京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

歴史の忘却は悪なのか~忘却という呪い~

 

 

0. 序文

 前回記事↓

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

さて、前回記事の最後に残した疑問からスタートしたい。

”どんな悲劇の歴史だろうが、終わった過去の事だ。痛ましい過去の悲劇なら覚えているだけ苦痛なのだから、忘れてしまう方がいいに決まっている。被害者が生きている場合は別として、死んでいるなら、その事を忘れようが忘れまいが被害者にとっては関係ないはずだ。”

この挑発的な問いかけへの回答は複数あり得ると思うが、私は二点に絞って回答する事にしたい。

まず挙げられるのは、歴史を記憶する事は、歴史を学び、悲劇を繰り返さないために必要だというものだ。

これはシンプルかつ強力な反論だ。この反論により、議論は、「どちらが社会にとって有益か」という功利主義的な議論へと展開していくだろう。歴史を忘却する事と歴史を記憶する事のどちらが望ましいのか。社会全体の功利の計算をして歴史に対する立場を決定する議論である。

勿論、このようにして議論を進める事は可能だし、このような議論は日々頻繁に行われているように思える。そしてその度に歴史を学ぶ事の重要性が再三問われているのである。(関連過去記事:歴史の忘却は悪なのか~忘却という呪い~ - 京太郎のブログ

 

さて、ここではもう一つの順路を辿る事にしよう。

私はここで一つの疑問を提示したい。

 ”歴史は本当に過去の問題だろうか?”

いまここに生きている人々にとって歴史を忘却する事の方が有益であるとする議論では、歴史の悲劇は終わった事、過去の問題として処理される。

ここに現れている態度とは、なんだろうか。それは、過去に対しての現在の優越、いまここにある問題に比べれば過去に起こった事など終わった事、些末なものに過ぎないという態度ではないのか。このような態度の者は例えば次のように主張する。

”過去のことばっかり気にしていたら神経症になっちゃうよ。それより重要なのは今どうするかだろう。”

このように主張する者にとっては、歴史の忘却を恐れる事は一種の神経症でしかない。よって、その論理も歴史という過去に対して、現在にある傷の治癒の重要性を主張するものとなっている。

しかし本当にそうだろうか。

アレントは、如何にして、過去を現在の問題として経験できるのかという点を問い続けた。今それが問われているのではないだろうか。さて、ここで今一度問いに戻ろう。

”歴史の問題は本当に過去の問題なのだろうか。”

この疑問に答える為に、歴史を学ぶ態度とは何かについてもう一度考えてみたい。

Ⅰ歴史を学ぶ態度とは何か

以前私は、歴史を学ぶ態度は歴史の偶然性を感じ取る事を前提としているのだと述べた。歴史の怖さは、歴史的事件が様々な偶然が折り重なった結果起きた事、つまり悲劇が誰にでも起こり得たという点にある。我々は歴史を学ぶ事で、あらゆる悲劇には必然性がなく、偶然の結果ある人が被害者になったに過ぎない事を悟る。歴史上で起こった悲劇は誰にでも起こり得るし、もしかしたら自分だって何かの偶然で、悲劇の被害者になるかもしれない。そのような想像を通して、初めて歴史という過去は現在の問題として経験されうる。

 

しかし、歴史を学ぶ事は、ただ歴史が偶然そうなった結果の集まりである事を認めるだけでも始まらない。この世は全て偶然なのだ、という結論に安住する姿勢は、結局、歴史を学ぶ意味を失わせてしまう。

”全ては偶然だ。諦めてしまえば楽になる”

そう言えてしまうような態度は、全ての悲劇を無意味化する諦め態度に他ならない。全てを偶然だから仕方ないと諦めてしまえれば、あらゆる悲劇は悲劇ではなくなるだろう。ここに悲劇の恐ろしさはない。

歴史上の悲劇は、実際の被害者とは別の人に降りかかった可能性も十分にあった。つまり悲劇には様々な結末があり得たのだ。にも関わらず、実際に死んだ人はその人であって別の誰かではなかったという点に本当の悲劇は潜んでいる。

誰にでもありえたはずなのに、実際はその人だったという事実こそ悲劇なのである。すなわち、様々な可能性がありながら、実際には特定の可能性のみが現実になってしまう事に歴史の恐ろしさはある。このような視点に立てば、例えばアンネフランクの悲劇は次のように説明される。

 

終戦が1995年の2月だったら、あるいは隠れ家の場所を悟られていなければ、アンネフランクは死ななかったかもしれない。しかし、実現されたのはその可能性ではなかった。アンネが死ななかった可能性があったのにも関わらず、アンネフランクは死んでしまった。その理不尽にこそ悲劇はある。

 

歴史を学ぶ姿勢は、様々な偶然性を発見し、複数の可能性があり得た事を認めながらも、起こった結果は一つしかない事を認める事で維持される。歴史には、無数の可能性があり得た事、そして様々な偶然によって一つの現実が決定したという事を引き受ける姿勢が無ければ、歴史の恐ろしさは見えてこない。逆に言えば、歴史の忘却を肯定する態度は、歴史の恐ろしさを回避している。

Ⅱ歴史の忘却において何が問われているのか。

さて、いまここには、大きく分けて二つの態度がある。歴史を学ぶ態度と歴史を忘却する態度である。そうなると、やはり歴史の問題は終わったことの問題ではない。歴史の問題はそれを記憶しようとするのか、忘れようとするのかという、いまここにいる我々の問題でもあるだろう。

歴史の問題は「過去の問題だから今は関係ない」という話ではないのだ。今ここで忘れ去ろうとする事、その事自体が一つの道徳的問題として問われている。

例えばアレントは、戦後のドイツについて次のように述べている。

ですからわたしたちは、「道徳的な」秩序の崩壊を、一回だけではなく、二回、目撃したのだと言わざるをえません。戦後に「通常の道徳性」に唐突に回帰したことは、ごく当たり前のようにうけいれられていますが、このことは道徳性そのものへの疑念を強めるだけなのです。

(ハンナ・アレント『責任と判断』p92)

責任と判断 (ちくま学芸文庫)

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アレントにとっては、昨日までドイツ国民がナチスを信じていた事よりも、敗戦を境に、ドイツ国民がナチスなど忘れてしまったかのように振る舞った事の方が遥かに衝撃的だったに違いない。アレントにとって歴史の忘却が問題だったのは、忘却される過去が重要だったからではない、忘却する態度そのものに道徳的秩序の崩壊を感じ取っていたからである。

Ⅲ過去の悲劇を忘却する態度の何が問題か

私は小題の問いにアレントとは違う形で、次のように答えたい。

「悲劇の痛みを忘却によって癒す事、歴史を忘れてしまおうとする事自体が痛み以上に呪いを生み出している。」

歴史を忘却する態度とは歴史を今の問題ではなく、終わった問題として処理する態度である。言い換えれば、歴史の偶然性と向き合わない態度、歴史を必然の論理によって処理する態度である。(歴史をいまここにある問題として引き受けつつも、それを忘却する事による利益を優先する場合は、やはり功利主義的な議論となるのでここで論じる事は控えたい)

歴史を終わったものとして扱う態度は歴史を学ぶ態度と真逆の態度でもある。それは、歴史の中の偶然性や無数の可能性を無視する態度でもある

悲劇の渦中にいた者達の固有性にその原因を見出す事、彼らが彼らでなければいけなかったのだと認識する事を前提としている。その前提からは以下のような論理も生み出されてしまう。

”歴史の流れは全てが必然であり、悲劇の被害者はその被害者でなければならなかった。例えばアンネ=フランクが死んだのは、アンネがアンネだったからに他ならない。1945年3月、ベルゲン・ベルゼン収容所で死んだのは、他の誰でもないアンネ=フランクであり、他の誰かではありえなかった。アンネが死んだのは、死ぬべきがアンネだったからだ。あの悲劇において、歴史において、アンネの死は運命づけられていた。はじめから彼女の死は定められた必然であった。”

上記のように認識する事で、運命論に安住する事。歴史を必然として読み説き、そこにある固有性だけに目を向ける事は、容易にこのような思考に陥ってしまう危険がある。それは、悲劇の被害者に対する呪いではないだろうか。アンネは、いや、アンネだけではない、あの場で死んだ者、もっと言えば歴史の悲劇の内に死んでいった者達全てが呪われている。避ける事の出来ない悲劇の運命が彼らを襲い、その悲劇が他の者にはありえなかったというのなら。歴史的悲劇の渦中にあった人々は生まれながらにしてそう運命付けられていたというのなら。それを呪いと呼ばずしてなんと形容すれば良いだろうか。

歴史や悲劇的事件から偶然性を取り除いて思考してしまうことは、悲劇の被害者を呪われた存在として扱う態度でもある。その態度のもと、悲劇の渦中にいた人物達は、代替不能な固有名である事を義務付けられてしまうのだ。歴史の偶然性やありえたはずの可能性を無視し、歴史から固有名の代替可能性を取り除く思考は、必然的に悲劇の被害者を呪いかねない論理を形成する。例えばそれは、冒頭のようなものにもなるだろう。

”どんな悲劇の歴史だろうが、終わった過去の事だ。痛ましい過去の悲劇なら覚えているだけ苦痛なのだから、忘れてしまう方がいいに決まっている。被害者が生きている場合は別として、死んでいるなら、その事を忘れようが忘れまいが被害者にとっては関係ないはずだ。”

「被害者は今もここにいるのだ。私は、もしかしたらあり得たかもしれない悲劇の被害者である。この世界の住人は、起こっていたかもしれない悲劇の被害者、あるいは生き残りだ。これは終わった問題ではないのだ。」 

歴史を学ぶ側に立つなら、歴史の偶然性を認めつつ現実を引き受けるなら、そう答える事も可能だろう。

だが、仮に歴史を必然の内に埋葬するのであれば、このような反論など無意味かつナンセンスに違いない。なぜなら、そのような論理においては、ここにいる私は私以外ではありえず、私は歴史上の悲劇の被害者でもなんでもないからだ。歴史上の悲劇の被害者も、所詮は過去の人物に過ぎない。我々は彼らにはなりえなかったし、彼らは我々にはなりえなかったのだから、彼らの固有の死を記憶する必要はどこにもない。彼らの死は必然であり、我々は彼らとは違う必然の中にいるのだから、あらゆる記憶は無意味である。

このような態度に立つことも可能だろう。そして、歴史の「忘却」はこのような態度によって肯定される。しかし、悲劇を固有名の集合としてのみ扱うこの態度は、悲劇の被害者達を、死を運命づけられた存在として、呪われた存在として扱っているのではないか。少なくとも、私にはそう見えてしまう。

勿論、歴史問題に関する勢力がこのように二元論的に展開していると言いたいのではない。あくまで大雑把に分けてこの二つがあるのではないかという提示でしかない。私自身もはっきりとどちら側の人間であるとは言えないだろう。しかし、敢えて言うのであれば、私は「忘却」の側には立たない。この「忘却」が肯定する呪いを私は引き受ける事が出来ない。それはなにより、いまここにある問題であり、私のこの世界に対する信頼の問題であるからだ。

 

【関連項目】

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