1.「科学的思考」の時代
私たちが日頃耳にする「科学」という言葉はもはや学問の一分野という意味を超えて、一般的な形容詞として使われている。
宣伝広告では取りあえず「科学的」と言っておけば馬鹿な一般人は釣られるだろうくらいの勢いで「科学的」という言葉が使われている(最近は「科学的人事」「科学的経営」という言葉まで聞く)。
そこまで馬鹿な人間でなくとも、自分が興味のある分野で「~について科学的に分かってきてこと」と書かれていたらとりあえず見てみる人は少なくないのではないだろうか。
「科学的思考」と言っておけば賢そうに聞こえたり、「科学」という言葉を聞くだけで「なんとなく信用できそうだ」という印象を抱く人も少なくないのだろう。実際、科学っぽい言葉で効果を謳ったインチキ商品に騙される人間はいるのだ。
しかし、そうした「科学」に対する漠然とした信頼感がある一方で、「科学とは何か」について考えたことのある人間がどれだけいるだろうか。
ひょっとすると私たちは、「科学とは何か」について考えたことがないのに「科学的思考」なるものを称揚する「科学信仰」の状態にあるのではないだろうか?
最近では社会問題について議論する時でさえも、議論は科学的であるべきだなんてことを言う人もいる。
事実、「科学的に説明しろ」とか「科学的な根拠を出せ」という批判はよく見かけるだろう。
しかしこの手の「科学的思考」をしたがる人たちはそもそも「科学」についてまともに考えたことがあるのだろうか?
今回は、「科学的に説明しろ」とか「科学的な根拠を出せ」というような「科学」という言葉を用いた批判に対しての疑問と反論を述べたい。
2.「科学的に説明しろ」「科学的な根拠を出せ」という批判
①科学的に説明するとはどういうことか?
第一に重要な点だが、科学的な説明をすべきというなら、何をどう説明すれば科学的に説明したことになるのかを提示するべきだろう。
それをしないまま、科学的説明を求めるのは卑怯でしかない。
実際「科学」という言葉はただの装飾で、単に「説明が足りない」と言いたいだけという場合も少なくないだろう。
この「説明が足りない」というタイプの批判は、往々にして誠実さに欠けている。
どの程度の説明を求めるべきものなのかについて何も提示せずに批判しているからだ。
つまり、「何を」「どのように」「どの程度」説明すれば、その批判に応答したことになるのかを示さずに、ただ「科学的に説明しろ」とか「科学的な根拠を出せ」と言ってている場合がそれだ。
科学は永遠普遍の絶対的正しさを提示することはできない。
どんなに正しいと思われていることも今後修正される可能性を持っている。
科学の正しさが「現在どの程度の妥当性があるか?」という程度の問題である以上、どこまで説明すれば妥当かを示す必要がある。
どの程度の正しさが必要とされていて、またどうしてそれが妥当なラインと言えるのかを提示せずに「科学的に説明しろ」と言うのは卑劣な批判の仕方だ。
なぜなら、何をどう説明すれば科学的に十分なのかというラインを提示していないから、後出しでいくらでも相手の言うことを否定できるからだ。
説明が足りないという批判をするなら、何を説明すれば十分なのかを示す必要があるし、どうしてそれを説明すれば足りることになるのかも説明する必要がある。
そうでなければ、この手の「(科学的)説明が足りない」という批判は、ただ単に納得できないという言葉を言い換えたに過ぎない(もちろんそういう場合が多いが……)。
②科学的に説明できるとする根拠は何か?
第二に、科学的に説明しろという批判が妥当なのは、その主張が科学的に説明可能である場合のみだ。
科学はこの世界の仕組みをよりよい仕方で説明しており、全ての主張は科学的根拠を求めることができるというのはただの「科学信仰」でしかない。
人権や抑圧、幸福や苦痛という概念については私たちは直接観察することも実験することも出来ない。
そういう物質的実体を伴わない概念(幸福、生きづらさ、抑圧、差別、格差)について科学的に示そうとすれば、それがどのような変数として現れるのかについて補助仮説を立てる必要がある。
だが、その補助仮説が正しいことを証明する術はない。
地球幸福度指数(HPI)が実態に沿わないと批判されているのを考えれば分かる話だ。
たとえ幸福や抑圧というものを指数として表せたとしても、どの指数がどの程度重い意味を持つのかについては結局個人の主観的判断に委ねるしかない。
また、ある人々の主張の基礎となる概念が科学的に調査可能でない可能性もある。もし全てが科学的に調査可能な変数として現れると主張したいのなら、その主張が正しいという科学的根拠を示すべきだろう。
主張が基にする事実の真偽を測る上、何を調査すればその事実が示されるのか分からないことは多く存在する。
だが、人権や民主主義、幸福や苦痛のような科学的に十分に検証出来ない概念であっても、私たちは語ることが出来るし語って良い。もちろん人権や民主主義という概念を私たちは論理の根拠にすることができる。
「科学的に説明すべきだ」という批判はよく見られるようになったが、まず本当にその言説はどの程度科学的説明が可能な話なのかを考えるべきだ。
③なぜ「科学的」である必要があるのか?
最後に指摘したいのは、この手の批判が科学的である必要性を示していないことだ。
科学的に説明しろというのなら、なぜその議論において主張が科学的であることが望ましいのかについて説明すべきだ。
仮に事実やデータに基づいて意見するべきだという意味で「科学的に説明しろ」と言っていたとしよう。
しかし、事実やデータに基づいた議論をすべきだという話だとしても、この世の全てがデータ化されているわけでも全ての事実が調査されているわけでもない。
この手のデータの不足を批判する人間は、社会調査はコストが掛かるというごく当たり前のことを理解していない。
仮に調査をしなければ民主主義の議論に参加するべきではないという主張なのだとしたら、まずその主張を支えるデータを出すべきだろう。
また科学的事実というものが理論によって解釈され叙述されたものである以上、データや事実は無目的には収集されない。
事実の集積から理論が導かれているのではなく、理論があってはじめてその検証のために事実やデータが集積されている。
過去に提唱されたことのある理論にしか事実やデータがないのは当たり前のことだ。
私たちの議論は、全て過去に提唱されたことのある社会理論に沿わなければならないとする理由もないだろう。
データは後で集めてもいいだろうし、政治的な主張にはデータが無ければならないという科学的根拠こそない。
事実やデータがない状態では政治的議論に参加するべきではないというのは、その人の勝手な信念であって科学とは関係がない。
仮に民主主義における全ての議論がデータに基づくべきと主張したいのなら、その主張の根拠となるデータをまず出すべきだ。また、全ての議論ではなく特定の一部の議論ではそうすべきだというならどのような議論の場合データに基づくべきで、なぜそれら特定の議論のみなのかをデータに基づいて説明すべきだろう。
以上三つの点から「科学的説明をしろ」と言うだけの批判はかなり欺瞞に満ちていると言っていい。
私たちは、そもそも科学的に説明可能なことなのか、なぜ「科学的」である必要があるのか、科学的に説明するとはどういうことかについて当然問うことができる。
そうでなければ、こちらはどう説明すべきかについての判断を下すさえことができないし、仮に説明を試みたとしても、相手は後出しで「科学」の定義を持ち出して「お前の言っていることは科学的ではない」と攻撃することができてしまう。
それでも「科学的説明とは何か? なんてを質問するのは科学について何も知らないからだ」と批判になってない反論をしてくる人はいるだろう(そういう奴に限って「科学」とは何かについて説明できないのだが)。
しかし、そういう批判はそもそも「科学」に対する誤ったイメージを基にしている。
「科学」に対する誤ったイメージとはおよそ次の二つだ。
「科学」に対する幻想その①「科学の世界では何が正しいのかについて証明する方法が確立されている」
一つ目の誤解は、他の学問と違って科学には「何が正しいのかを証明する方法」が存在するというものだ。
しかし科学的に正しいというのは、単に現在までは否定されていないというだけだ。
かつて正しいとされていたニュートン力学がアインシュタイン力学に否定されたように、現在の科学が否定されないとは限らない。
今の科学が絶対に正しいという科学的証明することは不可能だ。
いくら事実やデータを集めたとしても、今後否定的なデータが出てくる可能性はゼロにはならず常に残り続ける。
今日まで正しいとされてきたことが明日はそうではないかもしれない。
それが科学の世界だ。
だから、科学の世界においても「何が正しいのかを証明する方法」は存在しない(これについては過去記事参照:『科学的正しさとは何か?データや事実だけでは科学的に証明できない~』)。
「科学」に対する幻想その②「主観を排した科学的思考法というものが明確に確立されている」
もう一つは、科学的思考なるものが明確に確立されているという誤解だ。
科学者でも理論や事実の解釈など考え方の違いで対立や議論をするわけで、唯一正しい思考法のようなものがあると期待するのは間違いだ。
もちろん、科学者個人個人が科学的思考方法について個人的見解や信条を持っているということは否定しない。実際、科学者も哲学者も素人も「科学的思考」について持論を述べるのはよく見られることだ。
(ちなみにAmazonで「科学的思考」と検索すると、割と上の方に研究不正を疑われた早野氏の『「科学的」は武器になる―世界を生き抜くための思考法―』という本が出てくる。内容はというと何故かキャリア論じみた内容らしいが……)。
この場合の「科学的思考」というのはどちらかと言えば信念に近い。
科学の全体像自体が科学の営みの中で変化していくのだから、科学の思考法も不変の定義があるわけではない。
つまり、科学の世界では何が正しいのかを証明する方法も、常に正解を導く科学的思考法も確立されているわけではないのだ。
だから「科学的に説明するとはどういうことで、なぜ科学的に説明しなければならないのか?」ということについて疑問を持つことは当然のことのはずだ。
「科学的」とは何かについて疑問を持つことは、科学に対する無知ではない。
2.科学的説明をしなくても人は説得される
考えてもみて欲しいが、そもそも「科学的」とは思えないような説明でも人は説得される。
科学的説明でないと人は説得できないわけでもないし、説得していけないわけでもない。
もっと言えば、科学の世界でも新しい考えに納得するというプロセスは「科学的」なものとは限らない。
有名な話だが、コペルニクスが提唱しガリレオやケプラーが支持した太陽中心説(地動説)は「科学的」な根拠があって広まったとは言いがたい。
中山茂の『パラダイムと科学革命の歴史』から引用しよう。
コペルニクスの場合も、太陽中心説を物理的に証明するものが彼にはなかった。しかしガリレオやケプラーは、コペルニクス説の魅力とりつかれて、太陽中心説に賭けた。それは決して"客観的根拠"に拠ったものではない。
コペルニクス説を支持するためには、恒星の年周視差が見出されねばならないことは、当時の学者ならだれでも知っていた。(中略)それが見出されないので、ティコ・ブラーエのような一流の観測者もコペルニクス説をとらなかったし、また視差が見つかるまではコペルニクス説を採用することはおあずけのはずであった。
(『パラダイムと科学革命の歴史』中山茂 P64-65)
コペルニクス説の根拠となるような恒星の年周視差が実際に発見されたのは19世紀になってからである。
つまり200年以上根拠がない状態でも、コペルニクスの説は徐々に支持を広げていったのだ。
ガリレオが望遠鏡を使った観察によって客観的根拠を得ていたと勘違いしている人がいるかもしれないが、ガリレオが発見したのは木星の衛星や金星の満ち欠けであってそれは決定的な証拠というわけではなかった。
また、ガリレオの時代の望遠鏡の精度を考えても当時の科学者たちが望遠鏡の観測結果に疑問を持つのは当然のことであった。この点についてチャルマーズは次のように解説する。
この点に関して、ガリレオが望遠鏡を通して描いた月の表面のスケッチの中には、実際には存在しない架空の「クレーター」が描かれている、ということを指摘しておくことが有意義である。存在しない架空の「クレーター」が描かれているのは、完全とは言い難いガリレオの望遠鏡の収差のためであろう。(中略)望遠鏡による発見に疑問を投げかけたガリレオの敵対者は、決して愚かで頑固な反動思想家だったのではない。
(『改訂新版 科学論の展開』A.F.チャルマーズ P142)
科学の世界ですら、人が説得されるのは必ずしも「科学的」な根拠があるからというわけではない。まして、科学以外の世界ではもってのほかだ。
例えば政治の世界を考えよう。
科学的あるいは統計的に効果が検証されていない政策であろうと実行されてきたし、それに納得していた人はいたのだ。
はるか過去より、今まで前例のない問題に遭遇する度に人類は実行したことのない政策について議論し誰かを納得させようとしてきた(コロナ禍の現在、わざわざ言うまでもないことだとは思うが……)。
さらに言えば、今まで実行してきた政策が有効であっても時代が変わり条件が変わることで有効性を担保できない可能性もある。
なぜなら時代も人の生活も常に変化しているからだ。
過去の政策で得られたデータが未来でも有効とは限らない。
究極、未来のことなんて誰も何も分からないのだ。
たとえ何のデータがなくとも私たちは政治的主張をして良いはずだし、何の確証がなくてもそれに納得する人がいてもいい。
それが民主主義というものだろう。
誰かが勝手に言っている「科学」に必ずしも納得する必要はないし、誰かが「科学的根拠がない」と批判したことであっても納得したって良い。
それは「非科学的」なわけでも「不合理」なわけでも、ましてや馬鹿なわけでもない。
私たちは必ず「科学」に納得するべきだという考え方こそ科学的根拠などない。
単に説得力がないと思えば「説得力がない」「納得できない」と言えばいいのであってわざわざ賢しらに「科学」など持ち出さずとも良いはずだ。
もちろん、全くデータのない(個人の独断とも言える)主張に対しては慎重にならなければならないが、データがないからと検討もせずに退けてしまってはそれこそ科学に反していると私は思う。
3.「科学」という言葉を使いたがる馬鹿
「科学的に説明しろ」という批判の一部は、曖昧な言葉で議論を煙に巻く詭弁でしかない。
しかし、この手の詭弁を使ってしまう人は単に「科学」に無知なだけではない。彼らが他人を批判する時にわざわざ「科学」という言葉を使いたがるのはなぜなのかを考えれば分かる。
彼らのような人間は「科学」については無知でも、「科学」という言葉が持つ権威と力は良く知っているから「科学」を語るのだ。
だから、「科学」という言葉を使って詭弁を弄する人間は、無知なのではなく端的に悪質なのだ。
本当に悪質な人間というのは単に暴言を吐いたり周りに迷惑を掛けたりする嫌われ者ではなく、穏やかで丁寧な口調で人と対話しているように見えながら誰かを追い詰めていくような人間のことだ。
「科学」という言葉を使っておけば、冷静で客観的に物事を見られる人間のように見える(少なくとも馬鹿には)ということを彼らは知っていて、周りの連中もそんな彼らを「冷静な議論のできる良い人」と持ち上げる……だけならまだいいのだが、困ったことに彼らは「科学的」ではない「感情的」で「非論理的」な人間を冷笑したり攻撃したりするのだ。
こんなことを言うと、「確かに科学という言葉で詭弁を弄する人はいるかもしれませんが、特別大きな問題だと思えません。それにそれは科学の問題なのでしょうか?」という質問が(もしかしたら悪質な科学主義者から)発せられるかもしれない。
まず、科学の問題かどうかについてだが、科学に纏わる問題ではあるだろう。
これについては取りあえずサンドラ・ハーディングの『科学と社会的不平等』を挙げておこう。この本では、差別や格差などの社会的不平等を肯定する者たちが如何に科学を利用してきたかについて解説されている。
科学の問題かどうかと言われれば微妙で、この手の詭弁を弄する人は自分を優位に見せるためなら何でも使うので、たまたま議論で使いやすいから「科学」という言葉を使いたがるというのはあるだろう。
もちろん、科学者が悪質な科学主義者ということもあるだろうからそういう点では科学全体の問題とも言えるかもしれない。
4.まとめ
さて、ここまでの話をまとめよう。
個々人の意識レベルの話をするなら、私たちは「科学」という言葉を使いたがる悪質な科学主義者に気を付けなければならないということが言えるだろう。
穏やかで、感情による議論を避け、公正な基準に拠ろうとする「いい人」に見える人物が、悪質な科学主義者であることは少なくない。
そういう人間は「科学」こそ感情抜きで議論するための公正な基準だと言いかねない。
しかし、そうして持ち出された「科学」という言葉を使った議論は、気を付けなければ欺瞞に満ちたものになるというのは見てきた通りだ。
問題はもう少し広い範囲の話だ。
そもそも「科学」が誤ったイメージで語られるのはなぜかという話だ。
人が「科学」に幻想を抱くのには理由がある。
幻想は人々に幻想として求められて初めて成り立つ。
次回記事はそのことについて触れていきたい。
【次回記事】
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【参考文献】