京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

ネットの議論の勝ち負けにこだわらない

1.前回までのあらすじ

前回まで記事で、ネット上の議論ゲームではマイノリティ側が勝利を収める事は非常に困難であると結論付けた(↓下記参照)。

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

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まず、前回までの記事の内容を軽くまとめよう。

前回までの記事で、ネットの議論ゲームにおいて、社会的弱者が圧倒的に不利な状況に置かれる事を確認した。その理由は、社会的弱者側にとってネットの空間が、質問に晒される記者会見的空間になってしまっているからであるという説明も加えた。

問題提起側は、現状に問題点を発見して、それに対する改善案を提供する際に、多くの人にとって魅力的であることを証明する事が求められてしまう。

例えば、貧困者に対する支援についての議論の場合、貧困者だけでなくその他の人にとってもその支援が魅力的である事が求められる。男女平等についての議論の場合も同様だ。女性の権利向上の為の議論は、常にそれが多くの男性にとっても有益である証明を求められている。差別問題においても、差別をする側の自由を侵害してはいないか? という判断基準が設けられてしまう。

このような状況は、次のような質問が社会的弱者に投げかけられたとしても、一定の説得力を持ってしまう状況を生み出す。

 

”私達にとってその案が魅力的でなければ、当然私達はそれを却下します。あなた達しか納得しないような案を提出する事はおかしいのではないですか? 社会というものは選ばれた人だけが特権を持てるようなシステムにしてはいけないのではないですか?”

 

上のような言説が大きな効力を持つ場が議論ゲームという空間なのである。

今はセリフ単体を取り出しているので、そこまで強い説得力を感じる人は少ないのではないかと思うが、念のため、一応反論を加えておこう。

 

ここには二種類のレトリックが潜んでいる。

一つは弱者側の問題提起=弱者しか納得しない案であるとされてしまっている点だ。

社会的弱者に寄り添った提案が、社会的な損益を変化させるものである事は多々ある。例えば、経済的弱者に寄り添った富の再分配の提案は、富裕層の利益を減少させてしまう可能性のある提案であるかもしれない。

しかし、だからといって、弱者側からの問題提起が常にその他大勢にとって納得がいかないものであるとは限らない。その提案によって起こる社会全体の損益の変化と、その提案が納得されるものなのかどうかは別の話である。

もう一つは社会的弱者が既に被っている不利益を無視しながら、社会的弱者=選ばれた人々、特権を持つ人々という図式を当てはめようとするレトリックである。

例えば、アファーマティブアクションについての議論ではこのようなレトリックが使用される事がままある。

アメリカでは、黒人やラテン系の人々の進学率が低さを理由に、大学において優遇的な措置が取られているが、こうした措置に対して、差別だという声が上がるわけである。日本では、女性専用車両やレディースデイの議論において同じように男性差別であると指摘する声が上がるわけである。

しかし、こうした指摘はアファーマティブアクションが存在する根本的理由、そもそもの問題として社会に不平等がある事を無視している。

勿論、アファーマティブアクションの存在それ自体の是非は問われるべきだ。私自身、アファーマティブアクションについて単純な賛成も単純な反対の立場も取らない。

重要なのは、そうした措置が生まれた理由について一体どれだけの人が理解しているかという事である。

社会的弱者であることが不利益を被る確率を高くする場合、それを解消しようとする試みを特権という言葉で表すべきだろうか。

私は、一度立ち止まって考える必要があると思う。

 

無論、私の説明に納得がいかず、先程提示した文章の方に依然強い説得力を感じる人もいるだろう。それはそれで良いのである。私はあくまで、先程の文章に潜んでいるレトリックを説明し、それが虚偽である可能性を示したに過ぎない。

私が問題にしたいのは、議論ゲームにおいてはこうしたレトリックばかりが有効になってしまうという点である。

議論ゲームは、マイノリティが既に被っている不利益を無視しながら、マジョリティが被る不利益を強調する場である。理由は今まで説明した通りである。

議論ゲームにおける議論は、社会的弱者側が圧倒的不利に立たされる記者会見的空間でしかない。それは、マイノリティの問題提起を「ただのわがまま」「過剰な要求」として演出する場でもある。

議論ゲームでは、現状と出された提案のどちらがより望ましいのか、というゼロベースでの議論は為されない。

ゼロベースでの議論が可能になるのは、議論の目的が一致している集団内のみでの話であるからだ。

2.議論ゲームでフリーライダー側は勝利しなくても良い

こうして考えるとネットにおける議論というものは、弱者側の視点で社会問題を提起する場としては全く有効でないと思えるが、議論ゲームに勝利することそれ自体にはそれはそれで意味があると言えなくもない。

例えば、ある社会問題について語る人々がいる際に、その問題を相対化したい質問者側が明らかにおかしな質問を連発するような事態が発生したらどうだろうか。

たちの悪い質問にも答える誠実な人々、という印象を獲得する事ができるかもしれない。質問者側の挑発的な質問は、時に問題提起側の誠実さと説得力を強化する。

このような形で、議論ゲームにおいても社会的弱者が質問者側と互角以上の議論を進める場合はある。ひたすらに防戦に徹する中で、自分達の誠実さを訴えるという手法は存在する。だが、この手法にも落とし穴がある事を忘れてはならない。

 

それは、現状維持側は議論ゲームで勝たなくても良いという点である。

議論における障害が全て解決され、議論に参加した多くの人が社会的弱者側の問題提起を真剣に取り上げるべき問題として認知したとしよう。しかし、それでも社会的弱者側が勝てるとは限らないのである。

実は、現状を変える必要がないと考えているフリーライダー側(マジョリティの側)は議論ゲームで負けても良いのだ。

その議論を読んだ多くの人にとって、社会的弱者側の議論が論理として素晴らしく、逆にそれに対して全く不誠実な質問を投げかけていた側に論理的破綻があったと判断しても、問題提起側の勝利には繋がらない。議論が決着した時点で、その議論を理解できる人物の総数が少なければ意味がないのだ。

たとえ議論を理解できる人々にとって問題提起側が議論を有利に進めていたとしても、議論自体が複雑化していたのなら、多くの人はそもそも理解しようとすらしないだろう。

つまり、マジョリティはなにも積極的に議論ゲームで相手を沈黙させる必要はない。相手がたとえ途中で心を折らずに議論を続けたとしても、議論自体が理解されないほどに複雑であれば結局何が問題なのかも分からないし、支持者が増える事もない。

フリーライダー側は、現状を変えようと努力する議論に説得される人の数が少なくなりさえすればいいのだ。

問題提起をなかった事にしたい人々は、第三者の人間が理解できないように議論を仕向けるだけで良い。

そうするだけで「あの人たちはなんだか面倒臭そうだな、関わらないでおこう」という気持ちを人々に喚起させることができる。こうなれば、マイノリティ側の目的である問題を認知してもらうという事だけは少なからず妨害できる。

3.議論ゲームの不利は覆せるか?

では、私がこれまで説明したような事をあらかじめ提示した上で、つまり予防線を張った上で何かを訴えるというのはどうだろうか。

実は、この戦略にも二つの問題がある。

まず一つ目の問題は、今まで私が指摘したような議論ゲームのアンバランスさの説明自体が複雑に見える可能性があるという点だ。

ここまでした議論自体が、複雑かつ理解されなければ結局意味はない。無論、論点を整理し、ある程度コンパクトにまとめたつもりではあるが、そもそもわざわざ自分の時間を割いて長文による説明を理解しようとする人間がそこまで多いと私には思えない。

結局、このような面倒くさい議論は敬遠されがちであるし、読んだとしても分からない人間は大勢いるだろう。議論が複雑になれば、無関心層を増加させてしまうだけである。これでは振り出しに戻る事になる。

それについてまた議論が始まってしまえば、今度はその議論ゲームのアンバランスさというテーマそのものが複雑化する危険を孕んでしまう。

 

二つ目は、現代の社会では、一方的な弱者というものが想定しにくい点だ。

ある場面では弱者として扱われる人々がある場面では権力者として現れるという事は容易にありうる。例えば、ジェンダーにおいては強者側である男性も、経済面で見れば弱者かもしれない(アンチフェミニズムを掲げる人々は常にこの手の問題を引き合いに出して、女性差別を大した問題じゃないように見せようとしてきた)。

現代の権力関係は、様々な視点からの分析を必要としている。

もはや、悪の権力者と無辜の民といった構図は通用しない。実際の権力関係については、複雑な権力関係の網のようなものがあり、どこに暴力や疎外があるのかを瞬時に判断する為にはあまりに不透明過ぎるのだ。

勿論、私は現実には弱者が存在しないと言いたいのではない。現実の権力と搾取、暴力問題を解決不可能だといっているわけではない。

それらは複雑だが、一つ一つ、絡み合った糸をほどくように解決していく必要がある。

しかし、議論ゲームではそのような解決は試みられることは少ない。議論に参加した双方がお互いに「自分こそが真の弱者で、お前たちはそうじゃない」と言い出し、しまいには「どちらが真の弱者か」という議論ゲームが始まるだけなのである。

誰がどの程度、どのような面で弱者なのか分かりにくい時代において「弱者は優遇されるべきだ」という前提を徹底させると、今度は如何に自分が惨めな存在かについてアピール合戦が始まるというなんとも本末転倒な展開になってしまう。そうした点を利用して、(たとえそうでなくとも)「自分達こそが真の弱者である」と声高に主張する者は出てくるだろう。

 自分が如何に弱い存在かというアピールがしきりに行われている現代においては、単純な二分法を持ち込めば、それ自体が真の弱者論争を巻き起す火種にしかならない。そうなれば結局、ほくそ笑むのは現状が変わらない事を望むフリーライダー側であるのだ。

4.今、私たちに何が出来るのか

結局私のここまでの記事は、解決と提案が示されていない。

だから、次回は私なりの提案について書いていくことになるだろう。しかし、特に特筆して奇抜な解を示すつもりもないし、示すこともできない。

私の提案はいたってシンプルである。

・少しずつ周りの人々と問題意識を共有していくこと、議論ゲームに巻き込まれないようにすること。

・それでも議論ゲームに巻き込まれてしまった場合は、ゲームに乗るのではなく、上手くあしらうこと。

・たとえどんな小さな一歩だろうと、声を上げ続けること、そして途中で折れないように連帯し、支え合うこと。

以上のような提案をする理由については、次回の記事で詳細に補足するつもりである。

結局のところ、どんなに問題を指摘してみせたところで、その解決は非常に一般的なものにしかならないというのは、あらゆる人々が指摘するところであるが、私もその法則に逆らうつもりはない。

ただ、どこかで誰かが言っている事の重要性を確認するというのはそれはそれで重要な作業なのだと信じているのである。

【次回記事とその他】

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