京太郎のブログ

社会問題についてと作品評論を書いてます。

ミステリの歴史と「後期クイーン的問題」

0.はじめに

日本のミステリの歴史を語る上で重要視され、本格ミステリの衰退の原因ともされる問題として「後期クイーン的問題」というものが頻繁に挙げられるが、一般的に「後期クイーン的問題」への反応は次の二つに大別される。

一つは、本格ミステリは「後期クイーン的問題」に向き合うべきだというもの。もう一つは、「後期クイーン的問題」は考えるだけ無駄であるというものである。作家で言えば、法月綸太郎は前者の態度をとっており、二階堂黎人有栖川有栖は後者の態度である。

この記事では、90年代後半以降すっかり衰退してしまった本格志向のミステリの現状を整理するため、ミステリの歴史の概観とミステリの歴史における「後期クイーン的問題」について解説することを目的としたい。また、「後期クイーン的問題」に対する私の姿勢(主に作り手視点から見た際の)は後述することとする。

1. 本格ミステリの歴史

本格ミステリエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人事件』をその原点に据えているとされる。

ポーに続き、アーサー・コナン・ドイルチェスタトンらの短編が続々と発表され、短編のミステリが勃興するようになると、1920年代のアガサ・クリスティーエラリー・クイーンディクスン・カーらによる長編本格ミステリの発展と共に本格ミステリは黄金期を迎えることになるのである。

(関係がないですが、アガサ・クリスティーの「ミス・マープル」シリーズが好きです)

また1928年には、ロナルド・ノックスが「ノックスの十戒」を、ヴァン・ダインが「ヴァン・ダインの二十則」をそれぞれ残すこととなるのだ。この二つはミステリが守るべき暗黙のルール=コード(お約束)を明文化したもので、この頃にはミステリにおけるフェア・プレイやサプライズ・エンディングなどの付帯状況が暗黙の文化として読者と作者の間で共有されていたことが伺える。

(↓有名な「ノックスの十戒」)

こうした西洋のミステリが日本に輸入された結果日本でもミステリが受容されていくことになるのだが、日本ではよく知られている江戸川乱歩以前にも、コナンドイルに影響を受けた岡本綺堂の探偵小説や、谷崎潤一郎による犯罪小説などのミステリ色の強い小説が発表されていた。

(↓谷崎潤一郎は言うまでもなく、岡本綺堂の『半七捕物帳』は今読んでも面白い)

その後、海外のミステリ小説と谷崎潤一郎の犯罪小説の両方から影響を受けた江戸川乱歩や当時江戸川乱歩よりも大衆人気があったとされる甲賀三郎によって日本においても本格ミステリが流行するのである。

 

しかし、一旦生まれた本格ミステリブームは戦争による検閲により一度中断されてしまい、戦時中はミステリ小説は全く発表されなくなっていく。

戦後になると横溝正史の本格長編が出版され本格ミステリは復興の兆しを見せる。

しかし、松本清張の『点と線』がベストセラーとなったことで、社会問題を取り入れるなどリアリズムを重視した社会派推理小説が台頭し、本格ミステリは「絶海の孤島」や「名探偵」のように非現実的な舞台設定や人物設定を用いる点が古臭いという理由で批判に晒されるようになる。

(↓横溝正史の『本陣殺人事件』は今なおミステリとして評価が高いが、松本清張の『点と線』は今読むには少し厳しいものがある)。

本格ミステリは古典への先祖返り、退化と見なされていた当時はかなりの逆風が吹き荒れる中、1981年に島田荘司が『占星術殺人事件』でデビューすると希少な本格推理小説作家として注目を浴びるようになる。続く1987年に当時の逆風を跳ねのけて、綾辻行人本格ミステリブームの火付け役となる『十角館の殺人』で鮮烈なデビューを飾ると、法月綸太郎我孫子武丸折原一有栖川有栖北村薫などの作家が綾辻の後を追うように続々とデビューを果たし、本格ミステリルネサンス期を迎えることとなる。

(↓『占星術殺人事件』は『金田一少年の事件簿』のパクり騒動で有名ですね。『十角館の殺人』は本屋のポップでネタバレを食らった人間も多いはず……)

そして、これらの本格ミステリルネサンス的な流れの中でデビューしたミステリ作家の総称が「新本格ミステリ」なのである。

新本格ミステリは綾辻のデビュー以後、ポスト新本格、変格系、脱格系などの様々なミステリジャンルへ派生していくとともに徐々に衰退していくのだが、それはまた別の話になるのでこの記事では触れない。

さて、ミステリの競技性が強く押し出されるようになり、読者と作者の知恵比べの場としてのミステリは黄金期を迎えるとある問題が提起されるようになった。

それは、読者と作中人物の推理競争を成り立たせるためには、前提として作中人物と読者に与えられた情報が等しくなければならないが、この読者と作中人物の完全な平等は実現不可能なのではないかということであった。それがいわゆる「後期クイーン的問題」なのである。

「後期クイーン的問題」は新本格ミステリが90年代後半以降衰退する流れを作った原因の一つともされているが、「後期クイーン的問題」が現れたせいというよりは、ジャンルが盛り上がれば盛り上がるほどトリック(ネタ)が枯渇するという特有の弊害の影響の方が大きそうである。

2.後期クイーン的問題について

多く人が指摘する通り、この「後期クイーン的問題」は、それらしい大仰な字面に反して実はそれほど複雑な問題ではない。

普通の小説にとってはごく自然かつ当たり前のことが、独自のコード(お約束)を形成しそれを共有する文化を持つ本格ミステリというジャンルにおいて問題になるというだけの話なのであるが、ともあれこの「後期クイーン的な問題」はそれなりに本格ミステリにおいて重要な問題となっていたのである。

 「後期クイーン的問題」は、作中で探偵が最終的に導いた推理が、本当に真相かどうか作品内の人物は知ることができないという問題である。

最も単純かつよく指摘される例を挙げるなら、推理に使われた手掛かりが偽の手掛かりかもしれないという問題がそれにあたる。たとえその手掛かりが正しい手掛かりだと保証する存在がいてもその存在が共犯あるいは犯人が操作したものかもしれないという可能性を作品内では除外できない。あるいは、作品内では発見されなかった手掛かりが存在していないとも限らない。その手掛かりによって、探偵の推理が妥当性を覆されるかもしれない可能性を作品内では除外できない。同様に、作品で挙がった容疑者の他にも容疑者は存在するかもしれないことを作中の人物は知る術がない。作中において、探偵の推理は唯一絶対のものとして扱われるにも拘わらず、その絶対性を保証するものが作中には存在しないのである。

読者はそれが推理可能な物語として作者が提供しているという情報がある限り、手掛かりは作中のみに存在するということを知っているため探偵の推理が真かどうかを判別できるが、作中においては、書かれていない情報、何が本当に正しいのか、確定させる為の外部的存在がいない(作者が読者に嘘をついている可能性も考慮に入れれば……というのはバカバカしいのでやめておく)。

作中では語られない物語の外部を作中人物は(ひょっとしたら読者も)知覚する術がないのである。

しかし、先ほども書いた通り、探偵の推理の真偽を判定できないことは物語としては当たり前なのであり、もっと言えば現実で我々が置かれている状況も全く同じである。現実では数々の証拠から最も妥当とされる推測を得るために裁判が行われるのであって、真相そのものを見通せる者は誰もいないのである。如何に科学捜査の確実性が向上しようとも100%の確実性は保証されない(仮に100%正しい結論が導ける捜査方法があるとして、それが100%確実であるとどうやって判別するのだろうか)。

ひょっとしたら有罪だとされたものは冤罪かもしれないし、逆に冤罪だとされたものは有罪だったかもしれない。それでも我々は起きた事件にその都度判断を下さなければならない。

無論「後期クイーン的な問題」は、探偵の推理が真であると保証されていない(疑いの余地がある)にも関わらず、探偵という存在が絶対視されること、探偵が断罪者の役割を果たすこと(いくつかあるミステリのお約束=コード)に対しての問題提起でもあったわけだが、それにしても他のジャンルにおいて主人公が(やっていることが正しいか正しくないかなんて分からないにも拘わらず)絶対的な役割を与えられている作品など山ほど存在する。

仮にその問題について真摯に向き合わせたいのであれば、絶対視されないような探偵や推理を描けばいいだけの話である。もし完全無欠の探偵、完全無欠の推理を志向するのであれば、それこそいっそ有栖川有栖のように割り切って様々なミステリのコード(「探偵は間違わない」「推理に使われる証拠は全て正しい」などの読者と作者間で漠然と共有された前提)に従って完全無欠の探偵を描けばいい。

だいたいからして「後期クイーン的問題」の語源であるクイーン作品にしても、初期と後期のクイーンの作風の違いの原因はもっと別のところにあるのだ。

本格ミステリであった初期クイーン作品から打って変わって、後期クイーンの作品において題材となるのは、事件を壮大な一つの隠喩体系とみなし、事件自体に一つの物語を読み取ろうとする欲望だった。すなわち、クイーンは手掛かりという細部から事件という物語全体を幻視し、一つの体系だった物語を読み取ろうとする読解の欲望そのものをテーマ化していったのだ。

言うまでもなく、本格ミステリにおける小さな手掛かりから真相にたどり着くという推理の過程は、物語の細部から物語全体を読み取るという読解とパラレルな行為であり、限られたテクストから読解を行う読者と限られた手掛かりから推理を行う探偵はパラレルな存在なのである。これは、読者に与えられる情報と探偵が与えられる情報が同一であるという本格ミステリの性質によるものであり、読者と同時並行的に探偵はテクスト読解を行っているとも言えるのだ。つまり、探偵とは読者の分身であり、推理とは読解のアナロジー(相似・類似)かつメタファーなのである。

その点から考えれば、クイーンが読解そのもののアナロジー(相似・類似)としてのミステリというテーマに回帰していったことは殊更不自然なことではない。

ともあれ、本格ミステリの競技性においては、探偵の解が唯一の真相であること=作中で回答が真相であることが何より大切になるのであるが、「後期クイーン的問題」はその根本がどうしても担保不可能であることを問題にしているのである。それが、本格ミステリというガラパゴス的発展を遂げたジャンルにおいては、「本格ミステリの限界」として認知されることになるのであった。

3.後期クイーン的問題以後の探偵

作中人物が作中以外の情報を知りえないというのは、何も本格ミステリ特有の問題というわけではないが、コード(読者と作者の間で共有される前提、お約束)を多用するミステリというジャンルにおいては殊更問題視されることとなった。

正確に言えば、「後期クイーン的問題」は作中人物が真実にたどり着けないことそのものが問題視されているのではない。そこから派生したミステリの競技性とフェアネスへの懐疑であったり、探偵の推理が正しいと作中で証明することができないにも関わらず、「探偵の推理は絶対である」という暗黙のコードが存在する本格ミステリの在り方への批判であったり、コードや挑戦状、作者という物語の外部の存在を多用しなければミステリ作品は完成しないという外部依存的な構造への懊悩なのである。

無論、小説に限らず、あらゆる芸術作品にはそれを理解する為に必要な暗黙のコードや文脈、背景知識が存在するが、ミステリは敷居の低い大衆娯楽に分類されながらもコードが多用されるためこのような問題意識が蔓延することとなった。

それを「ミステリとはそういうジャンルだ」と開き直ってものを書くか、「本格ミステリ(=探偵ミステリ)が避けて通れない反省点」とすべきかというところで作家たちの反応が分かれていたのである。

例えば、絶対的な探偵というコードそのものへの憧憬と執着を持つ有栖川有栖や、本格ミステリという形式を成立させるためには探偵というコードの存在が必要不可欠であるとする二階堂黎人からすれば「後期クイーン的問題」はナンセンスでしかない。逆に、自らのペンネームを探偵の名前と同一のものにするなど、探偵の存在そのものを作家性に結び付けて考えていた法月綸太郎にとっては、「後期クイーン的問題」は避けては通れない作家性の存立そのものの問題だったのだ。

と、ここまではもろもろの作家の立ち位置の表明であるが、私はというと作家たちの議論する「後期クイーン的問題」の議論は少々鼻白んでしまうところがある。無論、こうした真相の決定不可能性を取り扱うこと、絶対者のいない世界の問題と葛藤を取り扱う作品や文化が不要であるとかナンセンスであるというつもりはない。むしろこうした決定不可能性の問題や決定に纏わる葛藤の問題は必要不可欠であるとさえ思っているが、この問題を何もミステリ特有の問題として考える必要はないと思うのである。

私はやはり作家たちの向き合った「後期クイーン的問題」の論点設定自体がミステリというジャンルを特権的ジャンルとして扱ってしまうという別の問題を孕んでいるように思える。

作家たちが腐心した「後期クイーン的な問題」は、ミステリにおけるコードの問題よりも、むしろミステリというジャンル特有の問題として扱われていたことに真の問題があるのではないだろうか。

作家たちが後期クイーン的な問題をミステリの問題として捉えて向き合おうとする際、ミステリの抱える問題に真摯に向き合っているように見えてその実、ミステリというジャンルを特権的なジャンルと見做そうとする欲望と共謀している。

そういった意味では、作家たちがこの「後期クイーン的問題」をミステリの問題として「正面から」向き合う必要はないと思えてしまうのだ。

探偵の不完全性に対して神経質なまでに執着すれば、つまり外側の作者が外部のコードに頼ることなく探偵の推理を完全無欠にしようとすればするほど、「後期クイーン的問題」が提起した決定不可能性の問題が脇に置かれたまま作家の権能を強化することになりかねない(事実、新本格ミステリファン、作家間では、作者がいかにして探偵の推理の正しさを保証するかという議論がなされていった)。

探偵という存在に絶対性を与えるべく作家が探偵の推理の正しさを保証しようと腐心すればするほど、探偵の代わりに物語に対する作家の優越性、全能性が前面に押し出される事態となることは想像に難くない。

それに何より、「後期クイーン的問題」と正面から向き合うのではなく、軽々と躱しながら逆にそれを取り込むんでみせた作品が現に存在するではないか(↓参照)。

tatsumi-kyotaro.hatenablog.com

「後期クイーン的問題」以後に求められる探偵とは、法月綸太郎が描くような真実に到達出来ないことを嘆きつつ、ナルシスティックで悲劇的なヒロイズムに浸る探偵でもなければ、有栖川有栖のように作家の憧憬がそのまま反映された傲岸不遜な神のように振る舞う探偵でもなく、真実の決定不可能性に向き合いながらも決定することから逃れられない、決定せずにはいられない探偵なのではないだろうか。

 

※追記

・この記事の後期クイーン的問題は、新本格ミステリの文脈における後期クイーン的問題を扱っています。

各作品に関する寸評、ミステリー史、後期クイーン的問題に関して結構異論反論が見られたので、気になった皆さんは各自調べてみても面白いかもしれません。

 

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