京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

科学主義と科学信仰の現代

1.「科学」の幻想

「科学」という言葉は、かなり安易に使われている。

「科学的」であるということはそれだけで偉いことのように言われ、「科学的ではない」という言葉はかなり批判的に使われている。(「文学」や「哲学」ではこうはいかない。「文学的」「哲学的」という言葉は「しゃれてる」「なんか小難しい」くらいの意味で使われがちだ)

問題は「科学」を正しさを証明してくれるものとして盲信する態度が人々の内にあることだ。

実際、「科学」が何なのかを説明できずとも、とにかく「科学的」であることは重要であるということを言う人も多い。しかしそれは詭弁ではないかという話を前回記事では説明した。

「科学」とは何かについては過去説明した通りだが、やはり人々は「科学」というものにある種の幻想を抱いているように思える。

では、なぜそのような「科学」に対する幻想が共有されているのか。人々が「科学」という概念に何を期待しているのか。

人々が「科学」を重要視するのには理由があるはずだ。

今回は「科学」という言葉の使われ方と現代社会の関係について私なりの考えをまとめた。もちろん、一個人の意見なのでそういう社会の見方もあるくらいに読んでもらえれば幸いだ。

では早速、「科学」という概念がどのように利用され、なぜそのように利用されているのかについて考えていこう。

 

2.「科学」は面倒な議論を単純化できる。

まず「科学」という言葉は、面倒な議論を単純化する上で便利だ。

漠然と「科学=正しい基準」と思われている状況では、決着のつかない議論でもとりあえず「科学的」なことを言った方が勝ちになる。

もちろん、科学的正しさはそのようなものではないというのは依然説明した通りだが、「科学=正しい基準」というレトリックは、議論において便利なのだ。

面倒な議論、決着の付かない議論が避けられる傾向にあるというのは明らかだ。

決着のつかない議論をするのが苦手でなんらかの形で決着を付けたがる人は多い。

特に、思考停止しているくせに何か言った気になりたい人間が、議論の終盤に「まぁ、みんな人それぞれ考えがあるよね」なんて無意味な決着を付けたがる光景は割とよく見られるのではないだろうか。そんなところに着地させるなら最初から議論なんてする意味はないと思うが、こういう人間は自分の意見が尊重されるという状態を確認したいだけなので誰も否定できないような当たり前のことをわざわざ言いたがるのだろう。

もちろん、みんな人それぞれ考えがあるという部分を否定したいのではない。そんなことは議論の前提部分の当たり前のことであって着地点ではないという話だ(まぁ、険悪な雰囲気を収めるためという場合もあるので一概には言えないが……)

例えば他にも、「論破」なんて言葉を使って議論にやたらと勝ち負けを決めたがる阿呆には心当たりがある人が多いのではないだろうか。ひろゆきやDaiGoの健在ぶりを考えてみて欲しい(こういうことを言うと、あれはネタとしてみんな消費しているだけであって真面目に受け取っていないと言い出す馬鹿が出て来そうだが)。

さて、このように議論になんらかの決着を付けたがるのは何故かというと、決着の付いた議論についてはもう何も考えなくて良いからだろう。

簡単に言えばみんな思考停止していたいのだ。

終わらない、決着の付かない議論では、自分の考えが正しいのかどうかが常に問われ続ける。それに耐えられないのだ。

このような傾向とパラレルな現象として依存症ビジネスを挙げよう。

依存症ビジネスという言葉が叫ばれて久しいが、現代人の少なくない人々は依存症ビジネスの虜だ。おそらくみんなが思っているよりも多くの人間がその傾向を示している。かく言う私もその一人だろう。

そういう依存症ビジネスに浸かった人々は、中毒者のように常に快楽回路と接続され続けないと不快を強く感じるようになってしまっている。

だから、快楽を途切れさせるものを排除したがる。労働や家事はもちろん、抽象的思考や他者からの批判、当然決着の付かない議論のストレスにも耐えられない。

コミュニケーションも不快なものを避け、自分が楽しいコミュニケーションだけを取り入れようとする。そこに異質な他者との交信は存在しない。

読書もそうだ。読むことそれ自体に快楽を感じる人間は別として、読書という行為に少なくない人は「これって面白い?」「これを読むとどうなるの?」とすぐに手に入るメリットばかりを気にし出す。

彼らが聞きたがっているのは、手近にある快楽を得る時間を手放してまで得られるものがあるのかどうかということなのだ。

また、彼らは自分たちが快楽を享受している状態を批判されると物凄い勢いで反発する。

彼らが唯一気にしているのは、「何の後ろめたさも持たずに快楽と接続し続けること」であるからだ。

「何も余計なことを考えずに快楽を得たい」というのが彼らの本心であり、たとえば自分が楽しんでいるようなコンテンツが批判されたりすると彼らはそれを排除したがる。

コンテンツ自体に問題があるかもしれないという指摘さえ彼らは受け入れることができない。そのような思考が差し挟まること自体がノイズだからだ。一瞬でも快楽回路との接続を断ち切る思考のノイズはあってはならないのだ。

自分の好きな配信者や動画が批判されるとブチギレる信者の心理、コンテンツ無罪論、エンタメ無罪論はここから来るわけである

だから、依存症ビジネスなんて言葉が出たり『スマホ脳』が如何に科学的データを持ち出して現代の依存症に警鐘を鳴らそうが、彼らはそれを無視し続けるだろう。

彼らが欲しているのは「何も考えずに快楽に溺れて良い」というメッセージであるからだ。

スマホ脳』や『インターネットポルノ中毒』に対しても「スマホやインターネットは悪くない」とか「ゲーム脳の時と同じで無視して良い」という論にばかり賛同が集まるのはこのためだ。補足しておくと、筆者らもテクノロジーが悪いなんて単純なことを言っているのではなく、人間が自ら作り出した技術に対して人間の脳は適応できていないという至極当たり前の話をしている。

このように依存症ビジネスが蔓延した状況で、依存症的消費行動を取る現代人にとって自分の考えを常に問わねばならない決着の付かない議論は忌避される傾向にある。

みんなが楽しく趣味だけを語れるコミュニティを求めたがる風潮が政治に対する無関心と同時に現れたのも無関係ではない。

政治の問題についても、結局自分が何をすれば良いのかについて悩み続けること自体の重さに耐えられないし、すぐに「じゃあ私達はどうすればいいのか」なんてことを言い出す。

歴史問題に対して「もう終わったもの」として扱う人間が如何に多いかを考えて欲しい。

彼らが持て囃すインフルエンサー(ひろゆき等)が提供しているのは思考ではなく、考えたフリの仕方や賢そうに見せるための作法である。

インフルエンサーが何かを断言する度に、彼らは「自分の中でそれ以上考えなくても良いもの」の範囲を拡大しているのだ。

また、そこまで馬鹿な人でなくとも、人間が何か考えなくてもやがて科学テクノロジーの発展が人々の生活を良くするだろうという「科学」依存な態度が見られたりする。

 

3.自分を合理的な人間だと思いたい人達

また、「科学」という言葉は自分のことを合理的で冷静な人間だと思いたがる人間が使いたがる傾向がある。

「科学」という言葉には合理的で理性的という印象が付きまとっているからだ。

残念なことに、時々「科学的に説明してくれれば自分は納得できる」と宣う底の抜けた馬鹿がいるが、そういう奴は自分が納得できる説明だけを「科学的」と言っているだけで、自分が納得できない時は相手の説明が科学的でないことにしているのだ。

この手の阿呆は、そもそも自分を合理的で知的な人間だと信じて疑わない。

だから、合理的で知的な自分が納得できたものだけが「科学」で、「科学」に納得できているから自分は合理的で知的な人間だという循環論法を繰り返す。

そうしてますます自分こそが科学を知っているとい確信を深めるのだ。

こういう思い上がった人間は、他人には平気で「科学的な説明に納得しない人間は合理的ではないから話が通じない」と言ったりするのでタチが悪い。

加えて、彼らはあまり自分から何かを語りたがらない。

自分が語るのではなく、まず相手の言説や価値観をジャッジする側に回ろうとする。

そうやって自分からは「科学とは何か?」を説明せずに、「科学」の定義を曖昧にしたまま相手を「科学的でない」と攻撃するのだ。

そういうことをやる輩は、同時に自分を中立の立場に見せようとする。「科学」は価値中立だから「科学」の側に立つ自分は、主観に依らない客観的な意見を言える冷静な知性だと主張するわけだ。

だが価値中立なものを使って何かを批判する行為自体は中立な行為になりようがない。全ての人を平等に批判などできるわけがないのだから、批判の矛先は必然偏るし、誰だって批判する相手を選んで批判しているからだ。

「私は中立であるように努めている」と言うことはできても、「私は中立である」とは言えないだろう。

こういう極端な例でなくとも、現代社会に生きる人はあまりにも素朴に、誰もが納得す完璧な説明を求めすぎている。

「本当に頭のいい人とは、難しいことを易しく説明できる人だ」という勉強したくないがための言い訳のようなクリシェも「科学」信仰の風潮と結託している(確かに難しいことを易しく説明できることは重要だが、それは頭の良さの指標の一部でしかないだろう……)。

難しいことを易しく説明できる人は尊敬できるという話なら是非とも同意したいところだが、この手のことを言いたがる人間は単に自分が勉強した方がいいかもしれないという発想がないだけなのだ。

つまり、相手に説明の負担を負わせることばかりして、自分が理解できなくても「相手の説明が悪かった」と片づけてしまえる人間なのだ。

どんなに分かりやすく説明したところで納得しない人はいるし、納得できない人間がいるからと言って主張が間違っているとは限らない。

理解しにくいものを拒む傾向が強まれば、簡単には共有できない個人的感覚などは民主主義の議論から排除されていくだろう。

民主主義なのだから、なかなか理解を得られない意見でも言うことができたり、納得できないことに納得できないと言えるのもの重要なのではないかと思うのだが、現状そういうことを言うと不当に「科学」を持ち出す輩にそんなのは理性的な議論ではない感情論に過ぎないと片づけられてしまうだろう。

これは合理的で理性的な「科学」と、「科学」が分からない感情的な馬鹿という図式で何か言いたがる人間が如何に多いかを考えれば分かる話だ。

事態がそこまで単純ではないというのは、科学者同士も理論や事実に対する解釈の違いで対立したり議論をするというごく単純な事実を考えれば分かる話だが、彼らは科学者同士の議論はいつの時代も冷静なものだとでも思っているのだろう。

このように、「科学」という概念は自分のことを合理的で理性的な人間だと思い込みたい人間の間で共有され、彼らが理解できないものを冷笑するために利用されれている。

 

4.「配慮」と「共感」の現代

なぜ「科学」という言葉を人々がこれほどまで安易に使いたがるようになったのかについて、私なりの所見をまとめると以下の二点になる。

・何の後ろめたさも持たずに快楽を得たい。

・自分を合理的かつ冷静で知的な人間だと思っていたい。

これら二つを合わせ一言で言うなら現代人の心象は「何も考えずに楽しく過ごしていたいが馬鹿に思われるのは嫌だ」というところに集約されるのではないだろうか。

そう考えると、近頃頻繁に話題に上がる「配慮」と「共感」の問題と連続する問題として考えることができる。

近頃、「配慮」が足りないことで様々なものが炎上するようになったが、この他者への「配慮」は必ずしも異質な他者への理解を必要としない。

たとえ、思考停止している人間でも「配慮」の論理とは共存できる。なぜなら、「配慮」は異質な他者へ接近する契機を含まないからだ。

つまり「配慮」とは遠ざけながら摩擦を回避するための方法であり、異質な他者と向き合うことなく遠ざけておくための処世術のようなものだ。

処世術としての「配慮」は、他者を傷つけないでいると同時に自分が傷つかないために必要なものだ。

現代人は、多様な人々の間にある摩擦と不協和を受け入れることなく、「配慮」という形で摩擦それ自体を避けようとする。

そうした「配慮」をする人達の中に、一定数見られるのは「誰も傷つけない自分でありたい」という強迫観念だ。

この強迫観念は「自分も傷つけられたくない」という感情の裏返しとも言えるもので、それは必ずしも他者への接近を必要としない。(自分のことを優しい人間だと言いたがり、それを他人から否定されると逆ギレする人間もこの手の強迫観念に絡め捕られている)

だから最終的に「配慮」の論理は、「私もみんなの心の傷に配慮するから、その代わりあなたも私の心の傷に配慮してください」という心の傷を互いに配慮し合う契約のようなものでしかなくなる。

つまり、現代における「配慮」は多様性への思考ではなく、単に「自分が傷つかないでいるための」思考停止的な作法に過ぎない。

そして、「配慮」の概念と相補的に存在するのが「共感」の論理だ。

どちらも現代的な思考停止が生み出すものであるが、「配慮」が異質な他者と向き合うことなく遠ざけることとすれば、「共感」は異質であるはずの他者を自分と同質なものと考えることだ。

厄介なのは、SNSで問題提起が起こる際に「共感」がベースで拡散が行われることだ。

ある問題提起に対する「共感」は、自分が想起した体験を語るという形で行われる。

「共感」ベースになっているせいで、あらゆる社会問題は「具体的な被害と当事者の心の傷」が示されなければ理解されず、そういう構図によって被害者側も「共感」集めに終始せざるを得ない。

この時、当事者側はあまり「怒り」を見せず「悲しみ」を主に訴えなければならない。

怒りは他者との摩擦と不協和という忌避すべきものを生むからだ。

当事者が怒りの感情に訴え過ぎると「怒りでは何も解決できない」という一見穏当そうに見える意見で退けられるのはこのためだ。

当事者の語りにリアリティを感じさせるために必要な最低限の「怒り」と、「共感」を呼ぶための「悲しみ」というのが丁度いい塩梅なのだ。

取り乱したような怒りの感情に対して、大衆は「共感」よりも一歩引いた冷静さを見せる。それは知的な思考からくる冷静さではなく、単に「静かに悲しみを語る当事者」以外を当事者として見られないことに起因する。

結果、悲しみと傷つきの物語には寄り添いながら、強すぎる怒りの感情は冷笑するというお馴染みの構図が生まれることになる。

また「共感」ベースになった社会問題をめぐる対立は、「私(達)が如何にして傷ついているか」という当事者の語りと「お前たちは真の当事者なのか?」「お前たちの傷は本物か?」という批判の根本的に無意味な対立となる

つまり、「本当の当事者の心の傷はどのようなものか?」というところだけが問題になっていき悪しき当事者主義ないし当事者の心の傷至上主義の様相を呈していく。

結果として共感を集められる心の傷の語りがテンプレの如く増殖し、普段は感情論を批判している馬鹿も自分のこととなるとテンプレに従って語りたがるわけだ。

逆にテンプレの語りから外れた語りは無視される。

また、その語りを聞く側もテンプレに従って「共感」さえしていれば良く、問題の解決に関わる必要に迫られるわけではない。なぜなら、「共感」が「心の傷への共感」である限り重要なのはその傷に寄り添っていることを表明できるかどうかだからだ。

こうして日々SNSで大量に見られる「自己の似たような経験を語り共感は示すものの何もしない人たち」と「共感を示す人を優しい人と評価するけど何もしない人たち」が生まれるのである。まったく「いい人」だらけの世の中になったものである。

「配慮」の論理も「共感」の論理も「社会を変えよう」という論理ではない。

それらは、あくまで誰からも傷つけられない場所で身内を増やしていくために必要なことでしかない。

「誰も傷つけていないのだから、誰からも批判される筋合いはない」という理屈と「当事者の悲しみに寄り添うべきだ」という理屈をみんなが持っている。

こうして当事者の心の傷至上主義になっていくと、「悲しむ当事者」と「それに共感する人々」というスタンダードが生まれこのスタンダードから外れたものは無視され封殺される。

こうして「配慮」と「共感」だらけになった世の中では、「配慮」によって異質な他者を遠ざけるプロセスと「共感」によって異質な他者を同化するプロセスが繰り返される。

結果、人々が「自分と同質な身内の人間以外にはコミュ障」という状況になる。

……というと少し滑稽に聞こえるかもしれないが、事態は深刻だ。

なぜなら、異質な他者への接近という契機がない以上、異質な他者を考慮せざるを得ない民主主義的な議論も疎遠なものとなるからだ。

そして異質な他者と接近する契機を与えられないまま、「何も考えずに楽しく過ごしていたいが馬鹿に思われるのは嫌だ」という心象だけを保持したまま、傷つくことを避けるようになっていく。

結果、「科学」とか「法」などの、議論を単純化しながらも頭が良さそうに聞こえる言葉だけが乱用されていく。つまり、実際は思考停止しているのに自分は思考していると思い込む上で便利な言葉だけが使われていく。

これが「科学」依存が生まれる大まかな構図であると私は考える。

「科学」への信仰をする者たちが、理性による議論を訴え感情論を批判するように見えて非常にナイーヴな心象を抱えているという捻じれも、この構図を考えれば説明がつく。

4.崩壊する民主主義

こうして「科学」という言葉の使われ方について考えてみたが、もちろん別の見方をすることはできるだろうし、データがあるわけでもない。

否定しようと思えば否定するのは簡単だろう。

ただ一つ言うのであれば、データや事実がないから非科学的になるわけでも、非論理的になるわけでもない。データや事実それ自体が重要だとしても、データや事実は主張の説得力にとって十分条件でも必要条件でもない。

科学的データがないことを理由に相手の論理を認めず、科学的データに基づいているから自分は正しいと主張するのは端的に間違っている。

何かを批判をされた時に、「私は科学的に間違ったことを言っていない」と開き直る人間もいるが、科学は正しさを保証するためのものではない。

全てに科学的基準を参照することはできないし、科学的に間違っていないなんてことも言いきれない。

何ら証明されていないことを信じることは時に必要であるし、それを人は信念と呼んだりする。

科学の領域であっても何らかの信念から新たな発見が生まれることはあるし、科学の領域以外では私たちは自らの信念について語ってよい。

もし、信念と科学に優劣を付けようとするならそれ自体一つの信念に過ぎないだろう。

しかし、彼らは自分たちもある種不合理な信念で動いていることを否認する。

信念という言葉は大げさで暑苦しい響きを持つようになった。もはや、民主主義において誰も自分の信念を語りたがらない。

自分の意思を社会に反映させようという時も、各々の信念を語るのではなく、「科学」という形で語ろうとする。

誰も自分の信念を語らない科学依存症な態度の蔓延は、端的にこの社会の構成員が民主主義に耐えられなくなっていることを示しているのかもしれない。

民主主義では対立の末に一定の合意が為されても、それは暫定的なヘゲモニーの一時的な帰結、つまり対立的合意でしかない。

しかし、そうした不安定な状況は絶え間ないストレスを産む。

だから理性的に合意する議論を理想化する人たちが出てくるのだ。彼らは合意それ自体を目的化し、合意という目的の邪魔になる意見を排除しようとする。

現代の「配慮」と「共感」の論理は、絶えず新しい対立の可能性を孕んだ不安定な合意しかできない民主主義と対極にある。

また、私自身まぎれもない現代人の内の一人であり、自分は違うと言いたいわけでもないことは付言しておく(もちろん違うかもしれないが)。私がどうであるかはこの際どうでも良いことだ。

私たちは安易に「科学」という言葉を使いたがる現代人の傾向について考えなければならないだろうし、科学主義者達の振りまく「科学」という幻想に気を付けなければならないだろう。

もちろんそれでは単なる科学主義への警鐘に留まってしまう。

本当に考えなければならないのは、民主主義の機能不全をどうするかである。

 

 

【参考文献】