京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

バッドエンドと金太郎飴~乙女ゲー&ギャルゲー考察~

0.前置き 

先に次回記事について予告をしておきたい。次回の記事はそもそも恋愛とは何か、幸福とは何かについてムジールの『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑 (岩波文庫)』やシェイクスピアロミオとジュリエット』を引用しながら考察する記事となる(無論、恋愛セミナーや新興宗教の広告のようなポエム記事を書くわけではない)。

前回記事ではなぜ乙女ゲーにおいて主人公≠プレイヤーであるのかという謎が残ったが、それを解き明かすためには、やはり恋愛と幸福の性質について言及する必要があるだろう。(前回記事↓)

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

 

今回の記事は、乙女ゲームとギャルゲーの違いについて、ルート分岐(一つのスタート地点から始まって、複数のエンディングにたどり着くまで、選択肢によってシナリオが枝分かれしていく状態)やマルチエンディング(ルート分岐によって複数のエンディングが用意されている状態)という観点から考察を進める。前回以上に、ゲームの知識がないと読む事が難しいかもしれないが、その分面白い比較検討になっていると思う。

では、早速以下本題。

1.ルート分岐というシステム

ギャルゲーと乙女ゲーには、ルート分岐が存在している。ルート分岐というのは、簡単に言えば、選択肢によってパラレルワールド(平行世界)が存在している状態の事だ。ノベルゲームには複数のエンディングが用意されており、プレイヤーが選ぶ選択肢でどのエンディングに辿り着くかが決まる。つまり、一つのゲームスタート地点に対して、エンディングが複数あるので、当然そのエンディングまでの道筋は、スタート地点から見て段々と増えていくことになる。共通のゲームスタート地点から始まる複数のエンディングまでのストーリーの道のり(ルート)が、選択肢によって増えていく事、これがルート分岐である。

例えば、A・B・Cという3人の攻略キャラクターの内の誰かが主人公の恋人になる場合、Aと恋人になる展開を、「Aルートに入る」と言ったりする。

2.乙女ゲームとギャルゲーのルート分岐

乙女ゲーとギャルゲーではこのルート分岐に対する捉え方がそもそも違うのである。というより、ギャルゲーにおいて、「名作」と呼ばれているものにはルート分岐がそもそも存在していない事も多い。例えば、『マブラヴ』は攻略キャラクター毎の個別シナリオ(ルート)というものがそもそも存在しない。『CROSS†CHANNEL』では、そもそも正解の選択肢を選ばないと強制的に物語がループするようになっている為エンディングは一種類である。『車輪の国、向日葵の少女』もやはりシナリオは一本道で、攻略キャラクター毎のエンディングというものはない。最近リメイクと続編が出た『うたわれるもの』もやはり同じである。ギャルゲーにおいて「名作」の評価を受けるにあたっては、ルート分岐があろうがなかろうが問題がないのである。

対して乙女ゲーはどうか、ルート分岐がない、シナリオが一本道の乙女ゲーはあまり聞き及ばない。大御所の作品群はどれもルート分岐を備えている。

また、ルート毎にシナリオが大して変化しないようなシナリオ、つまりどのルートに行っても恋愛相手のキャラクターが違うだけでやる事も変わらないシナリオは「金太郎飴」と呼ばれ乙女ゲープレイヤーから酷く忌避される要因となる。以下引用。

”金太郎飴

シナリオについて用いる言葉で、どこを切っても同じ絵が出てくる「金太郎飴」に例えて、誰を攻略していても内容が大して変わり映えしないことを指します。”(http://otome-renaigame.pxxq.info/pg05.html

(↓金太郎飴。どこを切っても断面が同じであることから、どのルートをやっても同じシナリオの乙女ゲーに対して「金太郎飴」という言葉が使われている。)

金太郎飴 小棒 2本入り

金太郎飴 小棒 2本入り

 
金太郎飴400g

金太郎飴400g

 

(※上:切る前、下:切った後)

ルート毎に代わり映えしないストーリー展開をする乙女ゲーは「金太郎飴」と呼ばれ、マイナスの評価を受けてしまうことがある。乙女ゲーにおいては、ルート毎に特色が求められるのである。

では、ギャルゲーはどうだろうか。

ギャルゲーのヒット作には、攻略キャラクターが違ってもゲーム内容やストーリーが大きく変わらない作品が多々ある。一世を風靡した『ラブプラス』も、ルート毎に特色があるストーリー展開があるわけではなく、ひたすらに攻略キャラクターとの恋人シチュエーションを楽しむゲームである。

更に言えば、ギャルゲーにおいてルート分岐は、攻略キャラクター(主人公=プレイヤーの恋人候補)を多く出す為だけに採用されているだけというのは珍しいことではない。だからその発想の延長として、ハーレムエンド(攻略キャラクター全員が主人公に惚れている状態)が存在するのである。(勿論例外もある。『YU‐NO』『EVER17』などはルート分岐というシステムそのものをテーマにしている。)

3.二種類のバッドエンド

このようなルート分岐に対するスタンスの違いは、バッドエンドの質の差にまで影響してくる。

ギャルゲーにおけるバッドエンドは、ゲーム内に用意されたペナルティ、つまりコンティニューをさせる為の、ゲームオーバーとしてのバッドエンドである事が多い。こちらは、プレイヤーが失敗した時の罰ゲーム的ものとして存在する。

例えば、『家族計画』においては主人公が家族計画を途中でやめて物語が進行しなくなるバッドエンドが存在するし、『CLANNAD』では主人公がキャラクター達との関係を避けてそのまま日常生活を続ける汎用バッドエンドが存在する。『Fate』に至ってはそのDead End(主人公が死ぬ場面)の多さは当時から話題になっていた。恋愛ゲームではないが『428~封鎖された渋谷で』におけるギャグエンドも、このようにゲームオーバー的バッドエンドに当たるだろう。この手のバッドエンドは「ここから先は行き止まり」という表示に過ぎない。

 

ただ読み進めて選択肢を選ぶだけでゲームクリアだと芸がない。それに加えて変な選択肢を選んで主人公がゲーム中で明らかに変な行動を取っているのに、物語がそのまま進行したら不自然で物語的にも不自然に見えてしまう。この手のバッドエンドは「間違った選択肢を選ぶと当然この物語は進みません」というメッセージをプレイヤーに伝える為に用意されている。

”いや、そもそもバッドエンドなんて見てもしょうがないだろ。なんでわざわざゲームの世界でも不幸にならなきゃいけないんだ。こっちは楽しくなりたくてやっているのに。”

そう思う人もいる事だろう。だからこそ、主人公=プレイヤーであるギャルゲーにおいては、バッドエンドは基本的にストーリーの行き止まりとして存在している。当然、そのバッドエンドはエンディングではない。物語がこれ以上進みませんというゲームオーバー的なもの、プレイヤーにコンティニューを促すものでしかない。だからエンドロールも流れない。

しかし、バッドエンドには、もう一つある。それは、ゲームのエンディングの一つとして用意されたバッドエンドだ。こちらのバッドエンドは、それで一つの物語が終わるようになっている。物語の行きつく可能性の一つとしてのエンディングである。こちらの方は、物語の終わり方の一つとして、バッドエンドが提示される事になる。乙女ゲーにおけるバッドエンドはこの手のバッドエンドである事も多い。

例えば、最近話題となった『DETOROIT』におけるバッドエンドがそれにあたる。乙女ゲーでは、『悠久のティアブレイド』『剣が君』『CLOCK ZERO』『ワンド・オブ・フォーチュン』など、エンディングとしての完成度の高いバッドエンドが存在するゲームも多い。

では、なぜこのような違いが生まれるのか?

それは幸福や恋愛の基本的性質を、より直感的に取り入れるという戦略を乙女ゲーというジャンルが取ってきたからではないだろうか。

さて、今回までの記事で乙女ゲーとギャルゲーのジャンルの性質の傾向の違いを見てきた。次回は根本的かつ本質的な問題、恋愛とは何かについて紐解いていくことにしよう。

【次回記事とゲーム紹介】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

【今回紹介した乙女ゲー】

(左端『ワンド・オブ・フォーチュン』の主人公はとても人気のためボイス(cv堀江由衣)が付いた。右端の『悠久のティアブレイド』はロボット物という異色作、ロボットのデザインは凄い気合が入っている)

【その他ゲーム】

(ミステリー好きなら『Ever17』は外せない。『Fate』はシリーズ自体は大分有名になったものの『Stay night』はプレイされていない印象)

 

(『428』はノベルゲームという概念自体を一新した画期的なゲーム。しかし、画期的過ぎたせいで後続が全く生まれていない。ノベルゲ―ではないものの、『Detoroit』は似たようなコンセプトで日本でも話題に)