京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

性的消費、性的まなざしとは何か?

0.はじめに

表現とその表現への批判にまつわる問題は様々な論点が含まれていて複雑だ。

最近では「性的消費」「性的まなざし」という概念の意味と有用性を巡って様々な議論が行われている。

しかし現実に行われている議論では、論点の複雑さやその論点の背景にあるものが考慮されていない。

特に、フェミニズムが絡んだ議論はかなりになる印象がある。

『碧志摩メグ』、『のうりん!』と美濃加茂市コラボポスター、宇崎ちゃん献血ポスターなどの議論はかなり乱雑であった。

そこで今回は、表象・表現物への批判の論点を大きく三つに分類して整理していくことで、「性的消費」「性的まなざし」という概念による批判はどう理解することができるのかを考えたい(あくまで表現物への批判の分類であり、必ずしもフェミニズム的な分析に依拠しない)。

どういう意見を持つのであれ、論点が混乱したまま議論(のようなもの)だけが増えても仕方がないという点はどの立場であれある程度同意できるだろう。

この記事で挙げる論点が全てだとまで言うつもりはないが、論点整理の一助になれば幸いである。

それでは早速、表現が批判される際の論点をおおまかに見ていこう。

1.表現することそのものへの批判

一つ目は、表現することそのものが批判される場合だ。

例えば、イスラム世界においては、地域によってはムハンマドの顔を描くことはタブーとされることがある。時には、タブーな表現をした人々に対し過度な攻撃が加えられ事件になることがある。

事件の例としては、ムハンマド風刺漫画掲載問題やシャルリー・エブド襲撃事件などがあるだろう。

ムハンマド風刺漫画掲載問題は、2005年にデンマークの日刊紙にムハンマドの風刺漫画が載せられ国際問題までに発展した事件だ。

また、シャルリー・エブド襲撃事件も、フランスの風刺新聞『シャルリー・エブド』がムハンマドの風刺画を載せたことで、覆面をした複数の武装した犯人によって襲撃され十数名の死者を出した。

またシャルリー・エブド襲撃事件の後は、「表現の自由」を掲げ「私はシャルリー」という標語と共にシャルリー・エブド襲撃に抗議するデモが行われた。

(勿論、シャルリー・エブド襲撃事件は単なる「表現の自由」とタブーの問題ではなかったというのは、様々な知識人が指摘していることではある。以下、参考まで)

シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 <a href=*1" title="シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 *2" loading="lazy" />

タブーの問題は遠い国の話ではない。

日本においても「菊タブー」「皇室タブー」の問題が挙げられる。

最近若干薄らいできたのかもしれないが、長い間日本においては皇室についての表現はタブー視されてきた。最近でも、「あいちトリエンナーレ」の展示が中止に追い込まれたという事件もあった。

さて、「性的消費批判は、性的な表現に対する批判はエロをタブー視していることによるものだ」という言説があるが、果たして正しいだろうか。

少なくとも、性的表現そのものをタブーとして問題にするというのが「性的消費」批判ではないように思える。

(それだけが論点だと考えている人はしばしば「胸の大きな女性が描かれた絵に対する批判は、現実に胸の大きい女性を差別している」という何も考えていないに等しい批判をしたがる)。

どのみち、「エロいから」という理由のみで批判するというのは馬鹿げた話に違いないが、それが「性的消費」批判の主な論点だとは言い難い。

2.表現物の背景にある文化への批判

次に考えられる批判の論点は、「その表現が背景としている文化や文脈がどのようなものか」だ。

表現には「どのように理解されるか」「どのように受け取られるか」という解釈の次元が付きまとう。

私たちは表現をそのままの姿で受け取ることなんてできはしない。小説には読解の問題がつきものであるし、漫画や映像作品においても解釈論争が付きまとう。

そしてその解釈の際に、我々は自分たちが知っている文脈(文化コード)で表象を解釈する。

例えば、エロ表現について言うなら、対象がどのように描かれているのかだけがエロさを決定するわけではない(もちろんどのように描かれるかは重要としても)。

単純な露出がエロさを決定するわけではないというのは今更説明するまでもないことだろう。

スク水、ブルマ、ニーソなど、それらは単に身に着けるものという意味だけではなくセクシュアルな意味を持つものとしてコード化している。だからこそ、Pixivなどの絵の投稿サイトでジャンルやカテゴリでタグ付けがされているのだ。

つまり、何がセクシュアルな意味を持つのかは文脈(文化コード)によって決定される。

大きく言えば、どのような文脈で読まれるかによって表現はその現れ方を変化させる。

以前、セガの取締役名越稔洋氏がパーソナリティを務めるYouTubeチャンネルでの発言が問題になったことがあった。

自社のゲームの大会の決勝戦である選手に対する印象の話になった時に、名越氏が「チーズ牛丼食ってそうな感じ」と表現したのである。

「チーズ牛丼食ってそう」という発言は選手の容姿を揶揄したということで炎上に至った。

では、なぜ「チーズ牛丼食ってそう」という発言が選手の容姿を揶揄したことになるのだろうか?

gendai.ismedia.jp

「チーズ牛丼食ってそう」という言葉それ自体には「容姿の揶揄」の意味はない。

どんな容姿の人間であっても、三色チーズ牛丼を頼むことはあるだろうし、チー牛を食べる人間に特定の容姿の傾向があるなんて統計があるわけでもない。

では、なぜ「チーズ牛丼食ってそう」が「容姿の揶揄」になるかというと、ネットミームを意識した発言と受け取られたからだ。

すき家でいかにも三色チーズ牛丼を頼んでいそうな人の顔」略して「チー牛」が、少し気持ち悪いオタク、存在感のない陰キャのテンプレートとして扱われてきた背景があったのだ。

三色チーズ牛丼顔 - 新・なんJ用語集 Wiki*

 

もし、「チー牛」が少し気持ち悪いオタク、存在感のない陰キャを揶揄するネットミームとして流通したという背景がなければ「チーズ牛丼食ってそう」という発言はここまで炎上しなかっただろう。

表現はそれがどのような意味で使われ、受け取られてきたかという背景によってあらわれ方が変化する。

つまり、表現の問題には、その表現がどのように解釈され受け取られるのか、という文脈(文化コード)の問題が存在する。

見た目が同じに見える表現でも、文化圏が違えば異なった意味を持ってしまう。

ガッツポーズは日本では喜びの表現だが、パキスタンでは侮辱の表現だというのは有名な話だ。

(まぁ違う文化圏の人間にも「お前が勝手にそう解釈してるだけ」「どこが侮辱なのか説明しろ」とか言う人はいるかもしれないが)

表現はそれ単体で何かに影響したり、機能したりしない。

「チー牛」という言葉は

チーズ牛丼顔=陰キャ・ネクラ・オタク気質

という文化コード(お約束・おきまり)が成立しているから、容姿の揶揄として理解される。

そして、文化コードというのは文化の構成要素の一つだ(ここで言う文化は、社会の風潮や雰囲気という意味に近い。オタク文化や業界文化などの文化に近い)。

「チーズ牛丼顔=陰キャ・ネクラ・オタク気質」というコードが成立した背景には、「自分の容姿を自虐する文化」「他人の容姿を揶揄する文化」があると見られる。

私たちはある特定の文化と、その文化で生まれたコード(きまり)に従って表象を捉えるのだ。

すなわち、表現の現れ方は文化(コード)に依存している。

表現への批判には、それが利用しているコードとその背景にある文化への批判も含まれる。

表現の供給と消費という視点から言い換えれば、「その表現がどのような需要によって成り立っているのか」という需要への批判だ。

セガの取締役である名越稔洋氏の「チーズ牛丼食ってそう」発言が批判されたのは、その表現が「他人の容姿を揶揄する文化」に加担しているという捉え方をされたからだ。

個々の表現物(表象)は、ある文化や歴史が表出したものとして批判されうる。

勿論、そこには「その表現物からその文化や歴史を読み込むのは妥当か」「読み込まれた文化や歴史が本当に批判されるべきものかどうか」という論点も含まれてくる。

恐らく、批判する必要があるのは、人々を抑圧するような強い影響力を持った文化や歴史だ。

文化は数多の表現物や人々の交流によって形作られ、またそうした文化の中で表現が生まれ生活が営まれる。その連鎖、反復が文化の歴史を作っていく。

ある文化は根強く続き、ある文化は廃れていく。

そうして根強く繰り返され引き継がれた文化の中には、私たちの無意識に根付き価値観に影響を及ぼすことで誰かを抑圧するものが存在する。

私達が文化から影響を受ける例を挙げよう。

しばしば私たちは自己の理想と現実の自分のギャップに悩んだりする。

その際、何が理想像となるかについてはその文化圏で共有される価値観から大きく影響を受けるだろう。

それが苦しみを生み出すだけの規範意識、つまり「自分はこうでなければならない」という強迫観念に繋がる場合さえある。

例えば「容姿に価値を置く文化」と「痩せていることが美しいとされる文化」が度を越えて強くなれば、「自分は痩せなければならない」という強迫観念や拒食症を引き起こすことがある。

フランスでは、拒食症などの摂食障害は15~24歳の年齢層において、交通事故に続いて2番目に多い死因であるとされ問題視されたことで、やせ過ぎたモデルを規制する法が施行されるに至った。

勿論これは、容姿に価値を置くことや痩せていることが美しいと言うことが悪いとかそういう話ではない。単に、それが文化(風潮、雰囲気)として強いと「痩せなければならない」という規範意識を病的なレベルで人に植え付けてしてしまうという話だ。

www.afpbb.com

言うまでもなく、これは全ての規範意識は悪だという単純な話ではない。

だが、時にそうした私たちの無意識に根付いた文化、内面化された価値観を批判し検討することは必要だろう。そしてそれが「当たり前を疑う」ということであり、芸術の異化作用が重要視される所以だ。

そういう意味で、個々の表現物がそれがどのような文化を背景に持っているのか、どのような文化を再生産してしまっているかという観点で批判はされうる。

勿論、その表現がどんな文化と結託しているかについては明確で誰もが同じように確かめることのできる基準などない。というより、明確な基準がないからこそ、議論が必要かつ重要になるのだ。

表現物とそれが関連している文化への批判は、主観と主観の交錯する場の、その間主観的な問題だからだ。

文化(風潮や空気)について、私たちは様々な傍証や証言を元に仮説的に話すことになるが、それでも、文化を客観的に観測可能な物質として提示することはできない。勿論、議論の際に根拠を提示することは重要であるし、解釈の精度は高めなければならないがそれでも全ての人が了解可能なものとして提示するのは困難な作業になるだろう。

ここまでの話をまとめよう。

表現物への批判には、その表現を成り立たせている文化への批判も含まれている。

恐らく「性的消費」「性的まなざし」批判には、性的な表現を成り立たせている文化への批判という側面も含まれているのではないだろうか。

勿論そうであれば、批判するにせよ擁護するにせよ個々の表象の在り方を論点にするのはいささか問題含みに思える。

例えば描かれた人物に主体性が感じられるかどうかという論点は疑似的な問題でしかない。

では批判されてきた性的表現にはどのような背景文化が読み込まれ、批判されていると言えるだろうか。

3.性的な描写の背景にはどのような文化が存在するか。

性的な描写の背景にどのような文化が読まれ批判されているかというと、恐らくは女性が性的な魅力を持っていることを殊更に強く期待する文化ではないだろうか。

言い換えれば、女性に対して価値判断をする際に、性的な魅力という価値基準を優先し、それ以外の価値基準を相対的に軽視する文化である。

勿論、どんな人間であっても他人に対しては特定の役割をこなすことを期待することはあるだろう。

問題になるのはさっきも言った通り、それが文化として強い影響を持つ時だ。

これは女性に対して性的魅力を期待するのをやめろという単純な話では勿論ない。

ただ、女性という属性への期待が、一定の方向(性的魅力への期待)にのみ集中した時、それは現実の人間への抑圧として働くことがあるということだ。

多くの人間が意識的にしろ無意識的にしろ期待を持ち、それがある程度強い文化になっている状況では、期待に対して「それをやるのが自然」とか「やるのが普通」という圧力が発生する。

そして、その期待に応えようとしない女性は批判されるようになったりもする。

例えば、恋愛しようとしない女性、恋愛に積極的でない女性に対して「高望み」をしていると批判が投げかけられることもある。「高望み」をしている女性に対しては、手近な男性と恋愛をするよう教育が必要だという論調さえあるようだ。

また、セックスレス夫婦が話題に挙がった時も、セックスをしてもらえない男性へかなりの同情の声が上がった。

更に言えば、たとえ誰かが批判したり口にしたりしなくても、圧力というものは発生する。

同調圧力という分かりやすい次元までいかずとも、「なんとなくそうなった方がいい」という雰囲気があれば、人の意思決定はその雰囲気に影響を受けるだろう。

周りからの期待を無意識のうちに感じ取り、そうしたものを規範意識として内面化してしまうのが社会に生きる人間だからだ。

こうした局面においては、女性の主体性の議論もレトリカルなものにしかならない(摂食障害や依存症がたとえ自由選択の結果だとしても問題とされるように)。

ここで一つ注意しておきたいのは、どんな文化であれ、それが支配的になれば誰かへの抑圧に働く可能性はあるということだ。

ここでは、女性への期待が一方的でかつその方向性が限定されていることが問題となる。

よって、一方的でかつその方向性が限定されていることが問題ならば、その方向性を多様化すればいいというムーヴメントが現れてくるのも理解できる(有効かどうかは置いておいて)。

最近では、多様な女性像を提供するような作品を称揚する動きもある。

たとえば、恋愛以外で女性が重要な役割を持ったり、いわゆる従来の「女性的な魅力」でない魅力を持った女性を描く作品などがそれだ。

 

例)『Horizon』シリーズ、『Apex Legends』『ラストオブアス2』 『ワンダーウーマン』『トイストーリー4』等

 

しかしこうした作品は「ポリコレは作品をつまらなくしている」という激しい批判に晒されている……

また、大阪府の表現ガイドラインで女性キャラを描く際に「人格を持った多様な姿で描くように」と書かれていたことに対して、著名な表現規制反対派で漫画家の赤松健氏は事実上の「萌えキャラNG宣言」であるとして反発をしたのも有名だ。

やはり、多少の改善されてきているとはいえ、依然として女性に課される性役割は依然として強力だと言えるのではないだろうか。その結果として、例えば聖母的な女性像であったり、少女的な(明るく優しい)女性像であったり、脱人間的な女性への幻想が生まれる面もあるように思われる。

ここまでの話をまとめよう。

性的な魅力を強調している表現はその背景に、女性の価値は主に性的魅力の提供であるとする文化が読まれた場合に批判されることがある。

女性の価値は主に性的魅力の提供であるとする文化というのは、現実の女性に対しての圧力(抑圧)を生み出す。

そしてそれは、男性からとは限らないし、女性から女性へ課される期待もある。

そうした支配的文化に属している表現については、例えば俗情と結託していると批判されうるかもしれない。無論、そうした批判がいつも正しいとは言わないし、批判に妥当性があるかどうかは問われる必要がある。

それでも、その際論点にすべきは、あくまでその表現が背景としている文化や文脈がどのようなもので、どの程度抑圧的かではないだろうか。

4.その表現がどこでどのように利用されているか(広報と空間の問題)

最後に考えたい批判の論点は、広報と空間の問題だ。

つまり、「その表現がどこに存在していて、どのような目的で利用されているのか」という表現利用と空間の問題だ。

広告やキャンペーン、プロモーションなどの目的である作品が利用されている場合、その表現がなぜ広告として機能しているのかが問題になりうる。

以下の事例は、この次元で議論がなされていたように思う。

・『のうりん!』と美濃加茂市コラボポスター

・宇崎ちゃん献血ポスター

・『月曜のたわわ』ポスター(新入社員の疲れを癒すというキャッチコピー)

表現物の内容それ自体を問題視しなくても批判する人はいるのだ。

その時問題になるのは、「なぜそれが広告として採用されたのか」という点である。

「なぜそれが広告として採用されたのか」という部分にさきほど言及した文化の問題が関わってくる。

つまり、「広告として性的魅力が強調された女性が使われる文化」が問題である。

「広告として性的魅力が強調された女性が使われる文化」の例としては、例えばレースクイーン(グリッドガール)問題などが挙げられるだろう(正確にはグリッドガールレースクイーンは別物だが)。

海外では、レースクイーン(Promotional model)は現代の社会にそぐわないとして廃止される動きがある。

F1でレースクイーン廃止、企業は「若くてセクシーな女性」とどう向き合うべきか | 社会貢献でメシを食う。NEXT 竹井善昭 | ダイヤモンド・オンライン

なぜ「広告として性的魅力が強調された女性が使われる文化」が問題かと言えば、先ほどと同様に、長い間「女性の価値の第一義は性的魅力である」という価値観が女性を抑圧してきたためだ。

ネットで日々行われる議論を見ていると、表現とそれに対する批判という論点で議論している人が多いように思えるが、それは適切ではないのではないだろうか。

広報の問題は、表現への批判と考えるよりも、表現がどのような場所でどのように利用されているかという問題と考えた方が良いのではないだろうか。

既にある表現物の広告利用を巡る問題であるから、その広告利用を批判することは表現物そのものへの攻撃とは性質が異なってくる。どちらかといえば、公共空間の在り方を巡る議論の枠組みで捉えるべきではないだろうか。

5.結論

「性的消費」「性的まなざし」批判には、作品の受け取られ方を決定する文化(コード)の問題が絡んでくるのではないだろうか。

個々の事例に触れるつもりはないが(事例が無限にあるので)、私個人の立場はいつも批判側、いつも擁護側なんてことはない。しかしそれでも、何が問題にされているのか、何を問題にしたいのかその論点をはっきり上で議論をすべきではないかとは思う。

勿論、表現そのものが直接的に差別的なメッセージを含んでいないのであれば、表現そのものを批判し取り下げさせることは避けるべきだろう。それでも表現は背景にある文化の表出でもあるのだから、背景文化への分析と批判はもう少し議論が活発になっても良いように思う(「背景文化」など想像の産物でしかないと抜かす馬鹿はよくいるが、想像と現実を単純な対立物だと見做している時点で論外だろう)。

また、果たして文化への批判はどの程度有効なのか、文化よりさらに根本の社会構造を問題にすべきではないかという話はまた別の機会に譲ろうと思う。

 

【補足】

※この手の話をすると、よく「解釈なんて個人の自由だ」なんてことを言いたがる人がいるが、そういう話ではない。そんなことを言ってしまえるなら侮辱や差別を含むあらゆる表現の意味だって「受け手が勝手にそう解釈しただけ」と言えてしまえるわけで、ある程度共有された解釈の形態があるから日常のコミュニケーションも成立する。妥当な解釈など幻想であるなどと言って何が言いたいのか私には分からないが、なるほどそういう人はたとえ他人からネットで相対主義を知ったバカだと思われても所詮は他人の勝手な解釈だと思えるのかもしれない。

※男性向けエロ漫画を女性が描いていることを指摘して反論した気になっている人間がいるので言うと、例えばブラック企業に勤めることを自己決定している人間を例に挙げたからといってブラック企業労働が問題ないわけではないように、自由意志と社会構造は関係がない。また、表現は作者が何を意図したかではなくどう解釈されるかが問題なのだ。まぁ言っても分からないだろうが。

※広告が問題になった場合に、「広告として問題だ」という批判が理解できず表現物への攻撃と理解する人が一定数いるらしい。

※結局広告の文脈も問題である。

https://twitter.com/njrecalls/status/1511484530150227972?s=21&t=7muHjebhLgR5__3_pub-eA

 

 

※宇崎ちゃんポスターは漫画3巻の絵が使われていた。

のうりん!』の美濃加茂市コラボポスターは最終的にブルーレイの絵になった。

 

 

*1:文春新書

*2:文春新書

*3:文春新書