京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

暴力の記憶を語ることの難しさ~『君は永遠にそいつらより若い』~

はじめに

今回は、どうしようもないコミュニケーションの困難について書かれているある小説について紹介したい。

今回紹介したいのは芥川賞作家津村記久子の『君は永遠にそいつらより若い』である。最近読んだ本の中でかなり印象に残った本で、映画化もするようなのでこの記事を書くに至った(映画版とは解釈が異なると思うが.......)。

君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)

君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)

 

1.「当事者」として語ることの困難

『君は永遠にそいつらより若い』は、自分が受けた暴力の体験を語ることの難しさや苦悩と、その傷と共に生きることについて書かれた小説である。

私たちが自分の体験や経験を人に語る時、ある困難が付きまとう。

記憶を呼び戻し、順序だてて一つの物語のようにして語ったとしても、たとえ当事者による語りであってもそれは体験の記憶そのものではなく、ましてや体験そのものでもないということだ。

それがどんなに詳細な説明であっても、それを聞く側はその日の体験をそのまま体験できるわけではないのだ。

だから私たちは時として、当時の状況を都合よく脚色したり誇張したりして話したりする。

そして、そうしたコミュニケーションの限界が生々しい現実として現れるのは、暴力を受けた体験について誰かが話すその瞬間である。

たとえ暴力を受けた被害者の語りであってもそれは体験の痕跡であって、体験そのものではない。

その時その場にいる「当事者」は語ることができない。語ることができるのは、その時その場にいたであろう「経験者」だ。

「当事者」と「経験者」の間には時間の隔たりによって生まれた差異(あるいは差延)が存在する。体験を語ることは、実際の事実に対してつねにすでに遅れてやってくる。

そしてその遅れ、差異(あるいは差延)が、時として決定的に重要な何かを失わせてしまうのだ。

2.ホリガイ(堀貝)と対比的な二人の人物

2.1ホリガイとカバキ(河北)

この小説には二人の人物がそれぞれ主人公のホリガイ(堀貝)と対比されながら描かれている。

カバキ(河北)とイノギ(猪乃木)だ。

まずはカバキ(河北)から見ていこう。

ホリガイ(堀貝)とカバキ(河北)は、暴力被害の体験の語り方という点において対称的に描かれる。

主人公のホリガイは小学生の時、同級生の男子二人から暴力を振るわれた経験を持っている。

ホリガイは自分の被暴力体験について語る時、自分の「体験談」が事実そのものではないということ、たとえ写実的であっても事実の痕跡に過ぎないことを理解している。

だからホリガイは自らの被暴力体験をすでに自分の中で笑い話になっているのか、もしくは未だ痛む生傷なのか、そのきわにある体験として語る。

また、語りながらも「そいつらの顔をはっきり思い出すことはできるのだけど、名前は片方しか思い出せない。それもぼんやりとしか」と言って自分の記憶をどこか他人事のように語るのだ。

語り手は通常、自分の語りが自分の体験の記憶そのものだと錯覚しがちだ。しかし、たとえどんなに流暢な語り口であろうと、自分の記憶そのものを相手に伝達することはできない。

語られる体験談は記憶でしかない上、聞き手は言葉から実際に何が起きたかを想像するしかない。実際に起こった出来事をそのまま聞き手の脳裏に再現することなどできはしない。それに、たとえそんな技術が生まれたとしても、それを伝達された人間は出来事に対して別の解釈をするかもしれない。

もっと根本的な問題を言えば、どんなに豊かな想像力をもってその「体験談」に登場する「当事者」を理解しようとしても、それは今目の前にいる語り手(元「当事者」)に寄り添うことにはならない。

目の前の語り手はすでにつねに元「当事者」であり、またその体験談を聞いた聞き手もその体験談から当時の様子を想像することしかできない。

体験を聞く側は究極的には当時の「当事者」に対して何の助力もすることはできない。

できることはただ今目の前でそれを語る語り手に寄り添うとすることのみである。

語り手がどんなに詳細に語り、それに対して聴き手が豊かな思考力でその痛みを想像したとしても、それは今目の前にいる語り手に寄り添うこととはズレてしまう。

つまり、ホリガイは「語り手≠当事者」だと考えているのだ。

こういうホリガイと対照的なのがカバキだ。

カバキ(河北)は、交際相手であるアスミのリストカットの傷から「離れられ」ないと自身を語る。

カバキにとって、アスミがリストカットの傷をもっていることには特別な意味がある。

彼はリストカットという傷の痕跡を持っていることは、現在リアルに心の傷を持っていることと同義であると考えている。

また、アスミが心の傷はアスミという人間固有の価値を保証するもの、ひいてはそんな彼女の傷について語るカバキ自身の固有の価値を保証するものとも考えている。

なぜそんな考え方をするかと言えば、カバキにとって「傷について語ること=その傷の当事者であること」だからだ。

つまり彼にとっては、「語り手=当事者」なのである。

カバキはアスミという他人の傷、その傷について語ることで自分がその傷の当事者であるかのように振舞う。

ごく単純に言えば、他人の傷を語る自分に酔っているのだ。それはある特別な傷について語る自分への憐憫と陶酔である。

カバキは自分ではなくアスミの傷を語ることで、その傷に憑依し、「当事者性」という特権を手に入れようとする。

ここでは、他人の傷を語ろうとすることが問題なのではない。他者の傷に過剰に憑依してしまうことで無自覚に語る自分を特権化してしまうことが問題なのだ。

他人の不幸の体験を語る時にまるで自分自身が可哀そうな存在であるかのように語る人間を見たことはないだろうか?

カバキはそれに近い。

誰かがある傷の体験について語る時、そこには語る人間の欲望が紛れ込んでしまうことがある。それは他人でなく、当の本人であってもだ。なぜなら、語ることができる時点で、その人はまさにその体験の最中にいた「当事者」とはどこかでズレてしまうからだ。過去の自分さえ今の自分と全く同じ存在というわけにはいかない。

誰かの傷についてを語る時、語る人間は事実をそのまま伝える透明な存在にはなれない。私たちは当事者の傷そのものではなく「傷痕」とそこから読み取ったことしか語ることができないのだ。

だが、カバキはそうは考えていない。

カバキがアスミの手首のリストカットの傷跡(痕跡)を「分かち合う」ために、傷跡(痕跡)の上からさらに深く手首を切ったと報告するシーンは象徴的だ。

カバキはリストカットの傷にしても、その「体験談」にしても、それらの痕跡といまここにある傷の結びつきをこそ信じている。その信仰があるからこそ、カバキは傷の痕跡そのものを当事者の傷そのものであると錯覚できる。言い換えれば、カバキは「痕跡」でしかないリストカットの傷跡にアスミの今ある心の傷そのものを幻視してしまっているのだ。

傷の「痕跡」ひいては傷を語ることは、カバキにとって真実そのものだ。リストカットの傷はかつての傷の「痕跡」ではなく、いまここにあるアスミの傷でなければならない。だからカバキは自分の語るアスミの話も彼女の傷痕もただの「痕跡」と認めることができないでいる。カバキにとって傷跡(痕跡)の上から切りつけることは、アスミの今ある心の傷に自分が入り込むことと同一であると感じられてしまうのだ。

カバキが語ることにこだわるのはこのためだ。

カバキはホリガイを「何の問題もない人間」であると言いながら自分のことをまるで語るべき傷を持った人間かのように語る。むしろ、傷を語ることこそが「当事者」であることの資格であるとさえ考えているようにも見える。それは彼の「自分になにも問題がないからって、語れる奴を嫉むな」 というセリフにも表れている。カバキは「語れる=語るべきものを持っている」、「語れない=何も問題がない」という図式で人を理解する。だからカバキにはうまく傷を語れないホリガイが「何の問題もない人間」のようにみえてしまう。

カバキがホリガイに聞き手であることを望むのは、それが彼を真の「当事者」に仕立てるための語りに必要だからだ。語るためにはそれを聴く「ギャラリー」が必要だ。それも、自分を「当事者」たらしめる完璧な語りの完璧な聞き手が。

だからホリガイの「あんたらは、どんな形だろうと助け合って生きてて、それでいいじゃないか。なんでギャラリーがいる?」という問いかけにカバキは答えられない。

この時点のカバキにとって「助け合って生きてて、それでいい」ということはありえない。

なぜなら、カバキがアスミと「助け合って」「生きることも死ぬことも近くに感じられている」という実感を得るには、アスミだけでなく自身も傷の「当事者」である必要があると考えているからだ。

カバキがアスミの手首を切った後、なぜホリガイにそれを語り実際に見に来いと言ったのか、その理由はここにある。カバキは、自分が語ることは今現在進行形で起きていることであり、「当事者」が語る真実でなければならないと考えているのだ。

カバキはアスミの傷の物語を語ることで自分を真らしく、「当事者」たらしめようとする。つまり、「当事者」として物語ることを成功させようとする。だから彼は誰よりも流暢に、まるで「詩を吟ずるよう」に語ろうとするのだ。

しかし、ホリガイはそんなカバキの話をまじめに聞こうとはしない。それはホリガイが傷の物語を語るカバキを「当事者」としてみなさないからだ。それはホリガイが傷の物語を上手く語ろうとする態度の内には「ナイーブな内面」はけして見えてこないと感じ取っているからだ。しかし、語り手=「当事者」であると考えるカバキにとっては、ホリガイの態度は単に「当事者」である自分の否定としてしか映らない。だからカバキはホリガイに怒りを露わにする。それは「お前はあの時、俺を贋物だと思っただろう」「俺たちは本物なんだ」というセリフを吐き捨てるシーンへと繋がっていく。

2.2ホリガイ(堀貝)とイノギ(猪乃木)

ここで話をもう一人の人物に移そう。

もう一人はホリガイの親友イノギ(猪乃木)だ。

彼女は、語りを聴くという点において主人公のホリガイと対照的だ。

「当事者」として体験を語ることも、「当事者」の話を聴くことも根本的な困難を避けられない。そこには成功は存在しない。ならば、せめて巧く失敗するしかない。

いかに成功するかではなく、どのように失敗するかあるいはさせるかが重要なのだ。

この点にホリガイとイノギとの差がある。

イノギさんは、「語り手≠当事者」であると理解はした上で、語りの聴き手としてその語りを巧く逸らしてしまうのだ。

ホリガイが小学生の時に同級生男子からの受けた暴力の話をするシーンを引用しよう。

イノギさんは、じっとわたしの眼を見ていた。息が詰まるのを感じた。人というより、絵の中の人物が生きていて、それに凝視されているような、不思議な不安感にさいなまれるのを感じた。遠くから見たときのイノギさんの鷹揚な佇まいは、どこか幽霊のようでもあったけれど、今まさに間近にいてもそのように見えると私は思った。

そのガキは今どこにおるんかな」イノギさんは気だるげに口を開きうつむいた。

ユニセフに怒られてもいいから、どうにかできんもんかな。原付で軽く轢くとか」「もうおとなになってるやろから原付ではやっつけられんかも

ガキをガキのままやりたいな」イノギさんはゆっくりと顔をあげて、わたしの背中越しのなにかをぼんやりと眺めた。わたしを見ているようで見ていないような眼差しと言えた。

 「そこにおれんかったことが、悔しいわ」

(『君は永遠にそいつらより若い』p118)

 ここで重要なのは、イノギが「原付で軽く轢」こうとしているのは当時の男子児童であるということだ。

だから、「そのガキ今どこにおるんかな」というセリフは大人になった本人のことではなく、その日その場所にいた「ガキ」の所在についての質問なのだ。

もちろん、それは根本的に意味のない問いだ。

その日その場所にいた「ガキ」はもうどこにもいない。

それを分かっているからイノギは「そこにおれんかったことが、悔しいわ」と口にするのである。

ホリガイが「なぜだかイノギさんにきいてほしい」と思うほどにイノギに少なからぬ信頼を寄せるのは、イノギはその日の「当事者」として語ることも、その日の「当事者」に寄り添うことも究極にはできないと理解しながら、なお目の前の語り手であるホリガイに寄り添おうとしているからではないだろうか。それはカバキのように安易に「当事者」の傷を所有しようとするのではなく、今目の前にいる暴力の経験者が未だ抱える傷痕に寄り添おうとする姿勢を持った人間への信頼だ。

もちろんそれは、安易に「当事者」と目の前の語り手とを切り離すことではない。語り手すら見失っている「当事者」との関係を適切な位置へと導くことだ。いうなればそれは「わたしを見ているようで見ていないような眼差し」に貫かれることだ。

対してホリガイは「当事者」への接近不可能性を理解しながらも、今目の前にいる語り手に巧く寄り添うこともできない。それが、ホリガイがカバキを怒らせてしまう理由であり、ホリガイがイノギと疎遠になってしまった理由だ。

イノギさんが過去に受けた暴力の体験を聞いてホリガイは何も言うことが出来ない。

わたしは、かける言葉を見つけることができず、そもそも言葉をかけることが正しい態度なのか黙りこくっているほうがいいのかもわからず、そして結局何も言わず、ひたすらまばたきをしていた。ごめん、と言うイノギさんの声がきこえた。わたしは全力で首を振り、自分でもなんで首を振っているのか分からなくなるぐらい振った後に、もういいよ、という曖昧なひとことだけが口をついた。そしてすぐにそんな自分を恥じた。より正確に言うと、自分を恥じることに逃げ込んだ。

(『君は永遠にそいつらより若い』p209)

ホリガイは良くも悪くも人の語りに巧く向き合うことができないでいた。

それはホリガイ自身この作品の中で悩み、葛藤し続けたことである。

ホリガイが冒頭の場面で「わたしが仮にどれだけ正確にその場に立つことができたとしても、その場に流れた時間を遡ることはできない」と語るように、時間が巻き戻らない以上「当事者」を正確に理解することは難しい。そして、語り手が「当事者」として「体験談」を語ることも、聞き手が「当事者」を理解することもすでにつねに失敗する。

だが、それは今目の前にある他者に向き合うことの不可能性ではない。

ホリガイはあの日、イノギさんが無くした自転車の鍵を探すことを決意するのだ。

ただ時の流れに怒りを感じて無力感に浸ることはせず、「そこにいられなかったからこそ、わたしは今ここで這い回って地面を掘り返しているのだ」と決意し、イノギの自転車の鍵を探しあてるのだ。

3.「君は永遠にそいつらより若い」

その日の「当事者」を救うこともその日の「当事者」の語りを聞くことも出来ない。

時は戻らないからだ。

そして、この時の不可逆性こそがこの作品の根底に横たわっている最も根源的な暴力の正体だ。

ホリガイが冒頭で「決して巻き戻すことのできないときの流れのすげなさへの怒り」を語るのはそのためだ。

時はけして巻き戻ったりしない。それは何より残酷な事実だ。

しかし、それは同時に勇気を持って今を生きることの可能性でもあるのではないだろうか。

大人からの暴力の経験を語る人が目の前にいた際、もしその人がその言葉を必要とするなら、私たちが自信をもって言えることが一つだけある。

それは「君は永遠にそいつらより若い」ということだ。

3.1【補足】

※小説の紹介となるとそれらしくまとめなくてはならないという意識もあり物語の解釈に関しては断定口調で書いたのであるが、もちろんのことは私がここで書いた解釈はあくまで一つの解釈であることはここに付言しておきたい(ので、みんな買って読むといいと思います)。

4.【関連図書】

君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)

君は永遠にそいつらより若い (ちくま文庫)

 

 (↑映画版にはカバキ(河北)が出てこないそうなので、ここでの紹介とかなり違った作品になるのではないだろうか。)

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

サバルタンは語ることができるか (みすずライブラリー)

 

 (↑言われている通り、かなり訳が悪い。早く新しい訳が出ることを期待したい)