京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

論点のすり替えに騙されない論点整理の方法

0.はじめに

この記事では、議論で相手にうまく言い返せず悔しい思いをしたことのある人向けに、うまく言い返す技術について説明したい。

議論で相手に騙されているような気がしてもうまく言い返せずモヤモヤとした気持ちを抱えてしまうことは誰しも一度くらいあるのではないか。

そういう場合は、論点がすり替わっていることが少なくない。

逆に言えば論点のすり替えにさえ注意すればうまく言い返せなくて悔しい思いをすることも少なくなると言える。

また、よくある勘違いだが、論点のすり替えが必ずしも悪とは言えないことについてももちろん説明していくつもりだ。

 1.論点のすり替えとは何か

論点のすり替えとは、例えば次のようなものだ。

 

カンニングが見つかった学生の「自分はたまたま見つかっただけで他にもやってる人がいる。世の中は不公平だ」という反論

・セクハラの告発に対して「そうやって性欲に厳しいから少子化になるんだ」という反論

・日本にある差別に抗議する人に対して「日本が嫌なら出ていけばいい」という反論

 

論点がすり替えの何が問題かと言うと、議論が本来の方向からズレていき自分が言うべきでないことを言ってしまったり、相手に反論できなくなってしまったりということが起こることだ。

実際に論点をすり替えるとはどういうことか、というのを簡単に例を見ていきながら考えたい。

例えば、国民の生活負担が問題になり政府が10万円の給付金を国民に支給することを決定した時、次のような議論が起こった(実際とは少し違うがほとんど同じ内容の議論)

 

【意見1】「生活負担を考えたら10万円の給付金では根本的な解決にならない。こんなものは国民の不満を抑え込むためのものでしかない。政府を批判することは国民の権利なのだからみんなもっと声を上げるべきだ」

【反論1】「中身のない批判なら小学生でも言える。どうせ文句を言いながら給付金の10万円はしっかり受け取るんだろう。お前は文句を言うだけだ。本当に抗議がしたいなら給付金10万円ももらわず叩き返くらいしろ」

 

【反論1】が論点をすり替えているというのは比較的簡単に分かるだろう。

しかしここで反論された側が「政府に文句を言いながら10万円もらって何が悪い」と言い出すとまんまと相手の論点のすり替えに乗っかってしまうことになる。

どこが論点のすり替えか確認しよう。

【意見1】の論点は「国民の生活負担を考えた時、10万円の給付金が根本的な解決に繋がるかどうか?」という点にある。

それに対して【 反論1】の持ち出している論点は「何もせず文句を言いながらお金を受け取るのは変ではないか?」という点だ。

「国民の生活負担を考えた時、10万円の給付金が根本的な解決に繋がるかどうか?」という論点と「何もせず文句を言いながらお金を受け取るのは変ではないか?」という論点では議論がまるで違う。

【意見1】は、生活負担を考えた時に10万円の給付金では解決にならないと批判しているのであって、10万円を受け取ることに理由もなく文句を言っているわけではない。

もっと細かく見ていくと、【反論1】はかなり恣意的な「言い換え」をして論点を逸らしていることが分かる。

まず生活負担を軽減するという目的で支給される給付金を、まるでありがたく受け取るべきお金のように言い換えている。

その次に、もっと根本的な解決策を考えるべきという政府への批判しているのを、何もしていない人が何も悪くない人に対して文句を言っていると言い変えている。

最後に、【意見1】の主張の目的を、政策をもっと充実したものにするためというところから、政府自体への抗議が目的であるかのように言い換えている。

このように言い換えることで、【意見1】の主張が何も悪くない人たちに対する何もしない人間の文句であるかのように書いているのだ。 

以上の点を踏まえると、実際にどういう反論がありえるかというと例えば次のように再反論することができるだろう。

 

「私は10万円の給付金が根本的な解決に繋がらないと思うから批判をしてるのであって、ただ文句を言いたいから理由なく政府に文句を言っているわけではない。

給付金の配布が根本的な解決に繋がるのであれば私はこんなことを言わないだろうし、仮に給付金10万円を返してもっと充実した政策が取られるのならその方が良いと思う。

ただ、もしこのまま給付金が支給されることになったなら、それでは十分ではないと思うけど、ないよりははるかにマシなのだから私は受け取るだろう。それの一体何が問題なのか?」

 

議論に使われる言葉を上手く言い換えることで論点をすり替える(変形させる)のはよくあることだ。もちろん、故意ではなく単に取り違えてしまうこともあるだろう。

一応の注意点として、論点のすり替えと言えるかどうかは、その二つの問題が同じ一つの問題として語れるかどうかによって変わる。

そのため、論点のすり替えと言えるかどうかに絶対的な基準があるわけではない。

それはその場で話し合っている当人たちの認識に拠ってくる。

だから見方によっては、先ほどの例でも論点がすり替わっていると感じない人もいるだろうし、私はあくまで論点がすり替えられている可能性を示唆したに過ぎない。

もちろん、言葉の受け取り方と解釈が人それぞれだからといって論点のすり替えは存在しないことにはならないのでそれは念頭に置くべきだ。

 

2.言葉を都合よく言い換える。

「ものは言いよう」というのは古くからある言葉だが、表現の仕方、言葉の選び方で論点をすり替えられることがある。特に、相手に問いを投げる反論方法と組み合わせられるとかなり厄介だ。

ある男女夫婦の家庭で、男性はプラモデルやフィギュア集めが趣味で、それまでにかなりの額を費やしていて、置く場所も自室では足りないため物置部屋一つを置き場所として使っていたとしよう。

そしてある日、次のような場面になる。

 

女性「費やす費用と場所をもう少し考えて欲しい。お金も場所もタダじゃないんだから」

男性「君は私の趣味を受け入れてはくれないのかい? 受け入れられないというのなら仕方がないが……」

 

ここで少し考える必要があるのは「受け入れる」という言葉についてだ。

受け入れるという表現だと、受け入れるのが普通のことで、受け入れない側に問題があるような印象になる。

相手の趣味を受け入れないというと、相手の趣味の拒絶であるかのようなニュアンスになるからだ。

しかし、「受け入れる」と表現されているものの実態は、少なくない金額のお金と、部屋一つを使って同居人に負担を与えてしまっていることだ。女性側はあくまでその負担があることを理解し考えて欲しいと言っているだけなので、趣味を受け入れるかどうかと聞くのは話の範囲と規模を広げすぎている。

負担があることを考慮して自制して欲しいという話であって、趣味そのものが受け入れらないという話をしているわけではない。

こうやって、相手に問いかけて反論する方法は、相手に問いかける言葉を好きに選ぶことができるために、論点をずらせてしまうのだ。これに関しては前回の記事でも触れた通りだ。

この例では「負担を我慢することが妥当かどうか」という論点が「趣味を受け入れるか否か」という論点にすり替えられている。

相手の問いに使われている言葉のチョイスにも注意を払い、相手がなぜその言葉を選んだのか、本当にその言葉で表現するのが妥当かを確認することが大切だ。

 

3.言葉を対比させて論理をすり替える。

さて、都合よく言葉を言い換えることで論点をすり替えるパターンをもう少し見ていこう。

 香西秀信の『レトリックと詭弁』から、カンニングの現場を発見して問い詰める教師と開き直る生徒が議論する場面を例として挙げよう。この例自体は池井望と西川富雄共著の『大学よどこへいく』からの抜粋である。

もっとも、カンニングを押さえられながら、

「他にもやっている人がある。要領よくやっているのが得をして、たまたま見つかったものが損をするのですか」。

 と開きなおってくるような学生もある。こういう学生に接するときほど不愉快なことはない。

「他にやっているというが、見たことがあるかね。噂しているほど、実際はやっていないと思う。かりに、監督の眼をのがれてうまくやった者があるからといって、君自身の責任がまぬがれるわけではない」。

「世間でも、結局、要領のよいのが得をしているのではありませんか」。

「たしかにそんなこともあろう。選挙違反にしても、贈収賄汚職にしても、なんだか、たまたまあがったものが運が悪いんだ、といったように世間では受け取られがちである。(中略)しかし、そういう者は結局は、社会や、大きくいえば歴史の裁きを受けて、敗北していくではないか。(中略)大部分が真面目に勉強して、自分の力に応じて受験しているのに、一、二の者がズルく立ち廻るようなことは許されない」。

 といった工合で、器用に法の網をくぐっていくものの多い大人の社会の悪習に眼を付ける学生には、こちらの反論もまことに苦しくなる。エライ人がうまく要領をかまし、下っ端が不器用にあげらえていくという世間の実情があるからである。

さて、よく見ると学生側が明らかに論点のすり替えを行っているのが分かる。

カンニング行為が見つかった生徒側は、他にもやっている人がいるのに自分だけが責められていることを問題にして、結局は大学も世間と同じで要領よくやっている人間が得をして、たまたま見つかったものが損をするのかと教師側に問いつめている。前回見た通り、質問の形にすることで有効に反論するという技術を学生側は使っているわけだ。

教師側は最悪なことに「たしかにそんなこともあろう」と学生の言い分を一部認めてしまっているが、この場合どのように反論すべきだったのだろうか。

まず、生徒側の反論のどこが巧妙だったのかについて香西氏の解説から見ていこう。

彼は、「他にもやっている人がある。要領よくやっているのが得をして、たまたま見つかったものが損をするのですか」と問いかけてきました。が、これに対して、われわれは、「はい」とも「いいえ」とも答えることができません。もし「はい」と答えたら、同じカンニングという行為をしていながら、たまたま発見した者だけを罰することを不公平だと認めたことになる。逆に、「いいえ」と答えたら、そのような不公平を避けるため、たまたま発見した者だけを罰することはできないということになる。

 つまり、どちらで答えても、そのまま相手の術中に陥る道筋があらかじめひかれているのです。

『レトリックと詭弁』香西秀信(p32)

「他にもやっている人がある。要領よくやっているのが得をして、たまたま見つかったものが損をするのですか」という問いは、「はい」と答えたら大学も結局は世間と同じで要領が良くてズルい人間が得をする場所だと認めることになる。

これは教師としては認めづらいことだ。

かといって「いいえ」と答えれば、教師側がこの学生を罰することに正当性がなくなってしまう。

では、どうすればいいかというと、やはりこの学生の質問自体が答えるに値する正当な問いではないことを暴くしかない

学生側の問いが巧妙なのは論点のすり替え方にある。

彼は、語句をうまく対比させることで論点をすり替えている。

学生側の論理では「要領よくやっている者」と「たまたま見つかった者」が反対の存在として対比されているが、そもそもこの対比は正しい対比だろうか

「要領よくやっている者」と「たまたま見つかった者」が対比されるなら、「たまたま見つかった者」は要領がよくないことになるが、「たまたま見つかった者」は本当に要領よくやっていないのだろうか?

 こうしてみると、学生の問いの詐術があらわになります。

「要領よくやっている者」と「たまたま見つかった者」が対比されているため、「たまたま見つかった者」は要領がよくないように錯覚されますが、もちろん実際はそうではありません。試験勉強をせずに、カンニングで好成績を得ようとする者はそもそも「要領よくやっている者」なのです。「要領よく」やろうとして、この場合は失敗しただけのことです。この学生は、「カンニングをして見つからなかった者」を「要領よくやっている者」と表現することで、自分を「要領よくやっている者」の類から外し、カンニングという行為に伴う「狡さ」のイメージを、少なくとも自分についてだけは消し去ろうとしているのです。

さらに、「得をする」「損をする」という対比もおかしい。カンニングをして見つからず、労せずして好成績を得ることを「得をする」と表現するのは可能かもしれませんが、「損をする」の場合はそうはいきません。カンニングを発見された者が、学則に従って処罰されるのは当然の報いであって、別に「損をする」わけではないからです。罪を犯して刑罰を受けるのを「損をする」と表現するでしょうか。

レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)
 

『レトリックと詭弁』香西秀信(p33)

 

学生側は「要領よくやっている者」と「たまたま見つかった者」を対比することで、「たまたま見つかった」自分をまるで要領がよくない人間のように見せかけているが、そもそもカンニングをしようとしている時点で、彼も「要領よくやっている者」なのだ。

香西が言う通り、この場合彼は「要領よく」やろうとして、たまたまそれが露呈したに過ぎない。

さらに言えば、カンニングが見つかった人間は「損をする」のではなく、正当な処罰を受けているだけなので、学生側の問いかけは二重で誤りだと言わざるを得ない。

学生側は「他にもやっている人間がいるのに、たまたまカンニングが見つかった者だけが処罰されるのか?」という答えるに値しない、いちゃもんのような論点を「大学でも、要領よくやっているのが得をして、要領がよくない人間が損をするのか?」という(この教師にとっては)挑発的な論点に偽装してすり替えているというわけだ。

教師側がこの論点のすり替えに引っ掛かり、妙に言い訳じみた大学擁護をしてしまったのは、学生の問いに含まれた大学への挑発、つまり「結局大学も世間一般と同じで正当な評価がされる場所ではない」というメッセージに思い当たるフシがあったからだと思われる。

この例のように、カンニングをやって見つからなかった方だけを「要領よくやっている者」と表現したり、カンニングが「たまたま見つかった」ことを「損をする」と表現したりすることのおかしさに気が付けないと論点をすり替えられてしまう(この例では本来論点にすらならないような愚問を別の論点にすり替えている)。

ある行為や出来事に対して、どのような言葉が選ばれ、どのように表現されているのかに注意しなければ、論点のすり替えをみすみす見逃すことになるのだ。

 

4.論理のすり替えが許される時

いろいろと見てきたが、結局のところ論理のすり替えがダメなのは今話すべきことじゃないことへ話の本筋を変えてしまうからだ

この記事で挙げた例はいずれも、本筋から議論を逸らすことで相手の反論を封じるという手法としての論点のすり替えだった。

こういう論点のすり替えに引っ掛からないためには、以下三つを注意すればいい。

 

・今自分は何を論点にしているのか?(給付金の例)

・相手が選んだ言葉は論点に対して正しい表現なのか?(男女夫婦の例)

・相手の言葉の対比関係は正しいのか?(カンニング学生の例)

 

ここまでが今回のまとめだ。

付け加えておきたいのは、論理のすり替えであっても一概にダメと言えないものが存在することだ。

それは、すり替えられた先の論点の方が重要で、優先的に話し合うべきものだった場合だ。

たとえば遅刻常習犯で遅刻しても謝りもしないAさんが、Bさんがたまたま遅刻したことについて責めているとしよう。

 

A「10分も人を待たせて悪いと思わないのか?」
B「お前だってよく遅刻する癖にこういう時ばっかり他人のこと責めるなよ」
A「それは論点のすり替えだ。俺がよく遅刻をしているからと言って、お前の遅刻が悪くないことにはならない。俺が遅刻することとお前が遅刻が責められるべきかは関係がない」
 
論点のすり替えという観点からいくと、正しいのはAだ。
Aの言う通り、Bの言ってることは「お前だって論法(Tu quoque)」と呼ばれるもので、古い論理学では詭弁とされるものだ。
だが、これには納得がいかない人も多いだろう。
事実、Bが言いたいのは「お前に言われたくない」ということであり、自分の遅刻は謝りもしないのに他人の遅刻となるとネチネチと責めるAの不公平な態度を問題にするものだからだ。
つまり、Bの発言はAの言ってること(発話内容)を問題視しているのではなく、遅刻常習犯のAが人の遅刻をとやかく言うこと(発話行為)を問題視してる。
重要なのは、「Bの遅刻は責められるべきか?」ということと「自分のことを棚に上げて他人を責めて良いのか?」ということのどちらが優先されるべきかだ。ちなみに私だったら後者と言いたい。
 
注意点をさらったところで、今回はここまでにしたい。次回は相手を説得する方法について触れていきたい。
 
【前回記事】
【次回記事】
やる気次第
 

5.【参考文献】

レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)
 

(前回に引き続き、捻くれた著者の一面が見える文章をあとがきより抜粋)

 この世の、全ての手品の種明かしをしたら、何人も手品など使えなくなる。少なくとも、誰もその手品を不思議とも思わず、関心もしない。同様に、この世のありとあらゆる説得的言論を解剖し、それが論法、議論術として機能する秘密を暴いてみせたら、誰もが議論をするにはなはだ難儀するようになります。どんな手を用いても、相手にはすでにすでにその手の内が知られているのですから。こうして、ついに誰も議論などできない世の中になったら、どんなに清々することでしょう。