京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

議論が苦手な人のための議論の方法

0.はじめに

この記事は、議論が苦手だと感じる人に向けて、ちゃんとした議論をするための初歩的な注意事項をまとめたものだ。

実際、世の中には議論とすら呼べないような醜い言い争いや、誹謗中傷合戦が多い。

そうした不毛な争いを避けてちゃんとした議論をしたい時に必要なのは、難しい技術ではなく初歩的なことだということをここでは説明したい。

1.議論ができない人、議論が苦手な人へ

さて、前回の記事ではなぜ議論が不毛なものになってしまうのかについて軽くまとめた。

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

だが、どんなに不毛な議論が多くて議論が苦手になってしまったとしても、ある程度他人との議論が必要な場合というのはある。

避けられない議論なら少なくともその議論を不毛なものにはしたくないと多くの人は思うだろう。

そこで必要なのが不毛な議論をしないための議論術なのだ。

議論術というといかにも議論好きな人々が相手を論破して言い負かすための技術のように聞こえるが、不毛な議論を回避する技術も立派な議論術である。

2.なぜ議論が苦手になってしまうのか。

まず、議論が不毛になってしまうパターンとして主に以下の三つが挙げられるだろう。

 

当初は有益な議論をしようとしたが話が嚙み合わずケンカになる。

・有益な議論をすることよりひたすら相手を論破することに拘る人がいる。

・そもそも最初から成立するはずのない議論をしようとしている。

 

この記事では主に一つ目について扱っていきたい。残り二つについては次回以降触れていくことにする。

さて一つ目の項目についてであるが、これも議論が苦手になる原因としてよくある話なのではないだろうか。

議論する人間同士がお互い仲が良ければ理解するまで話し合うこともできるだろうが、そうでない場合は問題だろう。

議論をしてると、相手の主張に強い反発を覚えたものの、自分でも何に反論したいのかよく分からないまま勢いだけで反論してしまって次第にケンカに発展することはよくあることだ(私もよくやってしまう)。

つまり、反論の仕方が分からず、怒りだけをぶつけるようなものになってしまうというのがよくある失敗のパターンではないだろうか。

よって、議論が苦手な人に必要なのはなによりも正確に反論する能力なのだ。

「自己主張する方が大事だ」という意見もあるかもしれないが、正確に反論する能力を身につけるということは、「どのような反論があり得るのか」という視点から自分の意見を自分自身で吟味する能力が養われるということだ。

つまり、反論の能力を身につけると容易に反論されるような迂闊な意見を言わないよう注意できる。相手より先に自分で自分の意見の欠点に気が付けるからだ。

さて、反論をするために重要なのは、相手がどのような主張をしているのか正確に理解することだ。相手の主張を理解せずに正しく反論することなんてできないはしない。

そこで相手の主張を分析する上で基本的なことをまとめたい。

相手の主張を整理をする際には主に以下の二つに注意をすることが重要だ。

 

①相手の使っている言葉にあいまいさや具体性に欠けるところはないか。

②相手の判断に根拠がなく独断的な部分、あるいは論理的飛躍はないか。

 

上の二つは初歩的かつよく言われることなので、今更だと感じる人もいるかもしれないがSNSでの議論(というより言い争い?)を見ていると結構問題になっていることが多いと思える。

 

例えば、表現の自由について議論している時に、次のような主張をしている人がいるとしよう。

 

【例文1】:「ある作品の表現を性差別的だと批判する人は、自分の感情を優先しすぎていて合理的でない。特に、集団でクレームを入れたりすることは表現の自由に反している。彼らは文化の素晴らしさとそれを作り出す人間の苦労を理解し、凄惨な表現弾圧の歴史を知るべきではないか」

 

同じような意見の人でも、流石に上記のような主張は議論をする上ではよくないと感じる人も多いのではないだろうか。

しかしこれだけで即座に議論が不毛になるわけではない。一方が挑発的なことを言ってももう一方が取り合わなければ争いは起きない。

だが、挑発されたら頭にきてやり返してしまうのが人間だ。

ここでたとえば反論しようとした人が、次のような反論をしてしまうと一気に議論は不毛になる。

 

【例文2】:「これは個人の感情の問題などではなく、人権の問題だ。このような主張は人権の問題を感情の問題に矮小化している。こういう意見を言い出す人間の方こそ自分たちが楽しんでいるコンテンツを批判されたくないというだけの感情で意見を言ってるのではないか。表現規制の歴史を知るべきというが、こういう意見の人こそ今までどれだけ多くの人が性差別的な表現によって抑圧されてきたかという差別の歴史を知るべきではないか」

 

この際どちらが正しいかは置いておくにしても、こうやってお互いに「お前は○○を知らない」とマウントを取り合っていく光景はSNSでの議論(と呼べるかすら怪しいケンカ)でよく見られる。

相手の文章から攻撃性だったり挑発的態度を感じてそれに応戦してしまうわけである。

それに相手が反応してしまうと最悪で、そうなるとお互いマウントのネタが尽きるまでやめない。

しまいには「彼らは高圧的で、上から目線で、攻撃的にものを言うから周りから賛同が得られないのだ」なんて言ったりして相手がいかに攻撃的かつ惨めな存在かについて身内と話し始めるなんてことになる。

無論、ケンカが目的なのであれば好きにやればいいと思うし、私もケンカすることはあるのでケンカくらい別にいいだろとは思う(どうせケンカなら自分が嫌いな方が負けて欲しいとも思う)。

しかしそうは言っても、多くの場合ケンカ(それもネットの口喧嘩)をしても得られるものなんてないし空しいだけだろう。あってもせいぜい身内や同じ相手を嫌う人間から賞賛されたり同情されたりとかである(だから承認欲求でケンカする人間がいるんだろうとも思うが……)。

もし安易な煽り合いに発展させたくないのなら、相手の主張に対して一つ一つ冷静に吟味することが重要だ。

慎重に吟味するには、「多分こういうことが言いたいのだろう」と推測しなければいけない部分を必要以上に多くしないことだ。つまり、ちょっと不親切に相手の文章を読むことである。そこで出てくるのがさっきのチェックリストだ。

 

①相手の使っている言葉にあいまいさや具体性に欠けるところはないか。

②相手の判断に根拠がなく独断的な部分、あるいは論理的飛躍はないか。

 

さて、まず①について【例文1】の「あいまいさや具体性に欠ける部分」について見ていこう。

最初に目に付くのは「表現の自由に反している」という部分だ。

少し議論慣れしている人なら、ここを勝手に解釈して反論を初めてしまうと不毛な議論になりそうだというのは分かるのではないだろうか。

そもそも「表現の自由に反している」とはどのような事態を指しているのだろうか。

この部分を読んだだけでは、批判とクレームは同じなのか、批判は表現の自由に含まれないのか、表現の自由に反さない批判があるとすればどういうものなのか、などについて判断できない。

次に目に留まるのは「彼らは文化の素晴らしさとそれを作り出す人間の苦労を理解し」という部分だ。

まず、文化の素晴らしさを理解するとは具体的にどういうことを言うのだろうか。

作品を批判的に取り上げること、批判的な意見を取り入れて作品を書くことは文化の素晴らしさを理解することにはならないのだろうか。

そもそも文化という大きな言葉で一括りにする時点でだいぶ話が大きい。

文化とはこの場合何を指すのだろうか。生活文化一般なのか、表現作品なのか、市場の商品取引のことなのか、それともそれ以外なのか示されていない。

文化を作り出す人間の苦労を理解するという表現もよく考えると曖昧だ。

一体何をすれば文化を作り出すことになるのだろうか。そして何をすればその苦労を理解したことになるのだろうか。たとえばグッズを買ったり作品に好意的なレビューを書くことは作り手の苦労を理解することなのだろうか。逆に批判することはものを作る人の苦労を理解してないと見なされるのだろうか。

こうした曖昧な部分について勝手に「多分こういう意味だろう」想像して反論してしまうと議論がかみ合わなくなることが多くなる。

不毛な議論を避けお互いに嫌な気持ちにならずに済むように、多少意地悪でも相手の主張を吟味することは重要なのだ。

次に②の「根拠がなく独断的な部分、あるいは論理的飛躍」について考えていこう。

まず「ある作品の表現を性差別的だと批判する人は、自分の感情を優先しすぎていて合理的でない」という部分だが、「ある作品の表現を性差別的だと批判する人」がなぜ「自分の感情を優先しすぎていて合理的でない」と言えるのかについて根拠の説明部分が抜けている。

勿論、独断的で論理が飛躍しているからすぐさま間違いだという話ではない。

飛躍しているなら、飛躍している部分を埋めるような説明を相手に求めればいい(それで納得できるかはまた別)。

次に気になるのは「集団でクレームを入れたりすることは表現の自由に反している」という部分だ。

クレームを入れると「何が/どのように/どうなって」「表現の自由に反する」ことになるのかがこの文章を読んだだけではイマイチ分からない。

また、「彼らは文化の素晴らしさとそれを作り出す人間の苦労を理解し、凄惨な表現弾圧の歴史を知るべき」という部分についても、ある表現作品について批判をすることと、文化の素晴らしさや表現弾圧の歴史を知ることにどのような関係があるのか分からない。仮に関連を認めたとしても、表現の自由に反するという話から表現弾圧まで話を広げるのもかなり飛躍があると言えるだろう。

ここもおそらく説明を求める必要がある部分だ。

勿論、説明を聞くためになんでもかんでも質問すればいいという話ではない。

あくまで、正確に議論の論点を把握し、それに応答するために必要最低限なことを説明させるべく質問するのである。

巷の議論では、なんでもかんでも質問して論点を逸らしていく戦法が使われたりすることがあるが、それについては次回以降あらためて触れていく。

さて、例文を使って説明した通り、議論においては反論する前にまず相手の主張と議論の論点を正確に把握することが重要だ。

そのためには「あいまいな部分、具体性に欠ける部分」と「独断的な部分、論理の飛躍している部分」をチェックして相手に確認する必要があるだろう。

説明は省いたが、【例文2】の反論側の意見も「あいまいな部分、具体性に欠ける部分」と「独断的な部分、論理が飛躍している部分」がかなりあるので練習として見直してみるのも良いかもしれない(ある程度正解のようなものが用意されている練習問題のようなものが解きたい人は、この記事終わりの参考文献欄に練習できるような本を載せておくので気が向いたら参照して欲しい)

あるいはSNSで行われる短文のやり取りなんかは相手によく確認もせずに脊椎反射で反論する人が多いのでそちらを見て反面教師にしてもいいかもしれない(文字数制限があったり、短文でやり取りする文化だからそういうのが起こりやすいというのはあるので、仕方ないとは言える)。

自分がどのように主張すればいいのかについては相手の主張にしたのと同じように自分の主張を冷静に見直せばいいのである。

つまり、自分の主張に対してさっきの二つのチェックリストを適用すればいい。

①言葉にあいまいさや具体性に欠けるところはないか。

②根拠がなく独断的な部分、あるいは論理的飛躍はないか。

この二点を相手に指摘される前に自分自身でチェックするのが肝要だ。

一般的には主張をする時は結論だけでなく、その結論に至った理由と根拠を提示することが重要と言われるが、ここで言っていることは基本的にそれと同じことである。

さて、相手の主張を吟味する方法(≒自分の意見の吟味する方法)を見たところで、次は実際にどう反論すればいいかについて見ていく。

もちろん、正確に反論をするためには相手からの反論を吟味する方法を身に着ける必要がある。

3.不毛な議論にしないための議論の方法

議論が苦手な人がやりがちなもう一つのミスとして、相手から反論された時に、間違った反論をしてしまうことが挙げられる。

これも基本的に相手の意見を正確に理解できないことで発生する。

相手から反論に再反論する際に注意すべきなのは、反論には大きく分けて二種類あるということだ。

 

例えば高校の校則を増やすべきか減らすべきか議論があり、次のような意見とそれに対する二つの反論があったとしよう。

 

≪意見1≫「高校の校則を減らして高校生を自由放任にすることは、教育の放棄ではないのか。高校では勉強だけでなく生活態度に関しても、校則という形で教えるべきことを教えなければならないのではないか」

≪反論1≫「自主性を育てることも重要な教育のはずだ。むやみに校則を設けることは何も考えずただルールに従う人間を作るだけで、自分で考えて行動するという自主性を損なう可能性がある。

≪反論2≫「校則に従わせることで生徒の生活態度を教育する効果が期待できるかという点に関しては疑問が残る。それに生活態度に関する指導は教師の役割でもあるはずだ。

 

まず≪意見1≫の主張は「高校は校則という形で生活態度を教育すべきか?」という論点に基づいてなされている。

これに対して≪反論1≫では、明確に校則を減らす方がよいと反論しているものの、「高校は校則という形で生活態度を教育すべきか否か」という論点については触れていない。

≪反論1≫の主張は「自主性を育てるという観点で考えてむやみに校則を作るべきか?」という論点に基づいたものになっていて、≪意見1≫とは別の論点が出てきていることが分かる。

別の論点を基に主張している点で、≪反論1≫は≪意見1≫の批判とはなっておらず、異論を唱える形での反論となっている。

一方、≪反論2≫は、校則を設けるかどうかの是非については書かれていないが、「高校は校則という形で生活態度を教育すべきか?」という論点に答える形の主張となっている。

もちろん、校則を減らすべきだという結論である可能性はあるが、≪意見1≫とは異なる理由で校則を減らすべきではないと考えている可能性もある。

そして、生活態度の指導に関しても校則の効果を疑問視しているものの必要性は認めているわけである。

つまり、≪反論2≫は≪意見1≫の結論を否定しているというより「生活態度も教えるべき→校則で教えるべきだ」という論理の繋がりを批判しているのである。

このように、大きく分けると反論には二つある。

一つは、そもそも論点が異なる異論、もう一つは論点を共有した上で論理的繋がりの部分を批判する反論だ。

異論は論点がズレているため、主張に対する根本的な批判にはなっておらず、論を対置させるだけのものになっているため議論が平行線になりやすい。

批判は主張の論理的繋がりを再検討するものであり、場合によっては意見が対立していない場合もある。

この二つを混同して区別を付けないでいると、相手は論理的繋がりの部分についての批判をしただけで結論自体には反対ではなかったのに、自分と真逆の意見の持ち主だと勝手に決めつけて反論してしまうということが発生したりする。

そうなると自分の意見を勝手に決めつけられた側もいい気はしないだろうし、反発を覚えその後の議論がギクシャクしたりなんてことも起こる。

相手の反論が結論部分で自分の意見と対立しているのかそうでないのかはちゃんと考えて応答する必要はあるだろう。

さて、反論には大きく分けて二つあるという話をしたが、ここにもう一つ反論になっていない反論というものもある。

先ほどの校則の議論の例でいうなら、次のような意見がそれだ。

 

≪意見2≫「高校の校則には理不尽なものが多い。髪が肩にかかってはいけないとか、ソックスは折ってはいけないという校則があったりする。いったい、そんな校則のどこが教育的であるというのだろうか

 

わざわざ言うことでもないと思うが、理不尽な校則が多く存在しそれらの校則が教育的でないことを認めたとしても、「校則を減らすべきか否か」「どのような校則が必要なのか」という議論の論点には直接の関係がない。

冷静な人からは「それはそうだけど、だから何?」と思われてしまうものである。

だが、議論がヒートアップしていたりするとつい「そんなことない!」と勢いで言い返してしまう人も少なくない。

このような反論になってない反論については、自分でも言わないように気を付けるべきものだが、言われた時もムキになって言い返さずに冷静に「その話は今の話とは関係のない話ではないか」と返すのが賢明だろう。

さて、今回は噛み合わない議論を避けるための方法について簡単に見てきたが、私的には恐らく次回以降の内容が割と本番である。

というのも、ネットの議論が盛り上がる時というのはは大抵

 

・有益な議論をすることよりひたすら相手を論破することに拘る人がいる。

・そもそも最初から成立するはずのない議論をしようとしている。

 

のどちらかのパターンになることが多いからだ。

次回は特に二つ目のケース、論破したがりな人間を相手にした場合の護身術的なものについては基礎的なことをまとめるだけでも案外役に立つのではないかと思う。

【次回記事】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

【具体的な実践例】

議論でよく使われるが曖昧で混乱しか生まない言葉を実際に指摘した記事。

①「科学」

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

②「データ」

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

 

4.参考文献

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

  • 作者:野矢 茂樹
  • 発売日: 2006/11/01
  • メディア: 単行本
 

 (簡単な練習問題と解説付きなので、問題集的なものが欲しい人は買って損はないはず)

(こちらも初心者向きかつかなり実践的。著者の口の悪さが出ている箇所が少ない分読みやすい。著者の口の悪さについては前回記事参照)