京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

差別はなぜいけないのか~差別の定義について~

0.はじめに

この記事では差別とは何なのか、差別はなぜいけないのかを考えていく。

差別がなぜいけないのかを改めて考えることは、差別はいけないと分かっている人にとっても重要だ。

以前も書いた通り、差別の何が悪質なのかについて考えずに差別を批判し続けたら、誰も批判を真剣には受け取らなくなってしまうからだ(過去記事:差別と区別の違い~「差別ではなく区別」は本当か~)。

実際、怒られて面倒だから取り敢えず謝る人や、「差別して何が悪い」と開き直ったりする人はいる。中には「差別を批判する人間こそ、差別する人間を差別している」なんて意見もあるほどだ。

もちろん、この記事は一つの意見でしかないので絶対に正しいとまでは言わない。反対意見も多くあることだろう。

私が望むのは、少しでも多くの人が差別について改めて考えることだ。この記事がそのきっかけになれば幸いである。

1.差別の定義について

さて、前回までの記事で差別、区別、偏見はそれぞれ違うものだということについて見てきた。そこで確認したのは以下の点だ。

・ある特徴を基準に区別して誰かに実害を与えているからといって差別とは限らない。

・不合理な理由で区別しているからといって差別とは限らない。

・偏見で誰かを不当に評価したからといって差別とは限らない。

(↓詳しくは以下の記事参照)

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

では一体、差別の悪質さはどこにあるというのだろうか。

ここには、大きく分けて二つのアプローチが存在する。

一つは、「差別」という漠然と大きな括りで考えることをやめることだ。

批判されるべき悪質さを持った差別は、性差別、人種差別、障碍者差別など一纏めにするにはあまりに多くの分類を含んでいる。

そして、それらはそれぞれで指摘されている悪質さが異なっている。

性差別には性差別の、人種差別には人種差別の、障碍者差別には障碍者差別の悪質さがあり、一括りに差別として議論しない方が良いというのがそれである。

私個人としてはこれに賛同したい。

というのも、実際、差別という言葉はあまりに広範に使われてしまったがゆえに差別への批判が何を意味するのか理解されていないと感じるからだ。それは、それぞれの差別が持つ歴史が軽視されてきた結果であり、その歴史の軽視が今の差別問題に対する無理解を生み出していると思われるからである。

差別問題として一括りに語るよりは、それぞれの差別問題が持つ固有の歴史について深く理解していく方が良いだろうというのは一定の説得力がある。

だが、歴史において差別という大枠の概念そのものが語られ議論されてきたということも軽視してはいけないのではないかとも思うのだ。

差別が悪質だと批判されるのは、差別が我々が大切にすべき何を毀損してしまっているからだ。

つまり、差別がなにゆえ批判されてきたのか、差別を批判するとは一体どのようなことなのかについて考えるなければ、私たちが差別によって何を失っているのかも分からなくなってしまう。

だから、差別の悪質さについて考えることは、差別が毀損してしまっているものの価値を再考することにも繋がるのである。

では、差別は一体何を毀損してしまっているのだろうか。

差別が何を毀損してしまっているかという点について、デボラ・ヘルマンは次のように述べる。

差別の難問が道徳的な関心の的になるのは、人々を異なる仕方で処遇することが、人々は同等の道徳的価値をもつという理念に衝突する恐れがあるからである。

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)

 

(デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』P42)

デボラ・ヘルマンは差別が悪質であるのは、差別が人を道徳的に平等な価値を持つ存在として扱い損ねる行為だからだと主張する。

差別はそれが貶価するときに不当である。貶価することとは、他の人を価値において劣った者として扱うことである。(中略)貶価することとは、他者を不完全な人間として、または同等の道徳的価値をもたない者として扱うことである。貶価することとはしたがって、部分的には表現行為である。

(デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』P48 、p51)

デボラ・ヘルマンは、差別の悪質さは区別を設けることで特定の人を貶価へんかすることにあると言う。

ここで貶価へんかという概念が持ち出されているが、貶価へんかとは「(道徳的)価値において」「劣った」者として相手を扱うことである。

重要なのは「(道徳的)価値において」という部分だろう。ただ劣った者として扱うことだけでは貶価へんかにはなりえない。

また、全ての人間が他の人間を「劣った」者として扱うことができるわけではない。ある人間を「劣った」者として扱うためには、それなりに力のある立場が必要となる。

貶価することは、下に置くことである。すなわち、地位を低下させること、あるいは劣位化することである。貶価するためにはしたがって、単に、他者の平等な人間性に対する尊敬の欠如を表現するだけでなく、その人が、その表現で他者を従属化できるような立場にあることが重要である。

(デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』p51、52)

デボラ・ヘルマンは例として、会社の上司に向かって唾を吐きかけることとホームレスに向かって唾を吐きかけることは意味が違うことを挙げている。

つまり、自分より立場が上の人間にこれを行うことは貶価ではないが、自分より立場が下の者にこれを行えば貶価となるということだ。

この説明は、「誰が」「誰に向かって」それを行うのかによって、その行為の持つ意味が変わってくることの説明としては分かりやすい。

しかし、これはある誤解を生み出してしまうかもしれない。

というのも、相手を貶価するには相手を貶価できるだけの「立場」が必要となるが、この場合の「立場」というのは必ずしも社会的地位に関連しているわけではないし、単一の基準で考えられるものでもないからである。

例えば、上司に唾を吐きかけるシーンについて考えよう。この場合、部下が白人で上司が黒人だった場合はどうなるだろう。デボラ・ヘルマンの言うようにこれは貶価ではないと単純に結論してしまえるだろうか。さらに、部下が白人の男性で上司が黒人の女性だった場合はどうだろう。この場合、上司の方が会社での地位が上なので貶価ではないという主張はかなり怪しくなってくるのではないだろうか。

この場合考えるべき立場とは社会的地位のみならず、人種、性別、その他属性全てを考慮した相対的な社会的立場のことである。

ここで一度まとめよう。

悪質な差別は被差別者を貶価する。そして、貶価することは人に平等に道徳的価値を認めるという平等の原理に反しているため、差別は悪質なのである。

2.差別の悪質さは何によって決まるのか。

デボラ・ヘルマンの言うように差別の悪質さがどの程度貶価するのかという点にあるのであれば、その貶価が社会的文脈の参照によって起こる以上、差別の悪質さもまた社会的文脈によって決定される。

社会的な文脈によって差別か否かが決定される例がある。

それは差別用語による表現行為だ。

差別用語を使った表現行為は発話者の意図を問わず差別であるとされる。この時、差別用語に差別的な響きを持たせているのは直接的な意味内容ではなく社会的文脈である。

差別用語は標準的(とされる)言葉との対比関係があることではじめて差別的に機能する。標準との対比があることで、差別的(=標準的でない)な言葉は定義されうるのである。

「めくら」などの差別用語はもともとは(悪意の有無に関わらず)日常的に使用されていた一般用語だったが、NHKなどのメディアが「めくら」などの用語を「視覚障碍者」などの言葉に置き換えたことで「視覚障碍者」が公的な用語として認識された結果、「めくら」という言葉は悪意的にしか使われなくなっていき、次第に差別的な響きを持つようになってしまったという経緯は有名な話だろう。

標準的(とされる)言葉との対比関係によって、類義語は別のニュアンスを持ちうるが、そのニュアンスがどのようなものなのかを決定するのは結局のところ社会的文脈によるだろう

そして、差別用語を使用することが差別的であるのは、その用語をわざわざ使わずに他の標準的言葉で置き換えることができるにもかかわらずあえてわざわざ差別用語(とされる語)を使用するということが差別の表現行為であるからだ。

差別用語を使用することは、それ自体が差別の歴史や差別的社会構造を暗黙のうちに承認する表現行為となってしまうため、その言葉で示された人々を貶価する。いわゆる「差別的偏見の助長」とはこのことを指している。

貶価によって差別を考えることは次のような例を考える上でも有効である。

有名黒人サッカー選手が観客からバナナを投げ込まれる人種差別を受けることは珍しくない。サッカーの試合で黒人選手に対してバナナの皮が投げられることは1970年代からイギリスなどで行われることがあった。最近ではバルセロナのアウベス選手がアウェーのビリャレアル戦で観客から投げられたバナナを丁寧に皮をむき食べてからコーナーを蹴ったことが話題になった。これに対し、地元紙ムンド・デポルティボは「人種差別に対する最高の返答」だと報じた。

このケースにおける差別の悪質さについて考える時、前回までの記事で言及したような方法では差別の悪質さが同定できないことが分かる。

黒人選手のいる近くのフィールドにバナナを投げることそれ自体は誰の利益も奪っていないし、誰かに損失を与えてもいない

バナナを投げるという行為の不合理さについて考えた場合、不合理なのはバナナを投げることではなく、フィールドに物を投げることであると言える。サッカーの試合で観客がフィールドに物を投げるのはよくあることであり、迷惑な行為ではあるが悪質な差別というわけではない。

また、バナナを投げるという行為自体は直接何かを意味しているわけではない。バナナを投げることは、黒人というカテゴリに対して直接負の価値評価を下していない。バナナを投げること自体は、その人物のもつ人種のカテゴリに対して直接負の意味合いを持たせるわけではない。

確かに「バナナ=サルの食べる物」という連想から、バナナを投げることは侮辱に相当するかもしれない。

バナナを投げることは、投げられた相手を「バナナを食べるような奴=サル」に譬えるという意味が含まれているかもしれないし、当然のことながら、人を動物に譬えるのは一般的に侮辱的な行為であるだろう。

しかし、侮辱的な行為はそれだけでは差別ではない。侮辱の中でも特定の性質を持つものだけが差別として扱われる。

これを考えるには、バナナを投げられたのが黒人ではなく白人であった場合を考えれば十分だろう。白人でなくとも人に対してバナナを投げる行為は侮辱的であるが、それだけではその人間の人種全体への差別とは言えないだろう。

バナナを投げることがそれ自体では侮辱の意味しかなく、一般的に差別的な行為であるわけではないことは理解できる。それでも尚、黒人選手に対してバナナを投げることは差別的であるとされる。

このように、行為そのものの悪質さを考えても差別の悪質さは見えてこないのだ。

では、一体何が侮辱と差別とを分ける要因となるのだろうか。

それは黒人がどのように扱われてきたかという歴史に関係している。

黒人奴隷の歴史、つまり黒人が、未熟で劣った人間以下の存在として家畜のように扱われてきたという事実が、「バナナを投げる」という行為に侮辱以上の意味を持たせているのだ。

黒人が奴隷として、人間としてではなく家畜のように扱われていた時代があったという歴史によって、「黒人にバナナを投げる」という行為が、黒人を貶価する表現行為となるのだ。

ある行為が差別的意味を持つのは、ある人々を劣位に置き虐げてきた歴史や格差構造を持った社会的背景が参照されることで、相手を貶価する行為となるからである。貶価するかどうかは社会的立場が関係するが、その社会的立場には歴史的文脈や社会的な背景が少なからず関わっているのだ。

アパルトヘイト、植民地支配、ヘイトスピーチなどの悪質さは、その人種がどのように扱われてきたかという歴史に深く関わっている。

企業が女性を採用しようとしないこと、大学入試で大学が女性の点数が下げることの悪質さは女性が未熟な存在であり、家庭に仕えるべき存在として認識され扱われてきた歴史に関連している。

これとは対照的に、学力によって入学可否を決めること、免許取得ができる年齢に制限があること、採用試験で採用者が同郷の人間を贔屓すること、若者はけしからん論が流行ること等は特定の基準により人を区別することであっても差別の問題として扱われない。

それはそこに差別の歴史、差別的背景が存在しない(と考えられる)からである。

つまり、それらの行為は誰かを道徳的価値が劣った存在として従属させる行為であるとまでは思われていないのである(今のところは)。

このように、差別を考える上ではその差別を悪質たらしめる歴史的な背景や社会的文脈について考えうことが重要になってくるのだ

3.貶価という概念の客観性

問題のある差異化(=差別)は貶価を伴っている。そして貶価とは、相手を下に置くことのできる相対的立場を持った人間が、相手の道徳的価値を損なう行為であるというのがデボラ・ヘルマンの主張だった。

とはいえ、差別の悪質さを貶価という概念で考えることに対して反発はあり得るだろう。

それは社会的文脈や背景というものは人によって解釈も理解も異なるため、どのような区別が貶価なのかについて客観的に定めることは不可能だという反論だ。

まず第一に、何が貶価になるのかが社会的文脈や背景によって決まる以上、社会的文脈や背景の解釈の差はありえる。社会的背景や歴史に対する解釈や理解に差があることは、何が貶価にあたるのかを考える際に論争を起こすかもしれない。

だがこれは本質的な問題だろうか。

論争が起こるということ、論争が困難になること自体は「何が貶価になるのか」「悪質な差別とは何か」について客観的に判断を下すことを不可能にするわけではない。デボラ・ヘルマンはこの点について次のように述べる。

他の多くの倫理的問題についても重大な不一致は存在する。たとえば、人口妊娠中絶は道徳的に許容可能かどうか。自殺や終末期の患者に対する自殺幇助はどうか。(中略)提示された第一の理由は、そうした事柄については重大な不一致が生じがちであるということだった。そうだとして、その不一致が、より一般的に道徳的問題に関して生じる不一致よりもより広範に生じがちである(少なくとも重大な差がある)ように私には思えない。

(デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』p121)

では、悪質な差別や貶価を議論する際に、社会的背景や文化についての正しい理解が必要になるなら文化内部の人間にしか議論ができないのかという反論についてはどうだろう。

確かに、正しい文化理解や歴史理解がなければ貶価について正しい見解を述べることは難しいだろう。

しかし、文化の内部で生活する人間にしかその文化理解や歴史理解を行うことができないというのは行き過ぎた前提ではないだろうか。デボラ・ヘルマンは次のように反論する。

ある文化の参加者は通常、その文化的慣行の重要性を部外者より理解しているが、いつもそうだというわけではない。たとえば、何かにあまりに親しみすぎていると、それゆえにそれをよく見たり理解することができないということがありうる。また、ある人がその文化の成員でなく、その文化の慣行や儀礼の参加者でないという事実は、その人が想像を介してその文化に入り込むことを不可能にするわけではない。

(デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』p125

もう一つありえる反論は、解釈も理解も異なる人々が何が貶価にあたるのかについて議論した結果、マジョリティ集団にとって有利なバイアスのかかった結論が導き出されるおそれがあるという反論だ。

なるほど、解釈も理解も異なる人々が話し合った結果マジョリティ集団の利益になるような結論が導かれるかもしれない。

しかし、それはあらゆる議論に言える話である。

そこから導き出せるのは、せいぜい議論のやり方を変えるべきだというものでしかないだろう。議論そのものをやめようという話にはならないはずだ。デボラ・ヘルマンは、議論はどのみち必要であるとした上で、歪んだ結論が導き出される可能性があることは理論そのものの問題ではないとしている。

人が自らの考えを変えるためには、自らの行為を評価するためにどういう理論を用いるにせよ、物事を違った仕方で見る能力が必要である。

 第二に、さらに重要なことに、たとえ私の見解を採用することが支配的社会集団による支配をもっと悪質なものにする見込みがあるとしても、その事実はこの理論を理論的なレベルで拒否する理由を与えるわけではない。(中略)理論の価値は、人々がそれを間違って適用する見込みが高いかどうかという観点からは評価されえない。

(デボラ・ヘルマン『差別はいつ悪質になるのか』p128、p129)

議論がバイアスのかかった結論を出す可能性があるからといって、客観的な結論を導くことが不可能だというわけではない。

バイアスのかかった結論を導いてしまうのが問題だというのはその通りだが、そうであるならより相応しい決定の方法、議論の方法について考えるべきだというだけの話だ。議論そのものをなくすべきだという結論は導かれない。客観性を導くためにはどのような形であれ議論は必要なるだろう。

差別の定義に十分な客観性を持たせないまま差別を批判することは良くないことだろうが、問題は一体何を「十分な客観性」と見なすかということなのだ。

差別の定義が、完全に議論の余地なく差別とそれ以外を峻別できるものさしである必要がどこにあるだろうか。

たとえどのように定義を定めようが、その定義にあてはまるかどうかという解釈の余地はいくらでもありえる。

多くの人は差別の悪質さについて考える際、あまりに利便性を求めすぎている。

言い換えれば、差別が悪質である根拠を見つけようとする際、人は差別をはっきりとした実体として捉えようとし過ぎている。まるで差別とそうでないものを早見表のように分類することができるかのような錯覚にとらわれている。差別とそうでないものの境界ががはっきりと判別可能であるとか、明確な基準さえあれば誰でも簡単に差別とそうでないものの区別を付けることが可能だとか、そうなるべきだというような前提が漠然と共有されているように思える。

だが、明確な基準があったからといって即座に差別とそうでないものが峻別可能であるとは限らない。裏を返せば、個別具体の事例を即座に差別かそうでないか判別できるような基準を求める必要はない。

それは、法律が明確に定義されていても、我々が裁判によってどの法をどのように適用するかを日々判断する必要があるのと一緒だ。

基本的人権に基づき、社会を成り立たせる上で必要なレベルの明確さを持った基準というものは、人々が判断を下す上で重要な争点になるべきものであり、機械的なマニュアルである必要はない。

誰もが簡単に差別とそうでないものを見分けられるかどうかという点は、明確な基準を考える上ではあまり問題にはならない。

明確な基準でもって個別具体の事例を考えたとしても、ある人はそれを差別と言うかもしれないし、ある人はそうじゃないと言うかもしれない。

基準も定めないまま何が差別について話し合うことは不毛な分断だが、論点となる基準を設けた上で議論されるのであれば、少なくとも無意味ではない。同時に、基準を設けて議論を可能にすることは「差別主義者」という言葉を恣意的に使ったレッテル貼りの有効性を失わせることにも繋がるはずである。

回避しなければならないなのは、何が差別かについて議論する際に、論点となる基準が見えなくなることで議論が誰にも理解されず忌避されてしまうことである。

その点で言えば、「貶価する仕方で区別するのが差別である」という定義は十分に機能する。

4.差別問題の今後

デボラ・ヘルマンの定義するように貶価を起こすような区別が差別なのであれば、いかにして社会的文脈、背景、歴史に対する理解を人々の間で共有できるかという点に差別問題の今後も委ねられている。

参照される歴史の存在が重要になるのであれば、歴史の共有が複雑になってしまった現代において差別問題を語ることはかなり困難が付きまとうだろう。だからこそ、差別を擁護しようとする者たちは歴史を忘れ去ろうと、あるいは忘れようと呼びかけるだろう。

差別に抵抗する為には、これら歴史修正的な欲望に対しても抗うことも必要になるのではないだろうか。

次回はよく言われる逆差別について、これまでの議論を踏まえながら検討したい。

【次回記事】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

【関連記事】

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5.【参考文献】

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)

差別はいつ悪質になるのか (サピエンティア)