京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

詭弁で論破されない方法

0.はじめに

この記事は、議論でやたらと論破しようとしてくる相手に困った経験がある人向けに、そういう人に論破されないための技術を説明するものだ。

また、私が提案したいのは相手を論破し議論に勝つ方法論ではなく、議論に負けない方法論だ。

本当にそんなものが必要なのかと思う人も、この記事を読めばどうして議論力が必要なのか理解できるかもしれない。

1.身を守るための議論力

端的に言って、有意義な議論に必要なのは論破力などではない。

特に、気に入らない相手に言い負かされて悔しい経験があると、つい相手を黙らせたくて論破力を身に着けようとしてしまう人が出てくるがそれでは意味がない。

それでは気に入らない相手を論破して黙らせる快感に囚われる人間を無駄に増やすだけだからだ。詳しくは前々回で書いている通りだ。

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

 

言い負かされて悔しい経験は誰でもあるだろうが、そこで必要なのはやり返すための論破力ではなく、論破してくる相手から身を守る術である。

そこで今回は、論破したがりな人がいた時に最低限意識すべきことについてまとめたい。

さて、護身で一番重要なのは、相手の攻撃パターンを知っておくことだ。攻撃パターンが分からなければ適切な自衛をすることも出来ないからだ。

では、議論で相手を打ち負かそうとする人間はどういう手口を使うだろうか。

早速整理していこう。

単純に考えて、論破に拘る人間の目的は議論の勝利だ。

どちらが勝利したかは議論を見ている第三者が決めてしまう。

勿論、人によってどちらが勝ったかは意見が分かれるかもしれないが、だいたいは負け惜しみを言ってるか何も言えず反論できない側が負けとされる。

この時、悲しいことに個々の主張の論理的な整合性はみんなそこまで見ていない。単純に、相手の意見に反論できなかったと思われたら負けなのだ(無論それが望ましいかどうかはまた別の問題)。

負けたと見做された方も、その場では思いつかなかったが後になってよく考えれば反論できるようなことだったというのがほとんどだと思うが、どのような回答をするのが望ましいのか瞬時に判断できない状況というものは存在する。

逆に言えば、そうした答えに詰まる状況に相手を追い込むことが出来れば、相手の敗北の確率を高めることができる。同時に、それは自分が常に容易に反論できるような状況、つまり自分が負けにくい状況でもある。

自分が簡単に反論できて、尚且つ相手が答えに窮するような状況を作るには、相手に言いたいことを上手く言わせないようにすればいい。

もっと簡単に言ってしまうと、相手を罠に嵌めて簡単に反論できるような間違った主張をさせればいい。

では、どのようにすればそんなことが可能になるのだろうか。

2.問いは議論を制す~レトリックと詭弁その1~

相手を誘導して罠に嵌める上で一番簡単でメジャーな方法は相手が答えに困るであろう問いを投げかけることである。

議論においては、問題の要点を明らかにするためではなく、相手を黙らせ、相手の信用を失墜させるための問いというものが存在する。

相手が上手く答えることができないと予測したうえで問いを投げかけることで、相手の議論が貧弱であることを露呈させる問いだ。

「問いは議論を制す」と言う人もいるほど相手が答えに困るであろう問いを投げることはよくある戦術なのだ。

具体的な例を見ていこう。

まずは、比較的見破りやすい(罠にかかりにくい)簡単な例を香西の本から引用したい。

例えば、次の問いを見てみましょう。

「君は、Kの、あのくだらない議論術の本を読んだのかい?」

 この問いは、「はい」か「いいえ」のどちらかで答えることを要求します。そして、答える側は「はい」と答えても「いいえ」と答えても、Kの本が下らないことを認めたことにされてしまうのです。

レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)
 

『レトリックと詭弁』香西秀信(P94)

「君は、Kの、あのくだらない議論術の本を読んだのかい?」という質問は、形式上はKの本を読んだか読んでいないかどちらかを聞いている。

言い換えると、直接の論点は「Kのあのくだらない本を読んだのかどうか」というところにある。

しかしこれを素直に答えてはイエスでもノーでも、前提としてKの本がくだらないことを認めてしまうことになる。そこまでは分かりやすいだろう。

問題は、どう応答するのかにある。

仮に、Kの本が下らなくないと思った場合、あなたならどう反論するだろうか。

もしここで、「Kの本はくだらなくない」と言い返してしまうと相手の罠にまんまと嵌まることになる。

相手は即座に「じゃあKの本がどうして下らなくないのか説明してみろ」とこちらを問い詰めるだろうからだ。

もし彼が、「私はKの本が下らないとは思いません」などと答えたら、彼にとっては最悪の結果となります。そう答えることによって、彼には、Kの本が下らなくない理由を説明する責任が生じてしまうからです。相手は、その説明に対し、いろいろとけちをつけ、揚げ足を取ってくるでしょう。議論においては、攻めるより守る方がはるかに難しい。

『レトリックと詭弁』香西秀信(P94, 95)

Kの本が下らなくない理由を説明している間、相手は説明が少しでも甘ければ容赦なく攻撃できる。一方で相手は説明を聞く側なのだから攻撃を受けることはない。

議論において何かを説明することは、相手が攻撃できる隙をみすみす作ってしまうことでもある。香西が「議論においては、攻めるより守る方がはるかに難しい」と言うのはそのためだ。

無論、だからといって必要な説明をしないでいい理由にはならない。

あくまで自分がわざわざ説明しなくていいことを説明する必要はないということだ。

この場合は、こちらがKの本が下らなくない理由を説明するべきなのではなく、相手がKの本が下らない理由を説明すべきだろう。

「君は、Kの、あのくだらない議論術の本を読んだのかい?」という質問は「そもそもKの本はくだらないのか?」という論点について説明をせず、「Kの本はくだらない」ことを前提としてしまっている。

すなわち、相手は「Kの本はそもそも下らないのか?」という論点を飛ばして「君は、Kの、あの下らない議論術の本を読んだのかい?」と質問をしているのだ。

言い換えれば、質問をすることで本来確認すべき論点を自分が提示した論点の前提に隠してしまっている。

勿論、「君はKの本を下らないと思っているようだが、まずどこが下らないのか君なりに説明すべきだろう」と言い返すとすると、質問には答えてはいないわけだが、議論の場であれば引っかけのような質問に馬鹿正直に答えるわけにはいかない。

この場合は質問に答えていないというより、本来議論すべき論点に戻しているだけなのだ。

この例は簡単なので引っ掛かる人は少ないだろうが、相手に問いを投げかけることで論点を操作するというのは基本的にこういうことだと思ってもらえればいい。

このように、問いの中には無防備に何も考えず答えてしまうと、その問いで前提となっていることを無批判に認めることになるので答える上で注意が必要だ。

先ほどの例は、問いの前提にすでに結論が紛れ込んでいてその結論が論証不足な場合と言えるだろう。

上の例はあまりに簡単なので引っ掛かる人は少ないと思うが、こうやって問いの形で主張することで論点を限定して相手を誘導することもできる。

そもそも論点とは、議論の中心となる問題点のことだ。

議論で求められる結論とはごく単純に言って問題点に対する回答である以上、問題点は回答を求めるための問いの形式でもある。

単純な事実として論点は疑問文の形式で表現可能なものである。

たとえば環境問題についての議論であれば、「環境問題の為に我々が何ができるのか?」という問いは議論の論点になりうるだろう。

だからこそ、議論の中で問いを投げかけることは議論に新たな論点を出現させることにもなるのだ。

議論を進めていく中で今まで話し合っていた問題点とは別の新たな問題点(問い)が出てきて、論点がそこに移っていくことは珍しくない。

問題はそれが議論が深められた結果なのか、ただ誰かが議論を混乱させた結果なのかということだ。

優先して議論すべき論点へと移ったのか、それとも誰かが論点をすり替え(あるいは取り違え)たのかというのはある程度区別されなければならない。

そして、今回取り上げている議論術としての問いは後者の方だ。

問いによる議論の論点の誘導に惑わされないためには、自分が今どのような論点で議論しているのか常に把握しておく必要がある。

論点が分からなくなった時は、相手が何を問題にしていて、自分が何を問題にしているのかを問いの形式、つまり疑問文に変換して考えてもよいかもしれない。

 

3. 問いは議論を制す~レトリックと詭弁その2~

さて、練習ついでに例をもう一つ上げたい。

たとえば、差別発言などのヘイトスピーチ表現の自由について、ヘイトスピーチを擁護する側から次のような主張があったとしよう。

この場合、どこに罠があるだろうか。

 

ヘイトスピーチがどんなに悪いものだとしても、ヘイトスピーチを排除せず表現の自由として尊重すべきだ。表現の自由を守るなら、どんな言論や表現も排除せず寛容に受け入れ、あらゆる表現を認めなければならない。たとえそれが有害な表現であってもだ。そうでないと、理由さえあれば言論を弾圧して排除していいことになる。そうなれば国家がそれらしい理由を口実にして表現を規制することも批判できなくなっていき、やがて私たちはすべての表現の自由を奪われることになるだろう。国家による検閲や表現規制を肯定すべきと考える人はいるだろうか? ”

 

まず先に言うと、国家による検閲や表現規制を肯定して表現の自由が奪われてよいと考える人はそうそういないだろう。

しかしそれをそのまま答えてしまうと、相手の持ち出した「ヘイトスピーチを排除せず表現の自由として尊重すべき」という主張をそのまま肯定することになる。

この質問文は片方に選びにくい選択肢(「検閲や表現規制を肯定してすべての表現の自由を奪われる」)を置いて、もう片方(「ヘイトスピーチを排除せず表現の自由として尊重する」)を選ばせるよう誘導している。

このように問いの中に二つ以上の選択肢があり、特定の選択に誘導するようなものに対しては二つの対処法がある。

まず一つ目は、その選択肢を選んだら必ず相手が言うような結果とは限らないのではないかという点を指摘することだ。

すなわち論理の飛躍の指摘することだ。

勿論これも自分から「なぜそうなるとは限らないと言えるか」について説明するのではなく、相手の説明を聞く方が先となる。

この主張は「ヘイトスピーチを排除せず表現の自由として尊重しなければ国家による検閲や表現規制を許し表現の自由を守らないことになるのか?」という論点に対して十分な説明をしていない。

つまり、問いの中の論理に飛躍が隠れているのだ。

この質問では、ヘイトスピーチにも寛容でなければ国家による検閲や表現規制を許すことになることが前提とされているが果たしてそれは正しいのかというのは吟味が必要ではないだろうか。

国家による検閲や表現規制を許すべきではないという論理と、だからヘイトスピーチも排除せず表現の自由として尊重すべきだという論理の間に飛躍があると考える人はいるだろう。

例えば、ヘイトスピーチを含む有害な言説の自由に一定の制限を設けたとしても、表現の自由そのものを否定したことにはならないし、国家による検閲や表現規制を肯定することにはならないという方向での反論もあり得るのではないだろうか

( 例:『ヘイト・スピーチという危害』ジェレミー・ウォルドロン)。

現に、侮辱罪や名誉棄損など表現行為に対する一定の制限は既に存在している。

二つ目の対処法は選択肢が二つだけでいないことを提示することだ。

質問文では、ヘイトスピーチを野放しにするか国家による規制かの二択しかない。

しかし、国家による規制という形でなくとも、ヘイトスピーチを撤退させる選択肢は他に存在する。

市民団体を作って対抗したり、差別に対する抗議活動や社会運動を展開しやすい環境を作ったり、学校教育で差別について学ばせるようにするなどしてヘイトスピーチに対する厳しい姿勢をもっと徹底すべきだという方向の主張がそうだろう。

また、制度による規制と一口にいっても様々な種類や方法の規制がある。

そこには当然程度の問題もあるはずだ。

その規制の方法や程度によっては表現の自由とバランスを取った形での規制もあり得るかもしれない

(例:『ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか』エリック・ブライシュ)

二つ以上の選択肢から何かを選ばせようとする誘導に対しては、「それぞれの選択肢の論理に飛躍がないかどうか」と「他に選択肢はないのか、そこに程度の問題は存在しないのか」という点に注意すれば少なくとも無防備にひっかかることはないだろう。

さて、ここまでの例ではそこまでひっかかる人はいないと思うが、議論において問いがなぜ強力な武器になりえるかについてはなんとなく説明できたのではないかと思う。

問いが強力な戦術になりうるのは、問いを作る者が問い(論点)を構成する言葉を自由に選べるからだ。

「問いを自分でつくることができる」とは、問いを構成する言葉を自分で選ぶことができるということです。答える側は、こうして選ばれた言葉に合わせて、その問いに答えなくてはなりません。この事情が、議論の中で、問う側を格段に有利にしてしまうのです。

『レトリックと詭弁』香西秀信(P20)

相手の問いに無防備に答えてしまうと、相手の問い(論点)の妥当性を認めたということになってしまう。

相手の問いが不当な問いなのであれば、問いに答える(answer)のではなく、言い返す(retort)ことで相手の問いの妥当性あるいは、その問いを投げる行為自体を問題にしなければならない。

勿論、何が論理の飛躍だと感じるのかと同様に、何が優先されるべき論点だと考えるかは個々人の主観に依存するためそこでまた議論が起こることもあり得る。

論点がズレていくのが議論というものであるし、ズレていく中でより重要な論点が現れることもある。

とは言え、有意義に進める上ではやはりある程度は論点を合わせる必要があるし、何を論点とすべきかで混乱が起きたとしても、自分が今何について議論しているのか分からなければ不毛な争いだけが残ることになるだろう。

どのみち互いにどのような論点で話しているのか常に注意は必要だし、議論を混乱させるような論点を設置する問いには気を付けなければならないということだ。

というわけで、今回は簡単な例を挙げるだけとなってしまったがここまでとさせていただきたい(次回以降はもう少し複雑な例を挙げられればいいと思う)。

今回見てきたのは、検証すべき論点を飛ばして別の論点に誘導することで相手の回答を操作しようとするものだ。

次回はよりはっきりと論点をすり替える、あるいは取り違えてしまう例を中心に見ていきたい。

【次回記事&関連記事】

↓次回記事

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↓関連記事(2つ)

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 4.【引用文献と重要な余談】

レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)
 

(↑前記事で書いたように、この著者、かなりの曲者である。議論で有効なレトリックの解説本であるが、時々でてくる著者の主張部分にもレトリックが使われているため素直に読むと著者の誘導に引っ掛かるようになっている。)

ここからは余談だが、著者の(笑える?)曲者感が伺える例を挙げたい。

さて、私の家内はピアノを習っています。練習熱心なのはいいのですが、何しろ住居が狭いので、しょっちゅうピアノを弾かれると、読書も執筆も何もできなくなる。ついでに言うと、私の大学の研究室でも、近くに音楽科の院生控室があり、そこでも時々ピアノを弾く学生がいます。そういうときは、私は嫌がらせで、窓を開けて大音量でグレン・グルードのCDをかけることにしています。そうすると、自らの拙い演奏を恥じるのでしょう、すぐに弾くのを止めるのはさすがです。

 が、私の家内は、横でグルードを鳴らされようが、フジ子・ヘミングが聞こえてこようが、それをあざ笑うかのようにいっこうにピアノの練習をやめようとしない。最近では、夫婦間で、それこそ一触即発の険悪な雰囲気になってきました。さすがにピアノの先生もそれを察したのでしょう。あるとき、家内にこう尋ねました。

 

a「ご主人は理解してくれますか?」

 

これを次の問いと較べてみましょう

 

b「ご主人は我慢して(辛抱して、耐えて)くれますか?」

 

 どちらの問いも、形式上、「はい」か「いいえ」で答えることを要求します。しかしaの問いでは、それに「はい」と答えても「いいえ」と答えても、ピアノを弾く側に有利になります。これは問いの中に「理解する」という言葉が使われているからです。これでは、まるでピアノを練習することに正当性があるかのような感じになってしまう。

 もしこれに「はい」と答えたら、私は、「相手の事情、気持ちを思いやる」いいご主人ということになりますが、何しろピアノを弾くことに正当性があるのですから、当然のことをしているまでといった具合で、私の株はさほど上がりません。逆に、「いいえ」と答えてしまったら、私は「相手の事情、気持ちを思いやる」ことのできない、わがまま、偏屈なご主人ということになってしまいます。

 これに対してbの問いではどうでしょうか。ここでは「理解する」の代わりに「我慢する、辛抱する、耐える」という言葉が使われています。この場合はaと反対で、ピアノを弾くことが、明らかに他人に対する迷惑だという判断が前提とされています。したがって、これに「はい」と答えても「いいえ」と答えても、「ご主人」の側にはさほど不利にはならないのです。

(中略)ところで、念のために書き添えておきますと、私は「我慢強いご主人」なのであって、「理解のあるご主人」では決してありません。

読んで分かる通り、なるほど、確かに「理解のあるご主人」ではなさそうである。ついでに言うと、ピアノの練習をする音楽科の院生や妻への嫌がらせ目的でグルードやフジ子・ヘミング鳴らし、挙句それを(笑い話にしているとは言え)自著に書いてしまう人間の我慢強さとやらがどれほどのものかは気になるところだ。