京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

新海誠の言葉と風景~「いつか」「きっと」という希望、あるいは呪い~

 

前回までの記事で、新海誠の基本的な特徴について見てきた。(以下、参照)

各記事で見てきた新海誠の特徴は以下の通りである。

・ストーリーのロマンティシズム

・言葉の機能不全。過剰な独白。伝わらない会話。

・人と人の心を繋ぐ風景。

この記事では、今まで見てきた一つ一つの特徴が合わさった時に何が起きるのかについて解説していきたい。

1. 届かない「言葉」と人を繋ぐ「風景」

前回記事で私は、「風景」を見る為には「距離」が必要であると書いた。

「風景」を見ることとは、「風景」との間にある「距離」を感じ取ることである。そして、「距離」を感じ取るためには、今立っている「ここ」と向こうに見えている「あそこ」が同じ空間の延長にあるという感覚が必要になる。

つまり、「距離」を感じ取ることは同時に、その「距離」を越えて「あそこ」へと行くことができるという予感を伴っている。

だから、「距離」を感じるためには「ここ」と「あそこ」が移動することのできる空間で繋がっているという確信が必要になる。

まとめると、「風景」を見ることは今「ここ」から「あそこ」に行くことが出来るという予感を感じ取ることなのだ。それは、「ここ」と「あそこ」が繋がっているという感覚である。そしてそれは単純に、物理的に移動可能であるという意味に留まらない。彼の描く「風景」はそれを見る者同士の心をも接続可能にするのである。

ここで再び、彼の映画における言葉について考えよう。

彼の映画において、言葉は機能しない。

その伝達機能は、達成される前に中断されてしまう。

しかし、ここで重要なのは、彼の映画内の言葉が伝わらないのは誤解や無理解があるからではなく、「届かない」ことに原因があるという点にある。彼の映画では言葉は送られる前に消失したり、二人の物理的な「距離」に比例して「届かなく」なるのである。

これを指摘する上で最も理解しやすい例は、言うまでもなく彼のデビュー作である『ほしのこえ』である。『ほしのこえ』はまぎれもなく、二人の「遠さ」に比例してメールのやりとりが困難になっていく過程を描いたものであった。そしてその構図は、『ほしのこえ』のようなSFのみに見られるわけではない。『秒速5センチメートル』のようなファンタジー要素のない作品においても、手紙は吹き飛ばされて「届かない」のであるし、メールも消されて「届かない」のである。

彼の映画における言葉の伝わらなさは、誤解や無理解が原因なのではなく、「届かない」ということに起因する。

そして、それらが「届かない」のはそもそも言葉を差し出すことさえ躊躇われるような「距離」が存在するからに他ならない(『秒速5センチメートル』で、「距離」が離れてしまった二人は段々と手紙を出さなくなっていく)。

映画内の言葉によるコミュニケーションのうまくいかなさは、全て「距離」の問題に還元されている。

いや言葉だけではない、新海誠の映画においては全てが「距離」の問題として現れる。『秒速5センチメートル』では、貴樹と明里の心が通じ合わなくなってしまう要因は「距離」によるものであった。そして、この映画のラストシーン、明里を見失うシーンで電車が二人の間を通過するのも象徴的である。この映画においては、電車は二人の間にあるもの、時間と「距離」のメタファーとして存在しているからだ。

君の名は。』では時間という本来絶対的であるはずの断絶を、移動可能な「距離」の問題へと変換している。勿論これが可能になるのは「カタワレドキ」という「風景」の存在によってである。

2.「届かない距離」という問題、「いつか」「きっと」

「距離」という連続性の延長線上に現れる「風景」が全てを接続可能にする彼の映画においては、逆に全ての困難は「距離」によるものであるという錯覚が混入している。

だが、全てを「風景」の問題に還元すること、あらゆる問題を「距離」の問題へと変換することは、「距離」で隔てられた者達の間にある質的な差を消去してしまう。それが「距離」の問題である以上、それは越えることができるものだという前提を孕んでいるからだ。

たとえそれが困難だとしても「距離」というものは縮めることができる。

だから、彼の映画には「きっと」「いつか」という言葉が呪詛のように繰り返されるのだ。新海誠は全ての問題や不安を「距離」の問題として演出してみせることで、それらが「きっと」「いつか」解決できるものであると暗示しているのである。例えば、『秒速5センチメートル』において明里が別れ際に口にするのは「貴樹くん、あなたはきっと大丈夫」という言葉であった。『言の葉の庭』のエンディングで孝雄は「いつか、もっと、もっと遠くまで歩けるようになったら、会いに行こう」と決意するのである。そしてやはりここでも、雪野先生との関係は「遠さ」の問題として扱われる。

ここで、初回の記事でも言及した「何か」「どこか」という言葉が思い出されるだろう。実は、エンディング付近での「きっと」「いつか」という言葉は、映画冒頭に登場する「何か」「どこか」という言葉に対応しているのである。

映画内で「何か」「どこか」を探し続けて「風景」を発見することに成功した登場人物達は、「きっと」「いつか」そこに辿り着くという思いを抱えて物語を終えるのである(『秒速5センチメートル』では、一話の『桜花抄』がこれにあたるだろう。その意味では三話の『秒速5センチメートル』は後日譚なのだと言える)。

ここで忘れてはならないのは、「いつか」「きっと」というメッセージも一つの中断されたメッセージであるという点だ。

もちろん、これは心の問題にも当てはまる。

心と心が言葉によって「届かない」ことで、そこにも「距離」が演出されるのである。

新海誠は二人の人物のミスコミュニケーションをしきりに「心」の遠さの問題に見せることで、その「距離」が縮めることのできるもの、乗り越えて繋がることでのできるものに感じられるよう演出している。

つまり、感情の伝達不可能性を「距離」の問題に変換することで、まるで本来は完全な意思疎通が可能であるかのように演出しているのである。

言葉が「届かない」ことで、それが「本来届くべきもの」として認識されてしまっている。

ここに大きな顚倒、錯覚が存在している。

新海誠の映画におけるもっとも大きな幻想、それは心は伝わるということ、心が伝達可能なものであるというものだ。

彼の「風景」は心という非物質的な概念を、その神秘性(表象不可能性、表現不可能性)を保ったまま、交通可能な存在として演出する。

 新海誠の「風景」は人の心を「距離」という連続性(接続可能性)に置かれた最奥の秘境(神秘的だが辿り着くことのできる場所)にしてしまうのである。

そこにあるのは「距離」の幻想、つまり、どんな困難な障害も「いつか」「きっと」乗り越えて心は繋がることができるという幻想なのである。

だから、彼の映画はたとえどんな結末であろうとも、基本的なメッセージだけは変わらない。

首尾一貫して存在しているのは「この距離は越えることができるか」という問題なのである。秒速5センチメートル』も『君の名は。』もエンディングは違うが、絶対的な断絶や、質の差の問題は消去され、ひたすらに「距離」と量の問題に置き換えられている点では同じなのである(それでも『秒速5センチメートル』は「いつか」「きっと」という言葉を呪いとして描き、その呪いからの解放までを描いた点で違いがある)。

3.柄谷行人新海誠

新海誠を語る上で避けて通れないのは、柄谷行人の存在だろう。

柄谷行人は『日本近代文学の起源』の中で、「風景」や「内面」の問題は近代以降に生まれた制度によって発生したものであるということを記しているが、新海誠がまさにここに書かれている近代性を自作の中で応用しているということは彼自身がインタビューの中で明らかにしている。

自分の作品で、風景に対する強いこだわりを抱いているのは、この本の影響があるのかなと思います。人の内面と風景を重ねる手法は、たぶんこの本から来ています。(ダ・ヴィンチ9月号『新海誠の"言葉"』)

新海誠が大きな影響を受けたと公言する柄谷行人の『日本近代文学の起源

 

柄谷行人は「風景」が遠近法という近代画の制度によって発生したものであるということを近代批判の文脈で解説しているが、新海誠はむしろその近代性を積極的に引き受けている。

また、新海誠柄谷行人が言う「内面」もそれが自明のものではなく、認識論的布置の顚倒によって作られたものだということに感動したと言いながら、柄谷の近代批判までは読み込まない。

その結果として、彼は自身の絵に積極的に遠近法を使用し「風景」を生み出し、独白によって「内面」を表現している。

繋がることの出来ない不安の問題を「いつか」「きっと」という希望へすり替えること、それにより映画自体を一つの「風景」として、観る者同士を繋ぐこと、それが彼の映画の基本的作用なのである。

新海誠作品全体の作風についての解説は以上としたい。

しかし、今までの解説はあくまで新海誠監督の作り出す映画全体に一貫したものへの言及である。

新海誠の個々の作品には、いままで語ってきた新海誠の映画の基本構造からの逸脱、ズレが存在する。

例えば、『言の葉の庭』では、最後の場面で、それまで二人を繋いでいた雨の「風景」が消え、それまで堰き止めていたかのように言葉が溢れ出す(勿論、それもある種の痛々しさとして表されているし、「距離」の問題は消失していないのであるが)。

秒速5センチメートル』は、「いつか」「きっと」という言葉からの解放をエンディングに持ってくることによって「超えることの出来ない距離」を描いている(それでも依然、「距離」の問題でしかないという点は変わりがない)。

更に、『星を追う子ども』では、死と生の「距離」を越境することに対しての批判的なメッセージが込められている(しかし、最後にアスナはクラヴィスを持って帰るので「距離」そのものは否定されていない)。

そして、『君の名は。』ではついに「時間」さえも越境可能な「距離」として描き、尚且つそれを否定しなかったのである。

 ここで挙げた分だけでも理解できる通り、新海誠という監督は基本的な構造を流用しながらも、それを少しづつずらして使っているということが理解できる。

そしておそらくその特徴は近日公開される『天気の子』でも変わることはないのではないかと思われる。つまり、「距離」と「風景」という概念を根本的に据えながら、登場人物達の不安と繋がりたいという欲望を描くことには変わりがないだろうが、今まで越境可能でなかったものを「距離」として描く可能性があるということである(例えば生と死、『君の名は。』は時間を遡っただけで、生と死を乗り越えたわけではない)。

新海誠の個々の作品については、いずれまた別の記事で書くことになるだろう。また、新海誠作品に対する様々な評価、例えばセカイ系という標語による批評についても別途機会を設けることにしたい。

 

【参照文献など】

ダ・ヴィンチ 2016年9月号
 
日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫)

日本近代文学の起源 原本 (講談社文芸文庫)

 

(『ほしのこえ』には新海誠映画全てに共通する要素が詰まっている)

ほしのこえ

ほしのこえ

 

(『秒速5センチメートル』には新海誠の人生観が反映されている)

秒速5センチメートル

秒速5センチメートル

 

(『雲の向こう、約束の場所』は新海誠の持つ世界観が反映されている)

雲のむこう、約束の場所

雲のむこう、約束の場所

 

(ジブリのパクリと言われてしまった『星を追う子ども』、この頃から新海誠は映画を「作り」始めた。)

星を追う子ども

星を追う子ども

 

(『言の葉の庭』、新海誠映画の中で一番好感が持てる)

言の葉の庭

言の葉の庭

 

(『君の名は。』は『秒速5センチメートル』を「作り」直した作品である)

君の名は。

君の名は。