京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

「歴史を学ぶ」とは何か?~歴史におけるifの世界~

1.はじめに

歴史修正主義が幅を利かせるようになり、ナチスホロコースト南京大虐殺、最近では広島の原爆の存在までねつ造であると糾弾される事態となってきた。

ネット上でも現実世界でもこうした歴史の問題に対して頻繁に「議論」が行われるようになったが、私はこれらの風潮を良いものとして捉えていない。

例えば、こうした歴史の「議論」を肯定的に捉え以下のように言う者もいる。

”学問は常に新たな発見や解釈によって修正されていくものであり、歴史もその例外ではない。議論により歴史を修正することの何が問題なのか?”

更に踏み込んで「歴史」の意義について疑問を呈する者は次のようなことを述べる。

”そもそも「正しい歴史」に拘る意味がどこにあるのだと言うだろう。今となっては誰もそれを知らないし、証拠や証言は後から作られたものかもしれない。「正しい歴史」なんてものは誰も分からないはずだ。”

確かに、歴史に対してこのような姿勢を持つことは重要である。しかしそれを認めた上でなお、私が言いたいのは、歴史修正主義の問題は「歴史が修正されること」や「歴史を疑うこと」についての問題なのではないということだ。

そうした誤解を解くべく、まずこの記事では「そもそも歴史を学ぶとは何か」について整理していくこととする。

2.歴史は繰り返されるのか?

歴史を学ぶ意味とはなんだろうか。

「歴史を学び、歴史上の悲劇を繰り返さない為だ」とある人は言うだろう。確かに歴史を学ぶ意義と言われた際、一般的にはそのような事が言われている。

1985年西ドイツの大統領であるワイツゼッカー元大統領は、第2次世界大戦終結から40年の演説で次のような事を述べた。

“過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目になる”

 これは歴史の本質、歴史の意義を端的に表した名言として語り継がれている。

なるほど、確かに我々は失敗をすれば反省し、その失敗から教訓を得て、同じ過ちを犯さぬよう努める。それは自分の未来をより明るく、建設的なものにしようとするためである。ただ未来を良くしようとしても、そもそも未来で何が起こるかは分からない。しかし、過去に何が起こったかを人は記憶し、記録している。だから過去に起こった事を学べば、少なくとも過去にあった失敗と同じ失敗は繰り返さないようにできる。自分だけでなく、周りの人間の失敗の話を聞けば更に多くの失敗経験から学び同じミスをしなくて済むだろう。これをより広範に、長いスパンで取り入れるようと考えると歴史から学ぼうという態度になるわけである。

つまるところ、歴史というのはいろんな人間の失敗談でもあるわけであるから、そこからいろいろな失敗を学ぶ事が出来れば、自分だけでなく、この社会もより良いものへとすることができるだろうという事なのだ。

上記の通り言葉を並べてみたが、「歴史から学ぶ」「同じ過ちを繰り返さない」という言葉が示しているのは基本的にはこういうことである。

しかし、「歴史から学ぶ」「同じ過ちを繰り返さない」という言葉はよく考えれば不思議な言葉ではないだろうか。我々は次のような疑問を投げかける事も出来るだろう。

”そもそも歴史を繰り返すことはできるのだろうか。”

我々が「悲劇の歴史を繰り返させない」と口にする時、その歴史的悲劇は繰り返され得るものとして扱われている。

例えば「アウシュビッツの悲劇を繰り返してはいけない」と言う時、アウシュビッツの悲劇(強制収容所での虐殺)」は繰り返しうるものとして扱われている。当たり前の話ではあるが、そもそも繰り返せないものなら、繰り返せないのだから「繰り返させない」とわざわざ宣言する意味はないのである。

歴史上のあらゆる悲劇は繰り返され得るものであると想定されているから、それを繰り返してはいけないと人は口にすることができるわけだ。

さて我々が「アウシュビッツ」を忘れてはならないのは「アウシュビッツ」が繰り返され得るからである。

もし仮に、「アウシュビッツ」が一度しか起こりえないのであれば我々はそこから何かを学び取る必要など無い。

なぜならそれはもう過ぎ去った過去であり、それがもう起こらないのなら、同じ過ちを犯す心配もない。よって我々はそこから学ぶ必要など無くなってしまうのだ。

実際の「アウシュビッツ」の惨劇は、あの時代あの場所で起きた一度きりのもののはずだ。アウシュビッツ強制収容所はもう存在しない。だから「アウシュビッツ」も、もう起こらない。「アウシュビッツ」という固有名が指し示す事例は歴史にただ一度だけなのだ。しかし、もしこのような疑問を口にする人がいたのなら、すかさず次のように反論をする人もいるだろう。

”「アウシュビッツを繰り返すな」というのはなにも、「アウシュビッツ」それ自体が二度起こるかもしれないという意味ではない。「アウシュビッツのような事」「アウシュビッツに類似した事例」を起こしてはならないという意味である。”

なるほど、確かに我々が「歴史の悲劇を繰り返すな」と口にするのは歴史上の悲劇のようなこと、過去の悲劇に類似な悲劇を起こさない為である。

ここで言う「繰り返し」は全く同じものが繰り返されるという意味ではないのである。

 3.歴史を学ぶとは何か?

さて、ここで冒頭に戻ろう。我々が「歴史から学ぶ」という際、我々が学んでいるのは「歴史」なのだろうか。ここまでの考察からこの問いには次のように答える事が出来るだろう。

”我々が「歴史から学ぶ」時、我々は「ifの歴史」を学んでいる。”

これはどういう事か、順を追って説明しよう。

一見すると歴史は固有名の集合に見える。しかし我々が「歴史から学ぶ」と言う際、教訓としての歴史を学ぶ際に学んでいるのは、歴史上の出来事の固有名、固有性ではないだろう。寧ろ、歴史には「もしかしたらこうだったかもしれない」という可能性があった事。歴史には様々な偶然の巡り合わせがあり得たという事を学んでいるのではないだろうか。

例えば東浩紀アウシュビッツで殺されたハンス少年について次のような事を述べている。

ガス室からリオタールとボルタンスキーまで、奇跡的に何本かの記憶の糸が繋がっている。ともすれば、私たちが直面すべきは、むしろ、何故それがこのハンスでなかったのかという問いである。アウシュビッツについての様々な記録を読めば分かるように、その選択はほとんど偶然で決まっていた。あるひとは生き残り、あるひとは生き残らなかった。ただそれだけであり、そこにはいかなる必然性もない(中略)ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でも良かったこと、つまりハンスが殺されなかったかもしれないことこそが悲劇なのだ。

(東浩紀存在論的、郵便的ジャック・デリダについて』)

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

 

東はここで、ハンス少年が殺されなかったかもしれなかった可能性について触れている。

彼の言うように、歴史を学ぶ際に我々がまず感じ取らねばならないのは、歴史上の固有名ではない。歴史の真の恐ろしさは、誰でも良かった事、特に必然性もない偶然が歴史を成り立たせているという事実である。

つまり、「アウシュビッツ」が「もし」「アウシュビッツ」でなかったら、「もし」あの時代ではなく現代だったら、「もし」ガス室に送られたのがユダヤ人でなかったらという想像が容易に可能であるという事態である。

歴史を学ぶ事によって、我々はなによりもまずこうした「もし」が容易にあり得たという事実に直面するのである。

「もしかしたらこうだったかもしれない」という思考が、歴史の偶然性を暴く。

歴史上で起こった悲劇は誰にでも起こり得る事であると発見する事、それが「歴史を学ぶ」という事の第一段階なのではないだろうか。

アウシュビッツで起きたような悲劇は誰にでも、どこにでも起こりえた。なら、もしそれが現代で、今ここで、私に起きたとしたら……」という感覚こそが歴史を学ぶ感覚なのではないか。

我々が「アウシュビッツ」から教訓を学ぶことが出来るのはそれ自体の固有性、独自性(「アウシュビッツ」ならではの出来事、「アウシュビッツ」でなければ起こりえなかった事)にのみ注目しているからではなく、寧ろ「アウシュビッツ」でなくても良かった事、誰でも被害者になりえた事に注目するからである。

でなければ、「アウシュビッツの悲劇」から教訓や反省を得ることは出来ない。

何故なら「アウシュビッツ」はもう存在しないからだ。当たり前の話ではあるが、「アウシュビッツの悲劇」は「アウシュビッツ」で起きたから「アウシュビッツの悲劇」なのであり、「アウシュビッツ」以外で起こったのなら「アウシュビッツの悲劇」とは呼ばれない。アウシュビッツ」の悲劇が「アウシュビッツ」なしでは起こりえない以上、「アウシュビッツ(固有)の悲劇」は起こらない。

しかし、それでも、我々は「アウシュビッツの悲劇」から学ぶべきことがあるのだ。

なぜなら、歴史を学ぶと言った際に注目されるべきは偶然性、恣意性、交換可能性、つまり「アウシュビッツ」がどこでも、いつでも、誰にでもあり得たという点であるからだ。

例えば、安田武ソ連軍との戦争体験にそれは現れてる。

ところで、ぼくが、いま不しあわせでないのは、あの時、ホンの十糎ほど左の方に位置していたからなのだろうか。ソ連軍の狙撃兵が、ぼくではなく、Bを狙ったからであろうか。それとも、八月十五日に、敗戦がきまったからであろうか。では、あの時、十糎ばかり、右の方にいた奴のしあわせは、どうなったのだろう。もし「終戦詔勅」が、昭和二十年八月十四日だったらどうなるのか、八月十六日だったら、それはどうなっていたのか。(福間 良明『殉国と反逆―「特攻」の語りの戦後史』)

安田を苛んでいるのは、たった十糎の差で自分は生き、「B」が死んだこと、つまり、死んでいたのは自分だったかもしれない事、自分が「B」でありえたという事、自分が生きていることになんら必然性がないことである。

このように、我々の歴史は、常にこうした「もし」があり得たという発見に彩られている。

僅かな行動の差で結果が大きく変わる事があり得るという事をSFなどでは「バタフライエフェクト」などとも呼んだりするが、「歴史を学ぶ」とはそうしたバタフライエフェクト的な可能性を想像する事なしには始まらないのではないだろうか。

歴史を学ぶとは、何よりそうした偶然性を学ぶ事、この世界が「もし」という可能性に満ちている事を学ぶ事なのではないだろうか。

我々が悲劇を繰り返してはいけないと考えるのは、「もし」という想像を続けた結果、そこに何も必然性が存在しない事、もっと言えば「今ここ」「現在」「私」にも起りうることだという直感に辿り着くからである。

誰もが歴史的悲劇の被害者になりえたのだ。

そうした想像こそが悲劇の忘却に抗うのではないだろうか。

歴史を学ぶ事とは、歴史の悲劇が必然の運命に導かれた固有名の集合ではなく、全くの偶然の群であると発見する事にある。

そうなると、歴史上の悲劇を学ぶ態度とは一つの悲劇から無数の「あり得たかもしれない悲劇」を学ぶ態度であるだろう。実際にはなかったifの悲劇の中にある声に耳を澄ませる事、沈黙に耳を澄ませ沈黙の中から声を聴こうとする態度なのではないだろうか。

このように考える中で、我々は次の疑問にも答える事が出来るようになるのだ。

”何故歴史の悲劇を忘却してしまおうという態度や、歴史修正主義に我々は危機感を感じるのか。”

この問いはシンプルなようでいて、難しい。そもそも悲劇の忘却が悪であるのか、悪であるならなぜ悪なのか、それについての議論がなされていないからである。

さて、これらの疑問は次回の記事へと持ち越し、次回は歴史の忘却について我々はどのように向き合うべきかを書いていきたい。

 【次回記事と参考文献など】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

 
殉国と反逆―「特攻」の語りの戦後史 (越境する近代)

殉国と反逆―「特攻」の語りの戦後史 (越境する近代)

 

 (↓ループ物の金字塔『バタフライ・エフェクト』、『まどマギ』『シュタインズ・ゲート』の元ネタとも言われている)

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