0.はじめに
「大学に文系学問はいらない。なぜなら文系学問は役に立たないからだ」といった類の文系廃止論が叫ばれて久しい。
これに対する反論は大きく二つに分類される。一つは「文系学問は役に立つ」という反論。二つ目は「学問は役に立つか役に立たないかという基準で価値を判断されるべきではない」という反論だ。ここではその二つの反論についてのコメントは差し控えたい。注目したいのは、そのどちらも「役に立つ学問」という概念そのものには触れていないことである。
それどころか、学問が「役に立つこと」「使えること」を良いこととして無邪気に肯定する風潮も見られる。
そこで、私は今一度「役に立つ学問」「使える学問」という概念の危険性について整理してみたいと思う。
この記事では「役に立つ学問」の何が問題なのかについて「支配」という観点から整理する事にしたい。
では、まず「支配」という概念について見ていこう。
1.支配するとは何か
「支配」と聞くと、「自分には縁のないもの」「自分には関係のない出来事」だと思って聞き流す人がいるかもしれない。あるいは「支配」と聞くと、過去の奴隷制や絶対王政を思い浮かべるかもしれない。現代なら裏社会や政府による陰謀、あるいはカリスマによる洗脳、マインドコントロールといったようなものが思い浮かぶ人がいるかもしれない。また、AIによる人間の支配といったような、SF的な近未来を想像して恐怖する人がいるかもしれない。
どのような想像であれ、「支配」という概念を、なんとなく「身近には存在しないもの」として想像する人は少なくない。
しかし、誰かを「支配」しようという欲望それ自体はもっと身近なものの筈だ。それに、それは必ずしも特別な事件のような形で現れるわけではない。
それは例えば、性格診断や血液型占い、恋愛工学や異文化理解といったものにさえ現れる事がある。
しかし、私はそれらの科学的根拠が薄弱である事、信憑性が薄いという事態について言及したいわけではない。
勿論、就活などで使われるMBTI等の性格診断はとうの昔に科学的根拠がないものとされているし、血液型占いなどは言うまでもなく科学的根拠がない(それでも、巷では血液型診断の結果を信じている人間が一定数いるし、一部の企業においては血液型によって入社の可否が決まる事もあるのだが……)。
恋愛工学や異文化研究における科学的根拠も常に問われているところであるが、重要なのはそこではない。
一見、まったくバラバラに見えるそれらの分野に「支配」は潜んでいる。
一体どういうことか。
そこで、まず「支配」とは何かということについて簡単に定義付けたい。
人間があるものを支配しているというのは一体、どういう状況を指しているのだろうか。
まず、人間がどのように支配されるかについて語る為には、支配という状態そのものを説明しなければならないだろう。
多くの文脈で使われる「支配」という言葉は、支配者にとって被支配者が操作可能であるという事実を指している。
支配を簡単に定義付けると、直接的暴力であれ実効的権力であれ、ある強制力を働かせて相手を思いのままに操作できる状態に置くことであると言える。
例えば、奴隷制などは、本人の意思に関係なく労働させるために支配的だと言える。
ブラック企業の問題も、労働者が本来行使できるはずの権利を圧力によって行使できない状態に置くためにある種支配的である。
家父長制的な夫婦関係において、妻が夫に命令されて家事を行う事も夫による妻の支配的な側面があると指摘できるだろう。
私がここで、「ある種」「支配的」という言葉を使用しているのは、「支配」というものがある一部分、ある局面において発見されるものであるからである。
例えば、ブラック企業に勤める人々にとっても、命令のまま家事労働を行う人々にとっても、自由な時間や空間といったものが多少は存在している。しかし、ある場面において自由があるからといって、支配が存在するということが即座に否定されるわけではない(頻繁に家庭内暴力などを働く夫は、妻の生活の自由な側面を殊更に強調して、自分が支配などしていないことの証明にしようとするわけであるが……)。
別の例を挙げよう。
我々は日々の生活において税金という形で政府にお金を収めているわけであるが、これを政府による市民の「支配」だとみることもできる。
「支配」は常に「自由」とのグラデーションの中において存在しており、また「自由」との関係性において発見される。
よって、「支配」という言葉が指し示す意味は、本来自由な状態であるべき部分が、何者かによって操作可能な状態に置かれていることと定義できる(異論は多々あるだろうが、今回はこの意味で使用する)。
こうなってくると「支配」の議論は、何者かによって操作されている部分について「それが本来どのように自由であるべきで、今現在どのように操作されているのか」という論点で行われるわけである。
「人間による所有物の支配」という議論が成り立たないのは、人間の所有物が「本来どのように自由であるべきか」という点について「所有物の自由」というものが想定できないからである(奴隷が“所有物”だった時代では、「奴隷の自由」というものはナンセンスと見做されていた)。「人間による人間の支配」が問題視されるのは、人間が「本来自由な状態にあるべき」だと定義されているからに他ならない。
問題がややこしくなってくるのは、「人間によるアンドロイドの支配」「人間によるペットの支配」「人間による自然の支配」「親による子供の支配」という議論からであろう(この記事ではあまり踏み込まないが)。それらの対象は「本来どのように自由であるべきか」について現在進行形で議論が行われているのである。
ある主体がある対象を操作している際に、その行為が支配と言えるのかという問題については、操作されている対象が「本来どのように自由であるべきか」という点に関わってくる。
同時に、その支配がどの程度のものなのかについては、後者の「どの程度操作可能な状態にあるか」という論点において議論される。
どのみち、「支配」という行為は、支配されているものの操作可能性に依存している。簡単に言えば、支配することを望むものにとっては、支配される対象は十分に操作が可能な状態に置かれている必要がある。
2.自由に操る為に必要な条件
ここで、視点を切り替えて次のような問いを立ててみよう。
“我々は、どのようなものなら十分に操作を行う事が出来るだろうか。あるものを操作可能な状態にするための条件は一体なにか”
この問いに関しては、我々が普段使用し、十分な操作を行う事が出来る機械や道具について考えるのが早い。
我々が機械を操作できるのは、ある一定のプロセスによって生まれる結果がいつも一定だからである。自動販売機はお金を入れてボタンを押せば、いつも商品が出てくるし、パソコンやスマートフォンは電源を押せば起動する(もし、そうでないなら私達はそれが壊れているか、またはそれが偽物であるかを疑うだろう)。機械は、ある決まった入力、インプットをすることで、一定の結果が出力、アウトプットされるように設計される。ランダムで結果を生み出す機器でさえ、「ランダムな結果」という一定の結果を出力するよう初めから設定されていることに変わりはない。
我々が普段から接しているテクノロジーを管理出来るのは、その機能や原理を「知っている」からである。機能を「知っている」ことは、あるモノに行った一定の入力の結果が予測可能であることを意味している。
ここから導き出せる結論は、至ってシンプルである。
“我々は、その機能を十分に知っているもの、それが起こす結果や反応に対して十分に予測を立てられるものについて、十分に操作可能である。”
操作を可能にする条件は、その操作対象の性質について十分に理解する事である。
では、ここで支配の話に戻ろう。
支配とは、「本来自由な状態に置かれるべき」ある対象を意のままに操れる事であった。
よって、支配の条件は、その支配対象が、常に予測通りの反応を繰り返すような一定の機能を持つモノとして操作を受け付ける状態にある事だと言えるだろう。
支配は、なにより支配対象が起こす結果を予測可能な状態に置かれていることを必要とする。例えば、直接的暴力による支配は、「脅す」という行為(入力)によって、支配対象の動作(出力)が常に予測可能であるように管理していると言い換えられる。
しかし、問題になってくるのはもう一方の支配、つまり直接的暴力の伴わない支配についてである。すなわち、ある対象を「一定の機能を持つモノ」として利用可能な状態で管理することの支配性についてである。
ある対象を「一定の機能を持つモノ」として利用可能な状態におく第一段階には、対象が起こす動作を予測可能にする事が含まれている。
対象を操作することは、その対象についての知識がなければできないことだろう。全く未知の物は管理する事さえ出来ない。
すなわち、ある対象を利用可能な状態で管理する為には、対象が十分に定義付けられていて、その動作が定式化されている必要がある。
これにより、支配し管理する為の前段階として、支配したい対象の研究という現象が起こり得えるのである。そして、注意しなければならないのは、こうした「支配」の前段階において、研究は有効に活用される為だけに必要とされるということだ。
冒頭に戻る。
例えば、科学的根拠が乏しいにも関わらず、性格診断や血液型占い、男性脳女性脳などのジャンルが未だ顕在なのは、人心掌握の為にそれらを有効活用しようとする人々の思惑がそのジャンルを支えているからと言えるだろう。
支配的な思惑を持つ人物にとっては、その理論がどの程度妥当するものなのか、その根拠を疑う、あるいは反証可能性を検証することは二の次である。
そのような人々にとっては兎に角「研究結果」が「使えればいい」。支配の為の研究を求める者達にとって重要なのは、理論の妥当性ではなく、その応用可能性にこそある。
だから、冒頭で例示したような、恋愛工学などの「使える」「実践できる」と言った謳い文句と共に現れる「科学」には注意を払わねばならないと言える(恋愛工学は科学ではないという批判については後の記事で触れる事となるだろう)。
3.支配的欲望が「研究」として現れる瞬間
エドワード・W・サイードの著書『オリエンタリズム』では、学問世界と大衆文化によって起った「異文化理解」「異文化研究」が「支配」の構造を表していた事を指摘している。
サイードは、著書の『オリエンタリズム』の中で、西洋(オクシデント)における学問や科学といった分野が如何にして東洋(オリエント)の支配に都合よく利用されてきたかを指摘する(↓)。
なぜ学問が帝国の植民地主義に利用されたのかという理由は簡単だ。
なぜなら、学問こそ対象を定義付け、その動作を定式化する分野であるからだ。
つまり、学問はその成果として、その研究対象を「ある一定の機能を持つもの」として定義してしまうことさえある。
”学問や科学こそ「ある対象の構造や動作の原理を把握しその動作を予測可能なものにする」という分野ではなかったか”
サイードの問いの根幹は、学問が中立的な価値を持っているという信念への疑いにある。
サイードは、学問こそが、西洋による東洋の支配に利用されてきた歴史を描出する。一見全く政治性のない、客観的科学に基づいたように見える学問世界こそ、政治的、かつ支配的な思惑が温存されている現場なのである。
学問空間は、帝国主義者にとっても植民地主義者とっても、自分たちの支配的な思惑を生存、培養させるための隠れ蓑だったのである。
サイードの『オリエンタリズム』において示唆されるのは、ある対象を十全に理解し説明出来るようにしようとする過程と、その対象を支配しようと試みる過程は、かなりの程度において一致してきたという歴史だ。サイードが警鐘を鳴らすのは、人がある対象を支配しようとする試みは、その対象を研究し理解するという形式となって現れてくることがあるということなのである。更にサイードは、これらの現象がオリエンタリズムにおいてのみでなく、様々な支配構造において起こっていることを指摘する。
最も気を付けるべきは、これらの支配的な構造は、善意に基づいていることもあるということである(こともあるというだけで、全てではない)。
例えば、恋愛工学を学んだ人が「喜ばれると思って」セクハラ行為に及ぶことは多々聞き及ぶところである。
”あなたにはこっちの方がいいと思って””あなたはこうすると喜ぶと思って”
これらの言葉と共に、研究成果や理論といったものは、支配構造に応用されてしまう。
だからこそ、「役に立つ学問」「実践的な学問」「使える学問」という謳い文句には殊更注意しなければならない。
問題なのは、その科学的根拠だけではない。それを、誰が、どのように応用し、何に使おうとしているのかという意図に対して敏感でなければならない。
知性主義や学識と言ったものが訴える「真実」に対しては、誰にとって都合のよい「真実」であるのか、常に疑いの目を持って挑まねばならないのである。その「真実」は、何かを都合よく支配する思惑の種であるかもしれないのだから。
今回考察してきた「支配」の構図からは、様々な視野を獲得する事が出来る。
例えば、社会における知性の在り方を問題視し、反知性主義の視点から「知性主義=支配」の構図について語る事も出来る。また、現代における「オリエント」はどこにあるのか、つまり支配の為の研究や知識の蓄積が行われている分野はどこにあるのかという視点も検討しなければならない。また、サイードの『オリエンタリズム』そのものについても深く読み込んでいく必要があるかもしれない。
【次回記事と関連書籍】
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(文系廃止論について↓)