京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

「心地よい支配」「優しい支配」としての恋愛

0.前回のあらすじ

前回まで恋愛工学への批判について見てきた。

これまで見てきた批判は、恋愛工学は女性をモノとしてしか見ておらず倫理的に問題であるという批判と、恋愛工学は非科学的で非モテをカモにした信者ビジネスに過ぎないという批判であった。恋愛工学の問題点については、以上二つの批判を概観することでおおまかに把握することが出来たのではないだろうか(↓過去記事参照)。

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

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この記事で取り上げるのは残った第三の批判である。

最後の批判は、「恋愛工学」の恋愛はゲーム的な恋愛であり「良い恋愛」ではないという批判の方法であった。確かに、恋愛工学は相手を目的を果たすための手段、道具としてしか見做さず、恋愛をゲーム化するものであった。そんな恋愛では、結局のところ相手を個人として尊重することは想定されておらず、互いを思いやる恋愛にはならないのではないかというのがこの批判だ。

しかし、この批判は注意して向き合わねばならない。

「恋愛工学」的な恋愛を否定しようとして「良い恋愛」を持ち出すなら、その「良い恋愛」にこそ危険が潜んでいないのかをよく考えるべきだ。

「真の恋愛」について語るのであれば「互いを思いやるとはどういうことか」ということを軽く考えてはいけない。考えようによっては、そうした「良い恋愛」は「恋愛工学」的な恋愛よりも危険なものかもしれないのだ。

今回はこんなテーマから記事を書いていこうと思う。

1.「良い恋愛」と「ダメな恋愛」

よく「ダメな恋愛」の例として挙げられるものとして、「支配欲による恋愛」「コントロール願望の恋愛」「相手を思い遣る気持ちのない恋愛」といったものがある。

例えば、「恋愛工学」などは結局のところ「ダメな恋愛」にしかならないというのはよくある批判だ。

「ダメな恋愛」には真実の愛がない。反対に「良い恋愛」は、お互いの事を思いやり、相手の事をちゃんと考えてあげる事だ。「ダメな恋愛」はやめて「良い恋愛」をしようというようなアドバイスをする人は多い。

しかし、本当にそうだろうか。

「支配欲に満ちたダメな恋愛」と「お互いを尊重し合う良い恋愛」という二分法は一見、それらしく見えるが、しかし注意しなければならない。

恋愛を「支配欲に満ちた恋愛」と「互いを尊重する恋愛」とに分けて考える事はある意味で危険だからだ。このような二項対立を作り出されると、さも「互いを尊重する恋愛」には支配欲が存在しないかのように語られてしまう。

しかし、「互いを尊重する恋愛」には支配欲が存在しないのだろうか。

この場合、「互いを尊重する」という言葉にはどんな意味が含まれているのだろうか。

場合によっては「お互いを尊重し合う」過程の中に支配欲が混じる可能性についてもっと慎重に取扱うべきではないだろうか。

「互いを尊重する恋愛」など幻想で、所詮は性欲の話でしかないなどと分かったようなことを言うつもりはない。寧ろそのように言う人間にも注意せねばならないだろう。そのような人間が「恋愛とは支配欲に満ちたものである」と言い出すのは、そう定義する方が、自分にとって都合が良いと考えている場合がある。

本題は、「支配欲に満ちた恋愛」だけでなく、「互いを尊重する恋愛」においても支配欲というものが付き纏ってきてしまうのではないかということだった。

つまり、「互いを尊重する恋愛」と「支配欲に満ちた恋愛」は重なる部分もあるのではないかという疑念である。

私が「良い恋愛」や「真の恋愛」を持ち出すことで「恋愛工学」を批判しようとする試みに懐疑的なのはこうした疑念があるからだ。

そもそも支配の条件とは、その支配対象を熟知することにあった。全く未知のものを支配することはできない。監理には何よりマニュアルが必要なのだ。よって支配を行う者には、支配対象を定義し、その行動原理を掌握しようとする心理が存在する。

よって、人が何かを支配する際には多くの場合、支配対象をより深く洞察し定義しようとする過程が現れる。

支配を行おうとする者は、その支配対象をなんらかの形で定義しようとする。

これは以前の記事において触れている(↓下記参照)

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

つまり、支配という観点からすれば「お互いを尊重し合う為に相手を知ろうとすること」と「相手を支配するために相手を知ろうとすること」は全く真逆のことがらではなく、むしろ繋がっている。

しかし、次のように反論する人もいるだろう。

”たとえその過程が同じものを辿るとしても、そこに支配という目的が存在するのかしないのかは大きな差だ”

しかし、ここで問題なのは、一般的にこの二つを見分けることはとても難しいという点だ。そもそも区別が可能なのかさえ分からない。

「支配の為に相手を掌握しようとしている」ことと「尊重の為に相手の気持ちを推し量ろうとしている」ことの差は、実際の行為の差として現れない。実際に行われる行為の違いからこの二つの恋愛の違いを説明できないからだ。

ならば、問われなければならないのは「相手を尊重する」という言葉が何を示しているのかということである。

もしここで、「相手を尊重する」という言葉の意味するところが「相手にとって良いと思えるものを相手に与えること」あるいは「自分が考える幸福を相手に与えること」に収まるのであればどうだろう。

それは結局「相手の幸せ」「相手の利益」を一方的に定義する関係になってしまうのではないだろうか。

例えば、友人関係であれば「せっかくやってあげたのに喜んでくれない」という怒り方をする人はいる。親子関係においても、親が子供の進路を勝手に決めてしまったり、後悔してほしくないという理由で子供に夢を諦めさせたりする過保護の問題もある。それらは、一方的に相手の幸せを定義する関係とも言える(だから良いとか悪いとかの話でもないが)。

この場合、一方が善意で行ったことについて、相手は特定の反応を期待されていることが多い。

上のような例だけでなく、ありがた迷惑と呼びたくなるようなより悲惨な例は枚挙にいとまがない。

「相手の幸せ」「相手の利益」を一方的に定義することは、相手を「期待通りの反応を起こすもの」「ある一定の機能を持つもの」として扱うことに繋がってしまう。

そうなれば「お互いを尊重し合う為に相手を知ろうとすること」も、結局のところ「優しい支配」もしくは「心地の良い支配」の言い換えでしかなくなるだろう(即座にそれが問題であると言いたいのではない)。 

「尊重」という言葉がそのような意味で使われる時、「互いを尊重し合う恋愛」にあるのは支配欲の変形、優しい支配欲でしかない。

それらは「相手を自分の思い通りに奉仕させたいか」「相手を自分の思い通りに心地よくさせたいか」という支配の内容の違いはあれど、どのみち相手に自分の期待通りの存在であることを求める欲望である。

「恋愛工学」を批判する際に「良い恋愛」を比較対象として持ち出すことはこういった意味で危険なのだ。「良い恋愛」を持ち出すなら、そうした「優しい支配欲」に対して警戒しなければならないし、警戒したところで完全にその欲望を排除できるわけではないからだ。

しかし同時に認めなければならないのは、「恋愛」とはそのような「優しい支配」を求め合う関係であるかもしれないということだろう。

一時期、西野カナの『トリセツ』という歌の歌詞が話題になったが、恋愛においては相手に「何も言わずとも自分のことを分かって欲しい」というような願望がしばしば発生する。

そのような願望は「相手に自分の期待通り動いてほしい」という支配的な願望であると同時に、自分自身の取扱説明書を自分で作り出すことで「心地の良い支配」を求める被支配的願望でもある。

「恋愛」はある意味で支配的な願望と被支配的な願望が同居する場所なのかもしれないのだ。

2.「優しい支配」を望むこと

「尊重する」という言葉が、相手をある一定の定義に押し込めることを意味するのであれば、「相手を尊重する恋愛」は「優しい支配」「心地の良い支配」の言い換えでしかなくなる。

もしくは、資本主義的なシステムの中で行われる恋愛とは、合意された双方向の支配関係に過ぎないのではないのかと指摘する人もいるだろう。

意地の悪い言い方をすれば、恋愛とは「自らの自由を差し出す代わりに、相手に自由を差し出させる関係」と言い換えることだって出来るだろう。

恋愛は、社会的に構築された「恋愛」という形式を履行する為に、互いの自由を割譲し合う契約関係である。

では、そのような不自由さを伴う関係を人が望むのはなぜだろうか。

それは、恋愛が強い繋がりを担保する関係として社会的に認知されているからであろう。

恋愛において現れる願望や欲望は、強い繋がりを求める欲望に他ならない。

強い繋がりというのを安定した繋がりと言い換えても良い。そのような「強く」「安定した」繋がりを求める上で必要なのは不確定要素を極力排除することである。

よって強く繋がりたいという欲望の過程には、不確定要素、すなわち「繋がりを弱めてしまう可能性」を可能な限り薄めようとする動機が存在する。

「支配願望」はその動機の延長線上に現れる。

繋がりの大きさを一定に保ち、その強度を安定させる為には最早自分と相手を含め、その関係性を構築するもの全てを管理下に置くしかない。

繋がりの強ささえも管理可能なものにしようと目指した果てに支配関係は現れる。

そしてまた、資本主義における「恋愛」も、強い繋がりを志向し、繋がりを脅かす不安要素を効率よく排除していく関係であり、その究極には「結婚」が存在するのだ。

「もしかしたらこの繋がりがなくなってしまうかもしれない」という不安こそが人を苦しめる。例えばそれは恋敵であったり、恋人の奔放さであったり、自分への自信のなさであったりする。だから、人は「もしかしたらこの繋がりがなくなってしまうかも」と思わせるような要素を排除しようとする。結婚によって安心しようとする人がいるという話や、自分に自信がない人間に限って、自分と関係を持つことが如何に重要かを力説したがるという話がよく聞かれるのはこの為である。

彼らは、強く繋がる事ができないという不安をそのような形で表出させてしまうのだ。古今東西問わず、自信のなさは他者を支配しようとする動機になる。

更に言うなら、そのような不安を抱える人間たちが、恋愛という市場からも締め出されたと感じた時、彼らは「愛国者」になったり「依存症患者」になったりしてしまうのではないだろうか。だから「愛国者」たちの声は「私は国を信じている」という表明ではなく、「国を信じさせてくれ」という叫びであるのだろう。

3.では何が問題なのか

恋愛は強い繋がりを志向する関係であり、その実態は合意ある相互支配的関係であるという話であった(強引な定義であるが、とりあえず論を進めたい)。

ここで冒頭に戻ろう。

仮に恋愛が互いに互いを縛り合う不自由な関係だとして、一般に良い恋愛とダメな恋愛に分けて考えられるのは一体なぜだろうか。

ダメな恋愛と呼ばれてしまうものは一体何が問題なのだろうか。

この疑問は次のように言い換えることも出来る。

恋愛が相互に支配的な関係であるとして、一体何が問題になりうるのであろうか。

「優しい支配」「心地の良い支配」であろうと、当事者間で合意があるのであれば問題として俎上に上がる事はない。

同意がある以上、個々人がどのような関係を望みどのような関係を築こうが自由であるのは言うまでもない。

もちろん、相手にもその関係を望むことを強要しないということは守られなければならない。また、何を同意と見做すのかについては別途議論が必要であろう(例えば、子供が遊びで言ったかもしれない言葉を同意と見做せるだろうか。また、ある人が子供の時に同意した契約を根拠にその人に契約の履行を求める事ができるだろうか)。

恋愛による束縛が問題にされるのは、それが合意に基づかないからであろう。「恋愛」におけるトラブルは、契約不履行的、契約違反的な問題である。

ならば、ダメな恋愛と良い恋愛の区別は、当事者間の合意形成までの過程とその方法にあるのではないか。そうなるとますます「恋愛工学」的な恋愛に対して無邪気に「良い恋愛をしよう」とは言えない気がしてくる。良い恋愛は自分一人の善意の問題ではないからだ。自分が良かれと思ってやったことでも相手にとってはそうじゃないかもしれない。更に言えば、同意を取ろうにも、完全な同意を取る方法や完璧な合意形成というものは存在しない。

良い恋愛は、自分の善意は関係ないという意味で無邪気に推奨できるものではない。

たとえどんなに善意の動機を強調してみたところで、そこに同意がなければトラブルの元になるというのは今更確認することでもないだろう。

それが「同意なき支配」であるのなら、たとえそれが善意に基づいた「優しい支配」であろうが問題にされる。逆に、それが同意に基づいたものであるのなら、それは問題にされないのだろう。勿論、問題にされないというだけで問題であるかどうかはまた別の話になるのだろうが。

同意がなければ、優しかろうがなんだろうが単純に暴力的ではある。

にもかかわらず、恋愛関係上のトラブルが発生した際、大抵の議論はそうした論点で行われない。

「同意の有無」「合意形成の過程」より「悪気があったのかなかったのか」「トラブルになった行動はどのような意図で行われていたのか」という点にばかり注目されてしまう(この構図は性犯罪や体罰の議論においてもよく見られた)。

ならば、警戒すべきは明確な害意をもって行われる支配ではなく寧ろ「優しい支配」の方ではないだろうか。

「優しい支配」の問題はそれが善意によって行われていると強調されることで、同意の有無の問題がうやむやにされてしまう。

「良い恋愛をしよう」という言葉が「相手にも心地よくなってもらおう」という自分一人の意思の問題として語られるなら、それは結局のところ合意や同意のない「優しい支配」へと結びついてしまうだろう。

恋愛における支配の怖さは、明確な害意ではなく、むしろ「優しい支配」を志向する中において現れるのではないだろうか。であるのなら、警戒すべきは善意を纏った暴力の方ではないのだろうか。

 

次回は「優しい支配」とモラハラ、信頼関係はどこに生まれるか(次回記事↓)

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