- 1.なぜ痴漢冤罪ばかり問題視されるのか
- 2.痴漢は依存症的行為である
- 3.人として尊重されないという不安
- 4.パーソナルスペースを侵害される不快感
- 5.痴漢問題はジェンダーやフェミニズムだけの問題ではない
- 6.【参考文献】
1.なぜ痴漢冤罪ばかり問題視されるのか
今回は、痴漢被害を「ただ触られただけ」と軽視できない理由について書いていく。
というもの、人々の間で痴漢犯罪の悪質さについてあまり認識が共有されていないように思えるからだ。
例えば、「痴漢なんて触られただけなのに大げさだ」「痴漢くらいいいじゃないか減るものじゃあるまいし」という言説が定期的に現れる。
その上、他の犯罪でも同様の冤罪被害があるにもかかわらず、痴漢冤罪だけはやたらと騒がれることが多い。他の犯罪に比べて痴漢だけが冤罪被害が多いという統計もあるわけではないのに、である。
非難の矛先も、冤罪を作った警察ではなくなぜか痴漢被害を訴えた女性に向く。
また、「冤罪を生み出している悪意ある女性が多い」と根拠なく断定をする人間も一定数存在している。
これらのことを踏まえると、一部では痴漢被害が軽視されているのではないかと考えられる。
そこでこの記事では「ただ触られただけ」とは言えない、痴漢の悪質さについて整理することを目的とする。
もちろん、痴漢被害と一口に言っても被害者の受け取り方にはかなり違いがあるように思える。
嫌悪感の体験として捉える人間もいれば、恐怖の体験として捉える人もいる。中には痴漢被害に遭い過ぎてなんとも思わなくなっている人もいる。
そのせいか「人から触られた時の感じ方なんて人それぞれなんだから議論するだけ無駄」というような何か考えた風の何も考えていない意見も多くみられるのが現状である。
そんなことを言い出してはあらゆる犯罪が「被害の感じ方なんて人それぞれ」と言えてしまうが、それは被害を軽視していい理由にもならなければその行為の悪質さを考えなくてよい理由にもならない。
無論、ここで書く内容が痴漢の悪質さの全てだというつもりもない。
同じ当事者の間でも、痴漢行為の悪質さに対する認識が千差万別であり、今回その全てに触れるつもりはない。
それでも、この記事を読んで痴漢という行為がそもそもどういう行為なのかについて改めて考えるきっかけになれば幸いであると思う。
2.痴漢は依存症的行為である
まず単純に考えて痴漢被害が「ただ触られただけ」なら、痴漢は「ただスキンシップの激しい人」ということになるが本当にそう思えるだろうか。
少し考えれてみて欲しい、痴漢をする人間というのは言い換えれば「電車内で見ず知らずの人の身体をその人の意思を無視して弄ろうとする人」である。
普通に考えてみて欲しいのだが「見ず知らずの人の身体をその人の意思を無視して弄ろうとする」ことを「ただ触っただけ」とは言わないだろう。
無断で見知らぬ人のクレジットカードやお金を使っておいて「ただ借りただけ」と言えないのと同じだ。結果どんな損失が生まれるのかに関係なくその人の意思を無視してはいけない場面というものはあるだろう。
その上、「見ず知らずの人の身体をその人の意思を無視して弄ろうとする人」に遭遇したら実際何をされるのか分からない。
つまり、痴漢被害には「何をされるか分からない」という不安と恐怖を与えられたことも含まれている。
以上のことから、痴漢は「何考えてるのか分からない人間に身体を好き勝手に触られること」であって「ただ触られただけ」ではないと言える。
実際、痴漢は何を考えてるか分からないし何をしでかすか分からないという事例として御堂筋事件が挙げられる。
御堂筋事件は夜の大阪市営地下鉄御堂筋
仮に己の欲望を満たす為に動いていると仮定としても彼らの行動はおよそ合理的理解の範疇にあるとは言い難い。
痴漢行為をする人間が他人からも理解できるような合理的な思考で動いているとは限らないのだ。
よって痴漢行為を行う人間の思考なんてどう転ぶか分からないというのが現実的な判断だろう。
そもそも痴漢を擁護する人間には、「性欲は本能だから仕方ない」と言う人もいるがそれは少しズレている。
それは痴漢行為が通常の人間の基本的欲求によって引き起こされるものであることを前提としてしまっている。
痴漢は依存症でありそれもある程度治療可能なことが分かっているのだ。
(↓上記事の筆者が書いた痴漢の犯罪心理についての本)
上記のように、痴漢は依存的な行為であり、依存的行為を通常の人間の欲求に基づいた行為と同一視して語ることはできない。
これは過食症の人間はお腹が空いているから食べているわけではないということと同じだ。
ここまでの話をまとめれば、痴漢が話が通じる人間であるとは限らないし、通常我々が考えるような欲求で動いているとは限らない。
何より痴漢は通り魔的犯行だ。
当然、被害者側からしたらいきなり遭遇した相手に対して「抵抗したらどうなるか分からない」という恐怖を感じることはあるだろう。
少なくとも「痴漢の目的なんて分かりきってるのだから恐怖を感じることなんてない」とは断言できない。
それに、もし仮に痴漢の行動原理が余すことなく解明されたとしても、痴漢被害は依然として恐怖になり得る。
例えば目の前に強盗がいたとして、強盗の目的がお金であり、彼らは痕跡が残るようなことはしたがらないと分かっていたとしても私たちは目の前の強盗に「何をされるか分からない」という恐怖を感じるだろう。基本的にはそれと同じである。
そもそもよく言われているように、痴漢は自分より力も弱そうな相手を狙って行われている。
それも考慮すれば「何考えているのか分からない自分よりも力の強い人間に体を好き勝手いじられる」ケースも多くあるだろう。
被害者からしてみれば気味悪いというのは言うまでもないし、人によっては恐怖体験であるというのは余程想像力に欠けた人間でない限りは分かる話だ(無論、世の中には「余程」な人間が数多くいる)。
3.人として尊重されないという不安
次に痴漢行為がもたらしうる精神的な被害について考えたい。
痴漢行為は相手の同意なしに相手の身体を快楽を得るための道具として使用する行為である。
つまりそれは他人の身体を自分の思いのままに支配しようとする行為でもある。むしろ痴漢行為では相手の身体を自分の所有物のように扱うこと自体が欲望されているとも言えるが、それはここではひとまず置いておこう。
精神的被害の話に戻せば、痴漢被害は相手に自分の身体の所有を侵害された体験である。
さらに、「抵抗したら何をされるか分からない」という恐怖からその支配を不本意ながら受け入れてしまうことになれば、そういう体験が自分自身への信頼を失わせることにもなり得る。
分かりにくければブラック労働がなぜ問題になったかを考えると良いかもしれない。
例えば、ブラック企業に勤めて報酬無しで強制的に働かせられても、自分は圧力や脅しに屈して抵抗できないでいる状況が続けば、自分に対して「なんて情けないんだ」とか「なんて自分はダメな人間なんだ」と自尊心が傷つく人間はいるのではないだろうか。
なんら合理的理由もなく他人に従うしかないとなれば、その状況はかなり屈辱的だ。
まして相手が職場の上司でもないにもかかわらず自分が抵抗できないでいるとすれば、自分に対する信頼さえ喪失しかねない。
このように人を道具としてしか見なさないという意味では痴漢被害には強制労働に近い悪質さがあるのではないだろうか。
性産業をみれば分かる通り、相手の性的な欲望を満足させることは十分労働として見做せるものであり、その点痴漢行為は何の報酬もなく、何の同意もなしに相手に無償で強制労働させる行為とも表現できる(もちろんイコールでは無いし、そのような視点から見ればという話でしかないが)。
その点で痴漢をされて喜んでいる人もいるというのはなんら反論になっていない。
無償労働だろうがサービス残業だろうが仕事が好きで喜んでやる人間はいるし、無理やり参加させられたボランティアで人とのつながりができて楽しい思いをする人間はいる。
だからと言って無償労働やサービス残業をやらせていいというわけでもなければ、その人の意思を無視してボランティアに強制的に参加させていいわけでもない。
痴漢被害が蔓延する社会で痴漢被害を軽視することは、人々に自分は「人として尊重されていないのではないか」という不安を植え付けかねない。
4.パーソナルスペースを侵害される不快感
痴漢の精神的な被害について考える時、パーソナルスペースの侵害という面からも考えることができる。
パーソナルスペースの侵害というと大した問題ではないような印象を受けるかもしれないが、空間の問題というのは文化人類学においても扱われるほどに社会と文化にとって重要な問題である。
また、現代においても私たちは空間の所有意識や縄張り意識というものから解放されたとは言えない。
たとえば、以下のような行為に嫌悪感を感じる人は少なくないだろう。
・部屋に勝手に侵入される+ものを片づけられる。
・後ろから肩を組まれる。
・作業中のパソコンをのぞき込まれる。
・勝手に他人にバッグの中身を漁られる。
他にもいろいろあるだろうが、本来自分だけが好き勝手できる場所が人によって占有されることの不快感、縄張りを荒らされたという感覚は、たとえ実害がなかったはとしてもその人の精神に深い影響を与えることがある。「いいじゃないか減るもんじゃあるまいし」と気軽に言う人もいるだろうが、おそらくそういう問題ではないはずだ。
例えば、イーフー・トゥアンは空間の広がりは人に自由の感覚を与えるものであると定義している。
広がりは、自由であるという感覚と密接に結びついている。自由には、空間という含意がある。自由とは、行動する力と、行動するための十分な空間的余地をもっているということを意味してるのである。
イーフー・トゥアンによれば空間の広がりに自由を感じることは人間が世界を見る時の一つの尺度である。
また、イーフー・トゥアンによれば空間の広がりは、物理的な空間の制限によってだけでなく、他者の視線によっても制限されると言っている。
われわれの世界の尺度に対して他者がどのように影響を与えうるかについては、その極端な例として次のような情景を思い浮かべてみよう。恥ずかしがり屋の人が大きな部屋の隅でピアノの練習をしていると、誰かが入ってきて、練習の様子をじっと見つめる。すると、ピアノを練習している人はただちに空間の緊張を感じとり、部屋に人が入ってくるたびにそれを邪魔に感じるようになる。練習している人は、他者の眼差しのもとで、空間を支配する唯一の主体から部屋のなかの一つの対象に変化するのであり、その結果、自分だけの視点によって空間のなかの事物に秩序をあたえる力を失ってしまったことを五感で感じとるのである。
(イーフー・トゥアン『空間の経験-身体から都市へ』)
イーフー・トゥアンは一人でピアノの練習をする時と誰かに見られながら練習する時を比較して、誰かの視線がある時には人は空間の広がりを感じることができないと言う。もちろんそれは、単なる人数の問題ではない。
たとえ多くの人に囲まれても、それらの視線を無視できる状況は存在する。
たとえば都会などの人口密集地帯においては、みんなの視線が一か所に集まることなく分散しているためある程度まで他人の視線が気にならなかったりする。
また、他人に視線を向けてジロジロ見たりすることは良くないことだという暗黙の了解によって互いに無関心であるかのようにふるまっている。
もちろん、視線を向ける主体があったとしても視線を向けられた人間が視線を感じない場合もある。現代では理解しにくいかもしれないが、イーフー・トゥアンは召使いとその主人を例に挙げている。
ときとして人間は物のように取り扱われ、その結果、本箱と同じような存在になってしまう。裕福な人は、召使いに取り囲まれて生活していても、召使いの密集のなかに巻き込まれていない。召使いは身分が低いので、眼に見えない存在、つまり部屋や家具の木彫と同じ存在になっているからである。
(イーフー・トゥアン『空間の経験-身体から都市へ』)
このようにたとえ人がたくさんいたとしても、そこまで視線を浴びていないか、もしくは視線が向けられていても「他人から見られている」という意識が発生しなければ、その人にとってその空間は依然自由に感じられるのである。
このことからイーフー・トゥアンは「密集とは、見られているという意識である」と説明する。
視線を向けられることも、その人の自由の感覚の侵害になりうるのだ。
公共スペースにおけるパーソナルスペースの侵害は、二重の意味で人の自由の感覚を侵害している。
一つは、身体への接近によって生じる物理的な空間の制限によるものである。
もう一つは、「見られているという意識」を喚起することによる自由の感覚の侵害である。
痴漢被害に出会うことは、自分は見られているかもしれないという意識=自分は自由でないかもしれないという不安を呼び起こす。
もちろん、それはその人の空間の感覚とその被害がどれだけ日常的なものかによって左右される。
しかし、その人にとって被害がある程度日常的の一部として認識される状況においては、痴漢被害はその人間に公共スペースでの恒常的緊張を強いる。
すなわち、痴漢の問題はそれが意識されることによって公共スペースが安心して過ごせる場所かどうかと関連すると言える。
痴漢被害が身近なものとして存在すれば、いつ何時見知らぬ他人から自分のパーソナルスペースが侵害されるか分からないという不安感と緊張感を人々に強いることになる。
そして人々が安心感を持って外出することができるかどうかというのは、我々の社会と公共空間への信頼の問題でもあるのだ。
5.痴漢問題はジェンダーやフェミニズムだけの問題ではない
まとめよう。
いままで見てきた通り、痴漢被害は下記の点から軽視できない。
・ごく身近な日常でいきなり何をされるか分からない状況に直面するリスクと隣り合わせで生活しなければならない。
・自分が人として尊重されていない事態に直面させられる。
・社会空間において自由の感覚を奪われる。
何より重要なのは、少し考えれば軽視できないと理解できるはずのことが軽視され「ただ触られただけで大げさだ」と言われるような社会環境に被害者が身を置かざるを得ない点だ。
普通に生活しているだけでも身に危険を感じ、自分が人として尊重されない事態に直面し、社会空間における自由の感覚を奪われても、周囲からは「そんなことで」と片づけられてしまうことはその人が社会を信頼できるかどうかに関わる重要な問題だろう。
無論、私がここで挙げたような問題点に関して「そんなことは問題にならない」と言う人はいるだろうし、あるいは「問題の本質はそこではない」と言う人もいるだろう。
ただ、ここで指摘しておかねばならないのは「痴漢なんて触られただけ」と簡単に片づけてしまえる人間が結構な数いることである。
なぜ痴漢になると人は少し考えることすらせずに、「ただ触られただけ」と言えてしまうかということはもう少し考えられてもいいのではないだろうか。
この国には依然として、男性にとって魅力的かどうかという基準のみで女性を語る場面に出会うことがある。
だから痴漢についても痴漢行為を誘惑するような恰好をしている方が悪いなどという倒錯した論理がまかり通ってしまう。
痴漢の問題を男性と女性の対立点かのように語る人間は未だにいるが、痴漢問題は男女関わらず我々の社会と公共空間への信頼の問題なのである。
6.【参考文献】
(↑ネット時代において、私たちが「空間」と「場所」の中に生きるということを再認識させてくれる本。昔は身分の低い人が最上階に住んでいた等、文化研究本としても面白い)
(↑パーソナルスペースという概念の生みの親、エドワード・T・ホールの『かくれた次元』。プロクセミックスという言葉なら聞いたことがあるかもしれないが、コロナ時代の今こそ再読するべきという人もいる。)