京太郎のブログ

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新海誠とその映画の特徴について~考察・解説~

0.はじめに

新海誠の映画が話題になるようになって久しいが、新海誠の映画にどのような特徴があるのか、新海誠が自身の映画の中で何をしようとしているのかについてはあまり理解されていないように思える。

そこで、今回は新海誠の映画作品にありがちなことをまとめつつ、どのような点が彼の映画の特徴と言えるのかについて考察していきたい。

 1.新海誠のロマンティシズム

まず、彼の映画の作風について、初期作品から一貫して現実逃避的なロマンティシズムがあることが指摘できるだろう。

この場合のロマンティシズムとは、簡単に言えば主人公たちが追い求める「何か」を触れられそうで触れられない距離にあるものとして描くことである。この場合の「何か」がロマンの対象となるわけである。

ロマンの対象はすぐに手が届く位置にあってはいけない。

ロマンは簡単には手が届かないからロマンなのである。

そして、それが完全に届かないと分かり切っているものでも良くない。

僅かにでも届く可能性があると思わせられるからこそ、人はそれに手を伸ばす。

つまり、ロマンを追求する者にとって、ロマンとは近くにあるものであってはならないし、隔絶された場所にあるものであってもいけないのだ。

ロマンは手が届きそうで届かない、それでいて手を伸ばせば届くのではないかという距離にいなければならない。

新海誠はそのような絶妙な距離にあるロマンを描くのに長けているのである。

新海誠が描くロマンティシズムは、例えば恋であり、夢であり、「ここではないどこか」「ここにはない何か」という今ある現実から遠く離れた場所への志向として現れている。

彼の描く主人公たちは現実に生きづらさを抱えながら、自分が肯定される場所、ありのままの自分で入れられる場所をそれがどこかも分からないまま漠然と探して生きている。

例えば、秒速5センチメートル』では主人公の貴樹はもう明里と一緒になれないことを感じながらも、種子島から宇宙を目指して打ちあがっていくロケットに自分を重ね、「ここではない」「どこか遠く」を見続ける人物として描かれている。

雲の向こう約束の場所』において浩紀は漠然とした期待感から「約束の場所」であり、誰もが手の届かないもの、変えられないものの象徴である「ユニオンの塔」を目指し「いつか必ず行くんだ、国境のむこう、見知らぬ北海道にそびえる、あの巨大な塔まで」と口にする。

言の葉の庭』では主人公の孝雄は「現実味がない」ことを理解しながらも「できることならそれを仕事にしたい」という思いから靴職人になるという夢を抱えている。

君の名は。』においても主人公の瀧は就職活動のシーンで、自分でさえなぜこだわっているのか分からないまま失われてしまった糸守の「風景」を求めて生きている。

このように、新海誠の描く主人公は漠然とした期待感を抱えて、それがどこなのか、何なのかもわからないまま「ここではないどこか」「ここにはない何か」を求めて進む。

このような特徴は、彼が手掛けた『クロスロード』という映像にもよく表されている。120秒ほどの映像なので、彼の特徴を捉える上ではとても参考になる動画である。その映像においても主人公たちの「ここではないどこか」「何か」という言葉にそのロマンティシズムが良く表れている。

彼の映画に登場する主人公達は「ここではないどこか」を目指して現実を生きている。

彼等は皆、今を生きる現実を「自分が本来いるべき場所」でないと感じ、そこから逃れてどこかへ向かおうとする。現実にある「いまここ」を生き辛い場所として感じ取り、そして「自分が本来いるべき場所」がどこかにあるのではないかという期待感を持って生きている。「この世界のどこかには夢があり、愛があり、本当の自分の居場所がある」このような漠然としたロマンティシズムが根底にある。

しかし同時に、主人公たちはそのような場所が本当にあるのか、本当にそこへたどり着けるのかという不安も抱えている。

例えば、言の葉の庭』において主人公の孝雄が持っている「靴職人になるという夢」に対して、主人公が抱えている「なれるかどうか分からない」という不安などがそれに当たる。物語の中盤では彼が「現実味がないことは分かってる」と言いながら、ただ焦りを募らせていくシーンがある。

秒速5センチメートル』でも、貴樹は「僕たちはどこまでいけるだろうか」という漠然とした不安を抱え続けて生きていた。

「ここは自分の居場所ではない」という居心地の悪さと、そこから逃れたいがそれが叶うかどうか分からない不安感の間を揺れるというのが、新海誠の映画の主人公たちが抱える基本的な感情となる。

言い換えれば、「たどり着けるか分からない」「そんな場所があるのか分からない」という不安の間を揺れながら、なお「ここではないどこか」へ向かいたどり着こうとするというのが彼の映画の主人公に共通しているスタンスなのだ。

最終的に主人公がその「何か」を手に入れるかどうかは個々の作品によって違いがあるが、物語序盤においては、主人公は「ここではないどこか」「ここにはない何か」を求めて彷徨っている。

 

 2.言葉の機能不全と過剰な独白

特徴の二つ目は言葉による感情表現の失敗と独白(モノローグ)の過多である。

新海誠の映画に出てくる人物達は、常に言葉による感情表現の失敗、上手くいかなさに悩まされている。

彼の映画の主人公たちは過剰なまでに独白や心情の吐露を行うが、それらのモノローグは感情を言い表そうとしてその途中で途絶える(ように見える)。というのも、登場人物たちはその長い独白で言い切ることも、全て吐き出すこともないまま曖昧に言葉を中断していくからだ。

「何か」「どこか」という非常に曖昧な指示語と共にセリフが中断されることで、視聴者に言葉による伝達が失敗しているような印象を与えている。

特にその独白において、登場人物は言葉を曖昧に濁し、どこか言い切らない、何か言い尽くせなかったような歯切れの悪さを露呈する。その独白が多く配置されていればいるほど、それは「何か」大切なことを言えていないように見えてしまう。

新海誠の映画において、言葉はその伝達機能を発揮する前に中断されてしまっている。このような言葉の機能の中断、伝達の失敗により、彼の映画では言葉の不完全性が表現されているのである。

例えば、『秒速5センチメートル』において、貴樹の書いた手紙も、明里の書いた手紙も結局届くことはない。貴樹は宛先のないメールを書いてはその都度消し、結局その言葉はどこにも届かないままでいた。結果、貴樹には大切な感情を口にしなかったという感覚だけが残ることになった。『君の名は。』においても、隕石の直撃の前、三葉が父親に向き合い何かを言おうとした瞬間に場面が転換されてしまうし、瀧と三葉は互いの名前(君の名)を伝え損ねてしまう。更に言えば、隕石の落下の後は言葉で伝えあったことの全てを忘れてしまうため、一見スムーズにコミュニケーションが行われているように見えるこの映画においても言葉はその機能を中断されている。(さらに言えば、『言の葉の庭』がなぜ「言葉」をテーマにしたのかという疑問も同作品のラストシーンを見れば理解できる)

このように、新海誠の作品の内部におけるセリフの全ては中断され、曖昧にぼかされ、コミュニケーション機能という点において機能不全を起こしているような印象を与えてくる。

 3.新海誠の描く「風景」と焦点のぼやけ

そして、彼の映画における三つ目の特徴が「風景」(=景色)の描かれ方である。作中においても様々な人物達が思い入れのある景色について語る場面があったりと、新海作品における景色は特別な役割を持っている。

結論から言えば、彼の描く「風景」は「距離」や「時間」を隔てた、あらゆるものを接続可能にするものとして存在している。

なぜそのような「風景」の描き方をしているのかについてはこの記事ではひとまず置いておく。とにもかくにも、実際に彼の映画において「風景」は人と人を結びつけるジャンクションのように作用している。

例えば秒速5センチメートル』では桜の木の下という心象風景の共有により二人は「距離」を越えて繋がるのであるし、『君の名は。 』ではカタワレドキという「風景」が「時間」を越えて二人を接続する。『言の葉の庭』では雨の「風景」が二人を引き合わせ、ラストシーンにおいて雨上がりの景色が二人を決別させることになる。

同じ「風景」を共有することが二人の接近を意味し、その「風景」の崩壊、または共有状態の消失が決別(一時的であっても)を意味するのである。

新海誠の映画においては、「風景」の共有、つまり同じ「風景」を見ることであるものと別のあるものが「距離」「時間」を越えて繋がるようにできている。

そして、「風景」とそれを見る登場人物たちの心はリンクしている。

同じ「風景」を目にする者は、同じ「何か」「どこか」を目指す者として言葉を介さずとも心を通わせる。その証拠に、登場人物達は同じ「風景」を発見した間は言葉数が少なくなるのである。

そこから我々は、登場人物たちの心同士が「風景」によって繋がっているような印象を受けるのだ。

また、映像の節目に出てくるフォーカスの揺らぎも重要である。彼の映画では、独特のピントのズレ、ピンボケが発生する。

こうした焦点の揺らぎ、ピンボケは主人公が孤独や不安をあらわにする場面で顕著に現れる。これらのピンボケ、フォーカスの揺らぎは基本的に「風景」と逆の役割を担っている。

例えば、こうした揺らぎは『秒速5センチメートル』においては、明里のもとへと向かう貴樹の心の不安や孤独が現れる場面(路線図に線を引くシーンや、手紙が飛ばされるシーン)において多用される。『君の名は。』では、三葉の死を知った時の瀧の心の動揺と共に現れる(図書館で被害者の名簿帳を開いているシーン)。

さて、ここでひとまずの結論を述べよう。彼の映画は「距離」や「時間」を隔てたあらゆるものが「風景」によって接続が可能になる。逆に、主人公が誰とも繋がることができずに孤独や不安に苛まれる時には「風景」は消滅し、フォーカスの揺らぎやピンボケのようなものが画面に再現されるようにある。

彼の映画では、「距離」「時間」を隔てた二人の人物は、同じ「風景」を共有することでその心を通わせることができる。つまり、「風景」を一つのジャンクションとして、その「風景」に迷い込んだ二人を出逢わせるのが彼の映画で起こっていることである、とひとまず結論付けることが出来る。

 4.まとめ

さて、ここで新海誠の映画の三つの特徴についてまとめよう。

ストーリー面では、今を生きる居心地の悪さと同時に、ただ漠然と「ここにはない何か」「ここではないどこか」を目指す不安感がその基調に据えられていた。

また、「風景」という観点から見れば、「風景」は異なった場所にいる二人を繋げるものとして描かれており、フォーカスの揺らぎやピンボケは「風景」が不在の間、主人公の孤独や不安を表すものとして現れる。

また、作品内の言葉は常に曖昧なままにされ、言い切られることなく伝達機能を中断されてしまう。

彼の映画は全体としては以下のようなストーリーラインになる傾向がある。

現実に居心地の悪さを抱えて生きる主人公が、言葉の伝わらなさを実感しながらも「ここではないどこか」を目指して彷徨う中で、ある象徴的な「風景」に出会い、それによって引き寄せられた遠くにいる誰か(だいたい女性)と深く関わるというストーリー。

新海誠の「風景」は現実から疎外された人々同士を繋げる。そして同じ「風景」を見ている間は、二人は心を通じ合わせることが出来るのである。

ここまでが新海誠の映画の基本的な構図となる。新海誠の映画に見られるこの三つの特徴は、無意味で無関係なものではなく互いに作用しあっているのだが、それについては別途触れる事にする。

今回の記事では、新海誠の映画で何が起きているのかを整理するに留まった。

新海誠の映画の持つこれらの特徴は、なにより現実に生きる辛さを抱える者たちやここからどこかに向かおうとする者たちの心に共振するように出来ている。

彼の映画のファンはおそらくはそういった点に深く共鳴しているのだろう。

【次回記事とその他】

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