0.はじめに
この記事では、男性差別のような逆差別と呼ばれるものについて考え検討する。
前回までの記事で差別はなぜ悪質かについて見てきたが、今回男性差別のような逆差別について考えるのは、「逆差別を無視している」というよくある批判に答えるためだ。
そしてそのためにはそもそも逆差別とは何かについて検討が必要なのだ。
逆差別の問題として頻繁に取り扱われるのは女性差別に対する男性差別だろう。
・レディースデイ
この記事では議論の訴状に挙がることの多い男性差別を例に逆差別について考えていきたい。
1.男性専用車両がないのは差別か?
差別は基本的にはマイノリティや相対的な弱者の立場にいる人間に対して起こるものと考えられる。
差別の議論においては「誰が」「どのような立場にいる人間に対して行うのか」という二点が重要になってくる。行為そのものが問題になるわけではないのだ。
これはパワハラの問題を考えると分かりやすいだろう。
ただ、逆差別と呼ばれるものの中に差別があるかもしれないことは否定しない。それについては後述したい。
さて、逆差別と呼ばれるものを「立場の逆転した差別」だと言う人の多くは、反転可能性テストを誤って使っている場合が多い。
反転可能性テストは、井上達夫が提唱した言説の妥当性を測る方法論である。
自分と相手を入れ替えて考えた時に、自分が受け入れられないと感じるのならその行動や要求は正義ではないというのである。
例えば、自分が「専門家でもないバカは黙ってろ」と言われることが受け入れらないと感じるのであれば、それを他人に言うのは妥当ではないと推測されるわけだ。
反転可能性テストは自分が相手に対して何か主張する場合、自分と相手の位置を反転したとしても受け入れられるかどうかを考えることで、その要求が正義であるかどうかを測るのが反転可能性テストの意味である。
- 作者:井上 達夫
- 発売日: 2017/03/17
- メディア: 文庫
簡単に言ってしまうと「相手の側に立って考えよう」というものだが、これを差別問題で使う場合には注意しなければならない。
差別の議論では、被差別者側からの要求はこの反転可能性テストをクリアしていないという批判のされ方をしている(この世には反転可能性テストを自分の論には適用せずに相手に要求する人が多く存在する)。
例えば、女性専用車両が問題視される時、それが「女性」専用車両ではなく「男性」専用だった場合を考えようというのはよく言われることである。もしこの世に男性専用車両だけが存在しているのであれば問題であるので当然女性専用車両だけが存在するのも問題であるというわけである。
しかしこれらの批判は次の三つの点を考慮していない。
一つ目は相手の視点も反転させなければいけないという点。
例えば、自分が殴られてもいいと考えているからといって、相手を殴っていいとはならないだろう。
相手の視点では目の前の人間に殴られたくないと考えているかもしれない。その場合、反転可能性テストは「殴られたくないと考えている相手の視点」も反転しなければならない。反転可能性テストでは相手の視点も考慮しなければならないのだ。
二つ目は「立場」を反転させる必要がある点だ。
「普通の人間にとって大勢の人から批判されることは苦痛である。よって、同じ人間である政治家に対して大勢で批判することはいけない」という反転可能性テストは正しいのだろうか。
まず、政治家は実際に多くの人の生活を左右する権力を持っており、その仕事によって多くの人が不幸にも幸福にもなりうる。当然、政策の失敗によって影響を受ける人の数も多い。政治家は権力を持つと同時に重大な責任を負う地位にいる。そしてその責任を追及する為に批判することは正当な権利である。
人々の生活を左右する権力者の「立場」にいる人間を批判することと、そうでない他の人を批判することの間には大きな差がある。
「立場」が違う以上、その「立場」も反転する要素に入れなければならない。自分が責任を負う立場にいた場合も、批判が苦痛だからという理由で批判をさせないことは正しいことではないだろう。
三つ目は完全な反転可能性は存在しないことを理解することだ。
相手の視点を考えたとしてもそれは自分の想像でしかない。どんなに想像力を尽くしたとしても真に相手視点に立てるわけではない。
同様に「立場」もそれがどの程度相手と自分で非対称なのかは数値化することはできない。またその人の「立場」というのは組織内での地位や役職だけではなく、その人の持つ性別や人種などの属性が社会においてどのように扱われてきたかという歴史とも関連する。
その「立場」を考慮する時に、その人の持つ属性集団の歴史的な背景や社会的地位まで計算に入れなければならないとなるとさらに事態は複雑になるだろう。
無論、井上達夫がこれらの点を考慮した上で反転可能性テストの重要性を訴えているのは言うまでもない。
まとめると、現在巷でよく言われるような「反転可能性テスト」は、人々の間に多くの非対称性が存在する社会では相手をやり込める為のものにしかならない。
反転させるもの同士に対称性がなく非対称であれば純粋な反転などできない。反転可能性テストはそのことを考慮した上で行う必要がある。
そして「男性」と「女性」にも非対称性は存在する。
一般的に女性より男性の方が力が強く、歴史的に見ても「女性」という属性を持った人々は様々な抑圧を受けてきた。加えて、過去の性被害の事例では女性が殺害ケースもある。それを考慮に入れれば痴漢は単に同意なく相手に触れる行為というだけでなく、「立場」も力も強い人間からの一方的暴力であると理解できる。
差別において、歴史的文脈を無視して単純な反転可能性テストをしようとする話の類はほとんどまやかしだと言ってよい。歴史において、全ての人が平等に扱われているわけではない。歴史的文脈を踏まえない単純な「反転可能性」などどこにもないのだ。
2.差別コストという考え方
逆差別が差別でないとしたら逆差別と呼ばれるものは一体どう表現するのが適切だろうか。
もう一度整理して考えよう。
例えば女性専用車両は痴漢行為を避けるための生まれたものであるが、その為に男性が乗れる車両が制限されるという弊害が生まれている。
この場合、逆差別という言葉は被差別者ではない側が損害を受けている状態を示している。例えば、性差別においては女性=差別される側であり、男性はそうではないというのが通常である。
そこで女性は損害がなく男性のみに損害があるような状況があるとそれが「男性差別」と呼ばれるようである。
しかし、差別が損害によって定義できないというのは以前の記事で触れた通りである。よって、女性ではなく男性のみが損害を受けている状況であっても差別とは言い切れない。
では、男性のみが被害を受けるような状況についてどのように説明すべきだろうか。
もう一度例を振り返ろう。
そもそも女性専用車両はなぜ存在するかと言われれば、男性による痴漢行為・性的な暴行を避けて女性が安心して乗れるようにするためである。
レディースデイに関してもそれが男性を
これらの制度は、女性=被差別者が受けている損害をケアするためであるか、もしくはそもそも存在している男女間の格差を埋め合わせるものとして機能している。
つまり、ハンデキャップを埋めるための補償もしくは救済措置的な機能を持ってしまっている。無論、格差が解消され、これらの制度や慣習も無くなっていくのが望ましいのは言うまでもないことである。
確かに、これらの制度や慣習による埋め合わせの部分だけを切り取って見てしまうと不平等な扱いに思えるかもしれない。しかし、そうした批判はそもそも存在するハンデキャップを無視してしまっている。
差別されていない人間もその差別構造によって不利益を被ることはあり得る。
そうした「逆差別」の状況を説明する為に韓国の作家ソン・アラムは「差別コスト」という考え方を持ち出している。
例えば、何らかの加害者が被害者に対して示談金を払ったとしよう。その際、その加害行為の悪質さには触れずに「お金を取られた」と主張するのは理不尽である。それは被害者と示談する為の「コスト」である。
逆差別もそれと同じく「コスト」の部分だけを切り取って「被害」であるかのように言いつくろっている面が存在するだろう。
確かにこう考えることで、差別されていない人間もその差別構造によって不利益を被ることを説明することが出来る。
これらの制度や慣習は現状存在する差別によって生まれた格差を補填する機能も持っている(良い悪いは別にして)。逆差別と呼ばれるものの多くは差別の事後処理のための補填費用=「差別コスト」を支払っているだけなのだ。その補填費用の部分だけを切り取って平等の問題として扱うのは妥当ではない。
さらに言えば、このような表現は逆差別の問題を解決する上でも正しくない。
逆差別という言い方をすると、逆差別が差別を解決しようとする際の避けて通れないジレンマであるかのように感じられてしまう。逆差別という表現は被差別者への救済措置が不可避的に別の差別を生み出してしまうといったような印象を与えてしまうかもしれない(ひょっとすると逆差別を訴える人間はそれが狙いなのかもしれないが)。しかし、被差別者への救済措置が別の差別構造を生み出すかどうかはケースバイケースだとしか言えないのだ。
逆差別論は「差別を解決しようとする側も別の誰かを差別しているのだ」と得意げになって指摘したがる中学生のような「どっちもどっち論」になりかねない。
逆差別の問題を解決する一番手っ取り早い方法は差別そのものをなくすことである。
逆差別は、差別構造によって差別されている側だけでなく、差別されていない人間にも不利益が生じてしまっている状態を指している。
逆差別の問題が、差別構造があることで差別されていない人間にも弊害があるということなら、問題解決にはどのみち差別構造をなくすように努力するのが一番良い。
3.逆差別は問題じゃないのか?
じゃあ逆差別と呼ばれるものは全て差別でないかというと、実はそういうわけでもない。
逆差別と呼ばれるものの全てが差別とは言えないが、その一部は差別の問題と言えるかもしれないのだ。
デボラ=ヘルマンは『差別はいつ悪質になるか』で、差別とは他者を
ある区別が悪質な差別であるかどうかは誰かを
そして何が貶価にあたるかは社会的な文脈によって決定される。
つまり、所属するコミュニティや共同体によってどのような行為が貶価にあたるのかは変わってくるのだ。
ここでどこまでがコミュニティかというコミュニティの分類や線引きの問題が出てくる。
例えば日本という共同体の中にはそれより小さな様々な共同体が存在する。そしてその共同体が歴史を持ち独自の文化を形成しているのであれば、その共同体独自の「貶価」が存在するはずである。共同体の中の共同体では、大きな共同体の中で共有されている歴史とはまた違った歴史が存在するかもしれないからだ。
つまり、共同体内共同体の問題である。
大枠の共同体で共有されている社会的文脈や歴史と、共同体内共同体の社会的文脈が違う場合などは、通常の差別とは逆転した差別が発生する可能性がある。
立場の逆転した差別は、大枠の共同体内で共有される慣習と共同体内共同体で共有される慣習が違う場合に起こりうるのである。
大枠の共同体と共同体内の共同体とで人種や性別といった属性によって決定される地位や権力関係が逆転している場合、かつその慣習がある程度の強度をもって存在している場合に立場の逆転した差別は存在しうるのである。
ある国において優位な立場にある人種も、その国の特定の地域においては劣位に置かれるかもしれない。その地域において人種を理由に区別を行う行為は果たしてどちらの人種を貶価することになるだろうか。この場合、おそらく大枠の共同体内で共有される慣習と共同体内共同体で共有される慣習の二つを参照しながらどちらがより強く影響を持っているのかについて議論を行うことになるだろう。
まとめよう。
結論を言うと、共同体内共同体において、その共同体内共同体における慣習と大枠の共同体の慣習のどちらがより強い影響を持つか分からない場合には、通常の差別とは逆の構図の差別はありえる。しかし、一般的に流布している逆差別は多くの場合、「差別コスト」ないしは差別構造の弊害と言うべきもので、差別とは言い切れないのである。
【関連記事】
(↓痴漢問題についても書きました。)
tatsumi-kyotaro.hatenablog.com