0.前回までのあらすじ
前回記事のリンク↓
tatsumi-kyotaro.hatenablog.com
前回は新海誠の映画に見られる以下の三つの特徴について書いてきた。
・新海誠の描く物語が持つロマンティシズム。
・新海誠の映画内における言葉=独白過多と言葉の機能不全。
・「風景」とフォーカスの揺らぎ。
今回の記事では、さきに挙げた二つ目の項目である新海誠の映画における言葉について見ていきたい。
1.言葉の不完全性、未完成な言葉
新海誠の映画の中で特徴的なのは、過剰なまでの独白の存在である。彼の映画にはとにかくモノローグが多い。
また、その独白は、曖昧な指示語やつかみどころのない比喩が使われたりしている。言い換えれば、それらの独白には、何かを表現し切れていないような、ある種の中途半端さがあるのだ。
例えば、新海誠が手掛けた『クロスロード』というたった120秒間の映像の冒頭のセリフ部分にさえ「何か」「どこか」という曖昧な指示語が見られる。『君の名は。』においても、主人公の瀧は「ずっと何かを、誰かを、探している」という言葉を口にする。『言の葉の庭』における孝雄の「まるで、世界の秘密そのものみたいに、彼女は、見える」というセリフも曖昧で抽象的な比喩が使われている独白の例として挙げられるだろう。
それらの独白はどこか中途半端で「何かが欠けている」という印象を強く与えてくる。
それは、「何か」「どこか」という曖昧な指示語と共に中断されたり、あるいは言い切る事のできない感情として抽象的な比喩が伴うせいだろう。
このような中途半端な独白を、不完全あるいは未完成な独白だと言うこともできるだろう。
そしてこうした不完全で未完成な独白が登場するのには理由がある。
こうした中途半端さを持った言葉から、視聴者は「この人物は何かを言おうとしたけど、その感情は言葉にならなかったのだ」という推理を行う。
つまり、視聴者は「言おうとしたことは言葉では言い表せないものなのではないか」という想像をしてしまうのだ。
そしてその想像こそが、言葉では表現されなかった登場人物たちの心の像を作り出す。
中途半端な感情表現に想像の余地が残されていることによって、そこで語られた言葉よりも深く豊かな心の存在を視聴者に想像させるのである。
こうして、わざと言葉を欠落させることで、想像の余地を作り出し、言葉では言い切ることのできない感情や叙情、情緒といったものを表現しているのが新海誠なのである。
だから彼の言葉はいつも欠けている。
新海誠の映画において、独白は不完全性を持って現れる為に、逆に登場人物たちの本音を表しているように思えるのだ。
これは、ミロのヴィーナスが、見る者に失われた腕を想像させることでより美しく見えてしまうのと同じである。ミロのヴィーナスは、それを観る者の想像力によって完成する。
それと同じ理屈で、感情をより豊かに表現しようとするのであれば、それは数多くの言葉を駆使して説明することより、敢えて言葉を少なくしてほのめかすことでで視聴者に想像させるしかない。
中途半端で未完成にみえる言葉は、その不完全さゆえにそこで表現されるはずだった心の総体を想像させる。
新海誠は主人公たちの根幹に関わる重要なモノローグにおいて敢えて言い切らせず、ほのめかすことで感情の総体たる心の全体像を表現しようと試みているのである。
新海誠の描く人物達の独白が、肝心な場面に限って、それが真に迫るような場面であればあるほど、どこか言葉足らずな印象を受けるものとなっているのはこのためである。
言葉は、それが伝わらない時ほど、それを聴く者に豊かな想像を呼び起こす。表現者の「内」に、言葉を越えた、言葉では表しきれない情緒の深さを見出させる。時に私達が、雄弁に物語る者達以上に、ある種の沈黙の中にいる人々にこそ、その「内面」を読み取ろうと躍起になってしまうことがあるように。
2.コミュニケーションにおける言葉
新海誠の映画において独白が不完全で、中途半端な印象を与えてくるのにはもう一つ理由がある。
それは、登場人物達の会話シーンの存在である。
彼の映画においては、言葉でのコミュニケーションがスムーズに進まない。つまり登場人物達の会話がぎこちなくなる場面が存在する。
それは、彼の映画の登場人物達の多くが人前では本音を話そうとしないからだ。
なぜ本音で話していないと分かるかと言えば、登場人物たちの本心が垣間見える場面が別に存在しているからである。例えばそれらの場面では、独白が本心を表すものとして機能している。
独白における本心の吐露とは対照的に、登場人物たちは身近な人であっても本音で何かを伝えるのをためらうような描写がある。
例えば、『秒速5センチメートル』において、貴樹は明里に最後まで言葉を伝えられなかった。貴樹が渡そうとした手紙は、風で吹き飛ばされ失われてしまうし、明里の手紙も仕舞われたまま届くことはなかった。同作品内で、水野理沙もメールで「私たちはきっと1000回もメールをやりとりして、たぶん心は1センチくらいしか近づけませんでした」と書いている。ここでポイントなのは、水野理沙は貴樹が三年間付き合った彼女であるにもかかわらず、メールのやり取り(言葉)を問題にしている点である。
また、『言の葉の庭』の主人公の孝雄は、兄にさえ本気で靴職人になりたい気持ちがあるということを伝えていない。孝雄の兄は靴職人になりたいという孝雄の夢を「10代の夢なんて」と笑って軽んじている場面があるし、孝雄もそのことを理解しつつ兄に対して説得しようとはしないのである。さらに孝雄は、友達に雪野先生との関係を隠し『知らない。誰かも、知らない』と真実を伝えようとはしない。
『君の名は。』でも、瀧が先輩に自分の想いを言葉で伝える場面は存在しない。三葉も父親に対して反感は示すものの、ラジオ放送を途中で切る、通学途中父親の演説を無視して通り過ぎるという消極的行動に示されるだけで、面と向き合って言葉で直接語り合うことはしない。
注目すべきはなのは、隕石が落ちてくる場面で、三葉が父親のもとに辿り着き言葉を発そうとしたその瞬間に場面が転換され、結局三葉から父親への言葉がなんだったのか不明のまま物語が終了することである。更に言えば、二人がペンでお互いの名前を伝えようとしてそれすら中断されてしまうこと、また、この映画のエンディングが「君の名は」という中断されたセリフで締めくくられることも象徴的である。
このように、新海誠の映画において、言葉はその伝達機能を発揮する前に機能を中断されてしまう。
新海誠の映画における言葉は、何か大事なことを伝えるという機能を果たさない。
いやむしろ、言葉は十分に機能してはいけないのである。
それは、独白が本音に「より近い」言葉として現れる為に必要なのだ。
「より近い」という性質は何かと対比されることでしか獲得できない性質である。
よって、独白が本音に「より近い」言葉である為には、本音から「より遠い」別の言葉の存在が必要になる。
その本音から「より遠い」言葉として、会話の言葉が配置されているのである。
新海誠の映画において会話の言葉には、嘘があったりごまかしがあったり隠し事があるのに対して、独白には、それがない。
独白は不特定の誰かを意識しない独り言として、つまり嘘をついたり、遠慮したりする必要がない言葉として語られている。勿論、メタ的に視聴者を意識する言葉でもない。
だから他者との会話の言葉=それを聞いてる人を意識した声、独白=自然発生的な心の声という対比構造が生まれる。
つまり、本音で話さない会話のシーンが存在することによって、それとの対比で独白は本音に「より近い」言葉に見えるのである。
ここで重要なのは、そうした対比によって「独白」は比較的に心の声に近いように思えるが、それでも心そのものとは完全に一致しないという点である。
これは、そもそもとして感情を完全に言葉で表現し切るにはどうしても無理が生じるからである。
このように「より近いけど完全には一致しない」という性質こそが、独白を不完全で未完成な言葉として成り立たせているのである。
しかし、こうなると言葉では心の伝達は出来ない。だから代わりに登場人物たちの心を繋ぐものの存在が必要だ。
人の心と人の心を繋げるのは、言葉ではなくもっと別のものでなければならない。
そこで登場するのが彼の映画のもう一つの特徴である「風景」なのである。この「風景」の持つ役割については、また別途記載することにしたい。
3.補足
ここからは、今までの説明の補足の項目となる。
これまでの説明には、いくつか注意しなければならない点が存在する。
一つ目は、完全な感情表現はどこに存在するのかという点である。
不完全な言葉=中途半端な感情表現という等式を成り立つのなら、完全な感情表現がどこかに存在するのだろうか。
しかし、それは一体どこに想定できるのだろうか。
先程、感情を言葉で表現するにはどうしても無理が生じると書いた。
そもそもの問題として、感情は完全に言葉に変換できるものではない。感情とは、言葉になる以前の身体的な反応のことだからだ。
例えば、誰も「これから怒ろう」と決意した後で怒るのではないだろうし、「これから喜ぶぞ」と考えてから喜ぶわけではない。気が付いた時には怒っているし、気が付けば笑っている。そんな身体的な反応が先にある。人を亡くした際の喪失感などは、言葉にすることが難しい感情としてよくテーマにされる感情でもある。
感情はバラバラな身体の反応であり、感情を言葉にしようと試みることはできても、その総体は言葉では捉えきれないものである。
実際に、映画内でも心を完全に表現し切るような完全な言葉は存在していない。
この場合、完全な感情表現は存在しているのではなく、あたかもそれが存在するかのように錯覚させられているという方が正しいだろう。
つまり、不完全な形で、中途半端に表現されたものから人が想像によって完全な姿を補完する場合、それが真に存在している必要はないのである。
新海誠は、不完全で未完成な言葉によって、感情を表現を中途半端に失敗して見せることで、それがそもそも完全には遂行できないことを隠蔽しているのだ。
すなわち、最初から失敗するものを途中まで遂行して中断させることで、あたかもそれが本来は成功するはずのものであったかのように装っている。
そして、それが言葉ではなく「風景」ならば可能であるかのように示唆することで、登場人物達が「風景」によって心を通わせる光景を自然なものとして描写しているのである。
【次回記事とミロのヴィーナス】
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