC%D6%CE%BE">女性専用車両</a>は痴漢行為を避けるための生まれたものであるが、その為に男性が乗れる車両が制限されるという弊害が生まれている。</p> <p>この場合、逆差別という言葉は被差別者ではない側が損害を受けている状態を示している。例えば、性差別においては女性=差別される側であり、男性はそうではないというのが通常である。</p> <p>そこで女性は損害がなく男性のみに損害があるような状況があるとそれが「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CB%C0%AD%BA%B9%CA%CC">男性差別</a>」と呼ばれるようである。</p> <p>しかし、差別が損害によって定義できないというのは以前の記事で触れた通りである。<span style="color: #1464b3;">よって、女性ではなく男性のみが損害を受けている状況であっても差別とは言い切れない。</span></p> <p>では、男性のみが被害を受けるような状況についてどのように説明すべきだろうか。</p> <p>もう一度例を振り返ろう。</p> <p>そもそも<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%C0%EC%CD%D1%BC%D6%CE%BE">女性専用車両</a>はなぜ存在するかと言われれば、男性による痴漢行為・性的な暴行を避けて女性が安心して乗れるようにするためである。</p> <p>レディースデイに関してもそれが男性を<ruby><rb>貶価</rb><rp>(</rp><rt>へんか</rt><rp>)</rp></ruby>をするようものではない。そもそも男性と女性の間には賃金格差が存在しているからだ。</p> <p>これらの制度は、女性=被差別者が受けている損害をケアするためであるか、もしくはそもそも存在している男女間の格差を埋め合わせるものとして機能している。</p> <p>つまり、ハンデキャップを埋めるための補償もしくは救済措置的な機能を持ってしまっている。無論、格差が解消され、これらの制度や慣習も無くなっていくのが望ましいのは言うまでもないことである。</p> <p>確かに、これらの制度や慣習による埋め合わせの部分だけを切り取って見てしまうと不平等な扱いに思えるかもしれない。しかし、そうした批判はそもそも存在するハンデキャップを無視してしまっている。</p> <p><span style="color: #1464b3;">差別されていない人間もその差別構造によって不利益を被ることはあり得る。</span></p> <p>そうした「逆差別」の状況を説明する為に韓国の作家ソン・アラムは「差別コスト」という考え方を持ち出している。</p> <p>例えば、何らかの加害者が被害者に対して示談金を払ったとしよう。その際、その加害行為の悪質さには触れずに「お金を取られた」と主張するのは理不尽である。それは被害者と示談する為の「コスト」である。</p> <p>逆差別もそれと同じく「コスト」の部分だけを切り取って「被害」であるかのように言いつくろっている面が存在するだろう。</p> <p>確かにこう考えることで、差別されていない人間もその差別構造によって不利益を被ることを説明することが出来る。</p> <p>これらの制度や慣習は現状存在する差別によって生まれた格差を補填する機能も持っている(良い悪いは別にして)。逆差別と呼ばれるものの多くは差別の事後処理のための補填費用=「差別コスト」を支払っているだけなのだ。その補填費用の部分だけを切り取って平等の問題として扱うのは妥当ではない。</p> <p>さらに言えば、このような表現は逆差別の問題を解決する上でも正しくない。</p> <p>逆差別という言い方をすると、逆差別が差別を解決しようとする際の避けて通れないジレンマであるかのように感じられてしまう。逆差別という表現は被差別者への救済措置が不可避的に別の差別を生み出してしまうといったような印象を与えてしまうかもしれない(ひょっとすると逆差別を訴える人間はそれが狙いなのかもしれないが)。しかし、被差別者への救済措置が別の差別構造を生み出すかどうかはケースバイケースだとしか言えないのだ。</p> <p>逆差別論は「差別を解決しようとする側も別の誰かを差別しているのだ」と得意げになって指摘したがる中学生のような「どっちもどっち論」になりかねない。</p> <p>逆差別の問題を解決する一番手っ取り早い方法は差別そのものをなくすことである。</p> <p>逆差別は、差別構造によって差別されている側だけでなく、差別されていない人間にも不利益が生じてしまっている状態を指している。</p> <p>逆差別の問題が、差別構造があることで差別されていない人間にも弊害があるということなら、問題解決にはどのみち差別構造をなくすように努力するのが一番良い。</p> <h4 id="3逆差別は問題じゃないのか">3.逆差別は問題じゃないのか?</h4> <p>じゃあ逆差別と呼ばれるものは全て差別でないかというと、実はそういうわけでもない。</p> <p>逆差別と呼ばれるものの全てが差別とは言えないが、その一部は差別の問題と言えるかもしれないのだ。</p> <p>デボラ=ヘルマンは『差別はいつ悪質になるか』で、差別とは他者を<ruby><rb>貶価</rb><rp>(</rp><rt>へんか</rt><rp>)</rp></ruby>するやり方で区別することであると定義した。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41b5QdRtmVL._SL160_.jpg" alt="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/">差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%DC%A5%E9%A1%A6%A5%D8%A5%EB%A5%DE%A5%F3">デボラ・ヘルマン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/07/27</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>ある区別が悪質な差別であるかどうかは誰かを<ruby><rb>貶価</rb><rp>(</rp><rt>へんか</rt><rp>)</rp></ruby>しているかどうかによる。</p> <p>そして何が貶価にあたるかは社会的な文脈によって決定される。 </p> <p>つまり、所属するコミュニティや共同体によってどのような行為が貶価にあたるのかは変わってくるのだ。</p> <p>ここでどこまでがコミュニティかというコミュニティの分類や線引きの問題が出てくる。</p> <p>例えば日本という共同体の中にはそれより小さな様々な共同体が存在する。そしてその共同体が歴史を持ち独自の文化を形成しているのであれば、その共同体独自の「貶価」が存在するはずである。共同体の中の共同体では、大きな共同体の中で共有されている歴史とはまた違った歴史が存在するかもしれないからだ。</p> <p>つまり、共同体内共同体の問題である。</p> <p>大枠の共同体で共有されている社会的文脈や歴史と、共同体内共同体の社会的文脈が違う場合などは、通常の差別とは逆転した差別が発生する可能性がある。</p> <p>立場の逆転した差別は、大枠の共同体内で共有される慣習と共同体内共同体で共有される慣習が違う場合に起こりうるのである。</p> <p>大枠の共同体と共同体内の共同体とで人種や性別といった属性によって決定される地位や権力関係が逆転している場合、かつその慣習がある程度の強度をもって存在している場合に立場の逆転した差別は存在しうるのである。</p> <p>ある国において優位な立場にある人種も、その国の特定の地域においては劣位に置かれるかもしれない。その地域において人種を理由に区別を行う行為は果たしてどちらの人種を貶価することになるだろうか。この場合、おそらく大枠の共同体内で共有される慣習と共同体内共同体で共有される慣習の二つを参照しながらどちらがより強く影響を持っているのかについて議論を行うことになるだろう。</p> <p>まとめよう。</p> <p>結論を言うと、共同体内共同体において、その共同体内共同体における慣習と大枠の共同体の慣習のどちらがより強い影響を持つか分からない場合には、通常の差別とは逆の構図の差別はありえる。しかし、一般的に流布している逆差別は多くの場合、「差別コスト」ないしは差別構造の弊害と言うべきもので、差別とは言い切れないのである。</p> <p>【関連記事】</p> <p>(↓痴漢問題についても書きました。)</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F12%2F01%2F232521" title="痴漢大国と言われるこの国でなぜ痴漢冤罪ばかり取り上げられるのか~ジェンダーやフェミニズムだけの問題ではない。 - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/12/01/232521">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <h4 id="4参考文献">4.【参考文献】</h4> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4006003587/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="自由の秩序――リベラリズムの法哲学講義 (岩波現代文庫)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41YQMOI-wLL._SL160_.jpg" alt="自由の秩序――リベラリズムの法哲学講義 (岩波現代文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4006003587/kyotaro442304-22/">自由の秩序――リベラリズムの法哲学講義 (岩波現代文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%E6%BE%E5%20%C3%A3%C9%D7">井上 達夫</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2017/03/17</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41b5QdRtmVL._SL160_.jpg" alt="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/">差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%DC%A5%E9%A1%A6%A5%D8%A5%EB%A5%DE%A5%F3">デボラ・ヘルマン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/07/27</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> tatsumi_kyotaro 差別はなぜいけないのか~差別の定義について~ hatenablog://entry/26006613535163091 2020-04-19T12:02:35+09:00 2022-08-16T10:54:43+09:00 0.はじめに この記事では差別とは何なのか、差別はなぜいけないのかを考えていく。 差別がなぜいけないのかを改めて考えることは、差別はいけないと分かっている人にとっても重要だ。 以前も書いた通り、差別の何が悪質なのかについて考えずに差別を批判し続けたら、誰も批判を真剣には受け取らなくなってしまうからだ(過去記事:差別と区別の違い~「差別ではなく区別」は本当か~)。 実際、怒られて面倒だから取り敢えず謝る人や、「差別して何が悪い」と開き直ったりする人はいる。中には「差別を批判する人間こそ、差別する人間を差別している」なんて意見もあるほどだ。 もちろん、この記事は一つの意見でしかないので絶対に正しい… <h4 id="0はじめに">0.はじめに</h4> <p>この記事では差別とは何なのか、差別はなぜいけないのかを考えていく。</p> <p>差別がなぜいけないのかを改めて考えることは、差別はいけないと分かっている人にとっても重要だ。</p> <p>以前も書いた通り、差別の何が悪質なのかについて考えずに差別を批判し続けたら、誰も批判を真剣には受け取らなくなってしまうからだ(過去記事:<a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/03/01/200417">差別と区別の違い~「差別ではなく区別」は本当か~</a>)。</p> <p>実際、怒られて面倒だから取り敢えず謝る人や、「差別して何が悪い」と開き直ったりする人はいる。中には「差別を批判する人間こそ、差別する人間を差別している」なんて意見もあるほどだ。</p> <p>もちろん、この記事は一つの意見でしかないので絶対に正しいとまでは言わない。反対意見も多くあることだろう。</p> <p>私が望むのは、少しでも多くの人が差別について改めて考えることだ。この記事がそのきっかけになれば幸いである。</p> <h4 id="1差別の定義について">1.差別の定義について</h4> <p>さて、前回までの記事で差別、区別、偏見はそれぞれ違うものだということについて見てきた。そこで確認したのは以下の点だ。</p> <p>・ある特徴を基準に区別して誰かに実害を与えているからといって差別とは限らない。</p> <p>・不合理な理由で区別しているからといって差別とは限らない。</p> <p>・偏見で誰かを不当に評価したからといって差別とは限らない。</p> <p>(↓詳しくは以下の記事参照)</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="悪意なき合理的差別と区別 - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F03%2F01%2F200417" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/03/01/200417">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="偏見で語ることと差別の違い - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F03%2F28%2F230457" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/03/28/230457">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p>では一体、差別の悪質さはどこにあるというのだろうか。</p> <p>ここには、大きく分けて二つのアプローチが存在する。</p> <p>一つは、「差別」という漠然と大きな括りで考えることをやめることだ。</p> <p>批判されるべき悪質さを持った差別は、性差別、人種差別、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%E3%B3%B7%BC%D4">障碍者</a>差別など一纏めにするにはあまりに多くの分類を含んでいる。</p> <p>そして、それらはそれぞれで指摘されている悪質さが異なっている。</p> <p>性差別には性差別の、人種差別には人種差別の、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%E3%B3%B7%BC%D4">障碍者</a>差別には<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%E3%B3%B7%BC%D4">障碍者</a>差別の悪質さがあり、一括りに差別として議論しない方が良いというのがそれである。</p> <p>私個人としてはこれに賛同したい。</p> <p>というのも、実際、差別という言葉はあまりに広範に使われてしまったがゆえに差別への批判が何を意味するのか理解されていないと感じるからだ。それは、それぞれの差別が持つ歴史が軽視されてきた結果であり、その歴史の軽視が今の差別問題に対する無理解を生み出していると思われるからである。</p> <p>差別問題として一括りに語るよりは、それぞれの差別問題が持つ固有の歴史について深く理解していく方が良いだろうというのは一定の説得力がある。</p> <p>だが、歴史において差別という大枠の概念そのものが語られ議論されてきたということも軽視してはいけないのではないかとも思うのだ。</p> <p>差別が悪質だと批判されるのは、差別が我々が大切にすべき何を毀損してしまっているからだ。</p> <p>つまり、差別がなにゆえ批判されてきたのか、差別を批判するとは一体どのようなことなのかについて考えるなければ、私たちが差別によって何を失っているのかも分からなくなってしまう。</p> <p>だから、差別の悪質さについて考えることは、差別が毀損してしまっているものの価値を再考することにも繋がるのである。</p> <p><strong>では、差別は一体何を毀損してしまっているのだろうか。</strong></p> <p>差別が何を毀損してしまっているかという点について、デボラ・ヘルマンは次のように述べる。</p> <blockquote> <p>差別の難問が道徳的な関心の的になるのは、人々を異なる仕方で処遇することが、人々は同等の道徳的価値をもつという理念に衝突する恐れがあるからである。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41b5QdRtmVL._SL160_.jpg" alt="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/">差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%DC%A5%E9%A1%A6%A5%D8%A5%EB%A5%DE%A5%F3">デボラ・ヘルマン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/07/27</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>(デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』P42)</p> </blockquote> <p>デボラ・ヘルマンは差別が悪質であるのは、差別が人を道徳的に平等な価値を持つ存在として扱い損ねる行為だからだと主張する。</p> <blockquote> <p>差別はそれが貶価するときに不当である。貶価することとは、他の人を価値において劣った者として扱うことである。(中略)貶価することとは、他者を不完全な人間として、または同等の道徳的価値をもたない者として扱うことである。貶価することとはしたがって、部分的には表現行為である。</p> <p>(デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』P48 、p51)</p> </blockquote> <p>デボラ・ヘルマンは、差別の悪質さは区別を設けることで特定の人を<ruby><rb><strong>貶価</strong></rb><rp>(</rp><rt>へんか</rt><rp>)</rp></ruby>することにあると言う。</p> <p>ここで<ruby><rb>貶価</rb><rp>(</rp><rt>へんか</rt><rp>)</rp></ruby>という概念が持ち出されているが、<ruby><rb>貶価</rb><rp>(</rp><rt>へんか</rt><rp>)</rp></ruby>とは「(道徳的)価値において」「劣った」者として相手を扱うことである。</p> <p>重要なのは「(道徳的)価値において」という部分だろう。ただ劣った者として扱うことだけでは<ruby><rb>貶価</rb><rp>(</rp><rt>へんか</rt><rp>)</rp></ruby>にはなりえない。</p> <p>また、全ての人間が他の人間を「劣った」者として扱うことができるわけではない。ある人間を「劣った」者として扱うためには、それなりに力のある立場が必要となる。</p> <blockquote> <p>貶価することは、下に置くことである。すなわち、地位を低下させること、あるいは劣位化することである。貶価するためにはしたがって、単に、他者の平等な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%CD%B4%D6%C0%AD">人間性</a>に対する尊敬の欠如を表現するだけでなく、その人が、その表現で他者を従属化できるような立場にあることが重要である。</p> <p>(デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』p51、52)</p> </blockquote> <p>デボラ・ヘルマンは例として、会社の上司に向かって唾を吐きかけることとホームレスに向かって唾を吐きかけることは意味が違うことを挙げている。</p> <p>つまり、自分より立場が上の人間にこれを行うことは貶価ではないが、自分より立場が下の者にこれを行えば貶価となるということだ。</p> <p>この説明は、<strong>「誰が」「誰に向かって」それを行うのかによって、その行為の持つ意味が変わってくる</strong>ことの説明としては分かりやすい。</p> <p>しかし、これはある誤解を生み出してしまうかもしれない。</p> <p>というのも、相手を貶価するには相手を貶価できるだけの「立場」が必要となるが、この場合の「立場」というのは必ずしも社会的地位に関連しているわけではないし、単一の基準で考えられるものでもないからである。</p> <p>例えば、上司に唾を吐きかけるシーンについて考えよう。この場合、部下が白人で上司が黒人だった場合はどうなるだろう。デボラ・ヘルマンの言うようにこれは貶価ではないと単純に結論してしまえるだろうか。さらに、部下が白人の男性で上司が黒人の女性だった場合はどうだろう。この場合、上司の方が会社での地位が上なので貶価ではないという主張はかなり怪しくなってくるのではないだろうか。</p> <p>この場合考えるべき立場とは社会的地位のみならず、人種、性別、その他属性全てを考慮した相対的な社会的立場のことである。</p> <p>ここで一度まとめよう。</p> <p><span style="color: #1464b3;">悪質な差別は被差別者を貶価する。そして、貶価することは人に平等に道徳的価値を認めるという平等の原理に反しているため、差別は悪質なのである。</span></p> <h4 id="2差別の悪質さは何によって決まるのか">2.差別の悪質さは何によって決まるのか。</h4> <p>デボラ・ヘルマンの言うように差別の悪質さがどの程度貶価するのかという点にあるのであれば、その貶価が社会的文脈の参照によって起こる以上、差別の悪質さもまた社会的文脈によって決定される。</p> <p>社会的な文脈によって差別か否かが決定される例がある。</p> <p>それは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%B9%CA%CC%CD%D1%B8%EC">差別用語</a>による表現行為だ。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%B9%CA%CC%CD%D1%B8%EC">差別用語</a>を使った表現行為は発話者の意図を問わず差別であるとされる。この時、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%B9%CA%CC%CD%D1%B8%EC">差別用語</a>に差別的な響きを持たせているのは直接的な意味内容ではなく社会的文脈である。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%B9%CA%CC%CD%D1%B8%EC">差別用語</a>は標準的(とされる)言葉との対比関係があることではじめて差別的に機能する。標準との対比があることで、差別的(=標準的でない)な言葉は定義されうるのである。</p> <p>「めくら」などの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%B9%CA%CC%CD%D1%B8%EC">差別用語</a>はもともとは(悪意の有無に関わらず)日常的に使用されていた一般用語だったが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/NHK">NHK</a>などのメディアが「めくら」などの用語を「視覚<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%E3%B3%B7%BC%D4">障碍者</a>」などの言葉に置き換えたことで「視覚<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%E3%B3%B7%BC%D4">障碍者</a>」が公的な用語として認識された結果、「めくら」という言葉は悪意的にしか使われなくなっていき、次第に差別的な響きを持つようになってしまったという経緯は有名な話だろう。</p> <p>標準的(とされる)言葉との対比関係によって、類義語は別のニュアンスを持ちうるが、<strong>そのニュアンスがどのようなものなのかを決定するのは結局のところ社会的文脈によるだろう</strong>。</p> <p>そして、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%B9%CA%CC%CD%D1%B8%EC">差別用語</a>を使用することが差別的であるのは、その用語をわざわざ使わずに他の標準的言葉で置き換えることができるにもかかわらずあえてわざわざ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%B9%CA%CC%CD%D1%B8%EC">差別用語</a>(とされる語)を使用するということが差別の表現行為であるからだ。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%B9%CA%CC%CD%D1%B8%EC">差別用語</a>を使用することは、それ自体が差別の歴史や差別的社会構造を暗黙のうちに承認する表現行為となってしまうため、その言葉で示された人々を貶価する。いわゆる「差別的偏見の助長」とはこのことを指している。</p> <p>貶価によって差別を考えることは次のような例を考える上でも有効である。</p> <p>有名黒人サッカー選手が観客からバナナを投げ込まれる人種差別を受けることは珍しくない。サッカーの試合で黒人選手に対してバナナの皮が投げられることは1970年代からイギリスなどで行われることがあった。最近では<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A5%EB%A5%BB%A5%ED%A5%CA">バルセロナ</a>のアウベス選手がアウェーの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D3%A5%EA%A5%E3%A5%EC%A5%A2%A5%EB">ビリャレアル</a>戦で観客から投げられたバナナを丁寧に皮をむき食べてからコーナーを蹴ったことが話題になった。これに対し、地元紙ムンド・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%DD%A5%EB%A5%C6%A5%A3%A5%DC">デポルティボ</a>は「人種差別に対する最高の返答」だと報じた。</p> <p>このケースにおける差別の悪質さについて考える時、前回までの記事で言及したような方法では差別の悪質さが同定できないことが分かる。</p> <p>黒人選手のいる近くのフィールドに<strong>バナナを投げることそれ自体は誰の利益も奪っていないし、誰かに損失を与えてもいない</strong>。</p> <p>バナナを投げるという行為の不合理さについて考えた場合、<strong>不合理なのはバナナを投げることではなく、フィールドに物を投げることである</strong>と言える。サッカーの試合で観客がフィールドに物を投げるのはよくあることであり、迷惑な行為ではあるが悪質な差別というわけではない。</p> <p>また、<strong>バナナを投げるという行為自体は直接何かを意味しているわけではない</strong>。バナナを投げることは、黒人というカテゴリに対して直接負の価値評価を下していない。バナナを投げること自体は、その人物のもつ人種のカテゴリに対して直接負の意味合いを持たせるわけではない。</p> <p>確かに「バナナ=サルの食べる物」という連想から、バナナを投げることは侮辱に相当するかもしれない。</p> <p>バナナを投げることは、投げられた相手を「バナナを食べるような奴=サル」に譬えるという意味が含まれているかもしれないし、当然のことながら、人を動物に譬えるのは一般的に侮辱的な行為であるだろう。</p> <p><span style="color: #1464b3;">しかし、侮辱的な行為はそれだけでは差別ではない。</span>侮辱の中でも特定の性質を持つものだけが差別として扱われる。</p> <p>これを考えるには、バナナを投げられたのが黒人ではなく白人であった場合を考えれば十分だろう。白人でなくとも人に対してバナナを投げる行為は侮辱的であるが、それだけではその人間の人種全体への差別とは言えないだろう。</p> <p>バナナを投げることがそれ自体では侮辱の意味しかなく、一般的に差別的な行為であるわけではないことは理解できる。それでも尚、黒人選手に対してバナナを投げることは差別的であるとされる。</p> <p><strong>このように、行為そのものの悪質さを考えても差別の悪質さは見えてこないのだ。</strong></p> <p>では、一体何が侮辱と差別とを分ける要因となるのだろうか。</p> <p>それは黒人がどのように扱われてきたかという歴史に関係している。</p> <p>黒人奴隷の歴史、つまり黒人が、未熟で劣った人間以下の存在として家畜のように扱われてきたという事実が、「バナナを投げる」という行為に侮辱以上の意味を持たせているのだ。</p> <p>黒人が奴隷として、人間としてではなく家畜のように扱われていた時代があったという歴史によって、「黒人にバナナを投げる」という行為が、黒人を貶価する表現行為となるのだ。</p> <p>ある行為が差別的意味を持つのは、ある人々を劣位に置き虐げてきた歴史や格差構造を持った社会的背景が参照されることで、相手を貶価する行為となるからである。貶価するかどうかは社会的立場が関係するが、その社会的立場には歴史的文脈や社会的な背景が少なからず関わっているのだ。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%D1%A5%EB%A5%C8%A5%D8%A5%A4%A5%C8">アパルトヘイト</a>、植民地支配、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>などの悪質さは、その人種がどのように扱われてきたかという歴史に深く関わっている。</p> <p>企業が女性を採用しようとしないこと、大学入試で大学が女性の点数が下げることの悪質さは女性が未熟な存在であり、家庭に仕えるべき存在として認識され扱われてきた歴史に関連している。</p> <p>これとは対照的に、学力によって入学可否を決めること、免許取得ができる年齢に制限があること、採用試験で採用者が同郷の人間を贔屓すること、若者はけしからん論が流行ること等は特定の基準により人を区別することであっても差別の問題として扱われない。</p> <p>それはそこに差別の歴史、差別的背景が存在しない(と考えられる)からである。</p> <p>つまり、それらの行為は誰かを道徳的価値が劣った存在として従属させる行為であるとまでは思われていないのである(今のところは)。</p> <p>このように、差別を考える上では<span style="color: #1464b3;">その差別を悪質たらしめる歴史的な背景や社会的文脈について考えうことが重要になってくるのだ</span>。</p> <h4 id="3貶価という概念の客観性">3.貶価という概念の客観性</h4> <p>問題のある差異化(=差別)は貶価を伴っている。そして貶価とは、相手を下に置くことのできる相対的立場を持った人間が、相手の道徳的価値を損なう行為であるというのがデボラ・ヘルマンの主張だった。</p> <p>とはいえ、差別の悪質さを貶価という概念で考えることに対して反発はあり得るだろう。</p> <p>それは社会的文脈や背景というものは人によって解釈も理解も異なるため、どのような区別が貶価なのかについて客観的に定めることは不可能だという反論だ。</p> <p>まず第一に、何が貶価になるのかが社会的文脈や背景によって決まる以上、社会的文脈や背景の解釈の差はありえる。社会的背景や歴史に対する解釈や理解に差があることは、何が貶価にあたるのかを考える際に論争を起こすかもしれない。</p> <p>だがこれは本質的な問題だろうか。</p> <p>論争が起こるということ、論争が困難になること自体は「何が貶価になるのか」「悪質な差別とは何か」について客観的に判断を下すことを不可能にするわけではない。デボラ・ヘルマンはこの点について次のように述べる。</p> <blockquote> <p>他の多くの倫理的問題についても重大な不一致は存在する。たとえば、人口妊娠中絶は道徳的に許容可能かどうか。自殺や終末期の患者に対する自殺幇助はどうか。(中略)提示された第一の理由は、そうした事柄については重大な不一致が生じがちであるということだった。そうだとして、その不一致が、より一般的に道徳的問題に関して生じる不一致よりもより広範に生じがちである(少なくとも重大な差がある)ように私には思えない。</p> <p>(デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』p121)</p> </blockquote> <p>では、悪質な差別や貶価を議論する際に、社会的背景や文化についての正しい理解が必要になるなら文<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%BD%C6%E2">化内</a>部の人間にしか議論ができないのかという反論についてはどうだろう。</p> <p>確かに、正しい文化理解や歴史理解がなければ貶価について正しい見解を述べることは難しいだろう。</p> <p>しかし、文化の内部で生活する人間にしかその文化理解や歴史理解を行うことができないというのは行き過ぎた前提ではないだろうか。デボラ・ヘルマンは次のように反論する。</p> <blockquote> <p>ある文化の参加者は通常、その文化的慣行の重要性を部外者より理解しているが、いつもそうだというわけではない。たとえば、何かにあまりに親しみすぎていると、それゆえにそれをよく見たり理解することができないということがありうる。また、ある人がその文化の成員でなく、その文化の慣行や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%B7%CE%E9">儀礼</a>の参加者でないという事実は、その人が想像を介してその文化に入り込むことを不可能にするわけではない。</p> <p>(デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』p125</p> </blockquote> <p>もう一つありえる反論は、解釈も理解も異なる人々が何が貶価にあたるのかについて議論した結果、マジョリティ集団にとって有利なバイアスのかかった結論が導き出されるおそれがあるという反論だ。</p> <p>なるほど、解釈も理解も異なる人々が話し合った結果マジョリティ集団の利益になるような結論が導かれるかもしれない。</p> <p>しかし、それはあらゆる議論に言える話である。</p> <p>そこから導き出せるのは、せいぜい議論のやり方を変えるべきだというものでしかないだろう。議論そのものをやめようという話にはならないはずだ。デボラ・ヘルマンは、議論はどのみち必要であるとした上で、歪んだ結論が導き出される可能性があることは理論そのものの問題ではないとしている。</p> <blockquote> <p>人が自らの考えを変えるためには、自らの行為を評価するためにどういう理論を用いるにせよ、物事を違った仕方で見る能力が必要である。</p> <p> 第二に、さらに重要なことに、たとえ私の見解を採用することが支配的社会集団による支配をもっと悪質なものにする見込みがあるとしても、その事実はこの理論を理論的なレベルで拒否する理由を与えるわけではない。(中略)理論の価値は、人々がそれを間違って適用する見込みが高いかどうかという観点からは評価されえない。</p> <p>(デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』p128、p129)</p> </blockquote> <p>議論がバイアスのかかった結論を出す可能性があるからといって、客観的な結論を導くことが不可能だというわけではない。</p> <p>バイアスのかかった結論を導いてしまうのが問題だというのはその通りだが、そうであるならより相応しい決定の方法、議論の方法について考えるべきだというだけの話だ。議論そのものをなくすべきだという結論は導かれない。客観性を導くためにはどのような形であれ議論は必要なるだろう。</p> <p>差別の定義に十分な客観性を持たせないまま差別を批判することは良くないことだろうが、問題は一体何を「十分な客観性」と見なすかということなのだ。</p> <p>差別の定義が、完全に議論の余地なく差別とそれ以外を峻別できるものさしである必要がどこにあるだろうか。</p> <p>たとえどのように定義を定めようが、その定義にあてはまるかどうかという解釈の余地はいくらでもありえる。</p> <p>多くの人は差別の悪質さについて考える際、あまりに利便性を求めすぎている。</p> <p>言い換えれば、差別が悪質である根拠を見つけようとする際、人は差別をはっきりとした実体として捉えようとし過ぎている。まるで差別とそうでないものを早見表のように分類することができるかのような錯覚にとらわれている。差別とそうでないものの境界ががはっきりと判別可能であるとか、明確な基準さえあれば誰でも簡単に差別とそうでないものの区別を付けることが可能だとか、そうなるべきだというような前提が漠然と共有されているように思える。</p> <p><strong>だが、明確な基準があったからといって即座に差別とそうでないものが峻別可能であるとは限らない。</strong>裏を返せば、個別具体の事例を即座に差別かそうでないか判別できるような基準を求める必要はない。</p> <p>それは、法律が明確に定義されていても、我々が裁判によってどの法をどのように適用するかを日々判断する必要があるのと一緒だ。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B4%F0%CB%DC%C5%AA%BF%CD%B8%A2">基本的人権</a>に基づき、社会を成り立たせる上で必要なレベルの明確さを持った基準というものは、人々が判断を下す上で重要な争点になるべきものであり、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%A1%B3%A3%C5%AA">機械的</a>なマニュアルである必要はない。</p> <p>誰もが簡単に差別とそうでないものを見分けられるかどうかという点は、明確な基準を考える上ではあまり問題にはならない。</p> <p>明確な基準でもって個別具体の事例を考えたとしても、ある人はそれを差別と言うかもしれないし、ある人はそうじゃないと言うかもしれない。</p> <p>基準も定めないまま何が差別について話し合うことは不毛な分断だが、論点となる基準を設けた上で議論されるのであれば、少なくとも無意味ではない。同時に、基準を設けて議論を可能にすることは「差別主義者」という言葉を恣意的に使ったレッテル貼りの有効性を失わせることにも繋がるはずである。</p> <p>回避しなければならないなのは、何が差別かについて議論する際に、論点となる基準が見えなくなることで議論が誰にも理解されず忌避されてしまうことである。</p> <p>その点で言えば、「貶価する仕方で区別するのが差別である」という定義は十分に機能する。</p> <h4 id="4差別問題の今後">4.差別問題の今後</h4> <p>デボラ・ヘルマンの定義するように貶価を起こすような区別が差別なのであれば、いかにして社会的文脈、背景、歴史に対する理解を人々の間で共有できるかという点に差別問題の今後も委ねられている。</p> <p>参照される歴史の存在が重要になるのであれば、歴史の共有が複雑になってしまった現代において差別問題を語ることはかなり困難が付きまとうだろう。だからこそ、差別を擁護しようとする者たちは歴史を忘れ去ろうと、あるいは忘れようと呼びかけるだろう。</p> <p>差別に抵抗する為には、これら歴史修正的な欲望に対しても抗うことも必要になるのではないだろうか。</p> <p>次回はよく言われる逆差別について、これまでの議論を踏まえながら検討したい。</p> <p>【次回記事】</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="男性差別・逆差別は存在するのか? - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F06%2F07%2F224145" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/06/07/224145">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p>【関連記事】</p> <p><iframe src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2022%2F03%2F06%2F001604" title="科学主義と科学信仰の現代 - 京太郎のブログ" class="embed-card embed-blogcard" scrolling="no" frameborder="0" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2022/03/06/001604">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <h4 id="5参考文献">5.【参考文献】</h4> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41b5QdRtmVL._SL160_.jpg" alt="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/">差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%DC%A5%E9%A1%A6%A5%D8%A5%EB%A5%DE%A5%F3">デボラ・ヘルマン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/07/27</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> </p> <p> </p> <p> </p> <p> </p> <p> </p> <p> </p> <p> </p> <p> </p> tatsumi_kyotaro 自粛疲れと自粛警察 hatenablog://entry/26006613546996347 2020-04-09T22:39:58+09:00 2021-02-07T14:25:10+09:00 正直、愚痴りたい。 愚痴りたいのだが、コロナショックが混乱を引き起こしそうなこの状況でいきなり愚痴から入るのもどうかと思うので、まずは基本的なことについて、共有できる常識的なことについて話していくことにしよう。 こういう事態には正確な危機管理能力が求められる。 慌てず冷静な判断能力を働かせること、日々洪水のように流れてくる情報を吟味すること、そしてリスクを侮らないこと、軽率な行動をとらないことである。 口で言うのは簡単だが、人間こう思っていてもそれを日々続けるには忍耐力やら精神力が必要になる。危機的な状況であるという認識の共有(と自粛しない者へのバッシング?)を求められ、いつ自分が加害者(裏切… <p>正直、愚痴りたい。</p> <p>愚痴りたいのだが、コロナショックが混乱を引き起こしそうなこの状況でいきなり愚痴から入るのもどうかと思うので、まずは基本的なことについて、共有できる常識的なことについて話していくことにしよう。</p> <p>こういう事態には正確な危機管理能力が求められる。</p> <p>慌てず冷静な判断能力を働かせること、日々洪水のように流れてくる情報を吟味すること、そしてリスクを侮らないこと、軽率な行動をとらないことである。</p> <p>口で言うのは簡単だが、人間こう思っていてもそれを日々続けるには忍耐力やら精神力が必要になる。危機的な状況であるという認識の共有(と自粛しない者へのバッシング?)を求められ、いつ自分が加害者(裏切り者?)になるかも分からないようなギスギスとした人間関係の中に身を置き、今まで(「消費せよ」「考えるな」)とは全く違う生活を余儀なくされるというのは過酷なことだ(変わってないのは「権力にしたがえ」くらいだろうか、尚、私は黒いサングラスなど拾っていない)。如何にこうした態度を持続可能にするかというのも重要なことだろう。</p> <p>ともあれ、劇的な解決法や、完璧な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%B8%C2%B8%C0%EF%CE%AC">生存戦略</a>など存在しない。やることはひたすらに地味である。</p> <p>あまり人込みには近寄らず、手洗いうがいを心掛けること、とにかく予防を心掛ける。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%F6%B4%E9">洗顔</a>なんかも良いらしい。最近は寒さも薄れてきたので、心地よく顔を洗える時期になってきた。</p> <p>私は花粉症なので(毎年4月にひどくなるのはヒノキ花粉なのだろうか? 同じ症状の人が周りにいない)花粉を落とすついでのつもりで顔を洗う。</p> <p>仕事がある人にとっては、したくもないのに通勤しなければならない場合も少なくないだろう(正直、みんなが休業出来るような体制を政府が用意してくれればよいのだが)。</p> <p>やはりその場合もマスクをして、人との<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DC%BF%A8">接触</a>を避け、不用意にものを触らないのが一番だ。</p> <p>この新型コロナ、今はまだそこまで爆発的な感染を起こしていないが今後はどうなるか分からない。症状が重症化し、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B4%D6%BC%C1%C0%AD%C7%D9%B1%EA">間質性肺炎</a>を起こせば<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%BD%B8%E5%C9%D4%CE%C9">予後不良</a>になる可能性もある。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B4%D6%BC%C1%C0%AD%C7%D9%B1%EA">間質性肺炎</a>というと特発性肺線維症(命にかかわる難病)などを連想して、肺がんよりもリスクが高いという情報を広めている人もいるようだが、今のところ真偽は不明である。</p> <p>ただ、重症化した場合に肺に後遺症が残る可能性もあるとのことなので油断はしないにこしたことはないだろう。</p> <p>特に喫煙者はリスクが高くなるそうなので、頭に入れておいても良いかもしれない。なお、聞いたところによると短期間での禁煙も効果はあるそうだ。まぁこれはお節介話なので気になったら調べるくらいで良いだろう。</p> <p>あまり気にしすぎても、ストレスが溜まっては元も子もないし、神経質になりすぎるとそれはそれで免疫が落ちるので<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B4%B6%C0%F7%BE%C9">感染症</a>対策としてもよくはない。</p> <p>とにかく、持続可能な範囲で努力するのがよいのかもしれない。</p> <p>さて、適当に話をすませたところで、本題に入りたい。</p> <p>といっても、ここに書くことのほとんどは愚痴なので、大した本題ではないのだが。</p> <p>ともかく愚痴の一つもこぼさせてほしいのである。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BA%DF%C2%F0%A5%EF%A1%BC%A5%AF">在宅ワーク</a>はスムーズに進まないし(ノーパソのせい) 、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B5%A1%BC%A5%D3%A5%B9%BB%C4%B6%C8">サービス残業</a>しすぎだし(ノーパソのせい)、外出は出来ないし(寂しい)、友人にも会えないし(もっと寂しい)、とにかく定期的に人と喋る機会がないとやってられない人間にとっては気が重くなるような状況である。</p> <p>そんな中、暇つぶしにと(←これが良くない)<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/SNS">SNS</a>を開いてみれば、何やらだいぶ世論(?)がパニック気味なので、余計に気分が悪いのである。</p> <p> </p> <p>というわけで、以下愚痴。</p> <p> </p> <p>コロナ慣れという言葉がある。</p> <p>正直私自身コロナ慣れはまだしていない。依然として、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%ED%A5%CA%A5%A6%A5%A4%A5%EB%A5%B9">コロナウイルス</a>には恐怖がある。</p> <p>手洗いうがいを心掛け、人の密集する場所はなるべく避けつつ、軽率に物に触らないようにしている。それでも、慣れてしまう人がいることは理解できる。そして、慣れてしまった人間による不用意な行動によってコロナ感染のリスクが増えることに怒る人がいるのも分かる。私も、嫌じゃないのかと言われれば勿論嫌だ。</p> <p>だが、コロナ慣れして、自粛を怠ってしまった人に対して怒る人間が結構な数いるということが全く理解出来ない。理解出来ないというか、全くそうした現象自体には呆れてしまう。間違ってはいけないが、コロナ慣れに怒るなとか、怒っている人間はおかしいとかそういう話をしたいのではない。このコロナ慣れへの怒りが劇場化していること対して呆れてしまうのだ。</p> <p>例えば、以下のようなツイートは分かりやすく共感を集めている。</p> <blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"> <p dir="ltr" lang="ja">炎上覚悟で言うけど、<br /><br />これだけ自粛と言われながら飲み会や遊びに行くような人達を正直わたしは看護したいと思わない。なぜ無理解の人たちの為に我々医療者が危険な目に晒されなければならないのか。使命感?そんなモノと引き換えに自分の命を差し出すくらいなら使命感なんて要らないよ。</p> — <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Erika">Erika</a> Onda@<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F5%BB%BA">助産</a>師 (@gma_erika870910) <a href="https://twitter.com/gma_erika870910/status/1247527660223250432?ref_src=twsrc%5Etfw">2020年4月7日</a></blockquote> <p> <script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script> </p> <p> </p> <p>このツイートに連なるコメントを見ても分かる通り、このツイートへ賛同する人、便乗して怒りを訴える人間は多い。しまいにはネットニュース記事でも取り上げられることになった。</p> <blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"> <p dir="ltr" lang="ja">【話題】<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F5%BB%BA">助産</a>師『炎上覚悟で言うけど…自粛と言われながら飲み会や遊びに行くような人達を正直わたしは看護したいと思わない』<a href="https://t.co/Y4GgkXRz3h">https://t.co/Y4GgkXRz3h</a></p> — Share News Japan (@sharenewsjapan1) <a href="https://twitter.com/sharenewsjapan1/status/1248170323138220032?ref_src=twsrc%5Etfw">2020年4月9日</a></blockquote> <p> <script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script> </p> <p> 芸能人にも、「自粛しない人」へ怒りを示す人が現れ、これまた共感を集めている。</p> <blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"> <p dir="ltr" lang="ja">今、「まぁ大丈夫でしょ」って気持ちで不用な外出してる人は、もしこの後日本が諸外国のような地獄絵図と化しても絶対ブレねぇでほしいな。そうなっても平気で外フラフラしててくれよ。あと、後悔もしねぇでくれ。「国がもっと厳しく言ってくれなかったからだ」なんてぜってぇ言うんじゃねぇぞ。</p> — <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>田島 (@iden_taji) <a href="https://twitter.com/iden_taji/status/1246359950055489536?ref_src=twsrc%5Etfw">2020年4月4日</a></blockquote> <p> <script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script> </p> <p>確かに腹立たしいことだろう。</p> <p>個人として存分に怒ればいいと思う。そいつが目の前にいたなら悪態の一つもついてやってもいいかもしれない。</p> <p>ただ、これらの個人的な怒りが異口同音に唱えられ、反響し合うように多くの賛同や同意が集まる光景は少し不気味である。</p> <p>考えたいのは、今までだってこの社会にはいたるところに理不尽や不幸が転がっていたということだ。一体どれだけの人が、そういったことに関心を持ててきたというのだろうか。</p> <p>人権の問題に対して、差別の問題に対して、格差の問題に対して、環境の問題に対して、一体どれだけの人が怒りをもって向き合っていたのだろうか。</p> <p>あるいは、これら社会で起こった問題に対して怒りや不安を感じ行動を呼びかけてきた人々に対して、どのように向き合い接してきたというのか。</p> <p>何か悟ったふりをしながらそうした不安や怒りをあざ笑う人間、たとえそこまででなくても「忙しい」「私にも生活がある」などと言ってきた人間(あるいはそれらの態度を許容してきた社会)が何をいまさら正義面して怒っているのかと思う。</p> <p>改めて言うが、コロナ慣れに怒るなとか、怒っている人間はおかしいとかそういう話をしたいのではない。単に自分が死ぬのが怖いし、その確率を人のせいで増やされるのは迷惑だからやめろというだけの話なら、この国の「良識的人間」を代表して言ってやってるかのような面をするなという話である(上に取り上げた人がそうであるとは限らないが)。</p> <p>私はまだ死にたくもないし、なんなら軽症(熱にうなされれて意識朦朧とする程度含め)にすらなりたくないから、この期に及んで不用心な人間を見るとなかなか顔をしかめたくはなる(まぁ、自分も用心が徹底できているわけではないし、相手が知人ともなると当然責める気もなくなるのだが)。</p> <p>それはそれとして、その程度の感情ならいちいち社会的正義を語っているかのように振る舞うななと思う。「正義の暴走」というのはこういう事態を指すのである。</p> <p>こういう時にこうした「正義の暴走」を批判できない者達の「正義の暴走批判」など聞くだけ無駄である。所詮は、現状肯定的なナルシズム(批判されたくない、責められたくない、後ろめたい気持ちになりたくない)を根底に据えた揚げ足取りでしかないだろう。無論、「怒りの娯楽性」などと言ってる連中も同じである。彼らが批判するのは常に一定の(左翼的、あるいはリベラルな)<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%AA%A5%ED%A5%AE%A1%BC">イデオロギー</a>に対してだけであり、現状の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>を批判する気概などどこにもなく、ましてや自分の持つ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%AA%A5%ED%A5%AE%A1%BC">イデオロギー</a>の「娯楽性」に対しては批判を加えることは絶対にしないのだ(事実彼らは「冷笑の娯楽性」を批判できない)。</p> <p>結局のところ、コロナ慣れや不用心な人間に対してこれだけ「怒る」ことがトレンドのようになっているのは、それがナショナルな紐帯、危機を前にした裏返しの高揚感に(それ自体の是非は置いておくにして)支えられてしまっているからである。そして普段、社会的な活動家たちや、人権活動、その他抗議活動に対してやたら冷笑的な人々が、こうした事態に無関心なのは彼らの「冷笑」も所詮模様替えしただけの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>、ないし(冷笑的)共同体の創出、集団的一体感によって支えられているからである。</p> <p>現象として見るなら、危機を前にしてしか一体感を得られない「孤独な」現代人達が不安を紛らわせるために「いいね」集めに奔走しているというのが妥当な線だろう。「発散(冷笑)」したい人々にとっては、社会的正義(冷笑的正義)を口実に一体感を得ることができるというのはさぞや都合が良く楽しいことだろうとは思うが。</p> <p>無論、このウイルスに対して恐れるなという話ではない。未知のウイルスなのだから恐れて当たり前であるが、その不安の解消法としては下の下だろう。</p> <p>そもそも言う相手が間違っている。</p> <p>責任を問うべきは政府であり、問題視すべきは社会構造である。</p> <p>現にこの世界には人の命を、生活を、幸福を奪いかねないいくつもの理不尽や不条理が存在している。仮に病気に限ったとしても相当数ある。</p> <p>よしんばウイルスに限ったとして、それもみんなが慣れ親しんだインフルエンザウイルスでさえ死者数は昨年で3000人ほどはいるのだ。</p> <p>自分が無縁だから? 自分には関係ないから? 可哀そうだけど自分には何もできないから?</p> <p>そんな理由で今まで何もしてこなかった(あるいは何もしない人間を擁護してきた)人間が、今回、配慮に欠ける人間に向かって「社会的正義」を振り翳して「みんなが迷惑」などと言いながら怒るのはかなりみっともないのではないか(いくら暇とはいえ。いくら不安の解消手段がないとはいえ)。</p> <p>勿論、「今回の事態に直面して初めて『目が覚めた』人もいるのではないか?」などと言う人もいるだろうが、人間を買いかぶり過ぎである。</p> <p>そういう人間がいることは否定しないし、是非ともそんな人間ばかりであって欲しいところだが、全体から見れば僅かだろう(僅かだから意味がないという話ではない。大いに意味があるので、目が覚めた人がいるのは素晴らしいことには違いない)。</p> <p>たいていの人間は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という状態になるだろうし、実際、あの「震災」に対してこの国の人間がどれだけ健忘症気味だったかなんて今更言うまでもないことだ。だいたい何がなんでも政府を擁護して、感染者の自己責任にしたい人達だっているというのに。</p> <p>今回は、そうした多くの、健忘症的な、危機が去ればすぐにでもそれまでの日常に戻るであろう人間に対して「一時の感情に社会的正義をまとわせるな」と言いたいのである。</p> <p>いやいや、あなたそれが人間というものだし、そうやって見下す態度もみっともないですよと言われるやもしれないが、弁明させていただくとそれが人間だというはその通りであるし、別に見下しているわけではなく、そういう行為はクセになってやめられなくなるから注意をした方がいいということが言いたいのであり、あまりにも目に余る連中に関しては純粋な怒りの感情を抑えて代わりに呆れることにしているのである。</p> <p>今までだっていろんな社会の窮状や理不尽を訴えてきた人間がいたわけで、そんな人間を傍目に、小馬鹿にしたように「考えても仕方ない」とか「割り切るしかない」とか「人生そんなもんだ」とか言ってきたわけで、そうやって色んなものを見ないようにしてきた人間が、今更こぞって社会的正義なるもの(それも<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>由来の)に寄り添いながら他人をバッシングする光景に対して何か言いたくなるのも人間だろうと思う。というかこのくらい言わせて欲しい。</p> <p>バッシングと言えば、買い占める人々へのバッシングの嵐も見ていられない。</p> <p>特に、朝早くから並ぶ老人たちに怒りの声を上げる人間はかなりの数いる。</p> <blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"> <p dir="ltr" lang="ja">イェーイみんな覚えてる?2週間前に「マスクや<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%A4%A5%DA">トイペ</a>転売してるの買っちゃダメだよ!<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%BE%C7%E4%A5%E4%A1%BC">転売ヤー</a>泣かそう!」ってツイートでバズった者です<br /> <br /><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%A4%A5%DA">トイペ</a>は毎朝同じ人が並んで買いに来てるしマスクの問い合わせは減らないし営業中に倉庫に押し入ろうとするやつはいるしこれほとんど老人でーす</p> — まきぶろ@切り絵合同誌主催 (@otogi_zousi1203) <a href="https://twitter.com/otogi_zousi1203/status/1241995343945842689?ref_src=twsrc%5Etfw">2020年3月23日</a></blockquote> <p> <script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script> </p> <p> <script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script> </p> <p> </p> <blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"> <p dir="ltr" lang="ja">マスク買い占めして、<br />感染広げて病院に迷惑かけ私達にも迷惑かけて、<br />海外行った🐎🦌もいるし、<br />本当に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%B7%B3%B2">老害</a>は…。<br />毎朝同じ老人達並んでて覚えそうだわ!<br /><br />十分な年金あるんだし家で大人しくしてろ!<br />若い世代に働いて欲しかったら並ぶな!<br />私はマスクで会社来いと言われてるけど<br />家に1枚もない!</p> — 愚痴るよ(。-∀-) (@guti_iimasu2020) <a href="https://twitter.com/guti_iimasu2020/status/1243511498422530048?ref_src=twsrc%5Etfw">2020年3月27日</a></blockquote> <p> <script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script> </p> <p>確かに迷惑千万である。</p> <p>「それ本当に必要なの?」</p> <p>思わず問いたくなる。</p> <p>だが、大家族の人間などは他の人間から見れば買占めと見られてしまうような量を買ってしまうかもしれないし、誰が何をどれだけ必要としているかなんて分からないのにバッシングの勢いだけ強くても意味がないだろう。</p> <blockquote class="twitter-tweet" data-lang="ja"> <p dir="ltr" lang="ja">マスク&amp;<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%A4%A5%DA">トイペ</a>朝早くから並んで買い占め老人のやつ、私もめちゃくちゃ嫌なんだけど、お客さんのご老人が「孫と喘息の娘のあたりもマスクがどこにもないらしい、心配で仕方なくて、ダメとは思うが朝から並んで買ってきた。自分なら時間があるから」って話されて、なんとも言えない気持ちになってる</p> — 焼きハラコ🍪『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%E5%BD%F7%BB%D2">腐女子</a>育児』4/3発売📚️ (@WwZuttonetaiYo) <a href="https://twitter.com/WwZuttonetaiYo/status/1241881673421201409?ref_src=twsrc%5Etfw">2020年3月23日</a></blockquote> <p> <script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script> </p> <p>で、仮に、そうじゃなかったとして。</p> <p>必要量以上のものを買っている人間がいたとして。</p> <p>だから何だというのだ。</p> <p>不安だから買う。それ自体は今まで認められてきたことだ。というより、人の不安をあおって買わせるのが市場のシステムであり、商品というものである。企業は人の不安を煽ることで商品を買わせてきたし、無駄と思えるようなものでも、使わないとしても自由に買えるのが今までの社会である。たとえそれで物の値段が上がろうが、転売屋がでてこようが、値段が上がって買えない人間がいようが社会は一向にお構いなしだったではないか。</p> <p>どんな目的であれ、何をどれだけ買おうが許されてきたし、何に使うかも自由であり、それで困る人間がいようとも一切誰も考慮してはくれなかったし、需要があれば値段は上がる。これは今まで我々が認めてきたルールであり、経済の基本であり、今回の件でも、およそ誰もこの市場のルールには反していないだろう。</p> <p>ただ、そんなことをやられてみんなが困るのはその通り。その通りだとして、一体そういうシステムの欠陥を今まで誰が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%D2%EB%A4%E1">咎め</a>てきたというのだろう。</p> <p>だいたい世の中に食うに困る人間だっているというのに、一日どれだけ(何百トン)のコンビニ食品が捨てられてきたと思っているのだろうか。</p> <p>お金だってなんだって必要な人間に必要な分だけ行き届くなんてことが今の今まであったわけでもあるまいに。</p> <p>各人に必要なものが各人に必要な分だけ買われる、買われたものは過不足なく使われるなんて今までだって無かったわけで、そういうシステムを看過してきた人間が自分たちが危機に瀕していると思った途端いちいち「義憤」に燃えてしまうのはなぜなのか。</p> <p>怒りをぶつけるなら、この欠陥システムやら、政府やらを相手取ればいいと思う。政府が無償で配るなり、あるいは商取引にルールを設ける(法律改正?)なりするよう求めるか、あるいはこれを機に一部の人間に物(お金含めて)が集まることを問題視するなりすればいい。</p> <p>そこまでの話ではないのなら、店が勝手にルール(おひとり様一つまで?)を作るなり、勝手に客がルール(俺にいきわたるようにしろ)を求めるなりの小競り合いで満足しておけばいい話だ。</p> <p>しかしそれも無理な要求だろう。そもそもこの「怒り」自体が単なる不安の発散、パニックに陥った人間が「犯人探し」に興じているだけという可能性すらある。</p> <p>必要としても手に入れることが出来ない人がいる一方で、飾るためだけに購入される食料だってある、なんてことはみんな分かっているのだ。分かった上で知らないふりをしている。いや、知らないふりをするために、こうやって犯人探しを(しかも高齢者叩きの欲望に付け込んだ形で)行っているのだ。</p> <p>いままでは何ともなかったのに、こんなことになったのは誰か状況を悪くしている犯人がいるはずだ。とでも思っておけばとりあえずは今までの日常が常にリスクと隣り合わせであったという現実からは逃避できるし、犯人探しに興じている間は根本的な問題解決を先送りにできる。</p> <p>不安が大きくなってそれを怒りという形で発散しようとしてしまうのは、人間の心理がそうなっているので仕方ないとして、こうもやりすぎれば病的になる。まして「市民の怒り」のように語られているのには呆れるより他ないだろう。</p> <p>まぁ、ここまでつらつら書いたのも所詮愚痴なのであって、私が勝手に呆れているだけの話だ。行動を起こせる人間はとっくに起こしているだろう。</p> <p>勿論、言いたいことがあるのは慌てふためく世論(?)に対してだけではない。</p> <p>その逆もしかりである。当たり前のことながら、状況を冷静に俯瞰したような口ぶりで余裕ぶって(諦めて?)いる場合でもない。</p> <p>以下記事については共感半分、疑問半分で言及したい。</p> <p><iframe class="embed-card embed-webcard" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="せんじか|あさお|note" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fkomeo%2Fn%2Fn8c244b0f1c4a" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://note.com/komeo/n/n8c244b0f1c4a">note.com</a></cite></p> <p>気持ちは分かる。</p> <p>特に「こんなクソみたいな社会など壊れてしまえ」という部分(勿論何が「クソ」なのかまでは共有出来てないかもしれないのであまり安易に共感を口にするものじゃないが)。</p> <p>だから、別に怒りからでも憎しみからでもないが、このような状況の捉え方はいささか問題だろうとは言わせてもらいたい。</p> <p>個人的には、今回の騒ぎが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B0%A5%ED%A1%BC%A5%D0%A5%EB%BB%F1%CB%DC%BC%E7%B5%C1">グローバル資本主義</a>(あるいはその勝者)への打撃となるかと言われればかなり怪しいところだろうと思う(寧ろ逆なのではないか)。</p> <p>何より、民衆の怒りが上に向かうと素朴に前提し過ぎではないかと思う。素直に見渡せば上に向かう怒りもあれば<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>的な発露、外国人へのそれだったり自粛を怠った者への自己責任論的バッシングもそれなりの数いるわけで、それがそのまま<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B3%AC%B5%E9%C6%AE%C1%E8">階級闘争</a>へと変換されるわけではない。</p> <p>何より、いくら今回が脅威的な事件であるとしても、それが社会の基本構造を破壊するかはまだ分からないのであるし(おそらく無理ではないか)、壊れていくとしても下から壊れるのであり、社会の基本構造にダメージを与える頃にはかなりの犠牲が出ることになるだろう。</p> <p>これを「痛快」とは正直言い難い(「痛快さ」は道具であり目的でもないわけで)。</p> <p>今回は「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A1%BC%A5%DE%A5%F3%A5%B7%A5%E7%A5%C3%A5%AF">リーマンショック</a>」の時とは違う。</p> <p>あの時の混乱はそれこそ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B0%A5%ED%A1%BC%A5%D0%A5%EB%BB%F1%CB%DC%BC%E7%B5%C1">グローバル資本主義</a>に対して幾分かダメージを与えるものだったかもしれない。あのリセッションは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D0%A5%D6%A5%EB%CA%F8%B2%F5">バブル崩壊</a>後の銀行の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%DF%A4%B7%BD%C2%A4%EA">貸し渋り</a>によるところが大きかったとされている。対して、今回の「コロナショック」はバブル的要素がなく、過剰生産や過剰負債によるダメージではないという見方が強い。この場合ダメになるのは上からではなく下からであり、接客業や飲食業で働く従業員であり、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%C9%B8%AF%BC%D2%B0%F7">派遣社員</a>や非<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%B5%B5%AC%B8%DB%CD%D1">正規雇用</a>社員であろう。</p> <p>現実問題として、ネットカフェが営業休止になったことで溢れかえった<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CD%A5%C3%A5%C8%A5%AB%A5%D5%A5%A7%C6%F1%CC%B1">ネットカフェ難民</a>たちは既に行き場を失い始めているのだ。</p> <p><iframe class="embed-card embed-webcard" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="新型コロナ危機はリーマンショックとどう違うのか。もやい・大西連さんインタビュー|望月優大|note" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fnote.com%2Fhirokim%2Fn%2Fn791044bdaa11" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://note.com/hirokim/n/n791044bdaa11">note.com</a></cite></p> <p>第二に、これでもし本当に何も壊れることなく社会が存続するのであれば問題だ。ますます人々の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B0%A5%ED%A1%BC%A5%D0%A5%EB%BB%F1%CB%DC%BC%E7%B5%C1">グローバル資本主義</a>への信頼は厚いものになっていくだろう。今回の危機が物語化して「乗り越えるべき試練」あるいは「復興と再生」という物語として、それを共有する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B0%A5%ED%A1%BC%A5%D0%A5%EB%BB%F1%CB%DC%BC%E7%B5%C1">グローバル資本主義</a>共同体を作るという方がシナリオとしては容易に想像がつく。</p> <p>何がともあれ今は生き延びることが肝要だろう。日常(あるいはそれと気づかない非日常)には様々な危機があるわけで、我々が忘れているだけで常にリスクとは隣り合わせなのだ。</p> <p> </p> <p>↓いつも心に黒いサングラス</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B078NHM7F8/kyotaro442304-22/"><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51OSEo25jnL._SL160_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="ゼイリブ(字幕版)" title="ゼイリブ(字幕版)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B078NHM7F8/kyotaro442304-22/">ゼイリブ(字幕版)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/01/01</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> Prime Video</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> </p> tatsumi_kyotaro 偏見で語ることと差別の違い hatenablog://entry/26006613528063844 2020-03-28T23:04:57+09:00 2022-08-16T10:47:55+09:00 0.はじめに 1.偏見と差別 2.偏見でも差別じゃない場合 3.偏見が生まれるのは仕方ない 4.正確で客観的な事実でも差別となる場合はある 5.偏見と差別は別問題 6.【参考図書】 0.はじめに この記事では、差別と偏見に違いがあるのかについて考えていきたい。 差別と偏見の違いを考えることは、差別とは何か、差別はなぜ悪いのかについて考える時に極めて重要だ。 少なくとも、偏見と差別の違いについてしっかり考えずに差別はなぜ悪いのかについて考えることはできない。そして、前にも言ったようになぜ悪いのかについて考えもせず差別を批判し続けることは難しい(前回記事:差別と区別の違い~「差別ではなく区別」は本… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#0はじめに">0.はじめに</a></li> <li><a href="#1偏見と差別">1.偏見と差別</a></li> <li><a href="#2偏見でも差別じゃない場合"> 2.偏見でも差別じゃない場合</a></li> <li><a href="#3偏見が生まれるのは仕方ない">3.偏見が生まれるのは仕方ない</a></li> <li><a href="#4正確で客観的な事実でも差別となる場合はある">4.正確で客観的な事実でも差別となる場合はある</a></li> <li><a href="#5偏見と差別は別問題">5.偏見と差別は別問題</a></li> <li><a href="#6参考図書">6.【参考図書】</a></li> </ul> <h4 id="0はじめに">0.はじめに</h4> <p>この記事では、差別と偏見に違いがあるのかについて考えていきたい。</p> <p>差別と偏見の違いを考えることは、差別とは何か、差別はなぜ悪いのかについて考える時に極めて重要だ。</p> <p>少なくとも、偏見と差別の違いについてしっかり考えずに差別はなぜ悪いのかについて考えることはできない。そして、前にも言ったようになぜ悪いのかについて考えもせず差別を批判し続けることは難しい(前回記事:<a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/03/01/200417">差別と区別の違い~「差別ではなく区別」は本当か~ </a>)。</p> <p>もちろん、偏見と差別が同じように機能する場合もあるだろうし、同じだと主張する人もいるだろう。</p> <p>例えば、世の中の人間は少なからず偏見を持っているのだからみんな差別しているのだという意見は偏見と差別を同じものと考えている。</p> <p>誰かがある共通項を持った人々に対して偏見を語った時に、それが差別であると言われることもしばしばある。</p> <p>この記事では、そうした考えが果たして正しいのかを問うことにしたい。</p> <h4 id="1偏見と差別">1.偏見と差別</h4> <p> </p> <p>偏見とは、ある共通項でカテゴライズされた人々に対して根拠なく悪い印象や間違った意見を持つことである。</p> <p>例えば、「女性は感情的で男性は論理的」というのは現代でもよく見られる偏見である。女性とカテゴライズされた人々には感情的という特徴があり、男性とカテゴライズされた人々には論理的という特徴があるというのは科学的根拠のない偏見である。一時期流行った「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CB%C0%AD%C7%BE">男性脳</a>」「女性脳」という言葉はエセ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%BE%B2%CA%B3%D8">脳科学</a>の中で特に有名だ。</p> <p>このように、性別や人種などの共通項でカテゴライズされた人々に共通の特徴があると<span style="color: #1464b3;">根拠なく判断すること</span>は偏見である。</p> <p>すなわち、偏見が差別であるという言説が意味しているのは「ある人々を不適切にカテゴライズして、その人々に間違った価値付けをすることは差別である」ということである。</p> <p>確かに、差別的発言・<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>の多くは、あるカテゴリ・属性を持った人々を一括りにして考え、根拠のない価値付けをしている。</p> <p>「韓国人はみな犯罪者予備軍だ」という<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>を例に考えよう。</p> <p>この<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>は、韓国に生まれた人々をカテゴライズし、「韓国人」というカテゴリ名を主語にしている。</p> <p>しかし、主語に使われている「韓国人」が示す集団と述語の「犯罪者予備軍」は一致していない。</p> <p>よって、「韓国人=犯罪者予備軍」という一般化は正確ではない。</p> <p><strong>つまり、偏見を語っている。</strong></p> <p>この<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>は、「韓国人」というカテゴリに含まれる人間全員に共通の負の特徴があると決めつけてしまっている。「韓国人」というカテゴリに含まれる集団のうち一部が犯罪者というカテゴリに当てはまるとしても、「韓国人」という属性を持つ全ての人がそうであるわけではない。</p> <p>「日本人」にカテゴライズされる人々にも色んな人がいるように、「韓国人」にカテゴライズされる人々にも色んな人がいる。しかし、この<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>はある人々を一括りにすることで、「韓国人」というカテゴリに存在する人々の多様性を無視してしまっている。</p> <p>実際、この「韓国人」という主語の示す集団は「犯罪者集団」という述語の示す集団に対して大きすぎる。つまり、「韓国人」という主語は「大きな主語」になってしまっている。</p> <p>偏見と差別がイコールであると言われる場合には、こうした「大きな主語」が問題になることが多い。つまり、大きなカテゴリ(属性)に属する人全員に不適切な負の価値付けを行ってしまうのが差別の悪質さであるというのである。</p> <p>差別が悪質であるのは、差別が実利的な被害を生むからでもなく、また差別が非合理的だからでもないということについては前回書いた通りである(↓前回記事)。</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="差別はなぜいけないのか - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F03%2F01%2F200417" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/03/01/200417">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p>では、偏見を語ることが差別の悪質さに関連しているのだろうか。言い換えれば、差別の悪質さは、偏見の程度や偏見によって及ぶ被害の大小によって決定することが可能なのだろうか。</p> <p>確かに、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>や現実にある差別のいくつかは偏見を語ることと重なる。つまり、差別行為は個人ではなく特定のカテゴリ・属性を持つ集団全体に対して不当な評価を下すことが多い。</p> <p>そして、偏見によって集団全体に負の評価が下されることは確かに不当である。</p> <p>とはいえ、偏見によって特定の集団に対して不当評価を下すこと、言い換えれば粗雑で根拠のない一般化をすることは差別の本質的問題であるだろうか。</p> <h4 id="2偏見でも差別じゃない場合"> 2.偏見でも差別じゃない場合</h4> <p>日常会話において、根拠のない偏見によって「不当な評価」が行われることはままある。</p> <p>例えば、眼鏡をかけている人に対して「根暗」「インドア」「頭でっかち」「でも勉強はできそう」という<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%C6%A5%EC%A5%AA%A5%BF%A5%A4%A5%D7">ステレオタイプ</a>を無意識に持ってしまっている人間が、「眼鏡をかけている人間は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AC%A4%EA%CA%D9">がり勉</a>だ」という発言するのはどうだろうか。</p> <p>この発言は眼鏡をかけた人間への偏見に基づいている。</p> <p>眼鏡をかけているからという理由だけで人々をカテゴライズし、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AC%A4%EA%CA%D9">がり勉</a>であるという根拠のない一般化をしている。尚且つ、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AC%A4%EA%CA%D9">がり勉</a>というのは負の評価である。</p> <p><span style="color: #1464b3;">では、これは眼鏡をかける人への差別なのだろうか。</span></p> <p>もう一つ例を出そう。巷で定期的に見られる若者批判はどうだろうか。</p> <p>「最近の若い奴らは根性がない」「最近の若い人間は本を読まない」等は日ごろよく耳にする。これらの若者批判は、若い人間にも様々な人間がいるにも関わらずその現実を無視している。</p> <p>若者批判は例外には触れず十把一絡げに若者全体を否定的に言及している。つまり、一部の若者を批判すべきところを、若者全体を主語として否定的に言及している。</p> <p><span style="color: #1464b3;">かと言って、これが若者差別と言えるのだろうか。</span></p> <p>確かに、若者批判は実態の調査が伴っておらず、正確さが欠けるているかもしれない。若者の文化や心理傾向への批判の多くは、単にその人間の頭の中にある若者像を批判しているだけかもしれない。</p> <p>だが、このような正確さの欠如は差別の悪質さと言えるだろうか。</p> <p>先ほど指摘した通り、日常の会話において正確でない情報が語られることは珍しくない。我々はしばしば例外については語ることを省いたりして大まかに語る。多少正確でないことを語っただけで差別的だとは言い難い。</p> <p>もし、発言が正確ではないだけで差別だと言えるのであれば、個人名を指して語ること以外は全て不正ということになる。</p> <p>あるカテゴリに属する人々に特定の傾向を見出し、それに対して負の評価を行うことは本当に差別なのだろうか。</p> <p>もしそうであるなら、日本社会及びその構成員たる日本人を批判することは日本人差別ということにならないだろうか。全ての日本人が同一の傾向を持つと言えない以上、日本社会あるいは日本の大衆文化を批判する際に、その主語に「日本人」というカテゴリ名を使用することは正確性に欠けることになる。だからといってこれが差別の問題であると断言することはできないだろう(勿論、そう断言する人は少なからずいるが)。</p> <h4 id="3偏見が生まれるのは仕方ない">3.偏見が生まれるのは仕方ない</h4> <p>個人以上の集団について語ろうとしたとき、その集団が持つカテゴリ名を主語とせざるを得ない。</p> <p>どんなに詳細に分類された小さなカテゴリ内でも差異は存在する。</p> <p>必ず差異があるのだから、カテゴリ(集団)について語ろうとすればある程度の例外は無視せざるを得ない。</p> <p>どんなにそれが詳細であろうとも、カテゴライズするということはある集合を一般化するための行為である。<span style="color: #1464b3;">そして、一般化とは個別性を無視することでもある。</span>つまりあるカテゴリ(集団)について考えること自体、個別性(例外)を無視することである。</p> <p>我々はカテゴリを使って語ることで、分析を行う。そして分析の結果として負の評価を下したり、批判したりすることは当然あり得る。</p> <p>例えば地域研究や文化批判というものはそれにあたるだろう。</p> <p>その際、不正確な一般化をすること、不当な評価を下すことは批判されるべきことだろう。それは正確ではないという間違いを犯しているかもしれない。</p> <p>しかしそれをもって、カテゴリに対して不正確な評価を下すことや間違った批判をすることが差別の問題であるとは言えないだろう。一切の偏見から解放された知以外は全て差別であるというのは、流石に無理がある差別の定義方法に思える。</p> <p>サ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%C9">イード</a>は著書『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AA%A5%EA%A5%A8%A5%F3%A5%BF%A5%EA%A5%BA%A5%E0">オリエンタリズム</a>』において、地域研究によって生まれた偏見が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%EB%B9%F1%BC%E7%B5%C1">帝国主義</a>とそれに伴う差別の温床となったことを指摘したが、地域研究自体が差別であるとは論じているわけではない。</p> <p>加えてサ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%C9">イード</a>が問題視したのは、負の価値付けを行う偏見だけではない。</p> <p>たとえそれが対象に対して負の価値づけを行っていない偏見だとしても問題であるというのがサ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%C9">イード</a>の言わんとしたことだ。</p> <p><a class="asin" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582760112/kyotaro442304-22/"><img class="asin" title="オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51S4WHA5B2L._SL250_.jpg" alt="オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)" /></a><a class="asin" href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582760120/kyotaro442304-22/"><img class="asin" title="オリエンタリズム下 (平凡社ライブラリー)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51NJ2XW7X7L._SL250_.jpg" alt="オリエンタリズム下 (平凡社ライブラリー)" /></a></p> <p>サ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%C9">イード</a>は知の体系が必然的に偏見を生み出してしまうこと、その偏見が誰かによって利用されうることを語っている。</p> <p>しかし、もし不正確な評価や対象の間違った批判が差別の問題として扱われることになったのなら、我々は今持つ全ての知の体系を捨て去る必要があるだろう。</p> <p>例えば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%AA%A5%ED%A5%AE%A1%BC">イデオロギー</a>やその信奉者への批判などは差別的言説として退けられてしまうかもしれない。</p> <p>全ての<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%D2%B2%F1%BC%E7%B5%C1%BC%D4">社会主義者</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%A6%BB%BA%BC%E7%B5%C1%BC%D4">共産主義者</a>が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BD%A5%D3%A5%A8%A5%C8">ソビエト</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%E6%B9%F1%B6%A6%BB%BA%C5%DE">中国共産党</a>を支持しているという前提で批判することは偏見による不正確な評価かもしれないが、政治的話題においてはこうした偏見による批判は頻発している。これは流言だけでなく、比較的正確性を求められる文献などにおいても、その文献が敵対視する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%AA%A5%ED%A5%AE%A1%BC">イデオロギー</a>を一方的な偏見で取り扱う箇所は数多く見られる。無論、その偏見に基づく批判自体が有益であるかどうかはこの際関係がない。</p> <p>問題なのは、これが「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%D2%B2%F1%BC%E7%B5%C1%BC%D4">社会主義者</a>差別」や「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%A6%BB%BA%BC%E7%B5%C1%BC%D4">共産主義者</a>差別」、あるいは「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%CD%B3%BC%E7%B5%C1%BC%D4">自由主義者</a>差別」と言えるのかということである。</p> <p>ある思想の支持者全ての主張を確認出来ない以上は、その<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%AA%A5%ED%A5%AE%A1%BC">イデオロギー</a>を支持する人をカテゴライズすれば原理的に例外は発生しうる。</p> <p>これがもし差別の問題になるのであれば、特定の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A5%C7%A5%AA%A5%ED%A5%AE%A1%BC">イデオロギー</a>を誤解、誤読している場合に発する発言も全て差別ということになってしまうが、それは言説の妥当性や正確性に関する問題ではあっても、差別の問題ではないのではないだろうか。</p> <p> </p> <h4 id="4正確で客観的な事実でも差別となる場合はある">4.正確で客観的な事実でも差別となる場合はある</h4> <p>逆転させて次のように考えても良い。</p> <p><span style="color: #1464b3;">差別的発言でも主語をより詳細で正確なカテゴリに変えれば差別ではないことになるだろうか。</span></p> <p>使用するカテゴリの正確さや適切さが差別の悪質さに関連するのであれば、一見差別的な発言もその主語の範囲や価値付けによる一般化の正確性を高めればその悪質さを減ずると考えられる。</p> <p>しかし、たとえ正確なカテゴライズをしていても差別の問題になるものもあるのではないだろうか。</p> <p>例えば、「黒人は犯罪者予備軍で劣等的存在だ」という誰の目から見ても明らかな差別的文言があったとしよう。</p> <p>先ほどの定義による批判から遠ざける為にこれに正確性を持たせようとして以下のような文言へ変化させた場合はどうだろうか。</p> <p> </p> <p><em>”この地域に住む<strong>一部の黒人</strong>には、白人に対する敵意から白人に対する凶悪な犯罪を行う傾向があり、被害件数は年々増加している。また、この地域の白人は犯罪の多い地域で過ごすことをよしとしない人が多数派であった”</em></p> <p> </p> <p>この文言が正確な情報ソースに依拠している場合について考えたい。</p> <p>仮に、差別の問題が発言の正確さと関連するのだとすれば、比較的正確に情報を記載しているこの文言は差別的でないことになる。</p> <p>まずこの文章は「全ての黒人」とは言っていない。この主語には「一部の」という形容詞が付いているので幾分か正確である。</p> <p>さらにこの文章は負の価値判断を行っているのではなく、単に統計的事実を告げているだけである。<span style="color: #1464b3;">この文言は過度に包摂的でもなければ、負の価値判断すら行っていない。</span></p> <p>これは先程の定義によれば、差別でない。もしくは悪質さを幾分か減じた差別ということになる。</p> <p><span style="color: #1464b3;">しかし、たとえ主語の範囲が限定されて正確な情報になったとしても、その発言が差別的な発言として機能することはありえるのではないだろうか。</span></p> <p>例えば、これらの文章が『一部の黒人による犯罪集』というサイトに書かれていた文章だとしよう。</p> <p>まず『一部の黒人による犯罪集』は全ての黒人ではなく、あくまで一部の黒人による犯罪を取り扱っているとする。</p> <p>更に、『一部の黒人による犯罪集』は統計データに基づき黒人の犯罪率が他の人種に比べて高いことを紹介しているとする。</p> <p>それでも、このサイトが発信してしまうメッセージは差別的なものとして機能するのではないだろうか。</p> <p>このサイトにはたとえ「一部」であろうと「黒人」の犯罪にはスキャンダラスに取り上げるだけの意味があるというメッセージを含まれている。<strong>なぜなら、言葉というものはそれが発された状況に応じて、その意味や受け取られ方を変化させるものだからだ。</strong></p> <p>「なぜ黒人に限定して言及する必要があるのか」という部分が問題なのだ。</p> <p>その部分に、差別的なメッセージが紛れ込む隙間が存在するのである。</p> <p>もしここで「私は良い黒人がいることは知っている。一切の例外を認めないわけではない」「私は黒人全体の傾向について言っているだけで全ての人がそうとは言っていない」などという主張をしたとしても、それは“I have black friends“話法(「私には黒人の友達がいる」話法)と同じような言い訳だとみなされるかもしれない。</p> <p>そのサイトの経営者には差別的な意図はないかもしれない。</p> <p>しかしその場合でも「黒人の犯罪」というカテゴリがその他の人種の犯罪に比べて注目するべきであるというメッセージが受け取られうる。</p> <p>そのようなメッセージが差別的なメッセージとして受け取られかねないのは、黒人差別の歴史が存在するからである。黒人差別の歴史がこのメッセージを差別的なものとして機能させてしまう。</p> <h4 id="5偏見と差別は別問題">5.偏見と差別は別問題</h4> <p>不正確なカテゴライズはそれ自体では差別ではないという意見に対して、次のような反論はあり得るかもしれない。</p> <p>「雑にカテゴライズしただけでは差別とは言えないが、そこで参照されるカテゴリよりも相応しいカテゴリがあるにも関わらず、そのカテゴリを使用する際にそれは差別になる」</p> <p>この主張は、他に使用すべき有効なカテゴリがあるにも関わらず、あるカテゴリを使用することに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C7%BC%B9">固執</a>している場合にそれは悪質な差別であるというものである。</p> <p>あるカテゴリ集団Aに対してB'という評価を下す場合、そのB'という評価にふさわしい集団がAではなく、Bならばこれは誤りであるというものだ。</p> <p>先ほどの例で説明しよう。</p> <p>この理屈でいけば「黒人は犯罪者ばかりだ」という発言が差別的なのは、人種と犯罪率の関係が疑似相関であり、本当は貧困と犯罪率に関連があるからということになる。</p> <p>確かに、犯罪の原因は貧困であり、黒人による犯罪が多いように感じるのはたまたま黒人に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%CF%BA%A4%C1%D8">貧困層</a>が多いからだという見方は広く共有されている。犯罪率に関連があるのは本当は貧困という指標であり、黒人という指標は関係ないかもしれない。</p> <p>つまり、黒人という人種が真の原因ではないため、人種と犯罪率の相関は疑似相関である。そして、人種と犯罪率の関係が疑似相関であるのなら、「黒人」というカテゴリを犯罪と絡めて使用することは間違っている。</p> <p>この場合、人種が原因ではないのにもかかわらず「黒人」というカテゴリをあえて持ち出すことは差別であるという主張には一定の説得力があるように思える。</p> <p><strong>この意見は、言葉が文脈やそれが発された状況によって意味を変化させるということをある程度踏まえている。</strong></p> <p>しかし、ここで新たに二つの問題が発生する。</p> <p>一つ目は何が疑似相関で何が真の相関かは完全には証明できないことだ。<span style="color: #1464b3;"><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%FD%B7%D7%B3%D8">統計学</a>的に相関関係があったとしてもそれが因果関係であるかどうかを完全に証明することはできない</span>(あくまで仮説としてしか提示できない)<span style="color: #1464b3;">。</span></p> <p>二つ目は、もし仮に人種と犯罪率に関連が認められた場合、それが差別ではないということになるという点である。<span style="color: #1464b3;"><strong>もし「遺伝子レベルで」関連が認められたら</strong>、先ほどの発言は悪質な差別ではなく正当な分析だということになる。</span>だが、これはかなり問題含みだろう。</p> <p><strong>今度は逆転させて考えよう。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">我々の身近には疑似的相関を根拠に、ある集団と別の集団との間に差を設けている例が存在する。</span>すなわち不完全な代理指標でもって差を生み出すことが問題にならない事例が存在している。</p> <p>それは車の免許取得の年齢制限である。</p> <p>車の免許の取得には年齢制限が掛けられている。</p> <p><span style="color: #1464b3;"><strong>第一に、</strong>この年齢制限は一定の年齢に達していない人間を一様に未熟と見なす偏見を含んでいる。</span>18歳未満の人間に未熟な人間が多くいたからといって、全員全てが未熟であるとは限らない。年齢によらず未熟な人間はいるし、またそうした偏見以上に熟達した人間もいる。よって、<span style="color: #1464b3;">年齢でカテゴライズすることは過度な一般化である。</span>言い換えれば、年齢という基準は未熟さの<strong>完全な代理指標としては</strong>機能しない(<span style="color: #1464b3;">代理指標として不完全である</span>)。</p> <p><span style="color: #1464b3;"><strong>第二に、</strong>年齢による免許取得制限は一定の年齢に達しない人間の免許を取得する自由を侵害している。</span>年齢による一律の制限は公的制度として採用されているのだからその被害の範囲も大きいため、害の大きさは無視できるはずがない。つまり、<span style="color: #1464b3;">低年齢=未熟という偏見によって広範な自由の侵害が起きている。</span></p> <p><span style="color: #1464b3;"><strong>第三に、</strong>年齢を基準として採用することで試験にかかる費用や時間を効率的に減らすことが出来ているとしても、それは年齢制限が差別でない証明にはならない</span>。なぜなら、前回の記事で言及した通り、効率性や利益があることは差別を正当化する理由にはならないからである。</p> <p><strong>それでも、年齢制限は差別として扱われないのである。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">たとえ自由の侵害を起こしている偏見であったとしても、それ自体は差別ではない。</span></p> <p>デボラヘルマンは正確性と差別の問題について次のように語る。</p> <blockquote> <p>正確性では劣るが費用は少なくて済む代理指標を選ぶことにはしばしば意味がある。そうだとすれば、不正確だが費用は安くつく代理指標の内、利用者が採用した時にその不正確さに気が付いていないような代理指標を選ぶことが時にある、ということも理解できる。(中略)結局のところ、馬鹿げた誤りを全然含まないような方針は不可能であり、そうした誤りの影響を受けることは、確かに害ではあるが、私たちがそれを避ける権限を与えられているような種類の害ではない。反差別とは愚かさを修正するためのものではないのだ。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41b5QdRtmVL._SL160_.jpg" alt="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/">差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%DC%A5%E9%A1%A6%A5%D8%A5%EB%A5%DE%A5%F3">デボラ・ヘルマン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/07/27</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>『差別はいつ悪質になるのか』(p189~P191)</p> </blockquote> <p>そもそも、不正確な評価への批判が差別への批判と接続しているとは限らない。</p> <p>それは反差別を装っていても、単に自己の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>を形成する属性を自分にとって都合の良いものとしたい(その為に、批判を退けたい)という欲望に基づいている可能性もあるだろう。事実、「大きな主語」によって行われる不正確な分析は時として歓迎される。</p> <p>例えば、ある特定日本人の悪行を取り上げて「日本人」全体の傾向であると結論付けることは殊更に強い反発を招き、その不正確性を批判される。「全ての日本人が~というわけではない」「アレは例外である」というのがその批判である。</p> <p>しかし、特定の日本人の善行を取り上げ「日本人」全体が善人であるかのように結論付けるような、俗にいう「日本人すごい論」に対して、「全ての日本人が~というわけではない」「アレは例外である」と批判する人が果たしてどれだけいるだろうか。</p> <p>「〇〇(日本人、白人、男性、等々)」という属性を持つ人たちによる功績部分だけを集合させて「〇〇(属性)」という属性を持つ人々の集合全体の持つ良い傾向であるかのように語る一方で、「〇〇(属性)」の人が行った悪行に関しては「全ての〇〇がそうというわけではない」「一部の〇〇がそうなだけだ」と言う文句で切断処理がなされるというのはよくあることである。</p> <p>まとめよう。</p> <p>ある人々をカテゴライズすること、そのカテゴリに対して評価を与えること、ともに完全に避けることは不可能である。同時に、ある集団に対する不正確な評価や誤った一般化は完全には避けることができない。</p> <p>そして評価の妥当性や情報の正確さは差別とは直接関係がない。</p> <p>よって、それらは偏見の問題ではあるが差別の問題ではない。情報の正確性の問題は差別の問題と切り離して扱うべきなのである。</p> <p>偏見の問題は確かに差別の歴史と隣接していた。それでも偏見の悪質さは差別の悪質さとは異なるのである。</p> <p><span style="color: #1464b3;">では、差別とは一体なんなのか。差別の悪質さが偏見と関係がないのだとしたら差別はなぜ悪質なのだろうか。</span></p> <p>次回は、いよいよ差別はなぜいけないのかについて考えていきたい。</p> <p> 【次回記事】</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="差別はなぜいけないのか - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F04%2F19%2F120235" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/04/19/120235">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <h4 id="6参考図書">6.【参考図書】</h4> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41b5QdRtmVL._SL160_.jpg" alt="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/">差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%DC%A5%E9%A1%A6%A5%D8%A5%EB%A5%DE%A5%F3">デボラ・ヘルマン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/07/27</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> ↓<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>について</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622078732/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="ヘイト・スピーチという危害" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41E0Ohat1sL._SL160_.jpg" alt="ヘイト・スピーチという危害" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622078732/kyotaro442304-22/">ヘイト・スピーチという危害</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%EC%A5%DF%A1%BC%A1%A6%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C9%A5%ED%A5%F3">ジェレミー・ウォルドロン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2015/04/11</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>↓<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A5%B3%A5%ED%A5%CB%A5%A2%A5%EB">ポストコロニアル</a>の必読書である(らしい) 『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AA%A5%EA%A5%A8%A5%F3%A5%BF%A5%EA%A5%BA%A5%E0">オリエンタリズム</a>』は、当然のことながら差別の研究にも役立つ。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582760112/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51S4WHA5B2L._SL160_.jpg" alt="オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582760112/kyotaro442304-22/">オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%C9%A5%EF%A1%BC%A5%C9%A1%A6W.%20%A5%B5%A5%A4%A1%BC%A5%C9">エドワード・W. サイード</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 1993/06/21</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582760120/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="オリエンタリズム下 (平凡社ライブラリー)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51NJ2XW7X7L._SL160_.jpg" alt="オリエンタリズム下 (平凡社ライブラリー)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582760120/kyotaro442304-22/">オリエンタリズム下 (平凡社ライブラリー)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%C9%A5%EF%A1%BC%A5%C9%A1%A6W.%20%A5%B5%A5%A4%A1%BC%A5%C9">エドワード・W. サイード</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 1993/06/21</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> </p> tatsumi_kyotaro 差別と区別の違い~「差別ではなく区別」は本当か~ hatenablog://entry/26006613528063762 2020-03-01T20:04:17+09:00 2022-08-16T10:56:40+09:00 0.差別はいけないことである。 1.区別か差別か 1.1実害がなければ差別ではなく区別か? 1.2.合理的なら差別ではなく区別か? 2.偏見によって特定のカテゴリを語ること 3.【参考図書】 0.差別はいけないことである。 多くの人がこの世界から差別が無くなっていくことはよいことだと言うだろう。現代では人種差別、女性差別、障碍者差別に至るまで、様々な差別が批判されている。 しかし、差別とは何か、なぜ差別はいけないのかについてはあまり深く考えず批判している人もいるように思える。 この記事では、差別は区別とどう違うのかについて整理することを目的としたい。 たとえば、次のような意見を口にする者もよく… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#0差別はいけないことである">0.差別はいけないことである。</a></li> <li><a href="#1区別か差別か">1.区別か差別か</a><ul> <li><a href="#11実害がなければ差別ではなく区別か">1.1実害がなければ差別ではなく区別か?</a></li> <li><a href="#12合理的なら差別ではなく区別か">1.2.合理的なら差別ではなく区別か?</a></li> </ul> </li> <li><a href="#2偏見によって特定のカテゴリを語ること">2.偏見によって特定のカテゴリを語ること</a></li> <li><a href="#3参考図書">3.【参考図書】</a></li> </ul> <h4 id="0差別はいけないことである">0.差別はいけないことである。</h4> <p>多くの人がこの世界から差別が無くなっていくことはよいことだと言うだろう。現代では人種差別、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%BA%B9%CA%CC">女性差別</a>、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%E3%B3%B7%BC%D4">障碍者</a>差別に至るまで、様々な差別が批判されている。</p> <p>しかし、差別とは何か、なぜ差別はいけないのかについてはあまり深く考えず批判している人もいるように思える。</p> <p>この記事では、差別は区別とどう違うのかについて整理することを目的としたい。</p> <p> </p> <p>たとえば、次のような意見を口にする者もよく見かけるがこれら全てにどう答えられるだろうか。</p> <p> </p> <p>・大学入試が知能差別じゃないように、合理的な理由と基準があれば差別じゃないなら、「女性は出産による離職や休職が多い」というデータを元に企業が女性を採用しないのも<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F7%C0%AD%BA%B9%CA%CC">女性差別</a>ではない。</p> <p>・人種や生まれなど、努力でどうにもできない部分を基準に区別するのが差別なら、女子大に男性が入学できないのは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CB%C0%AD%BA%B9%CA%CC">男性差別</a>だ。</p> <p>・人種や性別などの特定の属性を持った人たちへの偏見に基づいた制度が差別的なら、17歳以下の人間に選挙権を与えないのは17歳以下の人間を一括りにして未熟と考える偏見に基づいているから差別的だ。</p> <p> </p> <p>何が差別で、何がいけないのか誰も説明してくれない状態で「お前のやってることは差別だ」とだけ言われても、「なぜそれがいけないことなのかも説明されないまま批判された」という不満だけを募らせる者もいるかもしれない。</p> <p>もちろん、アンチ反差別、反・反差別への共感や同意したいわけではない。その多くはただ単に現状の差別や権力構造を無視して現状肯定をしたいという欲望に基づいているものだろう。それに、深く差別について理解していなければ差別批判は無効だという話でもない。</p> <p>だが、なんとなくで差別を批判していったら、差別という大きな社会問題を誰も理解できず、誰も取り合わなくなってしまうかもしれない。</p> <p>差別はいけないと何となく共有されている時代だからこそ、批判されるべき差別とは何か、それはどのようにいけないのか、どのように解消されるべきものなのかについて一度は考えなければならないのではないだろうか。</p> <p>もちろん、私がこれから提示するのは一つの考えであるので、異論や反論などは当然あってしかるべきだが、その異論や反論もまた「差別とは何か」、「差別はなぜいけないのか(あるいはなぜ許容されるべきなのか)」、どのように解決するべきものなのかを示す必要があるだろう。同時に、それらはこれまでの差別の歴史を説明できるものであることが望まれる(もちろん、相手をやり込めた気になることだけが批判をする重要なモチベーションになっている人にとってはそうではないだろうが)。</p> <h4 id="1区別か差別か">1.区別か差別か</h4> <p>さて、まず問題になるのはそもそも批判されるべき差別とは何かということである。歴史上批判されてきた、また批判されるべき差別とは一体どのようなことを指しているのだろうか。</p> <p>まず広義の意味における「差別」(=それだけでは批判されるべきとは言えない区別)は単純に、ある人を別の人とは違う仕方で扱うこと、扱いに差をつけることであると言えるだろう。</p> <p>とはいえ、差を設けて人を取り扱うことはそれだけで問題になるわけではない。</p> <p>広義の「差別」(=悪質ではない区別)のように、差を作り出して人を扱うということは社会にありふれている。例えば、入学試験においてはテストの点数によって人の学習する機会に差を生み出している。また公衆トイレは人の身体的な特徴を元に使用者に制限を設けている。自動車免許の取得においては、年齢によって免許取得を制限している。このように、ある基準に基づいて人の扱いに差をつけること自体は<strong>区別</strong>として扱われ問題とならない。</p> <p>ある基準によって差を生み出し、人の扱いを変化させる区別の中でも特定のものが差別と呼ばれている。</p> <p>では、どのように差をつけて扱うことが差別と呼ばれているものなのだろうか。</p> <p>ここからは、差別の悪質さを考える上で何が根拠となるのかについて考えていくことにしたい。そこで、よく挙がる論を取り上げよう。</p> <h5 id="11実害がなければ差別ではなく区別か">1.1実害がなければ差別ではなく区別か?</h5> <p>一つ目はただ人の扱いに差を設けるのではなく、それによって実体的な被害や損害が生じることが差別の不当さや悪質さを定義しているというものだ。</p> <p>だが、実体的な被害や損害が差別を定義する上で必要条件となりうるだろうか。差別に必ずしも実体的な損害が伴うとは限らないかもしれない。</p> <p>例えば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%D1%A5%EB%A5%C8%A5%D8%A5%A4%A5%C8">アパルトヘイト</a>において白人と黒人で座れるバスの席が違ったこと、白人席と黒人席が分けられていたことについて考えてみたい。</p> <p>実体的損害の有無を差別の悪質さの本質であるとするなら、バス内で白人と黒人の席が分けられていたことの悪質さは、座る席が制限されるという不自由さに還元されると考えることができる。</p> <p><span style="color: #1464b3;">しかし、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%D1%A5%EB%A5%C8%A5%D8%A5%A4%A5%C8">アパルトヘイト</a>の悪質さはそうした不自由さにあるのだろうか。</span></p> <p>座る席が制限されるという不自由さという点のみに悪質さがあるのならなぜ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%D1%A5%EB%A5%C8%A5%D8%A5%A4%A5%C8">アパルトヘイト</a>は黒人差別だったのだろうか。</p> <p>バスの席の制限を受けるのは黒人だけでなく白人も同様である。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%D1%A5%EB%A5%C8%A5%D8%A5%A4%A5%C8">アパルトヘイト</a>において、その中でもバスの席が区分けされていたことを取り上げれば、黒人と白人は「平等に」不自由を被っていた。</p> <p><span style="color: #1464b3;">この実体的な被害の大きさ、小ささを以て<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%D1%A5%EB%A5%C8%A5%D8%A5%A4%A5%C8">アパルトヘイト</a>におけるバスの席の制限が悪質な差別でないと言えるだろうか。</span></p> <p>ここで視点を変えて、実体的な損害があったとしても、それが差別と言えない場合について考えてみよう。</p> <p>例えば入学試験はどうだろうか。</p> <p>入学試験で試験に落ちてしまった人間はその学校で学習する機会を奪われている。入学試験は、その人間がたまたまその日に取った点数を元にその人間の学習する機会を決定している。もちろん、このような事実を取り上げて「知能差別」だと主張する人間はいる(いや、本当にいる)のであるが、多くの人にとって試験結果によって学習機会が決定されることは差別として扱われていない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">ある基準によって人を区別し、実体的な損害を生み出しているだけでは差別として扱われない</span>(これに対して、差別は合理的でないが、試験で人の扱いに差をつけることは合理的であると言う反論はあるかもしれないがそれについては後述する)。</p> <p>もう一つ、こうした実体的な損害によって差別を定義する際の問題がある。実体的な損害によって差別の悪質さを定義する人の中には、それを上回る利益さえ提示できればその差別は悪質さをいくらか減ずることができると考える人間がいることだ。</p> <p>例えば、帝国時代のイギリスがインドの鉄道を整備した事実を以て、当時のイギリス人によるインド人差別の問題はそこまで悪質でないという言説がそれである。</p> <p>実体的な被害から差別の悪質さを語ろうとするやり方は、数的に可視化された実体的な被害しか語ることができない。このやり方はあまりに非実体的な損害を軽視しすぎている。そこまでして軽視する合理的な理由はない。</p> <p>経済学者の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%ED%A5%D0%A1%BC%A5%C8%A1%A6%A5%D5%A5%E9%A5%F3%A5%AF">ロバート・フランク</a>が地位財と非地位財を比較し、非地位財の重要性を説いているように、人の幸福の構成要素は実体的な損益によってのみ構成されるわけではないのだ。</p> <p>差別が悪質であるのは、それが多くの人にとって何かを侵害しているからであるが、それは必ずしも数的に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%EA%CE%CC">定量</a>化することのできる実体的損害であるというわけではないのである。では、実体的な損害によって差別の悪質さを測れないとしたら、差別の悪質さは何によって定義されるべきだろうか。</p> <h5 id="12合理的なら差別ではなく区別か">1.2.合理的なら差別ではなく区別か?</h5> <p>次に考えられる定義の仕方は、不当な扱いの方ではなく、差をつける理由に問題があるというものだ。</p> <p>例えば、入学試験や自動車免許にはちゃんとした目的が存在しており、その目的によって差が生み出されているのであれば、その差別は肯定できるというものである。</p> <p>この定義によれば、合理的な目的と理由があれば差別は悪質ではないということになる。</p> <p>だが本当にそうだろうか。</p> <p>例えば、会社が利益を上げようと考えることは合理的であり、それ自体は当然のことながら直接的には差別の問題とならない。また、会社が利益を上げるために優秀な人間を雇うのも同様である。そして、優秀な人間を選定する際、その人間が本当に利益を上げるかどうかは未来でも見えていない限り判別<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%D4%C7%BD">不能</a>である。<strong>よって、</strong>会社は統計やデータに基づいて、予測を立てた上で将来有益となりうる可能性のある人間を選ぶ。もちろん時間は限られているため、代理指標を元に期待値を計算する必要がある。<span style="color: #1464b3;">これら一連の作業は、それだけでは差別とは言えない合理的な目的と理由によって行われている</span>。</p> <p><strong>ではその際、男性よりも女性の方が離職や休職のリスクがあるからという理由によって、女性よりも男性を積極的に雇った場合はどうだろうか</strong>。</p> <p>勿論社会状況によってその差がどの程度のものであるかは分かれるところであるが、この場合は、その基準がある程度有効であったとしよう。</p> <p>多くの企業がそれを採用し、社会全体として女性の社会進出が進んでいない状態に陥ったとしたら、これらは全く合理的な目的と理由によって利益を追求した結果であるから差別の問題ではないと言えるだろうか。無論、差別の問題ではないという人間はいるだろう(いや、本当にいる)。しかし、これまでの歴史を踏まえるなら、およそこれらの事象は差別として認定され語られてきたのである。</p> <p>つい最近も、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%E5%B2%CA%C2%E7%B3%D8">医科大学</a>の入学試験において、女性受験者の点数だけを下げていたことが発覚したが、これを「差別ではない」と擁護した者たちが主張したのは、大学は医療の世界における女性の「貢献度」を考慮すべき基準として採用しただけであり、差別的な意図はないということだった。</p> <p>試験はその人物の能力を正確に測るためのものであり、受験者がだれであろうと平等であるべきであり、性別によって差を設けるべきではないと反論することはできるかもしれない。だが、このような批判は試験の目的がより医療に貢献すべき人材を輩出するというものであった場合には反論として機能しないかもしれない。</p> <p>このように、<span style="color: #1464b3;">何を合理的理由と見なすかは恣意的である</span>。</p> <p>不合理な理由による選別とは、その選別のあるべき基準に対して、その基準からかけ離れた理由で選別することである。しかし、そのあるべき基準がどのようなものであるのかは可変である。</p> <p>もう一つ問題がある。それは一般的に不合理的な理由と基準により人を扱う場合は全て差別と言えるのだろうかということだ。</p> <p>例えば、雇用の場面において、企業の雇い主が就職希望者のうち、自分と同じ大学出身者を優先的に採用することはどうだろうか。あるいは同郷の人間を積極的に採用すること、同じ趣味の人間を採用すること、自分の好みの見た目をした人間を採用すること、これらは職務遂行する能力とは関係のない部分を選定基準としている。</p> <p>これらは、雇用という場面において考えられる合理的な基準とは別の基準によって人を選定しているが、批判されるべき悪質な差別として俎上に挙がることは少ない。</p> <p>勿論、このような選定基準が不合理なものかどうかは、雇用において重要な目的がどのようなものであると考えるかによって変わってくる。例えば、雇用主が職場の雰囲気や一体感が重要であると考える場合に、職場に集まる人間をただ優秀なだけでなく同じような特徴を持った人間にしたいと思っている場合、ある属性によって選定することは十分に「合理的」である。</p> <p>あるいは同じ属性を持っている人間に対してたまたま親近感を抱きやすかったために生まれた偏りだった場合はどうだろうか。それはいかなる場合も差別の問題であると言い切れるだろうか。就職採用の場面において、偏見による親近感で人の扱いを変えることは、合理的理由に割り振ることも不合理な理由に割り振ることもできるだろう。</p> <p>だが、これが仮に人種による親近感であればどうだろうか。こうなってくると今まで歴史的に扱われてきた差別の問題にかなり近づいてくる。おそらくそのような事態が発覚したのなら、人種差別の問題として議論の俎上にあがることだろう。</p> <p>仮に、不合理な理由が差別の基準であるとするなら、この場合の属性による親近感の発生という理由も不合理な理由に割り振られるのだろうが、属性による親近感の発生が不合理な理由であるからと言って、必ず差別的であると言えるかと言われるとかなり怪しいところがある。</p> <p>確かに、歴史上における差別は、現代から見れば多くのことが不合理であるかのように見える。けれども、それらが当時の社会において不合理なものとして考えられていたとは限らない。当時は十分合理的だと信じられてきたものが現代においては不合理と判断されるかもしれない。 我々が合理的であると考えているものも、世の中のテク<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%ED">ノロ</a><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>の発展によってやがて非合理として扱われる日がくるかもしれない。そういう意味でも、合理的な理由が存在することは差別が肯定されうる理由にはならない。</p> <p>そもそもそうした判別方法には、不合理な理由と合理的な理由の判別を可能であるという前提がある。だが、合理な理由であれば差別でないという基準は、あるべき選定基準があらかじめ差別的な視点によって構成されていた際には機能しないのである。</p> <p>デボラ・ヘルマンは『差別はいつ悪質になるのか』の中で、次のように結論を導いている。</p> <blockquote> <p>(前略)(人種、性別、年齢、障害などの)特定の特徴に基づいて人々の間に区別を付けることは合理的な場合もあるが、しかし、そのような差異化は――<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA%A5%AB%B9%E7%BD%B0%B9%F1">アメリカ合衆国</a>やそれ以外の国差別禁止法に反映されているように――合理的であっても悪質な場合がある(後略)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41b5QdRtmVL._SL160_.jpg" alt="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/">差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%DC%A5%E9%A1%A6%A5%D8%A5%EB%A5%DE%A5%F3">デボラ・ヘルマン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/07/27</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> </blockquote> <p>こうなってくると、差別は結局のところその意図の問題だという人も出てくるだろう。どんなに合理的な理由で取り繕っていても、真の意図が差別的なものであればそれは差別だという主張だ。</p> <p>とはいえ、行為者の真の意図を探り当てることは実際には不可能である。この場合、意図を批判するという立場に立つ多くの人が実際に行っているのは、その行為がどのように知覚され解釈されるかを判断することである。つまり、純粋にその行為者が何を意図したかではなく、何を意図したと解釈されるかという点が問題になっているのだ。</p> <p>そのように外からの解釈というのが問題となるのであれば、最終的に差別の悪質さを定義する上で重要なのは行為者の真の意図ではなく、その差別がどのように悪質であると解釈できるかである。</p> <p>差別の悪質さを意図の問題に還元する作業は、批判されるべき差別について考える上ではあまり本質的ではない。差別の意図の問題は確かに倫理の問題ではあるが、差別の悪質さとはまた別の話となってしまうのである。実際、「小樽温泉入浴拒否問題」では、温泉宿に差別の意図があったかどうかと関係なく差別だったという判決が下されている。</p> <p>それに、意図を差別の問題として捉えてしまうと、無意識に働く<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%A7%C3%CE%A5%D0%A5%A4%A5%A2%A5%B9">認知バイアス</a>による差別を批判できない。悪気はなくとも、既存の構造、当たり前として受け入れられる差別は存在するというのは周知の事実である。差別的意図があろうがなかろうが批判されるべき差別の悪質さを減ずることはないだろう。</p> <p>ここで一度整理しよう。</p> <p><strong>ある行為が差別であるかどうか考える上では、実体的被害も、悪意の有無も、それが合理的であるかどうかも関係がない。</strong></p> <p>たとえ実体的被害がなく、悪意もなく、合理的な理由によって行われていたとしても差別は差別である。差別の議論においては、これらの点が無視されがちである。</p> <p>実際「これは差別ではなく区別だ」という議論はよく見られる。</p> <p><span style="color: #1464b3;">しかし、少なくとも「合理的だから」「悪意がないから」「実体的被害がないから」という理由では「これは差別ではなく区別だ」とは言えないというのがひとまずの結論である。</span></p> <h4 id="2偏見によって特定のカテゴリを語ること">2.偏見によって特定のカテゴリを語ること</h4> <p>さて、今まで見てきたのは、区別された人々の間にどのように差を生み出しているのか、どのように差をつけて扱っているのかという側面からの考察だった。</p> <p>次のアプローチは、偏見によって差別の悪質さを定義するというものだ。</p> <p>どのように差を付けるのかという問題ではなく、区別を付ける際に使用するカテゴリへの偏見に悪質さが潜んでいるという見方である。</p> <p>つまり、区別に基づき差を作り出すことに差別の悪質さがあるのではなく、どのようなカテゴリに基づいて区別するのか、区別をする際に使用するカテゴリが正しいのか否かに差別の悪質さが関係しているというものだ。</p> <p>このような考えによれば、悪質な差別は、差を作り出す際にそこに偏見が紛れ込むから批判されるべきだということになる。</p> <p> 例えば、「韓国人はみな犯罪者予備軍だ」という<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>は、犯罪者予備軍とそうでない人を区別する際に、「韓国人」というカテゴリを参照している。</p> <p>しかしこれは偏見によって韓国人をひとまとめにして、負の価値判断を行っている。例外の存在がいくらでも考えられるのにも関わらず、偏見から全ての韓国人に対してマイナスのレッテルを貼っているのである。</p> <p>これに対して、よく見られる反論は「全ての韓国人が悪い人というわけではない」「いい韓国人もいる」という偏見に対する反論だ。この反論はこの手の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>が、主語である「韓国人」と述語である「犯罪者予備軍」が一致しないこと、そこに偏見が紛れ込んでいることを批判しているのである。</p> <p>確かに、主語の「韓国人」というカテゴリに対して、犯罪者予備軍という述語は対応が不十分である。よって、これら<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>等の悪質な差別が批判されるべきなのは、そこに偏見が存在すること、主語に使われるカテゴリが述語に対して正確に対応していないという点であるという主張はよく見られる。</p> <p> 事実、差別を偏見の延長として捉えようとする理解の方法は広く共有されているように思える。</p> <p>しかし、これらの差別の定義は本当に妥当なものなのだろうか。次回はその部分について言及したい。</p> <p>【次回記事】</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="偏見で語ることは差別と同じか? - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F03%2F28%2F230457" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/03/28/230457">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <h4 id="3参考図書">3.【参考図書】</h4> <p> ↓差別の中でも何が悪質な差別と言えるのかについての文献。この記事も基本的にこの文献を参考にしている。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41b5QdRtmVL._SL160_.jpg" alt="差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458860354X/kyotaro442304-22/">差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%DC%A5%E9%A1%A6%A5%D8%A5%EB%A5%DE%A5%F3">デボラ・ヘルマン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/07/27</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>↓<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D8%A5%A4%A5%C8%A5%B9%A5%D4%A1%BC%A5%C1">ヘイトスピーチ</a>と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C9%BD%B8%BD%A4%CE%BC%AB%CD%B3">表現の自由</a>について考えたい人向け</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622078732/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="ヘイト・スピーチという危害" src="https://m.media-amazon.com/images/I/41E0Ohat1sL._SL160_.jpg" alt="ヘイト・スピーチという危害" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4622078732/kyotaro442304-22/">ヘイト・スピーチという危害</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%EC%A5%DF%A1%BC%A1%A6%A5%A6%A5%A9%A5%EB%A5%C9%A5%ED%A5%F3">ジェレミー・ウォルドロン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2015/04/11</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> ↓地位財と非地位財という区別は果たしてどこまで有効か。気になる方は。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B076Q2N3QJ/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="幸せとお金の経済学" src="https://m.media-amazon.com/images/I/51CWYvBaEML._SL160_.jpg" alt="幸せとお金の経済学" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B076Q2N3QJ/kyotaro442304-22/">幸せとお金の経済学</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%ED%A5%D0%A1%BC%A5%C8%A1%A6%A3%C8%A1%A6%A5%D5%A5%E9%A5%F3%A5%AF">ロバート・H・フランク</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2017/10/20</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> </p> <p> </p> tatsumi_kyotaro ミステリの歴史と「後期クイーン的問題」 hatenablog://entry/26006613488267134 2020-01-03T22:07:07+09:00 2020-05-01T01:15:48+09:00 0.はじめに 1. 本格ミステリの歴史 2.後期クイーン的問題について 3.後期クイーン的問題以後の探偵 0.はじめに 日本のミステリの歴史を語る上で重要視され、本格ミステリの衰退の原因ともされる問題として「後期クイーン的問題」というものが頻繁に挙げられるが、一般的に「後期クイーン的問題」への反応は次の二つに大別される。 一つは、本格ミステリは「後期クイーン的問題」に向き合うべきだというもの。もう一つは、「後期クイーン的問題」は考えるだけ無駄であるというものである。作家で言えば、法月綸太郎は前者の態度をとっており、二階堂黎人、有栖川有栖は後者の態度である。 この記事では、90年代後半以降すっか… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#0はじめに">0.はじめに</a></li> <li><a href="#1-本格ミステリの歴史">1. 本格ミステリの歴史</a></li> <li><a href="#2後期クイーン的問題について">2.後期クイーン的問題について</a></li> <li><a href="#3後期クイーン的問題以後の探偵">3.後期クイーン的問題以後の探偵</a></li> </ul> <h4 id="0はじめに">0.はじめに</h4> <p>日本のミステリの歴史を語る上で重要視され、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>の衰退の原因ともされる問題として「後期クイーン的問題」というものが頻繁に挙げられるが、一般的に「後期クイーン的問題」への反応は次の二つに大別される。</p> <p>一つは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>は「後期クイーン的問題」に向き合うべきだというもの。もう一つは、「後期クイーン的問題」は考えるだけ無駄であるというものである。作家で言えば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%A1%B7%EE%E5%C5%C2%C0%CF%BA">法月綸太郎</a>は前者の態度をとっており、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%F3%B3%AC%C6%B2%F3%D5%BF%CD">二階堂黎人</a>、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%AD%C0%B4%C0%EE%CD%AD%C0%B4">有栖川有栖</a>は後者の態度である。</p> <p>この記事では、90年代後半以降すっかり衰退してしまった本格志向のミステリの現状を整理するため、ミステリの歴史の概観とミステリの歴史における「後期クイーン的問題」について解説することを目的としたい。また、「後期クイーン的問題」に対する私の姿勢(主に作り手視点から見た際の)は後述することとする。</p> <h4 id="1-本格ミステリの歴史">1. <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>の歴史</h4> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%C9%A5%AC%A1%BC%A1%A6%A5%A2%A5%E9%A5%F3%A1%A6%A5%DD%A1%BC">エドガー・アラン・ポー</a>の『モルグ街の殺人事件』をその原点に据えているとされる。</p> <p><a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B009IXH41S/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B009IXH41S&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=d88bb72a227a22386c3c9453c1960c0e" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=B009IXH41S&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=B009IXH41S" alt="" width="1" height="1" border="0" /> <a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B00H6XBIN2/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B00H6XBIN2&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=602eef8df07422dc106b6f2fcab04b4e" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=B00H6XBIN2&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=B00H6XBIN2" alt="" width="1" height="1" border="0" /> <a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4001145561/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4001145561&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=a700e304275833e0a3400c33e9fcc52d" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=4001145561&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=4001145561" alt="" width="1" height="1" border="0" /> <a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4102028056/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4102028056&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=d82cefebb5f5948a6f1153b5b4d47ceb" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=4102028056&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=4102028056" alt="" width="1" height="1" border="0" /></p> <p>ポーに続き、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A1%BC%A5%B5%A1%BC%A1%A6%A5%B3%A5%CA%A5%F3%A1%A6%A5%C9%A5%A4%A5%EB">アーサー・コナン・ドイル</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C1%A5%A7%A5%B9%A5%BF%A5%C8%A5%F3">チェスタトン</a>らの短編が続々と発表され、短編のミステリが勃興するようになると、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/1920%C7%AF">1920年</a>代の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%AC%A5%B5%A1%A6%A5%AF%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A1%BC">アガサ・クリスティー</a>、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%E9%A5%EA%A1%BC%A1%A6%A5%AF%A5%A4%A1%BC%A5%F3">エラリー・クイーン</a>、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%A3%A5%AF%A5%B9%A5%F3%A1%A6%A5%AB%A1%BC">ディクスン・カー</a>らによる長編<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>の発展と共に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>は黄金期を迎えることになるのである。</p> <p>(関係がないですが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%AC%A5%B5%A1%A6%A5%AF%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A1%BC">アガサ・クリスティー</a>の「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DF%A5%B9%A1%A6%A5%DE%A1%BC%A5%D7%A5%EB">ミス・マープル</a>」シリーズが好きです)</p> <p><a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4037381427/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4037381427&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=1990f530616ba98a888d1a259a23b88f" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=4037381427&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B01MU4NO7A/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B01MU4NO7A&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=d4228597f883089d3d0d0898c246c09d" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=B01MU4NO7A&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=B01MU4NO7A" alt="" width="1" height="1" border="0" /><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=4037381427" alt="" width="1" height="1" border="0" /> <a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B009DEMORQ/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B009DEMORQ&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=6d14b656bbf6f5367fc808f1fa01e250" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=B009DEMORQ&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=B009DEMORQ" alt="" width="1" height="1" border="0" /> <a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4041014557/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4041014557&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=9880d71b4f76ac492ff2efa0e5a98002" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=4041014557&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=4041014557" alt="" width="1" height="1" border="0" /></p> <p>また1928年には、ロナルド・ノックスが「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%C3%A5%AF%A5%B9%A4%CE%BD%BD%B2%FC">ノックスの十戒</a>」を、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%F4%A5%A1%A5%F3%A1%A6%A5%C0%A5%A4%A5%F3">ヴァン・ダイン</a>が「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%F4%A5%A1%A5%F3%A1%A6%A5%C0%A5%A4%A5%F3%A4%CE%C6%F3%BD%BD%C2%A7">ヴァン・ダインの二十則</a>」をそれぞれ残すこととなるのだ。この二つはミステリが守るべき暗黙のルール=コード(お約束)を明文化したもので、この頃にはミステリにおけるフェア・プレイやサプライズ・エンディングなどの付帯状況が暗黙の文化として読者と作者の間で共有されていたことが伺える。</p> <p>(↓有名な「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CE%A5%C3%A5%AF%A5%B9%A4%CE%BD%BD%B2%FC">ノックスの十戒</a>」)</p> <p><a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4794957971/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4794957971&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=f782fa7e07bcde38f931610d75faadae" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=4794957971&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=4794957971" alt="" width="1" height="1" border="0" /></p> <p>こうした西洋のミステリが日本に輸入された結果日本でもミステリが受容されていくことになるのだが、日本ではよく知られている<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%BE%B8%CD%C0%EE%CD%F0%CA%E2">江戸川乱歩</a>以前にも、コナンドイルに影響を受けた<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%AC%CB%DC%E5%BA%C6%B2">岡本綺堂</a>の探偵小説や、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%BA%EA%BD%E1%B0%EC%CF%BA">谷崎潤一郎</a>による犯罪小説などのミステリ色の強い小説が発表されていた。</p> <p>(↓<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%BA%EA%BD%E1%B0%EC%CF%BA">谷崎潤一郎</a>は言うまでもなく、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%AC%CB%DC%E5%BA%C6%B2">岡本綺堂</a>の『半七捕物帳』は今読んでも面白い)</p> <p><a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B0819Q8XD9/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B0819Q8XD9&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=efda7336529af92da0559ebbd9599cea" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=B0819Q8XD9&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=B0819Q8XD9" alt="" width="1" height="1" border="0" /> <a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4087462498/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4087462498&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=25472603a9c3ec39d477deab3bb02f90" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=4087462498&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=4087462498" alt="" width="1" height="1" border="0" /></p> <p>その後、海外のミステリ小説と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%BA%EA%BD%E1%B0%EC%CF%BA">谷崎潤一郎</a>の犯罪小説の両方から影響を受けた<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%BE%B8%CD%C0%EE%CD%F0%CA%E2">江戸川乱歩</a>や当時<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%BE%B8%CD%C0%EE%CD%F0%CA%E2">江戸川乱歩</a>よりも大衆人気があったとされる<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%C3%B2%EC%BB%B0%CF%BA">甲賀三郎</a>によって日本においても<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>が流行するのである。</p> <p> <a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4101149011/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4101149011&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=e9fed8de6665094f7ff7baa15964d581" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=4101149011&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4846004074/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4846004074&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=a0ac6f511ef209a8b0d926417e888c5f" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=4846004074&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=4846004074" alt="" width="1" height="1" border="0" /><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=4101149011" alt="" width="1" height="1" border="0" /></p> <p>しかし、一旦生まれた<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>ブームは戦争による検閲により一度中断されてしまい、戦時中はミステリ小説は全く発表されなくなっていく。</p> <p>戦後になると<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%A3%B9%C2%C0%B5%BB%CB">横溝正史</a>の本格長編が出版され<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>は復興の兆しを見せる。</p> <p>しかし、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%BE%CB%DC%C0%B6%C4%A5">松本清張</a>の『点と線』がベストセラーとなったことで、社会問題を取り入れるなどリアリズムを重視した社会派<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%E4%CD%FD%BE%AE%C0%E2">推理小説</a>が台頭し、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>は「絶海の孤島」や「名探偵」のように非現実的な舞台設定や人物設定を用いる点が古臭いという理由で批判に晒されるようになる。</p> <p>(↓<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%A3%B9%C2%C0%B5%BB%CB">横溝正史</a>の『本陣殺人事件』は今なおミステリとして評価が高いが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%BE%CB%DC%C0%B6%C4%A5">松本清張</a>の『点と線』は今読むには少し厳しいものがある)。</p> <p><a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B009GPM71A/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B009GPM71A&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=5e70431783502f203094552b52fd0842" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=B009GPM71A&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=B009GPM71A" alt="" width="1" height="1" border="0" /><a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4101109184/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4101109184&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=71089bee6e4e4f16d43423d2d6b9215f" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=4101109184&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=4101109184" alt="" width="1" height="1" border="0" /></p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>は古典への先祖返り、退化と見なされていた当時はかなりの逆風が吹き荒れる中、1981年に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%E7%C5%C4%C1%F1%BB%CA">島田荘司</a>が『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%EA%C0%B1%BD%D1%BB%A6%BF%CD%BB%F6%B7%EF">占星術殺人事件</a>』でデビューすると希少な本格<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%E4%CD%FD%BE%AE%C0%E2">推理小説</a>作家として注目を浴びるようになる。続く1987年に当時の逆風を跳ねのけて、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%BD%C4%D4%B9%D4%BF%CD">綾辻行人</a>が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>ブームの火付け役となる『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%B3%D1%B4%DB%A4%CE%BB%A6%BF%CD">十角館の殺人</a>』で鮮烈なデビューを飾ると、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%A1%B7%EE%E5%C5%C2%C0%CF%BA">法月綸太郎</a>、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%E6%C2%B9%BB%D2%C9%F0%B4%DD">我孫子武丸</a>、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%DE%B8%B6%B0%EC">折原一</a>、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%AD%C0%B4%C0%EE%CD%AD%C0%B4">有栖川有栖</a>、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%CC%C2%BC%B7%B0">北村薫</a>などの作家が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%BD%C4%D4">綾辻</a>の後を追うように続々とデビューを果たし、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EB%A5%CD%A5%B5%A5%F3%A5%B9">ルネサンス</a>期を迎えることとなる。</p> <p>(↓『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%EA%C0%B1%BD%D1%BB%A6%BF%CD%BB%F6%B7%EF">占星術殺人事件</a>』は『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%E2%C5%C4%B0%EC%BE%AF%C7%AF%A4%CE%BB%F6%B7%EF%CA%ED">金田一少年の事件簿</a>』のパクり騒動で有名ですね。『<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%BD%B3%D1%B4%DB%A4%CE%BB%A6%BF%CD">十角館の殺人</a>』は本屋のポップでネタバレを食らった人間も多いはず……)</p> <p><a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4062775034/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4062775034&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=9f501b990ca2b49c976479452f506dfc" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=4062775034&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=4062775034" alt="" width="1" height="1" border="0" /> <a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/4062758571/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=4062758571&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=f1514708f85e2e5b43ede9b94551dbbc" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=4062758571&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=4062758571" alt="" width="1" height="1" border="0" /></p> <p>そして、これらの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EB%A5%CD%A5%B5%A5%F3%A5%B9">ルネサンス</a>的な流れの中でデビューしたミステリ作家の総称が「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B7%CB%DC%B3%CA">新本格</a>ミステリ」なのである。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B7%CB%DC%B3%CA">新本格</a>ミステリは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%BD%C4%D4">綾辻</a>のデビュー以後、ポスト<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B7%CB%DC%B3%CA">新本格</a>、変格系、脱格系などの様々なミステリジャンルへ派生していくとともに徐々に衰退していくのだが、それはまた別の話になるのでこの記事では触れない。</p> <p>さて、ミステリの競技性が強く押し出されるようになり、読者と作者の知恵比べの場としてのミステリは黄金期を迎えるとある問題が提起されるようになった。</p> <p>それは、読者と作中人物の推理競争を成り立たせるためには、前提として作中人物と読者に与えられた情報が等しくなければならないが、この読者と作中人物の完全な平等は実現不可能なのではないかということであった。それがいわゆる「後期クイーン的問題」なのである。</p> <p>「後期クイーン的問題」は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B7%CB%DC%B3%CA">新本格</a>ミステリが90年代後半以降衰退する流れを作った原因の一つともされているが、「後期クイーン的問題」が現れたせいというよりは、ジャンルが盛り上がれば盛り上がるほどトリック(ネタ)が枯渇するという特有の弊害の影響の方が大きそうである。</p> <h4 id="2後期クイーン的問題について">2.後期クイーン的問題について</h4> <p>多く人が指摘する通り、この「後期クイーン的問題」は、それらしい大仰な字面に反して実はそれほど複雑な問題ではない。</p> <p>普通の小説にとってはごく自然かつ当たり前のことが、独自のコード(お約束)を形成しそれを共有する文化を持つ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>というジャンルにおいて問題になるというだけの話なのであるが、ともあれこの「後期クイーン的な問題」はそれなりに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>において重要な問題となっていたのである。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4832967320/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="現代本格ミステリの研究― 「後期クイーン的問題」をめぐって [北海道大学大学院文学研究科研究叢書17]" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51fgb1DwDhL._SL160_.jpg" alt="現代本格ミステリの研究― 「後期クイーン的問題」をめぐって [北海道大学大学院文学研究科研究叢書17]" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4832967320/kyotaro442304-22/">現代本格ミステリの研究― 「後期クイーン的問題」をめぐって [北海道大学大学院文学研究科研究叢書17]</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F4%B2%AC%C2%EE%BF%BF">諸岡卓真</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%CC%B3%A4%C6%BB%C2%E7%B3%D8">北海道大学</a>出版会</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2010/04/20</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> 「後期クイーン的問題」は、作中で探偵が最終的に導いた推理が、本当に真相かどうか作品内の人物は知ることができないという問題である。</p> <p>最も単純かつよく指摘される例を挙げるなら、推理に使われた手掛かりが偽の手掛かりかもしれないという問題がそれにあたる。たとえその手掛かりが正しい手掛かりだと保証する存在がいてもその存在が共犯あるいは犯人が操作したものかもしれないという可能性を作品内では除外できない。あるいは、作品内では発見されなかった手掛かりが存在していないとも限らない。その手掛かりによって、探偵の推理が妥当性を覆されるかもしれない可能性を作品内では除外できない。同様に、作品で挙がった容疑者の他にも容疑者は存在するかもしれないことを作中の人物は知る術がない。作中において、探偵の推理は唯一絶対のものとして扱われるにも拘わらず、その絶対性を保証するものが作中には存在しないのである。</p> <p>読者はそれが推理可能な物語として作者が提供しているという情報がある限り、手掛かりは作中のみに存在するということを知っているため探偵の推理が真かどうかを判別できるが、作中においては、書かれていない情報、何が本当に正しいのか、確定させる為の外部的存在がいない(作者が読者に嘘をついている可能性も考慮に入れれば……というのはバカバカしいのでやめておく)。</p> <p>作中では語られない物語の外部を作中人物は(ひょっとしたら読者も)知覚する術がないのである。</p> <p>しかし、先ほども書いた通り、探偵の推理の真偽を判定できないことは物語としては当たり前なのであり、もっと言えば現実で我々が置かれている状況も全く同じである。現実では数々の証拠から最も妥当とされる推測を得るために裁判が行われるのであって、真相そのものを見通せる者は誰もいないのである。如何に科学捜査の確実性が向上しようとも100%の確実性は保証されない(仮に100%正しい結論が導ける捜査方法があるとして、それが100%確実であるとどうやって判別するのだろうか)。</p> <p>ひょっとしたら有罪だとされたものは冤罪かもしれないし、逆に冤罪だとされたものは有罪だったかもしれない。それでも我々は起きた事件にその都度判断を下さなければならない。</p> <p>無論「後期クイーン的な問題」は、探偵の推理が真であると保証されていない(疑いの余地がある)にも関わらず、探偵という存在が絶対視されること、探偵が断罪者の役割を果たすこと(いくつかあるミステリのお約束=コード)に対しての問題提起でもあったわけだが、それにしても他のジャンルにおいて主人公が(やっていることが正しいか正しくないかなんて分からないにも拘わらず)絶対的な役割を与えられている作品など山ほど存在する。</p> <p>仮にその問題について真摯に向き合わせたいのであれば、絶対視されないような探偵や推理を描けばいいだけの話である。もし完全無欠の探偵、完全無欠の推理を志向するのであれば、それこそいっそ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%AD%C0%B4%C0%EE%CD%AD%C0%B4">有栖川有栖</a>のように割り切って様々なミステリのコード(「探偵は間違わない」「推理に使われる証拠は全て正しい」などの読者と作者間で漠然と共有された前提)に従って完全無欠の探偵を描けばいい。</p> <p>だいたい<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%E9%A4%B7">からし</a>て「後期クイーン的問題」の語源であるクイーン作品にしても、初期と後期のクイーンの作風の違いの原因はもっと別のところにあるのだ。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>であった初期クイーン作品から打って変わって、後期クイーンの作品において題材となるのは、事件を壮大な一つの隠喩体系とみなし、事件自体に一つの物語を読み取ろうとする欲望だった。すなわち、クイーンは手掛かりという細部から事件という物語全体を幻視し、一つの体系だった物語を読み取ろうとする読解の欲望そのものをテーマ化していったのだ。</p> <p>言うまでもなく、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>における小さな手掛かりから真相にたどり着くという推理の過程は、物語の細部から物語全体を読み取るという読解とパラレルな行為であり、限られたテクストから読解を行う読者と限られた手掛かりから推理を行う探偵はパラレルな存在なのである。これは、読者に与えられる情報と探偵が与えられる情報が同一であるという<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>の性質によるものであり、読者と同時並行的に探偵はテクスト読解を行っているとも言えるのだ。つまり、探偵とは読者の分身であり、推理とは読解のアナロ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>(相似・類似)かつメタファーなのである。</p> <p>その点から考えれば、クイーンが読解そのもののアナロ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>(相似・類似)としてのミステリというテーマに回帰していったことは殊更不自然なことではない。</p> <p>ともあれ、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>の競技性においては、探偵の解が唯一の真相であること=作中で回答が真相であることが何より大切になるのであるが、「後期クイーン的問題」はその根本がどうしても担保不可能であることを問題にしているのである。それが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>という<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%E9%A5%D1%A5%B4%A5%B9">ガラパゴス</a>的発展を遂げたジャンルにおいては、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>の限界」として認知されることになるのであった。</p> <h4 id="3後期クイーン的問題以後の探偵">3.後期クイーン的問題以後の探偵</h4> <p>作中人物が作中以外の情報を知りえないというのは、何も<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>特有の問題というわけではないが、コード(読者と作者の間で共有される前提、お約束)を多用するミステリというジャンルにおいては殊更問題視されることとなった。</p> <p>正確に言えば、「後期クイーン的問題」は作中人物が真実にたどり着けないことそのものが問題視されているのではない。そこから派生したミステリの競技性とフェアネスへの懐疑であったり、探偵の推理が正しいと作中で証明することができないにも関わらず、「探偵の推理は絶対である」という暗黙のコードが存在する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>の在り方への批判であったり、コードや挑戦状、作者という物語の外部の存在を多用しなければミステリ作品は完成しないという外部依存的な構造への懊悩なのである。</p> <p>無論、小説に限らず、あらゆる芸術作品にはそれを理解する為に必要な暗黙のコードや文脈、背景知識が存在するが、ミステリは敷居の低い大衆娯楽に分類されながらもコードが多用されるためこのような問題意識が蔓延することとなった。</p> <p>それを「ミステリとはそういうジャンルだ」と開き直ってものを書くか、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>(=探偵ミステリ)が避けて通れない反省点」とすべきかというところで作家たちの反応が分かれていたのである。</p> <p>例えば、絶対的な探偵というコードそのものへの憧憬と執着を持つ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%AD%C0%B4%C0%EE%CD%AD%C0%B4">有栖川有栖</a>や、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>という形式を成立させるためには探偵というコードの存在が必要不可欠であるとする<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%F3%B3%AC%C6%B2%F3%D5%BF%CD">二階堂黎人</a>からすれば「後期クイーン的問題」はナンセンスでしかない。逆に、自らの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DA%A5%F3%A5%CD">ペンネ</a>ームを探偵の名前と同一のものにするなど、探偵の存在そのものを作家性に結び付けて考えていた<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%A1%B7%EE%E5%C5%C2%C0%CF%BA">法月綸太郎</a>にとっては、「後期クイーン的問題」は避けては通れない作家性の存立そのものの問題だったのだ。</p> <p>と、ここまではもろもろの作家の立ち位置の表明であるが、私はというと作家たちの議論する「後期クイーン的問題」の議論は少々鼻白んでしまうところがある。無論、こうした真相の決定不可能性を取り扱うこと、絶対者のいない世界の問題と葛藤を取り扱う作品や文化が不要であるとかナンセンスであるというつもりはない。むしろこうした決定不可能性の問題や決定に纏わる葛藤の問題は必要不可欠であるとさえ思っているが、この問題を何もミステリ特有の問題として考える必要はないと思うのである。</p> <p>私はやはり作家たちの向き合った「後期クイーン的問題」の論点設定自体がミステリというジャンルを特権的ジャンルとして扱ってしまうという別の問題を孕んでいるように思える。</p> <p>作家たちが腐心した「後期クイーン的な問題」は、ミステリにおけるコードの問題よりも、むしろミステリというジャンル特有の問題として扱われていたことに真の問題があるのではないだろうか。</p> <p>作家たちが後期クイーン的な問題をミステリの問題として捉えて向き合おうとする際、ミステリの抱える問題に真摯に向き合っているように見えてその実、ミステリというジャンルを特権的なジャンルと見做そうとする欲望と共謀している。</p> <p>そういった意味では、作家たちがこの「後期クイーン的問題」をミステリの問題として「正面から」向き合う必要はないと思えてしまうのだ。</p> <p>探偵の不完全性に対して神経質なまでに執着すれば、つまり外側の作者が外部のコードに頼ることなく探偵の推理を完全無欠にしようとすればするほど、「後期クイーン的問題」が提起した決定不可能性の問題が脇に置かれたまま作家の権能を強化することになりかねない(事実、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B7%CB%DC%B3%CA">新本格</a>ミステリファン、作家間では、作者がいかにして探偵の推理の正しさを保証するかという議論がなされていった)。</p> <p>探偵という存在に絶対性を与えるべく作家が探偵の推理の正しさを保証しようと腐心すればするほど、探偵の代わりに物語に対する作家の優越性、全能性が前面に押し出される事態となることは想像に難くない。</p> <p>それに何より、「後期クイーン的問題」と正面から向き合うのではなく、軽々と躱しながら逆にそれを取り込むんでみせた作品が現に存在するではないか(↓参照)。</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="ポスト本格ミステリとしての『虚構推理』 - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2019%2F12%2F16%2F101318" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2019/12/16/101318">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p>「後期クイーン的問題」以後に求められる探偵とは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%A1%B7%EE%E5%C5%C2%C0%CF%BA">法月綸太郎</a>が描くような真実に到達出来ないことを嘆きつつ、ナルシスティックで悲劇的なヒロイズムに浸る探偵でもなければ、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%AD%C0%B4%C0%EE%CD%AD%C0%B4">有栖川有栖</a>のように作家の憧憬がそのまま反映された傲岸不遜な神のように振る舞う探偵でもなく、真実の決定不可能性に向き合いながらも決定することから逃れられない、決定せずにはいられない探偵なのではないだろうか。</p> <p> </p> <p>※追記</p> <p>・この記事の後期クイーン的問題は、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B7%CB%DC%B3%CA">新本格</a>ミステリの文脈における後期クイーン的問題を扱っています。</p> <p>各作品に関する寸評、ミステリー史、後期クイーン的問題に関して結構異論反論が見られたので、気になった皆さんは各自調べてみても面白いかもしれません。</p> <p> </p> <p>【今回紹介したもの】</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102028056/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="モルグ街の殺人・黄金虫 ポー短編集II ミステリ編 (新潮文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/514l%2B87gGZL._SL160_.jpg" alt="モルグ街の殺人・黄金虫 ポー短編集II ミステリ編 (新潮文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4102028056/kyotaro442304-22/">モルグ街の殺人・黄金虫 ポー短編集II ミステリ編 (新潮文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%C9%A5%AC%A1%BC%A1%A6%A5%A2%A5%E9%A5%F3%20%A5%DD%A1%BC">エドガー・アラン ポー</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> 新潮社</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2009/04/25</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4037381427/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="完訳版 シャーロック・ホームズ全集 全14巻" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/5168A0D2D2L._SL160_.jpg" alt="完訳版 シャーロック・ホームズ全集 全14巻" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4037381427/kyotaro442304-22/">完訳版 シャーロック・ホームズ全集 全14巻</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B3%A5%CA%A5%F3%20%A5%C9%A5%A4%A5%EB">コナン ドイル</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%D0%F3%C0%AE%BC%D2">偕成社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2003/04/01</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01MU4NO7A/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/516jPF3KkwL._SL160_.jpg" alt="ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01MU4NO7A/kyotaro442304-22/">ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A3%C7%A1%A6%A3%CB%A1%A6%A5%C1%A5%A7%A5%B9%A5%BF%A5%C8%A5%F3">G・K・チェスタトン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%EC%B5%FE%C1%CF%B8%B5%BC%D2">東京創元社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2017/01/12</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4151310800/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/5151DK%2Bvf9L._SL160_.jpg" alt="そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4151310800/kyotaro442304-22/">そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%AC%A5%B5%A1%A6%A5%AF%A5%EA%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A1%BC">アガサ・クリスティー</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%E1%C0%EE%BD%F1%CB%BC">早川書房</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2010/11/10</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041014557/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="シャム双子の秘密 (角川文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51oesb-245L._SL160_.jpg" alt="シャム双子の秘密 (角川文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041014557/kyotaro442304-22/">シャム双子の秘密 (角川文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%E9%A5%EA%A1%BC%A1%A6%A5%AF%A5%A4%A1%BC%A5%F3">エラリー・クイーン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KADOKAWA">KADOKAWA</a>/<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B3%D1%C0%EE%BD%F1%C5%B9">角川書店</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2014/10/25</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794957971/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="探偵小説十戒―幻の探偵小説コレクション" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41Mz%2BwmHyjL._SL160_.jpg" alt="探偵小説十戒―幻の探偵小説コレクション" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4794957971/kyotaro442304-22/">探偵小説十戒―幻の探偵小説コレクション</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/"> </a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%BD%CA%B8%BC%D2">晶文社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 1989/01</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> -</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101801738/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="半七捕物帳: 江戸探偵怪異譚 (新潮文庫nex)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51fjuttYN3L._SL160_.jpg" alt="半七捕物帳: 江戸探偵怪異譚 (新潮文庫nex)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101801738/kyotaro442304-22/">半七捕物帳: 江戸探偵怪異譚 (新潮文庫nex)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%AC%CB%DC%20%E5%BA%C6%B2">岡本 綺堂</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> 新潮社</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2019/11/28</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087462498/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="谷崎潤一郎犯罪小説集 (集英社文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41Z5DP-1XcL._SL160_.jpg" alt="谷崎潤一郎犯罪小説集 (集英社文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4087462498/kyotaro442304-22/">谷崎潤一郎犯罪小説集 (集英社文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%AB%BA%EA%20%BD%E1%B0%EC%CF%BA">谷崎 潤一郎</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%B8%B1%D1%BC%D2">集英社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2007/12/14</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101149011/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41%2BeaJbuGZL._SL160_.jpg" alt="江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101149011/kyotaro442304-22/">江戸川乱歩傑作選 (新潮文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%BE%B8%CD%C0%EE%20%CD%F0%CA%E2">江戸川 乱歩</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> 新潮社</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 1960/12/27</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4846004074/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="甲賀三郎探偵小説選 (論創ミステリ叢書)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51SVE2J8MSL._SL160_.jpg" alt="甲賀三郎探偵小説選 (論創ミステリ叢書)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4846004074/kyotaro442304-22/">甲賀三郎探偵小説選 (論創ミステリ叢書)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%C3%B2%EC%20%BB%B0%CF%BA">甲賀 三郎</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CF%C0%C1%CF%BC%D2">論創社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2003/12/01</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B009GPM71A/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="金田一耕助ファイル2 本陣殺人事件 (角川文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51oXm8VoJFL._SL160_.jpg" alt="金田一耕助ファイル2 本陣殺人事件 (角川文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B009GPM71A/kyotaro442304-22/">金田一耕助ファイル2 本陣殺人事件 (角川文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%A3%B9%C2%20%C0%B5%BB%CB">横溝 正史</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KADOKAWA">KADOKAWA</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2012/10/01</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101109184/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="点と線 (新潮文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51YugbJygVL._SL160_.jpg" alt="点と線 (新潮文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4101109184/kyotaro442304-22/">点と線 (新潮文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%BE%CB%DC%20%C0%B6%C4%A5">松本 清張</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> 新潮社</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 1971/05/25</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062775034/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="占星術殺人事件 改訂完全版 (講談社文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/61TZMiEP8AL._SL160_.jpg" alt="占星術殺人事件 改訂完全版 (講談社文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062775034/kyotaro442304-22/">占星術殺人事件 改訂完全版 (講談社文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%E7%C5%C4%20%C1%F1%BB%CA">島田 荘司</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2013/08/09</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062758571/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="十角館の殺人 &lt;新装改訂版&gt; (講談社文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51hty9rMq2L._SL160_.jpg" alt="十角館の殺人 &lt;新装改訂版&gt; (講談社文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062758571/kyotaro442304-22/">十角館の殺人 &lt;新装改訂版&gt; (講談社文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%BD%C4%D4%20%B9%D4%BF%CD">綾辻 行人</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2007/10/16</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4832967320/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="現代本格ミステリの研究― 「後期クイーン的問題」をめぐって [北海道大学大学院文学研究科研究叢書17]" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51fgb1DwDhL._SL160_.jpg" alt="現代本格ミステリの研究― 「後期クイーン的問題」をめぐって [北海道大学大学院文学研究科研究叢書17]" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4832967320/kyotaro442304-22/">現代本格ミステリの研究― 「後期クイーン的問題」をめぐって [北海道大学大学院文学研究科研究叢書17]</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BD%F4%B2%AC%C2%EE%BF%BF">諸岡卓真</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%CC%B3%A4%C6%BB%C2%E7%B3%D8">北海道大学</a>出版会</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2010/04/20</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> </p> <p> </p> tatsumi_kyotaro 『虚構推理』と本格ミステリ hatenablog://entry/26006613485111669 2019-12-16T10:13:18+09:00 2020-01-20T00:13:01+09:00 1.ミステリとは何か 2.アンチミステリとしての多重解決 3.ポスト本格ミステリとしての『虚構推理』 1.ミステリとは何か 『虚構推理』のアニメ化が決定し、ミステリにも若干のスポットライトが当たり始めている今、この記事では、80年代の新本格と呼ばれる黄金期からすっかり衰退してしまった本格ミステリについて語りつつ、『虚構推理』を例に、ポスト本格ミステリの可能性について検討していきたいと思う。 そもそもミステリとは謎を解く小説ジャンルであり、特にその中でも本格ミステリというジャンルでは、作中人物だけでなく、読者も登場人物と同じく作品の謎を推理できるように推理に必要な情報は物語中で全て記述されるよう… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#1ミステリとは何か">1.ミステリとは何か</a></li> <li><a href="#2アンチミステリとしての多重解決">2.アンチミステリとしての多重解決</a></li> <li><a href="#3ポスト本格ミステリとしての虚構推理">3.ポスト本格ミステリとしての『虚構推理』</a></li> </ul> <h4 id="1ミステリとは何か">1.ミステリとは何か</h4> <p>『虚構推理』のアニメ化が決定し、ミステリにも若干のスポットライトが当たり始めている今、この記事では、80年代の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B7%CB%DC%B3%CA">新本格</a>と呼ばれる黄金期からすっかり衰退してしまった<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>について語りつつ、『虚構推理』を例に、ポスト<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>の可能性について検討していきたいと思う。</p> <p>そもそもミステリとは謎を解く小説ジャンルであり、特にその中でも<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>というジャンルでは、作中人物だけでなく、読者も登場人物と同じく作品の謎を推理できるように推理に必要な情報は物語中で全て記述されるようになっている。</p> <p>ミステリというジャンルではただ事件の真相(正解)を提示するのではなく、正解までの正しい道筋を、登場人物に解説させることで提示してみせる。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>の場合はさらに、登場人物達が読者に与えられた情報と全く同じ情報のみを手掛かりに推理(正解までの正しい道筋)を展開することになるのだ。</p> <p>ここで重要なのは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>というジャンルは、ある意味ではメタフィクショナルなジャンルでもあるということだ。というのも、語られた謎と描写された手がかりを元に事件の真相を推理するという構図は、小説の細部の描写から物語を読解すること、解釈を与えることとアナロ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>(相似・類似)を為すからである。</p> <p>推理を行う登場人物たちは、読解を行う読者と同じ手掛かりが与えられている。さらにミステリにおいて手掛かりは必ず描写される。そして、登場人物が描写された手掛かりから物語の真相を推理する限りにおいて、推理とは集まった手掛かりから生み出された一つの解釈(読解)に他ならない。読者が描写から物語を読み解くように、登場人物は集まった手掛かりの関係から事件の全容を読み込み推理するのである。</p> <p>つまり、ミステリでは我々がその物語を読むことと作中人物が推理をすることが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%FE%A4%EC%BB%D2">入れ子</a>構造になっているのだ。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>において、読者が描写から物語を読むのと同時に、作中人物は手掛かりから推理(読解)するのである。</p> <p>この瞬間、登場人物達はただ単に正答を知る者(=作者の分身)ではなく、作中の描写を参照して正答にたどり着いた者(=読者の分身)として設定される。</p> <p>その際、最も鋭敏な読者の分身として描かれた者たちは探偵と呼ばれるのである。</p> <p>かのシャーロックホームズや<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C7%A5%E5%A5%D1%A5%F3">デュパン</a>やポワロは誰よりも物語の細部に目を凝らし、そこから物語の読解(推理)を行う者たちであった。当然のことながら、最も鋭敏な読者の分身の傍らには、平均的な読者の分身としてワトソンなりの助手が描かれることになるのである。</p> <p>全ての手掛かりが描写される以上、登場人物達は読者と同時並行的にそれを読み推理することができる。このフェアネスの構造が登場人物を読者の分身たらしめるのである。</p> <p>そして、物語の真相を積極的に読み解く読者の分身(競う相手)たちがいて初めて、ミステリは作中人物と現実の読者を隔てる第四の壁を乗り越えた競技性を生み出せるのである。</p> <h4 id="2アンチミステリとしての多重解決">2.アンチミステリとしての多重解決</h4> <p>しかし、競技としての<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>というジャンルには問題が存在する。</p> <p>それは正しい推理からは正しい真相が導けると前提していることである。だが、正しい推理から正しい真相が導けるとは限らない。現実にあり得るであろう様々な可能性を排除することは事実不可能である。</p> <p>例えば、探偵が推理に使用した証拠は犯人が用意した偽の証拠かもしれない。でもそうして見分けたはずの偽の証拠の中には、実は犯人が偽の証拠だと言っているだけの本物の証拠も混じっているかもしれない。当然、推理も証拠の不確実性と同様に偽の推理である可能性を否定できないが、一旦ある人物によって偽であると否定された推理も、実はその推理の方が間違っていて偽であるとされた推理が合っているかもしれないので、一度否定されただけではそれが真実でないかは分からない。</p> <p>こうした事情を考えれば、現実と同様に、一つの事件に対しては複数の推理があり得るのである(現実においては、数ある推理の内もっとも妥当だとされた推理が適用されるとも言える)。</p> <p>事実、ミステリ界隈においてもこの手の問題提起が行われたのだ。それは「後期クイーン的問題」と呼ばれ、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>の衰退を招いたとも言われているのだが、下記の記事にて言及し、この記事では割愛したい。</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="ミステリの歴史と後期クイーン的問題 - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2020%2F01%2F03%2F220707" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2020/01/03/220707">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p>それ以上に、いち早くこの問題を敏感に察知し作品として昇華してみせた作家が存在したことの方が重要であるからだ。</p> <p>それはご存じの通り、多重解決ミステリの金字塔『毒入りチョコレート事件』の作者<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%F3%A5%C8%A5%CB%A5%A4%A1%A6%A5%D0%A1%BC%A5%AF%A5%EA%A1%BC">アントニイ・バークリー</a>である。</p> <p>『毒入りチョコレート事件』は一つの事件に対して複数の推理が展開される、いわゆる多重解決に区分される作品である。</p> <p>「毒入りチョコレート事件」に対して、犯罪研究会の面々が順繰りに提示する推理は、一見どれも筋が通っていて正しいように見えるが、結局どの推理が真相であるかは作中では明言されない。彼らの推理に使われた証拠のうちどれが本物でどれが偽物か最後まで明言されていないからだ。それらの推理は結局、事件に対するそれぞれの解釈にしかならなかった。つまり、推理=真相の解明に直結するのではなく、推理は事件に対する一つの「読み」として展開されている。</p> <p>ここに多重解決というジャンルのアンチミステリ的な側面を発見することが出来るだろう。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4488123058/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="毒入りチョコレート事件【新版】 (創元推理文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/612BqqbAweL._SL160_.jpg" alt="毒入りチョコレート事件【新版】 (創元推理文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4488123058/kyotaro442304-22/">毒入りチョコレート事件【新版】 (創元推理文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%F3%A5%C8%A5%CB%A5%A4%A1%A6%A5%D0%A1%BC%A5%AF%A5%EA%A1%BC">アントニイ・バークリー</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%EC%B5%FE%C1%CF%B8%B5%BC%D2">東京創元社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2009/11/10</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p>ミステリが唯一絶対の推理からただ一つの真相にたどり着く物語群を指すのであれば、『毒入りチョコレート事件』はその真逆、どんなに正しい推理でも真相にたどり着けるとは限らないということを示唆する。</p> <p>論理的に正しい推理から正しい真相へたどり着けるはずだという前提は、ミステリというジャンルを成立させる前提であるが、多重解決は、その推理→真相という回路の唯一性や絶対性を否定する。</p> <p>こうして、『毒入りチョコレート事件』において、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>(唯一絶対の推理を作り出すジャンル)の方向性に限界を示したバークリーは、同時に、後のミステリが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>なサスペンスを重視するものへと変わっていくと予言した。</p> <p>彼はミステリというジャンルにおいて、唯一絶対の推理による真相の解明と事件の解決のみを重視しない方向性を見出そうとするのである。</p> <p>その結果、彼はその後の作品で<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%DD%BD%F6">倒叙</a>ミステリ(犯人視点で書かれたミステリ)を発表していくことになるのであるが、『毒入りチョコレート事件』に代表される多重解決にはもう一つの可能性が示されていたのである。</p> <p>それは、アンチ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>としてだけではない、ポスト<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>として多重解決という道筋である。</p> <p>もし『毒入りチョコレート事件』が、ただ単に正しい推理から真相にはたどり着けないというテーゼのみを語るものであったのなら、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>のコード(お約束・お決まり)に飽きたすれっ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%E9%A4%B7">からし</a>のミステリ好き以外には面白いと思われなかっただろう。</p> <p>ここで取り上げたいのは、『毒入りチョコレート事件』への反応である。『毒入りチョコレート事件』は、単にそれがアンチミステリ的なもの=真相にたどり着くための推理の否定という側面だけを受け取られていたわけではないのである。クリスチアナ・ブランドの「『毒入りチョコレート事件』第七の解答」(創元推理1994)の他、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%B2%CA%D5%C2%F3">芦辺拓</a>の『探偵宣言 森江春策の事件簿』など、自ら『毒入りチョコレート事件』の新たな推理を披露しようとした読者が数多くいたのだ。『毒入りチョコレート事件』は、唯一の真相が明かされていないために、作中人物だけでなく、作品外の読者も独自の推理を創作することが出来たのである。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062751763/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="探偵宣言―森江春策の事件簿 (講談社文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/519V102YGEL._SL160_.jpg" alt="探偵宣言―森江春策の事件簿 (講談社文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062751763/kyotaro442304-22/">探偵宣言―森江春策の事件簿 (講談社文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%B2%CA%D5%20%C2%F3">芦辺 拓</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2005/09</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%F3%A5%C8%A5%CB%A1%BC">アントニー</a>・バークリーの『毒入りチョコレート事件』は、真相が唯一絶対の推理によって決定されえないことを示したとともに、物語における真相と推理の位置を逆転させた。それは真相解明の過程として推理が描かれるミステリではなく、推理そのものが一つの頂点として存在するミステリの発見でもあった。推理という行為の創作性、推理の二次創作的側面が物語を成立させうるということが示されたのである。</p> <p>そして、これこそが多重解決が持つポスト<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>的側面なのである。</p> <p>多重解決では唯一の真相へ向かうための道具として推理があるのではなく、各々の推理の展開そのものが目的化されている。それは、真相を巡って、多数の探偵(読者の分身)達が自分達の推理(読解)を語り合う劇場の構築でもあるのである。そこでは唯一の推理(唯一の読解)が決定されず、一つの事件(物語)に対する複数の推理(読解)が展開されることになるのである。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>のクライマックスというと、探偵が事件の謎を解き、真相が明らかになる瞬間だが、多重解決ミステリでは事件の全貌が、推理によって変幻自在に姿を変えていく点に面白さが用意されている。客観的な真相に価値があるのではなく、推理による真相の創作とその語られ方にこそ魅力が存在するという点では、再読に耐えうるミステリ、一度読んでも読み直すことができるミステリとも言えるかもしれない。</p> <p>ポストミステリ的な多重解決においては、それが真実(=唯一絶対の読解)であるかということよりも、そのロジックがある種の審美性を持っていること(=面白い読解)であることが重要になってくる。つまり、限られた情報(テクスト)から推理を組み立てること自体の快楽にその重きが置かれているのである。多重解決における推理というものは、真相にたどり着くための道具としてのみ価値があるものなのではなく、行為の過程そのものにも価値を見出せるものなのである。</p> <p>絶対の欠点であった真実への到達不可能性は、乗り越えるべき不可能性ではなく、それ自体を新たな前提としたミステリへの可能性を開いているのである。</p> <h4 id="3ポスト本格ミステリとしての虚構推理">3.ポスト<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%B3%CA%A5%DF%A5%B9%A5%C6%A5%EA">本格ミステリ</a>としての『虚構推理』</h4> <p>多重解決においては、与えられた情報を元に作られた正しい推理が正しい真相にたどり着くというテーゼが否定される。それと同時に、多重解決においては、作品に散りばめられた手掛かりをどう読むのかによっていくつもの推理が導かれ並列に扱われる。</p> <p>多重解決では、必然的に真相そのものよりも、その真相を求めて展開される様々な推理(読解)に多くのページが割かれ、スポットが当てられることになる。だからポストミステリ的な多重解決もので重要になるのは、真相の解明ではなく、様々な推理そのものに役割を与え物語上の見せ場を作ることである。</p> <p>そしてその成功例として『虚構推理』を挙げることができるだろう。『虚構推理』においては、真相の解明を目的として推理が展開されるのではなく、偽の真相を真相だと思い込ませるために推理が展開されるのである。『虚構推理』においては、真相の解明は事件解決に対しては逆効果であり、偽の真相の創造=虚構推理が事件を解決する有効な手段となっている。</p> <p>『虚構推理』の鋼人七瀬編では、物語序盤の時点で真相が明かされるのであるが、それは鋼人七瀬という亡霊が真犯人であるというものだ。しかし、この亡霊は人々が噂をすればするほど、つまりその存在を信じる人間が増えるほどにその力を増すという厄介な性質を持っていた。真相を明かすことがそのまま解決につながるわけではなかったために、主人公たちは、人々に偽の推理を披露しそれを信じ込ませるという方法を取るというのがこの鋼人七瀬編である。</p> <p>このように『虚構推理』では、各物語ごとにそれぞれの理由で真相とは違う偽の推理を展開しそれで人を説得するという展開になるのである。『虚構推理』において推理は、真相にたどり着くことが出来るから意味を持つのではない。</p> <p><a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B017GUUV0U/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B017GUUV0U&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=0eeba0f462a3ae27e4e04bd66fffbc54" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=B017GUUV0U&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=B017GUUV0U" alt="" width="1" height="1" border="0" /> <a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B0188LNNM4/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B0188LNNM4&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=e84a01a78a2ef24779cd6654bfdfbc77" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=B0188LNNM4&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=B0188LNNM4" alt="" width="1" height="1" border="0" /> <a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B01DVPBWAC/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B01DVPBWAC&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=fd43f9809204daf01ea8ce8c550b3cf8" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=B01DVPBWAC&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=B01DVPBWAC" alt="" width="1" height="1" border="0" /> <a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B01JRLROX8/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B01JRLROX8&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=6f55958a1d1d82c8e2763d2ca2f27448" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=B01JRLROX8&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=B01JRLROX8" alt="" width="1" height="1" border="0" /> <a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B01MQSYTG3/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B01MQSYTG3&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=929f2d33e69f565d42221a5062c79c13" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=B01MQSYTG3&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=B01MQSYTG3" alt="" width="1" height="1" border="0" /> <a href="https://www.amazon.co.jp/gp/product/B07213TZB3/ref=as_li_tl?ie=UTF8&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=B07213TZB3&amp;linkCode=as2&amp;tag=kyotaro442304-22&amp;linkId=df5aebca4a7086ee207e38857cbed5e3" target="_blank" rel="noopener"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;MarketPlace=JP&amp;ASIN=B07213TZB3&amp;ServiceVersion=20070822&amp;ID=AsinImage&amp;WS=1&amp;Format=_SL160_&amp;tag=kyotaro442304-22" border="0" /></a><img style="border: none !important; margin: 0px !important;" src="//ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=kyotaro442304-22&amp;l=am2&amp;o=9&amp;a=B07213TZB3" alt="" width="1" height="1" border="0" /></p> <p> </p> <p>『虚構推理』において推理は真相そのものと直接につながるのではなく、あくまで登場人物たちに「解」を与えられるものとして機能するのである。こうした「解」の創作という側面から『虚構推理』は文系ミステリと言えるかもしれない。</p> <p>『虚構推理』に限らずポストミステリ的な多重解決は、真相の解明ではなく、探偵の語り、ロジックの展開を一つの頂点として物語が構成されている。</p> <p>そして、多重解決は読解行為のアナロ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>としてのミステリという側面がより強く維持される。テクスト読解において様々な解釈とそれに伴う読みが存在するように、多重解決では、真相(唯一正解の読解)は否定され、複数の推理(それぞれの解釈)が並列に存在する。</p> <p>真相にたどり着く唯一の推理(唯一正解の読解)が存在しないという点で、多重解決はテクスト論的な読解のメタファー(比喩)あるいはアナロ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>なのである。</p> <p>テクスト論において「作者の死」が宣言されるように、『虚構推理』では真相が死ぬのだ。</p> <p>勿論、(よく誤解されているが)テクスト論が読者による好き勝手な解釈を良しとするわけではないのと同様に、多重解決の構造はそのまま全ての推理が皆同じ価値を持つということを意味しない。</p> <p>多重解決が、推理という行為そのものの創作性を示すミステリなのであるなら、それらの推理はやはり唯一の真相の存在を前提としているのであるし、それぞれの推理が互いに比較され検討され議論されうるものでなければ、読解のアナロ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>として読んだところで面白くないだろう。</p> <p>推理そのものが物語の中心を占めるというのであれば、その推理自体が物語の頂点を占めるに足るエンターテインメント性を備えている必要がある。</p> <p>すなわち、多数の推理が語られる場を前面に押し出す多重解決のあり方は、必然的に「面白い推理とは何か」「美しいロジックとは何か」というミステリにおいて最も古くからある根本的な問いへ我々を立ち返らせてくれるのである。</p> <p>ここで、読者を魅了する推理シーンが含まれる作品の例としてハリィ・ケメルマン『九マイルは遠すぎる』や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C1%A5%A7%A5%B9%A5%BF%A5%C8%A5%F3">チェスタトン</a>の『ブラウン神父』シリーズ、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%C9%A5%AC%A1%BC%A1%A6%A5%A2%A5%E9%A5%F3%A1%A6%A5%DD%A1%BC">エドガー・アラン・ポー</a>の『盗まれた手紙』を挙げることもやぶさかではないが、そんなことをやりだせばキリがないのでこの記事ではやめておこう。</p> <p>【参考図書一覧&虚構推理】</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4488123058/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="毒入りチョコレート事件【新版】 (創元推理文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/612BqqbAweL._SL160_.jpg" alt="毒入りチョコレート事件【新版】 (創元推理文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4488123058/kyotaro442304-22/">毒入りチョコレート事件【新版】 (創元推理文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%F3%A5%C8%A5%CB%A5%A4%A1%A6%A5%D0%A1%BC%A5%AF%A5%EA%A1%BC">アントニイ・バークリー</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%EC%B5%FE%C1%CF%B8%B5%BC%D2">東京創元社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2009/11/10</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/415071102X/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41NPQ80YYTL._SL160_.jpg" alt="九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/415071102X/kyotaro442304-22/">九マイルは遠すぎる (ハヤカワ・ミステリ文庫 19-2)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CF%A5%EA%A5%A4%A1%A6%A5%B1%A5%E1%A5%EB%A5%DE%A5%F3">ハリイ・ケメルマン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%E1%C0%EE%BD%F1%CB%BC">早川書房</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 1976/07/01</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B009AZFLK0/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="盗まれた手紙" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/5156instJIL._SL160_.jpg" alt="盗まれた手紙" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B009AZFLK0/kyotaro442304-22/">盗まれた手紙</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A8%A5%C9%A5%AC%A1%BC%A1%A6%A5%A2%A5%E9%A5%F3%20%A5%DD%A1%BC">エドガー・アラン ポー</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2012/09/13</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01MU4NO7A/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/516jPF3KkwL._SL160_.jpg" alt="ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01MU4NO7A/kyotaro442304-22/">ブラウン神父の童心 (創元推理文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A3%C7%A1%A6%A3%CB%A1%A6%A5%C1%A5%A7%A5%B9%A5%BF%A5%C8%A5%F3">G・K・チェスタトン</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%EC%B5%FE%C1%CF%B8%B5%BC%D2">東京創元社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2017/01/12</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062751763/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="探偵宣言―森江春策の事件簿 (講談社文庫)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/519V102YGEL._SL160_.jpg" alt="探偵宣言―森江春策の事件簿 (講談社文庫)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062751763/kyotaro442304-22/">探偵宣言―森江春策の事件簿 (講談社文庫)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%B2%CA%D5%20%C2%F3">芦辺 拓</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2005/09</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 文庫</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> (今回の記事ではいいことしか書かなかった虚構推理ですが、基本的に推理以外の日常パートは作者の癖強く出ていて評価しづらいですね。肝心の鋼人七瀬編開始が3巻、終了が6巻となっており、鋼人七瀬編に入るまでのグダグダ感はどうにかならなかったのかと思ってしまう。アニメでは鋼人七瀬編までやるのでしょうが)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B017GUUV0U/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="虚構推理(1) (月刊少年マガジンコミックス)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51SNwvOrepL._SL160_.jpg" alt="虚構推理(1) (月刊少年マガジンコミックス)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B017GUUV0U/kyotaro442304-22/">虚構推理(1) (月刊少年マガジンコミックス)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%EB%CA%BF%B5%FE">城平京</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%D2%C0%A5%C3%E3%BC%C6">片瀬茶柴</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2015/11/17</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0188LNNM4/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="虚構推理(2) (月刊少年マガジンコミックス)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51XVFf1fM-L._SL160_.jpg" alt="虚構推理(2) (月刊少年マガジンコミックス)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0188LNNM4/kyotaro442304-22/">虚構推理(2) (月刊少年マガジンコミックス)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%EB%CA%BF%B5%FE">城平京</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%D2%C0%A5%C3%E3%BC%C6">片瀬茶柴</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2015/12/17</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01DVPBWAC/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="虚構推理(3) (月刊少年マガジンコミックス)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51x1BXvjnIL._SL160_.jpg" alt="虚構推理(3) (月刊少年マガジンコミックス)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01DVPBWAC/kyotaro442304-22/">虚構推理(3) (月刊少年マガジンコミックス)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%EB%CA%BF%B5%FE">城平京</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%D2%C0%A5%C3%E3%BC%C6">片瀬茶柴</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2016/04/15</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01JRLROX8/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="虚構推理(4) (月刊少年マガジンコミックス)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/616AiRGcO4L._SL160_.jpg" alt="虚構推理(4) (月刊少年マガジンコミックス)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01JRLROX8/kyotaro442304-22/">虚構推理(4) (月刊少年マガジンコミックス)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%EB%CA%BF%B5%FE">城平京</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%D2%C0%A5%C3%E3%BC%C6">片瀬茶柴</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2016/08/17</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01MQSYTG3/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="虚構推理(5) (月刊少年マガジンコミックス)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51ubsZfsRmL._SL160_.jpg" alt="虚構推理(5) (月刊少年マガジンコミックス)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B01MQSYTG3/kyotaro442304-22/">虚構推理(5) (月刊少年マガジンコミックス)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%EB%CA%BF%B5%FE">城平京</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%D2%C0%A5%C3%E3%BC%C6">片瀬茶柴</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2016/12/16</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07213TZB3/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="虚構推理(6) (月刊少年マガジンコミックス)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51s8y-ya-YL._SL160_.jpg" alt="虚構推理(6) (月刊少年マガジンコミックス)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B07213TZB3/kyotaro442304-22/">虚構推理(6) (月刊少年マガジンコミックス)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%EB%CA%BF%B5%FE">城平京</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%D2%C0%A5%C3%E3%BC%C6">片瀬茶柴</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%D6%C3%CC%BC%D2">講談社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2017/06/16</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/Kindle">Kindle</a>版</li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> </p> <p> </p> <p> </p> tatsumi_kyotaro 公共空間の消失とアイデンティティの時代を生きる hatenablog://entry/26006613467405043 2019-11-24T09:40:43+09:00 2022-04-13T15:19:35+09:00 0.なぜいま公共について考えるのか なぜ今公共概念を問う必要があるのかと言えば、公共という概念が消失しているということを通して「左翼と右翼の対立」を問い直す必要があるからだ。 私がこれから言及するリベラリズムという概念は一般に膾炙している「リベラリズム」とは少しずれた意味で使われているということである。というのも、一般的にリベラルという言葉は、かなり曖昧に、時に左翼という概念と混同されて語られているのである。政治学的な意味でのリベラリズムは、そうした一般的によく使われる「リベラリズム」とは少し違うのであるが、「左翼と右翼の対立」という図式が「リベラリズム」を左翼の類似物として同じ枠組みに入れて… <h4>0.なぜいま公共について考えるのか</h4> <p>なぜ今公共概念を問う必要があるのかと言えば、公共という概念が消失しているということを通して「左翼と右翼の対立」を問い直す必要があるからだ。</p> <p>私がこれから言及する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>という概念は一般に膾炙している「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>」とは少しずれた意味で使われているということである。というのも、一般的にリベラルという言葉は、かなり曖昧に、時に左翼という概念と混同されて語られているのである。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%AF%BC%A3%B3%D8">政治学</a>的な意味での<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>は、そうした一般的によく使われる「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>」とは少し違うのであるが、「左翼と右翼の対立」という図式が「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>」を左翼の類似物として同じ枠組みに入れてしまうのである。</p> <p>よって、私がこれから一見してリベラルに対して批判的な見解を展開したとしてもそれはインターネットにいる知識人もどきの「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%B9%A5%C8">リベラリスト</a>批判」にそのまま接続するわけではないというわけではないし、むしろ、私はそうした「アンチ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%B9%A5%C8">リベラリスト</a>」を自称する者たちに通底している<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>こそ批判している。さらに言えば、今「リベラル」を自称する人の中には厳密な意味でリベラルではない人が多く含まれているとも思っているのである。</p> <p>ところでこのような左翼=「リベラル」というような<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DE%A5%EB%A5%AF%A5%B9">マルクス</a>にとっても<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%ED%A1%BC%A5%EB%A5%BA">ロールズ</a>にとっても驚きしかないであろう図式は、そもそもとして社会におけるあらゆる対立が右派と左派の対立として読み込まれているから起こるものであり、実際に社会における対立は民衆を二極化させ、社会に大きな溝を生み出していると解釈される。</p> <p>しかしこれは誤解であり、現状を捉える上ではあまりに表層的過ぎる陳腐な解釈ではないかと思える。</p> <p>なぜなら、複層的な利害関係と同時併発的な社会病理を有する現代政治を捉えるにはいささか単純すぎるように思えるようなこの二項対立よりも、現実の事態の方がはるかに深刻かつシンプルだからだ。勿論、シンプルだからこそ解決が難しいのであるが。</p> <p> </p> <h4>1.現代における「公共」</h4> <p>現代は、左右の政治思想の対立というよりも承認欲求と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の時代である。</p> <p><strong>社会、もとい公共空間は消滅しかけており、その証拠として我々はもはや単純な個人の集合ではない公共空間を懐古趣味の一環としてしか思い出せないでいる。</strong></p> <p>もはや社会は個人の集合とイコールであり、「公共空間」はただ不特定の個人が集う場所という意味しかない。個人はどれだけ集まろうが個人の集まりでしかないのであるが、そうした私的なものの集まり、私的空間や個人の空間の集合が「社会」や「公共」なのである。</p> <p>もはや単純な個人の集合ではない社会について誰も語ることはできないし、「社会」や「公共」という語は個人間のパワーバランスが生み出す関係性の網、つまり<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B2%A1%BC%A5%E0%CD%FD%CF%C0">ゲーム理論</a>が示すところの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%FC%BF%CD%A4%CE%A5%B8%A5%EC%A5%F3%A5%DE">囚人のジレンマ</a>に支配された空間と同義なのである。</p> <p>ここにかつての公共性は存在しない。</p> <p>「公共スペース」的な共有空間は、レンタルしなければ、すなわちその都度便宜的にでも所有者を定めなければ運営することさえ出来ないでいるのだ。公園や駅の排除アートの数々を見てみるがいい。あのアートは「ここはお前の所有物じゃない」という表明であると同時に、「公共スペース」がデザイン可能な物質かつ、所有可能なものであるというような前提の事後承諾的産物ではないか。</p> <p>「公共スペース」は公共空間というよりは、その都度占有者が変わるレンタルスペース的なもの、つまり誰からか許諾を取り使わせてもらうような、誰でも所有者になれるといった性質のものでしかない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">誰のものでもないのと同時にみんなのものであるような公共空間、つまり国家のものですらなく、みんなのものにしかなれない公共空間はここにはない。</span></p> <p>所有者という概念を必要としなかった公共空間は、所有されるものとして実体化したその時から公共性を失い、所有者がいなければ成り立たない「公共スペース」へすり替えられてしまった。そして公共が「公共」になり、レンタルされる存在となった今、当然のこととしてその貸出を行う主体としての国の存在が前提となるのである。その意味で、排除アートや公共空間のデザインなどといったものは、それが如何に私的な欲望と要望を取り入れようが、所詮は国家による「公共」の独占を意味する。</p> <p>もはや、国家という貸し出し主の許諾なしに誰も「公共スペース」に留まることさえできないでいる(例えばデモなども事前の許可が必要だというのは言うまでもない)。</p> <p>その意味で「公共スペース」は既に、国家の提供するレンタル品であり、そのレンタル品の一時的所有権とデザイン権利をめぐって、つまり、(全く馬鹿馬鹿しいことに)その空間が「誰の為の空間か」ということについて人々は日夜議論するのである。</p> <p>また、現代とは全てが民営化される時代であり、かつて公共を担った場所に私的空間が埋め込まれその穴埋めを行うことも多々ある。かつて公共が存在した空間は私的空間の未開拓地として競売に掛けられた挙句、それを所有した企業によって民営化され公共的機能を失った疑似的公共空間を提供するのである。</p> <p>誰もが利用し、誰もがそこを通るという空間、人々の生活圏の重なる場所にありながら、私人によって運営されている空間(駅やコンビニ、屋外ビジョン広告のサイネージ)が群雄割拠しているのが現代である(街にあふれる様々な広告とそれに対する批判の数々を思い浮かべてほしい。なぜ彼らが批判するのかと言えば、それが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BE%A1%BC%A5%CB%A5%F3%A5%B0">ゾーニング</a>されていないから=そこが完全な個人的空間ではないと認識されているからである)。</p> <p>そのような私的に所有されながらも、全ての人の生活圏にかかわる空間=疑似的な公共性を持った空間は無限に分割された私的空間の集合として存在しているため、そのデザインを巡って、何が自分達にとって「快適」かが常に議論されることになるのである。自分達も使うのだから自分たちの心地よさを優先したいと思うのは当たり前だし、自分たちが排除されるような空間になってほしくないというのも至極当然な考えである。</p> <p>公共空間を一部の利用者によって好きにデザインされないようにするためには、人々は自分たちが消費者であることを盾にしながら「クレーム」を出し続けるしかなくなる。<span style="color: #1464b3;">言うまでもないことであるが、ここでは「クレーマー」だけではなく、「クレーマーに対する批判」すら「クレーム」なのである(「クレーマー」批判をしたがる馬鹿はこれが分からないようだが)。</span></p> <p>こうして無限に「クレーム」を出し続けることが、疑似的な「公共空間」を誰もが使用し、通ることのできる空間として維持する合理的な手段になる。「クレーマー」を冷笑する人々は、「クレーム」という行為を「クレーマー」の人間的特性の問題に帰着させがちであるが、私はそうは思わない。</p> <p>私的空間の重なる場所、私的思惑の群雄割拠状態の疑似的公共空間は、もはや私的空間同士を繋ぐ連絡通路としてのみ重要視され議論されるのであって、公共空間としての機能を期待されているわけではない。それらは公共としての機能を完全に停止したまま私的な領域の延長として分割統治されている。</p> <p>公共は消滅し、あるのは国家が提供する「公共スペース」か、私的空間の提供する疑似的公共空間だけである。すなわち、国家と個人的空間の間に無限に広がっていたはずの公共空間は、ことごとく引き裂かれ国家の管理物となるか、私的所有物になるかそのどちらかの運命を辿ることになったのである。</p> <p>そうして残った国家と私的空間は、その空間同士の緩衝材であった公共の空間を失い、せめぎ合うように領土争いを続けている。かつて社会的空間ないし、公共空間が広がっていた場所には、いまや私的な空間(と企業によるサービス)と国家の提供するレンタルスペースとがひしめき合っている。国家の空間支配に対する個人の反抗、個人と個人の対立、それらはもはや公共空間を中立地帯化することはできず、むき出しのまま直接ぶつからざるを得ない。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>を徹底することは個人以外の全てを無意味にする。公共性は個人の意思の集合へ、個々人の活動は交通へと還元されるのである。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>における理想はすぐそこまで迫ってきている。</p> <p>”全ては個人の生活の為である。個人はその私的領域において自由であり、また、個人的な領域、私的な領域を充実させるためにのみ公的な空間が存在する。全ては個人の生活の充足のために存在しているのであり、公共や社会は個人の私的空間に奉仕しなければ意味がない。公的空間や社会は、それ自体に意味などないため、常に個人の私的な空間にとっていかに有益かという点に根拠が存在する。公共は、個人の要望を元に作られなければならない。”</p> <p>これこそが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>に通底する考えであり、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%F1%B2%C8%BC%E7%B5%C1">国家主義</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%B4%C2%CE%BC%E7%B5%C1">全体主義</a>に反発する際の強力な根拠となる。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>の理想とは、たとえ個人がどのような自由な生活を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%EB%F0%B2%CE">謳歌</a>しようとも、どのような欲望を持とうとも、それが他者の自由を奪わない限りにおいて何も問題が起こらないような自動化した社会であり、言ってしまえば個々人が社会や政治に無関心でも問題なく自由に生きられる社会なのである。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%D2%B2%F1%CA%A1%BB%E3">社会福祉</a>の発達(ここでは国家によるものか市場が提供するものは問題ではない)がリベラルが掲げる政策において重要なのは、あくまでそれが個人の欲望や個人の生活の自由の保障にとって重要なものだからだ。福祉は国家や市場が提供するサービスのようなものでしかない。</p> <p>ここに公共という概念は存在しない。</p> <p>むしろ、そうした公共への意識や政治意識が必要にならなくなるほどに社会システムが安定し、充実していくこと。公共や社会的で政治的なものに無関心でいられるような社会を<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>に憑依した欲望は目指した。</p> <p>公共空間が個人への信念に関心を向けることもなく、また個人も公共空間の美徳に目を向けることがない<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%FC%C7%A4%BC%E7%B5%C1">放任主義</a>の完成系こそが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>の意味する自由だ。それが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%A1%BB%E3%B9%F1%B2%C8">福祉国家</a>によってなされるのか、市場原理によってなされるのかは、些末な差でしかないし、何を問題視するのか、何を自由と見做すのかについての議論も所詮は本質的対立にはなりえない。</p> <p>公共の自律性を埋葬し、公共空間に対する私的空間の優越、公共が私的空間への奉仕すること、個人の私的な生活の充実のみが公共の目的であるというのが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>の根本史観なのである。</p> <p>だが、こうした個人の公共への無関心、公共の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%FC%C7%A4%BC%E7%B5%C1">放任主義</a>は、結局全てを私的領域へと開拓していく現代において公共空間の空洞化を招いた。公共空間が私的空間の充実のためにのみ存在するということは、同時に、私的空間の機能が拡張すればするほどに公共空間の存在意義が奪われてしまうということでもある。一体どれだけの公共サービスが民営化され、企業による素晴らしいサービスの数々が我々の私的な領域、生活、個人の時間を満たしてくれていることか。もはや、企業による数々のサービスの提供が、あの民営化信仰を、公共の不要説を生み出し、いまや<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%D2%B2%F1%CA%A1%BB%E3">社会福祉</a>すら民営化の兆しがあるというのに。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>はこの点において、悲惨なまでに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B3%DA%C5%B7">楽天</a>的であり、どんなに私的な空間が充足しようともその私的空間同士の対立、つまり個人の自由と個人の自由の対立の調停としての熟議という最後の役割を担う限りにおいては公共空間の意義は消失しないというような展望を持っている。</p> <p>しかし、それがどれだけ根拠薄弱な展望であったかは、現状を見るにあきらかだろう(現代において公共空間への配慮という概念が一体どれだけの説得力を持ち、私的な対立を調停するべく熟議が行われてきたというのだろうか? あのクレームの数々、クレームへの冷笑の数々はもはや熟議などと呼べる代物ではないし、公共空間などという言葉は既に体制側=権力者の言い分だという反復されすぎた言説がどれだけ支配的かなど考えずとも分かる話だ)</p> <p> こうした公共空間の消滅によって、かつて公共空間が提供し、保持していたものも同時に失われることになったのである。公共空間によって成立していた数々の美徳や信念という概念は消滅ないし、その意義の変更を余儀なくされてしまうわけである。</p> <p>信念と美徳の世界は合理主義的かつ資本主義的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>によって、私的公共性ないし疑似的公共性を持つ空間からは排除され、オカルティズムとラディカリズムの彼方へと追いやられてしまうわけである。ここにきて<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%AB%A5%A4%B7%CF">セカイ系</a>的な想像力もまた、オカルティズムやラディカリズムをその遠近法の最奥に位置するものとして設定するのであるから、それらはやがて接近するもののロマンティシズムとして、カッコつきの「信念」や「美徳」として延命させられるとともに、そこから永遠に取り出されなくなってしまったのである。</p> <p>人間の美徳や道徳は、美的な価値以外の全てを捨象され、我々の生活から最も無縁なものとして、それこそ教科書に載ってる出来事や心温まる美談(ファンタ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>)としてしか理解されない。現代の人々は、目の前の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%BA%A4%A4">尊い</a>行いに対して、確かにそれは美徳だがと前置きした上でそんな美徳に一体何の意味があると内心では思っているのだ。</p> <p>行き場のなくなった信念や美徳は神秘化することでしか形を残すことができないため、リアリティを感じられないのは当然と言えば当然なのであるが、ともあれ、そうした信念や美徳の置き場に困るような時代では、社会なるものの維持にはミメーシスではなく、ロジックに頼らざるを得ないのだ。現代においては自身の信念において正義を語り、公共精神や美徳を信じて行動することなど合理的とは見なされない(そもそも「信じること」もある種の無根拠さが必要なのであるから非合理の産物である。本当に合理的な人間は、計算はしても信じたりはしない)。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A5%C8%A5%A5%A5%EB%A1%BC%A5%B9">ポストトゥルース</a>の時代において、いまここにある<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の傷こそが、何よりも確かに確信することのできるトゥルース(合理)なのだろう。無論それも、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A5%C8%A5%A5%A5%EB%A1%BC%A5%B9">ポストトゥルース</a>と名付けるよりは自己愛のモダンへの先祖返りと見た方が正しいのかもしれないが。ともあれ、誰も彼も、「あえて」と言わなければ正義を信念として語ることさえ難しいと感じているような状況では、個人的な体験や個人の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の傷から社会の在り方について議論するという、あの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>が蔓延するしかないのである。</p> <p>無論、これは「お気持ち」などと言っている者たちにおいても共通の心象であり、彼らは結局のところ「お気持ち」によって社会の動きが決定されることに対する自分の「お気持ち」の疎外感をそれらしく語っているだけであり、事実上この<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>のマウンティング合戦(承認のまなざしの争奪戦)は誰も調停者がいないのである。</p> <p>ひたすらに信念や美徳は陳腐化し、戯画的な神秘として観念的セカイに放逐され、ただこの心の傷こそが、その語りに対する人々の同情的視線こそが、その主張の正当性を担保する。そこでは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>や個人の心の傷が公共空間における信念に代わり、正義を主張する最も強い原動力になるのである。</p> <p>美徳や信念といったものは狂信的合理主義者たちの手によってオカルティズムやもろもろの俗世間の宗教的迷信と一緒くたにされ一掃されてしまったのであって、僅かな例外を除いて、誰も信念や美徳というものを本気で信じてはいないだろう。むしろ人間としての美徳や信念に基づいて政治など語ろうものなら、人の価値観の多様性を認めない、偏狭な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%B5%BE%F2%BC%E7%B5%C1">教条主義</a>者というレッテルを貼られてしまうのが今の時代ではないか。</p> <p>「信念」という語は、単に自分のやりたいことを周りの反対を押し切って行うというような、私的な空間のみで成立する概念となってしまったし、「美徳」などは額縁に入れて壁に飾っておくような美術的価値しか持たされていない。そんな箪笥に生えたカビのような概念は、所詮は右翼の持ち出す<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%AC%C8%CF%B0%D5%BC%B1">規範意識</a>と変わりはしないのだという嘲笑の方がよほど一般的である。</p> <p>全てが価格へ、お金に換算されてしまう資本主義の社会において、値段を付けるまでもないもの(worthless)と値段が付けられないもの(priceless)ははっきりと区別されて境界が設けられてしまった。その二つの区別をはっきりと付けることのないような空間にのみ存在していた信念や美徳はもはや存在できない。</p> <p>美徳は値段を付けるまでもないもの(worthless)であってはならないが、値段が付けられないもの(priceless)となってしまえば、それは規範やルールとして明文化され定義された「美徳」でしかない。</p> <p>美徳とは、誰に命令されるでもなく、損得勘定でもなく、自分で考え行動した結果として善行を為すことであるが、もし自身の行いを美徳だと周りから認知されることが分かっていてそれをなすのであれば、そこには計算が入る余地があるし、純粋な美徳とは言い難い。</p> <p>美徳は、それが誰からも見向きもされず語られもしないものであれば美徳として価値を持つことできないが、それが美徳として語られ明確に形を持った瞬間に純粋な美徳としては成立しなくなってしまうという<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%DD%A5%EA%A5%A2">アポリア</a>的な存在である。つまり、美徳は誰も見向きもしない無意味なものでもなければルールやマナーのように明確に意味付けもされていない、どっちつかずな空間を揺れながら生きながらえることしかできない。美徳は「無意味な尊さ」(worthlessなpriceless)、あるいは「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%BA%A4%A4">尊い</a>無意味」(pricelessなworthless)なのである。</p> <p>まさにそうしたどちらでもない曖昧さを保つことのできる空間こそが公共空間であったはずだ。公共空間は、私的な行為や善行を注目に値するものとして可視化する場であったと同時に、その視線を固定化せず物質化もしない。</p> <p>だが、資本主義的合理主義はその<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%DD%A5%EA%A5%A2">アポリア</a>を許さないのである。</p> <p>こうして美徳や道徳といったものは、規範やルールというような有意義で共有可能なものと、共有もされなければ規範としてすら参照されない個人的な趣味趣向に完全に分離してしまった。</p> <p>ルールやマナーという形を持った「道徳」はルールを守ることこそ大切だというようないかにも保守的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%AC%C8%CF%B0%D5%BC%B1">規範意識</a>と同義になってしまった(ルールを守っているのだから私は悪くないという言い訳が多用されているのはその裏返しである)。仮に美徳の価値を評価しようものなら、すぐさま<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%A2%B0%D2%BC%E7%B5%C1">権威主義</a>者というレッテルが貼られてしまうのである(無論保守的な観念であることに変わりはないが)。</p> <p>公共空間は、保守的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%AC%C8%CF%B0%D5%BC%B1">規範意識</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C7%C4%EA%B4%D1%C7%B0">固定観念</a>、伝統的な迷信の数々が延命する場所であるとともに、美徳や道徳という観念が生き延びる場所でもあった。しかし、悪しき風習、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C7%C4%EA%B4%D1%C7%B0">固定観念</a>を破棄する際に、美徳や道徳というものも同時に葬り去られてしまったのだ。</p> <p>リベラル<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A7%A5%DF%A5%CB%A5%BA%A5%E0">フェミニズム</a>の文脈において「女性らしさ」「男性らしさ」という<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A5%A7%A5%F3%A5%C0%A1%BC">ジェンダー</a><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%C6%A5%EC%A5%AA%A5%BF%A5%A4%A5%D7">ステレオタイプ</a>を捨て去ろうとする運動が活発化したように、この時代の人々はあらゆる「らしさ」を自由な生き方を奪う枷であるとして捨て去ろうと努力してきた。それはなによりも「自分らしく」生きるため、「自分らしさ」を縛り付けて押さえつける別の「らしさ」への反抗でもあった。誰もがみな「自分らしく」生きるために、「男性らしく生きろ」「女性らしくしろ」と言われないために、「らしさ」の押し付け合いをやめる為に。</p> <p>このあらゆる「らしさ」からの脱却=解放を図っていたまさにその時期に、美徳や信念が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B5%AC%C8%CF%B0%D5%BC%B1">規範意識</a>としての「美徳」や「信念」として解釈され、「人間らしさ」という捨て去るべき<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C7%C4%EA%B4%D1%C7%B0">固定観念</a>だと解釈され破棄されてしまうのは必然だった(AIの時代の到来が叫ばれるようになると、今度はその「人間らしさ」について多くの人間が慌てたように議論し始めているわけであるが)。</p> <p>もはや美徳や信念により政治を語ることは許されていない。</p> <p>過剰なまでの社会秩序への執着こそが多くの虐殺を生み出し、秩序への保守的な態度が多くの人を抑圧してきたのではなかったのか、と合理主義者達はいささか大げさに疑問を呈してみせるわけであるが、これこそまさにリベラルな政治観が推し進められた結果なのであろう。美徳や正義によって政治を語ることは、軒並み「偽善者による価値観の押し付け」と見なされるようになり、「暴走する正義」などという決まり文句が出てくる始末だ。なるほど、たしかに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%B9%A5%C8%A5%E2%A5%C0%A5%F3">ポストモダン</a>を通過した我々にとって、もはや絶対的な善の存在や正義の構想について何ら疑いを持つことなくそれを聞き受けるというのは土台無理な話だろう。中世の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%E2%BD%F7%BC%ED%A4%EA">魔女狩り</a>から十字軍、第二次大戦の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A1%A5%B7%A5%BA%A5%E0">ファシズム</a>に冷戦時代の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%A6%BB%BA%BC%E7%B5%C1%B9%F1">共産主義国</a>家に至るまで、そのどれもが自分たちの「信念」や「正義」を疑わず盲目に狂信する者たちによって引き起こされたではないかと多くの者たちは口にすることだろう。人々が言うところによれば、真に恐ろしいのは悪ではなく、悪を裁こうとする人の心だというわけである。</p> <p>さて、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AA%A5%D4%A5%CB%A5%AA%A5%F3%A5%EA%A1%BC%A5%C0%A1%BC">オピニオンリーダー</a>のような者たちの間でも共有されているこの風潮は、必然的に左翼の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B6%B5%BE%F2%BC%E7%B5%C1">教条主義</a>を批判する副作用として、「正義の反対は悪ではなく、別の正義」というあの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AF%A5%EA%A5%B7%A5%A7">クリシェ</a>とともに、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C1%EA%C2%D0%BC%E7%B5%C1">相対主義</a>的な諦観漂う世界観を生み出してしまったのである。もはや正義を語ることに意味はなく、美徳や信念は、個人的な趣味の範疇でのみ語られることを許されるか、あるいは、過剰に神秘化され、幻想としてしか理解されえないような「美徳」や「信念」として、ロマンティシズムとともに存在するしかできないのである。信念や美徳は、それらを口にする者が誰しも冷笑的な視線を浴びざるをえないような、「信念」や「美徳」として大切に飾られているのである。</p> <p>こうした世界観の登場は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%E7%A4%AD%A4%CA%CA%AA%B8%EC">大きな物語</a>の終焉の後に訪れることで、穴が空虚として残った、いわゆる社会空間の喪失と同時に起こるわけであるが、そうした社会的空虚さを埋め合わせるようにして、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%BC%BE%E5%BD%D5%BC%F9">村上春樹</a>作品や、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%AB%A5%A4%B7%CF">セカイ系</a>」などといういささか定義曖昧な表現によって語られようとしていた作品群の数々が一定の層に受容されてくるのはある種当然とも言えるわけである。失われた<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C2%E7%A4%AD%A4%CA%CA%AA%B8%EC">大きな物語</a>と、美徳や信念といった世界は、我々の生きる支えを作るような公共空間の根底にあるような、それはちょうど文化と文明の間、橋を架ける位置にあるものだった。そこが抜けた今、我々は今無限の不安の中に投げ出されているのである。</p> <p>もはやただ人であることに誰も意義を見出せていない。いまや「自分らしく」「私らしく生きる」という脱規範のテーゼこそが規範化している。「私は本当に私らしく生きているのだろうか」というあの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の不安が、人々の承認欲求を沸き立たせていく。当然、そうした「個性的であること」への欲求は、自分が持ちうる<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>が肯定されることを望むのである。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>とは、私は一体何者であるのかという問いに対する人が漠然と持つ回答であり、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の確立のためには、自分と他者との差が肯定的に受け入れられることなしには始まらない。これがいわゆる自分の個性の発見であり、その個性の承認なのであるが、もう一つ重要なのは一体誰によってその個性は承認されるのかということである。社会における成功や社会的な地位を持つ人間へ羨望のまなざしが集中していた時代、「社会に認められる」ことが重要視されていた時代であれば、社会という大きな他者がそれを担っていたのであろうが、今やそんな大きな他者としての社会などどこにも想定することができないため承認を得るためには身近な他者、あるいは不特定多数の匿名的な他者集団に頼らざるを得ない(例えばかつての若者の反抗文化、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%A6%A5%F3%A5%BF%A1%BC%A5%AB%A5%EB%A5%C1%A5%E3%A1%BC">カウンターカルチャー</a>の意識も社会という大きな他者に自分達の存在を「認めさせる」という側面があったのではないだろうかと思うが、今の若者はもはやその反抗の対象として社会を想定できないのではないか)。一時期流行した「自分探し」というキーワードは正確には、自分の個性が承認されて肯定されるような「居場所探し」のことであり、そうした「居場所」の発見がそのまま自己の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の確立につながっているのである。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の確立は、自分とそれ以外の他者との差が肯定的に承認されることと尊重されることを通して行われるが、それは一人で完結できる行為ではなく、承認してくれる他者のまなざしが必要になる。人間は、他者からどう扱われるかによって自分が何者かを学びどうすればいいのかを決定する社会的動物であり、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の確立のためには、自分が思うような自分として扱ってくれる他者が必要になる。その意味で<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%AB%B8%CA%BC%C2%B8%BD">自己実現</a>はなによりロールプレイ的であり、そうしたロールプレイが可能な場所こそが「居場所」として認識されることになる。</p> <p>当然のことながら、社会という漠然と大きな他者から得られていた承認よりも、身近な他者、あるいは不特定多数の匿名的他者から得られる承認というのは人々の興味次第、気分次第なところがあるため大分揺らぎやすい。</p> <p>だからこそ、現代人は自分の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>を肯定的に保障してくれる存在を欲しがるし、自分が所属する何かしらの属性(他人との差)が他者にどのようにまなざされるのか、自分への他者のまなざしに対して繊細なまでに敏感にならざるを得ない。</p> <p>承認や視線という形ではない方法で人々の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>を保証していた公共空間はどこにもなく、ここには国家による承認関係=<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>か、個人による承認関係=複数の肯定的視線とそれに対する依存しかない。現代の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%B9%A5%C8">ナショナリスト</a>は以前のような<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%B3%B9%F1%BC%E7%B5%C1">軍国主義</a>的で滅私奉公的な者たちなのではなく、単にナルシストなのである(言われずともすぐに思いつくだろう)。現代の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%B9%A5%C8">ナショナリスト</a>たちが国とその指導者を肯定し、「素晴らしい日本」という史観をしきりに喧伝してみせるのは、自身をネイションの一員(=素晴らしい日本人)として肯定し承認してほしいからであるし、国家という大きな存在との一体感を欲するからである。個人的な関係に承認を見出す人々が自身の承認欲求を満たすためにひたすら注目を集めようとするのも、個人一人一人の視線が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>のもたらす肯定感よりも貧弱だからである。そこには大いなる存在との一体感が存在しないのだ。</p> <p>現代人は漠然とただ自分がそこにいることを肯定できない。自分が存在することに何かしらの理由付けをせずにはいられないのである。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の不安は、自己肯定感情の揺らぎと直結している。だから、現代人は自身の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>を形成する自分の属性への否定に対して過剰なまでに敏感なのだ。自分が持つ属性への否定的なまなざしは、そのまま自己否定へとつながってしまうのである。現代人の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>はその点デリケートであり、自身が帰属する集団や自分が持っている属性に対する否定的な意見に対して過剰に傷つき怒りを露わにするのである。そのような議論は、「一括りにする議論」「大きな主語の議論」と呼ばれ差別的であるとさえされるわけであるが、今の時代にかつての<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%DC%C5%C4%C6%A9">本田透</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%EC%B9%C0%B5%AA">東浩紀</a>や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%F0%CD%D5%BF%B6%B0%EC%CF%BA">稲葉振一郎</a>の本が読まれたのなら、すぐさま全員に差別主義者のレッテルが貼られていたことだろう。</p> <p>「大きな主語」による議論は、一部の敏感な者たちからレッテル(偏見)を作るべきではないというような批判を招くことがあるが、集団に何らかのラベルを貼ることの是非が問われるのは、その貼られたラベルが妥当か吟味されるべきだということと、そのラベルが使いまわされることで、そのラベルの内と外の不純物、つまり外部の中の内部性ないし内部の中の外部性を見失しなわせる可能性があるからであって、ラベルを貼ることそのものが否定されるべき行為だからではない。</p> <p>仮に何かに対して批判的な言葉を投げかけたいのであれば、そこにいくらかの二項対立的な言葉の創設(再創設)があるのは不可避的なのであって、それは比較的妥当かそうでないか(ともすれば差別的か)というような程度の差でしかないのである。</p> <p>もし正確無比に何かを示そうとするのであれば、それは人類みな<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B0%EC%BF%CD%B0%EC%C7%C9">一人一派</a>で済む話ではない。あらゆる学問分野において、サ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A4%A1%BC%A5%C9">イード</a>が言うような「心象地理」的な他者理解は、厳密な意味では免れないのである。必要なのは属性的な言葉をすべて放棄することではなく、その<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%DD%A5%EA%A5%A2">アポリア</a>に対抗するためにその区分をどこまでも細分化あるいは可変させていくことだ。「大きな主語」の何が「大きい」のかという基準は常に可変的であり、多くの恣意性を孕んでいる。「大きな主語」を広く一般に禁じようとすることは、何も言うなということと同義であるのだが、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%B9%A5%C8">リベラリスト</a>達はそんなことさえ理解できずにいるのである。</p> <p>全ての政治は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の確立と傷つきによって語られる時代なのである。いや、むしろ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>とは他者と自己の差異の境界面の感触のことなのだから、その確立において、痛みと傷は不可避的であり、その痛みへの怒りは怒りであるとともにマゾヒスティックな自己肯定感なのだ。一体どれだけ多くの人間が自分の持つ属性の被差別性と自己の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>を結びつけたがることか。傷に対する怒りの表明が、なによりもその傷による自己存在の確認でもあり、痛みを持つ存在としての自己の確立であると同時に同じ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>を持つ者たちとの痛みの連帯感の創出でもあるのだ。ともあれみながみな自分の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>を「誰よりも」尊重されたがっているという単純なひしめき合いの光景に、左翼だの右翼だのと余計な外観を纏わせる必要はないだろう。</p> <p>これはそこまであからさまな誇張ではなく、例えば差別問題の議論においても人権や歴史的文脈の問題としての差別問題は姿を消し、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の私的な傷つきの問題としての差別問題が語られ始めているし、差別主義者が自分達こそが差別されている側だとする主張するのも、傷ついているのは自分達だという私的な傷つきが根拠になっているからだろう。その成れの果てが差別主義者を差別するなというアホのような相対化の文句ではないか。</p> <p>そうした「傷つき」と「共感」の論理に対して批判的であると自称する「お気持ち主義」の批判者にしても、その多くが言いたいのは結局のところ「あいつらばかり同情されてずるい」程度の話でしかないのであって、それは到底、公共意識を呼びかけ公共性に生きろという話にはなりそうもない(そもそも彼らに公共の理念はない)。仮にも「お気持ち」を批判したいのであれば、是非とも「お気持ち」に依らない公共意識について語ってもらいたいものだが、彼らはいざ自分達の「思想」を発する場になると呆けたように古びた自由賛美のキャッチコピーを量産する始末である。</p> <p>今の時代は右翼の時代でもなければ左翼の時代でもない。単に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>のひしめき合いと摩擦の時代なのである。</p> <p>まったく呆れることに、この、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の痛みを訴えるという手法はあまりに多用されるものだから、使いたくなくとも使わざるをえない場面が多々あるのである。人に感情移入をしてもらえるとような自己の語りを獲得しなければ、そもそも注目すらされえないとような状況が存在している。リベラルな人間観<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%E9%A4%B7">からし</a>てみればあらゆることは等しく「他人事」なのであり、自分にとって共感できるあるいは興味のある物語のみが注目に値するというのは当然なのであるが。</p> <p>ここにはもはや、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>ポリティクスなど存在しない。</p> <p>なぜなら、現代においては私的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の領土争いこそがポリティクスだからだ。アイデンディティ闘争としての政治はこんな私をどうか見てくれ(承認してくれ)という痛々しいまでのまなざしの奪い合いの現場なのである。</p> <p>ポリティクス(政治)の一部に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の問題が関与している時代は終わり、ポリティクス=政治一般は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の奴隷となった。おおよそ全てのポリティクスは、各人の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の確立とその為の肯定的まなざしの死守のためだけに存在する。まさにこうしたポリティクス=政治を個人の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の物語を語る場へと転じさせてしまうことが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>の副作用なのである。</p> <p>現代の多くの人は純粋なポリティクスの世界など信じてはいない。そう見えることの多くは、ミュージカル役者が番組で演じる茶番のようなものだ。</p> <p>この世界の多くの「感動的な」できごとは、実利的な利益を優先した結果であるが、多くの人間がそれをあたかも「信念」や「美徳」によるものだと演出して見せようとするのは、死体が死んでいないように見せるためのアリバイ工作でしかない。</p> <p>ポリティカルコレクトネスに沿った作品が多く生み出されるのは、ポリティカルコレクトネスに配慮することのコストとそのメリットが考慮された結果にすぎない。</p> <p>ポリティクス=<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>となった時代においては、注目を集められるような語りを持たない人間は、政治など下らないというようなアンチポリティックな態度をとらざるを得ない。なぜなら、ポリティクスは注目を浴びるような語りを持つ人間たちだけの専有物なのであって、注目を集めることのできる語りを持ちえない者たちの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>を救済してはくれそうにないからだ。当然のことながら、そうしたアンチポリティックな態度でさえ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の問題でしかないのだ。「政治なんかよりも日々の日常を確かに生きていくことの方が大事なんだよ」というアンチポリティックな言葉は、アンチポリティックな空間=私的空間の領土争いから逃れた真の私的空間こそ、各人の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>を救済しうるのだという繊細な態度の表れなのだ。ポリティクス=<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>闘争となった今、当然それに対応するアンチポリティクスも<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>を確保する手段の一形態でしかない。</p> <p>現代人は政治に興味がないのではなく、政治という「居場所」に興味がないのである。政治の場に「自分の居場所」がないと感じている多くの現代人は、政治の場を離れ「自分の居場所」を求めて、日常的なつながりの中にそれを見出そうとする。勿論これは、日常に自分の「居場所」がない人間がポリティクスへと追いやられるという図と裏表なのだが。</p> <p>だからこの手の人々の多くは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>が提供する素朴な国民の物語に対しては呆れるほどに無警戒なのである。それと同時に、ミュージシャンやらアーティストが政治について発言したりする場合は(いくらそれが眉をひそめたくなるほど紋切り型の文句であるとはいえ)「音楽に政治を持ち込むな」「芸術に政治を持ち込むな」としきりに嘯いてみせるのであるが、それは自分の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の場(自分の「居場所」)にポリティクス(という別の私的空間)が侵入してきたと感じるからなのである。</p> <p>ポリティクスも、アンチポリティクスもすべて、等しく政治的=個人的である。それは全ての個人的なものは政治的であり、個人と政治は不可分であるというあのテーゼのことではなく、いまや政治を含めたすべてが個人的なことに過ぎないという現代人の感覚なのだ。</p> <p>こうした<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の感覚は、その<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%F6%C1%B3%A4%CE%B5%A2%B7%EB">当然の帰結</a>として<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>が提供する国民と国境の物語に対して同情的かつ親和的であるとともに、その国境線に自身の肌感覚を重ね合わせてしまう。自身の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の確かさを確認するために、人々はそれを支持するのだ。逆に言えば、自身の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>を保証しない国になどこの国の住民は興味がないのだろう。だから現代の多くの人間は素朴な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%B9%A5%C8">ナショナリスト</a>であると同時に、繊細な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%B9%A5%C8">リベラリスト</a>なのである。</p> tatsumi_kyotaro 自己責任論と共感性 hatenablog://entry/26006613460477083 2019-11-06T22:50:51+09:00 2022-08-16T10:57:39+09:00 1.「優しい」自己責任論 2.寄付の物語 3.物語とナショナリズム 1.「優しい」自己責任論 現在の世論の中には、貧困問題や性被害の問題などは個人が解決すべき問題であるから社会全体の問題にするべきではないとするような自己責任論が存在している。 例えば、2000年代においては生活保護受給者に激しいバッシングが寄せられ、税金制度は実質罰金制度であるという論調が盛んであった。貧困を抱える連中は、貧困を避けられたはずなのに何もしなかったのが悪いのであって社会が生活保護などの社会保障を提供するという特別扱いをするべきではないという論理が広がっていた。 そうした論理の前提にあるのは、危険やリスクは事前に予… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#1優しい自己責任論">1.「優しい」自己責任論</a></li> <li><a href="#2寄付の物語"> 2.寄付の物語</a></li> <li><a href="#3物語とナショナリズム">3.物語とナショナリズム</a></li> </ul> <h4 id="1優しい自己責任論">1.「優しい」自己責任論</h4> <p>現在の世論の中には、貧困問題や性被害の問題などは個人が解決すべき問題であるから社会全体の問題にするべきではないとするような自己責任論が存在している。</p> <p>例えば、2000年代においては<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%B8%B3%E8%CA%DD%B8%EE">生活保護</a>受給者に激しいバッシングが寄せられ、税金制度は実質罰金制度であるという論調が盛んであった。貧困を抱える連中は、貧困を避けられたはずなのに何もしなかったのが悪いのであって社会が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%B8%B3%E8%CA%DD%B8%EE">生活保護</a>などの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%D2%B2%F1%CA%DD%BE%E3">社会保障</a>を提供するという特別扱いをするべきではないという論理が広がっていた。</p> <p>そうした論理の前提にあるのは、危険やリスクは事前に予測することが可能なのだから自分で対処すべきものだという考えである。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%E3%B3%B7%BC%D4">障碍者</a>が生まれながら抱えるハンデキャップも、貧困家庭の環境も、周囲の人間関係も自分で対処可能であるし対処できて当然だとする考えのことである。</p> <p>例えば、自己責任論を唱える人間は性犯罪に遭った人間には「そんな危ない場所にいたのが悪い」と言うし、貧困に苦しむ人間には「まともな職に就かないのが悪い」と言うだろうし、差別に苦しむ人には「嫌なら出ていけばいい」と言うのである。これらの苦痛は全て避けようと思えば避けられたはずのものなのだから、それを避けようとしなかった時点でどんな被害に遭おうが自業自得だとする考え方が自己責任論なのである。</p> <p>一般的に、このような自己責任論的なものに対しては、しばしば思いやりの重要性や想像力を働かせることの必要性が説かれることがある。</p> <p>しかし、共感や思いやりの精神の必要性自体に同意するにしても、それを呼びかけることは果たして効果的なのだろうかという疑念がある。</p> <p>というのも、こうした呼びかけは自己責任論的な弱者を見捨てるように見える言説が共感性の欠如、想像力の乏しさに原因があると前提しているからである。</p> <p><strong>ここで問題なのは、自己責任論的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%FC%C7%A4%BC%E7%B5%C1">放任主義</a>が共感能力の欠如によるものなのかという点にある。</strong></p> <p>今までの記事で書いてきた話にも通じる話であるが、自己責任論的な考えはなにも冷淡さに端を発しているわけではない。自己責任論は単なる冷淡さの表れではないのだ。</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="被害者叩き、弱者叩きをする人々~公正世界仮説と自己責任論~ - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2019%2F05%2F04%2F220336" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2019/05/04/220336">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p>それは単純な現実逃避の手段として、現実を否認する思考様式の延長に存在する。</p> <p>往々にして、強固な自己責任論者が寄付や募金などのチャリティ精神を発揮したりアピールしたりすることがある。勿論、理由は様々だろう。PR活動の一環だったり、税金対策だったり、利他精神の表れではなく利己的な打算によるものだという意見も頷ける。</p> <p>だが、問題なのは、普段の強固な自己責任論的な主張と募金や寄付に積極的な姿勢が、取り巻きの人間の目には矛盾として映らないことにある。</p> <p>例えばあの<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DB%A5%EA%A5%A8%A5%E2%A5%F3">ホリエモン</a>こと<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%D9%B9%BE%B5%AE%CA%B8">堀江貴文</a>は、精力的に募金や寄付をしており、募金や寄付を行った女性タレントが誹謗中傷を浴びていることに対して以下のように擁護をしていたことがある。</p> <blockquote class="twitter-tweet" data-lang="HASH(0x5642207fdd90)"> <p dir="ltr" lang="ja">俺たち<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C3%CF%BF%CC">地震</a>の被害を受けてないものは出来るだけ普段通りの生活をしながら無理せず被災者支援を行うのが災害時の対応だろう。単に「こんな時に馬鹿な番組やりやがって」というノイ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B8%A1%BC">ジー</a>マイノリティの苦情を受けるのが嫌なだけのチキン野郎には存在意義は無い</p> — <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%D9%B9%BE%B5%AE%CA%B8">堀江貴文</a>(Takafumi Horie) (@takapon_jp) <a href="https://twitter.com/takapon_jp/status/721180270125142016?ref_src=twsrc%5Etfw">April 16, 2016</a></blockquote> <p> <script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script> </p> <p> </p> <p>しかし、一方で<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DB%A5%EA%A5%A8%A5%E2%A5%F3">ホリエモン</a>こと<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%D9%B9%BE%B5%AE%CA%B8">堀江貴文</a>は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C4%A5%A4%A5%C3%A5%BF%A1%BC">ツイッター</a>で「日本終わっている」と手取り14万の安月給を嘆くツイートに、「お前がおわってんだよ」と辛辣に批判もしている。</p> <blockquote class="twitter-tweet" data-lang="HASH(0x5572c697a870)"> <p dir="ltr" lang="ja">日本がおわってんじゃなくて「お前」がおわってんだよwww / 12年勤務して手取14万円「日本終わってますよね?」に共感の声 「国から『死ね』と言われているみたい」「日本はもはや<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%AF%C5%B8%C5%D3%BE%E5%B9%F1">発展途上国</a>」 (<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E3%A5%EA%A5%B3%A5%CD">キャリコネ</a>ニュース)…<br />「いま」を見つけよう - <a href="https://t.co/0lZL3DLZI0">https://t.co/0lZL3DLZI0</a></p> — <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%D9%B9%BE%B5%AE%CA%B8">堀江貴文</a>(Takafumi Horie) (@takapon_jp) <a href="https://twitter.com/takapon_jp/status/1181017562223501312?ref_src=twsrc%5Etfw">October 7, 2019</a></blockquote> <p> <script async="" src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script> </p> <p> </p> <p>彼の中で、自己責任論的な考えとチャリティや募金、寄付は矛盾なく同時に存在できる。自己責任論は、それにまとわりつく印象とは裏腹に、思いやり精神、助け合い精神とは関係がないないのではないだろうか。</p> <p>それどころか、寄付や募金などの精神は自己責任論的な思想と共生的な関係にあるとさえいえるのではないか。</p> <p>念のために言っておけば、私は寄付や募金活動そのものを否定しようというわけではない。何もせず文句を言うだけの人々に比べれば、寄付や募金は明らかに貢献しうる。また、ある程度の支援が完了しておらず混乱が続く被災地に、受け取り手側の状況も考慮されないまま身勝手に送られる<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%E9%B1%A9%C4%E1">千羽鶴</a>よりは、実利という面では賢明な判断に思える。</p> <p>あるいは、寄付や募金よりも、実際に被災地などに出向き奉仕することの方が良いのだと断言するつもりもない。何の知識もなくただ野次馬根性と空虚な正義感からそのような行為に及んだとしても、現場<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%E9%A4%B7">からし</a>てみたら迷惑なだけだったということはありえるだろう。そんなことをするくらいなら専門的に何が必要かを判別し、必要な資源を配布できる組織に寄付なり募金なりを行う方が支援という面では理にかなっている。</p> <p>私が言いたいのは、寄付や募金を支持する精神は自己責任論的な言説と対立しないということである。自己責任論的な姿勢と寄付の精神は時に共犯的に存在しうるということである。ここでは、行為自体が実際に役に立っているかどうか、必要かどうかという点は問題にしない。それらの論点については、前回までの記事ですでに言及している。</p> <h4 id="2寄付の物語"> 2.寄付の物語</h4> <p>寄付や募金は基本的に、どれだけ多くの人の関心を引くことができたかによって集まる額が左右される。</p> <p>震災や<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C4%C5%C7%C8">津波</a>、噴火やハリ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B1%A1%BC%A5%F3">ケーン</a>などの大規模な災害においては、その映像から受ける衝撃からか多くの募金や寄付が集まる。それは、そうした映像が与える衝撃が、多くの人に被害の状況を想像させるからである。</p> <p>また、寄付や募金で集まったお金がどのような使われ方をしているのか具体的に想像しにくいものに対しては、寄付や募金の額が減少するということがあるというのはよく言われることである。</p> <p>寄付をする以上は、誰しもそれが役に立ってほしいと願うのは自然なことだ。そこにあるのは一種の弱者救済の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AB%A5%BF%A5%EB%A5%B7%A5%B9">カタルシス</a>なのである。無論、それを否定しようというわけではない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">寄付や募金をする側は、それを受け取る側と対面するわけではないが、それが相手にとって役に立ったという実感を必要とする。</span></p> <p>すなわち、そこにはある種の社会貢献物語が必要とされているのである。具体的な誰かではなく、漠然とイメージによって作られた他者の像に対する貢献の物語である。</p> <p>寄付や募金の活動の活発さや盛り上がりは、人々の想像によって作られた物語がどれだけ多くの魅力を持っているかという点と関わっている。</p> <p>寄付や募金を行う者はあくまで自分の想像の範囲内でそれがどのような影響をもたらすのかを推測するしかない。直接現地に行くボランティア活動との相違点もそういった点にある。寄付や募金活動は、支援する側が支援される側の人間を想像するしかない。</p> <p>ここで、災害に対して行われる寄付や募金を例に挙げて考えよう。</p> <p>寄付や募金の相手は、多様な個人としての表情を奪われ、被災の物語の一登場人物として、つまり「被災者」という概念として現れることになる。</p> <p>寄付は具体的な他者としての個人の表情をそこに出現させない。あくまで想像の物語上の概念的な「被災者」を想像させるだけに留まる。ここに物語の余白がある。この余白には実に多くの人々の想像が詰め込まれるのである。</p> <p><strong>寄付をする側は、一般的で普遍的、かつ平均的な「無名の被災者」の物語を想像する。</strong></p> <p>それは「ある一人の人間が被災した話」ではなく「多くの被災者のうち誰かの物語」なのである。</p> <p><span style="color: #1464b3;">「無名」であることは、ある特定の属性を持っているということ以外の全てを無意味にする。</span>「無名の被災者」も、無名であるがゆえにただ「被災者」としてのみ意味を持ちうる。無名の犠牲者は、無名であるため犠牲者という属性のみがフォーカスされ語られることになる。無名の犠牲者たちは犠牲者として悼まれながらも「犠牲者である」以外の全ての意味を失うのである。</p> <p>つまり、そこでは純粋に「被災」の物語が想像されるとともに、「被災」以外の物語が消去されることになる。そのため「被災者」は「被災者」であること以外に意味を与えられない。<span style="color: #1464b3;">被災地への寄付において現れる物語は、被災者を個別の具体的他者としてではなく、「被災者」という属性を持った人間の代表として考えるのである。</span></p> <p>寄付は徹底して個人的な体験、他者性を消失させ、全ての被災者を等しく「無名の(名もなき)」被災者として扱う(それが寄付や募金の良い面でもある)。そうして固有の物語が消去され一般化されることによって、個々の被災者は「無名の」あるいは「名もなき」被災者となるのだ。「被災者」という属性以外の全てを消去することで、被災者一般の物語を生み出すことが可能になるのである。<span style="color: #1464b3;">被災者に共通する普遍的、一般的話をするためには、その主語は「無名の」「名もなき」被災者でなければならない。</span></p> <p>同時に、その想像における「一般」「平均」がどのような集合内の「一般」「平均」なのかはナショナルな想像力(=同胞意識)によって定められることになる。</p> <p>勿論、それは国内被災地への寄付や募金の場合であって、寄付や募金の対象が変われば、その枠組み(どのような集合の中の「一般」「平均」か)も大きく変わることになる。しかし、「無名の(名もなき)国民」であるか「無名の(名もなき)市民」であるのかはここでは問題ではない。寄付的な救済であってもナショナルな哀悼であっても、それがある種の物語に沿って行われる限りでは、それは平均化された「無名の被災者」という物語上の概念に対して行われるのである。そのような名もなき誰かの物語においては固有の体験は消去される。</p> <p>被災者は被災者であるという属性を持つことで、共感されたり同情されたりする。無名であるからこそ、「被災者」に対しての共感はどこか物語的なものに沿って行われるのである。</p> <p>寄付や募金は個別の具体的な他者に行われるのではなく、特定の「属性」を持つ平均的人間が想像されることで行われる。<strong>その平均的な人物像は、平均であると同時に誰でもないのだ。</strong></p> <p>簡易性、簡素さこそが寄付のすばらしさであるとともに、寄付という行為では、他者と向き合う機会、実際に恩恵を受ける人間と知り合う機会は省略されている。寄付という行為はそれを行う者の側で完結するように出来ている。</p> <p>その結果、寄付は目の前に相手を出現させないまま、物語に浸ることのできる手段としても存在しうる。<span style="color: #1464b3;">言い換えれば、寄付は、目の前の社会問題に向き合わずに想像の物語の中だけで全てを処理する方法として選ばれうるのである。</span>無論、それ自体がいけないという話ではない。寄付が自己完結的であるという点だけを以て、寄付の正当性が揺らぐことはない。</p> <h4 id="3物語とナショナリズム">3.物語と<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a></h4> <p>ここでもう一度、自己責任論の話に戻ろう。</p> <p>自己責任論見られる思考様式も、基本的に目の前の問題を否認することで、目の前の問題を自分から遠ざけているのだ。それらの思考は、「もしそれが自分だったら」という偶然の恐ろしさを回避する。</p> <p>同様に、「無名の被災者」の物語も、実際の被災者を遠ざけている。<span style="color: #1464b3;">被災者の物語には、物語的な恐ろしさはあるが、「もしそれが自分だったら」という偶然の恐ろしさがない。</span>我々は悲惨な物語に打ち震えると同時に、それが物語上のできごとであることに安心してしまう。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D9%A5%CD%A5%C7%A5%A3%A5%AF%A5%C8%A1%A6%A5%A2%A5%F3%A5%C0%A1%BC%A5%BD%A5%F3">ベネディクト・アンダーソン</a>は『想像の共同体』において、偶然の死を必然の物語として説明するというのが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>と宗教の共通点であると考えた。そして、その象徴的存在が「無名戦士の墓」であるというのだ。</p> <blockquote> <p>無名戦士の墓と碑、これほど近代文化としての<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>を見事に表象するものはない。(中略)人の死に方がふつう偶然に左右されるものとすれば、人がやがて死ぬということは逃れようのない定めである。人間の生はそうした偶然と必然の組み合わせに満ちている。(中略)偶然を宿命に転じること、これが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>の魔術である。(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D9%A5%CD%A5%C7%A5%A3%A5%AF%A5%C8%A1%A6%A5%A2%A5%F3%A5%C0%A1%BC%A5%BD%A5%F3">ベネディクト・アンダーソン</a>『想像の共同体』)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4904701089/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51VGMU3r2QL._SL160_.jpg" alt="定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4904701089/kyotaro442304-22/">定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D9%A5%CD%A5%C7%A5%A3%A5%AF%A5%C8%A1%A6%A5%A2%A5%F3%A5%C0%A1%BC%A5%BD%A5%F3">ベネディクト・アンダーソン</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%C0%D0%CE%B4">白石隆</a>白石さや</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> 書籍工房早山</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2007/07/31</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">購入</span>: 11人 <span class="hatena-asin-detail-label">クリック</span>: 59回</li> <li><a href="http://d.hatena.ne.jp/asin/4904701089/kyotaro442304-22" target="_blank" rel="noopener">この商品を含むブログ (40件) を見る</a></li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> </blockquote> <p>確かに、宗教も国家も死という必然に物語を与えることで人々に安心を与えてきた側面がある。そして、無名の物語は物語という必然であるが故に、偶然性に満ちた現実から離れてしまうのだ。</p> <p>「無名の犠牲者」に対する共感や同情、哀悼は、我々がそれと隔てられている安心感によって成立する。例えば、死んでいった特攻隊員に思いを馳せ涙しながらも、生き残り<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C8%BF%C0%EF">反戦</a>を訴える元特攻隊員に対しては、まるで自分たちは戦場に行くことはないとばかりに冷笑や罵声を浴びせかけてしまう人々がいる。</p> <p>そうした物語は人々が生きる現実から遠くにあるために人々にリアリティを感じさせない。<span style="color: #1464b3;">誰も自分が犠牲者になるなんて考えていない。</span>心理学的にはこれを、一種の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%B5%BE%EF%C0%AD%A5%D0%A5%A4%A5%A2%A5%B9">正常性バイアス</a>と説明してもよいかもしれない。</p> <p>そして、そうした物語がリアリティを失うのは、「無名の犠牲者」が固有名を持ち偶然を生きる我々とは違うと考えられてしまうからである。</p> <p>具体的な人間が目の前に現れないから、「もしそれが自分だったら」という想像力が働きにくい。「無名の存在」は無名であるがゆえに、属性の代表者として成り立てば誰でもよい(=交換可能かつ代替可能である)が、同時に無名であるがゆえに名を持つ我々とは交換されないのだ。すなわち物語(必然)を生きる「無名の誰か」は、偶然の人生を生きる我々から遠く離されてしまうのである。</p> <p>その点で、寄付は人助けの手段であると同時に、自分と現実の被災者とを切り離す手段としても機能する。</p> <p>こう考えると、人気を博す<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%B9%A5%C8">ナショナリスト</a>が寄付や募金、あるいはチャリティに精を出すのも理解できる。</p> <p>現代において少なくない人が<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>を魅力的だと捉えるのは、それが人々に「優しい物語」を提供するからである。それは現実に苦しむ他者の姿を我々の目から遠ざける効果を持っている。誰もが「優しいの物語」に魅了されるうちは、現実にどのような問題が起ころうとも気にならない。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>が隆盛する国家において、政権が実際の国民の生活を苦しめながら、それを「国民の為」であると偽ることができるのは、支持者が求める国民の救済が十分に概念的、物語的なものだからである。</p> <p>現代の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%B9%A5%C8">ナショナリスト</a>が求めているのは、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の物語における救済であって、実際の現実がどうであるかはあまり関係がない。</p> <p>例えば、国境の問題、領土問題が少なくない人にとって(実際には行ったことも見たこともないような土地であったとしても)自分たちの生活状況以上に強い関心の対象になるのは、そこに自分の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%A4%A5%C7%A5%F3%A5%C6%A5%A3%A5%C6%A5%A3">アイデンティティ</a>の一部としての領土、自己の輪郭としての国境が想像されているからである。</p> <p>現代の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%B9%A5%C8">ナショナリスト</a>たちがしばしば自分のことを現実主義者であると自認するのは、彼らには、現実はどうにもならないというある種の諦観があるからである。彼らは、現実の問題を自嘲的に諦めながら、せめてもの救いとして物語上の自分の救いを求めざるを得ないのだ。現実の問題解決には、時間も手間もかかるし、多くの困難が伴う。だからこそ、簡略化された物語上での解決の方が心地良いこともあり得る。</p> <p><span style="color: #1464b3;">結果として、現実を遠ざけ無視した上で、物語的な解決のみ求められることになれば、現在の</span><span style="color: #1464b3;"><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%B9%A5%C8">ナショナリスト</a>たちの自己責任論的な論調と、寄付や募金を積極的に行う態度は矛盾しない。</span>そのどちらも考えるべき現実問題から我々を遠ざける効果が期待できるからだ。</p> <p>現代において<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%CA%A5%B7%A5%E7%A5%CA%A5%EA%A5%BA%A5%E0">ナショナリズム</a>の脅威は、弱者を物語上の存在にしてしまうことにあるのではないだろうか。</p> <p><span style="color: #1464b3;">現実の問題が困難であればあるほど、物語的な救済への希求は生まれやすい。</span>物語的な解決を現実の解決とみなすことで、複雑な現実問題と向き合うことを避ける心理である。</p> <p>寄付もまた、寄付金による復興支援という物語の終了とともに、それを現実の視野から消滅させる効果を持っているのではないだろうか。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C5%EC%C6%FC%CB%DC%C2%E7%BF%CC%BA%D2">東日本大震災</a>が起こった年、一時的に寄付金の額は増大したが、翌年にはもとに戻り、寄付の文化自体が根付いた様子はなかった。我々は「最低限やるべき何か」として寄付を行うことで、それを「もう考えなくてもよいもの」として扱うことが出来てしまうのである。現実逃避的な思考を持つ人々にとって重要なことは、現実の問題を物語上で処理することで、それに処理済みの印を押すことなのだ。</p> <p>自己責任論者たちは、まるで自分たちは弱者にならないとでも言いたげに、弱者を激しく非難するが、そこにある種の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%B5%BE%EF%C0%AD%A5%D0%A5%A4%A5%A2%A5%B9">正常性バイアス</a>のようなものが働くためには、そうした問題をリアルに感じないような距離が必要になるのである。</p> <p>寄付が現実逃避的な欲望によって支えられてしまえば、自己責任論と同じく現実の問題を物語の世界に閉じ込めてしまいかねない。</p> <p>危険なのは思いやりや共感の欠如ではないのだ。そうした能力がたとえあっても想像力が現実を拒否し、現実逃避的な欲望によってしか機能しなければ意味がないのである。我々は共感と想像力を正しい位置に置く必要があるのだろう。</p> <p> </p> <p>【参考文献と追記】</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4904701089/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51VGMU3r2QL._SL160_.jpg" alt="定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4904701089/kyotaro442304-22/">定本 想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (社会科学の冒険 2-4)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D9%A5%CD%A5%C7%A5%A3%A5%AF%A5%C8%A1%A6%A5%A2%A5%F3%A5%C0%A1%BC%A5%BD%A5%F3">ベネディクト・アンダーソン</a>,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%C0%D0%CE%B4">白石隆</a>白石さや</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> 書籍工房早山</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2007/07/31</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">購入</span>: 11人 <span class="hatena-asin-detail-label">クリック</span>: 59回</li> <li><a href="http://d.hatena.ne.jp/asin/4904701089/kyotaro442304-22" target="_blank" rel="noopener">この商品を含むブログ (40件) を見る</a></li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> </p> <p>(追記2019年11月7日)</p> <p>映画『ジョーカー』のアーサーに対して共感の声が上がる一方で、自己責任論が叫ばれる世の中に対しての違和感を感じたという記事。フィクション内の「弱者」に対する共感は、そのまま社会的弱者への想像力を育む訳ではない。</p> <p><iframe class="embed-card embed-webcard" style="display: block; width: 100%; height: 155px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="ジョーカーへの「共感」の嵐に抱く違和感" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.huffingtonpost.jp%2Fentry%2Fjoker_jp_5dbb97b3e4b0249f4821d948%3Fncid" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://www.huffingtonpost.jp/entry/joker_jp_5dbb97b3e4b0249f4821d948?ncid">www.huffingtonpost.jp</a></cite></p> tatsumi_kyotaro 偽善者叩き、偽善批判の偽善~しない善よりする偽善?~ hatenablog://entry/26006613448895344 2019-10-15T00:57:51+09:00 2022-08-16T10:57:56+09:00 1.エンタメ化する偽善バッシング 2.全ての弱者を支援することの不可能性 3.しない善よりする偽善? 4.うしろめたさと同居すること 1.エンタメ化する偽善バッシング 前回までの記事では、差別や貧困、犯罪などの数多くの社会問題がこの世界に存在することを認めたくない心理的傾向についての話をしてきた(↓参照)。 tatsumi-kyotaro.hatenablog.com 社会問題を自分たちが解決すべき問題として引き受けるには心理的な負担が発生する。 もしこの世界に多くの解決すべき問題があると知れば、良心的な人間は、自分も何かしなくてはいけないと思うだろう。だが、同時に社会問題のために何かをするの… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#1エンタメ化する偽善バッシング">1.エンタメ化する偽善バッシング</a></li> <li><a href="#2全ての弱者を支援することの不可能性"> 2.全ての弱者を支援することの不可能性</a></li> <li><a href="#3しない善よりする偽善"> 3.しない善よりする偽善?</a></li> <li><a href="#4うしろめたさと同居すること"> 4.うしろめたさと同居すること</a></li> </ul> <h4 id="1エンタメ化する偽善バッシング">1.エンタメ化する偽善バッシング</h4> <p>前回までの記事では、差別や貧困、犯罪などの数多くの社会問題がこの世界に存在することを認めたくない<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>傾向についての話をしてきた(↓参照)。</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="被害者叩き、弱者叩きをする人々~公正世界仮説と自己責任論~ - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2019%2F05%2F04%2F220336" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2019/05/04/220336">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <p>社会問題を自分たちが解決すべき問題として引き受けるには<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>な負担が発生する。</p> <p>もしこの世界に多くの解決すべき問題があると知れば、良心的な人間は、自分も何かしなくてはいけないと思うだろう。だが、同時に社会問題のために何かをするのは面倒だし関わりたくない、ただ楽しく生きていたいというのも多くの人の心情だろう。</p> <p>この世界には解決すべき多くの問題があるのに、自分は何もしていない。そうした自覚は、時に後ろめたさや罪悪感を生み出してしまう。</p> <p>社会のために何かを為そうとしている人間を見ると自分が酷く自己中心的な人間に思えて居心地が悪くなることもある。<span style="color: #1464b3;">だから、そうした罪悪感、後ろめたさに向き合わなくて済む方法として、問題そのものをなかったもの、解決しないでいいものとして認識しようとする人間が出てきてしまう。</span></p> <p>「自分が何かをする必要なんてない」</p> <p>そう思いたいがために、問題そのものをなかったことにして、無視してしまうのも人間の心理である。全ての社会問題に向き合ってそれについて考え続けることは<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>にも辛いものがある。だから多少問題があっても目を瞑って「そんなことは私が考えることではない」と思えれば気が楽になる。そのため、事件の被害者や社会的弱者が不条理な目に遭っていても、「自分の身は自分で守れ」「自業自得だ」と言い放つ人間が後を絶たないのである。どんな理不尽も、それは自分が考えるべき問題ではなく、自己責任で対処すべき問題だと考えた方が楽になれる。自己責任論が蔓延するのも、社会的な不条理や理不尽に向き合うことが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>に負担だからである。</p> <p>こうした<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>な傾向は、偽善者叩き、偽善批判のような言説にも見えることがある。無論、偽善への批判そのものは、それが正しい目的をもって行われる限り必要な議論である。だが、過剰なまでに行われる偽善者叩きには、娯楽化している側面があることを否定できない。「殴ってもいい誰か」を作ってみんなで殴ってそのノリを共有するといういじめにも似たエンターテインメントである。目的はなく、それ自体が笑い者を晒上げるショーであるかのような時さえある。</p> <p>例えば、日本における<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/24%BB%FE%B4%D6%A5%C6%A5%EC%A5%D3">24時間テレビ</a>のチャリ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%A3%A1%BC">ティー</a>を茶化して笑いにする光景や、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%F4%A5%A3%A1%BC%A5%AC%A5%CB%A5%BA%A5%E0">ヴィーガニズム</a>の実践者である<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%F4%A5%A3%A1%BC%A5%AC%A5%F3">ヴィーガン</a>に対して動物達が残虐な仕打ちを受ける画像を送り付けたりする光景はよく見られる。つい最近の話題で言えば環境問題を訴えたグレタ・トゥーンベリやそれを持ち上げるメディアに対して誹謗中傷や冷笑を浴びせかけたのも同じ側面を見つけることができる。</p> <p>例えば、環境問題に取り組む人間に対して「じゃあお前は一生エアコンを使うなよ」などという声がぶつけられるのも良くあることだ。社会に訴えかけて何かを為そうとする者は、あらゆる欠点がない完璧な人間であることが求められてしまうのである。</p> <p>社会運動をする者に聖人君子であることを求める人間は、常に何か欠点がないかと粗探しにやっきになって、欠点と思えるものを発見すると鬼の首を取ったように勝ち誇るのだ。「所詮、善人面していてもこいつはこの程度の人間だ」とでも言いたげに彼らは冷笑するのである。</p> <p>彼らは、社会問題の解決のために行われる様々な活動の小さな瑕疵を取り上げ、あの運動は偽善であると指摘したがる。</p> <p>例えどのような美辞麗句に彩られていても、その社会運動は弱者を利用した偽善でしかないということなのだろう。</p> <p>無論、ある社会運動や慈善活動に対して批判や意見があるのは当然である。運動の威勢が削がれるからなどという理由で批判を封じようとする<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C6%B1%C4%B4%B0%B5%CE%CF">同調圧力</a>的な論理にも警戒せねばならない。より建設的な方法を模索する上ではそうした批判を展開することは必要である。</p> <p>しかし、それは何がベターでより良い解決なのかについて検討するという目的があってこそだ。当然ながら、偽善批判もより良い解決を目指して行われるべきだろう。だが、現状数多く展開されるの偽善批判がそのような改善を促す意思をもって行われているとは言い難い。</p> <h4 id="2全ての弱者を支援することの不可能性"> 2.全ての弱者を支援することの不可能性</h4> <p>このように、社会を改善しようとする運動に少しでも欠点があるとそれを取り上げて過剰に反応する現象は、当然ながらマイノリティや社会的弱者の議論でも見られる。</p> <p>例えば全ての弱者を救済することなど不可能だとする議論もそのような現象に含まれているだろう。</p> <p>「所詮、目に見える範囲、限られた範囲の人間しか救われない」「全ての人間を救うことなど不可能だ」などと口にして、社会的な弱者支援の活動などを批判する議論である。</p> <p>そのような議論の中には、見えない弱者は救済の手の届かない場所にいるのだと嘆くような論調さえある。我々の知らないところで死んでいく多くの弱者が存在しており、我々は真の意味で弱者を支援することができないのだと少々大げさに悲劇ぶってみせるような人もいる。</p> <p>そのような議論においては、目に見える範囲の弱者、認知される弱者にしか焦点が当たらないことがしきりに問題にされるわけである。</p> <p>これらの議論が社会運動の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%EB%CC%EE%B6%B9%BA%F5">視野狭窄</a>、視野の限定を批判する目的で行われる議論であれば殊更に問題はないだろう。</p> <p>確かに我々が認知しうる社会的な弱者は限定されているし、積極的に関わることのできる社会問題の範囲もごく限られた範囲でしかない。我々は我々が見知った範囲の中でしか問題の解決に取り組むことができない。その結果、ごく限られた範囲にしか救済措置が与えられず、その他認知されない<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%F8%BA%DF%C5%AA">潜在的</a>弱者に対しては救済措置が与えられないかもしれないのだ。我々は目に見える範囲の困った人のみを救ってそこで問題を解決したと思って思考停止してはいけないのだろう。</p> <p>ただ目に見える範囲から問題を片づけたいだけという行動原理だけでは、表層的な問題のみしか解決されない。</p> <p>無論目の前で起こることに注意が向くのは仕方のないことであるし、目の前のことに関心を持つことから問題意識は拡大していくのであるからその動機自体は否定されるべきものではない。</p> <p>しかし、目の前から問題がなくなってくれればそれでよいのだという思考は、社会にある問題を認めたくない人、否認してしまう人々と同じ思考ではないだろうか。</p> <p>目立つ問題は解決されても、潜在している問題は解決されないだろう。人から認知されることなく消えていく弱者もいるかもしれない。その意味で言えば、人々に「感動」を与えてしまうチャリ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%A3%A1%BC">ティー</a>活動は批判の対象となるだろう。それは、人々にある種の「癒し」を与えてしまうからだ。その「癒し」や「感動」は誰かの心を救うかもしれない。しかしそれは、この世界にある問題の数々を忘れさせることによる救いである。世界が善意で満たされる瞬間を共有することで、まるで世界から悪が消えてしまったかのような錯覚を人々に与えてしまう。そうした「慰め合い」を批判することには一定の意義があるだろう。</p> <p><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A1%BC%A5%BF%A1%BC%A1%A6%A5%B7%A5%F3%A5%AC%A1%BC">ピーター・シンガー</a>の『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』や、ポール・ブルームの『反共感論』で展開されるチャリティ批判はまさにこうした文脈での批判であった。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140816929/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41XYmINlV%2BL._SL160_.jpg" alt="あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140816929/kyotaro442304-22/">あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A1%BC%A5%BF%A1%BC%A1%A6%A5%B7%A5%F3%A5%AC%A1%BC">ピーター・シンガー</a>,関美和</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/NHK">NHK</a>出版</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2015/12/19</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> <li><a href="http://d.hatena.ne.jp/asin/4140816929/kyotaro442304-22" target="_blank" rel="noopener">この商品を含むブログ (5件) を見る</a></li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4826902018/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="反共感論―社会はいかに判断を誤るか" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/31kk2O9s9uL._SL160_.jpg" alt="反共感論―社会はいかに判断を誤るか" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4826902018/kyotaro442304-22/">反共感論―社会はいかに判断を誤るか</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span> ポール・ブルーム,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E2%B6%B6%CD%CE">高橋洋</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/02/02</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> <li><a href="http://d.hatena.ne.jp/asin/4826902018/kyotaro442304-22" target="_blank" rel="noopener">この商品を含むブログ (2件) を見る</a></li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p><strong>問題なのは「我々の目に見える範囲には限界があり救済の手が及ぶ範囲にも限りがあるのだ」と誰かが言う時、果たしてそのような自戒や批判的意図が込めて語られているかという点である。</strong></p> <p>少なくない数の人が、社会運動やチャリ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%A3%A1%BC">ティー</a>、募金活動を偽善あるいは欺瞞的だと腐す。</p> <p>しかし、それらの議論は本当により良い社会とは何かを語る為に行われてきたのだろうか。偽善を指摘するあまり、何もしない方が良いのだと安易に結論付けてはいないだろうか。</p> <p>それらは、偽善を指摘することに躍起になって、何もしないでいる人々を無批判に肯定する議論になってはいないだろうか。</p> <h4 id="3しない善よりする偽善"> 3.しない善よりする偽善?</h4> <p>言うまでもなく、偽善を指摘するのであれば、それが偽善でなくなるためには何をすればよいのかについても語るべきだろう。<span style="color: #1464b3;">少なくとも、なんらかの行為を偽善だと定義するのであれば、そこには同時に偽でない善のあり方が想定されているはずである。</span>偽ではない善のあり方について語ることが重要なのであって、ただ偽善を嘲笑するのであれば、それもある種の偽善に過ぎないのではないだろうか。<span style="color: #1464b3;">より良いやり方を模索することなしにただ人の偽善を嗤うことが目的なのであれば、その人間は偽善を指摘するだけの偽善者だろう。</span></p> <p>偽善批判に対して、偽善を擁護する人々は「やらない善よりやる偽善」だと口にするが、そもそも<strong>やらないことは善なのか</strong>ということがまず問われなければならないのだ。</p> <p>偽善を批判する人々は「完全な救済などない」「社会運動は欺瞞だ」「チャリ<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C6%A5%A3%A1%BC">ティー</a>や募金活動は偽善だ」と口にしたりする。では、偽善ではない善とは何か、善のために我々が今何をできるのか、それらの人々はちゃんと主張しているだろうか。偽善批判は何もしないでいる自分を肯定するためのものであってはならないだろう。ただ現状を追認し、何もしなくてもよいだと開き直るために偽善を批判するのであれば、それはただの思考停止でしかない。</p> <p>世の中を見渡してみても、完全な救済の不可能性を論じることで、自分たちは何もしないでいいのだと安心するような連中が見受けられる。</p> <p>相手の解決策を不完全な解決策に過ぎないと批判することも、相手のやっていることは偽善だと指摘することも、だから自分たちは何もやらなくても良いのだという論理に接続してしまう。</p> <p>「誰も完璧な善人などになれない、だから所詮どんなに立派なことを言っていても自分達と何も変わらない」「どんなに頑張っているように見える人間でも、実は何もしないでいる自分達と同じだ」</p> <p>そう信じたいために、僅かな欠点でもあればそれをあげつらい嘲笑う。そう思えれば少なくとも自分はまともな人間であると安心出来る。</p> <p>しかし、少なくとも何かをやろうとしている人間とそれをやろうともしない人間は違うのではないかと思う。</p> <p>ひとえに偽善を指摘する議論だとしても、これが具体的な善を想定した上で偽善を指摘する議論であれば特に問題ではない。ただ、具体的な善を想定しないまま偽善だけが指摘される状態は歪である。その瞬間から偽善批判は、ただ問題を先送りにするもの、弱者を我々の手の届かない不可知の位置に置くものでしかなくなるのだ。つまり、達成不可能なものとして善を定義することで、善を無価値化してしまうのである。彼らはまるで、善行の審査員のような立ち位置にいる。自分は何もしないまま、偽善を指摘し、完全な善でなければ無意味であるとせせら笑うのである。</p> <h4 id="4うしろめたさと同居すること"> 4.うしろめたさと同居すること</h4> <p>こうした審査員気分で行われる「偽善」の断罪は、その実、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B4%FB%C6%C0%B8%A2%B1%D7">既得権益</a>者の遊戯に過ぎない。</p> <p>偽善を批判することで何もしない者たちの方がましな人間であるかのように演出してしまう。</p> <p>それにより、社会問題の解決を無意味で無価値であるかのように語ってしまうのだ。しかしそれらの議論によって溜飲を下げているのだとすれば、それは何もしないでいる自分を安心させているだけだ。</p> <p>全員を救うことなど不可能だと言ってみせるその諦観こそが達観であるかのようにみせること。そのようにして、何もしないでいる自分を慰撫すること。彼らのやっているのはそういうことだ。</p> <p>諦めムードや弱気な気分に流されてしまうことがあるのは仕方がない。誰しも向き合いたくない問題というものはあるだろう。勿論、「これをやらなければお前は悪人だ」とまるで脅すのように倫理を語る人々には若干の息苦しさを感じるというのも理解はできる。</p> <p>所有資産4500万ドルのほぼすべてを寄付した上に、自分の片方の腎臓まで寄付したクラヴィンスキーを<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A1%BC%A5%BF%A1%BC%A1%A6%A5%B7%A5%F3%A5%AC%A1%BC">ピーター・シンガー</a>はこう評した。</p> <blockquote> <p>彼は、算術に基づいて<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%F8%C2%BE%BC%E7%B5%C1">利他主義</a>を実践する。腎臓を寄付した結果死ぬ確率が四〇〇〇分の一にすぎないことを報告する論文に言及しつつ、腎臓を寄付しないことは、自分の命が他人の命の四〇〇〇倍に値すると言うに等しいと、彼は主張する。彼にとって、そんなことはとても正当化できないのだ。(『あなたが世界のためにできるたったひとつのことー〈効果的な<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CD%F8%C2%BE%BC%E7%B5%C1">利他主義</a>〉のすすめ』)</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140816929/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41XYmINlV%2BL._SL160_.jpg" alt="あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140816929/kyotaro442304-22/">あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A1%BC%A5%BF%A1%BC%A1%A6%A5%B7%A5%F3%A5%AC%A1%BC">ピーター・シンガー</a>,関美和</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/NHK">NHK</a>出版</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2015/12/19</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> <li><a href="http://d.hatena.ne.jp/asin/4140816929/kyotaro442304-22" target="_blank" rel="noopener">この商品を含むブログ (5件) を見る</a></li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> </blockquote> <p>結果シンガーは、 クラヴィンスキーを「聡明な人物」と評するわけであるが、これのような断言には少しばかり疑問を呈さざるを得ない。我々がそれによって多くの人が救われると思っても腎臓を摘出できないのは、単純に「自分の命が他人の命の四〇〇〇倍に値すると言」いたいからではない。たとえ命は平等に同じ価値を持つと考えてはいても、腎臓を摘出することに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>な抵抗が存在することは想像に難くない。無論、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%F9%CD%F8%BC%E7%B5%C1">功利主義</a>者<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A4%AB%A4%E9%A4%B7">からし</a>てみれば、他人の命よりも自身の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>な抵抗を優先することは倫理的な判断ではないということかもしれない。しかし、それでもなお、自分の腎臓を摘出し寄付することへの抵抗感を感じることは、自分の命が他人の命の四〇〇〇倍に値すると宣言することと等しいわけではないのだ。</p> <p>なかなか合理的な判断を優先することのできない感覚、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>抵抗感や身体性を持ってしまっている人間は存在する。一部の<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%E9%CA%CA%BE%C9">潔癖症</a>的<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%F4%A5%A3%A1%BC%A5%AC%A5%F3">ヴィーガン</a>が、健康上の理由で肉食をせざるを得なかった<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%F4%A5%A3%A1%BC%A5%AC%A5%F3">ヴィーガン</a>実践者に対して人格攻撃を行った事件にも同じような息苦しさを感じずにはいられない。自身の不合理な判断に向き合おうとしていない人間に対して厳しくなるのは理解できるとしても、向き合おうとしている人間に対して、倫理を人質にそれらの要求を突きつけることあまりに潔癖的だ。これは何もピーターシンガーのような<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%F9%CD%F8%BC%E7%B5%C1">功利主義</a>者に限った話ではない。今の社会には潔癖にならざるを得ないような息苦しさがある。</p> <p>しかし、一方で完全な形で善を行うことが不可能であるから現実の問題に取り組まなくて良いというような態度で開き直るのも違うと思わざるを得ない。</p> <p>それもそれで<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%E9%CA%CA%BE%C9">潔癖症</a>に毒されているのだ。自分に後ろめたさが一切なくならなければ生きていけない、少しでも自分に悪いところがあると考えたら生きていけなくなるような感覚というのは根本的にどこか危うい。無論、必ずしもその感覚を持ちたくて持っているわけではないだろうが。</p> <p>誰しも聖人君子ではいられないのだから少しずつ前に進むことしかできない。</p> <p>必要なのは後ろめたさを抹殺することなく適度な距離感で同居することである。達成不可能に思えるものを達成可能にすべく努力することなしに現実の改善は起こらない。自分が向き合える問題に少しずつ向き合える範囲で向き合わねばならないのではないだろうか。</p> <p> </p> <p>《次回記事と参照文献》</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="自己責任論と共感性 - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2019%2F11%2F06%2F225051" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2019/11/06/225051">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140816929/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41XYmINlV%2BL._SL160_.jpg" alt="あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140816929/kyotaro442304-22/">あなたが世界のためにできる たったひとつのこと 〈効果的な利他主義〉のすすめ</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D4%A1%BC%A5%BF%A1%BC%A1%A6%A5%B7%A5%F3%A5%AC%A1%BC">ピーター・シンガー</a>,関美和</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/NHK">NHK</a>出版</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2015/12/19</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> <li><a href="http://d.hatena.ne.jp/asin/4140816929/kyotaro442304-22" target="_blank" rel="noopener">この商品を含むブログ (5件) を見る</a></li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4826902018/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="反共感論―社会はいかに判断を誤るか" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/31kk2O9s9uL._SL160_.jpg" alt="反共感論―社会はいかに判断を誤るか" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4826902018/kyotaro442304-22/">反共感論―社会はいかに判断を誤るか</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span> ポール・ブルーム,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E2%B6%B6%CD%CE">高橋洋</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/02/02</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> <li><a href="http://d.hatena.ne.jp/asin/4826902018/kyotaro442304-22" target="_blank" rel="noopener">この商品を含むブログ (2件) を見る</a></li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309616836/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="偽善のすすめ: 10代からの倫理学講座 (14歳の世渡り術)" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51oz0i--NRL._SL160_.jpg" alt="偽善のすすめ: 10代からの倫理学講座 (14歳の世渡り術)" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309616836/kyotaro442304-22/">偽善のすすめ: 10代からの倫理学講座 (14歳の世渡り術)</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D1%A5%AA%A5%ED%A1%A6%A5%DE%A5%C3%A5%C4%A5%A1%A5%EA%A1%BC%A5%CE">パオロ・マッツァリーノ</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B2%CF%BD%D0%BD%F1%CB%BC%BF%B7%BC%D2">河出書房新社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2014/02/13</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本(ソフトカバー)</li> <li><a href="http://d.hatena.ne.jp/asin/4309616836/kyotaro442304-22" target="_blank" rel="noopener">この商品を含むブログ (5件) を見る</a></li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> </p> <p> </p> <p> </p> tatsumi_kyotaro 「真の弱者」はどこにいるのか~「キモくて金のないオッサン(KKO)」論の誤謬~ hatenablog://entry/26006613386701195 2019-08-12T23:09:00+09:00 2022-08-16T10:58:57+09:00 0.前回までのあらすじ 1.「真の弱者」論 2.「キモくて金のないオッサン(KKO)」論 3.弱者性のブランド化、同情の再分配 4.同情(承認)争奪戦としての弱者論争 0.前回までのあらすじ 前回の記事で、人間には弱者や被害者の存在を否認することでこの世界を正常だと思い込もうとしてしまう心理的傾向があることを確認した。被害者や弱者にも責任があると思えば、この世界は変なことをしない限り酷い目に遭わないと錯覚できる。被害者や弱者の自己責任にしてしまえば、自分は何も考えなくても済むというわけである。そのような心理傾向は公正世界仮説と呼ばれる心理的誤謬であり、これが弱者叩き、被害者叩きの原因となること… <ul class="table-of-contents"> <li><a href="#0前回までのあらすじ"> 0.前回までのあらすじ</a></li> <li><a href="#1真の弱者論">1.「真の弱者」論</a></li> <li><a href="#2キモくて金のないオッサンKKO論">2.「キモくて金のないオッサン(KKO)」論</a></li> <li><a href="#3弱者性のブランド化同情の再分配">3.弱者性のブランド化、同情の再分配</a></li> <li><a href="#4同情承認争奪戦としての弱者論争">4.同情(承認)争奪戦としての弱者論争</a></li> </ul> <h4 id="0前回までのあらすじ"> 0.前回までのあらすじ</h4> <p>前回の記事で、人間には弱者や被害者の存在を否認することでこの世界を正常だと思い込もうとしてしまう<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>傾向があることを確認した。被害者や弱者にも責任があると思えば、この世界は変なことをしない限り酷い目に遭わないと錯覚できる。被害者や弱者の自己責任にしてしまえば、自分は何も考えなくても済むというわけである。そのような心理傾向は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%F8%C0%B5%C0%A4%B3%A6%B2%BE%C0%E2">公正世界仮説</a>と呼ばれる<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BF%B4%CD%FD%C5%AA">心理的</a>誤謬であり、これが弱者叩き、被害者叩きの原因となることを前回の記事で解説した。</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="人はなぜ弱者や被害者を責めるのか~公正世界仮説、公正世界信念~ - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2019%2F05%2F04%2F220336" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2019/05/04/220336">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <h4 id="1真の弱者論">1.「真の弱者」論</h4> <p>今回はいくつかある典型例として、「真の弱者」論を取り上げたい。具体的には次のような主張がそれだ。</p> <p><em><span style="color: #ff0000;">”弱者は救われなければならないが、お前たちは真の弱者ではない。お前たちのせいで真の弱者は隅に追いやられている”</span></em></p> <p>これは権利の主張を行う弱者に対して発せられる主張である。</p> <p>「お前たちは真の弱者ではない」という主張の裏には、「真の弱者」はもっと深刻で弱者問題としてすら表面化しないような存在であるという前提がある。</p> <p><span style="color: #1464b3;">このような主張は、一見この世界の理不尽と向き合い弱者の存在を認めているように思える。</span></p> <p>弱者の存在を認めた上で、他に救われるべき弱者がいるという言説であると読むのであれば、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%F8%C0%B5%C0%A4%B3%A6%B2%BE%C0%E2">公正世界仮説</a>とは関係のない主張のように捉える人がいるかもしれない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">しかし、本当にそうだろうか。</span></p> <p>これを仮に「AよりもBという問題が優先されるべきである」という主張であると捉えるなら、それが正当な判断かどうかを置いておけば、それを主張すること自体は殊更非難されるべきものではないだろう。同じリソースを割くのであれば、より効率性を重視してBの方にリソースを回すべきであるというものであるなら、それ自体は検討されるべき主張としての正当性を持つかもしれない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">だが、これを主張する人間がBを解決すべきだという主張に重きを置いているのではなく、ただAの解決を主張する者達を黙らせる為にこのような主張を行っている場合はどうだろう。</span></p> <p>「真の弱者は、抑圧され、差別され、まともに生きることさえ困難な人々である。お前たちのように、被害を訴え権利を主張するような暇などない。よって、お前たちのような余力のある存在は真の意味では弱者ではない」というようなことを言う人間はいる。</p> <p><span style="color: #1464b3;">しかし、権利を主張するような余力があるのだから権利を主張すべきではないという言説は妥当ではない。</span></p> <p>こんな言説がまかり通るなら、弱者や被害者は永遠に声を上げる事が出来ない。そして誰にも気が付かれなければその問題は闇に葬られるだけである。<strong>その人間が不利な立場にいるのかそうでないのか、という議論にその当事者の余力は関係がない。</strong></p> <p>そんな時は、試しに次のような質問をすると良いかもしれない。</p> <p>「お前は、Bの問題を優先するというが、Bという問題を解決すべく普段何をしているのか」</p> <p>「Bの問題を優先的に解決するとして、Aの問題にはどのようにリソースを割くのが適当か」</p> <p>もしこの二つの疑問に対して答えを用意していないだけならまだしも、考えるそぶりさえ見せないのであれば、それはただ単に「Aが救われるのは納得がいかない」という感情に基づいているのではないか。</p> <p>物言わぬ弱者のために一体何ができるのか、どのように問題解決のリソースを割くのか、という点が提示されないまま、ただ目の前にいる権利主張者に罵声を浴びせるというのであればそれは不当な言説であろう(そもそも物言わぬ弱者を発見する術を彼らが獲得しているのかという点から既に問題であるが)。</p> <p><strong>そして、そうした不当な言説の一つとして弱者利権仮説とでもいうべきものが存在する。</strong></p> <p>たとえば、下記のような主張だ。</p> <p><em><span style="color: #ff0000;">”「弱者」は守ってもらったり色々な補助を受けられるし、その弱者性で「強者」を批判したり出来る。その点、「強者」は誰からも支援されることはないどころか、「弱者支援」の為に費用を負担する羽目になっている。”</span></em></p> <p>具体例を挙げるなら、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%E1%A5%EA">アメリ</a>カの黒人や女性に対する<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%D5%A5%A1%A1%BC%A5%DE%A5%C6%A5%A3%A5%D6%A5%A2%A5%AF%A5%B7%A5%E7%A5%F3">アファーマティブアクション</a>に対する主張がこれにあたる。勿論、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%A2%A5%D5%A5%A1%A1%BC%A5%DE%A5%C6%A5%A3%A5%D6%A5%A2%A5%AF%A5%B7%A5%E7%A5%F3">アファーマティブアクション</a>には様々な問題点が存在するが、それが弱者特権であるという形容は適切ではないように思える。</p> <p>本邦でも、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%B8%B3%E8%CA%DD%B8%EE">生活保護</a>受給者に対して、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C0%B8%B3%E8%CA%DD%B8%EE">生活保護</a>受給者は何もしていないのにタダで金を貰える特権を持っているのだというような議論が見られた。</p> <p>こうした言説は再分配を罰金と捉え、弱者への配慮を特権待遇と読み替えている。そもそも存在する弱者と強者の間にある権力関係を無視したまま、それを補うための政策の不公平感のみに焦点を当てているのである。</p> <p>しかし、こうした議論により彼らは何を言おうとしていたのだろうか。</p> <h4 id="2キモくて金のないオッサンKKO論">2.「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KKO">KKO</a>)」論</h4> <p>弱者には特権があると主張するような弱者利権仮説はいたるところで散見されるものの、それがどのような動機によって行われているのかについてはあまり言及されていないように思える。</p> <p>それを分かりやすく理解する為にここで実例を取り上げたい。ネットで一時期取り沙汰された「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」論である(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KKO">KKO</a>、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A5%AB%A5%CD">キモカネ</a>」とも略される為、以下「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」=<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KKO">KKO</a>=<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A5%AB%A5%CD">キモカネ</a>として扱う)。</p> <p><span style="color: #1464b3;">「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」論は、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」が弱者であるにも関わらず誰からも同情してもらえないことを問題にした議論である。</span>つまり、<strong>「本来弱者として扱われるべき存在が弱者として扱われていない不公平」を取り扱あったものである。</strong></p> <p>これを読んでいる人の中には下らないネットの与太話をいちいち取り上げるなんて野暮なことだと思われる方もいるかもしれない。無論、そこまで丹念に検証する必要もないだろうが、こうした論調が一定の説得力がある言説として受け入れられ盛り上がりを見せたこと自体はもう少し注視すべきだろう。<span style="color: #1464b3;">というのも、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KKO">KKO</a>)」論は別に「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KKO">KKO</a>)」を救済せよという議論ではなかったからだ。</span></p> <p>具体的な救済策とは比較的無縁だった「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」論がもてはやされたのには理由があるし、その理由の考慮から問題解決の為の視野を得られるのではないかと思う。</p> <p><span style="color: #1464b3;">ここで重要なのは「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KKO">KKO</a>)」は単一の要素で成り立っていないということだ。</span></p> <p><strong>「金のない」ことが問題ならそれは単に貧困問題である。</strong>しかし「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KKO">KKO</a>)」論を展開する人々はそこに問題の本質があるのではないと言う。</p> <p>これは一体どういうことだろうか。あらゆる貧困問題では「キモいオッサン」は除外されて弾かれてしまうという主張なのだろうか。おそらくそうではない。</p> <p>では、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KKO">KKO</a>)」にはお金の問題が関係ないということだろうか。しかし、それなら「金のない」という論点を一つ追加して複雑にするよりも、単に「キモいオッサン」の問題として語った方が適切だろう。</p> <p>そもそも「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」の問題を解決する為の議論をするのであれば、その構成要素一つ一つについて個別に議論で行うべきである。つまり、「容姿」「お金」「年齢」それぞれについて解決策を考えるべきであって、それをむやみに複合させて議論を複雑化させるべきではない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">「生き辛さの要素は複合されることによって辛さを増すのだ」という主張だとしても同様である。</span>それならむしろ、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」が「キモくて金のないオバサン」でなかったのはなぜかという点を疑問視すべきだろう。彼らは「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」は「キモくて金のないオバサン」よりも悲惨であると言いたかったのかと言われればおそらくそれも違うだろう。</p> <p>「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」論の主眼は、「<strong>男性」というひとくくりに強者あつかいされてしまう属性の中に同情されるべき「弱者」がいると主張することにあるのである。</strong></p> <p>しかし、ここで注意しなければならない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">「男性」という属性を持った人々の中にも強弱の関係があり、相対的な弱者がいるという事実は、ある属性同士の力関係において「強者」「弱者」という構図が存在しないことを意味しない。</span></p> <p><strong>それは単純に「強者」「弱者」という構造は常に文脈依存的かつ属性が複合的に影響し合った結果として存在することを示している。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」という概念が示唆しているのは「キモくて」「金のない」、「壮年」という属性が「男性」という属性と組み合わさっても総合的には弱者の位置を占めてしまうこともあるということである。</span></p> <p>ここから導き出せる結論は、弱者性や強者性は常に変動的かつ複合的に組み合わさるということであって、特定のレイヤーにおける「強者」「弱者」という構図が存在しないことを意味しない。</p> <p><span style="color: #1464b3;">「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」の存在は、それ単体では男性と女性の間にある格差構造の否定にはならない。</span></p> <p>弱者利権、弱者特権を指摘するような議論では、しばしば既存の弱者が強者であるような空間を指摘してみせたり、既存の強者が弱者になってしまうような空間を持ち出して議論をしようとする。たとえば、一時期スーパーのカートが女性の身長に合わせて作られていることを指摘して女性の特権であると強弁するような議論があった。</p> <p><span style="color: #1464b3;">しかし、結局のところそのような空間が生まれてしまった理由や背景を考えなければ問題の根本の解決にはならないだろう。</span></p> <p>結局、「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」論も、全体としては具体的な解決方法の模索という方向には繋がらなかった(勿論、具体的な解決策を模索する方向でそれを取り上げる人も少なからずいた)。そのため、この論は「真の弱者」論的な、弱者利権、弱者特権を指摘するだけの相対化ゲームに悪用されてしまったのだ。</p> <p>ではなぜ「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」があそこまで語られることになったのか。</p> <p><strong>具体的な解決は全て各々のレイヤーで行われるべきものであって、複合的に語ったところでまるで意味はない。</strong>それでも尚、この問題が複合的なものとして語られたのは、<span style="color: #1464b3;">男性(強者)と一括りにされてしまう人の中にも弱者</span><span style="color: #1464b3;">がいるという事実自体が、それを語る者にとって意味を持っていたからである。</span></p> <p>しかし、「弱者なのに弱者に見られないということが問題である」というのは一体どのような意識によって発生しているのであろうか。</p> <p>そこで出てくるのが、如何に同情されるべきかという論点である。</p> <h4 id="3弱者性のブランド化同情の再分配">3.弱者性のブランド化、同情の再分配</h4> <p>「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」を代表とする弱者利権仮説、「真の弱者」論は、今まで弱者と見做されていたものが実は強者なのであり、強者と見做されていたものが弱者であることを指摘して見せることが目的であった。</p> <p>しかし、その行為が問題解決以外でどのような意味があるのだろうか。なぜそこまで弱者性に<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%C7%BC%B9">固執</a>するのか。</p> <p>それは、具体的なリソースの再分配の話ではなく同情(承認)の問題である。</p> <p><strong>実際のリソース配分など誰も問題にはしていないのである。</strong></p> <p><span style="color: #1464b3;">単純な再分配論よりも、同情(承認)の方が重要な要件と見做されてしまうのだ。</span></p> <p>それは、弱者に同情が集まることが一種の利権、特権と解釈されていることに関係している。</p> <p><span style="color: #1464b3;"> 「真の弱者」論の根底にあるのは、弱者に同情が集まることへの怒りである。</span>つまり、弱者が救済対象として選定されるその過程に彼らは反発しているのである。弱者に視線が集まる過程そのものへの嫌悪がここに現れている。</p> <p>「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」論のような弱者利権仮説はそれを指摘して見せることで、同情の視線が弱者に集まっている事態に対して何かを語ろうとする動きであるのだ。</p> <p>「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」論が支持されたのは、同情(承認)されない存在としての「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」に意義があったからではないか。そう考えれば、「キモさ」が「貧困」と結びつけられてしまう不可解さにも納得がいく。</p> <p><strong><span style="color: #1464b3;">彼らが語っていたのは、実際の救済策の問題ではなく、同情の再分配の問題である。</span></strong></p> <p>この点を考えると、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>論は対立煽りでしかないというのは、一見もっともであるがナンセンスな批判である。<span style="color: #1464b3;">なぜなら、それを主張する者にとっては、対立を煽りこそが必要条件であるからだ。</span></p> <p>人間の感情が平等に分配できない以上、平等に全ての弱者に同情を与えるということは不可能だ。人間は、特定の者、ある限られた範囲の者にしか同情することができない。</p> <p>だから「如何に同情(承認)されるべきか」という問題にする場合、そのリソースは限られてしまう。よって、少ないリソースの奪い合いという形で論が展開されるのはある意味で必然だ。</p> <p>同情(承認)を獲得するにはどうすればいいか。それは他者が得ている同情(承認)の割合を減らし、別の人に割り当てること、つまり同情の再分配を行うしかない。</p> <p><strong>両方同時に解決することが可能だという主張が真っ先に退けられてしまうのはそのためである。</strong>両方どちらかなんて不可能だと議論の前から結論付けているのは、同情(承認)のリソースが限られているからである。この議論は、「弱者性」が同情(承認)を勝ち取るためのブランドのようなものであるという認知を前提としている。</p> <p><span style="color: #1464b3;"><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BC%D2%B2%F1%CA%DD%BE%E3">社会保障</a>はどうあるべきか、問題解決は如何に行われるべきかという議論を、同情という私的な感情を軸に進めるべきではない(勿論、モチベーションとしての同情それ自体は否定しない)。</span>これについてはポール・ブルームの『反共感論』が主な論点をまとめている。目新しさこそないものの、論点整理の為には有用なのでこの記事では触れないが、別途触れる機会があるだろう。</p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4826902018/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="反共感論―社会はいかに判断を誤るか" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/31kk2O9s9uL._SL160_.jpg" alt="反共感論―社会はいかに判断を誤るか" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4826902018/kyotaro442304-22/">反共感論―社会はいかに判断を誤るか</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span> ポール・ブルーム,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E2%B6%B6%CD%CE">高橋洋</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/02/02</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> <li><a href="http://d.hatena.ne.jp/asin/4826902018/kyotaro442304-22" target="_blank">この商品を含むブログ (2件) を見る</a></li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <h4 id="4同情承認争奪戦としての弱者論争">4.同情(承認)争奪戦としての弱者論争</h4> <p><span style="color: #1464b3;">結局<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KKO">KKO</a>論は、既存の社会運動では救えない弱者がいるということを得意げに指摘してみせるだけのゲーム的な論争へ利用されるだけの言説になり果てた。</span></p> <p>よって、一見それらの議論が弱者について語っているようでも、その本質は<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CE%E4%BE%D0%BC%E7%B5%C1">冷笑主義</a>である。具体的な解決策の提言になっていない以上、それは既存の弱者の存在を否認する効果しか発揮しないのである。<span style="color: #1464b3;">言い換えれば、同情ゲーム化した<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KKO">KKO</a>論は既存の弱者と社会運動を相対化して無効化する為に「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KKO">KKO</a>)」こそ「真の弱者」であると設定しているに過ぎない。</span></p> <p>これらは「真の弱者が救われるべき」という点に重きが置かれているのではなく、<strong>「いちいち同情を求めるな、黙っていろ」</strong>という部分にこそ主眼がある。それは権利主張あるいは被害の告発を同情や共感性の問題にすり替えてしまっているのだ。</p> <p>今までスポットライトが当たらなかった弱者として「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>(<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/KKO">KKO</a>)」を取り上げたとしきりに吹聴する者もいるが、そうであるなら、尚のこと「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」が「キモくて金のないオバサン」ではなかったことの方が問題なのだ。</p> <p>彼等の議論はスポットライトによって照らされる場所をずらしたに過ぎない。スポットライト(同情)が特定の方向にしか向けない以上、それは弱者性の取り合いでしかない。<span style="color: #1464b3;">「<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AD%A5%E2%A4%AF%A4%C6%B6%E2%A4%CE%A4%CA%A4%A4%A5%AA%A5%C3%A5%B5%A5%F3">キモくて金のないオッサン</a>」論も結局「キモくて金のないオバサン」の存在を覆い隠してしまっているのである。</span></p> <p>このような同情(承認)論へのすり替えが<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%F8%C0%B5%C0%A4%B3%A6%B2%BE%C0%E2">公正世界仮説</a>的な認知によるものであることは言うまでもない。<span style="color: #1464b3;"><strong>このような弱者利権仮説的な問題意識の根底にあるのは、</strong><strong>同情されるべきでない人間が不当に同情(承認)を集めているというような不公平感である。</strong></span>そのような不公平感は、弱者は不当に同情(承認)を得ているという認知に基づいている。そして、このような認知は具体的な不平等やリソース不足を認めない傾向にある。だから「真の弱者」論に見られる弱者利権仮説的な考えは、弱者の存在を認めているようで認めていないのである。</p> <p>具体的な分配論ではなく、同情(承認)の問題として捉えてしまうというのは、まさに<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B8%F8%C0%B5%C0%A4%B3%A6%B2%BE%C0%E2">公正世界仮説</a>的な認知が関わっているのだ。</p> <p>そして、付言するなら我々が取り組むべきは同情されるべきは誰かというようなスポットライトの奪い合いではない。スポットライトが当たらない人々も平等に扱われるような社会制度の構築である。</p> <p><span style="color: #1464b3;">また、<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EB%A5%B5%A5%F3%A5%C1%A5%DE%A5%F3">ルサンチマン</a>によって歪んだ議論でなければ、人々の承認欲求についてはもっと話し合われてもよいのではないかと思う。</span><a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>的文脈においては、承認欲求や人生の価値についてのプライベートな問題は、所詮各自が解決すべき話でしかないと言われるかもしれない。<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%E9%A5%EA%A5%BA%A5%E0">リベラリズム</a>は個人の価値観の問題に踏み込まないと同時に、各人が抱える生き辛さの問題にも介入しない。しかし、私は人生をより豊かにするためにはどうすればよいのか、共同で模索するような空間、生き辛さを語り合うようなコミュニティは必要なのではないかとも思うのだ(↓以下、そのような模索を実践しているコミュニティの紹介。随時追加)。</p> <p>・<a href="https://uchu-lib.hatenablog.com/">うちゅうリブ</a></p> <p> </p> <p> 【次回記事と参考文献】</p> <p><iframe class="embed-card embed-blogcard" style="display: block; width: 100%; height: 190px; max-width: 500px; margin: 10px 0px;" title="偽善者叩き、偽善批判の問題点 - 京太郎のブログ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Ftatsumi-kyotaro.hatenablog.com%2Fentry%2F2019%2F10%2F15%2F005751" frameborder="0" scrolling="no"></iframe><cite class="hatena-citation"><a href="https://tatsumi-kyotaro.hatenablog.com/entry/2019/10/15/005751">tatsumi-kyotaro.hatenablog.com</a></cite></p> <div class="freezed"> <div class="hatena-asin-detail"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4826902018/kyotaro442304-22/"><img class="hatena-asin-detail-image" title="反共感論―社会はいかに判断を誤るか" src="https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/31kk2O9s9uL._SL160_.jpg" alt="反共感論―社会はいかに判断を誤るか" /></a> <div class="hatena-asin-detail-info"> <p class="hatena-asin-detail-title"><a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4826902018/kyotaro442304-22/">反共感論―社会はいかに判断を誤るか</a></p> <ul> <li><span class="hatena-asin-detail-label">作者:</span> ポール・ブルーム,<a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%E2%B6%B6%CD%CE">高橋洋</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">出版社/メーカー:</span> <a class="keyword" href="http://d.hatena.ne.jp/keyword/%C7%F2%CD%C8%BC%D2">白揚社</a></li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">発売日:</span> 2018/02/02</li> <li><span class="hatena-asin-detail-label">メディア:</span> 単行本</li> <li><a href="http://d.hatena.ne.jp/asin/4826902018/kyotaro442304-22" target="_blank">この商品を含むブログ (2件) を見る</a></li> </ul> </div> <div class="hatena-asin-detail-foot"> </div> </div> </div> <p> </p> tatsumi_kyotaro