京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

公共空間の消失とアイデンティティの時代を生きる

0.なぜいま公共について考えるのか

なぜ今公共概念を問う必要があるのかと言えば、公共という概念が消失しているということを通して「左翼と右翼の対立」を問い直す必要があるからだ。

私がこれから言及するリベラリズムという概念は一般に膾炙している「リベラリズム」とは少しずれた意味で使われているということである。というのも、一般的にリベラルという言葉は、かなり曖昧に、時に左翼という概念と混同されて語られているのである。政治学的な意味でのリベラリズムは、そうした一般的によく使われる「リベラリズム」とは少し違うのであるが、「左翼と右翼の対立」という図式が「リベラリズム」を左翼の類似物として同じ枠組みに入れてしまうのである。

よって、私がこれから一見してリベラルに対して批判的な見解を展開したとしてもそれはインターネットにいる知識人もどきの「リベラリスト批判」にそのまま接続するわけではないというわけではないし、むしろ、私はそうした「アンチリベラリスト」を自称する者たちに通底しているリベラリズムこそ批判している。さらに言えば、今「リベラル」を自称する人の中には厳密な意味でリベラルではない人が多く含まれているとも思っているのである。

ところでこのような左翼=「リベラル」というようなマルクスにとってもロールズにとっても驚きしかないであろう図式は、そもそもとして社会におけるあらゆる対立が右派と左派の対立として読み込まれているから起こるものであり、実際に社会における対立は民衆を二極化させ、社会に大きな溝を生み出していると解釈される。

しかしこれは誤解であり、現状を捉える上ではあまりに表層的過ぎる陳腐な解釈ではないかと思える。

なぜなら、複層的な利害関係と同時併発的な社会病理を有する現代政治を捉えるにはいささか単純すぎるように思えるようなこの二項対立よりも、現実の事態の方がはるかに深刻かつシンプルだからだ。勿論、シンプルだからこそ解決が難しいのであるが。

 

1.現代における「公共」

現代は、左右の政治思想の対立というよりも承認欲求とアイデンティティの時代である。

社会、もとい公共空間は消滅しかけており、その証拠として我々はもはや単純な個人の集合ではない公共空間を懐古趣味の一環としてしか思い出せないでいる。

もはや社会は個人の集合とイコールであり、「公共空間」はただ不特定の個人が集う場所という意味しかない。個人はどれだけ集まろうが個人の集まりでしかないのであるが、そうした私的なものの集まり、私的空間や個人の空間の集合が「社会」や「公共」なのである。

もはや単純な個人の集合ではない社会について誰も語ることはできないし、「社会」や「公共」という語は個人間のパワーバランスが生み出す関係性の網、つまりゲーム理論が示すところの囚人のジレンマに支配された空間と同義なのである。

ここにかつての公共性は存在しない。

「公共スペース」的な共有空間は、レンタルしなければ、すなわちその都度便宜的にでも所有者を定めなければ運営することさえ出来ないでいるのだ。公園や駅の排除アートの数々を見てみるがいい。あのアートは「ここはお前の所有物じゃない」という表明であると同時に、「公共スペース」がデザイン可能な物質かつ、所有可能なものであるというような前提の事後承諾的産物ではないか。

「公共スペース」は公共空間というよりは、その都度占有者が変わるレンタルスペース的なもの、つまり誰からか許諾を取り使わせてもらうような、誰でも所有者になれるといった性質のものでしかない。

誰のものでもないのと同時にみんなのものであるような公共空間、つまり国家のものですらなく、みんなのものにしかなれない公共空間はここにはない。

所有者という概念を必要としなかった公共空間は、所有されるものとして実体化したその時から公共性を失い、所有者がいなければ成り立たない「公共スペース」へすり替えられてしまった。そして公共が「公共」になり、レンタルされる存在となった今、当然のこととしてその貸出を行う主体としての国の存在が前提となるのである。その意味で、排除アートや公共空間のデザインなどといったものは、それが如何に私的な欲望と要望を取り入れようが、所詮は国家による「公共」の独占を意味する。

もはや、国家という貸し出し主の許諾なしに誰も「公共スペース」に留まることさえできないでいる(例えばデモなども事前の許可が必要だというのは言うまでもない)。

その意味で「公共スペース」は既に、国家の提供するレンタル品であり、そのレンタル品の一時的所有権とデザイン権利をめぐって、つまり、(全く馬鹿馬鹿しいことに)その空間が「誰の為の空間か」ということについて人々は日夜議論するのである。

また、現代とは全てが民営化される時代であり、かつて公共を担った場所に私的空間が埋め込まれその穴埋めを行うことも多々ある。かつて公共が存在した空間は私的空間の未開拓地として競売に掛けられた挙句、それを所有した企業によって民営化され公共的機能を失った疑似的公共空間を提供するのである。

誰もが利用し、誰もがそこを通るという空間、人々の生活圏の重なる場所にありながら、私人によって運営されている空間(駅やコンビニ、屋外ビジョン広告のサイネージ)が群雄割拠しているのが現代である(街にあふれる様々な広告とそれに対する批判の数々を思い浮かべてほしい。なぜ彼らが批判するのかと言えば、それがゾーニングされていないから=そこが完全な個人的空間ではないと認識されているからである)。

そのような私的に所有されながらも、全ての人の生活圏にかかわる空間=疑似的な公共性を持った空間は無限に分割された私的空間の集合として存在しているため、そのデザインを巡って、何が自分達にとって「快適」かが常に議論されることになるのである。自分達も使うのだから自分たちの心地よさを優先したいと思うのは当たり前だし、自分たちが排除されるような空間になってほしくないというのも至極当然な考えである。

公共空間を一部の利用者によって好きにデザインされないようにするためには、人々は自分たちが消費者であることを盾にしながら「クレーム」を出し続けるしかなくなる。言うまでもないことであるが、ここでは「クレーマー」だけではなく、「クレーマーに対する批判」すら「クレーム」なのである(「クレーマー」批判をしたがる馬鹿はこれが分からないようだが)。

こうして無限に「クレーム」を出し続けることが、疑似的な「公共空間」を誰もが使用し、通ることのできる空間として維持する合理的な手段になる。「クレーマー」を冷笑する人々は、「クレーム」という行為を「クレーマー」の人間的特性の問題に帰着させがちであるが、私はそうは思わない。

私的空間の重なる場所、私的思惑の群雄割拠状態の疑似的公共空間は、もはや私的空間同士を繋ぐ連絡通路としてのみ重要視され議論されるのであって、公共空間としての機能を期待されているわけではない。それらは公共としての機能を完全に停止したまま私的な領域の延長として分割統治されている。

公共は消滅し、あるのは国家が提供する「公共スペース」か、私的空間の提供する疑似的公共空間だけである。すなわち、国家と個人的空間の間に無限に広がっていたはずの公共空間は、ことごとく引き裂かれ国家の管理物となるか、私的所有物になるかそのどちらかの運命を辿ることになったのである。

そうして残った国家と私的空間は、その空間同士の緩衝材であった公共の空間を失い、せめぎ合うように領土争いを続けている。かつて社会的空間ないし、公共空間が広がっていた場所には、いまや私的な空間(と企業によるサービス)と国家の提供するレンタルスペースとがひしめき合っている。国家の空間支配に対する個人の反抗、個人と個人の対立、それらはもはや公共空間を中立地帯化することはできず、むき出しのまま直接ぶつからざるを得ない。

リベラリズムを徹底することは個人以外の全てを無意味にする。公共性は個人の意思の集合へ、個々人の活動は交通へと還元されるのである。リベラリズムにおける理想はすぐそこまで迫ってきている。

”全ては個人の生活の為である。個人はその私的領域において自由であり、また、個人的な領域、私的な領域を充実させるためにのみ公的な空間が存在する。全ては個人の生活の充足のために存在しているのであり、公共や社会は個人の私的空間に奉仕しなければ意味がない。公的空間や社会は、それ自体に意味などないため、常に個人の私的な空間にとっていかに有益かという点に根拠が存在する。公共は、個人の要望を元に作られなければならない。”

これこそがリベラリズムに通底する考えであり、リベラリズム国家主義全体主義に反発する際の強力な根拠となる。リベラリズムの理想とは、たとえ個人がどのような自由な生活を謳歌しようとも、どのような欲望を持とうとも、それが他者の自由を奪わない限りにおいて何も問題が起こらないような自動化した社会であり、言ってしまえば個々人が社会や政治に無関心でも問題なく自由に生きられる社会なのである。社会福祉の発達(ここでは国家によるものか市場が提供するものは問題ではない)がリベラルが掲げる政策において重要なのは、あくまでそれが個人の欲望や個人の生活の自由の保障にとって重要なものだからだ。福祉は国家や市場が提供するサービスのようなものでしかない。

ここに公共という概念は存在しない。

むしろ、そうした公共への意識や政治意識が必要にならなくなるほどに社会システムが安定し、充実していくこと。公共や社会的で政治的なものに無関心でいられるような社会をリベラリズムに憑依した欲望は目指した。

公共空間が個人への信念に関心を向けることもなく、また個人も公共空間の美徳に目を向けることがない放任主義の完成系こそがリベラリズムの意味する自由だ。それが福祉国家によってなされるのか、市場原理によってなされるのかは、些末な差でしかないし、何を問題視するのか、何を自由と見做すのかについての議論も所詮は本質的対立にはなりえない。

公共の自律性を埋葬し、公共空間に対する私的空間の優越、公共が私的空間への奉仕すること、個人の私的な生活の充実のみが公共の目的であるというのがリベラリズムの根本史観なのである。

だが、こうした個人の公共への無関心、公共の放任主義は、結局全てを私的領域へと開拓していく現代において公共空間の空洞化を招いた。公共空間が私的空間の充実のためにのみ存在するということは、同時に、私的空間の機能が拡張すればするほどに公共空間の存在意義が奪われてしまうということでもある。一体どれだけの公共サービスが民営化され、企業による素晴らしいサービスの数々が我々の私的な領域、生活、個人の時間を満たしてくれていることか。もはや、企業による数々のサービスの提供が、あの民営化信仰を、公共の不要説を生み出し、いまや社会福祉すら民営化の兆しがあるというのに。

リベラリズムはこの点において、悲惨なまでに楽天的であり、どんなに私的な空間が充足しようともその私的空間同士の対立、つまり個人の自由と個人の自由の対立の調停としての熟議という最後の役割を担う限りにおいては公共空間の意義は消失しないというような展望を持っている。

しかし、それがどれだけ根拠薄弱な展望であったかは、現状を見るにあきらかだろう(現代において公共空間への配慮という概念が一体どれだけの説得力を持ち、私的な対立を調停するべく熟議が行われてきたというのだろうか? あのクレームの数々、クレームへの冷笑の数々はもはや熟議などと呼べる代物ではないし、公共空間などという言葉は既に体制側=権力者の言い分だという反復されすぎた言説がどれだけ支配的かなど考えずとも分かる話だ)

 こうした公共空間の消滅によって、かつて公共空間が提供し、保持していたものも同時に失われることになったのである。公共空間によって成立していた数々の美徳や信念という概念は消滅ないし、その意義の変更を余儀なくされてしまうわけである。

信念と美徳の世界は合理主義的かつ資本主義的なリベラリズムによって、私的公共性ないし疑似的公共性を持つ空間からは排除され、オカルティズムとラディカリズムの彼方へと追いやられてしまうわけである。ここにきてセカイ系的な想像力もまた、オカルティズムやラディカリズムをその遠近法の最奥に位置するものとして設定するのであるから、それらはやがて接近するもののロマンティシズムとして、カッコつきの「信念」や「美徳」として延命させられるとともに、そこから永遠に取り出されなくなってしまったのである。

人間の美徳や道徳は、美的な価値以外の全てを捨象され、我々の生活から最も無縁なものとして、それこそ教科書に載ってる出来事や心温まる美談(ファンタジー)としてしか理解されない。現代の人々は、目の前の尊い行いに対して、確かにそれは美徳だがと前置きした上でそんな美徳に一体何の意味があると内心では思っているのだ。

行き場のなくなった信念や美徳は神秘化することでしか形を残すことができないため、リアリティを感じられないのは当然と言えば当然なのであるが、ともあれ、そうした信念や美徳の置き場に困るような時代では、社会なるものの維持にはミメーシスではなく、ロジックに頼らざるを得ないのだ。現代においては自身の信念において正義を語り、公共精神や美徳を信じて行動することなど合理的とは見なされない(そもそも「信じること」もある種の無根拠さが必要なのであるから非合理の産物である。本当に合理的な人間は、計算はしても信じたりはしない)。ポストトゥルースの時代において、いまここにあるアイデンティティの傷こそが、何よりも確かに確信することのできるトゥルース(合理)なのだろう。無論それも、ポストトゥルースと名付けるよりは自己愛のモダンへの先祖返りと見た方が正しいのかもしれないが。ともあれ、誰も彼も、「あえて」と言わなければ正義を信念として語ることさえ難しいと感じているような状況では、個人的な体験や個人のアイデンティティの傷から社会の在り方について議論するという、あのリベラリズムが蔓延するしかないのである。

無論、これは「お気持ち」などと言っている者たちにおいても共通の心象であり、彼らは結局のところ「お気持ち」によって社会の動きが決定されることに対する自分の「お気持ち」の疎外感をそれらしく語っているだけであり、事実上このリベラリズム的なアイデンティティのマウンティング合戦(承認のまなざしの争奪戦)は誰も調停者がいないのである。

ひたすらに信念や美徳は陳腐化し、戯画的な神秘として観念的セカイに放逐され、ただこの心の傷こそが、その語りに対する人々の同情的視線こそが、その主張の正当性を担保する。そこでは、アイデンティティや個人の心の傷が公共空間における信念に代わり、正義を主張する最も強い原動力になるのである。

美徳や信念といったものは狂信的合理主義者たちの手によってオカルティズムやもろもろの俗世間の宗教的迷信と一緒くたにされ一掃されてしまったのであって、僅かな例外を除いて、誰も信念や美徳というものを本気で信じてはいないだろう。むしろ人間としての美徳や信念に基づいて政治など語ろうものなら、人の価値観の多様性を認めない、偏狭な教条主義者というレッテルを貼られてしまうのが今の時代ではないか。

「信念」という語は、単に自分のやりたいことを周りの反対を押し切って行うというような、私的な空間のみで成立する概念となってしまったし、「美徳」などは額縁に入れて壁に飾っておくような美術的価値しか持たされていない。そんな箪笥に生えたカビのような概念は、所詮は右翼の持ち出す規範意識と変わりはしないのだという嘲笑の方がよほど一般的である。

全てが価格へ、お金に換算されてしまう資本主義の社会において、値段を付けるまでもないもの(worthless)と値段が付けられないもの(priceless)ははっきりと区別されて境界が設けられてしまった。その二つの区別をはっきりと付けることのないような空間にのみ存在していた信念や美徳はもはや存在できない。

美徳は値段を付けるまでもないもの(worthless)であってはならないが、値段が付けられないもの(priceless)となってしまえば、それは規範やルールとして明文化され定義された「美徳」でしかない。

美徳とは、誰に命令されるでもなく、損得勘定でもなく、自分で考え行動した結果として善行を為すことであるが、もし自身の行いを美徳だと周りから認知されることが分かっていてそれをなすのであれば、そこには計算が入る余地があるし、純粋な美徳とは言い難い。

美徳は、それが誰からも見向きもされず語られもしないものであれば美徳として価値を持つことできないが、それが美徳として語られ明確に形を持った瞬間に純粋な美徳としては成立しなくなってしまうというアポリア的な存在である。つまり、美徳は誰も見向きもしない無意味なものでもなければルールやマナーのように明確に意味付けもされていない、どっちつかずな空間を揺れながら生きながらえることしかできない。美徳は「無意味な尊さ」(worthlessなpriceless)、あるいは「尊い無意味」(pricelessなworthless)なのである。

まさにそうしたどちらでもない曖昧さを保つことのできる空間こそが公共空間であったはずだ。公共空間は、私的な行為や善行を注目に値するものとして可視化する場であったと同時に、その視線を固定化せず物質化もしない。

だが、資本主義的合理主義はそのアポリアを許さないのである。

こうして美徳や道徳といったものは、規範やルールというような有意義で共有可能なものと、共有もされなければ規範としてすら参照されない個人的な趣味趣向に完全に分離してしまった。

ルールやマナーという形を持った「道徳」はルールを守ることこそ大切だというようないかにも保守的な規範意識と同義になってしまった(ルールを守っているのだから私は悪くないという言い訳が多用されているのはその裏返しである)。仮に美徳の価値を評価しようものなら、すぐさま権威主義者というレッテルが貼られてしまうのである(無論保守的な観念であることに変わりはないが)。

公共空間は、保守的な規範意識固定観念、伝統的な迷信の数々が延命する場所であるとともに、美徳や道徳という観念が生き延びる場所でもあった。しかし、悪しき風習、固定観念を破棄する際に、美徳や道徳というものも同時に葬り去られてしまったのだ。

リベラルフェミニズムの文脈において「女性らしさ」「男性らしさ」というジェンダーステレオタイプを捨て去ろうとする運動が活発化したように、この時代の人々はあらゆる「らしさ」を自由な生き方を奪う枷であるとして捨て去ろうと努力してきた。それはなによりも「自分らしく」生きるため、「自分らしさ」を縛り付けて押さえつける別の「らしさ」への反抗でもあった。誰もがみな「自分らしく」生きるために、「男性らしく生きろ」「女性らしくしろ」と言われないために、「らしさ」の押し付け合いをやめる為に。

このあらゆる「らしさ」からの脱却=解放を図っていたまさにその時期に、美徳や信念が規範意識としての「美徳」や「信念」として解釈され、「人間らしさ」という捨て去るべき固定観念だと解釈され破棄されてしまうのは必然だった(AIの時代の到来が叫ばれるようになると、今度はその「人間らしさ」について多くの人間が慌てたように議論し始めているわけであるが)。

もはや美徳や信念により政治を語ることは許されていない。

過剰なまでの社会秩序への執着こそが多くの虐殺を生み出し、秩序への保守的な態度が多くの人を抑圧してきたのではなかったのか、と合理主義者達はいささか大げさに疑問を呈してみせるわけであるが、これこそまさにリベラルな政治観が推し進められた結果なのであろう。美徳や正義によって政治を語ることは、軒並み「偽善者による価値観の押し付け」と見なされるようになり、「暴走する正義」などという決まり文句が出てくる始末だ。なるほど、たしかにポストモダンを通過した我々にとって、もはや絶対的な善の存在や正義の構想について何ら疑いを持つことなくそれを聞き受けるというのは土台無理な話だろう。中世の魔女狩りから十字軍、第二次大戦のファシズムに冷戦時代の共産主義国家に至るまで、そのどれもが自分たちの「信念」や「正義」を疑わず盲目に狂信する者たちによって引き起こされたではないかと多くの者たちは口にすることだろう。人々が言うところによれば、真に恐ろしいのは悪ではなく、悪を裁こうとする人の心だというわけである。

さて、オピニオンリーダーのような者たちの間でも共有されているこの風潮は、必然的に左翼の教条主義を批判する副作用として、「正義の反対は悪ではなく、別の正義」というあのクリシェとともに、相対主義的な諦観漂う世界観を生み出してしまったのである。もはや正義を語ることに意味はなく、美徳や信念は、個人的な趣味の範疇でのみ語られることを許されるか、あるいは、過剰に神秘化され、幻想としてしか理解されえないような「美徳」や「信念」として、ロマンティシズムとともに存在するしかできないのである。信念や美徳は、それらを口にする者が誰しも冷笑的な視線を浴びざるをえないような、「信念」や「美徳」として大切に飾られているのである。

こうした世界観の登場は大きな物語の終焉の後に訪れることで、穴が空虚として残った、いわゆる社会空間の喪失と同時に起こるわけであるが、そうした社会的空虚さを埋め合わせるようにして、村上春樹作品や、「セカイ系」などといういささか定義曖昧な表現によって語られようとしていた作品群の数々が一定の層に受容されてくるのはある種当然とも言えるわけである。失われた大きな物語と、美徳や信念といった世界は、我々の生きる支えを作るような公共空間の根底にあるような、それはちょうど文化と文明の間、橋を架ける位置にあるものだった。そこが抜けた今、我々は今無限の不安の中に投げ出されているのである。

もはやただ人であることに誰も意義を見出せていない。いまや「自分らしく」「私らしく生きる」という脱規範のテーゼこそが規範化している。「私は本当に私らしく生きているのだろうか」というあのアイデンティティの不安が、人々の承認欲求を沸き立たせていく。当然、そうした「個性的であること」への欲求は、自分が持ちうるアイデンティティが肯定されることを望むのである。

アイデンティティとは、私は一体何者であるのかという問いに対する人が漠然と持つ回答であり、アイデンティティの確立のためには、自分と他者との差が肯定的に受け入れられることなしには始まらない。これがいわゆる自分の個性の発見であり、その個性の承認なのであるが、もう一つ重要なのは一体誰によってその個性は承認されるのかということである。社会における成功や社会的な地位を持つ人間へ羨望のまなざしが集中していた時代、「社会に認められる」ことが重要視されていた時代であれば、社会という大きな他者がそれを担っていたのであろうが、今やそんな大きな他者としての社会などどこにも想定することができないため承認を得るためには身近な他者、あるいは不特定多数の匿名的な他者集団に頼らざるを得ない(例えばかつての若者の反抗文化、カウンターカルチャーの意識も社会という大きな他者に自分達の存在を「認めさせる」という側面があったのではないだろうかと思うが、今の若者はもはやその反抗の対象として社会を想定できないのではないか)。一時期流行した「自分探し」というキーワードは正確には、自分の個性が承認されて肯定されるような「居場所探し」のことであり、そうした「居場所」の発見がそのまま自己のアイデンティティの確立につながっているのである。

アイデンティティの確立は、自分とそれ以外の他者との差が肯定的に承認されることと尊重されることを通して行われるが、それは一人で完結できる行為ではなく、承認してくれる他者のまなざしが必要になる。人間は、他者からどう扱われるかによって自分が何者かを学びどうすればいいのかを決定する社会的動物であり、アイデンティティの確立のためには、自分が思うような自分として扱ってくれる他者が必要になる。その意味で自己実現はなによりロールプレイ的であり、そうしたロールプレイが可能な場所こそが「居場所」として認識されることになる。

当然のことながら、社会という漠然と大きな他者から得られていた承認よりも、身近な他者、あるいは不特定多数の匿名的他者から得られる承認というのは人々の興味次第、気分次第なところがあるため大分揺らぎやすい。

だからこそ、現代人は自分のアイデンティティを肯定的に保障してくれる存在を欲しがるし、自分が所属する何かしらの属性(他人との差)が他者にどのようにまなざされるのか、自分への他者のまなざしに対して繊細なまでに敏感にならざるを得ない。

承認や視線という形ではない方法で人々のアイデンティティを保証していた公共空間はどこにもなく、ここには国家による承認関係=ナショナリズムか、個人による承認関係=複数の肯定的視線とそれに対する依存しかない。現代のナショナリストは以前のような軍国主義的で滅私奉公的な者たちなのではなく、単にナルシストなのである(言われずともすぐに思いつくだろう)。現代のナショナリストたちが国とその指導者を肯定し、「素晴らしい日本」という史観をしきりに喧伝してみせるのは、自身をネイションの一員(=素晴らしい日本人)として肯定し承認してほしいからであるし、国家という大きな存在との一体感を欲するからである。個人的な関係に承認を見出す人々が自身の承認欲求を満たすためにひたすら注目を集めようとするのも、個人一人一人の視線がナショナリズムのもたらす肯定感よりも貧弱だからである。そこには大いなる存在との一体感が存在しないのだ。

現代人は漠然とただ自分がそこにいることを肯定できない。自分が存在することに何かしらの理由付けをせずにはいられないのである。アイデンティティの不安は、自己肯定感情の揺らぎと直結している。だから、現代人は自身のアイデンティティを形成する自分の属性への否定に対して過剰なまでに敏感なのだ。自分が持つ属性への否定的なまなざしは、そのまま自己否定へとつながってしまうのである。現代人のアイデンティティはその点デリケートであり、自身が帰属する集団や自分が持っている属性に対する否定的な意見に対して過剰に傷つき怒りを露わにするのである。そのような議論は、「一括りにする議論」「大きな主語の議論」と呼ばれ差別的であるとさえされるわけであるが、今の時代にかつての本田透東浩紀稲葉振一郎の本が読まれたのなら、すぐさま全員に差別主義者のレッテルが貼られていたことだろう。

「大きな主語」による議論は、一部の敏感な者たちからレッテル(偏見)を作るべきではないというような批判を招くことがあるが、集団に何らかのラベルを貼ることの是非が問われるのは、その貼られたラベルが妥当か吟味されるべきだということと、そのラベルが使いまわされることで、そのラベルの内と外の不純物、つまり外部の中の内部性ないし内部の中の外部性を見失しなわせる可能性があるからであって、ラベルを貼ることそのものが否定されるべき行為だからではない。

仮に何かに対して批判的な言葉を投げかけたいのであれば、そこにいくらかの二項対立的な言葉の創設(再創設)があるのは不可避的なのであって、それは比較的妥当かそうでないか(ともすれば差別的か)というような程度の差でしかないのである。

もし正確無比に何かを示そうとするのであれば、それは人類みな一人一派で済む話ではない。あらゆる学問分野において、サイードが言うような「心象地理」的な他者理解は、厳密な意味では免れないのである。必要なのは属性的な言葉をすべて放棄することではなく、そのアポリアに対抗するためにその区分をどこまでも細分化あるいは可変させていくことだ。「大きな主語」の何が「大きい」のかという基準は常に可変的であり、多くの恣意性を孕んでいる。「大きな主語」を広く一般に禁じようとすることは、何も言うなということと同義であるのだが、リベラリスト達はそんなことさえ理解できずにいるのである。

全ての政治はアイデンティティの確立と傷つきによって語られる時代なのである。いや、むしろアイデンティティとは他者と自己の差異の境界面の感触のことなのだから、その確立において、痛みと傷は不可避的であり、その痛みへの怒りは怒りであるとともにマゾヒスティックな自己肯定感なのだ。一体どれだけ多くの人間が自分の持つ属性の被差別性と自己のアイデンティティを結びつけたがることか。傷に対する怒りの表明が、なによりもその傷による自己存在の確認でもあり、痛みを持つ存在としての自己の確立であると同時に同じアイデンティティを持つ者たちとの痛みの連帯感の創出でもあるのだ。ともあれみながみな自分のアイデンティティを「誰よりも」尊重されたがっているという単純なひしめき合いの光景に、左翼だの右翼だのと余計な外観を纏わせる必要はないだろう。

これはそこまであからさまな誇張ではなく、例えば差別問題の議論においても人権や歴史的文脈の問題としての差別問題は姿を消し、アイデンティティの私的な傷つきの問題としての差別問題が語られ始めているし、差別主義者が自分達こそが差別されている側だとする主張するのも、傷ついているのは自分達だという私的な傷つきが根拠になっているからだろう。その成れの果てが差別主義者を差別するなというアホのような相対化の文句ではないか。

そうした「傷つき」と「共感」の論理に対して批判的であると自称する「お気持ち主義」の批判者にしても、その多くが言いたいのは結局のところ「あいつらばかり同情されてずるい」程度の話でしかないのであって、それは到底、公共意識を呼びかけ公共性に生きろという話にはなりそうもない(そもそも彼らに公共の理念はない)。仮にも「お気持ち」を批判したいのであれば、是非とも「お気持ち」に依らない公共意識について語ってもらいたいものだが、彼らはいざ自分達の「思想」を発する場になると呆けたように古びた自由賛美のキャッチコピーを量産する始末である。

今の時代は右翼の時代でもなければ左翼の時代でもない。単にアイデンティティのひしめき合いと摩擦の時代なのである。

まったく呆れることに、この、アイデンティティの痛みを訴えるという手法はあまりに多用されるものだから、使いたくなくとも使わざるをえない場面が多々あるのである。人に感情移入をしてもらえるとような自己の語りを獲得しなければ、そもそも注目すらされえないとような状況が存在している。リベラルな人間観からしてみればあらゆることは等しく「他人事」なのであり、自分にとって共感できるあるいは興味のある物語のみが注目に値するというのは当然なのであるが。

ここにはもはや、アイデンティティポリティクスなど存在しない。

なぜなら、現代においては私的なアイデンティティの領土争いこそがポリティクスだからだ。アイデンディティ闘争としての政治はこんな私をどうか見てくれ(承認してくれ)という痛々しいまでのまなざしの奪い合いの現場なのである。

ポリティクス(政治)の一部にアイデンティティの問題が関与している時代は終わり、ポリティクス=政治一般はアイデンティティの奴隷となった。おおよそ全てのポリティクスは、各人のアイデンティティの確立とその為の肯定的まなざしの死守のためだけに存在する。まさにこうしたポリティクス=政治を個人のアイデンティティの物語を語る場へと転じさせてしまうことがリベラリズムの副作用なのである。

現代の多くの人は純粋なポリティクスの世界など信じてはいない。そう見えることの多くは、ミュージカル役者が番組で演じる茶番のようなものだ。

この世界の多くの「感動的な」できごとは、実利的な利益を優先した結果であるが、多くの人間がそれをあたかも「信念」や「美徳」によるものだと演出して見せようとするのは、死体が死んでいないように見せるためのアリバイ工作でしかない。

ポリティカルコレクトネスに沿った作品が多く生み出されるのは、ポリティカルコレクトネスに配慮することのコストとそのメリットが考慮された結果にすぎない。

ポリティクス=アイデンティティとなった時代においては、注目を集められるような語りを持たない人間は、政治など下らないというようなアンチポリティックな態度をとらざるを得ない。なぜなら、ポリティクスは注目を浴びるような語りを持つ人間たちだけの専有物なのであって、注目を集めることのできる語りを持ちえない者たちのアイデンティティを救済してはくれそうにないからだ。当然のことながら、そうしたアンチポリティックな態度でさえアイデンティティの問題でしかないのだ。「政治なんかよりも日々の日常を確かに生きていくことの方が大事なんだよ」というアンチポリティックな言葉は、アンチポリティックな空間=私的空間の領土争いから逃れた真の私的空間こそ、各人のアイデンティティを救済しうるのだという繊細な態度の表れなのだ。ポリティクス=アイデンティティ闘争となった今、当然それに対応するアンチポリティクスもアイデンティティを確保する手段の一形態でしかない。

現代人は政治に興味がないのではなく、政治という「居場所」に興味がないのである。政治の場に「自分の居場所」がないと感じている多くの現代人は、政治の場を離れ「自分の居場所」を求めて、日常的なつながりの中にそれを見出そうとする。勿論これは、日常に自分の「居場所」がない人間がポリティクスへと追いやられるという図と裏表なのだが。

だからこの手の人々の多くは、ナショナリズムが提供する素朴な国民の物語に対しては呆れるほどに無警戒なのである。それと同時に、ミュージシャンやらアーティストが政治について発言したりする場合は(いくらそれが眉をひそめたくなるほど紋切り型の文句であるとはいえ)「音楽に政治を持ち込むな」「芸術に政治を持ち込むな」としきりに嘯いてみせるのであるが、それは自分のアイデンティティの場(自分の「居場所」)にポリティクス(という別の私的空間)が侵入してきたと感じるからなのである。

ポリティクスも、アンチポリティクスもすべて、等しく政治的=個人的である。それは全ての個人的なものは政治的であり、個人と政治は不可分であるというあのテーゼのことではなく、いまや政治を含めたすべてが個人的なことに過ぎないという現代人の感覚なのだ。

こうしたアイデンティティの感覚は、その当然の帰結としてナショナリズムが提供する国民と国境の物語に対して同情的かつ親和的であるとともに、その国境線に自身の肌感覚を重ね合わせてしまう。自身のアイデンティティの確かさを確認するために、人々はそれを支持するのだ。逆に言えば、自身のアイデンティティを保証しない国になどこの国の住民は興味がないのだろう。だから現代の多くの人間は素朴なナショナリストであると同時に、繊細なリベラリストなのである。