京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

育成シミュレーションとしての乙女ゲーム~ギャルゲーとは違うのだよ!ギャルゲーとは!~

0.乙女ゲーに対する偏見と誤解

一般的に、乙女ゲーには次の二つの誤解がある。

①女性向けになったギャルゲー、エロゲーが乙女ゲーである。

②主人公が色んな相手と恋愛するから、運命的でロマンチックな恋愛というものがない。

一つ目についてはこのシリーズの第一弾の記事で既に反論している。(下記参照↓)

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

 

問題は二つ目だ。この記事では、主に二つ目の偏見に答えていくことにしよう。

1.乙女ゲーの恋愛はロマンチックである

まず最初に問われるのは、乙女ゲーの主人公は色んな相手と恋愛する浮気者なのかという点である。

確かにゲーム中では出される選択肢によって、主人公は様々な登場人物達と恋愛する。しかし、それは主人公が同時に複数の相手と恋愛する事を意味していない。

主人公が複数の相手と恋愛できるのは、プレイヤーが選んだ選択肢によってルートが分岐するからである。つまり、恋愛相手次第でストーリー自体が変化していく為、恋愛相手に応じてその都度主人公が別の平行世界へと移動していると言える。別の平行世界での話であるのなら、同じ人物による浮気とは言い難い。乙女ゲーの主人公はプレイヤーの選択によって行動も、言動も変化し、恋の相手すら変化する。結果としてストーリーまで変化するのだから、主人公はルート分岐のたびにストーリーを通して「別世界にいる同じ見た目の人」になるのである。乙女ゲーは一人の浮気性な人物を主人公にしたゲームではないのだ。

次に問題になるのは、乙女ゲーにおける恋愛は運命的でロマンチックなものなのかどうかという点だ。例えばこの点において、次のように疑問を投げかける人がいる。

“主人公の行動やセリフをプレイヤーが選んでストーリーが変わるなら、やっぱりそのストーリーに運命は感じないのではないか。運命的ストーリーと言うのは初めから仕組まれているような、そうなるように決まっていたかのようなストーリーであって、プレイヤーが選んだ結果変わるようなストーリーに運命を感じるのだろうか?”

 

「感じられる」

私ならそう答えるだろう。正確には、運命をより強く感じさせるために選択肢とルート分岐は存在していると言える。

純愛を純愛たらしめ、運命をより運命らしく見せるためにこそルート分岐は存在する。

どういうことか。それをこれから解説していこう。

2.運命的恋愛の条件とは何か

前回の記事では、恋愛について次のような結論に至った。

恋愛において重要なのは、「自分にはこの人しかいない」「この人を選んだ」という感覚であり、その感覚を得るためには、そこに至るまで様々な選択があったことが必要になる。

「他にもいたはずなのに、他にも選ぶことが出来たけど、私が選んだのはこの人だ」「もしかしたら他の人と恋愛していたかもしれない、でも今私はこの人の隣にいる」

このような感覚こそが幸福な恋愛の感覚であると私は定義した。(前回記事参照↓)

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

自分が他の選択をしていたかもしれない可能性を認めながら、尚「この人しかいない」という感覚を持つこと。つまり、偶然ここにある”いま”を自分が選んだ選択の結果として積極的に肯定することが恋愛の感覚だった。

運命的恋愛が運命的であるためには、それが真に運命によって定められている必要はない。なぜなら運命の存在を誰も証明できないからだ。

あなたは運命の相手を探すために全人類70億人と総当たりして探すだろうか、そもそもその70億人の中に運命の相手がいるとなぜ知ることができるのだろうか。ひょっとしたらあなたの運命の相手は、あなたの手の届かない場所、もしかしたらもう死んでいるか、あるいは遠く先の未来にいるかもしれない。

なら、運命的恋愛とは、その当事者が感じている幻想でしかない。恋愛は全て偶然の産物だ。重要なのは、その偶然を自分が選んだという感覚である。

選べないはずの偶然を、自分が選んだものとして事後的に肯定すること、これが運命的恋愛の条件である。(ちなみに家族愛の条件についても同じことが言える)

3.乙女ゲーにおける運命的恋愛

乙女ゲーは運命的恋愛を完成させるゲームである。

プレイヤーに恋愛の疑似体験を提供するギャルゲー・エロゲ―と乙女ゲーが決定的に違うのはこの点においてである。

ギャルゲー・エロゲ―においては主人公=プレイヤーであり、主人公はプレイヤーを中に入れる入れ物として機能する。

だが、乙女ゲーにおいては主人公≠プレイヤーであり、ゲーム中では主人公視点の一人称と主人公が画面に映りながらセリフを言う三人称視点の二つの視点が混在している。

なぜ乙女ゲーにおいては主人公≠プレイヤーなのか、なぜ主人公視点とプレイヤー視点が分かれているのか。この謎を解いていこう。

 まず、先程も述べたように、恋愛という形式を完成させるには二つの異なる視点が必要だ。「自分にはこの人しかいない」という「いまここ」に集中する視点と、「いま私がこの人と結ばれているのはただの偶然で、他にも可能性はあったかもしれない」という俯瞰的で拡散している視点の二つが必要なのである。

「私にはあなたしか見えない」という状態にありながら、「他にもいたかもしれない」という別の可能性を検討するような戸惑いを共にすること、これが恋愛を運命的なものとして完成させる。

つまり、選べないはずの偶然を、「自分が選んだ選択」として事後的に肯定することが運命的な恋愛の条件であるのである。

しかし、多くの場合これは困難だ。「あなたしかいない」と言いつつも、同時に他の可能性を検討し続けなければならないのだから。

これはひどく不安定な作業ではないだろうか。

「いまここ」への視点と、別の可能性を模索する視点を切り替えていく必要があるから、一つの視点に留まる事ができない。一つの視点に留まった瞬間、恋愛の運命的な感覚は死ぬ

例えば「いまここ」への視点にばかり集中すると、「私にはあなたしかいない」という言葉が「私はあなたしか知らない」という閉塞感の表明へと変貌する。

俯瞰的で拡散する視点のみを持ち続ければ、「もしかしたら他の人と付き合っていたかもしれない」という可能性の検討が「あなたの代わりはいくらでもいる。恋愛ができれば相手なんて誰でもいいのだ」という恋愛ゲーム的な発想へと変質するだろう。

現実でこれら二つの視点を同時に両立させる為には不貞を試すしかない。『愛の完成』においてクラウディネがそうであったように。(ここで私は真実の愛は不貞だと言いたいわけでも、それを正当化したいわけでもない。それはまた別の話だ)

しかし、ゲームなら話は別だ。

ゲームという幻想空間においてなら、主人公の視点とプレイヤーの視点という二つの視点を用意することが出来る。乙女ゲーにおいては、この二つの視点は両立する。

 乙女ゲームにおいてプレイヤーは可能性を感じ取る主体としての視点を持ち合わせる。プレイヤーはストーリーに様々な可能性が存在する事、様々なエンディングと、様々な恋模様が存在することを知っている。プレイヤーが主人公の行動を選択する事で、ストーリーが変化することを知っている。

同時に、主人公はそのことを知りえない。他の可能性なんてものがまるで存在しないかのように、まるでその人と結ばれることが決まっていたことかのように振る舞う。

あるルート(選択肢を選んだ事で決定した物語世界)における主人公は、そのルートにおける攻略キャラクターを「運命的恋愛の相手」として、つまり自分にとってかけがえのない、代替不可能な存在として認識する。しかし別のルート(別の選択を選んだ事で生まれた別の物語世界)においては、そのルートの攻略キャラクターを「運命的恋愛の相手」として認識し、また別の「運命的恋愛」を演出する。

このように、乙女ゲーには「運命的恋愛」を可能にする為の二つの視点が存在しているのだ。

それだけではない。乙女ゲーにおいてはハッピーエンドだけでなくバッドエンドの質も問われていた。それは、バッドエンドという可能性があることによって、はじめてハッピーエンドが真の意味で幸福を演出できるからである。プレイヤーは主人公が認知しえない「不幸な終わり方をする可能性」を認識している。だからこそ、主人公たちのハッピーエンドは「自分たちは、一歩間違えば不幸だったかもしれないのに、今は幸福なエンディングを迎えている」という事実として再認識されうるのである。

ここにおいても、やはり主人公の視点とプレイヤーの視点は、認識しうる可能性と選択肢という点においてズレていなければならない。

乙女ゲーにおいて主人公とプレイヤーの間には視点の乖離、認識している可能性の幅の差が必要なのである。これが乙女ゲームにおいて主人公≠プレイヤーである理由だ。

4.乙女ゲーというジャンル

乙女ゲーにおいて、プレイヤーと主人公は視点を分担しながら「運命的恋愛」とその形式を形作っていく。乙女ゲーはいわば、一つの恋愛の形式を完成させる為に、プレイヤーと主人公が協力し合うゲームだと言っていい。

乙女ゲーは、もしかしたらあり得たかもしれない世界を、ルート分岐と選択肢という形で全て収録している。ルートに入る事(特定の相手と恋愛状態になる事)はただ単にそのキャラクターと結ばれる事を意味しているのではない。特定ルートにおいては、主人公はその攻略キャラクターを「この人しかいない」「特別な相手」として認識するが、一方で、それを進めるプレイヤーは「現在進めているルートのキャラクター以外との恋愛もあり得た」可能性を知っている。

乙女ゲームは各ルートにおいて、攻略キャラクターとの恋愛が運命的なものである事を主人公に語らせながら、同時に別の恋愛可能性(他のルート、他のキャラクターとの恋愛)をプレイヤーに示している。乙女ゲーにおいて、プレイヤーと主人公は視点を分担しながら「運命的恋愛」とその形式を形成していく。

乙女ゲーはただ単に恋愛の疑似体験を提供しているのではない。

乙女ゲーム恋愛の形式、あるいは運命的恋愛そのものに対するフェチズムを中心に据えている。そこにあるのは恋愛を完成させる工程そのものへの欲望なのだ。

よって、そのジャンルは恋愛ゲームというよりは育成シミュレーションゲームの方が近いと言えるだろう。

乙女ゲームにおいてプレイヤーは、主人公と協力し合って一つの物語世界と、そこにある運命的恋愛を育成し、完成させるのである。

さて、これで乙女ゲームというジャンルがどのような性質を持ったジャンルなのかについて一通り解説できたのではないかと思う。勿論、当たり前であるが全ての乙女ゲーとそのプレイヤーが私の解説した通りになっていると言いたいのではない。私は、あくまでジャンルとしての傾向や解釈可能性を説いたに過ぎない。そうすることで、乙女ゲーとギャルゲー(エロゲ―)にある質の差について言及することが可能になるからだ。

乙女ゲームというジャンルに対する解説はここでひとまず終了となるが、乙女ゲーそれ自体についてはまだ書くこともあるだろう。