京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

【批判】「オリエンタリズム」としての「恋愛工学」

 

0.はじめに

今回の記事は、前回の記事の内容についてより具体的に言及していくことにする。

まず、前回の内容を振り返ろう。

前回の記事では、「役に立つ学問」の何が問題なのかについて「支配」という概念を通して整理した。(下記参照↓)

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

「支配」とは徹底された一種の管理方法のことである。

そして、全く未知のものは支配することができない。

よって、適切な管理にはマニュアルと、それを作るだけの知識が必要になる。

つまり、支配の条件はその支配対象を熟知することにあった。

多くの場合、支配の前段階には支配対象を深く洞察し定義しようとする過程が現れるわけである。

そして、学問も対象を深く洞察し定義付ける体系的知識が集合する場である。

そのため、支配までの過程が学問の皮を被って現れること、あるいは学問の中に支配欲が侵入することに注意しなければならない。

エドワードサイードが指摘したオリエンタリズムは正にそのような学問と支配の共犯関係、提携関係であった。

今回の記事では、対象を定義し、定式化する知識が支配に応用されるジャンルとして恋愛工学をあげて見ていきたい。

1.恋愛工学とは何か

現代では、オリエンタリズムに見られるような体系的知識≒支配の合理化の構図が殊更に警戒されてきたわけである。

そうした支配願望の侵入を防ぐという意味では、過度な一般化や一方的な定義付けに対して、すぐさま反論や反発の声がうまれるという環境が望ましい。

もちろん通常であれば、そのような一面的かつ強引な論理は、多くの場合偏見として反発を生む。しかし、そうした反発さえも生まれない閉鎖された環境というものも存在する。

そうした反発の声が排除された空間=ホモソーシャルな空間においては、支配的な願望による強引な定義付けが説得力のある言説として育まれてしまう。

例えば、恋愛工学などはまさにこれに当てはまるだろう。

まず、恋愛工学について説明したい。

恋愛工学とはいわば「男性向けの恋愛マニュアル・ノウハウ」のことで、藤沢数希が提唱した「モテる」為の一連の理論である。

提唱者自身は、恋愛工学を「学問」として位置付けている。

また、「工学」という名の通り、これは女性とのセックスする為のテクニックを“科学的”に解明していこうというものである。実際は、海外のカリスマナンパ師たちの実践しているメソッドを金融工学フレームワークを応用しながら理論化したものというのがその正体なわけであるが(ここら辺の事情についてはこの記事に任せようhttps://mess-y.com/archives/19319 )。

さて、恋愛工学の理論についてであるが、理論自体は至ってシンプルである(褒めているわけではない)。

恋愛工学の全ての理論は「セックストリガー仮説」をその根幹に据えている。「セックストリガー仮説」は、およそ全ての恋愛工学徒の価値観(信仰)を反映し、またおよそ全ての批判者が批判対象として言及する。

およそ全ての根源であるところのこの仮説は、簡単に言ってしまえば、「女性はセックスした男性を好きになる」という単純明快な理論である(褒めてはいない)。

これは独自の用語になっているから新しい理論のように見えているだけで、別に大した話ではない。

「女性はセックスした男性を好きになる」という現象それ自体は、「認知的不協和の解消」「防衛機制による合理化」という心理学的理論から十分に説明できてしまう。

(これについては、同じような事が既に説明されている。参照記事:https://pert-liberte.com/what-is-renaikougaku/ )

例えば、「自分は、好きな人としかセックスしない」という自己認識をしている女性が大して好きでもない男性との性交渉をした場合、その思考は順列で整理すれば以下のような道筋を辿る。

①私は好きな人としかセックスしない

②私はたいして好きでもなかったこの人とセックスをした

自分の自己認識が間違っていた? いやいやそんなはずはない(と思いたい)

私は、自分でも気が付いていないだけで本当はこの人が好きだったのかもしれない。きっと、そうに違いない。そう思う事にしよう。

私はこの人が好きだ。

 

と、無意識下でこのような思考回路を作り出す。

「私は好きな人としかセックスしない」という信念「私はたいして好きでもなかったこの人とセックスをした」という現実が引き起こす矛盾を解消する為には、どちらか一方が偽の命題でなければならない。

そして、多くの人は持ち続けていた信念や自己認識を変更することが出来ない。

この場合では「私はたいして好きでもなかったこの人とセックスをした」という現実を否定して「私はひょっとして好きだったのではないか?」という認識に塗り替えることを選ぶわけである。

「好きでもない人とセックスをするわけがない」という自己認識が、「好きな人だから自分はセックスしたのだ」という歪められた現実認識を生み出してしまうというわけである。

このように、心理学的に見れば「女性はセックスした男性を好きになる」という現象はそこまで複雑な事情ではないのであるが、これを「セックストリガー仮説」という独自用語で説明してみせたことであたかも“新しい発見”であるかのように仕立て上げ演出してみせたのが「恋愛工学」というジャンルなのである(中身を変えずに商品パッケージを変えるだけというのはある意味で商売人らしくはあるが……)。

恋愛工学は、上述のような認知的不協和の作用に警鐘を鳴らすのではなく、寧ろ利用しようとするのである。

しかし、このような恋愛工学の在り方については批判も多く噴出した。

2.現代の「オリエンタリズム

「女性からの好意はセックスの後についてくる」という理論を根幹に据えている限り、恋愛工学において何より優先されるのは女性とセックスをすることである。

よって恋愛工学におけるテクニックの全ては如何にして女性とセックスをするかという点に集約されることになる。

これは言ってしまえば恋愛のゲーム化であり、恋愛工学は恋愛を一定のテクニックで攻略することのできるゲームにしたということである。

しかし、「自分はモテている」という実感を得る為、女性をセックスの道具程度にしか考えていない恋愛工学は当然のことながら批判が相次いだ。当時から多種多彩な恋愛工学批判が観測できたわけであるが、ここではそうした批判を主に三つに分類して挙げていこう。

⑴「恋愛工学に騙されるな」という批判

・恋愛工学の理論に科学的根拠は存在しない。恋愛工学は科学のフリをした宗教であり、非モテをカモにした信者ビジネスに過ぎない。

・恋愛工学は空しい。結局のところ「何人とヤれるか」という競争原理、成果主義でしかない。そして、そんな競争は何も生み出さず別の非モテへの次なる抑圧になるだけである。

⑵「恋愛工学は倫理的に問題だ」という批判

・恋愛工学は恋愛を「経験人数を増やすゲーム」としてしかとらえていないし、女性をゲームの道具としてしか認知していない。恋愛工学は女性を「モノ化」している。

⑶「恋愛工学の恋愛は間違っている」という批判

・恋愛工学は恋愛の本質を理解していない。恋愛とはコミュニケーションであり、お互いを思いやる関係である。恋愛工学では持続可能なコミュニケーションは示されていない。コミュニケーションもないまま付き合っても長続きしない。

 

以上が、恋愛工学が批判されているおおよその文脈だ。

まず⑴の批判であるが、この批判自体は本記事の主題とはズレるところにある。

しかし、ここで注目すべきなのは、恋愛工学が如何に非科学的であろうが、恋愛工学徒はそれを科学的なものとして信奉してきたということである。

恋愛工学は宗教的だ。

だが、それでもそれを信じる人にとっては科学だったのである。

”科学とはそういうものではない。恋愛工学を信じる人間は科学的教養のない馬鹿だったのだ。”

そう反論する者達も多いことだろう。事実それらの記事では、そのように恋愛工学と科学を明確に区別してみせ、恋愛工学徒をまったく科学的でない人間として批判して見せる(https://pert-liberte.com/what-is-renaikougaku/ : http://blog.skky.jp/entry/2015/08/07/181457)

しかし、それらの反論にはあまり本質的問題ではない。

科学が科学として認知される為にはそれが科学である必要はないからだ。

なぜ似非科学が科学として信用されてしまうのか。そちらの方がよほど面白い論点だろう。

そのことを確認する為にも、⑴の批判については次回の記事で書くことにする。

また、⑶の「恋愛工学の恋愛は間違っている」というまともに思える批判も注意せねばなるまい。

一見納得できるこの批判には実は、何にも増して大きな落とし穴が潜んでいるのである。

しかし、この批判に潜む陥穽についても後に触れることにしたい。

この記事では言及する批判は⑵の「恋愛工学は倫理的に問題だ」という批判である。

これはどういうことだろうか。

恋愛工学は「恋愛」をある一定の法則に従うゲームのように捉えている。どんな人間でも、一定のテクニックさえ習得してしまえば、後は試行回数を増やすだけで経験人数が増えていくというのが恋愛工学の主張であった。

問題なのは、女性を一人の人間としてではなく、経験人数に加算される数字としてしか見ていないということだ。

例えば、恋愛工学では女性がセックスを一旦嫌だと拒否してもそれを無視してセックスすることが推奨されていたりする。恋愛工学では、「嫌よ嫌よも好きのうち」という古風な考えが浸透しているのだ。しかし、これはデートレイプに他ならないだろう。

女性を、一人の人間として尊重せずに、数字を増やすための手段としてしか扱わない点がフェミニズム的にも倫理的にも批判されているのである。

恋愛工学では、女性はセックスの為の必需品としてしか扱われていない。

要は「セックスさせてくれるなら誰でもいい」という考えが根底にあるわけだ。

ここで「そういう男を好きになる方が悪いのだ」という反論を持ち出すのは、自己責任論的開き直りでしかない。

思い出してほしいのは、支配を行おうとする者はその支配対象をなんらかの形で定義しようとするということだ。

恋愛工学では、個人を尊重されるべき存在としてではなく、数字を稼ぐための手段として扱う。

換言すれば、恋愛工学は女性個人を代替可能な消費財としてしか見ていない。

恋愛工学は個々人固有性や特殊性は除外し、目の前にいる人間をある一定の定義の中に押し込めてしまう。

つまり、個人の価値が道具的価値としてのみ定義されているのである。

このような定義によって構築される恋愛工学が、「体系的知識=支配」の構図を持っているのは言うまでもない。

支配とは、目の前の人間を固有の存在としてではなく、代替可能な機能をもったモノとして定義し、扱うことである。

そこではあらかじめ説明された機能と定められた定義のみが存在を認められるため、固有の実存として尊重するという概念が存在しない。支配の過程における定義付けは、同時に定義不能な特殊性を覆い隠すように簒奪する。

そして、恋愛工学がホモソーシャルな空間で感染するように広まっている点を見ても、恋愛工学は、まさに現代におけるオリエンタリズムだと言えるだろう。

ここまでが今回の記事の結論である。

さて、次回の記事では恋愛工学の第二の批判について見ていきたい。

第二の批判は、恋愛工学が科学のフリをした宗教であり、非モテをカモにした信者ビジネスであるという批判であった。次回は実際の科学と、一般に信奉されている科学の差について考察することになるだろう(次回↓)。

【次回記事とその他】

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

(今回批判対象の恋愛工学について↓)

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(「モテたい」とは何か?)

 

 (科学哲学とは何か↓)

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