京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

偏見で語ることと差別の違い

0.はじめに

この記事では、差別と偏見に違いがあるのかについて考えていきたい。

差別と偏見の違いを考えることは、差別とは何か、差別はなぜ悪いのかについて考える時に極めて重要だ。

少なくとも、偏見と差別の違いについてしっかり考えずに差別はなぜ悪いのかについて考えることはできない。そして、前にも言ったようになぜ悪いのかについて考えもせず差別を批判し続けることは難しい(前回記事:差別と区別の違い~「差別ではなく区別」は本当か~ )。

もちろん、偏見と差別が同じように機能する場合もあるだろうし、同じだと主張する人もいるだろう。

例えば、世の中の人間は少なからず偏見を持っているのだからみんな差別しているのだという意見は偏見と差別を同じものと考えている。

誰かがある共通項を持った人々に対して偏見を語った時に、それが差別であると言われることもしばしばある。

この記事では、そうした考えが果たして正しいのかを問うことにしたい。

1.偏見と差別

 

偏見とは、ある共通項でカテゴライズされた人々に対して根拠なく悪い印象や間違った意見を持つことである。

例えば、「女性は感情的で男性は論理的」というのは現代でもよく見られる偏見である。女性とカテゴライズされた人々には感情的という特徴があり、男性とカテゴライズされた人々には論理的という特徴があるというのは科学的根拠のない偏見である。一時期流行った「男性脳」「女性脳」という言葉はエセ脳科学の中で特に有名だ。

このように、性別や人種などの共通項でカテゴライズされた人々に共通の特徴があると根拠なく判断することは偏見である。

すなわち、偏見が差別であるという言説が意味しているのは「ある人々を不適切にカテゴライズして、その人々に間違った価値付けをすることは差別である」ということである。

確かに、差別的発言・ヘイトスピーチの多くは、あるカテゴリ・属性を持った人々を一括りにして考え、根拠のない価値付けをしている。

「韓国人はみな犯罪者予備軍だ」というヘイトスピーチを例に考えよう。

このヘイトスピーチは、韓国に生まれた人々をカテゴライズし、「韓国人」というカテゴリ名を主語にしている。

しかし、主語に使われている「韓国人」が示す集団と述語の「犯罪者予備軍」は一致していない。

よって、「韓国人=犯罪者予備軍」という一般化は正確ではない。

つまり、偏見を語っている。

このヘイトスピーチは、「韓国人」というカテゴリに含まれる人間全員に共通の負の特徴があると決めつけてしまっている。「韓国人」というカテゴリに含まれる集団のうち一部が犯罪者というカテゴリに当てはまるとしても、「韓国人」という属性を持つ全ての人がそうであるわけではない。

「日本人」にカテゴライズされる人々にも色んな人がいるように、「韓国人」にカテゴライズされる人々にも色んな人がいる。しかし、このヘイトスピーチはある人々を一括りにすることで、「韓国人」というカテゴリに存在する人々の多様性を無視してしまっている。

実際、この「韓国人」という主語の示す集団は「犯罪者集団」という述語の示す集団に対して大きすぎる。つまり、「韓国人」という主語は「大きな主語」になってしまっている。

偏見と差別がイコールであると言われる場合には、こうした「大きな主語」が問題になることが多い。つまり、大きなカテゴリ(属性)に属する人全員に不適切な負の価値付けを行ってしまうのが差別の悪質さであるというのである。

差別が悪質であるのは、差別が実利的な被害を生むからでもなく、また差別が非合理的だからでもないということについては前回書いた通りである(↓前回記事)。

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

では、偏見を語ることが差別の悪質さに関連しているのだろうか。言い換えれば、差別の悪質さは、偏見の程度や偏見によって及ぶ被害の大小によって決定することが可能なのだろうか。

確かに、ヘイトスピーチや現実にある差別のいくつかは偏見を語ることと重なる。つまり、差別行為は個人ではなく特定のカテゴリ・属性を持つ集団全体に対して不当な評価を下すことが多い。

そして、偏見によって集団全体に負の評価が下されることは確かに不当である。

とはいえ、偏見によって特定の集団に対して不当評価を下すこと、言い換えれば粗雑で根拠のない一般化をすることは差別の本質的問題であるだろうか。

 2.偏見でも差別じゃない場合

日常会話において、根拠のない偏見によって「不当な評価」が行われることはままある。

例えば、眼鏡をかけている人に対して「根暗」「インドア」「頭でっかち」「でも勉強はできそう」というステレオタイプを無意識に持ってしまっている人間が、「眼鏡をかけている人間はがり勉だ」という発言するのはどうだろうか。

この発言は眼鏡をかけた人間への偏見に基づいている。

眼鏡をかけているからという理由だけで人々をカテゴライズし、がり勉であるという根拠のない一般化をしている。尚且つ、がり勉というのは負の評価である。

では、これは眼鏡をかける人への差別なのだろうか。

もう一つ例を出そう。巷で定期的に見られる若者批判はどうだろうか。

「最近の若い奴らは根性がない」「最近の若い人間は本を読まない」等は日ごろよく耳にする。これらの若者批判は、若い人間にも様々な人間がいるにも関わらずその現実を無視している。

若者批判は例外には触れず十把一絡げに若者全体を否定的に言及している。つまり、一部の若者を批判すべきところを、若者全体を主語として否定的に言及している。

かと言って、これが若者差別と言えるのだろうか。

確かに、若者批判は実態の調査が伴っておらず、正確さが欠けるているかもしれない。若者の文化や心理傾向への批判の多くは、単にその人間の頭の中にある若者像を批判しているだけかもしれない。

だが、このような正確さの欠如は差別の悪質さと言えるだろうか。

先ほど指摘した通り、日常の会話において正確でない情報が語られることは珍しくない。我々はしばしば例外については語ることを省いたりして大まかに語る。多少正確でないことを語っただけで差別的だとは言い難い。

もし、発言が正確ではないだけで差別だと言えるのであれば、個人名を指して語ること以外は全て不正ということになる。

あるカテゴリに属する人々に特定の傾向を見出し、それに対して負の評価を行うことは本当に差別なのだろうか。

もしそうであるなら、日本社会及びその構成員たる日本人を批判することは日本人差別ということにならないだろうか。全ての日本人が同一の傾向を持つと言えない以上、日本社会あるいは日本の大衆文化を批判する際に、その主語に「日本人」というカテゴリ名を使用することは正確性に欠けることになる。だからといってこれが差別の問題であると断言することはできないだろう(勿論、そう断言する人は少なからずいるが)。

3.偏見が生まれるのは仕方ない

個人以上の集団について語ろうとしたとき、その集団が持つカテゴリ名を主語とせざるを得ない。

どんなに詳細に分類された小さなカテゴリ内でも差異は存在する。

必ず差異があるのだから、カテゴリ(集団)について語ろうとすればある程度の例外は無視せざるを得ない。

どんなにそれが詳細であろうとも、カテゴライズするということはある集合を一般化するための行為である。そして、一般化とは個別性を無視することでもある。つまりあるカテゴリ(集団)について考えること自体、個別性(例外)を無視することである。

我々はカテゴリを使って語ることで、分析を行う。そして分析の結果として負の評価を下したり、批判したりすることは当然あり得る。

例えば地域研究や文化批判というものはそれにあたるだろう。

その際、不正確な一般化をすること、不当な評価を下すことは批判されるべきことだろう。それは正確ではないという間違いを犯しているかもしれない。

しかしそれをもって、カテゴリに対して不正確な評価を下すことや間違った批判をすることが差別の問題であるとは言えないだろう。一切の偏見から解放された知以外は全て差別であるというのは、流石に無理がある差別の定義方法に思える。

イードは著書『オリエンタリズム』において、地域研究によって生まれた偏見が帝国主義とそれに伴う差別の温床となったことを指摘したが、地域研究自体が差別であるとは論じているわけではない。

加えてサイードが問題視したのは、負の価値付けを行う偏見だけではない。

たとえそれが対象に対して負の価値づけを行っていない偏見だとしても問題であるというのがサイードの言わんとしたことだ。

オリエンタリズム 上 (平凡社ライブラリー)オリエンタリズム下 (平凡社ライブラリー)

イードは知の体系が必然的に偏見を生み出してしまうこと、その偏見が誰かによって利用されうることを語っている。

しかし、もし不正確な評価や対象の間違った批判が差別の問題として扱われることになったのなら、我々は今持つ全ての知の体系を捨て去る必要があるだろう。

例えば、イデオロギーやその信奉者への批判などは差別的言説として退けられてしまうかもしれない。

全ての社会主義者共産主義者ソビエト中国共産党を支持しているという前提で批判することは偏見による不正確な評価かもしれないが、政治的話題においてはこうした偏見による批判は頻発している。これは流言だけでなく、比較的正確性を求められる文献などにおいても、その文献が敵対視するイデオロギーを一方的な偏見で取り扱う箇所は数多く見られる。無論、その偏見に基づく批判自体が有益であるかどうかはこの際関係がない。

問題なのは、これが「社会主義者差別」や「共産主義者差別」、あるいは「自由主義者差別」と言えるのかということである。

ある思想の支持者全ての主張を確認出来ない以上は、そのイデオロギーを支持する人をカテゴライズすれば原理的に例外は発生しうる。

これがもし差別の問題になるのであれば、特定のイデオロギーを誤解、誤読している場合に発する発言も全て差別ということになってしまうが、それは言説の妥当性や正確性に関する問題ではあっても、差別の問題ではないのではないだろうか。

 

4.正確で客観的な事実でも差別となる場合はある

逆転させて次のように考えても良い。

差別的発言でも主語をより詳細で正確なカテゴリに変えれば差別ではないことになるだろうか。

使用するカテゴリの正確さや適切さが差別の悪質さに関連するのであれば、一見差別的な発言もその主語の範囲や価値付けによる一般化の正確性を高めればその悪質さを減ずると考えられる。

しかし、たとえ正確なカテゴライズをしていても差別の問題になるものもあるのではないだろうか。

例えば、「黒人は犯罪者予備軍で劣等的存在だ」という誰の目から見ても明らかな差別的文言があったとしよう。

先ほどの定義による批判から遠ざける為にこれに正確性を持たせようとして以下のような文言へ変化させた場合はどうだろうか。

 

”この地域に住む一部の黒人には、白人に対する敵意から白人に対する凶悪な犯罪を行う傾向があり、被害件数は年々増加している。また、この地域の白人は犯罪の多い地域で過ごすことをよしとしない人が多数派であった”

 

この文言が正確な情報ソースに依拠している場合について考えたい。

仮に、差別の問題が発言の正確さと関連するのだとすれば、比較的正確に情報を記載しているこの文言は差別的でないことになる。

まずこの文章は「全ての黒人」とは言っていない。この主語には「一部の」という形容詞が付いているので幾分か正確である。

さらにこの文章は負の価値判断を行っているのではなく、単に統計的事実を告げているだけである。この文言は過度に包摂的でもなければ、負の価値判断すら行っていない。

これは先程の定義によれば、差別でない。もしくは悪質さを幾分か減じた差別ということになる。

しかし、たとえ主語の範囲が限定されて正確な情報になったとしても、その発言が差別的な発言として機能することはありえるのではないだろうか。

例えば、これらの文章が『一部の黒人による犯罪集』というサイトに書かれていた文章だとしよう。

まず『一部の黒人による犯罪集』は全ての黒人ではなく、あくまで一部の黒人による犯罪を取り扱っているとする。

更に、『一部の黒人による犯罪集』は統計データに基づき黒人の犯罪率が他の人種に比べて高いことを紹介しているとする。

それでも、このサイトが発信してしまうメッセージは差別的なものとして機能するのではないだろうか。

このサイトにはたとえ「一部」であろうと「黒人」の犯罪にはスキャンダラスに取り上げるだけの意味があるというメッセージを含まれている。なぜなら、言葉というものはそれが発された状況に応じて、その意味や受け取られ方を変化させるものだからだ。

「なぜ黒人に限定して言及する必要があるのか」という部分が問題なのだ。

その部分に、差別的なメッセージが紛れ込む隙間が存在するのである。

もしここで「私は良い黒人がいることは知っている。一切の例外を認めないわけではない」「私は黒人全体の傾向について言っているだけで全ての人がそうとは言っていない」などという主張をしたとしても、それは“I have black friends“話法(「私には黒人の友達がいる」話法)と同じような言い訳だとみなされるかもしれない。

そのサイトの経営者には差別的な意図はないかもしれない。

しかしその場合でも「黒人の犯罪」というカテゴリがその他の人種の犯罪に比べて注目するべきであるというメッセージが受け取られうる。

そのようなメッセージが差別的なメッセージとして受け取られかねないのは、黒人差別の歴史が存在するからである。黒人差別の歴史がこのメッセージを差別的なものとして機能させてしまう。

5.偏見と差別は別問題

不正確なカテゴライズはそれ自体では差別ではないという意見に対して、次のような反論はあり得るかもしれない。

「雑にカテゴライズしただけでは差別とは言えないが、そこで参照されるカテゴリよりも相応しいカテゴリがあるにも関わらず、そのカテゴリを使用する際にそれは差別になる」

この主張は、他に使用すべき有効なカテゴリがあるにも関わらず、あるカテゴリを使用することに固執している場合にそれは悪質な差別であるというものである。

あるカテゴリ集団Aに対してB'という評価を下す場合、そのB'という評価にふさわしい集団がAではなく、Bならばこれは誤りであるというものだ。

先ほどの例で説明しよう。

この理屈でいけば「黒人は犯罪者ばかりだ」という発言が差別的なのは、人種と犯罪率の関係が疑似相関であり、本当は貧困と犯罪率に関連があるからということになる。

確かに、犯罪の原因は貧困であり、黒人による犯罪が多いように感じるのはたまたま黒人に貧困層が多いからだという見方は広く共有されている。犯罪率に関連があるのは本当は貧困という指標であり、黒人という指標は関係ないかもしれない。

つまり、黒人という人種が真の原因ではないため、人種と犯罪率の相関は疑似相関である。そして、人種と犯罪率の関係が疑似相関であるのなら、「黒人」というカテゴリを犯罪と絡めて使用することは間違っている。

この場合、人種が原因ではないのにもかかわらず「黒人」というカテゴリをあえて持ち出すことは差別であるという主張には一定の説得力があるように思える。

この意見は、言葉が文脈やそれが発された状況によって意味を変化させるということをある程度踏まえている。

しかし、ここで新たに二つの問題が発生する。

一つ目は何が疑似相関で何が真の相関かは完全には証明できないことだ。統計学的に相関関係があったとしてもそれが因果関係であるかどうかを完全に証明することはできない(あくまで仮説としてしか提示できない)

二つ目は、もし仮に人種と犯罪率に関連が認められた場合、それが差別ではないということになるという点である。もし「遺伝子レベルで」関連が認められたら、先ほどの発言は悪質な差別ではなく正当な分析だということになる。だが、これはかなり問題含みだろう。

今度は逆転させて考えよう。

我々の身近には疑似的相関を根拠に、ある集団と別の集団との間に差を設けている例が存在する。すなわち不完全な代理指標でもって差を生み出すことが問題にならない事例が存在している。

それは車の免許取得の年齢制限である。

車の免許の取得には年齢制限が掛けられている。

第一に、この年齢制限は一定の年齢に達していない人間を一様に未熟と見なす偏見を含んでいる。18歳未満の人間に未熟な人間が多くいたからといって、全員全てが未熟であるとは限らない。年齢によらず未熟な人間はいるし、またそうした偏見以上に熟達した人間もいる。よって、年齢でカテゴライズすることは過度な一般化である。言い換えれば、年齢という基準は未熟さの完全な代理指標としては機能しない(代理指標として不完全である)。

第二に、年齢による免許取得制限は一定の年齢に達しない人間の免許を取得する自由を侵害している。年齢による一律の制限は公的制度として採用されているのだからその被害の範囲も大きいため、害の大きさは無視できるはずがない。つまり、低年齢=未熟という偏見によって広範な自由の侵害が起きている。

第三に、年齢を基準として採用することで試験にかかる費用や時間を効率的に減らすことが出来ているとしても、それは年齢制限が差別でない証明にはならない。なぜなら、前回の記事で言及した通り、効率性や利益があることは差別を正当化する理由にはならないからである。

それでも、年齢制限は差別として扱われないのである。

たとえ自由の侵害を起こしている偏見であったとしても、それ自体は差別ではない。

デボラヘルマンは正確性と差別の問題について次のように語る。

正確性では劣るが費用は少なくて済む代理指標を選ぶことにはしばしば意味がある。そうだとすれば、不正確だが費用は安くつく代理指標の内、利用者が採用した時にその不正確さに気が付いていないような代理指標を選ぶことが時にある、ということも理解できる。(中略)結局のところ、馬鹿げた誤りを全然含まないような方針は不可能であり、そうした誤りの影響を受けることは、確かに害ではあるが、私たちがそれを避ける権限を与えられているような種類の害ではない。反差別とは愚かさを修正するためのものではないのだ。

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)

 

『差別はいつ悪質になるのか』(p189~P191)

そもそも、不正確な評価への批判が差別への批判と接続しているとは限らない。

それは反差別を装っていても、単に自己のアイデンティティを形成する属性を自分にとって都合の良いものとしたい(その為に、批判を退けたい)という欲望に基づいている可能性もあるだろう。事実、「大きな主語」によって行われる不正確な分析は時として歓迎される。

例えば、ある特定日本人の悪行を取り上げて「日本人」全体の傾向であると結論付けることは殊更に強い反発を招き、その不正確性を批判される。「全ての日本人が~というわけではない」「アレは例外である」というのがその批判である。

しかし、特定の日本人の善行を取り上げ「日本人」全体が善人であるかのように結論付けるような、俗にいう「日本人すごい論」に対して、「全ての日本人が~というわけではない」「アレは例外である」と批判する人が果たしてどれだけいるだろうか。

「〇〇(日本人、白人、男性、等々)」という属性を持つ人たちによる功績部分だけを集合させて「〇〇(属性)」という属性を持つ人々の集合全体の持つ良い傾向であるかのように語る一方で、「〇〇(属性)」の人が行った悪行に関しては「全ての〇〇がそうというわけではない」「一部の〇〇がそうなだけだ」と言う文句で切断処理がなされるというのはよくあることである。

まとめよう。

ある人々をカテゴライズすること、そのカテゴリに対して評価を与えること、ともに完全に避けることは不可能である。同時に、ある集団に対する不正確な評価や誤った一般化は完全には避けることができない。

そして評価の妥当性や情報の正確さは差別とは直接関係がない。

よって、それらは偏見の問題ではあるが差別の問題ではない。情報の正確性の問題は差別の問題と切り離して扱うべきなのである。

偏見の問題は確かに差別の歴史と隣接していた。それでも偏見の悪質さは差別の悪質さとは異なるのである。

では、差別とは一体なんなのか。差別の悪質さが偏見と関係がないのだとしたら差別はなぜ悪質なのだろうか。

次回は、いよいよ差別はなぜいけないのかについて考えていきたい。

 【次回記事】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

6.【参考図書】

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)

 

 ↓表現の自由ヘイトスピーチについて

ヘイト・スピーチという危害

ヘイト・スピーチという危害

 

ポストコロニアルの必読書である(らしい) 『オリエンタリズム』は、当然のことながら差別の研究にも役立つ。