京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

なぜ論破する方法やコツを学ぶことは無意味なのか?~議論に強くなりたいなら~

0.論破する方法やコツを知りたがる人達

この記事では、相手を論破することにこだわっても意味がない理由について解説したい。

そもそも、論破する方法やコツを学んでも議論に強くなるわけではない。

そのほとんどが小手先の技術でまともな議論では通用しないからだ。議論の技術的な話については今後の記事で解説していく。

また、一部の「議論好き」な人がいかに議論をダメにしてしまうかについても触れていく。

勿論、相手を論破することはいけないことだとまでは言わないが、基本的に論破したところであまり意味がないというのはある程度理解しておくべきように思う。

では、早速本題に入ろう。

1.議論好きが議論をダメにする。

当たり前のこととして、議論は相手を言い負かすためではなく、何が妥当なのかについてお互い話し合い理解を深めることが重要だ。

しかし、現実には気に食わない相手を論破し相手を黙らせたいという目的で議論する人も少なくない。

そういう議論ばかりが溢れているから、議論する時のあのギスギスした緊張感だったり、そもそも議論好きな人間が嫌いだったりという理由で議論が苦手な人は少なくない。

そうなると、結果としてまともな議論が少なくなり、相手を論破することが目的の議論だけが残っていくのだ。

そうなると今度は厄介な「議論好き」な人間が湧いてくるようになる。

ここで言う「議論好き」とはとにかく議論をするのは良いことで、どんどん議論をするべきだと言ってくるような人間たちだ。

そういう人達の何がまずいかと言うと、みんなが意見を出し合って議論すれば間違った意見は批判されてなくなっていき、自動的に正しい意見だけが残っていくと信じていることだ。

つまり、どんなめちゃくちゃな議論でも数をこなせば自動的に素晴らしい結論に辿り着くということが彼らの前提にあるのだ。

そして自分はというと、やたらと議論に勝敗を付けたがって誰が勝ったかに拘ったりする。

時には、ただ気に食わない相手を言い負かそうとしているだけのことを議論だと言い張ったりするから厄介だ。

そういうタイプの「議論好き」は、表向きは不毛な争いなどやめて話し合うことが重要だと言いたがるが、自分の議論が不毛かどうか疑うことはしない。彼らは「議論好き」であるが故に、自分たちは常に議論に真摯に向き合っていると思い込んでしまうのだ。

不毛な議論だと思っていないのか、あるいは不毛だと気が付いてもやめられないのか分からないが、対立が深まるだけの議論でも進んで行おうとする「議論好き」な人間がいるのは実際困った問題だ。

そういう「議論好き」が不毛な議論を生み出す悪循環のようなものを作っているのではないだろうか。

不毛な議論を生み出す悪循環は以下のようなループでできている。

 

①無意味で不毛な議論をする

②普通の人が「議論は不毛で面倒くさそうだ」という印象を持って議論したがらなくなる

③そういう人は議論の仕方が分からないくていざ議論をすると喧嘩になる。

 

④議論がどんどん攻撃的になっていく。

⑤無意味な議論に耐え、喧嘩できる人だけが残る。

⑥不毛な議論が発生しやすくなる。

 

このような悪循環の中で、議論に参加した人たちの攻撃性が増していくのは問題だ。

もっとまずいのは、みんなが「私達は議論や論争を通して真実に近づいているし、議論に積極的な人間の意見の方が議論をしない人間の意見より真実に近い」と信じ込み始めることだ。

すなわち議論で色んな人と対立していくうちに段々と「議論好き」になっていってしまうことである。

一旦そういう空気になると、人は議論の参加者の誰かが真実を語っていて、議論の勝敗によってそれが分かるという思考に囚われるようになってしまう。

だから、議論に「勝った(ように見える)」人間の言うことは正しいと考えるし、自分の考えが真実であって欲しいから議論の勝者になりたがるのだ。

そういう人間は次第に自分の思想なんてどうでも良くなって、ひたすら議論に勝つことだけに執着し始める。そして、議論に勝つためなら簡単に自分の思想を捨ててしまえるし、単に鞍替えしただけなのにさも議論によって自分の意見が変わっていったかのように言うのである。

ではなぜ議論する人間が議論の「勝ち負け」に執着し始めるかというと、それはその議論に参加した人間が「どちらが正しいか」を「勝ち負け」で判断しようとするからだ。

安易に議論が乱造されると、すぐに「○○VS○○」のような二項対立で解釈されるようになる。

そうやって二つの陣営の対立として見る方が頭を使わずに済むからだ。

お互いに何を言っているのか理解して自分の頭でそれらの意見を吟味し検討するよりも、議論の表層だけ見て「相手の意見に言い返せずに黙ってる方が負け」「怒ってムキになってる方が負け」という風に判断する方が楽なのだ。

もちろん、便宜的にある対立軸で解釈した方が議論をよりよく理解できる場合もあるが、厄介なのは必要以上にそうした対立を意識してしまうことだ。単純な対立として理解するから、議論が「勝ち負け」に見えてしまうし、「勝った方が正しい」と思ってしまう。

そうやってみんなが「勝ち負け」で見るから普段好戦的でない人も「勝ち負け」にこだわるようになるという悪循環が発生する。

2.勝ち負けにこだわるようになるとどうなるか。

議論を勝者と敗者に分ける思考をしてしまうと、議論を対立した二つの陣営の争いのようにみてしまう。

そして、そういう二項対立的思考に囚われたまま議論することになる。

仲正昌樹は、安易な二項対立的思考に陥ると、何か論争を見る度に「敵の敵は味方」「味方の敵は自分にとっても敵」「敵の言ってることはいつも間違っていて、味方が言ってることは常に正しい」と安易に決めてしまうようになると言う。

二項対立的に考える人は、「相手(=敵)が言うことは嘘である」と最初から決めつけているせいで、相手が何か言うと、自分の頭の中でその真偽をよくたしかめもしないで、それをすぐに否定し、その「正反対」を自分(たち)の"意見"にしてしまう傾向があります。(中略)マイナス掛けるマイナスがプラスであるように、嘘つきである”敵”の意見の正反対が、味方にとっての”正しい意見”になってしまうのです。

知識だけあるバカになるな!

知識だけあるバカになるな!

  • 作者:仲正 昌樹
  • 発売日: 2008/02/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

(『知識だけあるバカになるな!』仲正昌樹p123)

仲正昌樹などは、「相手(敵)が○○と言っているから自分はその反対の立場に立とう」という考えの人間が多いと言っている。

冷静に考えれば、どこかの論点で対立したからと言って別の論点でも対立するとは限らないし、自分が嫌いな人間がいつも間違ったことを言うとも限らない。

逆に、ある論点では同じ意見だった人間も別の論点では自分とは違う意見を持っているかもしれない。

だが、「敵/味方」思考になってしまうと、ある場面で敵だった人間の言うことはいつも間違っていて、ある場面で味方だった人間の言うことはいつも正しいと考えてしまう。

そういう人に限って単に敵だと思った人間と反対のことを言ってるだけなのに、自分はちゃんと意見のある人間だと錯覚したりするので厄介だ。

そういう厄介な人が増えると、すべての意見を二つの陣営どちら寄りの意見かだけで解釈しようとして「お前はこういうことを言ってるから○○の味方で、○○はこういうことを言ってるからお前はダメだ」と勝手に敵か味方に分類し始める。

そして、お互いそれをやるからやめられなくなってしまう(そしてお互いに「向こうが先にやり始めた」と言い出すからそれも終わらない)。

勿論こういうことが起きるのはある程度仕方ないことだ。

誰かが勝手に設定した対立に巻き込まれることもあるだろう。議論は少なからず周りの状況に呼応して対立として解釈されるものだ。

そして、だからこそ「議論によって間違った意見は消えてより正しい意見が残っていき、やがて真実への到達できる」と安易に考えてはいけないのだ。

3.ただの論破は意味がない

そもそも、議論によって間違った意見が退けられて、より正しい意見が残っていくとどうして言い切れるのだろうか。また、議論をしたところで自分や相手の意見が変わることが一体どれだけあるのだろうか。

議論をしても意見が変えるどころかますますお互い自分の意見に固執するかもしれない。

お互い「自分は正しくて相手は間違っている」という考えを強めるだけかもしれないではないか。

「議論に勝っても人の生き方は変えられぬ」という言葉は坂本龍馬のものであると言われているが、この言葉について司馬遼太郎は『竜馬がゆく』で次のように書いている(彼の坂本龍馬観が正しいかどうかは別の話として……)。

議論などは、よほど重大なときでないかぎり、してはならぬといいきかせている。もし議論に勝ったとせよ、相手の名誉をうばうだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生きものだし、負けたあと持つのは負けた恨みだけである( 司馬遼太郎竜馬がゆく』 より)

これついては福田恒存も似たようなことを言っている。

福田は、論争ではどちらが正しいか決着をつけることが前提になるため、両者の思想の対立箇所しか見えず、決着に拘わるあまり議論が両者の思想の内容からどんどん離れたところに進んでしまうと言う。

また、論争に敗北した人間は相手に何も言えなくなりながらも内心では自分の正しさに固執するようになるとも言っている。

次の引用がその箇所だ(ところで最近は歴史的仮名遣いで書かれた文章が嫌いとかではなくマジで読めない人が増えていると聞くので福田恒存を引用するときに少し心配になる)。

ところが論争はつねにいづれかの側に聖邪、適不適の判定を予想するものである。はじめから決著を度外視して論争はなりたたぬ。ひとびとは論争において二つの思想の接触面しかみることができない。論争するものもこの共通の場においてしかものをいへぬ。この接触面において出あつた二つの思想は、論争が深いりすればするほど、おのれの思想たる性格を脱落してゆく。かれらは自分がどこからやつてきたかその発生の地盤を忘れてしまふのである。しかも論争にやぶれたものは相手の論理の正しさに手も足も出なくなりながら、なほ心のどこかでおのれの正常を主張するものを感じてゐる。

『保守とは何か』福田恒存 p11

こうして改めて考えてみると、「有意義な議論だった」と言いたがるのは大抵「自分たちが勝った」と思っている側だけなんじゃないかという疑念も湧いてくる。

実際、Togetterなどでまとめられているような「議論」は、勝敗が分かりやすいように議論の流れが編集されていて、コメント欄にも素晴らしい議論だったという評価とともに敵の敗北を喜ぶようなコメントが並んでいる。

4.議論は勝ち負けじゃない?

さて、こんなことを言っていると「そもそも議論を勝ち負けで考えること自体が間違っている。議論は勝ち負けでなく、互いの意見理解を深め自分の意見を批判的に検討し対話する為に行うのだ」という意見も出てくるだろう。

勿論、それはそうなのだが、それを言う人間の内一体どれだけの人間がそういう姿勢で議論できているのかは疑問ではある。

こういうことは簡単に「私は出来ている」と言えないものではないだろうか。

さも自分はそれができている人間であるかのように語る人間でもそれができているかはかなり怪しい(恥ずかしい話、私は出来ていないのでムカつく相手は黙らせたくなってしまう方だ)。

実際、「真理のため」とか「お互いに納得するため」とか「対話のため」と言いながら、いかに自分が相手をやりこめるかしか考えていないような人達も少なくない。

特に、ネットなどの公開された場での議論を好む人間はそうだ。

ネットの時代になって、ネットでは忖度のなく人の意見が言えるからネットの議論がもっと盛んになればいいと安直に考える人が増えたように感じる。

安易に議論をもてはやすような考えに対して例えば、香西秀信は次のように述べている。

相手に打ち勝つために議論するのではなく、真理を追究するために議論するーーこんな歯の浮くようなセリフを軽々しく口にする偽善者が、どれだけ議論に伴う快感の虜になっていることでしょう。

レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)
 

 『レトリックと詭弁-禁断の議論術講座』香西秀信(p129)

香西の口の悪さはどうかと思う人もいると思うが、「議論は勝ち負けじゃなく真理の探究の為」なんてことをなんの疑いもなく言える人間は確かに胡散臭い。

そういうことを言う人間に限って自分の間違いは認めないものだ。

そんな人たちが「自分には対話の姿勢があったが相手にはそれがなかった」と言って議論が思い通りに進まないのを相手のせいにするというのはよく見られる光景なので香西の言いたいことも分からなくはない読者も多いだろう。

特に、公開討論などの方が公開性があって望ましい議論の形式であると無批判に考えるような輩については、香西の批判はこれ以上ないほど当てはまっていることだろう。

香西に言わせれば、プラトンは弁論術を教える危険をよく知っていて「討論の結果たまたま考えが深まるというならともかく、考えを深めるために討論するということがどのくらい惑わしに満ちたものということがよく見えていた」のだという。

5.極端な議論嫌いも問題だ

もちろん、私が言いたいのは議論を避ける人達の方が良い人だという単純な話でもない。

議論が苦手だと言う人の中には、議論や他人の意見に関心を持たず自分の考え方や生き方に無批判に生きている人間もいるからだ。

無批判に生きるというのは、独りよがりな考えで行動して誰かを傷つけたりしても、それを反省することないということだ。

そういう人は、そもそも議論はすべて不毛だと決めつけて他人の意見に耳を貸さないから自分が独りよがりだとすら気付けない。

こういう人たちが議論を嫌う理由は簡単で、単に自分の考えが批判されたくないからというだけなのだ。

だから、そういう人たちは議論になっても自分の意見に否定的なことを言われたりすると「価値観は人それぞれなんだから批判するな」などと言いがちだ。

つまり、普段何も考えず専門的知識もなく他人の主張も大して理解していないのに、自分の意見はオリジナルで特別なものだと思っているわけである。

彼らは、「自分はそのことについてよく知らないし、ひょっとしたらどこかの誰かも同じようなことを言っているかもしれない」とは考えないのだろう。

もちろん、完全なオリジナルでなければ自分の意見を言ってはいけないなんて話でもない(そもそも完全にオリジナルなものなんて存在しない)

「価値観は人それぞれ」というのはその通りではあるが、それを言い訳にして思考停止しまうと、人の意見を参照して自分の意見を批判的に検討しようなどという考えなど出てくるはずもない。

「価値観は人それぞれ」という言葉を言い訳に使っていると、自分の意見を正しいと信じて疑わずに人にそれを押し付けるくせに、いざ自分が攻撃されると「価値観は人それぞれなんだから批判するな」と怒る、という状況に陥りやすくなる(勿論、どんな人間でもそういう荒んだ状態になることはある)。

結局のところ、多くの人間は「自分の意見や価値観は批判されたくないが、気に食わない人間の意見は否定したい」という感情と無縁でいられない。

議論をする上ではお互いそうならないよう気を付けようというのがひとまずの結論だろう。

つまり、議論をある程度有意義にしたいのなら、安易な議論好きの偽善者でもなければ思考停止で議論嫌いなナルシストでもない、必要に応じて議論する姿勢を意識する必要がある。

勿論、無駄な対立を生み出すだけに見える議論も不毛ではなくちゃんと意義あるのだという意見もあるだろう。あるいは、議論を有意義か無意味かという道具的価値で測ろうとすること自体が間違いだという意見もあるだろうが、話が逸れるのでここではその話はせず、別の機会に譲りたい。

さて、優等生じみていてつまらないと思われてそうな結論に至ったところで今回はここまでとしたい。

次回は、より実践的に、無意味な議論を回避するための議論力について話をしていきたい。

議論力というと何かと、相手にいかに反論し打ち負かすかということが語られがちだが、そういう攻めの議論力ではなく、不毛で無駄な議論を避けるための議論力が必要なのではないだろうか。すなわち、相手を打ち負かそうとする人間に対する護身術的議論術である。

【次回記事】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

6.参考文献

知識だけあるバカになるな!

知識だけあるバカになるな!

  • 作者:仲正 昌樹
  • 発売日: 2008/02/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

↑ 学問の基礎としての「教養」とは何か。冷笑的な懐疑主義、コピペ的な批判、党派性に囚われた議論から離れて「教養」について考えたい人へ。

”「教養」の本質とは何かを一言で言うとすれば、「知的な討論をするための基礎的なな能力」ということになるでしょう。” (本書より)

レトリックと詭弁 ─禁断の議論術講座 (ちくま文庫)
 

↑ 随所に著者の嫌味でちょっと笑える文言が並ぶ実践的議論術本。

ここで一つ、嫌味で思わず笑えてしまうような著者が本書のまえがきを紹介します。

"第一に、「ビジネスマンのための」と書きましたが、これは実業家や会社員向けの、という意味ではありません。そもそも、会社員に使用が限られた議論術などあろうはずがない。(中略)つまり仕事に忙しく、議論の技術、論理的思考力などの訓練をする時間もエネルギーも、そして失礼ながら根気もない人たちのための、ということです。"

保守とは何か (文春学藝ライブラリー)

保守とは何か (文春学藝ライブラリー)

  • 作者:福田 恆存
  • 発売日: 2013/10/18
  • メディア: 文庫
 

↑ 福田恒存が考える保守的視点からの資本主義批判、個人主義批判は読み直してみてもいいかもしれない。リベラルな資本主義批判視点を捉えなおすという意味でも。