京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

科学とは何か?~エセ科学、疑似科学との違い~

0.そもそも「科学」とは何か?

科学を尊重すると言いながらオカルトやエセ科学(疑似科学)を批判する人が多い。

しかし、エセ科学(疑似科学)やオカルトを「科学的ではない」と批判する人たちは、そもそも「科学的」とはどういうことかについてちゃんと説明できるのだろうか。

何かを「科学的ではない」と批判するのであれば、少なくとも「科学的」とはどういうことかについて理解している必要があるのではないだろうか。

そこで今回は「科学的」とはどういうことかについて、エセ科学(疑似科学)やオカルトとの違いを考えつつ整理していきたい。

1.科学の特徴について

「科学とは何なのか?」について考えるためには、どんな特徴があれば科学と言えるのかについて考える必要がある。

科学の特徴というものがあるなら、それを持っているものが科学で持っていないものが非科学ということになる。

しかし、一般に思われているほど科学の特徴ははっきりとしておらず、上手く非科学との差を強調できないのではないだろうか。

一般的に科学の特徴と思われているものを一つずつ検討していこう。

説その1:科学は確実な事実について記述する。

一つ目は、科学は事実をより正確に記述する学問であるという論だ。

しかし、これが正しくないのは前回の記事でも見た通りだ。

科学による事実の解釈も時代と共に変遷してきた。

科学による事実の記述は誤る可能性もあるし、科学は唯一正しい事実の記述というわけではない。

一つの事実に対しても様々な角度からのアプローチ、複数の解釈や記述がありえる。

社会問題についても、心理学的視点や社会科学的視点からだけでなく、政治学的視点、哲学的視点、法学的視点、歴史学的視点など様々な視点からのアプローチ方法がある。

科学も事実にアプローチする方法の内の一つでしかない。

ある特定の側面から事実を記述するというのはあらゆる学問の特徴であり、科学の特徴とは言えなそうだ。

説その2:科学には反証可能性がある。

カール・ポパー科学には反証可能性があると主張し、反証が不可能なものは非科学だとした。

反証可能性とは、実験や観察によってある理論が否定される可能性のことだ

検証可能性と言った方が理解はしやすいかもしれない。

科学的に正しい理論とは、今までの検証では否定されずに残っている理論のことである。どんなに正しいと思われている理論も、今後の検証によっては否定される可能性を持っている。

ポパーは、全ての科学理論は検証の結果否定される可能性を持っている一方で、非科学的主張は反証可能性を持っていないと主張する。

例えば「神は乗り越えられる試練しか与えない」という主張は反証不可能だ。

試練を乗り越えられなかったケースを反証として持ち出しても、「たまたま失敗しただけで、神様は本当は乗り越えられる試練を与えていた」と言うことが出来る。

「世界はある秘密結社に支配されている。私たちが目にする情報は何者かによって改竄され操作されたものだ」というような陰謀論も反証不可能だ。

反証を出そうとしても、反証に使われたデータが改竄されていると言われてしまうだろう。

ポパーは、上の例のように後出しでいくらでも言い訳できる主張は、どんな検証結果を突き付けても言い逃れすることができるために反証が不可能=非科学的と結論付けた。

確かにポパーの言うように、オカルト的な主張はあらゆる検証を無意味化にするように理論が組み立てられてるように見える。

占いなんかも、誰にでも当てはまるような曖昧なことを言って必ず当たるようにしている(詳しくはバーナム効果を検索)。

しかし、反証可能性で科学とオカルトを分けようとするといくつも不都合が生じる。

一つ目は、科学も現段階で検証不可能な理論を立てることがあるということだ。

科学は宇宙の起源についてビッグバン理論を立てたり、物質の基本的構成について超紐理論(超弦理論)を立てたりするが、これらは検証不可能だからオカルトなのだろうか?

おそらくそうは言えないはずだ。

二つ目は、どんなオカルトも反証可能性さえあれば科学と言えてしまう点だ。

例えばここに、複雑で緻密に練られたSFの設定みたいなスピリチュアル理論で、天気予報よりも精度の高い予言をしている占い師がいたとしよう。

この占いが十分具体的な内容の予言で、予言内容が外れることで反証される可能性があるとしたら、この占い師は科学者ということになるのだろうか?

反証可能な形で理論を立てていれば魔術だろうが予言だろうが科学的と言うのはおかしな話だ。

最後の問題点は、科学の世界でも検証結果を反証として認めない場合が少なくないということだ。

科学も検証の結果出てきた反証に対して、理論ではなく補助仮説が間違っていると後から主張されることはよくある。

補助仮説とは仮説の検証に必要な条件に関する仮説のことで、例えば「実験者は誠実に正確に実験を行っている」というのは暗黙の補助仮説として常に存在する。

補助仮説の修正とは、言ってしまえば検証に必要な条件が足りない可能性を考えたり、単純に検証方法が間違っている可能性を疑うことで、これは間違ったことではない。

心理学でも実験が失敗した際にもまず補助仮説が間違っている可能性を疑う。

他にも、出てきた反証を誤差や外れ値、例外として無視したりすることもある(これについても前回記事参照)。

これらの点から、反証可能性というのは科学と非科学を分類する上で適切ではないと言われている。

説その3:実験ができないなら科学じゃない

実験で検証するというのは科学であることの十分条件ではないが必要条件であると言う人はいるかもしれない。

つまり、実験ができない分野は科学ではないという主張だ。

しかし、厳密でない粗雑な実験ならエセ科学(疑似科学)もよく行っている。

よって、科学に求められる実験は厳密かつ十分なものでなければならない。

そうなると、厳密な実験が難しい分野についてどう考えるのかという問題が出てくる。

もし、十分に厳密な実験を行えることが科学の条件であるなら、いつくかの分野は科学から除外しなければならなくなる。

まず、科学には現在の技術力では十分な実験ができない理論だ。

先ほど挙げた超紐理論(超弦理論)などがそうだ。物理学の一部は科学から除外しなければならなくなるだろう。

また、宇宙の始まりや古代生物の絶滅に関する理論など、過去の出来事に関しても十分な実験をすることができない。こうなると天文学の一部と地質学も科学から除外することになる。

厳密に実験条件を整えることが出来ない問題は他にもある。

環境科学も、地球のような惑星だけでなく太陽や月も用意しなければ厳密な実験ができない。

社会科学も、複雑な社会状況や歴史的事件を再現した上で実験する必要があるがそんな実験は不可能だろう。

つまり、厳密で正確な実験を行うことを科学の条件としてしまうと、観察科学や理論科学が重視される分野、環境科学や社会科学などの不十分な実験しか行うことができない分野を科学から除外しなければならなくなる。

それでは科学の範囲はかなり限定されてしまう。

分野毎に実験に求められる厳密性や重要性は違うと反論する人がいるかもしれない。

しかし分野毎の差異を強調するなら、その差異を無視して「科学」という言葉で一括りにまとめて良いのかがかなり怪しくなってくる。

また、どのような実験が行われていれば科学と認められるのかについても統一的見解を出せない。

それでも実験こそが科学の特徴だと言うなら、分野によって科学の定義が異なることを認めることになるが、分野毎に科学の定義が異なることを認めると、新しい分野を名乗って「この分野ではこれが科学だ」と言えばエセ科学だろうがオカルトだろうが科学になってしまうことになる。

やはり、実験という要素を科学全体の共通の特徴とするのは無理があるように思える。

説その4: 再現性があるのが科学

科学には再現性が無ければならないと主張する人はよくいる。

しかし、再現可能性という点から科学を定義しようとすると、実験で科学を定義するより科学の範囲を狭めることになる。

まず科学技術研究の最先端は科学ではないことになる。

技術研究の最先端で行われているのは、今までできなかったことを可能にするための研究、すなわち「再現性がない現象の再現性を高める研究」だからだ。

研究が進んではじめて再現性が確保されることになるが、再現性が確保されるまでその研究は科学ではないということになるわけがないだろう。

また、一時注目された「再現性の危機」の問題もある。

「再現性の危機」とは、過去の科学実験で得られたはずの結果が、後続の調査(実験者本人による追加調査も含む)では再現できないという問題だ。

科学誌『Nature』で2016年に公開された調査によると、研究者の70%以上がほかの研究者の実験を再現しようと試みて失敗し、半数以上が自分自身の実験を再現することに失敗しているという結果が出てきた。

もちろん分野によって再現性の度合いは異なるが、特に心理学(40%)やがん生物学(10%)が当時注目されていた(一応心理学側からの反論とそれに対する再反論などもあったようだが)

なぜ「再現性の危機」が起こるのかについては諸説あるが、ファイルドロワー効果(先行研究を支持するデータを集めようとして思うようなデータが得られなかった際に、研究者は自分が失敗したと思いそのデータを公開しない)などが有名だろう。詳しくは『生命科学クライシス』(著:リチャード・ハリス)を参照して欲しい(主に生物学の再現性の危機について解説している)。

また、「再現性の危機」以前に、ビッグバンや恐竜の絶滅などの一回きりのものについての研究や、地質学なども再現性とは縁遠い。

社会科学に至っては、常に細かく変化し続ける社会状況が再現性の確保を難しくしてしまう(そもそも社会科学は科学ではないと言う人もいるかもしれないが……)。

再現性は技術化されるための条件であって、科学の条件ではない。

再現性が科学の重要な特徴だという考えは、科学技術と科学研究を混同している。

ここまで整理すると、科学とは何なのかという問題はそう簡単に答えが出せない問題だということがよく分かる。

2.科学の水準は変化する

ここまで見てきた通り何が科学と言えるのかについての明確な基準を設けるのはかなり難しい。

また、現在科学と呼ばれているものは「絶対に正しい」と証明できない(もし現在の理論が絶対に正しいことを証明しようとすれば、その証明が絶対に正しいことを証明する必要がある。そしてその証明が正しいかの証明も必要になって……以下無限に続く)

かつての科学理論が現代では否定されているように、今正しいと信じられていても未来では覆るかもしれない。

科学の正しさは更新されていくというのは当たり前の話で、今後も更新があるかもしれない。

よって、「絶対に正しい」と言える科学はない。

そう考えると、科学とエセ科学(疑似科学)の差は「どの程度正しいか」という程度問題にあるのだろうか?

だが、どの程度正しければ科学と言えるかの基準値は決められない。

時代によって、科学の発展の水準は大きく変化するからだ。

天気予報を例に挙げよう。

天気予報の精度も50年前と比べれば格段に精度が向上した。

2022年現在では降水の有無(翌日雨が降るかどうか)の的中率は90%に近づいてきている。

しかし、1950年当時の天気予報の降水の有無(翌日雨が降るかどうか)の的中率は約72%だった。

72%と言うとそこそこ当たっていそうな印象を受けるかもしれないが、翌日雨が降るかどうかの二択を当てる確率なのでお世辞にもそこまで高いとは言えない。

精度という点では科学と言うより占いに近かったかもしれない。

もし精度の高さで科学かどうかが決定するなら、1950年までは天気予報はオカルトだったのだろうか?

おそらくそれはない。

たとえ今と比べて精度が低く占いと大して変わらないものだったとしても、当時の天気予報もまぎれもなく科学だったはずだ。(もっと予測が難しいものとして地震を挙げることもできる)

どの程度正しければ科学と言えるのかについては、時代によって異なると考えた方がいいのではないだろうか。

もちろん、科学は分野毎にそれぞれの発展をしているのだから分野によっても違うだろう。

何を科学と呼んでいいのかについて明確な規則やルールはない。

では、一体「科学」とは何なのだろうか?

3.「科学」は生き物

ここまで科学とエセ科学(疑似科学)の違いは案外曖昧だということについて確認してきた。

とはいえ、科学とエセ科学(疑似科学)違いはないという主張も極端だろう。

様々な捉え方があるにせよ、ここで一つの考え方を紹介したい。

それは、科学者達の間で科学と見なされれば科学で、科学者達の間で科学ではないと見做されればエセ科学(疑似科学)というものだ。

科学かどうかなんて科学者の価値観次第だという話ではない

科学という概念は、科学者が共同で研究をしていく中で漠然と共有されていくものだという話だ。

少なくとも現代の科学者はたった一人で研究するわけではない。

そこには研究という共同作業があり、学会という発表の場がある。

そこにある空気、共有されている緩やかな「価値」や「規範」が科学という概念を形作る。特定の力を持った人間の独断や偏見が科学の定義を決定できるわけではない。

数多くの科学者が、研究という共同作業をする上で共有される一定の規範(空気)や価値観のようなものが、科学とは何かについてその都度捉え直されていく。

だから、研究の営み方や、共同体の構造や空気が変われば「科学」の像も変わっていくというのは理にかなっている。

私たちが理解すもる必要があるのは、疑似科学エセ科学と呼ばれるものも、もしかしたら10年後には正しいと言われるかしれないし、逆に今まで科学的と呼ばれていたものがエセ科学と言われるようになるかもしれないということだ。

かつて正しいとされていたニュートン力学も、アインシュタイン相対性理論にその座を明け渡した。

科学の歴史において、新しく提唱された理論というものはそれまでの科学の理論の立場からは誤ったものとして反発を受けてきた。だが、「今まで正しいとされていたから正しい」とか「新しいから間違っている」ということはありえない。

科学哲学者トーマス・クーンは科学史上の大きな理論転換を科学革命と名付けた。

さらにクーンは、理論同士の対立は論理的かつはっきり優劣が決められるものではなく、意見の異なる科学者たち間で共有された価値観や規範という緩やかな基準で曖昧に優劣が決まると主張した。

クーンはそこで、科学革命における理論選択がまったくの無政府状態で行われるものではなく、そこには競合する科学理論のなかからよりよい理論を選択する適切な理由が存在することを述べている(中略)クーンの見解は、従来の科学哲学の伝統的見解とほとんど変わるところはない。しかし、彼はこれらの基準を、違背を許さない論理的アルゴリズムのような「規則」であるとは考えない。科学研究の現場でそれらの基準が果たす役割は「値値」ないしは「規範」という、より緩やかな形で捉えられるべきなのである。(『パラダイムとは何か』野家啓一 P232、P233)

野家啓一の言うように、トーマス・クーンは「パラダイム」という概念を使って、研究という共同の営みの中で共有されていくものがあることを説明しようとした。

「科学」の像も、研究という科学者達の共同の営み中で決定される。

そういう意味では「科学」は生きている。

ポパーが、科学は究極の真理に向かって前進していると主張したのに対し、クーンは科学の発展を進歩ではなく進化という言葉で表現しようとした。

ダーウィンが生物の進化に目的がないことを発見したように、クーンは真理という究極の目的に向かう科学という像に疑問を投げかけた。

科学の研究の中には、純粋な好奇心から行われた研究や、何の役立つのか分からないような研究、全く無意味に終わった研究も数多く存在した。

実際、科学が本当に真理に近づいているのかは究極のところ分からないとしか言いようがないし、証拠を出すこともできない。

一方で、私たちが長い歴史を生きる中で科学技術を発展させてきたのは事実だ。

そこでクーンは、科学の進歩を真理という究極目標への進歩ではなく、ある地点からの進化という図式で理解しようとした。

ポパーとクーンの科学論には明らかな意識の差がある。

ポパーは、科学のあるべき姿と科学者個人個人が守るべき倫理について語り、クーンは、実際の科学の営みと一つの研究に集まる科学者達の共同的活動について語った。

私個人としては、ポパーの科学観よりはクーンの科学観に一票投じたい。

4.結論

科学と非科学の違いについて、誰もが判別可能になるような基準はない。

(例えば、予測精度が~%以上なら科学でそれより低ければ非科学だという基準など)

科学という言葉が持つ意味は、時代によっても、分野によっても異なるだろう。言わずもがな科学者個人個人によっても。

それでも、その時代の科学界全体に共有されている規範や価値を基準として、何が科学で何がエセ科学かはその都度決定されうる。

科学が科学の営みと共にその姿を変遷させてきたのなら、科学とエセ科学(疑似科学)との境界も絶対的ではなく時代とともに変化していくものなのだろう。

 

さて、ここまで見てきたところで、普段使われる「科学」という言葉の受容のされ方に疑問を持ってくれる人がいれば幸いだ。

最近始まった話ではないが、「科学」という言葉があまりに無批判に使われ過ぎていないだろうか。

やたらと「科学的には~」と言いたがる人たちは科学とは何かについて考えたことはあるのだろうか。

科学者ではない素人でも「科学的でない」と言う言葉で相手を批判している。

科学的態度とデータ主義を混同したり、どこまでが科学の領域か、科学と非科学の境界がどこにあるのかを深く考えないまま「科学」という言葉を使っているくらいには行き過ぎた科学主義が蔓延している。

科学とは何かについて考えたこともないのに科学という言葉を使いたがるのは科学的態度なのだろうか?

社会には様々な問題が存在するが、それら全てに「科学的説明」を求めすぎているのではないだろうか。

次回の記事は、様々な議論で使われる「科学」という言葉について考えていこうと思う。

【次回記事】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

【前回記事】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

【参考文献】

(↓科学哲学の概観を把握したいのならおすすめ)

(↓カール・ポパー反証可能性という概念は「科学」についての概念ではなく、「科学者のあるべき姿」についての概念であるということがよく分かる。彼にとって、「科学者」とは自分が間違っている可能性を認める者、間違いから学ぶ者のことである。)

(↓多くの反響と批判を呼んだトーマス・クーンの「パラダイム」論。マイケルポランニーの『暗黙知の次元 (ちくま学芸文庫)』を念頭に入れると、クーンの言いたいことが分かるかも)

 

(↓よく誤解されるクーンの「パラダイム」概念について書かれている。変なノリに目を瞑れば分かりやすい)

(↓生物医学研究の再現性の乏しさが原因で新薬開発のコストばかりが増えていく現状を説明した一冊)