京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

自粛疲れと自粛警察

正直、愚痴りたい。

愚痴りたいのだが、コロナショックが混乱を引き起こしそうなこの状況でいきなり愚痴から入るのもどうかと思うので、まずは基本的なことについて、共有できる常識的なことについて話していくことにしよう。

こういう事態には正確な危機管理能力が求められる。

慌てず冷静な判断能力を働かせること、日々洪水のように流れてくる情報を吟味すること、そしてリスクを侮らないこと、軽率な行動をとらないことである。

口で言うのは簡単だが、人間こう思っていてもそれを日々続けるには忍耐力やら精神力が必要になる。危機的な状況であるという認識の共有(と自粛しない者へのバッシング?)を求められ、いつ自分が加害者(裏切り者?)になるかも分からないようなギスギスとした人間関係の中に身を置き、今まで(「消費せよ」「考えるな」)とは全く違う生活を余儀なくされるというのは過酷なことだ(変わってないのは「権力にしたがえ」くらいだろうか、尚、私は黒いサングラスなど拾っていない)。如何にこうした態度を持続可能にするかというのも重要なことだろう。

ともあれ、劇的な解決法や、完璧な生存戦略など存在しない。やることはひたすらに地味である。

あまり人込みには近寄らず、手洗いうがいを心掛けること、とにかく予防を心掛ける。洗顔なんかも良いらしい。最近は寒さも薄れてきたので、心地よく顔を洗える時期になってきた。

私は花粉症なので(毎年4月にひどくなるのはヒノキ花粉なのだろうか? 同じ症状の人が周りにいない)花粉を落とすついでのつもりで顔を洗う。

仕事がある人にとっては、したくもないのに通勤しなければならない場合も少なくないだろう(正直、みんなが休業出来るような体制を政府が用意してくれればよいのだが)。

やはりその場合もマスクをして、人との接触を避け、不用意にものを触らないのが一番だ。

この新型コロナ、今はまだそこまで爆発的な感染を起こしていないが今後はどうなるか分からない。症状が重症化し、間質性肺炎を起こせば予後不良になる可能性もある。間質性肺炎というと特発性肺線維症(命にかかわる難病)などを連想して、肺がんよりもリスクが高いという情報を広めている人もいるようだが、今のところ真偽は不明である。

ただ、重症化した場合に肺に後遺症が残る可能性もあるとのことなので油断はしないにこしたことはないだろう。

特に喫煙者はリスクが高くなるそうなので、頭に入れておいても良いかもしれない。なお、聞いたところによると短期間での禁煙も効果はあるそうだ。まぁこれはお節介話なので気になったら調べるくらいで良いだろう。

あまり気にしすぎても、ストレスが溜まっては元も子もないし、神経質になりすぎるとそれはそれで免疫が落ちるので感染症対策としてもよくはない。

とにかく、持続可能な範囲で努力するのがよいのかもしれない。

さて、適当に話をすませたところで、本題に入りたい。

といっても、ここに書くことのほとんどは愚痴なので、大した本題ではないのだが。

ともかく愚痴の一つもこぼさせてほしいのである。

在宅ワークはスムーズに進まないし(ノーパソのせい) 、サービス残業しすぎだし(ノーパソのせい)、外出は出来ないし(寂しい)、友人にも会えないし(もっと寂しい)、とにかく定期的に人と喋る機会がないとやってられない人間にとっては気が重くなるような状況である。

そんな中、暇つぶしにと(←これが良くない)SNSを開いてみれば、何やらだいぶ世論(?)がパニック気味なので、余計に気分が悪いのである。

 

というわけで、以下愚痴。

 

コロナ慣れという言葉がある。

正直私自身コロナ慣れはまだしていない。依然として、コロナウイルスには恐怖がある。

手洗いうがいを心掛け、人の密集する場所はなるべく避けつつ、軽率に物に触らないようにしている。それでも、慣れてしまう人がいることは理解できる。そして、慣れてしまった人間による不用意な行動によってコロナ感染のリスクが増えることに怒る人がいるのも分かる。私も、嫌じゃないのかと言われれば勿論嫌だ。

だが、コロナ慣れして、自粛を怠ってしまった人に対して怒る人間が結構な数いるということが全く理解出来ない。理解出来ないというか、全くそうした現象自体には呆れてしまう。間違ってはいけないが、コロナ慣れに怒るなとか、怒っている人間はおかしいとかそういう話をしたいのではない。このコロナ慣れへの怒りが劇場化していること対して呆れてしまうのだ。

例えば、以下のようなツイートは分かりやすく共感を集めている。

 

このツイートに連なるコメントを見ても分かる通り、このツイートへ賛同する人、便乗して怒りを訴える人間は多い。しまいにはネットニュース記事でも取り上げられることになった。

 芸能人にも、「自粛しない人」へ怒りを示す人が現れ、これまた共感を集めている。

確かに腹立たしいことだろう。

個人として存分に怒ればいいと思う。そいつが目の前にいたなら悪態の一つもついてやってもいいかもしれない。

ただ、これらの個人的な怒りが異口同音に唱えられ、反響し合うように多くの賛同や同意が集まる光景は少し不気味である。

考えたいのは、今までだってこの社会にはいたるところに理不尽や不幸が転がっていたということだ。一体どれだけの人が、そういったことに関心を持ててきたというのだろうか。

人権の問題に対して、差別の問題に対して、格差の問題に対して、環境の問題に対して、一体どれだけの人が怒りをもって向き合っていたのだろうか。

あるいは、これら社会で起こった問題に対して怒りや不安を感じ行動を呼びかけてきた人々に対して、どのように向き合い接してきたというのか。

何か悟ったふりをしながらそうした不安や怒りをあざ笑う人間、たとえそこまででなくても「忙しい」「私にも生活がある」などと言ってきた人間(あるいはそれらの態度を許容してきた社会)が何をいまさら正義面して怒っているのかと思う。

改めて言うが、コロナ慣れに怒るなとか、怒っている人間はおかしいとかそういう話をしたいのではない。単に自分が死ぬのが怖いし、その確率を人のせいで増やされるのは迷惑だからやめろというだけの話なら、この国の「良識的人間」を代表して言ってやってるかのような面をするなという話である(上に取り上げた人がそうであるとは限らないが)。

私はまだ死にたくもないし、なんなら軽症(熱にうなされれて意識朦朧とする程度含め)にすらなりたくないから、この期に及んで不用心な人間を見るとなかなか顔をしかめたくはなる(まぁ、自分も用心が徹底できているわけではないし、相手が知人ともなると当然責める気もなくなるのだが)。

それはそれとして、その程度の感情ならいちいち社会的正義を語っているかのように振る舞うななと思う。「正義の暴走」というのはこういう事態を指すのである。

こういう時にこうした「正義の暴走」を批判できない者達の「正義の暴走批判」など聞くだけ無駄である。所詮は、現状肯定的なナルシズム(批判されたくない、責められたくない、後ろめたい気持ちになりたくない)を根底に据えた揚げ足取りでしかないだろう。無論、「怒りの娯楽性」などと言ってる連中も同じである。彼らが批判するのは常に一定の(左翼的、あるいはリベラルな)イデオロギーに対してだけであり、現状のナショナリズムを批判する気概などどこにもなく、ましてや自分の持つイデオロギーの「娯楽性」に対しては批判を加えることは絶対にしないのだ(事実彼らは「冷笑の娯楽性」を批判できない)。

結局のところ、コロナ慣れや不用心な人間に対してこれだけ「怒る」ことがトレンドのようになっているのは、それがナショナルな紐帯、危機を前にした裏返しの高揚感に(それ自体の是非は置いておくにして)支えられてしまっているからである。そして普段、社会的な活動家たちや、人権活動、その他抗議活動に対してやたら冷笑的な人々が、こうした事態に無関心なのは彼らの「冷笑」も所詮模様替えしただけのナショナリズム、ないし(冷笑的)共同体の創出、集団的一体感によって支えられているからである。

現象として見るなら、危機を前にしてしか一体感を得られない「孤独な」現代人達が不安を紛らわせるために「いいね」集めに奔走しているというのが妥当な線だろう。「発散(冷笑)」したい人々にとっては、社会的正義(冷笑的正義)を口実に一体感を得ることができるというのはさぞや都合が良く楽しいことだろうとは思うが。

無論、このウイルスに対して恐れるなという話ではない。未知のウイルスなのだから恐れて当たり前であるが、その不安の解消法としては下の下だろう。

そもそも言う相手が間違っている。

責任を問うべきは政府であり、問題視すべきは社会構造である。

現にこの世界には人の命を、生活を、幸福を奪いかねないいくつもの理不尽や不条理が存在している。仮に病気に限ったとしても相当数ある。

よしんばウイルスに限ったとして、それもみんなが慣れ親しんだインフルエンザウイルスでさえ死者数は昨年で3000人ほどはいるのだ。

自分が無縁だから? 自分には関係ないから? 可哀そうだけど自分には何もできないから?

そんな理由で今まで何もしてこなかった(あるいは何もしない人間を擁護してきた)人間が、今回、配慮に欠ける人間に向かって「社会的正義」を振り翳して「みんなが迷惑」などと言いながら怒るのはかなりみっともないのではないか(いくら暇とはいえ。いくら不安の解消手段がないとはいえ)。

勿論、「今回の事態に直面して初めて『目が覚めた』人もいるのではないか?」などと言う人もいるだろうが、人間を買いかぶり過ぎである。

そういう人間がいることは否定しないし、是非ともそんな人間ばかりであって欲しいところだが、全体から見れば僅かだろう(僅かだから意味がないという話ではない。大いに意味があるので、目が覚めた人がいるのは素晴らしいことには違いない)。

たいていの人間は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」という状態になるだろうし、実際、あの「震災」に対してこの国の人間がどれだけ健忘症気味だったかなんて今更言うまでもないことだ。だいたい何がなんでも政府を擁護して、感染者の自己責任にしたい人達だっているというのに。

今回は、そうした多くの、健忘症的な、危機が去ればすぐにでもそれまでの日常に戻るであろう人間に対して「一時の感情に社会的正義をまとわせるな」と言いたいのである。

いやいや、あなたそれが人間というものだし、そうやって見下す態度もみっともないですよと言われるやもしれないが、弁明させていただくとそれが人間だというはその通りであるし、別に見下しているわけではなく、そういう行為はクセになってやめられなくなるから注意をした方がいいということが言いたいのであり、あまりにも目に余る連中に関しては純粋な怒りの感情を抑えて代わりに呆れることにしているのである。

今までだっていろんな社会の窮状や理不尽を訴えてきた人間がいたわけで、そんな人間を傍目に、小馬鹿にしたように「考えても仕方ない」とか「割り切るしかない」とか「人生そんなもんだ」とか言ってきたわけで、そうやって色んなものを見ないようにしてきた人間が、今更こぞって社会的正義なるもの(それもナショナリズム由来の)に寄り添いながら他人をバッシングする光景に対して何か言いたくなるのも人間だろうと思う。というかこのくらい言わせて欲しい。

バッシングと言えば、買い占める人々へのバッシングの嵐も見ていられない。

特に、朝早くから並ぶ老人たちに怒りの声を上げる人間はかなりの数いる。

 

確かに迷惑千万である。

「それ本当に必要なの?」

思わず問いたくなる。

だが、大家族の人間などは他の人間から見れば買占めと見られてしまうような量を買ってしまうかもしれないし、誰が何をどれだけ必要としているかなんて分からないのにバッシングの勢いだけ強くても意味がないだろう。

で、仮に、そうじゃなかったとして。

必要量以上のものを買っている人間がいたとして。

だから何だというのだ。

不安だから買う。それ自体は今まで認められてきたことだ。というより、人の不安をあおって買わせるのが市場のシステムであり、商品というものである。企業は人の不安を煽ることで商品を買わせてきたし、無駄と思えるようなものでも、使わないとしても自由に買えるのが今までの社会である。たとえそれで物の値段が上がろうが、転売屋がでてこようが、値段が上がって買えない人間がいようが社会は一向にお構いなしだったではないか。

どんな目的であれ、何をどれだけ買おうが許されてきたし、何に使うかも自由であり、それで困る人間がいようとも一切誰も考慮してはくれなかったし、需要があれば値段は上がる。これは今まで我々が認めてきたルールであり、経済の基本であり、今回の件でも、およそ誰もこの市場のルールには反していないだろう。

ただ、そんなことをやられてみんなが困るのはその通り。その通りだとして、一体そういうシステムの欠陥を今まで誰が咎めてきたというのだろう。

だいたい世の中に食うに困る人間だっているというのに、一日どれだけ(何百トン)のコンビニ食品が捨てられてきたと思っているのだろうか。

お金だってなんだって必要な人間に必要な分だけ行き届くなんてことが今の今まであったわけでもあるまいに。

各人に必要なものが各人に必要な分だけ買われる、買われたものは過不足なく使われるなんて今までだって無かったわけで、そういうシステムを看過してきた人間が自分たちが危機に瀕していると思った途端いちいち「義憤」に燃えてしまうのはなぜなのか。

怒りをぶつけるなら、この欠陥システムやら、政府やらを相手取ればいいと思う。政府が無償で配るなり、あるいは商取引にルールを設ける(法律改正?)なりするよう求めるか、あるいはこれを機に一部の人間に物(お金含めて)が集まることを問題視するなりすればいい。

そこまでの話ではないのなら、店が勝手にルール(おひとり様一つまで?)を作るなり、勝手に客がルール(俺にいきわたるようにしろ)を求めるなりの小競り合いで満足しておけばいい話だ。

しかしそれも無理な要求だろう。そもそもこの「怒り」自体が単なる不安の発散、パニックに陥った人間が「犯人探し」に興じているだけという可能性すらある。

必要としても手に入れることが出来ない人がいる一方で、飾るためだけに購入される食料だってある、なんてことはみんな分かっているのだ。分かった上で知らないふりをしている。いや、知らないふりをするために、こうやって犯人探しを(しかも高齢者叩きの欲望に付け込んだ形で)行っているのだ。

いままでは何ともなかったのに、こんなことになったのは誰か状況を悪くしている犯人がいるはずだ。とでも思っておけばとりあえずは今までの日常が常にリスクと隣り合わせであったという現実からは逃避できるし、犯人探しに興じている間は根本的な問題解決を先送りにできる。

不安が大きくなってそれを怒りという形で発散しようとしてしまうのは、人間の心理がそうなっているので仕方ないとして、こうもやりすぎれば病的になる。まして「市民の怒り」のように語られているのには呆れるより他ないだろう。

まぁ、ここまでつらつら書いたのも所詮愚痴なのであって、私が勝手に呆れているだけの話だ。行動を起こせる人間はとっくに起こしているだろう。

勿論、言いたいことがあるのは慌てふためく世論(?)に対してだけではない。

その逆もしかりである。当たり前のことながら、状況を冷静に俯瞰したような口ぶりで余裕ぶって(諦めて?)いる場合でもない。

以下記事については共感半分、疑問半分で言及したい。

note.com

気持ちは分かる。

特に「こんなクソみたいな社会など壊れてしまえ」という部分(勿論何が「クソ」なのかまでは共有出来てないかもしれないのであまり安易に共感を口にするものじゃないが)。

だから、別に怒りからでも憎しみからでもないが、このような状況の捉え方はいささか問題だろうとは言わせてもらいたい。

個人的には、今回の騒ぎがグローバル資本主義(あるいはその勝者)への打撃となるかと言われればかなり怪しいところだろうと思う(寧ろ逆なのではないか)。

何より、民衆の怒りが上に向かうと素朴に前提し過ぎではないかと思う。素直に見渡せば上に向かう怒りもあればナショナリズム的な発露、外国人へのそれだったり自粛を怠った者への自己責任論的バッシングもそれなりの数いるわけで、それがそのまま階級闘争へと変換されるわけではない。

何より、いくら今回が脅威的な事件であるとしても、それが社会の基本構造を破壊するかはまだ分からないのであるし(おそらく無理ではないか)、壊れていくとしても下から壊れるのであり、社会の基本構造にダメージを与える頃にはかなりの犠牲が出ることになるだろう。

これを「痛快」とは正直言い難い(「痛快さ」は道具であり目的でもないわけで)。

今回は「リーマンショック」の時とは違う。

あの時の混乱はそれこそグローバル資本主義に対して幾分かダメージを与えるものだったかもしれない。あのリセッションは、バブル崩壊後の銀行の貸し渋りによるところが大きかったとされている。対して、今回の「コロナショック」はバブル的要素がなく、過剰生産や過剰負債によるダメージではないという見方が強い。この場合ダメになるのは上からではなく下からであり、接客業や飲食業で働く従業員であり、派遣社員や非正規雇用社員であろう。

現実問題として、ネットカフェが営業休止になったことで溢れかえったネットカフェ難民たちは既に行き場を失い始めているのだ。

note.com

第二に、これでもし本当に何も壊れることなく社会が存続するのであれば問題だ。ますます人々のグローバル資本主義への信頼は厚いものになっていくだろう。今回の危機が物語化して「乗り越えるべき試練」あるいは「復興と再生」という物語として、それを共有するグローバル資本主義共同体を作るという方がシナリオとしては容易に想像がつく。

何がともあれ今は生き延びることが肝要だろう。日常(あるいはそれと気づかない非日常)には様々な危機があるわけで、我々が忘れているだけで常にリスクとは隣り合わせなのだ。

 

↓いつも心に黒いサングラス

ゼイリブ(字幕版)

ゼイリブ(字幕版)

  • 発売日: 2018/01/01
  • メディア: Prime Video