京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

社会を変えるために必要なこと

 

1.これまでのあらすじ

ネットでは基本的に、議論は議論ゲームへと変更されるように力が働く。それは、社会的弱者や、マイノリティの主張を相対化し弱める力である。

つまり、議論ゲームでは弱者やマイノリティの意見は取るに足らないものとして力を削がれてしまうというのがこれまでの主旨であった(前回までの記事↓)

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

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この様な議論ゲームの力の働き、力場を利用し、自分達に優位になるように議論ゲームを展開することにある種の卑劣さを感じる人も多いことだろう。事実、ネットの議論においては、マイノリティや弱者の問題提起は「ただのわがまま」「過剰な要求」として演出されているし、逆にマイノリティや弱者が既に被っている不利益は無視されているにも関わらず、マジョリティが被る不利益は殊更に強調される傾向がある。 

しかし、例えば次のような反論はあるかもしれない。

 

“ネットでの議論ばかりに着目して、その欠点をあげつらっているが、現実で顔を合わせて行われている議論だって似たり寄ったりじゃないか。例えば、同じ言葉を言ったとしても、「誰が言ったのか」という点で感じられる説得力に大きく違いがあるというのは良くある話だ。立場を利用して相手を黙らせようとしたりする連中もいたりする一方、誰が言ったのかで手の平を返して靡く風見鶏のような者もいる。現実の議論こそ、様々な人間関係や権力関係によって有利不利が決定しているではないか。”

 

同意する。

これに関して私は、ネットでの議論をやめて現実へと帰れと主張したいのではない。

原理的に議論とは、人間同士が行うものである以上、現実の人間関係やあらゆる権力関係から影響を受けずにはいられない。

あらゆる力関係から解き放たれた理想的な議論というものは、およそ現実では存在できない。

私が最も強く主張したかったのは、ネットとてその例外ではないということである。

現実のしがらみや職に関係なく、匿名同士で行えるネットの議論は健全であるという論も未だ根強い。私が言いたいのは、ネットでの議論は権力関係から解放されたかのように見えても実はそうではないのだということなのである。

また、どちらがよりマシなのかという比較検討をするつもりもない。あくまで、既存の権力構造から解放されて清潔なように見えるネットにおいても、権力は温存されているということを示しただけである。

2.健全な議論による社会の変革に期待すべきか

ここまでの議論を経て、「より健全な議論を目指そう」「理想的な議論を行うことで世の中を変えよう」と呼びかけようとする者がいるかもしれない。私はその試み自体は否定しない。

しかし、あらゆる議論において欺瞞や偽善を見てきた者の目からすればそれらは綺麗事に見えるかもしれない。

事実、様々な権力を使い利用しながら議論を優位に進めようとする者に対して、「誠実な議論をしよう」「理想的な議論を行おう」と呼びかけることはある意味で空しい。

相手が説得に応じるとは限らないからだ。

寧ろ、権力を利用しながら議論を進める人間にとって、権力を行使しないよう呼び掛けるのは負け犬の遠吠えと捉えられる可能性すらある。

彼等が本当に議論を優位に進める為に手段を選ばない人間だった場合、そのような呼び掛けをしても、自分たちの戦略に自信を深め、ますます勢いを強めるだけである。

結局のところ、現実の議論においても、ネットでの議論においても、理想的な議論というものが中々出現しないのは、卑劣な意図を持った人間を完全に排除することが不可能だからだ。自分の目的を果たすためには利用できるものを利用しようとするのはある意味で合理的思考だ。

合理的思考において、人間は権力関係だろうが、数の暴力であろうが、議論で利用できるものは利用する。たとえ自分がしないようにしても、相手がそれをしてこないとは限らない。気の知れた人間同士の議論ならともかく、公共的な、他者との議論において議論ゲームを行おうとする者の侵入、及び発生を完全に防ごうとするのは難しい。

私が一連の記事で示唆しようとしていた事は、理想的な議論によって世の中が変わる事を信じることの難しさである。

確かに、一連の理想的な議論によって世の中が良い方向へ変化することはある意味では望ましいかもしれない。

しかし、私の個人的な感覚としては、理想的な議論が活発に行われる事で世の中が良い方向へと変わっていくという予測は(それが望ましいか望ましくないかを置いておくとして)希望的観測に過ぎないだろうと思う。

無論、私は理想的な議論を行おうとする試みが全くの無意味だと言いたいわけではない。それに、市民同士による理想的議論なんてものは成立しないのだと言いたいわけでもない。それらの試みは重要なものであることは実感として否定しないし、それらの議論をどのように促すかという点については私自身改めて語る事になるだろう。

3.これからの論点について

さて、問題はここからである。

私は、議論によって世の中が良い方向へと進んでいくと期待することが難しいから、議論なんて無意味だと言いたいのではない。議論を振り出しに戻し、ニヒルに現状を冷笑したいわけでもない。

ここはあくまで新たな始点なのである。寧ろ、ここをスタート地点として、今私たちが直面している様々な問題について言及することが可能になるのだ。

今までの記事は、これから語る新たな論点を提示する為に共有すべき前提なのである。

しかし、私が新たに提示すべきは、議論に代わり、社会を変えうる万能の方法論についてではないだろう。

我々一人一人の力を結集したところでやれることは限られている。

勿論、私はそのような力の結集や社会運動を否定したいわけではない。一人一人の意思や活動は、社会が変わる契機となる重要な条件であることに変わりはない。

だが、社会が大きく変わる為には、マルクスが言うように、社会の土台そのものに変化を及ぼすような時代の流れも必要になる。

地道な社会活動だけでは社会構造は変化しない。社会の土台が変わらなければ、社会構造に大きな変化は期待できない(間違ってもこれを経済論的な決定論と捉えてはいけないのだが……)。

逆に言えば、社会が変化する瞬間というものは案外あっさりと、あっけなくやって来るかもしれないのだ。そして、その瞬間はいつやってくるのか誰にも分からないのである。

だからこそ、社会の変化を望む個々人の活動は持続可能なものであることが望ましい。いつやってきてもおかしくないその瞬間に存在感を発揮できれば、社会の変化に一役買えるかもしれないからだ。

私が語りたいことは、社会が変化する条件が整うその瞬間までどのように生きるか、どのように生き残る事が出来るのかということである。

つまり、社会に決定的変化をもたらすような条件が整った瞬間を見逃さず、変化を起こせるように力を蓄える事、存在を示し続ける事が重要である。

そのための持続可能な活動について私は語りたい。

そのような活動において、議論ゲームを制する事はおそらく必須条件ではない(無意味だとは言わないが)それよりも、少しずつでも周りの人々と問題意識を共有していくことの方が重要である。そして、そのために、議論ゲームに巻き込まれる事を避けながら、声を上げ存在を示し続けようというのが私の提案なのである。

よって、私がこれから語ることは、社会が変化する条件が整うその瞬間までどのように生きるか、どのように生き残る事が出来るのかという点なのである。

つまり、社会に決定的変化をもたらすような条件が整った瞬間を見逃さず、変化を起こせるように力を蓄える事、持続可能な活動について私は語りたい。